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彼女は、小さな部屋に取り付けられた、小さな窓を開けた。冷たい、澄んだ空気が流れ込み、暖房の効いた室内から、あらゆる熱を奪い去っていく。 彼女は、風で乱れた長い黒髪を、手で軽く撫で付けながら、その木の窓枠に腰掛けた。 ふと、時計を見る。 「・・・遅いわね。」 時計の針は、午後七時をかなり過ぎていた。 彼女は、白いコートの胸元を、右手でしっかり留め直してから、改めて窓の外を見た。はるか北の大地には、白く輝く巨大な光の都市。彼女は、じっとその光を見つめ、深く息を吐き出した。吐き出された息が、室内の電灯の光に照らされ、一瞬だけ白く輝いて、外の闇に溶けた。 あの光り輝く巨大都市から、この混沌と闇の支配するスラムにやって来てから、もう一ヶ月以上が経つ。生まれも東京で、人生のほとんどを大都会で過ごした彼女にとって、スラムは厳しいところでもあった。ただ同時に、スラム全体を覆い尽くす、この混沌とした空気は、彼女に安らぎも与えた。スラムというところは、どんな素性の人間をも包み込んでくれる。 身を切るような風が吹き込み、小さな個室の中央で、白いテーブルクロスが音を立ててはためく。銀色の食器と、くすんだ赤のメニュー、そして花瓶に生けられた白い花。首都の高級レストランとまでは行かないが、スラムにしては、格調高いレストランと言えるだろう。 不意に、大きな音を立てて、個室の扉が勢い良く開かれた。 絶好の通り道を見つけた風が、さっきより強く吹き込んで、黒い髪を勢い良く舞わせる。 白い花の隣に立った少女は、頬を真っ赤に上気させ、細い肩を小さく上下させながら、じっと彼女の顔を見ていた。風が、少女の茶色い髪を揺らし、同じ色の大きな瞳は、今にも泣き出しそうに潤んでいた。 「・・・和歌ちゃん・・?」 少女は、震えた声で、彼女の名を呼んだ。 少女は、七年前とほとんど変わらない、その小柄な体を、小刻みに震わせて、それでも彼女は、少女にこう言葉を掛けた。 「・・大きくなったわね、マリア!」 マリア・・・奈津子は、とうとう堪え切れなかったのか、ポロポロと大粒の涙を流して泣き出した。そして、 「和歌ちゃん・・・っ!!」 「うわ・・っ?!」 突然、奈津子は、和歌と呼ばれた女に突進し、その胸に顔を埋める。窓枠に座っていた和歌は、その衝撃で窓から落ちかけ、必死に窓枠にしがみついて耐えた。一瞬、味わった浮遊感を思い出し、背筋に冷たいものが走る。そう、ここは3階だ。 「あんたねぇっ!」 和歌は、なおも体重を掛けようとしている奈津子を、自分の体からやっとのことで引き離し、体勢を立て直しながら言う。 「あたしを殺す気?!いくら半分機械だからって、落ちたら死ぬわよ!」 和歌が、会って早々憤慨しているのを、どう受け止めているのか、奈津子はしゃくり上げながら、ぼんやりした目で見つめていた。 「・・・半分機械・・?」 不意に、入り口のあたりから声が聞こえて、和歌はようやく、奈津子の他に二人いることに気付いた。不思議そうな声を上げたのは、どう見ても偽金髪の、まだ幼さを残した少年の方だった。 「・・・やはり、お前か。水無瀬 和歌。」 「あら。」 その隣に立っていた、巨体の・・中年といっていいような年齢の男が、一歩前に進み出る。このレストランの雰囲気に、あからさまに不似合いな、機能性だけを重視したような服装のその男を見て、和歌はそれが誰であるかを思い出した。 「あなたも生きてたのね。・・・えーと・・総持寺 兵梧?」 「まさか、スラムでお前に会うとはな。お前も女らしくなったじゃないか。」 兵梧は、珍しく唇の端を緩めて、窓際に立った和歌と、その右腕をきつく握り締めながら、涙に頬を濡らす奈津子を見つめた。七年前、兵梧とマリアの命を救った少女は、見違えるほど成長していた。 「なんだ、わかってたのね。私がThirty Oneだって。」 和歌は、少しつまらなそうに、そう言った。 「・・私は、さっきわかったところなの、和歌ちゃん。兵梧がヒントをくれたから・・。それに、そのコードネームってね、足し算なんじゃないの?だから・・。」 少し落ち着きを取り戻した様子で、奈津子が言った。和歌から、少し体を離して、自分よりかなり身長が高いその顔を見上げる。 