|
「ふーん・・・そうなんや。あいつ、上牧と付き合っとったん」
奈津子が眠る病室とは真逆の位置に置かれたベッドの上で、愛怜は上体をクッションにもたれ掛けさせたまま、別段驚いた様子もなく、そう独りごちた。
「驚きませんのね」
愛怜がもっと激昂すると懸念していたのか、千鳥は椅子に腰掛けた上、優雅に紅茶など飲みながら、小さく首を傾げる。
「うん・・・まあ、あんまいい気はせんけどな。だって和歌、上牧のこと下の名前で呼びよるやんか。妹の旦那になるずっと前から。仲ええんやな、とは思ってたし」
千鳥の話を内心どう感じているかは別としても、ふう、と落ち着いた様子で深く息を吐き出す愛怜に対し、ベッドの端に掛けた香は、相変わらず動揺を隠せない混乱した表情で、千鳥や徳也、ユイの顔を見比べていた。
愛怜と同様、何も知らなかった京はというと、ひどく驚いた様子で何やら考え込んでいたが、しばらくしてユイと目が合うなり、
「それって、マジな話? 和歌と上牧って、そーゆーカンケイだったのかよ?」
未だに信用しようとせず、問いを投げかける。
「嘘言ってどうするのさ? 僕だって嫌だよ、こんなの」
空色をした双眸を少しだけ細め、実に不機嫌そうに言い返したユイを目にして、京は、それ以上何も言わず、口を噤んだ。一瞬落ちた沈黙の中で、千鳥の持つティーカップとスプーンが、カシャン、と甲高い音を響かせる。
「香は知ってたん?」
割れかけた右手の爪など気にしながら、それでいてどこか探るような含みを感じさせる声音で、愛怜が問う。その言葉に、香は一瞬、責められているのかと思い、ぐっと押し黙った。
そして間髪入れず、彼女を庇うようにして、ユイが口を挟む。
「香は知ってたよ。さすがに子どもまでできてるとは、誰も思ってなかったけどね」
「ふーん。まあ、そら気付かんわな。本人があんだけ元気に走り回っとったら」
どこからともなく徳也が差し出した爪切りを受取りつつも、愛怜は、傷だらけで動かしようがない左手を見遣り、爪の手入れを諦めた。
ユイもある程度予想はしていたのだが、愛怜は、和高の死について、正面から彼を追及しようとはしないし、彼が話しかければ素直に返事も返す。だが、頑として、ユイと視線を合わせることだけはしない。
とはいえ、彼女の性格上、いつまでもこのままという事はないだろう。ユイは、窓際を占領するローチェストに腰を下したまま、まるで厄介なものを見るような眼で、愛怜を見つめていた。
「彼女は、普通の方ではありませんからね」
徳也は、一言そう言うと、片手で眼鏡のずれを補正しながら、にっこりと微笑んでみせる。
「と言いますか、私たちもほとんど普通ではありませんが」
笑った顔のまま、千鳥と同じく、優雅にコーヒーなど飲みつつ言い放たれた徳也の台詞に、ユイはわずかな苦笑を返した。
ひとり蚊帳の外にならぬようにするためか、居並ぶサイボーグたちの真中に陣取り、床の上から皆を見上げていた京は、淡々と交わされる会話を頭上で受け流しながら、小さく息をついて、ベッドの脚に背中を預け、独りごちた。
「色々あんだなぁ、みんな」
「色々ですわねぇ」
柔らかな微笑みを浮かべ、少し首を傾げてそう繰り返した千鳥に、京は、まるで自分が子ども扱いされているように感じたのか、ムッとして真正面から彼女を見返す。しかし、まだ初対面の遠慮が抜け切らなかったのか、腹立たしさよりも居心地の悪さの方が先立って、彼はただ、曖昧な笑みを返すに留まった。
「・・・それで? 知ってるんだよね、ちぃちゃんたちは。姉貴と上牧の間に何があって、どうしてここまで対立してるのか」
電源の入らなくなった携帯電話を片手で弄びながら、ユイは、横目で千鳥の顔を見据え、そう話を切り出した。
千鳥は、微笑んだ表情のまま、意味有り気に彼を見つめ返していたが、しばらくして視線を手元のカップに落とし、小さく息をつく。
「全てを知っているわけではありませんけれど・・・多少は」
「――やったら、これも知っとるんやろ?」
皆の視線が向いたその先で、愛怜は、何か小さなものを枕の下から取り出し、空中に放り投げる。電灯の明かりが照らす室内で、それは光を反射してキラリと光り、そのまま真っ直ぐに千鳥の手の中へと収まった。
「なんだそれ? ペンダント?」
千鳥がそっと手を開くと、細いチェーンに繋がれた金属のペンダントトップと、銀色の指輪がそこにあった。興味を引かれてにじり寄った京が、それを覗き込み、訝しげに尋ねる。
「上牧に貰った指輪と、斗岐に貰ったペンダント。・・・姉貴が大事にしてた」
ユイは、無表情にそう呟くと、意識的に千鳥と徳也から視線を外し、窓ガラスに額をつけて、外の世界へと目を遣った。
温度差で曇ったガラスを指で撫でると、水滴でにじむ風景の中に、首都の明かりが浮かび上がる。
いつの間にか暗い紫に染まった空に、いくつかの星が顔を見せ、それに呼応するかのように、地上の星たちも輝き始めていた。
「香、憶えとるやろ。死ぬ前日まで、斗岐はそのペンダント着けとった。・・・けど、それを和歌が持っとった」
「和歌が・・・?」
ペンダントをよく見ようと、香は、ベッドから腰を浮かし、身を乗り出す。しかし、彼女がそれを手に取るより早く、愛怜の声が彼女の動きを止めた。
「斗岐の、遺書や」
「・・・遺書?」
ピクリ、と肩を震わせ、ユイが愛怜の言葉を繰り返すように呟く。顔を動かさないまま、目だけを動かしてペンダントを横目に見ると、彼は、静かに瞼を閉じた。
そして、まるで眠ったような格好のまま、わずかに唇を動かして言葉を紡ぐ。
「・・・関係あるの? 斗岐の事故と、今回のこと」
