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暗雲の過ぎ去った空に浮かぶ夕日が、窓枠に残る雪をオレンジ色に染め、遥かな地平線へと姿を消していく。
屋根を伝う雪解け水が一滴、自らの重みに足を滑らせ、キラキラと輝きながら堕ちて行く。
焦土と化した五番街を望む白い病室は、重苦しい静寂に支配されていた。
「マリア・・・」
白いベッドに寝かされた奈津子が、規則正しい寝息を立てて眠っている。
その傍らに立った香が、泣き腫らした目で彼女を見つめ、その名前を呼んだ。
「大丈夫・・・少し眠れば、マリアも落ち着くよ」
奈津子の乱れた髪を手で整えてやりながら、ユイは囁くように言う。
「・・・ショックが大き過ぎたんですわね」
病室の入り口に立った千鳥が、隣の徳也に寄りかかるようにして立ちながら、沈痛な面持ちで呟いた。
「彼女にとって、総持寺さんは、保護者のようなものだったのでしょう? 目が醒めた時・・・現実を、受け止められるかどうか・・・。最近、お義父さまも亡くされたばかりと聞きますし・・・」
走り去る車の音を不審に思った香と愛怜がビルから出てきた時、兵梧にはまだ、息があった。
和歌の姿がどこにもないことに気づいた二人は、慌てて辺りを見渡したが、そこには土の上に残されたタイヤの跡しかなく、それは明らかに、首都の方角へと向かっていた。
兵梧はその場で応急処置を施されたが、危険な状態からは脱せず、既に香の力ではどうすることもできないほどに傷ついていた。
そして兵梧は、すぐさま駆けつけた広希たちの手によって、重傷の愛怜とともに、車で一番街の病院へと運ばれていったのだが――
不安に駆られ、やっとの思いで病院にたどり着いた奈津子を待っていたのは、あまりにも残酷な現実であった。
兵梧は、奈津子の到着を待たずして、息を引き取った。
背中から肺まで貫いたナイフの一突きが、彼の命を奪い去ったのだ。
奈津子はその場で、重度のパニックを起こし、倒れた。
「・・・わたしが・・・」
鎮静剤を打たれ、安らかに眠る奈津子の顔を見下ろしながら、香は再び泣き出した。
「わたしが・・・あの人から離れなかったら・・・」
「・・・香が悪いんじゃないよ」
自分の肩に額を押し当て、声を上げて嗚咽する香を、ユイは、片手でそっと抱きしめる。
だが、香は激しく首を横に振り、高い声で喚き始めた。
「わたしがいけなかったの・・・! 和歌もあの人も、WASPに狙われてるって知ってたのに! 知ってたのに・・・二人だけにしたの!」
「違う」
「違わないわ! わたしがちゃんとしてたら・・・あの人は死ななかった! 和歌だって、連れて行かれなかった!」
「香のせいじゃない!!」
興奮状態に陥り、泣きながら早口にまくし立てる香から離れ、ユイは苛立ったように大声を出した。
「・・・誰も香を責めてないから。黙ってて」
ビクリと体を震わせて口を噤んだ香を一瞥し、ユイはため息をついて、左手で自分の額を覆う。
「・・・ひどい言い方ですこと」
「・・・・・・」
ぼそり、と千鳥が呟いた言葉に反応したかのように、香は無言でユイの碧い瞳を見上げ、泣き顔のまま、彼に向かって思い切り、何かを投げつけた。
「返すわ!!」
地面に落ちたパールのピアスに視線を向けたユイに、香は一言、精一杯の怒声を浴びせると、そのまま病室を飛び出していってしまった。
「・・・・・・」
取り残されたユイは、しばらく何も言わずに廊下を眺めていたが、やがて、疲れたように嘆息し、床に転がった『盗聴器』を、靴の先で静かに踏み潰す。
「・・・追いかけたほうがいい?」
「――いえ」
半ば投げやりにも聞こえたユイの問いに、徳也はゆっくりと首を振った。
「10分待ってください。10分もすれば、西院さんも落ち着きますし、それに――」
「それに?」
「あなたが落ち着くのにも、10分は必要でしょう?」
「――・・・」
徳也の台詞に、ユイは面食らったような表情で、動きを止めた。
「あなたが落ち着いたら、水無瀬さんの事を話し合いましょう」
言いながら、徳也は、腕を組んだ格好のまま、右手で左の二の腕を二回、軽く叩いて微笑んでみせる。
「大丈夫。和歌ちゃんは無事ですわ。香ちゃんたちが聞いた車の音からして、和歌ちゃんはWASPに連れて行かれたのでしょう。でも、殺す気があるなら、誘拐なんてしませんわ」
反論や誤魔化しのための隙も与えず、単刀直入に不安の根本を突いてくる二人の年長者たちに、ユイは、まるで心の中を見透かされたかのような居心地の悪さを感じ、しばらく二人の顔を黙って見つめていた。
「・・・・・・・・・はは・・・」
やがて、ユイは額に手を当て、力ない苦笑を漏らすと、脱力したように手近な椅子に腰を下ろす。
「・・・嫌だなぁ・・・付き合い長いと。・・・隠せないし」
「あら、あなた未成年ですし、私の胸で泣いてしまっても、別に笑いませんわよ?」
「・・・・・・いい。徳也に殺される」