「足し算?」 兵梧が、怪訝な顔で、和歌と奈津子を見比べた。奈津子は、そんな兵梧の顔を見て、少し得意気に言う。 「和歌ちゃんの名前よ!『和歌』は5・7・5・7・7の短歌のことでしょう?全部足して31。ね、だからわかったのよ、和歌ちゃんのことだって。」 「ちょっと簡単だったかしら。」 和歌は、得意気に胸を張る奈津子を見て、少し微笑んだ。 「奈津・・・・マリアが研究所の電話の記録を見てな。爆発があった夜、お前は研究所にいたんだろう?それで、お前が事件に関わってるんじゃないかと思ってな。」 和歌は、兵梧の言葉を聞いて、少し顔を引き締める。 兵梧は、自分を救った少女の名前を覚えていた。七年前の『任務』の際に、『殺してはならない八人』の子供達の、顔写真と名前を資料として見せられていたからだ。奈津子の方は、研究所にいた頃は、和歌とそれほど交流がなかったらしく、和歌のセカンドネームまで知らなかったようだ。奈津子から『ミナセ』という名前を聞いた時、兵梧は、和歌のことではないかと考えた。 「お前がやったのか?」 兵梧は、和歌の黒い瞳を真っ直ぐに見据えて、問う。 和歌は、兵梧の目を見返したまま、しばらく沈黙する。 窓の外から吹き込む風に乗って、奈津子の頬に冷たいものが触れた。窓の外に目線を移すと、白い、小さなものが、暗い空から、無数に舞い落ちていた。先程、見上げた時には、あれほど美しく輝いていた星々は、完全にその姿を空の彼方に隠し、降り注ぐ白い雪は、眼下に広がる闇の都市へと消えていく。 和歌は、凍りついたかのような沈黙の後、口を開いた。 「あたしじゃない。」 その返事は、兵梧にとって意外な答えだった。和歌に、今更研究所のデータを破壊する動機がないのは分かっていたが、状況から言って、和歌が爆破事件を起こしたのだろうと推測していたからだ。 「今更、あそこを壊したからって、何になるの?」 和歌は、そう言って肩を竦めた。 「だが・・・。」 「兵梧!」 兵梧が口を開きかけた、その時、和歌と兵梧の間に、京が飛び込んできた。 「なんなんだよ!自分らだけで話進めて・・・俺にもわかるように言えよなっ!」 京は、全く話が読めないわけではなかったが、完全に三人だけで会話が進んでいる状況に、少し気を悪くしていた。 が、話に割り込んだ京に、和歌は冷たかった。 「・・・あんた誰よ?」 「憶えてないのかよ?ちょっと前に、居酒屋で会っただろ。」 「居酒屋・・・?」 和歌は、少し上の方を見ながら、記憶を辿り、理奈という少女に頼まれて手伝っていた、五番街の居酒屋を思い浮かべる。 「・・・憶えてるわけないでしょ。どんだけ客が来ると思ってんのよ。」 「人の頭ハタいといて、よく忘れられるな・・・・。」 京の記憶が正しければ、和歌とは一度会ったことがある。行きつけの居酒屋で、ウエイトレスをしていた、理奈の友達とかいっていた女だ。 「京くん、和歌ちゃんを知ってるの?」 奈津子が、不思議そうに京の顔を見た。それに対し、答えたのは和歌のほうだった。 「知り合いの店を手伝ってた時に、なんか会ったみたいね。あたしは憶えてないけど・・・・・。で?この子は誰なの?全部話していい相手なのかしら?」 和歌は、京の方に視線を戻し、値踏みするように京の頭から爪先まで、視線を動かす。馬鹿にされているような感じがして、京は少しムッとした顔をした。 「和歌ちゃん、京くんは大丈夫よ。私の体のことも知ってる。・・・兵梧ね、今、ゲリラのリーダーなの。京くんはそのメンバーで・・・。」 「ああ、そうだったわね。ゲリラのことは、知ってるわ。WASPの警察に知り合いがいるから。兵梧がボスだってことぐらい、警察では有名よ。」 和歌は、京から視線を外し、粉雪の吹き込む窓を、静かに閉めた。 「そう。あたしがスラムに来たのは、マリアと兵梧を捜すため。」 和歌は、小部屋の中央に置かれた、白いテーブルクロスの掛かった丸いテーブルの端に、そっと腰掛けて、マリア、兵梧、京の顔を順に見て、言った。 「あたしの目的のために、マリアと、ゲリラの力を借りたいの。」 和歌は、静かにそう言って、三人の顔を見つめ続けた。 そして、話し始める。 首都の内部で起こったことを。
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