はじめに
近年、日本経済の高度成長期も終わり、安定成長期にあるといわれているが、高度経済成長期を通しての人口変動の波は全国に及び、地方農山村においては過疎現象が、大きな社会問題としてクローズアップされた。日本各地の山村や離島でおこった急激な人口流出と、その結果もたらされた地域社会の生産および生活基盤の崩壊という過疎問題は、地域的な条件の違いに伴い、さまざまな現象形態を示しつつ展開してきたのである。だが、我が国のいわゆる過疎地域(過疎地域対策緊急措置法の適用市町村)における、昭和30年代後半以後の急激にして大規模な人口・世帯数の減少は、昭和40年代後半に入って明瞭に鈍化傾向を示すようになった。今日では経済的変動の波も一段落し、廃村化現象も幾分収束化の傾向を見せてきている。それとともに、かかる地域に対する社会的関心も、最近では若干薄らいで来ているように思われる。
だが、全般的な人口減少の緩慢化傾向のなかで、過疎は第二段階に突入したと言われている。すなわち、激しい人口流出の結果として老人を中心とする家族形態と年齢構成の偏りが顕在化し、人口減少には社会減少よりも自然減少が卓越する質的変化がみられる。しかし、その一方、都市に近接した地域では、都市からの人口流入により過疎指定地域から脱却する自治体も現れた。
また、地域や集落を単位として見てみると、なお依然として人口・世帯数の流出はつづいており、集落移転や廃村化に進むものも跡を絶たない状態である。廃村現象は元来、集落の立地限界いっぱいにまで小集落が高密度に分布し、かつ交通的障害の強い地形的な隔絶地に集中的に生じているものとみなすことができるが、その発生には全国的および地方的な社会・経済の動向が強く作用しているものと考えられる。すなわち、廃村化は主として人口流出、特に挙家離村の進行によって招来するものであり、それは外部地域、なかでもより直接的には隣接地域や移住域の地域的性格の変容に大きく影響されている。
このように、過疎問題は新たな局面を迎えており、今日の過疎地域をとりまく状況に至るまで過疎地域内における変化は一様ではなく、様々な地域的差異を示しながら展開しているのである。
過疎地域の地域的多様性が大きいことは、マクロレベルの研究において早くから指摘されてきた。1955〜65年の人口・世帯減少をいち早く検討した半田(1967)1)は、「西日本型」「東北・関東型」「中間型」といった過疎の地域差を明らかにし、岡橋(1981)2)は半田の指摘した人口減少の地帯性とともに、大都市圏を中心とした人口変化パターンの広がりにも注目し、過疎はそれら二重の構造によって規定されていることを指摘した。その後、これら過疎の地域性の指摘に対する要因についていくつかの見方が示された。過疎進行の段階説3)、労働市場展開の差4)、村落規模の差5)などがそれである。しかし、これらの見解はいずれも一部の地域におけるデータ分析による仮説に過ぎず、人口減少の地域的差異との関連を広範囲にわたって検討した研究は少ない。このため、人口減少の地域差自体をまず具体的なデータで詳しく検討してみる必要がある6)。
これまで過疎地域研究の多くは、集落を単位とするミクロレベルによる過疎の実態をとらえることに主眼が置かれていた。それらは1960年代の勝田(1964)7)、原田(1966)8)による先駆的な研究に端を発し、挙家離村9)、村落構造10)、労働市場11)、人口移動12)などに焦点があてられ、それぞれ研究が積み重ねられてきた。しかし、これらの研究は過疎化過程とその実態把握を集落レベルや世帯レベルの詳細な記述に終始しており、個別事例の枠内にとどまっていると言わざるを得ない。ミクロレベルの研究の中で、過疎の地域性について論じられた研究としては藤田(1980)13)らがあげられる。この研究では集落間の地域差は中心地への距離と就業構成が意味を持つことが明らかにされているが、彼らの分析範囲は二つの山村に限定されており、山村内の地域差は明らかになったものの、山村間については未だ研究の余地が残されていると思われる。
集落や町村内地区にとどまらず過疎化の地域的差異について注目した研究は、我が国では神前(1985)14)と岡本(1985)15)があるのみである。神前は富山県の被合併山村集落の人口減少をもたらしている要因を検討するために、人口減少率を集落の位置と規模を示す6変数を用いての重回帰分析で検討している。また、岡本は広島県の過疎地域を独自の方法によって設定し、農業集落を単位とした過疎の進行度の差による類型や、重回帰分析による要因分析を行っている。この研究においては、分析単位を市町村の他に農業集落1140集落を用いており、これまでの1町村内の集落間の比較ではなく、メソスケール内の全集落を対象としている点が注目される。
これらの研究をみると、過疎地域内部でも過疎の進行度に地域差があり、一般的に認識されている過疎地域の空間的理解をさらに複雑にしている。これらの問題は従来から指摘されてはいるものの、資料の制約などにより上記の研究などによってアプローチされているに過ぎない。また一方で、過疎問題はマクロスケールに展開するメカニズムが存在すると同時に、集落や世帯といったミクロな要因によるところも大きいことも明らかとなっている。過疎問題とは地域問題であり、地域によって問題点や問題発生のメカニズムは異なるはずである。
そこで、本稿では、近畿内帯の中でも最も廃村が集中的に発生している丹後半島の山地、その中でも特に弥栄町の等楽寺集落、すなわち高原・畑・吉津を取り上げ、明治以降における挙化離村・廃村化の過程と移住域の特性について検討することにする。また、等楽寺集落を取り巻く本郷・端郷の関係が、挙家離村・廃村化に影響したのかについても検討する。廃村における従来の研究は、主に土地台帳を中心とした数字統計上の考察が行われてきた。また、廃村した現地の調査のみ行われ、移転先までの実態調査までは行われていない。そこで、私は廃村した現地のみだけではなく、移転先における人々の生活ぶりや廃村にいたった経緯など、移転住民の生の声を重視しながら、今後研究を進めていきたい。さらに、廃村時の集落を復元することにより、現在との違いをより一層明確にしていきたい。また、等楽寺集落を取り巻く本郷・端郷16)の関係が、挙家離村・廃村化に影響したのかについても追求していきたい。
第1章 研究地域の概観
第1節 弥栄町の概観
弥栄町は、京都府北部(第1図参照)、丹後半島の中央部に位置し、京都市から150km離れた奥丹後と呼ばれる地域にある。東は与謝郡伊根町・宮津市、南は中郡大宮町・峰山町、西は網野町、北は丹後町に接し、日本海に面していない町である。当町の中央部には金剛童子山があり、それより西(旧弥栄村)は平坦であるが、東(旧野間村)は急峻な山地となっており、また同山をはさんで西に竹野川、東に宇川が南北に貫流している。町域の大半は花崗岩・安山岩の山地と高原が占め、西部にわずかに竹野川が作る河谷平野があり、耕地が開けている。集落は主要地方道峰山丹後線と同線から分岐する2,3の府道沿いに点在する。(第2図参照)
町域は出雲文化圏に入り、早くから開拓され、平城宮跡より出土した木簡にも当町域に比定される地名が見られる。また当時から織物と米が特産であり、現在もその伝統を引き継いで「丹後ちりめん」、「弥栄米」として名高い。
第2節 気象・風土
弥栄町の気候は典型的な裏日本型で、秋から冬にかけては、北西の強風が吹き、雨量も多い。俗に「浦西」といい、昔から「弁当を忘れても簑笠を忘れるな」といわれている。気温は概して温暖であるが、冬季は必ず降雪があり、時には1メートル余りの積雪を見ることがある。山間部では2メートルを越すことも珍しくない。そのため冬季の交通は途絶えがちで、徒歩でも難渋しなければならないことがしばしばある。
このように本町は古来から相当な降雪地帯にあり、毎年のように大なり小なりの損害を受け、数年ごとに家屋、農作物、森林等に大きな被害があった。昭和2年3月7日に発生した奥丹後震災では、無数の家屋倒壊や衣食住の物資・施設の焼失、そして多数の死傷者を出し、大きな被害を受けたが、その原因の1つに、降雪のため屋根の重量が大きかったことも挙げられている。
ことに昭和38年の雪はまれにみる豪雪で、山間部では積雪2メートルを越し、家屋全壊5棟、半壊7棟、農作物被害1億1千余万円、畜産被害200万円、森林被害730万円に達する大被害があった。この豪雪の苦しさに耐えかね、本町山間地帯の住民たちが離村に踏み切りはじめ、全世帯が離村した部落も出たのである。17)
第3節 弥栄町の沿革 1.〈近世〉−江戸期の村々−
弥栄町域に属する近世の村々は、溝谷・外・等楽寺・吉沢・芋野・堤・和田野・木橋・鳥取・黒部・船木・国久・井辺・小田・与謝郡野間(須川・野中)の各村で、総村高9,512石余であった。
溝谷・外・等楽寺・吉沢・木橋・井辺・野間・和田野の各村は宮津藩領、芋野・堤・鳥取・黒部・船木・国久・小田の各村は、はじめ宮津藩領、のち久美浜代官所の支配となる。また、鳥取・和田野両村は寛文9年(1669)から延宝9年(1681)に御蔵入生野代官所支配下となり、吉沢村は宝暦〜天保年間(1751〜1844)一部が但馬出石藩領となった。
当町域の村々は藩主・代官の交代に伴って目まぐるしいばかりに所属がかえられた。この間、宮津藩領は延宝9年に約3割の延高が行われて領民は飢饉と重税に泣かされた。文政5年(1822)の宮津藩領百姓一揆は、藩と結託した村方有力大庄屋・出役庄屋の家々の打毀を行いながら大デモンストレーションを行ったが、同年12月17日には、竹野川流域の村々を通って島溝川・網野・浅茂川各村を経て最後は木津村に達した。その間、当町域の溝谷・木橋両村の大庄屋・出没庄屋も狙われたのである。
2.〈近現代〉−行政区画の変遷、弥栄町の成立−
慶応4年閏4月から久美浜代官所支配下の村々は久美浜県に所属、明治4年7月廃藩置県により旧宮津藩に属する村々は宮津県となり、同年11月、両県に分属した村々は豊岡県に編入、第10大区に編成された。与謝郡にあった野間地区は同県第12大区に編成された。当町域は同9年8月京都府の管轄下となった。