ユイは、顔をあまり上げないままの姿勢で視線だけを動かし、千鳥の豊満な胸と徳也の表情を見比べながら、吐息混じりの笑みを浮かべた。
「ちぃちゃん達がここにいる理由も、聞かなきゃいけないし。マリアも京も香も、精神的ダメージが大きすぎて、僕の手に負えない。愛怜だってボロボロで、普通の医者じゃ、身体の傷は治せても、改造部分までは手が出せない。ゲリラはゲリラで、トップが崩れて大混乱だしさ・・・・・・正直、全部投げ出して、家帰って寝ちゃいたい気分」
そのまま、上体だけ動かして奈津子のベッドに突っ伏したユイは、シーツに顔を埋めたままで、深いため息をつく。
千鳥と徳也の二人は、そんな彼の様子を少し離れた位置で見ながら、互いに顔を見合わせ、困惑の表情を浮かべた。
「・・・・・・ユイさんが素直で弱気ですと、心なしか不気味に感じますね」
「徳也さんたら・・・失礼ですわよ」
うつ伏せたまま、肩だけを静かに上下させて黙り込んだユイの姿に、千鳥は徳也を押し退け、数歩進んで彼の傍に寄る。
「ユイ、大丈夫ですわ。心配しないでくださいまし。私達こそ、勝手に首都を飛び出して、和歌ちゃんやあなたに、大変な負担をかけてしまいましたわね」
優しい声音で囁きながら、千鳥はユイのハニーブロンドを、そっと撫でた。
「今まで、和歌ちゃんや香ちゃんを支えてくださって、本当に感謝してますのよ」
大人しく頭を撫でられていたユイは、そう言われて、緩慢に息を吐きながら頭を上げ、億劫そうな動作で徳也を見上げた。
「・・・姉貴はさ、僕が弟だから、頼ってくれないんだ。何にも教えてくれないし、泣きついてもくれないしね。・・・そういう役目は、斗岐がやってたからさ」
「・・・・・・」
彼が不意に口にした名前に、千鳥と徳也は動きを止め、目だけを動かして視線を合わせる。
しかし、ユイはそれに気付かず、言葉を続けた。
「斗岐は、姉貴のこと、悔しいぐらいちゃんとわかってたよ。人を甘えさせるのも、上手かったからさ。・・・僕らじゃ代わりにならないかな」
窓から差し込む夕日に染められた病室に、奈津子の寝息だけが響き続ける。
目が覚めれば残酷な現実が待ち構えているというのに、赤みがさし始めた彼女の頬は、非情にも、確実に彼女を目覚めの時へと導いていた。
「――少し、そこで休んでいてください」
徳也は、いつものように、どこか裏を感じさせる柔らかな表情を浮かべ、ユイの頭に片手を置く。
そして、そのまま、ユイの傍らに佇んでいた千鳥の手を取り、自分の方へと引き寄せた。
「あなたの傷も、決して浅くはありません。人のことばかり気にかけて、無理をしてはいけません」
「・・・そうだね。わかってるよ」
ユイは、まだ完全には動かせない右肘や、和高に刺された脇腹を見下ろし、自嘲気味に微笑ってみせる。
「それに、まだ考えてないんだよね。和高を殺しちゃった、言い訳もさ・・・・・・」
「・・・・・・」
ユイの台詞に、千鳥と徳也は無言で顔を見合わせ、同時に小さく息をついた。
「そうですわね。私達は、あなたを責めるつもりはありませんけれど。愛怜は怒るかもしれませんわ」
「そうだね・・・」
ユイは、複雑な感情を含んだ笑みを浮かべたまま、椅子を回して窓の外に目を向けた。
雪に鎮火されたはずの五番街のところどころから、わずかに燻るような煙が立ち昇り、夕焼けの空へと消えていく。
窓の下を見下ろせば、次々と運び込まれる負傷者と、遺体の間を右往左往しながら、家族の顔を探している人々の姿。
「・・・後ほど、お話しようと思っていたのですが・・・・・・」
疲弊した様子のユイを見下ろし、徳也はその背中に向け、静かな言葉を投げかけた。
「やはりあなたには、先にお話しするべきかもしれません」
「・・・何?」
振り返りもせず、外の景色を眺めながら問いかけたユイに、徳也と千鳥は再び目線を合わせ、お互いを促すように小さく頷く。
「・・・和歌ちゃんが誘拐された理由ですけれど・・・・・・おそらく、二つあると思いますの」
そこで千鳥は、突然、ユイの背後から彼の頭を抱きかかえ、身動きができないようにした上で、静かに話し始める。
「どうか驚かないでくださいまし」
「こんなふうにしなくても、別に、しないよ」
不審そうに眉をしかめるユイに、千鳥は腕の力を緩めることなく、頷いてみせた。
「・・・和歌ちゃんが五番街で借りていた部屋、古本屋さんの上の・・・ご存知ですわね?」
「知ってるけど・・・?」
「先ほど、その古本屋さんのご主人が、和歌ちゃんを心配して、捜していらしたんですの。それで、広希さんが事情をお聞きしましたら・・・」
そこで、千鳥は急に、言い出しにくそうに口篭った。
「それで?」
「簡潔に言いますと」
そしてユイは、千鳥に代わって話し出した徳也が、いたって冷静に紡ぎだしたその一言に、心の底から度肝を抜かれた。
「水無瀬さん、お腹にお子さんがいらっしゃるそうですが、ご存知ですか?」
「はあ!?」
柄にもなく素っ頓狂な声を挙げたユイの口を、千鳥の手が強引に押さえる。
「お静かにっ。マリアさんが起きちゃいますわっ」