誰にともなく吐き出されたその問いに答えられる者は、この空間に、たった二人しか存在しない。一同の視線は、自然と徳也と千鳥に向けて集中する。
だが千鳥は、自らの手の中に置いたペンダントを、ただぼんやりとした眼で見つめているだけで、何かを話し出そうとする気配は感じられない。その表情は暗く、ただ昔を懐かしんでいるようにも、何かを憂いているようにも見える。
「事故ではありません」
先に口を開いたのは、その傍らに立つ徳也であった。
「斗岐さんの死因は、爆死ではありません。失血死です」
「失血・・・死?」
淡々とした口調で語る徳也の言葉に、香は思わず眉をひそめた。
「正確に言いいますと、肺を貫通した二つの銃創からの出血と、それに起因する呼吸困難による死亡ですね」
「それってつまり・・・撃たれて死んだってコトかよ?」
「そういう事になりますね」
低く言い放たれた京の問いに対し、短い返事を返した徳也の顔は、普段と変わらず穏やかに笑っていたが、その瞳の奥に見え隠れするものは、殺気にも似た冷たい感情に他ならない。
京は思わず、背筋に冷たいものを感じて口を噤んだ。
「・・・何であんたら、そんなん知ってんの?」
愛怜が発した疑問に、千鳥は、静かに顔を上げ、ふふ、と小さく笑いながら、どこか得意気にすら聞こえる声音で、答えを返す。
「警察の上層部の極秘資料を持ち出して、調べましたの」
「・・・そういえば、警察官なのよね。二人とも」
今の今まで忘れていたかのような口調で呟いた香に、千鳥は一瞬、ぴくりと片方の眉を動かしてムッとした表情を作ったものの、特に口に出して言い返しはせず、一息ついて徳也の方を振り返る。
徳也は、彼女の視線に気付き、その目の言わんとしている事を汲み取ったかのように、黙したままで小さく頷いた。
「事の発端は、私たちがまだ首都警察にいた頃の話です。・・・私たちは水無瀬さんから、ある依頼をされました」
彼は、わずかにコーヒーの残ったカップをテーブルの上に置き直し、静かにそう切り出した。
「――斗岐さんの遺体を捜してほしい、と」
低く言い放たれた徳也の言葉に、室内に緊張が走る。
抑揚のない徳也の声を左耳に聞きながら、ユイは、傷ついた左手を閉じたり開いたりしながら、ぼんやりとした眼でそれを眺める。傷だらけの体を動かす度に走る痛みは、いつしか思考を妨げる気だるい熱へと変わり、窓ガラスに押し付けた頭から伝わる外気の冷たさが、辛うじて彼の意識を冷静なものへと引き戻していた。
彼は、水滴に濡れた金髪を撫で、皆よりも数秒遅れて、徳也と千鳥のいる方向へ僅かに顔を動かした。
「和歌ちゃんは、斗岐が爆死したのではないことを知っていましたわ。上牧に・・・・・・いえ、一部のWASPの者たちにとっては、斗岐の身体はとても有益なもの。必ず、遺体は回収されて、どこかに持ち去られているはずだと」
「有益? 死んだ人間の身体を、どう使えば役に立つん?」
「・・・それは・・・・・・」
千鳥は、眉根を寄せて言い澱む。
代わって口を開いたのは、やはり徳也であった。
「WASPは、人間の脳をプログラム化する技術を持っています」
靄がかかったような頭の中に、淡々とした徳也の台詞が不意に叩き込まれ、ユイはぴくりと片方の眉を動かした。
無意識に速まる鼓動と強張る表情を衆目から隠すように、彼は、再び窓の外へと視線を向ける。
「それって? 脳みそ機械にしちまうってコトか?」
しかし、そんなユイの様子に気付く者は皆無で、京の質問の方に皆の意識は集中していた。
「いえ、少し違います。わかりやすく説明しますと、人の脳のメカニズムを完全に解析し、そのデータを基に人工知能を造り出す技術・・・・・・つまり、特定の人間の記憶や思考パターン、学習能力、性格など全てを写し取ったコピー人格を作成できるという事です」
「そんな事・・・できるの? たとえば、わたしと全く同じ人格が、コンピューターの中にいる、っていうようなことでしょう?」
香は、完璧に半信半疑といった様子で、傍らの愛怜と顔を見合わせ、首を傾げた。
いわゆる電脳空間に、自分と全く同じ記憶を持ち、全く同じ動きをするコピーが存在するなど、目的が何であれ、気持ちの良い事ではない。
「可能なようですね。私が調べましたところ、WASPがその開発に取り組み始めたのは、もう随分昔の事のようですし・・・・・・確かな情報ではありませんが、試作品としての人工知能は、5年ほど前には既に稼働を開始しているという話もあります」
「元々は、医療目的で始められたそうですわ。重度の脳疾患を持つ方へ移植する、人工臓器の一つとして」
徳也の言葉を継いで、ティースプーンを片手で弄んでいた千鳥が補足を入れる。
彼女の手が無意識にカップの中身を掻き混ぜる度、冷めた紅茶の底に溜まった砂糖の山が崩され、陶器と金属の触れ合う小さな音色が、狭い病室に冷たく響き渡る。
再び静まり返った空間に、ふっ、と息が吐き出される音を聞き、ユイはふと、背後を顧みる。無言で見つめる彼の視界の真中で、クッションと枕に背中を預けた愛怜が、天井を仰いで嘆息していた。
そのまま、ユイの視線は空を滑り、千鳥へと辿り着くその途中、病室の扉に取り付けられた磨りガラスの向こうに、人影のようなものを見た気がして、そこで一瞬静止する。彼はわずかに目を細め、しばらくその一点を見つめていたが、やがて興味が失せたのか、視線を外した。
「・・・それで?」
醒めた口調で、ユイは千鳥に向かって、呟くような口調で言い、先を促す。
「ちぃちゃん達は、何を、どこまで知ってる? 話してよ」
言われて、千鳥は紅茶を掻き回す手をピタリと止め、自分を見つめるユイの蒼い瞳を静かに見返していたが、ややあって、小さく息を吐いた。