明治22年市制町村制の施行に伴い当町域は吉野・深田・溝谷・鳥取・野間の5村となった。いずれも戸数300戸ほどの小村であったため、大正期から合併が考えられたが、竹野川の水害防備や利水問題などのため各村とも消極的であった。しかし、治水・利水の改善により紛争の要因は除かれ、また、昭和恐慌の深刻な打撃は協調の気運を呼び起こし、府知事の強い指導もあって、昭和8年、ついに吉野・深田・溝谷・鳥取の4か村が合併、弥栄村が成立したのである。
与謝郡の北西部の野間村は、古来、竹野郡との交流が密で、明治22年の市制町村制実施以来竹野郡編入が問題となってきた。同村の大石地区は同32年、竹野郡八木村(現丹後町)に編入。昭和23年、与謝郡日ケ谷村に編入された成谷地区を除いて、同村は竹野郡に編入されたのである。
町村合併促進法の施行と、町政移行のためにも弥栄・野間両村に合併の必要性が生じてきた。昭和29年に合併準備委員会が発足し、翌30年3月、弥栄町は誕生したのである。同年の弥栄町の面積は79.76ku(うち旧野間村35.34ku)・人口8,039人(同1,305人)・戸数1,546戸(同252戸)であったが、昭和50年の国勢調査では、6701人・1,630戸となり、人口減少の反面、戸数の増加という結果が現れた。核家族化や町の中心部の溝谷地区での団地造成によって戸数は増大したものの、景気の変動を受けやすい機業以外に特色ある産業もない上、昭和38年・同50年の豪雪の影響もあり山間部の著しい人口減少を招いたのである。この間に住山・吉津・畑・高原・小杉の各地区が廃村となった。離村した人たちは、主に溝谷・鳥取などの町の中心部に移住し、多くは機業に従事している。このため人口の減少は同35〜40年に580人、同40〜45年は329人、同45〜50年21人と、町全体では過疎化減少は収まってきている。
廃村となった住山地区には、丹後町上野から大宮町三重までの丹後半島を南北に貫く「丹後縦貫林道」が通じている。そのため、町では同地区に大規模な森林公園設計計画をたて、丹後半島森林公園(スイス村)として昭和53年に開設した。人口減少の著しい野間地区には昭和47年2月から町営バスを運行し、また機械化された除雪対策、さらには高冷地に適した農作物の導入など過疎地対策が講じられている。
平野部においても、昭和40年以来、米・チューリップを主体にした農業構造改善事業がはじめられてはいるが、農業人口は昭和25年の3,475人が同45年には1,390人と急減している。一方、製造業は同25年の407人が同45年には1,603人と急増している。町の製造業の8割は機業で、ちりめん生産に従事しているが、1事業所あたりの織機台数は約4.4台(昭和48年)である。
弥栄町の面積の6割を森林が占めているが、林業は不振である。しかし良質のアカマツが多く、野間は府下唯一のフクジュソウの自生地である。
道路は、丹後海陸交通バスの連絡がある主要地方道峰山丹後線が幹線となり、ほかに府道9路線が通じている。明治期までは宮津方面には岩滝街道(現府道網野五十河宮津線)が利用されていた。
町政施行以来、人口減はあったものの、住みよい福祉の町を目標にした歩みは諸成果をあげている。清掃工場・屎尿処理場も完成し、簡易水道の普及率は90%以上、僻地中核病院の指定を受けた弥栄病院も昭和51年に新館を完成した。18)
第4節 等楽寺集落の概観 等楽寺は、弥栄町の南部に位置し、南は中郡大宮町に接する。金剛童子山(613.4m)や郡境の高尾山(620.4m)などの山々に囲まれ、北西流する溝谷川沿岸の狭小な河谷の中央部に、ほぼ塊村状に集落が立地している。川沿いに主要地方道網野岩滝線が走り、往古は往来も頻繁でにぎやかであった。沿岸の狭い地に水田があるほかは山林が広がっている。
東部は、町の中央部にある金剛童子山から続く高原状の山地で、ここに11の端郷が存在した。しかし、明治期以降離村が続き、第2次大戦後も高原・畑・吉津の3地区が廃村となり、現在は主要地方道に沿った南部の堀越を残すのみである。この堀越も昭和20年の28戸が同50年には11戸となり、減少の一途をたどっている。このほかに3,4戸の岩野、ミイガクボ、芦谷、二俣、オサズ、六谷、中尾引等7つの小部落があったが、明治30年ごろには全部離村したと、古老の話がある。このうち六谷は明治20年ごろまで、中尾引は同30年ごろまで残存していた。
産業では機業を中心とした兼業農家が多い。平成2年の国勢調査によると、同集落の30%が農業に、34%が製造業に従事している。
学校教育においては、集落の立地条件から次のような措置が講じられたのであった。
明治5年学制が頒布された当時、溝谷、外村及び等楽寺の三カ村は合併して一校となし、小学校を設立するよう勧告がなされた。しかし、等楽寺は位置の問題で、部落が散在し児童の通学が困難であるとの理由から、合併案がまとまらなかった。その結果、溝谷及び外村を学区とする溝谷小学校と、等楽寺単独の等楽小学校がそれぞれ設立されたのである。等楽小学校は、等楽寺、堀越、吉津、畑、高原等の等楽寺村を学区として、明治7年6月に等楽寺の民家を借りて創立されたのであった。
この等楽寺村には、七仏薬師の1つの薬師如来を本尊とする曹洞宗等楽寺がある。また、竹野郡の高峰金剛童子山がそびえ、往古は霊場として唱えられ、宇多天皇の時、廃村となった高原に僧の行恵禅師を開基と称する生蓮寺があった。しかし、現在は廃寺となっている。当地区には江戸期以来の大神楽・獅子舞の郷土芸能が保存されており、また一色氏の部将伊藤弥右衛門の居城跡が残る。19)
第2章 廃村以前の地域の復元
第1節 部落の復元
ここでは、実地調査や聞き取りによって資料を得ることができた吉津集落を中心に復元していきたい。(第3図、3図−2参照)
(1)隣部落との比較
吉津の隣の味土野は、ガラシャ夫人隠棲の地として知られているのだが、それは天正11年〜12年(1583〜4)のこと、正親町天皇代、信長・秀吉の頃である。従って、当然この時よりもずっと以前から、味土野では住人の生活が営まれていたはずである。畑の部落にある一番古い墓石には、延宝の年号が刻まれている。この年号は、靈元天皇、徳川四代将軍家綱の頃で1670年代にあたる。
吉津の先祖さんといわれている自然石の墓標には、享保の文字が刻んであるから、これは土御門天皇、八代将軍吉宗の頃で(1720年代)、畑の石碑よりも50年ほど後という勘定になる。とすれば、吉津は味土野よりも畑よりも後にできた部落だとして推測できる。墓石の年号は畑や吉津ができた時を示すものではなく、部落はそれ以前からあったはずである。
(2)当時の情勢
時は江戸時代中期であって、一般に諸大名の財政は苦しくなり始めるので、百姓が上納する年貢米の取立が厳しくなっていたし、その米の増産を進めるために新田開発が奨励されるという情勢にあった。また住民自身の家計の上からも、人口増加の趨勢の中で、次男・三男の処遇が悩みの種であり、その食分を工面するためにも、更には少しでも米作収量を増して、貢納後の残りを多くする方策を講ずる上でも新田開発は迫られていたと見られる。特に古くからある平地の田畑は、数度の検地によって調べ尽くされているから、そこでの年貢軽減の見込みはないが、山間に農地を拓けば、隠し田としやすいし、地積のごまかしもきくといったメリットがあったと推測される。このような事情から、米の増産は差し迫った時代の要請であったと思われる。
(3)吉津の成立
等楽寺などの平地の住人はこのような事情から、奥の未開拓地耕作を試みて、次第に高地へ登り進み、畑部落のあたりは勿論、それを超えて更に奥を拓いた。作場が遠くなれば通うのに不便であるので、拓いた高地の中に住居の適地を見立てて、まず畑部落(第4図、4図−2参照)に住みついたのではないだろうか。この方法を更に進めて、吉津部落ができたとみてよいであろう。
即ち、畑の人を主として、勿論等楽寺など平地人も加わって、畑部落の奥地を谷川沿いに進んで吉津の峠に至り、そこから東南方を見渡して、その地形と広さが開拓適地であることに注目した。そしてまず吉津部落近辺を拓き、その後、すがまち・むかいのぼり・きもり・またえも・はざこ・あしだに・みいがくぼ(第5図参照)あたりまで開拓の余地が多いと目途をつけた。開拓や耕作の作業を行うには、遠路を通い、時には小屋掛けでの寝泊まりも繰り返さざるをえない長年月の苦労を重ねたことであろうが、結局は、その小屋掛けを拡張整備して定住を決意し実行に移したのではないだろうか。この最初の人が、吉津の先祖さんといわれる、自然石墓標に刻まれた法名"大心了悟居士"の主とその家族であろう。この人と時を同じくして同一行動をとった何人かとその家族があったかも知れないし、居士の定着をならう人が1人、2人と次第に増して行ったとも考えられる。最初の一家のみが暮らしたとしても、耕作にやって来る何人かがあるのだから、全く独りぼっちの毎日を長期間味わうことはないわけだ。こうして吉津が成立したのである。
(4)畑・吉津の勢力範囲
畑や吉津の部落成立過程については上記のように考えられるが、両部落所属の耕地と山林の範囲を検討すると、上記の推測は当たらずとも遠からずとしてよいと思う。大雑把な捉え方ではあるが、畑部落の勢力範囲は、みかん谷あたりから、吉津の峠のうち即ち、等楽の辺りまでの相当広い幅をもつ地域であり、吉津のそれは、吉津部落及びその奥地一帯で、かめいし・ふけだ・なるだ・いけまち・だわ・たかお・あしだに・たにじり・おけたわし・おきびら(第5図参照)を結ぶ線内の、一望し得て、まとまりのよい範囲とみてよいであろう。更に云えば、後に畑の住人となるべき等楽寺などの平地人が、みかん谷から奥へ進出して畑部落の地を越え、吉津に迫ってから畑に定住するようになり、その後吉津の住人となるべき畑人や等楽寺人が、峠を越えて吉津部落は元より、そこから見渡せる範囲の開拓を始めてから吉津に定着するようになった。そして前記のような両部落の耕地並びに山林の所有乃至は勢力範囲が、開拓進行過程の中で自ら育ったのであろう。ちなみに、峠の直下にあった細長い田や、吉津二本松下の等楽の田畑二十枚ほどと、もう一曲がり下の十枚ほどは畑の人の所有であったのだが、昭和二十年代に、吉岡勇治さんが買い取られて、吉津の勢力範囲とされたものであることに注目したい。