「静かになんかできないよ! 何それ? 姉貴、妊娠してるってこと!? 思いっきり初耳だし!」
千鳥の呪縛から逃れ、早口でまくし立てるユイに、徳也は普段通りの微笑みを浮かべたまま、言葉を返した。
「部屋を借りる際、ご自分でおっしゃったそうですよ。『妊娠しているので、何かしらご面倒をおかけするかもしれない』と。・・・そこで、古本屋さんのご主人が、何を深読みされたのか不憫に思って、1日数時間お店を手伝うという条件付きで、無償で部屋を水無瀬さんに貸されたとか」
「・・・・・・」
徳也の声を聞きながら、ユイは、自分の脳の中心が急激に冷えていくような感覚を覚え、無意識に左の親指を唇に当て、軽く噛む。
言われてみれば確かに、体の不調や謎の薬の使用など、スラムに来てからの和歌の様子は、これまで彼女の事を一番近くで見てきたユイの目から見て、とても普段通りとは言い難いものであった。
「・・・あー、なるほどね。どこの男の子か、上牧が自分からハッキリさせてくれたってワケだ」
噛んだ親指はそのままに、ユイは、どこか遠くを睨んだまま、薄く笑った。
怒りとも愉悦ともとれるその表情に、徳也は、僅かに鬼気迫るものを感じて息を呑む。
「ええ。私達も、あなた方の通信機の会話を聞いていなければ、確信が持てないところでしたが。水無瀬さんと上牧がそういった関係にあったなら、恐らくは」
「恐らくも何も、確定だろうね。姉貴は、曲がりなりにも医者なんだ。遊びで妊娠しそうな気はしないし。残る心当たりといえば、斗岐ぐらいだけど、時期的に合わないしさ。・・・いくら八重と結婚したからって、その直前まで、姉貴は上牧と5年付き合ってたんだ。八重には悪いけど、別れた後も、1回や2回ぐらい会ってたかもしれないね」
先ほどの驚きようなど嘘の様に、第三者的口調で分析しながら立ち上がり、あまつさえ大きく伸びなどしているユイの姿を見て、千鳥は少し不満気な顔をして見せた。
「会ってたかもしれない・・・って、それは悪い事ですのよ?」
「徳也しか知らないちいちゃんにはわからないさ。男って生き物は、1回付き合った女を、なかなか嫌いまでなれない曖昧さがある。でも、女は違うよ。嫌いになって切り捨てるか、いつまでも好きで引き摺るか、両極端な傾向があると思う。あくまでも、一般論だけどね」
ムッとした顔の千鳥に言い聞かせるかのように、ユイは低い声で、こう付け足した。
「何があったにしても、嫌いで別れた男のところに、大事な妹をやれると思う?」
もちろん、不倫は悪いことだけどね。と、呆れたような口調で呟いたユイに、千鳥は、同じ女性として複雑な心情を感じているのか、僅かに暗い眼差しを床に落とす。
「まあ、この際、善悪の問題は別にしておきましょう。私たちは、裁判官ではありませんからね。ともかく、水無瀬さんが上牧とのお子さんを妊娠されているというのは、恐らく今回彼女が誘拐された原因の1つです。・・・そのお子さんをどうする気かは、不明ですが」
徳也の言葉に呼応して、下を向いた千鳥の目が、再び翳りを帯びた。
「どうして、上牧なんかと・・・!」
瞼を閉ざし、吐き捨てるように言った千鳥の言葉に、ユイはわずかに柳眉を上げて、首を横に振る。
上牧大樹と八重の結婚式に出席しなかった彼女は、その時も、全く同じ台詞を吐いていたのだ。
「・・・・・・さあね」
千鳥やユイも含め、サイボーグ集団ARMSの中において、上牧大樹は、その亡き義父・上牧信司に次いで、憎悪と嫌悪の対象となっている。
B−21研究所の閉鎖後、J−302研究所内で残ったサイボーグたちを管理していたのは上牧大樹であるし、幾度となく命じられてきた『任務』という名の危険かつ汚い仕事も、彼の命によるものだった。
WASPという名の巨大な籠の中で、羽根を奪われた小鳥のように、逃げることの叶わない8人は、上牧大樹の意のままに動き続け――
そして、彼の命じた『任務』に、茨木斗岐が殺された。
仲間を失った喪失感と憎しみは、単純に、元々忌み嫌っていた上牧大樹へと向けられる。
和歌が、自分と上牧との関係を公にしなかった理由も、恐らくこのあたりにあるのだろう。
「水無瀬さんが具体的に妊娠何週目にあたるのかは、わかりません。彼女は腹筋も人工筋ですので・・・。腹筋が発達しているスポーツ選手などの中には、臨月になってもほとんどお腹が目立たない方が、ごく稀にいらっしゃいます。ただ、それが胎児を圧迫して、早産となるケースもあるようですので、状況によっては、水無瀬さんの体にもかなりの負担がかかっているかもしれません」
「へえ・・・じゃ、姉貴が無事だって保証はないんだね」
ユイは、ぽつりと一言、言葉を床に落とし、病室の壁に背中を預けた。
気まずい――嫌な空気が三人の間を支配し、沈黙が重くのしかかる。
短い真冬の夕暮れは、徐々にその色に翳りを見せ始め、凍てつく冷気と暗闇が、ゆっくりとこの街を包み込もうとしていた。
未だ止まない救急車のサイレンを聞きながら、ユイは深く息を吐き出し、病室のドアへと向かって歩き出す。