彼女の手を離れたティースプーンが、カップの縁に軽く衝突し、澄んだ音を立てる。
「――私たちが、和歌ちゃんからその依頼を受けたのは、去年の春先のことでしたわ」
千鳥は、パイプ製の椅子に深く座り直し、室内を見渡して皆の顔をそれぞれ一瞥すると、ひとつ頷いて話し始めた。
和歌が千鳥と徳也の二人を呼び出したのは、斗岐の死から、ちょうど二か月ほど経った頃であった。
その当時、二人はまだ首都警察に勤務しており、斗岐を失った爆発事故の初動捜査にも加わっていたが、事件性がない、という理由で、その後の事故処理からは外されていた。
和歌は、二人に会うなり、言った。
斗岐は上牧に殺された、遺体を捜してほしい、と。
それまで、斗岐の死に関して、事故などではないと言いつつも多くを語ろうとしなかった和歌が、突然このような事を言い出すなど思いもよらず、状況の読めない二人は、ただ困惑するばかりであった。
すると和歌は、助けられなかった、と、一言呟くなり、二人の前で堰を切ったように泣き出してしまったのだ。
彼女の話によると、斗岐は上牧を中心とする一部の人間が極秘に進めていた、あるプロジェクトの内容を知ってしまったがために、殺害されたのだという。
和歌との共同任務中の事故として片付けられた彼の死だが、その日、和歌と斗岐のどちらに対しても、WASPからの任務など下りてはいなかった、ただ一緒にいただけだ、と彼女は言った。
普段、滅多なことでは涙など見せない和歌が、大泣きしてしまったのだ。二人は、驚きと同時に強い不安を覚え、黙って彼女の話を聞いていた。
だが、その後に和歌が語ったWASPの極秘プロジェクトの内容は、二人の想像を遙かに超えていた。
それは、端的に言えば、単なる人造人間――アンドロイドを創り出すプロジェクトに過ぎない。
人を機械的に改造して創られたサイボーグには、生物的・物理的な問題や制約が常について回り、それを無視することはできない。
例えば千鳥の場合、彼女は強烈な高粒子砲を撃つことができるが、一度に撃てるのは、最大でもせいぜい四、五発程度でしかない。それ以上撃ち続けると、自身の発する高熱によって、内臓や筋肉などの『人間の部分』を焼かれてしまう。
それでなくとも、人間の身体とは繊細なもので、ほんの少しの改造にも耐えられず、死亡してしまう例が多くある。運よく成功したとしても、肉体への負担は計り知れず、生身の人間と同等の寿命は期待できない。その上、死んでしまえばそこまでで、次に造られた者が、死んだ者と同じだけの能力を持つとは限らないのだ。
しかし、最初から人を素材としないアンドロイドならば、それらの問題とは全く無縁である。
確かに、人間以上の動きをする人型の機械を一から設計して創るというのは、いくら大企業のWASPとはいえ難しいかもしれない。
だが逆に言えば、サイボーグと違ってアンドロイドの場合、一体完成しさえすれば、あとはそれを基に何体でも同じものが量産出来るのである。人間を改造して兵力に変えるより、はるかに効率的と言えるだろう。
とはいえ、WASPが長年サイボーグにこだわって研究してきた事にも、れっきとした理由があるのだ。
人から創られたサイボーグには、自力で考え、学び、判断する脳があり、単なる人工物に過ぎないアンドロイドは、それを持たない。
現代社会においての戦力となるには、優れた身体能力と知識の他に、経験とその場の状況に基づいた柔軟な判断力や発想力、高い学習能力が必要不可欠となる。単純に戦闘のみを目的とした兵器として使うならばともかく、パターン化された機械的思考しか持たないアンドロイドでは、全くもって現代の複雑な戦い方に対応できないのだ。
だが、完全に機械の体を持つアンドロイドに、人間と同様の知能を搭載出来るとすれば、どうだろうか。そこには、人間であるがゆえの制約もリスクもなく、機械であるがゆえの思考の単純さも存在しない。
上牧大樹を中心とするWASPの軍部が目をつけたのは、医療部門の研究者たちの持つ、人工臓器の研究データであった。
病や事故など、何らかの理由で失われた臓器や肉体の一部を補うためのそれらの研究は、サイボーグやアンドロイドに関するそれとは全く切り離されたものとして、第三次世界大戦以前から継続して進められており、中でも、人間の脳の代替品としての人工脳の開発は、WASPのトッププロジェクトの一つであった。
人間の脳のメカニズムを解析し、素材となった脳と同等の能力を持った人工脳を造り出す技術――それこそが、WASPの軍部の求めていたものに他ならない。
長きにわたる研究期間と試作を経て完成したその技術は、やがて、アンドロイドに搭載する人工知能へと転用されることとなった。
そして、当然のことながら挙がってくる問題は――誰の脳を使うか、である。
もちろん、誰のものであったとしても、技術的には何の問題もない。だが、諜報活動や戦闘に使用するアンドロイドに搭載するのであれば、工作員としての適性や経験が豊富にある者の脳をそのまま素材とした方が、失敗のリスクも、後にかかる手間も少なくて済む。
大きな力を振るう事に慣れ、戦闘にも作戦行動にも慣れたサイボーグたちの脳は、WASPの軍部にとって、恰好の素材に映ったのだ。
そもそも、サイボーグのような違法人体実験の産物を残しておくこと自体、WASPにとって大きなリスクとなっているのは事実である。同じく人間の肉体の一部である脳を素材としているとはいえ、スクラップにでもしてしまえばただの鉄クズになってしまうアンドロイドならば、そんな事実はいくらでも隠蔽できるだろう。