なお、等楽寺や畑の人が、かつて奥地開発に力を注いだことは、大正年代と昭和初期にも、吉津を超えた奥地である、だわ・たかおの公有林に焼き畑をつくって、大根やそばの収穫につとめた事実が証するといえようか。こうしたことは、吉津発生の頃、畑や等楽寺から吉津付近まで稼ぎに来ていたことの残像と理解してよいと思う。
(5)定住当初の生活
新しい耕地開拓の大目的は、何といっても稲作可能な水田を得ることだ。水の出るところならば、小川・小溝・土手の湧き水にも眼をつけ、狭い平地は勿論、傾斜地にも労苦を惜しまず細長い段々の田を掘って米の増産をめざした。第二の目的は畑作で、水利のない平地や傾斜地も利用し、大豆・小豆・麦・稗・きび・そば等の雑穀類と、野菜・菜種・綿などの生産に励んだことであろう。
貢納後に残った米及び雑穀類と野菜は、山菜と共に自分達の生命を支える重要な糧である。当時、地元で生産出来なくて、是非共買い求めなければならない物資は、塩・種油・衣服材料と農具類であっただろう。これら必需物資購入の資金源は、米や雑穀類を売ること、または物々交換によって得たものと考えられる。自給自足を大前提とする吉津の生活はこれで成り立つ。味噌・醤油・酒は自製した。生産した綿を紡いで綿布を織り手染めして衣類の一部をまかなった。しかしこれは定住後年月を経てからのことで、当初の苦労は言語に絶するものがあったに違いない。
(6)吉津の端郷 もう一つ大事なのは、あしだにとみいがくぼという、各2〜3戸の住民集団のあったことである。この小部落の成立過程は、畑や吉津が形成された方法の繰り返しとみてよいだろう。その成立年代はわからないが、みいがくぼには観音堂が建てられ、あしだにには山の神がまつられていた。その消滅は明治年間で、吉岡熊蔵さんと佐吉さんは、みいがくぼ、今西徳蔵さんと三吉さんは、あしだにの出身ということである。当時中郡丹波村の矢田(現峰山町矢田)に豊造さんという左官屋があって、吉津の家の壁塗りにも来られたことがしばしばあった。この方はみいがくぼを引き上げ矢田へ移られた人である。
あしだに・みいがくぼをあわせると、明治初期には、吉津の戸数17〜18戸、人口最少70人と見られている。20)
第2節 吉津の産業
(1)米作 米作は全戸が従事した最大の産業であった。2戸を除き、他は田ごとの月を映す段々の小田ばかりで、耕作の手間と苦労、またそれへの努力は大変であった。吉津全戸の収穫は推計300俵(1俵は、4斗16貫60kg)21)で、自家食糧とするほか、かなりの量を売り出した。
田植えは6月初旬で、味土野と高原から植え手と苗とりを雇い、大々的に1日で済ます家が多かったのが特徴である。田植えに際し、吉津から他部落へ雇われたことはなかったことから推せば、吉津の米作は近隣を凌駕するものであったらしい。
脱穀がかなごきから足踏み式回転機に変わったのが大正10年前後であった。脱穀した籾を米にする作業をにわずきと言い、これにはとうすという道具が主役であった。すべて屋内の広い土間でやった。精白作業は部落外れの、みぞくろ川を利用した水車で行われた。
(2)雑穀作 @大豆 田の畔と畑で栽培し、相当量の収穫があったが、自家製の味噌、醤油、豆腐の原料として消費したから売り出しは僅かだった。
A小豆 主に畑栽培で、生産は相当量、自家消費が主であったが、売り出されもした。小豆は当時は農山村のご馳走の材料として、餅米と共に目玉となるものだった。
Bそば 畑や、焼き畑に、白いそばの花が一面に咲いているみごとな山間の風景がなつかしい。生産量は多くはなく、自家消費を満たしたに過ぎないが、そばきりは冬場における吉津自慢のご馳走であった。
C栗 畑作で、生産少量、餅用と飯用とがあり、米の補いとして重宝だったし、味は決して悪くなく良い食料であった。
Dきび 生産は少量で、自家消費のみに作られたものであった。
(3)野菜作その他 @大根 各家が相当大量に作付し且つ収穫したが、自家消費の用途は広く、冬場副食の目玉であった。大根煮・大根飯・おし漬・煮干し等にした。大根は、つぼいけにして屋外で貯蔵した。
A南瓜・胡瓜・茄子・葱・人参・ゴボウ 生産・消費共自家用の範囲をでない、但しそれぞれ、年間を通じ大事な副食源であった。
Bじゃがいも・さつまいも 生産相当量、さつまいもは特に米食補助として大きな地位を占めていたと云えよう。
Cこんにゃく 生産相当量、主としていものまま売り出され大きな現金収入の役割を果たしていた。一部は自家製自家消費にまわし、冬場にはそれを行商に出る場合もあった。こんにゃく玉を売り出すまでには三年以上の継続栽培を要し、冬期の保存は、いろりの上に大きな木箱を置いてそれに入れ、冷却損傷を防いだのである。
(4)養蚕 繭は農家現金収入の大目玉をなすもので、地域一帯に生産されていたが、吉津では春と夏の二期生産するのが普通であった。一期35日程を要し、その後半は、家族全員が睡眠もろくにとり得ぬ繁忙を極めた。養蚕家は7〜8戸であったが、非養蚕の人々も雇われて日当を稼いだから、部落を挙げての産業であったといえる。飼料の桑葉を得るために、畑という畑には桑の木が植えられていた。夜中に呼び起こされて、給桑や除糞22)に従事したということである。
この養蚕が大正末年から昭和初年にかけて、蚕種生産を目的とする原蚕飼育に変わって綾部の郡是製糸K・K縄張りの中に組み込まれていったのだが、これは、吉津の地の利、即ち飼育時季に平地よりも低温であることに着目した転換であって、地域の向上に寄与したといえよう。
(5)製炭 冬期農閑期を活用して製炭に従事する家が6〜7戸あった。多くは部落に近い自分の持ち山に炭火焼きがまを築いたが、遠いだわの公有林を利用する場合もあった。当時の製品は白炭(かた炭)23)で、自家の養蚕暖房にも消費したが、夫の製造した炭を妻は、はるばる背中に負って峰山町まで売りに行って現金を稼いだということだ。昭和にはいってから、吉津でも黒炭生産に移っていった。
(6)特産物 @にが桃 直径4cm程の小粒の桃の実が7・8月の頃熟した。桃の木は主に、きもり・またえもの畑にあったが、特に肥料を施して育てるのではなく、以前から畑の中に立っていた木に実が付いたものであった。少しにが味があるので、にが桃と呼ばれたのだが、結構おいしいらしい。今西徳蔵さんが、溝谷・和田野辺りまで売りに行かれたそうである。桃の木はその後次第に減少し、やがてなくなったようだ。
Aわさび 吉岡薫二郎さんの家の下の湧き水の小溝に自生していて、香辛料として重宝がられ、自家消費の他、贈り物として他家にも配ったが、その程度の生産量しかなかった。
B福寿草24) 始めは自生していたものを、吉岡薫二郎さんの祖父の小右ヱ門が家の下の畑や桑の木の根本に増殖させていた。一面に咲いた早春の花畑はなかなか見事であったようだ。11月ごろに苞をかぶった芽を出すのだが、その株を掘り起こして、春の芽出たい花と称し、売りにでかけたらしい。
Cみつまた 大正6・7年頃まで、和紙の原料となる樹皮を採る、みつまたという灌木が各所に育てられていた。各戸で刈り取った1mばかりの細木を集めて、大型のこしき25)に入れて、大釜で蒸し、その樹皮をむき採る作業をやっていた。場所は、吉岡巌さんの家の上の小池の傍らであった。このような共同作業をして現金稼ぎをしたのである。この時に使った大型こしきは、みいがくぼ観音堂の軒下に吊るして保存されていたが、その後これを使用したかどうかわからない。
Dはぜ はぜの木は、大正の頃までは、吉津の、どの家にもあった。紅の美しい葉が散ったあとの梢に、房状で豆粒大の実の集まりが寒風に揺られている。農閑期に入った12月から翌年2月頃までの間に、その木に登って、房状の実をもぎ採るのが、はせぼりと言われる作業である。採った実は買取り業者に売り渡して現金収入の一部となった。ちなみに、はぜの実は、和ろうそくの原料である。
(7)諸生産作業 @糸ひき(絹糸生産) 養蚕はいうまでもなく、繭の生産を目的とし、上等のものを製糸業者に売り渡すのだが、汚れたり、つぶれたりした等外品は当時家で生糸にかえたそうだ。その作業が、糸ひきで、そのために糸ひき機という道具があった。糸ひきは女性の仕事とされていたから、どの家でも妻か娘がこれに当たっていた。その時期になると糸ひきさんは、家の玄関口(とのぐち)に糸ひき機を据え、器用な手つきで、炭火で湯をわかした鍋の中の繭から取り出した一本ずつの糸を数本集め、それによりをかけ、木枠に巻き込む作業をやっていた。木枠に巻き込んだ生糸を多く集めて一段大きな木枠に巻き込む道具を、「おうが」、その作業を「おうがあげ」といった。大きな木枠の糸を一定の仕様にまとめれば(かたねる)生産完了、これを廻って来る買い手に売って現金収入とするといったもので、農家養蚕の副収入として重要なものだった。また、どら繭からのまわた生産も手作業で行われ、まわた26)は自家消費した。
Aはたおり もう一つの女性の仕事に、はたおりがある。はたおり機は、長さ3m程、高さは作業部分が160cm、他は50cm程の木製の大型道具だ。吉岡巌さんの祖母や母は、このはたおりを冬場の仕事としていた。織り上げた製品はすべて木綿物で、ふとんの表地や子供の着物地、大人の作業衣などに使われた。その原料の糸は、好む色に染めさせて買い求めた。冬場になると2〜3の家から、たん・たんという威勢のよい機織りの音がきかれたということだ。
Bむしろ打ち むしろという製品は、冬場の座敷の敷物として普通であったし、米の脱穀、籾すり、雑穀類の実おとし等々の作業には、敷物として必須の用具であったから、どの家でもその製造が農閑期に行われていた。比較的簡単な、むしろ打ち機という道具に、前もって用意された手ないの細藁縄をたくさん縦に張り、それに藁茎をとおして、打具で打ちしめて造るので、打ち手と、藁とおし手の二人の共同作業である。むしろ打ち機も、はたおり機も、形は違うが原理は同じである。