響く靴音を追いかけるように、千鳥が駆け寄り、短い問いを投げかけた。
「――どこへ行きますの?」
ユイは、ちらりと千鳥の顔を見て、肩を竦める。
「・・・煙草、買ってくるだけ」
「病院内は禁煙ですわ。未成年」
「外で吸うよ」
場所の問題じゃない、と言いかけた千鳥の唇を右手の人差し指で押さえて止め、ユイはふっと薄く笑った。
「姉貴は不倫、弟は仲間殺し、妹は姉貴の彼氏と略奪婚、なんてね。最悪だよ。クソつまんないドラマの脚本みたいだ」
微笑んだ顔のまま、大して面白くもなさそうな声音でそう言い放ち、ユイは再び踵を返して病室を出た。
「西院さんを連れて、愛怜さんの病室へ来てください。まだ、話すことは沢山ありますから」
足早に廊下を行くユイの後を、徳也の声が追ってくる。
行き交う者に何度も肩をぶつけながらも、彼は歩みを止めることなく、ただひたすらに階段を上に上っていった。
やがて人の声も遠ざかり、薄暗い階段に靴音だけが響く。
弱々しく点滅し、消えかかった非常灯の下、ユイは、屋上へと続く鉄の扉を乱暴な手つきで押し開けた。
黄昏に染められた空間に足を踏み出すと、雪の軋む音が耳につく。
ユイはそのまま、夕闇の中に煌き始めた白い月を見上げて佇んでいたが、しばらくして、ポケットから煙草の箱を取り出した。
少しの間、彼はその小さな箱を手の中で弄んでいたが、やがてその手を止め、静かに俯く。
そして唐突に、轟音が冬の空を揺るがした。
後ろ手に殴りつけた扉の周囲に、握りつぶされた煙草の屑がぱらぱらと舞い散る。
ユイは、早まる呼吸を押し殺すように唇を噛み、手の中の潰れた箱を投げ捨てると、その場に座り込んだ。
「情けないなぁ・・・・・・」
凍てつく冷気の中、ユイは再び、空を見上げて呟いた。
「・・・・・・何泣いてんだろ・・・」
誰もいない屋上に、忙しない救急車のサイレンと赤い光が飛び交う。
「こんなだから、誰にも頼ってもらえないんだよ。僕は・・・」
彼の涙と呟きは、静かに白い雪の中に落ち、掻き消えた。
暗く、冷たい石の床。
置かれた白いマットレスに並ぶ、いくつもの遺体。
そのうちの一つの傍らに、京は佇んでいた。
どれほどの時間が過ぎたかも知れない。
仲間達が去ったその後も、京はただひたすらに、白い布が掛けられたその巨大な体躯を見下ろしていた。
信じられぬままに時は過ぎ、涙も出ぬまま立ち尽くす。
彼の前に横たわり、目を閉じたままのその人は、嘘であって欲しいと願う彼の心を裏切って、いつまでも冷たいまま微動だにしなかった。
「・・・兵梧・・・」
こんな日が来るなど、京は考えたこともなかった。
孤児院を飛び出したあの時からずっと、京の中で兵梧は、最強だった。
兵梧を倒す者などいようはずがないとも思っていたし、師であり、兄であり、親でもあった。
彼にとって兵梧は、全てにおいて大きすぎる存在だったのだ。
もちろん、和歌やユイ達のような特殊な存在からすれば、兵梧の力など取るに足りぬものだということは、理解できていたつもりだ。
だが、まさかこのような形で兵梧を失うとは、想像もしていなかったのだ。
まさか、ただの人間に殺されるなどとは。
「・・・・・・」
放心したように立ち尽くす京の耳に、カツン、と小さな音が届く。
京は、緩慢な動きで後ろを振り返った。
即席で作られた霊安室の入り口に目を遣ると、そこには白い服を着た少女が立っていた。
彼女の周りにほんのりとにじみ出る蒼い光が、京の瞳に優しく映り込む。
「・・・香さん?」
一瞬、軍服を脱いだ彼女を別人と見紛いかけたが、彼は彼女の名を思い出し、呼びかけた。
「いつからそこ・・・いたんだ?」
「わからない」
暗い部屋の中を、蒼い光で微かに照らし出しながら、香は静かに京のほうへと歩みを進める。
心の乱れが引き起こすその僅かな放電を、京は神秘的なものを見る瞳で見つめていた。
「だいぶ・・・前かも」
そう言って、床に座り込んだ香の目は、真っ赤に泣き腫らした痕を残している。
二人は、しばらく無言で兵梧の遺体を見つめていた。
「・・・どうして責めないの」
「え・・・」
前を向いたまま、囁くように言った香の言葉に、京は彼女のほうに視線を移した。
「・・・わたしたち、あなたたちの町を焼いたわ。たくさん人が死んだ。この人も、助けられなかった。和歌だって・・・」
香は、ぐっと唇を噛み、両手で服の裾を強く握りしめる。
「どうして・・・みんな、責めてくれないの!? わたしのせいで、みんな死んだのよ! 責められたって仕方ないの! 同情なんかしないでよ!!」
声を荒げる度、彼女を包む蒼い光がその勢いを増し、小さな放電が宙を舞った。
バシッ、と何かを打ち付けるような音に京が見上げれば、うっすらと焦げた天井が、痛々しく煙をあげている。抑え切れない能力が、暴走している証拠であった。
京は、突然声を荒げた彼女に驚き、ただ呆然と香の横顔を見つめていたが、ややあって、呟くように答えを返す。