似たような能力を持つアンドロイドが量産できるようになれば、もはやサイボーグなど必要ない。
斗岐は、それを知ってしまった。
そして不運にも、彼がこの秘密を知ってしまったことを、上牧にも知られてしまった。
斗岐は殺害され、未だ見つからぬ彼の遺体は、WASPの手によって持ち去られている可能性が高い。
それが彼の死の真相だ、と、和歌は語った。
「もちろん私たちも、和歌ちゃんのお話をすぐに信じたわけではありませんのよ」
一通りの話を終えてから、千鳥は一言、そう付け加えて軽く片手を振ってみせた。
「まあ・・・そうやろうなぁ・・・」
話が一段落した事を感じ取ったのか、それまで黙って聞いていた愛怜が、眉間のあたりに人差し指を当てて一言、唸るような声を上げる。そして、その傍らの香もまた、難しい表情で口元に手を遣り、僅かに首を傾げていた。
「んー、よーするに、ヤバいコト知っちまったヤツが殺されて、死体持ってかれた上に、脳みそリサイクルされちまってるってことかよ?」
「かなり簡単に言いますと、そういう事です」
頭を抱えながらも、彼なりの言葉で質問を投げた京に対し、徳也は穏やかな声音で答え、首を縦に振る。
「――姉貴はさ、なんでそんな事まで知ってるの?」
不意に、それまで沈黙を守っていたユイが、口を開いた。
窓に滲む首都の光を背景に腰掛けた彼の表情は、熱に浮かされたようにぼんやりとして、千鳥と徳也の方を見ているようで見ていない、一人だけ違う所に立っているかのような、遠い目をしていた。千鳥は、そんな彼の様子に妙な違和感を感じ、直感的に、問う。
「聞きたくありませんの?」
「どうして」
「聞きたくない顔をしていますもの。ご自分で質問しておいて」
千鳥は、テーブルに両手で頬杖をついた格好で、顔を少し斜めに傾けながら、どことなく探るような目をユイへと向けた。彼女が今まで見てきた中で、彼が怒りも苛立ちもしていないにも関わらず、事実を聞くことを拒否しようとする時は、大抵、その話題自体が彼にとって都合の悪いものである場合が多い。今目の前にあるユイの表情は、彼女の目から見て、概ね、そういった時の顔に近く感じられたのだ。
「・・・別に?」
唇の両端に笑みを浮かべ、軽く首を傾げて見せたユイは、澄んだ色の瞳を僅かに動かし、強く千鳥を見返した。
千鳥は、そのまま何も言わずに数秒、その双眸を見つめていたが、やがて諦めたかのように視線を外し、ふっと一息ついてから、香や京たちの方へと向きを変える。
「――和歌ちゃんは、斗岐が遺したこの遺書を見て、全てを知ったそうですわ。先程お話ししましたこと、全て」
そう言って、千鳥はシルバーのペンダントを握り締めていた手を、そっと開いてみせた。
細い鎖と二つの金属が擦れる音がして、彼女の手の中で、プレート状のペンダントトップが扇型に開き、その中に隠されたいくつかの文字を露にする。
その様子を眺めながら、徳也が口を開いた。
「WASPの監視を逃れるためでしょう、かなり巧妙に暗号化されています。水無瀬さんですら、それが暗号であると気付き、解読できたのは、かなり時間が経ってから――正確には、私達を呼び出す直前のことです」
「それ、見れんのか?」
興味津々、といった声音で尋ねた京に対し、徳也は静かに首を横に振ってみせる。
「いいえ。これは、水無瀬さんにしか開けないように設定されたファイルです」
「パスワード、教えてもらってねーのかよ?」
「・・・パスワードだけなら、何とでもなりそうなものなのですが。残念ながら、水無瀬さんの顔を認証しなければ、この遺書は開かない仕組みになっているようです」
「顔・・・?」
顔認証システムとは、旧時代の携帯電話などにも使用されていたセキュリティで、内臓のカメラで使用者の顔を認証することによってロックを解除するものである。現代の首都においては、より効率的な声紋認証や網膜パターン認証に圧され、あまり一般的ではないのだが、斗岐はあえて、この方式を使用しているという。
徳也は、横目でちらりとユイを盗み見ると、ふっと笑って続ける。
「声紋や網膜パターンでは、簡単に開けてしまう方がいらっしゃいますからね」
「・・・・・・」
徳也の言葉に、ユイは一瞬、彼の方へと目を動かしたが、わずかに唇の端を上げて同意とも取れる表情を作っただけで、特に何を言うわけでもなく、視線を逸らした。
徳也は、そんなユイの様子を視界の端に捉えながら、少し肩を竦めるような仕草をすると、おもむろにジャケットの胸ポケットに片手を入れ、現代にしては珍しいストレートタイプの携帯電話を取り出し、外部メモリーのスロットから小さな黒いものを引き抜いた。
「・・・まあ、遺書そのものはご覧になれませんが、解読した内容を書き出したものでしたら、水無瀬さんからお預かりしています。後ほどお見せしましょう」
徳也の手の中のMCD(Micro-Card-Disc)を珍しげに眺めつつも、納得したのか理解に苦しむのか、曖昧な表情を浮かべる京をそのままに、徳也は話を先に進めるため、香と愛怜へと視線を移した。
「ともかく、私たちは、水無瀬さんの依頼はもとより、事の真相について調査を始めました。警察の内部資料を始め、軍や医療機関のネットワークとデータバンクの隅々まで」
家族を捜す人々の声すらも静まり始めた一番街の病室に、徳也の柔らかで抑揚の少ない独特の声が木霊する。
ユイは、窓の外に降り始めた白い雪の影をぼんやりと見つめながら、口を閉ざしたままでそれを聞いていた。
「調べを進めていくうちに、私たちは、警察資料の中でも最も極秘とされるファイルの中から、斗岐さんの死亡時に書かれた死体検案書に辿り着きました。・・・この意味がわかりますか?」