Cみのあみ 大正の末頃まで、雨や雪の降る中へ仕事に出る場合は、背にみのをかけ、頭には竹皮の笠(ばっちょうがさ)を固定するのは一般普通の姿であった。外とう、マント、カッパ、こうもり傘、カラカサ等は、着物をあらためてのよそ行きに使用される物である。そこでみのは、雨の農作業用として山地でも平地でも必須の用品であった。吉津では、みのの製造に精出す人が7〜8人あったようだ。製品の一部は勿論自家用であり、他は買い手がついてそれに売り渡したので、やはり重要な現金収入の手段ともなった。
みのの原材料は、主として菅という草、夏に岩場で刈り採って、溜まり水にねかせ、それを洗い乾かして保存しておかねばならない。みの編みの細縄は、藁すべを抜いて、藁打ち槌で打ちたたき、それでなってつくるのである。材料の菅が得にくいので、平地ではしにくい作業故に、買い手は多く、割に歩のよい現金収入源であったそうだ。
D藁仕事と藁細工 農作業を行うのに必要な品々には藁製品が多かった。
履物としては、わらじ・ぞうりが主で、田畑など作業へ出かけるときは、ほとんど素足にこれを履いた。地下足袋という物を買って持ってはいたが、これは他所行きに使うので農作業用ではなかった。わらじもぞうりも4〜5日で破れるから、家族の1年分ともなると計百足以上は必要で、それを冬の屋内仕事として作るには10日はかかる。学校行きの子供があれば、その通学にもぞうりは必要だから。その分ともなると相当な大仕事だ。その材料としての藁の用意も大変だ。長くて、しなやかで、節切れのしない餅米藁をそぐって、打って準備するのはなかなかの手間だった。しかし、雪に埋もれた家の中から、トン・トンという藁打ちの音が聞こえるのは、はたおりのタン・タンと共に、冬籠もりの中でも百姓が威勢よく立ち働いている証でもあり、快い風物詩とも感じられるものであった。藁打ちは、火の気のない土間でやるのだが、わらじやぞうり作りは、暖かいいろりの傍らで行うのが常であった。
米をとったあとの藁は、捨てるところなく用立てられる貴重品であった。牛を飼っている場合には冬場の大事な牧草として活用された。細かく刻んで、結実不十分ないかしや・大根・人参の切れ端等と共に煮てやれば、牛にとっては最高のご馳走であった。藁そのままで与えてもそれを食べ、残りはふみつけて、牛糞尿と混じ、よくきく厩肥となった。更に余った場合は堆肥に変えることもできた。また、小屋掛けの屋根、積薪の雨よけともなった。だから脱穀後の藁は大切に住家の屋根裏いっぱいに保存されていた。
(8)牛飼い 当時全戸ではなかったが、数戸で牛が飼われていた。牛に期待することは、第一に田すき、第二に車力の先びき、第三が子牛の生産であった。田の荒おこし、まぐわかけ27)も、人力だけではとても及ばず、牛の力は大きく効果と能率を上げた。また車力に物を積んで新道を引き上げる場合大きく役立った。吉津の牛はみんな雌牛だったが、それは子牛を得るためであった。子牛は雌ならば雄の3〜5倍の値がついたから雌が生まれると、お祝いとしてぼた餅をつくり全戸に配ったものであった。
牛飼いは年間を通じ苦労が伴う。作業へ出れば、その帰りに必ず牛の草を刈り、背負って牛へのみやげとせねばならなかった。また学校から帰宅すると、「牛の草刈って来い」といいつけられて、しぶしぶでかけたことが年間十数度に及んだそうだ。28)
第3節 吉津の食生活
(1) 飯
米は自分で苦労して収穫した食料であるが故に、その貴重さと大切さがわかる。吉津の全生産量から考え、仮に住人全員が米食のみで通したとしても、年間消費の米は十分まかなえたようである。しかし、そんなことはもってのほか、白米のみの所謂、しろめしを食べるといえば、盆か正月かお祭りか、その他の飯には必ず何かが混ぜられていた。麦飯・粟飯は上等の方で、秋から冬にかけては大根飯・菜飯(大根の葉を混ぜる)を食べる。これは、堀越でも高原でも同様な事情だったことが推測できる。
大切な米は家庭消費を少なくし、売りにまわして現金を稼ぐため、食い延ばしたのである。春の若芽時、むしこという木の葉を採って、むしこ飯をつくり、米の節約をはかったという話もある。
(2)おかず
副食は旬の野菜をたいたもの。茄子・南瓜・ねぎ等々を煮込んだ味噌汁は最も一般的な夏場食、冬場は、大根・人参・ごぼう・それに自家製こんにゃく・さらに干物の鰊がはいれば上等の所謂、だいこ煮29)であった。自家製の豆腐もあり、漬物は大根のおしづけ、味噌ごうこうであった。このように、栄養の観点からすれば偏ったものだったから、飯を多量に摂ってその不足を補うべく3〜5杯も食べるのは珍しくない食習慣だったようである。こうした粗食は常習だったので、庚申のぼた餅、初午のまゆ、盆の砂糖餅とそうめん、正月の餅、中でも小豆がたくさんのものなどは大御馳走とされた。また、夏場には、月に1度くらい、間人の魚売りが上って来たので、そこから手に入れる鯖やいかなどで、僅かに蛋白の補給としていたようである。
(3) 味噌・醤油・甘酒
ただ米を蒸してもとを混ぜ、それをねかせて糀をつくる。味噌も醤油もこれがなければできない。冬に造る味噌は、大豆を蒸してつぶし、糀と塩を混ぜ合わせて大樽に仕込む。これが1年中の味噌汁用となるのである。
醤油は、原料の大豆をつぶさずに糀と混ぜ、筵にひろげて発酵させた。それに煎った小麦と塩と水を加えやはり大樽に仕込む。これは来年用で、今年用は去年仕込んだものをしぼって使う。そのため、仕込み樽は2本必要となる。このようにして調味料は自家生産、自給自足の典型だったのである。
糀は甘酒の原料でもある。おかゆを炊いて糀を混ぜ、壷に入れて保温すれば2〜3日で甘く出来上がるのである。
(4) 山菜と竹の子
わらび・ぜんまい・よもぎ・ふき・さんしょ等の山菜は、採ったものを煮て食べたり、茶碗蒸にしたり、ゆでて干して保存食にしたりされた。
ぜんまいは専らゆで干して後日の食品とされ、よもぎは早春の若芽を餅にいれてつき、食された。ふきは飯に入れたり、煮たりされ、竹の子も同様にして食べられた。
第4節 吉津の神仏
(1) こうじんさん(荒神社)
荒神社は、素戔鳴尊30)が祭神だと承知している吉津の鎮守の神で、部落の住人は何かといえばここにお参りして祈りを捧げた。子供のお宮参り、入営の安全祈願、日照りの雨請いその他、とにかく、何でもかんでもお願いにあがった。社の位置も、峠のさらにその上、数十の石段を登りつめた高所にあり崇高さを倍加していた。神前に額づけばやはり有り難いのが吉津住人の本意なのである。
大正10年前後の頃、日照りが続き、田の水不足に悩む状態になると、部落をあげて荒神社に雨請いをする。それは1戸1人ずつが、社の中の藁こも敷きの上に集まり座って、般若心経を何度か繰り返し唱え上げて、降雨を願うのである。
(2) じぞうさん(地蔵堂)
峠の上の地蔵堂には3体の仏像がおかれ、やはり住民の信心を捧げる対象であった。墓参りに当たっては、先に花を供え、線香を上げる仕来たりであった。地蔵堂の屋根裏は吉津の葬礼用具の保管場所とされていた。
(3) かんのんさん(観音堂)
みいがくぼの観音堂は、恐らく、端郷の安泰を願って吉津の人が祠ったものであろう。立派に刻まれた石像がまつられて、お堂は割に大きく、境内には松の大木が茂っていた。
(4) やまのかみさん(山の守護神)
あしだにの山の神は、それらしいご神体も祠も確認できないようだが、正月の7日が参詣する日とされていたので、この日に訪ねる習わしであった。お参りの後、その近くの山で一束の薪を作って持ち帰り、これを正月14日の早朝、峠であげるとんど(左義長)焼きにあぶりこんで、それで雑煮をたく習慣があった。
(5)あなじぞうさん(穴地蔵尊)
穴地蔵さんは、峠の下、旧道の傍らに鎮座まします仏様で、かつて、あの位置から眺められる浅茂川沖の漁舟を動けなくされたので、漁民が布を巻いて後ろ向きに埋めた。後になって、その仏罰であろうか、吉津民が病を得るようになった。そこであれこれ悩みの末、地中から仏像を探し出して、丁重におまつりするようになったとの伝説があった。4月16日をその縁日として、吉津の各戸輪番に当番となり、団子を供えて崇めることとなっていた。悪病は終息したし、この霊験あらたかな地蔵さんに護られて吉津が安泰になったというのである。地中から掘り出したことから穴地蔵の名がついたと思われる。
この話が、吉津出身者の難波信子さんや、和田野の芦田行雄氏に取り上げられ、平成2年4月発行の"吉津の穴地蔵"という絵本となって世に出た。これを機として、以後穴地蔵さんは一躍有名となり、4月の縁日には、吉津出身者は元より、近郷の大勢の人が参詣におしかけるといった盛況が展開されるようになっている。
第5節 吉津の伝統行事と習慣
(1)花踊り
大正13・14年頃まで、本来は、愛宕さんに火難祈願をして4年目毎の祭りに奉納するものであったが、吉津では毎年初秋の頃になると、花踊りという、部落をあげての催しの稽古が始まった。高橋から堀越のほうへ200mほど行ったところに、上へ登る細い道がある。これを登りつめると、愛宕さんと呼ばれている小さな社がある。愛宕神社は火事を起こさぬように護ってくださる神様とされている。ここへ、10月初め頃等楽寺区として、花踊りを奉納する習わしがあり、高原・吉津・畑の3部落が受け持った行事である。踊り手は高原からだし、これをしんばちと呼んでいた。畑・吉津は高原とともにはやし方を勤める。はやし方は、地歌とそれに合わせた小太鼓打ちであった。3部落が別々にその稽古をしておいて、奉納当日、合同して調子を合わせ、おあげするのである。
その時期が迫ると、1ヶ月程前から、各戸輪番で宿となり、夕食後、老若の関係者みんな集まって稽古を重ね当日に備えた。吉津の稽古場では3人が打ち手だが、奉納当日は、畑、吉津、高原各1人だから、今年は誰と決めてあり、その人が3人の中でも中心となって腕前を磨きもし、見せてもくれたわけだった。地歌は参会のみんながはやすのだ。地歌の歌詞は小冊にまとめられており、それを見てみんながはやしていた。
このような花踊りの奉納が、恐らく大正の末にこと切れ、昭和に入ってからは、全くこの話はきかない。それは各部落とも、小太鼓打ちの青年が居なくなったことに起因するのではないだろうか。
(2)穴地蔵祭
地蔵様出現の4月16日を祭日として順番に宿を勤め、餅を供え、戸毎に数を整えて配り、仕事を休んで参った。当時、他所からの参りはなくなっていた。廃村以後は祭りもとだえ、屋敷のなるも道も林となり、人を寄せ付ける状態ではなかった。
