(このページ「薄幸の名馬たち」の主旨)
競馬には一般に言われるようなロマンはない。競馬の主役はあくまでも騎手であり、また予想をして馬券を買う競馬ファンである。 レースを見るとき、我々は本当に馬を主役として見ているだろうか。例えば4コーナー、大外から一頭の馬が上がってきたとする。直線、その馬が抜け出したところに、最内より一頭、馬群を縫うようにして並びかけ、両馬一体のままゴールイン。その時、我々は、馬の鼻しか見ていない自分に気付く。競馬ファンにとってレースは、F1と同じで、マシンは性能、セットアップのみが注目され、あとはドライバーの技術、駆け引きの勝負である。昨年の有馬記念、勝ったのはサクラローレルだったが、ヒーローは彼自身ではなく、境勝太郎調教師、横山典弘騎手、そして馬券を的中させた競馬ファン達であった。
競馬はロマンと言われるが、馬を育て、走らせるのは、金のためと人間の名誉のためであり、決して馬のためではない。ファンだって馬を騎手に操られる機械として見、結局、馬券予想に終始している。レースが終わった後、自分を感動させるために「競馬はロマン」と口にする程度だ。新聞だって、勝利ジョッキーのインタビューや各騎手の談話等は載せるが、レース後の馬の様子については、次のレースの予想につながる物以外載せない。これがロマンか?
とすれば、競馬ファンにとって競馬の本当のロマンはどこにあるのか?
人間の利益と切り離されたとき、初めて馬は主役になる権利を得るのだ。
テンポイントが、サクラスターオーが、ライスシャワーが競争中止したとき、日本中の競馬ファン、競馬関係者の殆どが「かわいそう」と声を上げたであろう。そう、あの瞬間、彼らは生まれて初めて主役になれたのである。
「同情」以外に、馬が主役になれる物がないのは、あまりにも哀しい。しかし、これが現実である。
私は、出来る限り馬中心のページを作ろうと思い、このページを書いた。私の思い出の中で、主役にしてもらえなかった馬達、脇役にさえさせてもらえなかった馬達、そして主役の座と引き替えにその生命を天に捧げた馬達・・・このページの主役は彼等である。