「シタイケンアンショって?」
初めて聞く言葉ばかりの会話に困惑しているのか、振り返って訊く京に、香は、自らの持つ知識の中から、最もわかりやすいと思われる回答を選び出す。
「えっと・・・そうね、病院内で病気で亡くなったりした場合は、死亡診断書をお医者さんが書くんだけど、それ以外の・・・例えば事故や殺人なんかで亡くなった場合は、検視や解剖で死因を特定した後、死体検案書が発行されて――?」
と、そこまで説明してから、香はピタリと口を動かすのを止め、唐突に愛怜を振り返った。
「それはおかしいんちゃう? 『遺体も残らない』ぐらいの爆発やったんや。状況的に、死んだもんやとみんな思ってるし、WASPもそう言うてるけど、そんなんでも一応、遺体がなかったら、警察での扱いは『行方不明者』のはずやろ? なんで死体検案書なんか書けるん」
一瞬、答えを求めるかのように自分を見つめる香を一瞥し、愛怜は、眉根を寄せて顔をわずかに伏せたまま、横目で徳也へと視線を向ける。
「そ・・・そう。そうよね。遺体がなければ死亡は確認できないわ」
「その通りです」
徳也は、眼鏡の奥に優しい微笑みを絶やさぬまま、病室の白い壁に背中を預け、パチパチと数回、両手を鳴らしてみせた。
「水無瀬さんのおっしゃった通り、斗岐の遺体は存在していました。そして、死因は銃創からの出血による失血死。・・・さらに言いますと、軍から警察に遺体が引き渡された時点で、既に斗岐さんの脳は抜き取られていたようです」
その言葉に、香は明らさまに顔をしかめ、徳也から目を背ける。彼女の視線が行き着いた先には、相変わらずローチェストの上に座って黙り込んでいるユイの姿があった。
いつになく無口で、無表情に千鳥の手元のペンダントを眺めながら、ただ壊れた携帯電話を弄んでいる彼は、何か別の事に思いを巡らせているかのようにも見える。
香は何となく、そんな彼の様子を不思議に思い、そのまま視線を動かさずに見つめ続けた。
「――そして、私たちもまた、知ってしまいました。既にWASP内で稼働している、試作品としての一体のアンドロイドの存在、それを基にした戦闘用アンドロイド製造技術の研究内容、人の脳の人工知能化技術・・・さらに、その後に待っている、私たちサイボーグの末路までも」
「・・・・・・斗岐の遺体は?」
目線を下に落とし、ベッドのシーツを握り締めながら、愛怜は、絞り出すような、しかし強い口調で問う。
「残念ながら・・・その後の行方は掴めません」
「・・・・・・」
徳也の言葉に、愛怜はしばし一点を見つめたまま沈黙していたが、やがてゆっくりと顔を上げ、再び口を開いた。
「・・・ほな、和歌が言うてた『心臓』を分けるって話は?」
壁に反響して響く愛怜の声には、憤りと不信、そして様々な負の感情が色濃く現れ、それを聞く者に対して敵意すら感じさせる雪解けに湿った冬の空気がその言葉を飲み込み、一瞬、室内に冷たく研ぎ澄まされた緊張が張りつめた。
千鳥は、しばらく無言でティーカップの下のソーサーの縁を見つめていたが、小さく息を吸って顔を上げ、正面から真っ直ぐに愛怜を見据え、口を開く。
「・・・人の脳を取り出して解析し、人工知能として作り変えるためには、出来る限り新鮮で、ダメージの少ない状態の脳を使うことが理想的だそうですわ。実際、斗岐の脳は、亡くなってから摘出までの時間が長かったがために、修復と解析にかなりの手間がかかったようですもの」
愛怜の質問と千鳥の答えとが結びつかず、香と京は、話に耳を傾けながら、腑に落ちない様子で同時に眉をひそめた。
しかし、千鳥はそんな二人を気にするでもなく、言葉を続ける。
「『心臓』を止めるという方法であれば、外傷による脳の損傷の心配はありませんし、死亡するであろう正確な時刻まで、確実に予測できますでしょう?」
彼女の言葉を継ぐかのように口を挟んだのは、いつになく言葉少なに話を聞いていたユイであった。
「――それに、僕らが感づいて抵抗したところで、手間無く確実に殺せるしね」
彼は、立てた片足の膝に頬を当てるような格好で、斜めに千鳥を見下ろしながら、手の中の携帯電話をパチンと音を鳴らして折り畳む。
ユイの言う通り、個別操作が出来るよう分割された『心臓』をWASPに握られてしまえば、彼らサイボーグの自由は完全に制限されることになるだろう。
WASPのように軍隊をも要する巨大企業ならば、例えそれが戦闘に特化したサイボーグであろうとも、一人の人間をこの世から葬り去る程度のことは、多少時間と人員を要することはあっても、不可能な作業ではない。一人一人が全く異なった能力を持つ以上、それぞれに得手不得手があることは避けようのない事であり、それさえ把握していれば、人であろうとサイボーグであろうと、攻略する方法はいくらでも見つかるであろう。
しかし、逆に、それぞれ異なる能力があるということは、互いにそれを補い合うことも可能だということでもあるのだ。WASPにとって最も頭の痛い展開は、一人でもそれなりに厄介な彼らが、単独ではなく集団となって対抗してくることであり、現在に至るまでも、それを避けるため、いくつかの策が講じられてきたわけである。
その中でも最大の武器となったのは、言わずと知れた『心臓』システムであった。
上牧大樹と全てのサイボーグたちが共有してきた一つの命の源は、B−21研究所に収容されていた子どもたちにとって最大の抑止力となり、その後生き残った八人のサイボーグたちをWASP内に留まらせるための足枷としても利用されてきた。