(3)庚申さん
字のとおり、庚、申の日は60日毎に巡って来る。庚申さんは下水におられるので風呂水は流してはならんといい、小豆が好きだから牡丹餅か小豆飯を炊いて供えんならんという。「今日は庚申さんだで牡丹餅するだ。」と女は小豆と餅米を用意する。夕方近くになると仕事を早めに切り上げて小豆を煮て塩味をつけ、もち米を炊く。すりこ木であんをつぶし、餅もつく。年寄りも膳を持って呼ばれてくる。あつあつの牡丹餅がまわされ、年寄りから順に茶碗に入れられる。掌から流れ出るようなやわらかい牡丹餅、すいつかんばかりに口を寄せて食べる味はなんともいえない。2〜4個は目の間に喉へ入り、まわすからまわすから平らげる。両方の鍋が7分程空くころ、食い気もようやく下火になり、残りの牡丹餅は紅鉢に並べられる。久しぶりの家族揃っての会食後は、風呂を浴び、囲炉裏に夜の更けるまであたり談笑する。
(4)こと
正月行事あれこれの終わるころ、1日を遊んで「こと」をした。若連中や家主連中等グループでより、餅をついて食い競争をする親睦行事である。そこで負けると食べた箸を大木の梢につらねばならない。箸は木を割ったまたで親指よりも太く、全員の物を一連に編んだのが梢に下がると「誰が吊ったのかな。」と仰いだということだ。
(5)節分と初午
節分には蓬餅、田植えには稲穂をかたどった豆の粉を握り飯にまぶして豊作を祈り、子供の種痘がはじまれば「じさま餅」と、これは乳房の形をした大型の餅で、餅米粉でつくり、峠に「じさま送り」をした。恐ろしい天然痘に罹った頃の祈念の習慣のようで、「ほうそうはきりょうの境」と恐れられた名残であろう。
七日盆は墓掃除と決まっているのは今も同じだが、この日「地獄の釜のふた」という湖焼きをして供えた。これをしないと仏さんが盆に来ることができないからと言い、吉津産の小麦を挽いた地獄の釜のふたは全く粗雑なものであった。
14日は坊さんの棚経、16日の仏送り、24日のうら盆で仏事は終わり、賑わうはずの盆踊りは吉津にはなかった。
(6)氏神祭り
10月10日は秋の氏神祭は、お決まりのこわめしを供え、すしをつくった。地主の神と村の荒神さんに祭り、溝谷神社の祭礼には神主さんの荘重な祝詞を拝しました。しかし、下の広場では等楽寺奉納の神楽が舞われ、優雅な笛の音が耳について堪えられない。獅子大神楽の威厳、天狗のひょうきんな仕草は子供心をかきたてるばかり、祭礼後馬場で演じられる舞を堪能する迄見物したものであった。
(7)いのこと正月
二百十日の風祈祷は欠かせず、刈り鎌、庭上げ、いのこと豊作感謝の農家行事を大事に実行するうちに正月が迫る。
ゆずりはを採って待ち、大晦日には炭火をごっぽり埋め込んで、豆腐を用意して休み、元旦は主が朝起きをする。埋めた炭火をかき出し、豆柄をさすと「銭金 銭金」と焚きつける。若水で湯が湧く頃家族は起き、主を先頭に三宝を恭しく拝して吊柿を祝い、挨拶を交わし、雑煮を祝って礼廻りとなる。お粥正月はせりか大根で代用し、どんど焼きの前日は山の神に参って一束樵利初めて持ち帰り、どんど焼きに寄せて炎を藁っとにして持ち帰り、家の廻りにまき、頭に振りかければ蝮にかまれないといった。15日は灸正月、20日は、はったい正月で正月は終わりになり、元の暮らしに戻る。
(8)火ざらえ
火ざらえの時は、戸棚膳、鍋釜などを一切を洗い、食べ残りを整理して、灰を取り、塩水をまき清めて焚きつける。家族皆、塩水を廻し飲みして心身新たに箸をとる。火ざらえの行事は毎月一度行われていた。
厳粛なお産も土間に藁を積んで産屋を仕立て、3日が過ぎると足を洗って「おえ上がり」を迎え、初めて家族と同じ生活に戻れる。それまでは食事も定められた通りでなければならなかった。31)
第6節 吉津のあかり(照明)
世の中の近代化が進み、電気が通じるようになると、吉津は大きくひけ目を覚えざるを得なかった。等楽寺に電灯がともったのは大正11年(1922)頃とされている。それからしばらくして、堀越も久住側から電線をひき、さらに多少遅れて味土野にも電灯が灯ったのであった。堀越にしても味土野にしても、部落が大きく戸数が多いので、電柱を立て電線を引き込む経費の一戸当たり負担額が軽くて済むため、工事を進めることの決断が早い。これに反し、畑や吉津や高原は、戸数が少なく、一戸当たりの負担は等楽寺の3〜5倍につくであろう。そのような理由からか、当時この話は出ずじまいとなって、昭和22年(1947)を待たなければ実現しなかった。
さすがに、種油によるものではなく、石油の照明器具を使っていた。どの家にもあったのが「ことぼし」という普段用で、お客を招くような場では、ガラスほやの付いた置きランプがあり、この二つは、高さ50cm程の棒を立てた台上に灯して、明るさを広げていた。ことぼしは普通ろうそく1本くらい、置きランプは3本分くらいの明るさであった。この他に、吊りランプがあった。ガラスの油粕の上に火を灯し、それを金具で吊り下げて、ガラスほやと笠をつけ、床を明るくするような仕掛けである。ところが、大正半ば頃から、やはり吊り下げ式で、炎が下向きに灯る下火ランプが出まわってきた。本体はブリキ製だが、下向きの炎には半球型のガラスほやが付いている。下火ランプは、いわば石油ランプ界の大革命で、たちまち普及し、どの家もこれを使うようになり、床面が遮る物なく照明されるようになったのである。この他、机上の照明には、ガラス本体で、円筒形のほやと笠のついたものを使用した。
これらはすべて、石油の炎の光を利用するもので、自然の空気の中での燃焼であるため、光度は弱く室は暗かった。灯火革命といった下火ランプでも、ろうそく5本分くらいの明るさだったようである。
また、石油がなくなれば当然補給せねばならないし、不完全燃焼となりやすく、ほやは曇ってしまうため度々拭き取らねばならなかった。その手数と労力は子供の仕事とされていたのであった。
夜道を歩く時は提灯が用いられた。紙張りの竹籠の中にろうそくを灯すもので、風雅ではあったが、それ程明るくはなく、風が強ければ火が消えてしまうようなものだった。32)
第3章 離村の過程と要因
第1節 等楽寺の端郷集落の離村の過程
明治初期以来の挙家離村の経年変化を把握しうる公的な統計資料はないので、ここでは
実地調査、アンケート調査によって資料を収集し得た中で可能な限り、等楽寺の各端郷集落(高原・吉津・畑)の離村について、比較検討することにする。
第1項 高原集落
明治初期には、15戸あったと見られるが、昭和26年時の資料では9戸にまで減少している。その後はほぼ安定していたが、昭和38年豪雪を契機に、昭和43年にはついに0戸となり、全面廃村となった。
実地調査およびアンケート調査により、具体的に判明したことは、世帯番号(1)が、
昭和43年に弥栄町溝谷に近距離離村、世帯番号(2)が、昭和43年に弥栄町和田野に
近距離離村、世帯番号(3)が、昭和39年に峰山町杉谷に中距離離村、世帯番号(4)
が、峰山町杉谷に中距離離村、世帯番号(5)が大阪市に遠距離離村した。なお、世帯番
号(1)・(2)が昭和43年のほぼ同時期に離村し、高原は全面廃村となった。(第1表、2表)
第2項 吉津集落
明治初期には、17〜18戸、人口およそ70人あったとみられる。大正8年には、1
7戸、人口52人となっており、まだはっきりとした廃村化の傾向は見られない。昭和2
6年時の資料では12戸にまで減少している。その後は高原同様、ほぼ安定していたが、
昭和38年豪雪を契機に、昭和42年12月にはついに0戸となり、全面廃村となった。
実地調査およびアンケート調査により、具体的に判明したことは、世帯番号(6)が、
昭和44年に弥栄町芋野に近距離離村、世帯番号(7)が、弥栄町黒部に近距離離村、世
帯番号(8)が、弥栄町溝谷に近距離離村、世帯番号(9)が、昭和43年に岩滝町弓木
に中距離離村、世帯番号(10)が、昭和38年に野田川町に中距離離村、世帯番号(1
1)が、横浜市に遠距離離村、世帯番号(12)が、大阪府高槻市に遠距離離村、世帯番
号(13)が、兵庫県加古郡に遠距離離村、世帯番号(14)が、弥栄町木橋に近距離離
村した。なお、世帯番号(6)が昭和44年に弥栄町芋野に離村して、吉津は全面廃村と
なった。(第1表、2表参照)
第3項 畑集落
明治初期に、17戸あったとみられるが、明治38年頃には16戸となり、大正3年には、15戸となった。昭和26年時の資料では10戸にまで減少している。その後はほぼ安定していたが、昭和38年豪雪を契機に、昭和40年までには4戸まで減少し、昭和43年にはついに0戸となり、全面廃村となった。このように、昭和38〜43年には、雪崩れ的に戸数欠落現象が生じた。
実地調査およびアンケート調査により、具体的に判明したことは、世帯番号(15)、
昭和40年に畑の本郷の等楽寺に近距離離村、世帯番号(16)が、弥栄町堤に近距離離
村、世帯番号(17)が、昭和39年に弥栄町和田野に近距離離村、世帯番号(18)、
網野町網野に中距離離村、世帯番号(19)が岩滝町岩滝に中距離離村、世帯番号(20)が岩滝町岩滝に中距離離村、世帯番号(21)が舞鶴市に中距離離村、世帯番号(22)が昭和43年に畑の本郷の等楽寺に近距離離村して畑は、全面廃村に至った。(第1表、2表)
その3集落のいずれにおいても戸数欠落は明治初期に始まり、昭和初期頃まではそれほ
どの廃村化傾向を示していなかったが、第二次世界大戦中には漸減し、終戦直後期に減少
した。その間、明治期には居住の自由化や、町村制の実施に伴う税負担、および義務教育
制度の拡充に伴う小学児童の通学問題などを中心にして、また大正4〜12年頃には第一
次世界大戦期の商品経済の浸透に伴う階層分化の問題を中心にして、さらに昭和2〜7年
頃には丹後震災や繭価の暴落などによる農家経済の悪化などの問題を中心にして、それぞ
れにやや目立って欠落をみた。それに対して、昭和14〜25年の戦中・戦後期には全国
的な社会・経済の混乱を反映して、欠落現象は著しく鎮静化した。
その後、丹後地方の平地部においてちりめん機業が本格的に復興をみる昭和26年頃か
ら、再び欠落現象が活発化し始め、とくに我が国の高度経済成長期と目される昭和32〜