「・・・ごめん。なんか・・・んな余裕、なくってさ・・・」
「あ・・・っ」
香は、ハッと我に返って京の顔を見上げ、再び下を向いた。
「そう・・・よね。ごめんなさい・・・」
「ううん」
実際、今の状態の京には、兵梧の死を理解することすら精一杯で、誰の責任であるとか、誰が憎いなどという事にまで、考えが及ばなかった。
まして、直接兵梧を殺した犯人でもない、立場的にWASP側というわけでもない香を責めろと言われたところで、言葉に困る。
「――ってか・・・なんで、そんな自分ばっか責めてんだ?」
まだはっきりとしない頭のまま、京は何となく、そんな事を訊いた。
それに対し香は、考えるかのように少し沈黙し、掠れた声で答えを返す。
「・・・だって・・・わたしね、人を殺したくないとか何とか言って・・・・・・いつも、結局行動が伴わないんだもの」
「・・・・・・」
「――昔ね、わたし、マリアが殺されるって知ってたのに、何にもしなかったの。・・・今回だってそうよ。殺させたわ。ゲリラもSWAGSも、たくさん死んだわ。和くんだって、死んじゃった。自分でやらなかったからって、それが何だって言うの? 言い訳にも・・・ならないじゃない」
香はそう言って、言葉を呑み込むように俯く。
頬を隠す髪の間から零れ落ちた涙が、淡い光に照らされてキラリと煌いた。
「わたしは、ユイを死なせたくないわ。でも、結果的には・・・ユイが和くんを殺すのを手伝ったのよ。自分の仲間を殺させたの。自分の・・・好きな人に。ねえ、怖いと思わない?」
京は、肩を震わせて泣く香を見下ろしながら、ふと、自分の頬も濡れていることに気付く。
(・・・そっか・・・・・・)
白い布を掛けられ、冷たく横たわる兵梧へと目を遣り、京は、涙で視界を滲ませ、顔を逸らした。
(・・・・・・これが人を殺すってコトか・・・)
人を殺すということは、誰かに誰かを失わせるということだ。
例えそこにどんな理由があろうとも、人一人この世から消してしまった罪は拭いようもなく、いつまでも心の中に在り続けて自分を苦しめ、そして誰かを永遠に傷つける。
その罪を一生、背負って生きていくことは、とても辛く、苦しいものなのだろう。
(・・・遅せーよ、兵梧。今頃わかっちまったじゃねーかよ・・・)
兵梧は、一度たりとも、京に銃弾を持たせたことはなかった。
WASPを含む五大企業の施設や輸送車を襲う時でも、京だけは、見張りとは名ばかりの安全なところへ取り残され、いつも歯痒い思いを強いられていたのだ。
いつまで経っても一人前として認められない苛立ちを憶え、彼は何度も兵梧を責めた。
『人を撃ったご経験はおありですか?』
徳也の言葉が、耳梁に木霊する。
WASPの兵士を撃つことが出来なかった京にそう問いかけた彼の目は、まるで殺人者のそれでしかなかった。
どんな大義名分があろうとも、人を殺せばただの殺人者に成り下がる。
今ここで泣く香のように、一生、その罪を背負い、血と涙にまみれた両手に、自分を責めて生きていくことになる。
そんなことにも気付かず、ただ格好いいから、大人の真似をしたいからと銃を手にした京に、誰が人を撃たせるだろうか。
兵梧は兵梧なりのやり方で、京を護っていたのかもしれない。
大切に思っていてくれたからこそ、京にだけはまだ、人殺しの罪を背負わせまいとしてくれたのではないだろうか。
異常な環境で育った奈津子を、ずっと側で見てきた兵梧だからこその、京に対する想いと愛情の形であった。
今更ながらにそれに気付き、京は、胸の奥から次々とこみ上げてくる熱いものを、ぐっと堪えて噛みしめた。
「・・・香さん」
京は、服の袖で強く涙を拭き、香の隣に座る。
俯いたままの彼女の横顔を見つめ、ゆっくりと言葉を吐き出した。
「俺、怖くなんかねーよ。香さんのコト」
「・・・え?」
不意に、香が振り向いて京を見る。
「正直ゆーとさぁ、最初、怖かった。香さんもユイも和歌も、強すぎてさ。怒るかもしんねーけど、無意識に差別してた。人間じゃねー生きモンなんだって」
「・・・・・・」
「俺さ、あの和高ってヤツ撃つ時、全然ためらってなかったんだよな。それなのに、普通の人間は撃てねーんだ。・・・それって、心の底で、『コイツは人間じゃねーから、撃ってもいい』って思ってたってコトなんじゃねーのかな」
香は、頬を流れる涙を拭くことも忘れて、目の前の少年の言う事に耳を傾けていた。
「・・・だけどさ、それってすごい最悪だよな。だって、香さん、普通に人間じゃん。人を殺すのが悪いコトだって泣ける人だし、仲間を大事にしてると思うしさ。・・・そんなのってさ、人間じゃなきゃ持ってねー感情なんだ。ちょっと相手が強いからって、人間扱いもしねー俺のほーが、よっぽど人間失格じゃねー?」
「・・・そんな。そんなことないわ。だって、わたしたちの方が異常なんだもの」
「ほら」
慌てて京を庇うような事を口にした香の肩を、京は何度か叩いて笑ってみせる。
「そーやってさ、あんま知らねー俺のコトだって心配してくれんじゃん。俺、好きだよ、香さんのコト。ヘンなイミじゃねーけどさ」