そして、上牧大樹がWASPを掌握した後の『心臓』は、共有されているがゆえに拘束力と強制力を弱め、逆にある程度の自由をサイボーグたちに与える結果となったのだ。
だが、万が一にも、このまま『心臓』の持つシステム自体が作り変えられ、一つの命から個々のものへと変換されたとすれば、これまでユイや和歌たちが懸念していた通り、状況は一変する。上牧が自らの命を脅かされることなく他の者の『心臓』を操作することができる以上、その意に沿わぬ者は、いかに頭数を揃え、周到な対抗策を用意しようとも、それが彼に知れた時点で確実に命を落とすことになるだろう。
かといって、大人しくWASPと上牧の意向に沿うよう生きていたとしても、もはや彼らにとってサイボーグたちは、アンドロイド開発に使用する素材の一つでしかなく、いずれは用済みとなる存在に過ぎないのだ。
命を握られ、自由を奪われ、抗うことすら許されずただ生きていても、その先に希望などありはしない。
「何もお教えできなかったのは・・・申し訳なく思っております」
自分を見つめるユイの視線を感じながら、千鳥は、一言そう言って顔を伏せ、握り締めていた斗岐のペンダントをテーブルの上に置いて、軽く唇を噛んだ。
「どうして何も相談してくれなかったの? そんな・・・大事なこと」
事の大きさに気持ちが付いてこないのか、困惑しきったような表情で尋ねた香に、千鳥は床に視線を固定したまま、静かに答えを返す。
「・・・ある程度確信を得てからでないと、お話できる内容ではないと思ったのです」
「でも・・・」
反論しようと口を開きかけた香を静止するかのように、徳也が軽く片手を挙げ、口を挟んだ。
「なぜなら、私達が水無瀬さんからお話を伺った頃にはもう、皆さんは『心臓分割』の一件で完全に分裂状態にあったのですから」
「・・・え? それって・・・」
後悔すら感じさせる声音で言った徳也の台詞に、京は、思わず小さく声を上げて、眉根を寄せる。
時系列的に少し引っ掛かるものを感じ、一同の顔を見回すと、唯一目が合ったユイもまた、不審そうな表情で彼を見返したが、やがて、わずかに小首を傾げるような動作をして視線をずらした。
そんな二人の様子を視界の端に映していた千鳥が、少しだけ目を細め、小さく息を吸って口を開く。
「ええ・・・不思議ですわね。和歌ちゃんが遺書を読んだのは、私たちに内容を相談する直前でしたはずでしょう? それは嘘ではないと思いますわ」
千鳥の目が、京を見据え、そしてユイへと移動する。香は、ようやく彼女の言わんとしている事に気付き、小さく息を呑んだ。
「・・・ですのに、私たちを含め、皆さんが『心臓分割』のお話を和歌ちゃんから聞いたのは、それよりも以前のことだったというわけですわ」
普段のにこやかな微笑みなど忘れてしまったかのような、緊張と冷たさを感じさせる声音でそう口にすると、彼女は、斜め下の床に視線を落とし、言葉を続けた。
「遺書を読んでいない、軍部の計画も斗岐の死の真相も、何も知らなかったはずの時期ですのに、和歌ちゃんは・・・・・・少なくとも『心臓分割』についてだけは、既に知っていたのです」
トーンを落として吐き出された千鳥の言葉が、皆の目前を隙間風とともに通り抜け、空に吸い込まれるようにして消え失せる。外の風に打たれて揺れる木枠の窓が、短かな沈黙すらも惜しむかのように、ガタガタと騒がしい音を立てた。
全てが千鳥たちの言う通りだとすると、彼女たちが和歌から遺書について相談を受けた時期は、斗岐の死後、約二ヶ月後。その当時、既に和歌と愛怜たちが『心臓分割』の一件で対立を深めていたというのであれば、和歌は、彼女は遺書を読んだとされる時期よりも以前に、『心臓分割』について皆に語ったということになる。
では、彼女は一体、いつ、どこで、上牧の『心臓分割』の研究の存在を知ったというのだろうか。
そもそもこの疑問は、かなり早い段階から皆の胸の内にあったものだ。それを問う度、和歌は回答を拒否し、その結果、愛怜や和高の不信を買う一因となり、仲間内でのいらぬ闘争を引き起こしたのだ。
「・・・どうして・・・?」
「もちろん、私達も不審に思いました。この間まで『心臓』がどうの、といったお話をされていた方が、突然、斗岐さんの遺書を読んだと大泣きされたわけですから」
独り言のように零れ落ちた香の問いに、徳也は、胸の辺りで組んだ両腕を解き、おもむろに眼鏡を外して両手で弄ぶような仕草をしながら、軽く肩を竦めてみせる。元々視力は良い方なのか、特に不便を感じているようには見えない。
「ですので、先ほども申しました通り、私達は水無瀬さんの言葉も遺書も、すぐに信じたわけではありませんし、むしろ初めから疑ってかかったような部分がありました」
「・・・だから、私らには何も言わんで動いたんやな」
真直ぐに自分を見据え、ぽつりとそう言った愛怜に対し、徳也は、手の中の眼鏡をテーブルの上にそっと置いてから、一瞬、微笑みのような表情を浮かべて頷いた。
「そうですね。・・・結局、いくら問い質したところで、水無瀬さんから『心臓分割』についての情報源を得ることはできませんでしたし。それに、彼女は元々、どこで上牧に繋がっていてもおかしくない方でしょう」
ほぼ一年前、上牧大樹の社長就任と斗岐の死、さらに、上牧と八重の結婚という大きな事件が、わずか数か月の間に立て続けに起こった。
和歌が、『心臓分割』について口にし始めたのは、その混乱も冷め遣らぬ頃の出来事であった上、上牧は、彼女との因縁が深い人物である。まして、和歌がその情報源や根拠を隠すような行動を繰り返すとくれば、彼女と上牧が共謀して何か事を起こそうとしているのではないか、と勘繰る者が現れても不思議ではない。千鳥や徳也を含め、誰もが彼女に疑いの目を向けたのは、当然の成り行きであった。