37年には、従来とは著しく様相の異なる、廃村化を伴った急激な欠落現象が生じた。し
かも、そうした状況下において遭遇した昭和38年豪雪を契機に昭和38〜43年には、
全く異常ともいえる爆発的な欠落現象が生じた。
第2節 廃村化の要因
挙家離村が行われるには、その発生位置や影響圏から廃村化の背景的要因、離村を促進する地域的要因が存在する。ここでは、それらを考察し廃村化の要因を探っていきたい。
第1項 全国的背景
昭和初期の廃村に関わる全国的背景として、次の三つがあげられる。
(1)義務教育制度の確立に伴う山地農村民の生活の流動化
教育施設から遠隔の小集落では、未熟な児童の毎日のかつ長距離の、とくに雪中での困難な通学状態が、山村生活の不便さを自覚させ、集落内部で比較的富裕な中核層の流出を促して、共同体崩壊のきっかけを作った。
(2)商品経済の浸透 自給経済の後退に伴い、山間集落の経済的不利性が次第に明らかとなり、生活破綻者も
多く出るようになり、集落規模の縮小を導いた。
(3)農業恐慌 世界的不況に続く米価・繭価の大暴落は米作と、とくに養蚕を軸とする山地農村の経済
を著しく逼迫した。とくに恐慌の打撃は商品経済の浸透の程度に対応するから、(3)は
(2)の要因を一層鮮明にしたものともいる。
昭和31年以降の場合には、次の三つが主な背景としてあげられる。
(4)農工間の生産性と賃金の格差の拡大傾向
戦後日本の農業は保護政策、農地改革、土地改良事業、農学・農業技術の発達などによ
り、比較的順調な生産力の増強をみたけれども、合理化と大資本の集中を進めた資本制工
業に比べると、その経済的不利性は明瞭で、世界的な農産物の過剰傾向ともあいまって、
所得格差の拡大を生じてきた。それは、昭和25〜6年ころからとされ、30年以降に一
層顕著となり、丹後半島山間部で、昭和27年以来挙家離村が急増し、集落規模の縮小が
進んだのと、時期を一にしている。 (5)農業基本法の制定
上述の事情から、農業の生産性向上のため、その小農生産構造の根本的改革と技術革新
をねらいとする農業基本法が、昭和35年に制定された。しかし、それによって省力経営
の困難な丹後半島の山間農村では、産業開発への意欲も喪失し、将来への不安ないしは絶
望感に支配されて、世帯の連続的欠落つまり廃村化が生じていった。
(6)都鄙間33)における文化的格差の拡大
都市文化の急激な発達は、都鄙間における生活文化上の差を著しく拡大した。それはマ
スコミ、とくにテレビの普及により、視覚的に伝達され、生活の平準化を求める気運を生
じた。廃村がこのように経済外の、例えばより優れた教育施設、最新の文化的娯楽施設、
快適な商業施設、社交的な自由な空気などを求める社会的・心理的要因によっても生じる。
第2項 地域的要因
弥栄町の廃村化に作用するローカルな条件として、次の三つがあげられる。
(1)災害多発地としての自然条件 一般に、突発的な災害・戦災・疫病の流行などは、いかに打撃が大きくとも生活基盤や
その他の立地条件が存続する限り、集落を廃村化せしめることはない。ただ、災害の多発
地ではそれが村を忌避させる素地的要因になるし、特に既に立地条件を喪失して慣性的に
存在する集落に対しては、廃村化の契機になることがある。丹後半島の山間部は、しばし
ば雪害、風水害、火災などに見舞われ、他に大地震もあって、災害が廃村多出の1要因に
なっている。 〔雪害〕 常に積雪は大きな生活、生産の障害になってきたが、とくに他出家族の多い出稼ぎ村や著しい縮小集落、隔絶集落では生存に関わる大きな脅威になっており、同調離村や集落の雪崩的壊滅の重要な要因をなしている。その顕著な例として、昭和38年の大豪雪があげられる。例年の積雪は、1.5m〜2.0mであるが、昭和38年次は3.0m程度あり、大屋根をひっさらげて崩れさせ、黒い骨をさらけ出してしまった。
また、2kmほどの道程をいくのに、半日近くかかっている。気温も摂氏零度以上にならない日が20日ばかりも続いたらしい。
この所謂「38豪雪」については、本稿第1章・第2節にて、すでに触れているため御参照いただきたい。
〔風水害〕 半島の高位集落はおおむね新第三期砂泥岩または凝灰岩帯に立地するため、集中豪雨や
長雨を受けると、その軟弱地盤が地滑りや山崩れを起こして、大被害を受ける。
〔火災〕 4月頃に、しばしば裏日本特有のフェーン現象がおこり、消火施設の不備な山間の小集
落では、一再ならず大火を経験している。明治8年には畑部落で11戸が消失、同10年には吉津で12戸が消失しており、部落の大部分を失うような危機に、しばしば曝されてきたのである。昭和30年ころからは、社会的、経済的情勢の変化とともに、火災を契機とする廃村が生じている。
〔震災〕 昭和2年3月7日午後6時30分の丹後地震(震源地峰山町付近)は、竹野川の構造谷
を中心に倒壊家屋を多数だし、その直後に1・2の廃村が現れた。震源地に近い峰山町では、家屋はほとんど全滅し死傷者も多かった。また、大きな断層が現れ、二間道路の道幅だけ左右にずれ、上下にも1mばかりの段差がついた箇所がある。
幸いにも吉津・畑・高原の被害は、どの家も多少ずつ傾いたりゆがんだりの程度で、倒れたのはなく、死傷者もなかった。ただ、段々の田に雪の重みもあって崩れた箇所が多かった。しかしながら、地震はその際にも廃村化の促進剤ないしは契機的役割を果たしたにすぎない。
(2)付近平野における産業構造の変化と、相対的な人口圧の低下
丹後半島には目立った近代工業がなく、戦後も学卒者を中心に大都市への人口流出が続
いたが、総人口数においてはあまり変化がなかった。しかし、昭和27年ころから京都西
陣の下請けで、平地農村に先染機業が家内工業的に普及し、また中小規模の工場も増えて
雇用機会が増し、従来山地に強く押し上げられていた平地の農地に対する人口圧が低下、遊休農地すら現れて、耕地や宅地の借入・購入が容易となった。
(3)社会的設備の不平等配置 〔教育設備〕
小規模集落の散在する当該地域では、学校も分散し、通学距離が著しく大となっている。
たいてい谷頭〜高原の小集落の場合には、小学校で3〜4km、中学校で7〜8kmも離
れ、かつ急坂が多いために自転車通学も困難で、特に冬期は寄宿を要するものが多い。高原・吉津・畑の場合も、溝谷にある学校までは、5〜6kmもあり、登校に1時間半〜2時間も要した。(第6図参照)
また、社会における競争の激化を反映して、近年は学校教育においても成績競争が厳しくなり、教科学習以外に体力の徒労を余儀なくされる山間部児童の不利ははなはだしく大きくなってきている。
〔交通機関〕 半島の中央部には北近畿丹後鉄道とそれに並行して国道が通過するが、半島基部や先端
部はそれらから遠く隔たっている。これを補充してバス路線網があるが、1日10往復以
上の頻発路線は鉄道沿線や海岸線に3本あるにすぎず、山地農村の生活改善や経済開発に
関与する河谷線は、たいてい1日2〜3往復である。路線密度は集落分布より遙かに低く、
近代的交通機関の利便に直ちに浴し得る集落とでは、廃村化に対する抵抗力に大きな差を
生じている。 〔道路〕 町村合併事業等による道路の拡張・新設で、木炭のトラック輸送が可能となり・一時的
にもせよ生活が安定した例もあるが、近年は逆に、道路改修がむしろ山林売却を容易にし
て、廃村化を促進するケースが多くなってきている。廃村が、今日まで谷中集落になく、
谷頭以上の集落に限られているのは、動力車通行の可否よりも、往復自転車の使用が可能
であるか否かという道路事情に支配されているように思われる。つまり、丹後半島の山間
部では、道路に関してはその生産的意義よりも、生活的意義の方が優先するようになって
きているのである。 等楽寺から畑を経て吉津に至る道は、大正年代初頭まで、幅は狭く石ころだらけ、勾配は場所によって緩急不定のだらだら坂であった。幾つもの屈折のある急坂、海抜400mの峠を越え、人々は吉津の在に至ったということである。等楽寺から3km近い道のりで、この道を後につくられた新道に対し、旧道と呼んでいた。300年近く畑、吉津の住人が通い続けた愛着の道ではあるが、明治・大正の頃ともなれば、等楽寺や外村の平らな道を荷物は車力で運び、人は自転車で往来するのが羨まれたに違いない。畑や吉津では、荷物の運搬はすべて、肩で荷うか背中に負うしかなく、等楽寺まで米を運ぶにしても、60kgの一俵米を背負えるのは元気な男だけで、半分の2斗30kgが普通としていたところだった。また、買い求めた重量物を持ち帰るにしても同じ方法しかなく、坂道を登る苦労は並大抵ではなかったのである。
そこで、坂道であるのは避けられないにしても、勾配が一定で、車力や自転車を通すことのできる道路が欲しい、との住民の願望は徐々に強まって来た。しかし、それを実現する費用と技術と労力の面で、課題が浮かび上がってくる。長い思案と相談と研究調査、その上溝谷村当局及び村を通じての京都府への働きかけの末、結局、経費と技術については府の補助を受け、工事作業の労力は、畑・吉津の住民が提供して工事を進める、と決まったのが大正の初めであった。当時、認可の条件は「港を結ぶコースに限る」という事から、網野から丹後半島を横切り、与謝郡の日置に至る「日置街道」をつけ、その途中に畑・吉津がある、ということにしたのである。
新道が完成するや、間髪をいれず、吉津に3台の車力が購入された。毎日使うといった頻繁な稼動があるはずもなく、これを皆が貸し借りして、荷物の運搬に便を得たのである。相当な重量物も下りは1人でよかった。上りは、空車なら何とかいけても、もう1人の先引きがあれば楽だった。まして、肥料などの重量物を積めば、牛の力に頼らねばならなかった。自転車も若い人を中心に数台が購入された。下りはペダルを踏む必要がなく、中ブレーキで快適に走り降りたが、帰りの上りは残念ながら手押しであった。
新道造成の効果はてき面にあらわれた。ベタ車も、吉津から、また吉津への荷物の運搬に力を添えた。特に吉津から材木が売り出されるようになったのは、全く新道とベタ車のおかげといってよい。吉津の森林資源はこうして日の目をみるようになったのである。