屈託なくそう言われて、香は思わず頬を赤らめて下を向いた。
「でも・・・わたしは、あなたたちの町を焼いて・・・人も殺して・・・」
「うん。でも俺、そーゆーの、よくわかんねー。・・・確かに香さんはWASPの人で、スラムを攻撃したけど、好きでやったんじゃねーコトも知ってる。WASPは憎いけど・・・香さん一人責めてたって、どーなるもんでもねーしさ」
「・・・・・・」
そう話しながらも、京は、自分で自分が何を言わんとしているのか、うまく整理できていなかった。
確かに、香や愛怜が命令を放棄していれば、スラムが焼かれることはなかったかもしれないし、兵梧もフェイも、SWAGSもゲリラも、誰も死なずに済んでいたのかもしれない。それは可能性として確かにあって、彼女らに責任がないかと問われれば、恐らく、あるに違いないだろう。
だが、軍隊という組織の中で、その上、自分の命までもWASPに握られた状態で、彼女らに一体何が出来たというのだろう。
さらに言えば、彼女らに従って戦闘機に搭乗し、スラムを焼いた空軍兵士達に罪があるかと問われれば、それはもはや、京の決めるべき事ではない。
ゲリラという組織の中でも、上層部の決めた事には皆従うのが基本であるのだから、軍隊においてもそれが当たり前であろう事くらい、京にも容易に想像が付く。
深く考えれば考えるほど、京には、香や愛怜を責める理由など見つけられなかった。
「それにさ、香さんは、ユイが好きだから、助けてやったんだと思う。俺だって、ホントに大事なヒトを護るためだったら、香さんと同じコトしてたと思うぜ。それが・・・悪いことでも、たぶん。・・・や、いけねーコトだけどさ。絶対、いーわけねーけど・・・えっと・・・何てゆーかさ・・・」
そこまで言って、京は、いよいよ自分の考えを言葉としてまとめられなくなり、頭を抱えて低く呻く。
言葉で説明するには、状況も感情も複雑すぎて、彼の脳の処理能力が追いついてきていないのだ。
香は、少しの間、そんな京の姿をポカンとした顔で見つめていたが、やがて口元に小さな笑みを浮かべ、呟いた。
「・・・ありがとう」
「うん・・・」
ふと、京は、香の体を包んでいた蒼い光が消えている事に気が付く。
京の下手な慰めの言葉でも、多少なりとも、彼女の精神的な興奮や動揺を鎮める効果があったようである。
片手で目元の涙を拭く彼女の姿を見ながら、京は小さく息をついた。
「わたしたちがいた研究所のこと・・・聞いたことある?」
ふと、唐突に話題を変えた香に、京は怪訝な顔で眉根を寄せる。
「あ・・・ああ、うん。少しな」
「マリアってね・・・わたしと同じで、家族の記憶がないの。私たち、みんなと違って、研究所に来た時、ほんとに小さかったから。私たちの記憶は、あの研究所から始まってるの・・・」
香の目は、どこか遠くを見るように、ただ虚空を見つめていた。
「でもわたしは、いい友達に恵まれたと思うの。今はこんなふうになっちゃったけど・・・和歌も愛怜も千鳥も――和くんも。みんな、優しくしてくれたわ。みんな、大好きなの」
「・・・・・・」
「だけど、もう二人も死んじゃったわ。大好きな人たちが、短い間に、二人もいなくなっちゃった。すごく・・・悲しいよ。わたしにとっては、家族と同じぐらい大切な友達だったんだもの」
(・・・和高ってヤツと・・・トキ? ってヤツのコトかな? ユイが言ってた――)
京は、今日出会った緑の髪の青年と、ユイから聞かされた、1年前に死んだという男の名前を思い出しながら、香の話を聞いていた。
「だからね・・・今のマリアの気持ち、よくわかるの。家族がいないって、時々、すごく孤独で・・・自分の居場所になる人が欲しくて。――マリアにとっては、この人も、そうだったんじゃないかしら」
そう言って、香はそっと、冷たい兵梧の腕に片手を触れる。
何も言わない、動きもしない兵梧の姿に、京は再び、目の奥が熱くなるのを感じ、顔を伏せた。
「・・・俺も、わかる・・・」
京は、溢れる涙に歯を喰いしばりながら、小さく呟いた。
「俺も・・・記憶ないから。6歳ん時・・・気が付いたら孤児院にいてさ・・・。15んなって、兵梧に会って・・・・・・すごい、大事にしてくれたんだ・・・・・・っ」
香の言う通りであった。
孤児院を飛び出して、居場所を失くした京は、兵梧に拾われた。
いつしか彼の後ろが自分の居場所になり、自分を子ども扱いして馬鹿にする大人たちの中でも、京は自分を見失うことなく歩いてこれた。
だが、もう、自分を守ってくれる者などいない。
自分の居場所は、自分で見つけるしかない。
兵梧がもうここにいないということが、ただ悲しかった。
「そう・・・」
声を殺して泣く京の姿に、香は一瞬驚き、そして肩を落として呟く。
「――みんな同じね。わたしもマリアも・・・あなたも」
香の手が自分の頭を撫でるのを感じても、京はそれを払わなかった。
同じ痛みを持つ彼女の手は温かく、優しかった。