「私達自身が信用してもいない方のおっしゃる事を、そのまま皆さんお話ししたとしても・・・結局は、『心臓分割』の一件と同じく、混乱と分裂を招くだけかと。そうなれば、逆に身動きが取りにくくなりますので」
暗く低い声音でそう話した徳也の顔を、千鳥は沈んだ表情のまま、そっと見上げる。彼はそんな彼女の表情に気付き、わずかな間だけ視線を合わせたが、すぐに顔を上げて前を向き直した。
彼ら特有の『テレパシー』で何か会話でもしたのだろうか、他の者には何も聞こえはしなかったが、徳也が目を逸らした後、千鳥は少し頷くような仕草をしてから、再び目線を低く落として両手をテーブルの上に置き、小さくため息をついた。
「――勿論、調べていくうちに、斗岐さんの遺書の信憑性は証明されましたが・・・」
そこで徳也は不意に言葉を切り、胸の底から吐き出すような深い呼吸をすると、片手を額に当てて眉間に皺を寄せる。
「・・・けれど、気がついてみれば、私達二人に対する軍部の監視は、想像以上に厳しいものとなっていたのです」
WASP内部の主要機関を相手にハッキングや侵入行為を続ければ、いくら訓練された彼らといえど、その痕跡を全て拭い去ることは難しい。彼ら自身も気付かぬほどの周到さで、WASPは彼らを特定し、その存在を消し去るべく忍び寄っていたのだった。
「それで、いなくなったんやな」
ふと千鳥を振り返り、そう呟いた愛怜に、彼女は静かに頷き、珍しく苦い表情で答えた。
「これでも私、一週間は生死の境を彷徨いましたのよ?」
着ていたセーターの首元を捲り、鎖骨の下に残る生々しい銃創の痕を衆目に晒しながら、千鳥は、少し膨れたような顔をしてみせる。
「・・・千鳥さんが重傷を負い・・・とても切り抜けられるような状況ではありませんでした。WASPの目の届かない所といえば――首都の外くらいです」
重苦しい静けさの中、徳也の淡々とした声が低く響き渡り、張りつめたような空気がその場を支配する。夜の帳が下りた窓の外には、白く輝く雪が再び積もり始め、吹き荒れる北風が甲高い音を立てて通り過ぎ、一つしかない窓を揺らした。
「――幸か不幸か、首都を去るより早く、私達は、調査で得た情報の全てを、水無瀬さんに渡すことに成功しました」
「当然、私たちがいなくなれば、和歌ちゃんは皆さんに協力を仰ぐはずだと、そう思っていましたわ・・・」
千鳥はそう呟くと、沈痛な面持ちで顔を伏せ、両手を強く握り締める。
「・・・でも、和歌は、私らには何も教えんかった」
厳しい顔つきで、シーツの上に出来た皺を睨むように見据えながら、愛怜は突き刺すように強い調子でそう言うと、静かに顔を横に向け、眼鏡の薄いレンズに隔てられた徳也の瞳へと視線を移した。
「ええ・・・そうですね」
「・・・結果、内輪でモメて和高が死んでも、や」
吐き捨てるように愛怜の口から出た言葉は、彼女の声とは思えないほどに低く、重い響きを持って室内に木霊した。耳に響くようなその声を聞き、ユイは、顔の向きも変えないまま、無言でわずかに目を細め、咽の奥に詰まったような息を飲み込んだ。対して愛怜は、一瞬ちらりと彼のほうに視線を向けたが、二人の目が合うことはなかった。
「全部言ってくれてたら、私らだって・・・」
愛怜は、そう呟くなり突然口を噤み、唇の端を強く引き結んだかと思うと、再び俯いた。ベッドの上に投げ出された彼女の右手を、冷え切った香の手が、そっと包み込む。
「確かに、最初は・・・私たちに言えるような内容でも、状況でもなかったのかもしれない」
静まり返った室内で、香が突然、身を乗り出すようにして愛怜と徳也の間に身体を割り込ませ、問う。
「でも・・・千鳥や徳也も色々調べて・・・・・・二人ともいなくなって・・・それでも和歌は、何も言ってくれなかったわ。それはどうして?」
千鳥と徳也が姿を消した後になっても、和歌の口から、全ての真相が語られることはなかった。
そうこうしている間にも、『心臓分割』を巡る仲間内での対立はさらに深まり、挙句の果てに、和高を失うという最悪の結末を導き出したのだ。彼女が仲間の命を失くしてでも無言を貫き通した事には、一体何の意味があるというのだろうか。
追及するかのような目で見つめる香の視線を一身に浴びながら、徳也はそれでも怯むような様子は見せず、むしろ唇の端に柔らかな微笑みすら浮かべ、わずかに首を横に振った。
「・・・それは、私にもわかりません」
静かにそう答えた徳也に、愛怜は香の肩越しに彼を見遣り、そして、その隣の千鳥へと視線を移す。
「・・・・・・私たちは、逃げてきてしまったんですもの」
少しだけ顔を上げ、千鳥はそう呟くと、静かに愛怜の方を振り返る。
「和歌ちゃんを信じてあげることもできなくて。調べたことは全て、一方的に押し付けて・・・・・・その後、独りになった和歌ちゃんが何を考えて、どう行動したかなんて・・・」
普段の微笑の欠片も見えない悲しい表情で言った千鳥に、香は、肩と目線を下に落とし、小さな声でボソボソと、反論めいた言葉を紡いだ。
「千鳥たちはそういう気持ちかもしれないけど・・・でも・・・」
愛怜の手を握ったままの右手に無意識に力を込め、香は小刻みに首を左右に振って息を吐くと、まるで涙声のような声を絞り出した。
「どんな理由があったって・・・こんなの嫌よ。だって和くん・・・死んじゃったのに」
あえてユイの方は見ないように意識しながら、香はそこで一度、両目を閉じる。しばらく黙ったまま床を見つめていたユイは、彼女が泣いているのかと思い、わずかに頭を動かして振り返ったが、長い髪に隠れて見えない相手の表情まで確認することはせず、すぐに目を逸らした。