なお、これら僻地集落への道路事情は、地方行政によって左右されるため、行
政界を境にして廃村化現象に差の認められる場合がある。
〔電気〕 昭和37年僻地農山漁村電気導入事業計画には、丹後半島では20地区、38世帯が該
当し、特に山間部では10地区、27世帯が電気文明から見放されていた。しかしながら、
吉津・畑・高原集落は、昭和22年8月上旬に当時の村長平林信治氏の尽力に依って弥栄
地域内に架設されていた旧軍の電柱、電線の払い下げを受けて吉津・畑・高原集落同時に
関西配電の送電より点灯、続いて電話開通、等楽寺区民の協議決定を受けて各区に有線放
送設備が完備された。これらから、電気・通信の不便さから離村につながったことは考え
られない。とはいえ、動力線の山間部への普及は遅れ、産業開発さしあたっては機業、製
縄業等の導入を不能にし、平地集落に対して、大きな文化的、経済的不利が生じている。
〔医療機関〕 山間部は全域無医村地で、数km離れた平地の医師に依頼してきたが、夜間や荒天時の
往診は危険をともない、急患発生の際の措置が困難である。
以上のような、生活文化上の不利性が、生活意識の向上につれて対応しきれないものと
なり、廃村化を押し進める条件になったと考えられる。
第4章 移住先の選択と生活状況
第1節 各部落の移住先
ここでは、前節の3廃村のほかに、戸数欠落過程が相当に判明し、廃村の危機にある堀越集落の資料を加え、比較検討を行う。
その結果、第3表が示すように、消滅戸数50戸のうち、京都市や大阪府などを始めとする遠距離離村が11戸(22%)、峰山町・岩滝町・大宮町などへの中距離離村が21戸(42%)、近隣の母集落あるいは隣接集落に移動した近距離離村が18戸(36%)となっている。(第3表参照)これを丹後地方の全面廃村および部分廃村34集落における時期別の移住域の表34)と比較すると、移住先判明数の467戸のうち、遠距離離村したものは68戸(14.6%)と一番少なく、近隣の母集落あるいは隣接集落に移動した近距離離村は82戸(17.6%)と比較的少ない。一番多いのは峰山町・岩滝町・大宮町・網野町などへの中距離離村であり、317戸(67.8%)と圧倒的に多い結果となっている。数の差こそあれ、遠距離離村や近距離離村よりも中距離離村が多いという結果を示しているのである。(第4表参照)
次に、3廃村と堀越集落についてその挙家離村の移動方向を比較検討すると、第3表で示したようになる。すなわち高原集落では遠距離離村が1戸、中距離離村が2戸、近距離離村4戸となっており、近距離離村傾向が強い。吉津集落では遠距離離村が4戸、中距離離村が3戸、近距離離村5戸となっており、遠距離離村、中距離離村、近距離離村ともあまり変わらないが、強いていえば中・近距離離村傾向が見られる。畑集落では、遠距離離村が4戸、中距離離村が4戸、近距離離村5戸となっており、こちらも吉津集落と同様、強いていえば中・近距離離村傾向が見られる。堀越集落では、遠距離離村が2戸、中距離離村が12戸、近距離離村4戸となっており、圧倒的に中距離離村が多く、中距離離村傾向が見られる。
3廃村および堀越集落におけるこのような離村傾向の差異は、まず各集落の立地環境、とくにその隔絶性の差によって現れるものと思われる。3廃村とも生活利便を求めた中・近距離離村が多かったが、その中でも高原集落は最も辺鄙なところで、そこでは生活利便を求めた生活指向型ともいえる近距離離村が多かった。それに対して堀越集落は、大きな道路に面しており、また電気なども他の3廃村に比べ20年近くも早い大正末期に通るなど、日常生活上の支障が比較的少ないので、離村は生計手段を求める経済指向型のものとなり、中距離への離村が多くなっている。また、3廃村とも等楽寺の端郷であり、本郷の等楽寺を向いて西方向の峰山町や網野町への離村が多かったのに対し、堀越は大宮町と隣接していることもあって、南へ向かう傾向を示している。35)
また、各集落とも近距離離村は常にかなりの実数があり、挙家離村には単身離村とはおのずから異なった距離的制約があることを示している。本来、近距離離村は移住地への親近性に強く由来するとともに、旧居住地の財産管理や土地利用の継続の必要性に起因している場合が多い。したがって、近距離離村には有資産者層が多く、旧集落地では離村者による土地経営が継続するので、完全に荒地化することは少ない。通学や購買など生活利便の問題をあまりかかえない老人世帯などが残留している。
なお、中距離離村者の移住先として比較的多い所に岩滝町が挙げられる。丹後半島の付根に位置する岩滝町は、戦前、農漁業とともに、明治以来のちりめん機業や大正末から発展した人絹織物業に若干の絹糸仲介業などを合わせた農村機業町であった。しかし、戦時中からは日本冶金工業のニッケル精錬工場や大阪から疎開してきた世界長ゴム工場が設置され、さらに戦後は先染機業や高級小物織業が盛んになって新進の地方工業町として発展した。しかも昭和37年頃からは京都府の町村合併政策に抵抗して、公営住宅の建設を勧めるなど、狭域単独町を維持するため積極的行政を展開し、多くの離村者を吸引してきた。
第2節 離村前後における土地所有
吉津は昭和42年、高原・畑はともに昭和43年、全面廃村になったわけだが、ここでは各集落の離村前後における土地所有について、実地調査およびアンケート調査で収集したデータをもとに可能な限り、検討していきたい。(第5表、6表参照)
(高原) 世帯番号(1)の場合、離村前(高原)の土地所有は、家屋敷の土地が226坪(建坪は68坪)、田畑の貸付地が5反9畝2歩、自作地が6反3畝27歩、山林は3町であった。離村後は、家屋敷の土地が270坪(建坪は55坪)に増加した一方、田畑山の所有はなくなり完全に放置している状態である。
世帯番号(2)の場合、離村前の土地所有は、家屋敷の土地が121坪(建坪は64坪)、田畑の自作地が1町5畝20歩、山林は3町であった。離村後は、家屋敷の土地が64坪(建坪は56坪)、田畑が3反となっている。山は大部分を京都府に買い上げられたが、8反ほど放置している状態である。
世帯番号(3)の場合、離村前の土地所有は、家屋敷の土地が50坪(建坪は20坪)、田畑の自作地が5反9畝15歩、小作地が1反11歩、山林は1町であった。離村後は、家屋敷の土地が50坪(建坪は25坪)、田畑山の所有は、1部分を京都府に買い上げられたが、その他は放置している状態である。36)
(吉津) 世帯番号(6)の場合、離村前の土地所有は、家屋敷の土地が50坪(建坪は18坪)、田畑の貸付地が1反8畝20歩、自作地が6反8畝16歩、山林は4町であった。離村後は、田畑が所有の75%、山が所有の半分を京都府に買い上げられ、その他は放置や植林を行っている状態である。
世帯番号(9)の場合、離村前の土地所有は、家屋敷の土地が100坪(建坪は50坪)、田畑の自作地が8反1畝1歩、山林は1町5反であった。離村後は、家屋敷の土地が100坪(建坪は40坪)、田畑山の所有は、1部分を京都府に買い上げられたが、その他は放置している状態である。
世帯番号(10)の場合、離村前の土地所有は、家屋敷の土地が90.27坪(建坪36坪)、田畑の自作地が9反4畝6歩、小作地が1反2畝22歩、山林は1町5反であった。離村後は、家屋敷の土地が215坪(建坪は52坪)と大幅に増加し、田畑山の所有は、大部分を京都府に買い上げられたほか、残りは放置している状態である。
(畑) 世帯番号(15)の場合、離村前の土地所有は、田畑の自作地が4反1畝28歩、小作地が1反5畝21歩であった。
世帯番号(17)の場合、離村前の土地所有は、田畑の自作地が3反2畝8歩、小作地が1反6畝28歩であった。離村後は、田畑山の所有はなくなり、完全に放置している状態である。
世帯番号(22)の場合、離村前の土地所有は、家屋敷の土地が200坪(建坪45坪)、田畑の貸付地は1反1畝29歩、自作地が1町2反8畝15歩、山林は10町であった。離村後は、家屋敷の土地が300坪(建坪は100坪)と大きく増加し、田畑山の所有は、田畑は7反2畝、山はそのまま10町残っている。
(堀越) 世帯番号(26)の場合、離村前の田畑山の所有は、田畑の貸付地が、5反6畝29歩、自作地が7反8畝9歩であった。しかし、離村後は放置している状態である。
世帯番号(30)の場合、離村前の土地所有は、家屋敷の土地が50坪(建坪30坪)、田畑の貸付地は8反、自作地が6反、山林は2町であった。離村後は、家屋敷の土地が150坪(建坪は40坪)と大きく増加し、田畑山の所有は、1部分を京都府に買い上げられたほか、残りは放置している状態である。
世帯番号(31)の場合、離村前の土地所有は、家屋敷の土地が156坪(建坪36坪)、田畑の貸付地は7畝2歩、自作地が8反9畝27歩、山林は1町1反であった。離村後は、家屋敷の土地が130坪(建坪は49坪)、田畑山の所有は、田畑が1反、山が20反残っているが、その他は放置している状態である。
世帯番号(32)の場合は、離村前の土地所有は、家屋敷の土地が30坪(建坪18坪)、田畑の貸付地は2反、自作地が0.5反、山林は5反であった。離村後は、家屋敷の土地が350坪(建坪は95坪)と大幅に増加、田畑は売却したものの、山の所有が7反と増加している。これは、他に見られない傾向であり注目すべきところである。また、所有の山には、植林を行っている。
世帯番号(38)の場合、離村前の土地所有は、家屋敷の土地が100坪(建坪35坪)、田畑山の所有は不明である。離村後は、家屋敷の土地が60坪(建坪は50坪)、田畑山の所有は現在全くない。
世帯番号(39)の場合、離村前の土地所有は、家屋敷の土地が63坪(建坪26坪)、田畑の自作地は9反4畝19歩、小作地が1畝8歩、山林は14反1畝13歩であった。離村後は、家屋敷の土地が60坪(建坪は50坪)、田畑山の所有は全くなく、放置している状態である。37)
上記の地域集落は、昭和40年代前半頃、京都府及び弥栄町の指導協力により、離村跡地買い上げ対策地域の指定を受けた。田畑・山林の大部分を過疎対策事業の一環とし、2年間で一部を残して京都府に売却されたのである。そこには、再び帰って暮らしたい時は返還するという条件も付されていた。