「俺が泣いてたこと・・・誰にもゆーなよなっ・・・」
拭いても拭いても止まらない涙を必死で服にこすりつけながら、京はそう言って頬を赤らめる。
「・・・うん、言わない」
香が、僅かに微笑んで頷いた――その時だった。
「ごめん、見ちゃった」
『え!?』
突然背後から響いた声に、二人は同時に声を上げ、振り返る。
「・・・ユイ」
「捜したよ」
気まずそうに視線を逸らした香に、ユイは特に表情も変えず、入り口の扉から背中を離した。
「んだよ・・・覗き見しやがっ・・・」
恥ずかしさのあまり、ユイに食ってかかろうとした京が、ふと涙すらも引っ込めて唇の動きを止める。
ユイは、そんな彼の視線の先にある自分の左手を見下ろし、ああ、と小さく呟いた。
和高の武器であった刃を掴んで投げた際についた指の傷が、先ほど鉄扉を殴りつけた時に開いてしまったらしい。
ユイの左手に巻かれた包帯は、痛々しいほど血の色に染まっていた。
「ちょっとぶつけただけ。血は止まってるよ」
「ったくよー、お前も何気にボロッボロなんだから、動き回ってんじゃねーよ」
「・・・大丈夫だよ。首都に戻れば、人工皮膜で傷も塞げるし、脱臼だって嵌め直したし」
「ケガ人はケガ人だろ。骨だってさぁ、嵌めりゃーすぐ治るってもんでもねーし」
「だから、大丈夫だって」
血塗れの左手を取ろうとした京の手を払い、ユイは、どこか照れたような、素っ気無い態度で彼の側を離れる。
「行こう、香。徳也が呼んでる」
京を無視し、手を差し出したユイに、香は目を合わせようとしないまま下を向き、一歩後退った。
「・・・べつに・・・捜してほしいなんて言ってない・・・」
「香さん・・・」
感情を堪えるかのように下唇を噛む香の姿を見て、京はちらりとユイの方へと視線を移す。
何かというと人を突き放したような言い方をしがちな彼が、さらに香を傷つけるのではないかと不安に思ってのことだ。
だが、そんな京の気持ちとは裏腹に、ユイは珍しく、笑って言った。
「知ってるよ。僕が捜したかったから捜したんだ」
「――えっ?」
ぽかん、とした顔でユイを見上げる香に、彼は微かに白い息を吐き、
「いろいろごめん。僕も今回、あんまり余裕なかったからさ。怒鳴っちゃったしね。和高のことも――謝ったぐらいで許してもらえるとは思ってない。だけど、謝りたいと思うから、謝るよ」
ユイは、それまで浮かべていた笑みを顔から消し、僅かに視線を落とした。
「・・・香は、誰かに責めて欲しいみだいだけど、誰も君を責めてなんかくれないよ。ちぃちゃん達は、和高を殺した僕のことさえも責めてくれないような人たちなんだから。・・・責められて、謝り倒して許されるのは、責められない事よりずっと楽なことだからね。あの人達は、絶対に責めてなんかくれない」
「・・・・・・」
「誰でもいいから責めて欲しいなら、WASPの軍服でも着て外に出てみればいいんだ。一瞬で町中が敵になってくれるさ」
再び俯いた香の肩が震え、髪に隠れた頬が紅潮していくのが、京の位置からはハッキリと見て取れた。
「おい、ユイ――!」
また香が泣くのではないかと、京がユイに掴みかかろうとした、その時だった。
ユイが、突然香の手を引き、その場で彼女を抱き締めた。
「・・・えっ? ちょ・・・ちょっと・・・」
今にも顔から火が出そうなほど赤面し、香は慌てて身をよじって抵抗する。
だが、左手しか使っていないにも関わらず、ユイの力は強く、香がどんなに引き離そうとしても、すぐに引き戻されてしまう。
すぐ側で京が見ている事に対する恥ずかしさと、安置されている遺体に対する不謹慎さで、香はより一層、頬を赤らめた。
「・・・・・・なんだか、疲れた」
ぽつり、と聞こえたユイの言葉に、顔を逸らしていた京は、ふと顔を上げる。
彼の視線の先で、ユイは、不審そうな顔で動きを止めた香を抱きすくめたまま、ぼんやりとした眼で薄闇を見つめていた。
「・・・・・・ユイ?」
これほどまでに気の抜けた、いつになく弱さを露呈したユイの姿を初めて目にし、京は、ポカン、と呆けたような声のまま、彼の名を呼んでみる。
しかし、ユイは大きくため息をついて目を伏せ、そのまま静止してしまう。
「あ・・・和歌・・・」
そこへきてようやく、京は重要な事を思い出した。
普段強気のユイが、何故これほどまでに余裕を失くしているのか。
京は、兵梧の死という事態を受け入れるのに必死になるあまり、和歌のことを忘れていた。
兵梧は彼女のために命を賭け、死んだのだ。
そんな大事な事にも気が回らなかった自分が、泣きたいほどに情けなく、恥ずかしかった。
「や・・・やだ、離してよ、ユイ」
幾分か脱力した彼の体を引き剥がし、香は少し居心地悪そうに、京の方をちらりと盗み見た。
そんな彼女の顔を見て、京は一瞬、どんな表情を返すべきか、判断に困る。
(・・・そんなヤツ選んでいーのかよ。)
敢えて無反応を貫き、京は口には出さず、そう香に問いかけた。
(ソイツ、アンタに人殺しさせる男だぜ。それでもいーのか?)