「それに・・・和歌は――」
言いかけて、香は軽く下唇を噛んで口を噤んだ。
思い出したのだ。昼間、戦闘の痕の残る三番街の路地で、和歌が言い放った言葉を。
『愛怜と決着つけてからじゃないと、言っちゃいけない事になってんの』
考えれば考えるほど、香の胸の中にわだかまる疑惑は、その拡がりを増すばかりである。
その台詞はまるで、全てを隠し、口を閉ざすことが、彼女の意志で行われているわけではないかのように聞こえた。では、それは一体、誰の意志だというのか。
これまでの流れと、千鳥たちの話を総合して考えても、やはり、頭に浮かぶのはただ一人、上牧しかいない。
上牧は、和歌にとって、師であり、恋人でもあった男で、彼女の過去にも、現在にも、多大な影響を与えたであろう存在である。さらに今となっては、妹の夫であり、さらに、実子の父親でもある可能性が高いとまできている。
元々、疑わしい部分が多すぎるのだ。和歌が何らかの意図を抱き、上牧の考えに沿って、皆を撹乱させる方向へと行動していたとしても、今更、誰も驚きはしないし、むしろそうであった方が、皆も納得がいくのかもしれない。
「それに、何かあんの?」
思わず黙り込んでしまった香に、続きを促す言葉を掛けたのは、白い床に胡坐をかいた格好の京であった。彼は、少し赤みを帯びた目でベッドの上の香を見上げ、怪訝な顔をしている。
「・・・何でも・・・ない」
そう答えたのは、和歌を庇いたかったからか、自分自身が抱く和歌への猜疑心をユイに知られたくなかったからか、それともただ、何となく口にするのが怖く感じられたからなのか。香は、傍から見ても分かるほどに沈んだ表情をしたまま、無理をして作った笑みを浮かべて首を振ると、胸の内に渦巻く疑念を押し殺すように、口を閉ざした。
「――まあ、勿論私達も、ただ漫然とスラムで時を過ごしていたわけではありませんよ」
香と愛怜の間に視線を行き来させ、最後にユイの方へと目を向けながら、徳也は手近な椅子に腰を下ろし、口元だけで薄く微笑んでみせる。
「水無瀬さんに見せていただいた斗岐さんの遺書の一節に、少々気になる部分がありまして。そのあたりを探っていたわけなのですが」
そこで、徳也は、テーブルの上の眼鏡を手に取って掛け直し、向かいに座る千鳥と視線を合わせた。
「まあ、斗岐さんがヒントを遺してくれたといいますか・・・少なくとも、水無瀬さんが『心臓分割』についての情報源を口に出来なかった理由くらいは、探り出せました」
「へぇ・・・すごいね」
扉の磨りガラスの向こうに感じる気配に注意を向けながら、ユイは、まるで人事のような口調で言う。
「・・・徳也さんの得意分野は、情報戦ですもの。あなたの方が得意かもしれませんけれど」
床の上に目線を固定した状態で、千鳥は、暗いながらもどこか棘の感じられる声音で呟いた。それを聞いてユイは、膝に額をつけた格好のまま、無表情に小さく嘆息する。
「そんで? 和歌の何がわかったっての?」
「・・・・・・」
少し退屈そうにも見える京の問いに、徳也は唇に乗せた笑みすらも消し去り、真剣な面持ちでしばらく沈黙すると、視線を落とした。
「・・・あんまり、いい事じゃないっぽいね」
冷えた窓ガラスに軽く頭を打ち付け、ユイは、諦めにも似た、興味を感じさせない声音で呟き、薄く笑う。そんな彼の視界の中心で、千鳥は、ただ無表情に口を閉ざしたまま、一点を見つめるようにして目を伏せ、まるで心を持たぬ人形のように、小柄な体を椅子に預けていた。
「そうですね・・・いい事ではありません」
ここ数十分の間は途切れていたはずの救急車のサイレンが、再び夜の静寂を引き裂いて響き渡る。断続的に窓から射す赤い光に照らされて、徳也は、ふと顔を上げ、わずかに口角を上げてみせる。
「水無瀬さんのお仕事は、人工臓器の研究開発・・・でしたね。では、『心臓』は、臓器のうちに入ると思いますか?」
「・・・え・・・?」
まるで冷たい隙間風が入ったかのように、何かが皆の体温を一気に奪い去って行った。
凍りついたように見つめる一同の前で、徳也は一瞬、躊躇するかのように視線を彷徨わせたが、やがて意を決したように、組んだ両手に力を込めて、口を開いた。
「――私が調べた限りでは、少なくとも斗岐さんが亡くなるまで、中心となって『心臓分割』の研究を進めていたのは・・・上牧ではなかったようです」
「・・・ちょっと、やめてや・・・」
話の流れから何となく予想はしていたものの、あまりにも不穏な空気に耐え切れなかったのか、愛怜は、微かに苦笑いのような表情を浮かべ、狼狽した様子で声を漏らした。
唐突に止んだサイレンの余韻が、静寂の中に溶けて消える。
最新とは言い難い電灯の白い光の下、重く纏わりつくような空気が、まるで生き物のように圧し掛かり、誰もが動きを止めた。
「・・・和歌ちゃんは、最初から知っていて当然でしたの」
一切の感情も見せぬまま、千鳥は顔を上げ、独り言のようにそう言った。彼女が伸ばした左手が、やがてテーブルの上のペンダントに触れ、小さな金属音を立てる。
時間が止まったかのようなその空間に、ユイが無意識に携帯電話を開け閉めする音が何度も響き渡り、皆の耳梁に木霊した。
「だって、言えなくて当然でしょう・・・?」
そして沈黙の中、千鳥は、ためらうことなく言葉を継ぐ。
「元々『心臓分割』は・・・和歌ちゃんが始めたことだったんですもの・・・」
細い鎖に繋がれたペンダントトップと指輪を、指先で絡め取るようにして撫でながら、彼女は、少しだけ微笑んでみせた。
|