顔を上げて微笑むユイと、恥ずかしそうに頬を染めた香。
京は、しばらくの間、そんな二人の様子を、ただ醒めた目で眺めていた。
(・・・ま、アンタがいーなら、いーけどよ。)
何十、何百の他人の命より、ユイの命が大事だと、香がそう思うのなら。
香は香の選んだ道を行けばいいだけだ。
京は軽く肩を伸ばして緊張を解し、ユイの背中を強めに叩いた。
「行こーぜ。千鳥サンたち、待ってんだろ? ってか、俺も行っていーよな。和歌の話だろ?」
叩かれた背中を手でさするような仕草をしながら、ユイは、突然明るく話し出した京に、少し胡散臭そうな視線を向ける。
「・・・別にいいけど。・・・どうせ、来るなって言っても来るんだろうしさ」
ユイは、呟くようにそう言ってから、マットの上で静かに横たわる兵梧の前までゆっくりと進み、立ち止まった。
そして、沈黙して両目を閉じ、黙祷を捧げるような、考え込むような仕草をしたが、ややあってから顔を上げ、再び京を振り返る。
「じゃ、僕ら、先に行ってるから」
「は?」
不思議そうに訊き返す京を一瞥すると、ユイは唐突に踵を返し、香の腕を引いて霊安室を進み、扉の前に立った。
「おい! 俺は!?」
置き去りにされたような格好の京が喚くと、彼は、ふっと大きく息を吐き出し、微かに笑って言い放つ。
「泣いてから来れば?」
「ああ!? 泣い・・・っ!」
さらりと言われて動揺する京を置いて、ユイは香を連れ、さっさと廊下へ出て行ってしまった。
ポツンと取り残された京は、片手を物言いたげに上げたまま、閉められたドアをただ眺める。
「・・・・・・」
暗い地下の霊安室。
冷たい冬の空気と静けさが漂う中、京は、遠ざかるふたつの靴音を聞いていた。
「・・・んだよ・・・せっかく、人がガマンしてるってのによ・・・」
ユイと香の気配も消え、何の音も温度も感じなくなった空間で、京は、ぼそりと言い捨てる。
声が震えて、うまく発音できていない。
「なあ・・・」
京は、背後に横たわっているであろう兵梧を見ないように背を向けたまま、ぽつりと呼びかけた。
「見てたかよ、兵梧。アイツ・・・ユイのヤツ、泣いてたんだぜ。目、真っ赤なクセして、強がってやんの・・・」
ぎこちない笑みを浮かべ、京は目を閉じる。
「辛ぇよ。悲しいし、正直、怖ぇよ。・・・あんな能力持ったヤツらにも、WASPなんかにも、関わりたくなんかねーんだ」
兵梧がくれた銃を両手に握り締め、彼は、香が焦がした天井を仰ぎ見て、今日という短い時間に見てきた事を、頭の中に思い浮かべた。
どう足掻いたところで敵うはずもない能力を持った者たちに出会い、自分の無力を痛感し、さらに、WASPという組織の力を、故郷の消失という最悪の形で改めて思い知らされた一日であった。
「俺なんか、アイツらの足元にも及ばねーし。ガキだし、アタマも悪ぃしさ。何の役にも立てねーかもしんねーけど・・・・・・だけど」
京は自嘲気味にそう言うと、銃をホルスターに収め直し、大きく伸びをして振り返る。
白い布が掛けられた兵梧の顔を見つめながら、彼は言った。
「俺、アイツら好きだから。だから、俺、もう行くな」
兵梧に護られ、人を傷つけることも、傷つけられることもなく過ごした一年間を思い出しながら、京はただ立ち尽くし、微笑った。
「兵梧もフェイも、嫌がるかもしんねーけどさ。俺――WASPのやり方、やっぱ許せねーんだ」
これからは、自分の足で人生を歩いて行くことになる。
ゲリラの一員として、WASPという巨大な組織に立ち向かうとするならば、それは彼の命を縮めることになるかもしれないし、他の誰かの命を奪うことになるかもしれない。
それは、恐らく、今まで彼を護り続けてきた兵梧の想いを裏切る選択になるだろう。
それでも京は、和歌たちと歩む未来を選びたいと思う。
何事もなかったかのように逃げ出して、見知らぬ他人の中で生きていく事よりも、兵梧が守り、愛した者を守りたかった。
例え自分の力が及ばなくとも、拭えぬ罪を背負う事になっても、それでも京は、自分の選んだ者たちと共に生きていたいと思う。
目の奥が熱く痛み、乾ききった咽が悲鳴を上げても、彼はもう、泣かなかった。
「一年間、マジで楽しかった。ありがとな・・・・・・兵梧!」
胸を締め付ける悲しみも、込み上げる感謝の言葉も、言葉では言い表せない全ての想いを込めて、京は彼の名を呼ぶ。
師であり、兄であり、父でもあった兵梧のために、彼は、静かに一礼し、微笑んだ。
そして京は、兵梧から貰ったものを精一杯胸に押し込んで、走り出す。
自分の選んだ道を、自分の足で歩いていくために。
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