こうして、土地の売却により得られたお金は、離村資金の一部とされた。上記の各集落における土地所有の変化を見ると、離村前に比べ離村後に広い所有地を獲得した世帯が、多く見受けられる。離村跡地買い上げ対策によって、ほとんどの世帯が所有地を買い上げられた結果、比較的、経済的ゆとりのある離村が実現されたのではないだろうか。
買却地には、京都府造林公社による植林事業が施行されていたが、植林の手入れは余り的確に行われていない。害虫も気候的に余り多くない状態で、いわゆる杉・檜の適地であるが、手入れが今ひとつでかずら巻きの木がかなり多いようである。38)
第3節 離村前後の生活の変化
ここでは、第2節と同様に、実地調査およびアンケート調査で得られたデータをもとにして、各集落の離村前後における住民生活の変化を見ていきたい。なお、以下の(1)〜(39)は、第2節における世帯番号と対応するものである。(第7表、8表参照)
(高原) (1)離村後、現在も高原を訪問することはない。高原に住んでいた頃の利点として、のんびり暮らせることを挙げ、離村先での利点は、交通の便がよくなったことを挙げている。
(2)現在、高原を訪問することは、1年のうち15日〜30日ほどで、主に植林の世話をしに帰っている。高原に住んでいた頃の利点はなにもなく、離村先での利点として、交通の便や通勤・通学、買い物が便利になったこと、また病院に近くなったことを挙げている。
(3)現在、高原には植林の世話をしに帰っている。高原に住んでいた頃の利点は、自然が豊か、水・空気がきれい、人付き合いがよかった、村の結束力があったことなどを挙げている。離村先での利点は、(2)と同様に交通の便や通勤・通学、買い物が便利になったこと、病院に近くなったこと、さらには、人付き合いが多くなったことや町の行事に参加出来るようになったことなどを挙げている。
(吉津) (6)現在、吉津には、時々植林の世話をしに帰っている。吉津に住んでいた頃の利点として、自然が豊か、水・空気がきれいであったことなどを挙げている。離村先での利点は、交通の便や通勤・通学、買い物が便利になったこと、病院に近くなったことなどを挙げている。
(9)現在、吉津に訪問することは、山菜とりや墓参り、穴地蔵さん掃除をするためである。吉津に住んでいた頃の利点として、自然が豊か、水・空気がきれい、村の結束力があったことなどを挙げている。離村先での利点は、交通の便や通勤・通学、買い物が便利になったこと、病院に近くなったこと、さらには人付き合いが多くなったことや町の行事に参加出来るようになったことなどを挙げている。
(10)現在、吉津には、墓参りをしに帰っている。吉津のに住んでいた頃の利点として、自然が豊か、水・空気がきれい、さらには人付き合いがよかったこと、村の結束力があったことなどを挙げている。離村先での利点は、交通の便や通勤・通学、買い物が便利になったこと、病院に近くなったこと、人付き合いが多くなったことや町の行事に参加出来るようになったことなどを挙げている。
(畑) (15)現在、畑には、田んぼを耕しに帰っている。
(17)畑には、お盆に墓参りしに帰っている。畑に住んでいた頃の利点としては、高原・吉津の住民と同様に、自然が豊か、水・空気がきれい、人付き合いがよかったことや村の結束力があったことなどを挙げている。離村先での利点は、交通の便や通勤・通学、買い物が便利になったこと、病院に近くなったこと、人付き合いが多くなったことや町の行事に参加出来るようになったことなどを挙げている。
(22)現在、畑には、時々植林の世話をしに帰っている。畑に住んでいた頃の利点として、自然が豊か、水・空気がきれい、人付き合いがよかったこと、村の結束力があったことなどを挙げている。離村先での利点は、通勤・通学、買い物が便利になったことや病院に近くなったこと、人付き合いが多くなったこと、町の行事に参加出来るようになったことなどを挙げている。
(堀越) (26)堀越には、今も田を耕しに帰っている。堀越に住んでいた頃の利点としては特になく、離村先での利点は、交通の便にがよくなったことなどを挙げている。
(30)現在でも堀越には、春や秋に、植林の世話や山菜、栗を取りに帰っている。堀越に住んでいた頃の利点としては、自然が豊か、水・空気がきれい、人付き合いがよかったこと、村の結束力があったことなどを挙げている。離村先での利点は、交通や通勤・通学、買い物が便利になったこと、病院に近くなったこと、人付き合いが多くなったことや町の行事に参加出来るようになったことなどを挙げている。
(31)堀越には、春や秋に、植林の世話や田を耕しに帰っている。堀越に住んでいた頃の利点として、自然が豊か、水・空気がきれい、人付き合いがよかったことなどを挙げている。離村先での利点は、交通や通勤・通学、買い物が便利になったことや病院に近くなったこと、人付き合いが多くなったことなどを挙げている。
(32)現在でも堀越には、年に数回、植林の世話をしに帰っている。堀越に住んでいた頃の利点として、自然が豊か、水・空気がきれい、人付き合いがよかったことなどを挙げている。離村先での利点は、交通や通勤・通学、買い物が便利になったことや病院に近くなったこと、人付き合いが多くなったことなどを挙げている。
(38)堀越に訪問することは、春や盆や秋に、植林の世話や墓参りに帰っている。堀越に住んでいた頃の利点として、自然が豊か、水・空気がきれいなどを挙げている。離村先での利点は、交通や通勤・通学、買い物が便利になったことや病院に近くなったことなどを挙げている。
(39)堀越には、毎週日曜日に、植林の世話や田仕事をしに帰っている。堀越に住んでいた頃の利点として、自然が豊かことなどを挙げ、離村先での利点として、交通や通勤・通学、買い物が便利になったことや病院に近くなったこと、人付き合いが多くなったことなどを挙げている。
離村前と離村後の生活を比較してみると、移住してきて良かった1番多い理由として、「交通の便がよい」ことであった。次に多い理由としては、「病院問題」、「買い物に便利」が挙げられ、その次に「教育問題」と続く。近年、大宮町や峰山町のバイパス(国道312号線)沿いには大きなショッピングセンターや住宅が建ち並び、買い物などには非常に便利になってきている。しかし、一歩山の方に入ると昔の生活となんら変わりがなく、むしろ日常生活面では悪くなっているように思われ、都市部との格差が広がっている。離村の主な動機は、昭和38年の豪雪であるが、小学生の通学問題を中心とした生活上の不便さの解消にあるとも考えられる。また、「人付き合いが多くなった」や「町の行事に参加可能になった」という理由にも、いかにこれらの集落が隔絶されていたかが窺える。
離村前の暮らしの方が良かったという1番の理由は、「自然が豊か」ということであった。次に多い理由としては、「水・空気がきれい」が挙げられている。移住して、交通や買い物などの日常生活は良くなった反面、車の排気ガスや騒音などの公害や緑が少ないなどの環境面では格段に悪くなっている。また、「人付き合いがよい」や「村に結束力があった」という理由にも、都市部における住民同士のつながりの低さがあらわれているように考える。また、離村後も出身集落を訪問する人は大勢いる。訪問頻度としては、年に1回〜数回程度が一番多く占めている。その訪問理由としては、第1に植林で、次に田畑の仕事や墓参り(盆の時)や山菜採りなどが挙げられる。このように、離村者の大半の人々は、離村しても出身集落との関係を完全に絶つことなく、多少ではあるが保ち続けている。39)
本章では、廃村集落の住民が如何なる観点から移住先を選択したのか、また移住したことによって環境や生活が如何に変化したのかをみてきた。そこで最後に、上記の考察をふまえ、挙家離村を可能とする条件やその背景について、述べておきたい。
挙家離村が実行に移されるためには、離村先における就業および住居の確保が前提条件
として必要である。就業および住居に関する情報が確実でなければ、離村への決定的な決
意は生じ得ない。離村を決意するためには、就業および住居に関する情報が具体的内容を
もち、就業および住居の移動先が母村から比較的近距離に存在し、離村前に確認が可能で
なければならない。そこで、住居と就業に関する情報がどのようにしてもたらされたのか
ということが重要な問題となる。 もう一つ重要な問題は、離村資金の調達である。耕地、山林とも国に買収された場合は
問題ないが、その他の場合は挙家離村農家の増加に伴って資産価値が低下し、保有資産を
換価して離村資金を調達することが困難になるといえよう。
このようにして丹後半島山間部の農家は、平坦地との所得格差と生活の不便さを強く意
識するようになり、離村すれば機業関係の職につくことができ生活は楽になると考えるよ
うになるのである。そして、血縁者などから就業と住居の斡旋を受けることによって挙家
離村を実行に移すのである。 しかし、挙家離村は必ずしもこのようにしておこなわれるのではない。部落内で戸数が
一定数に減少すると挙家離村は加速度的に進行する。それは心理的な影響ばかりでなく、
戸数の減少は部落の共同体的な生産、生活の共同組織を破壊し、そして結局は残留者の生
活を困難にするからである。こうした状態になると離村する意志がなくても部落にとどま
ることが困難になり、離村先の住居や就業の見通しが不安定であっても挙家離村せざるを
得ないのである。
おわりに
丹後半島の廃村化集落における挙家離村は、隣接平地における機業の発達と密接にかかわってきた。江戸時代に加悦谷・峰山盆地を中心に農間余業として始まった丹後機業は、明治時代に入って岩滝・網野・間人などに広がりをみせ、いわゆる機業核心地を形成してきた。その経営形態としては、農家の家族労働力に依存する兼業賃織が主であったが、大正10年頃の力織機化とともに、工場制が支配的となり、職工労働力の需要が拡大した(島田、1968)40)。それにより、周辺山地ではこれらの企業への徒弟的な住み込み労働者となる、多数の単身離村が生じ、それによる口減らしと収入によって、山地農家の経済は多少息つくことになったものとみられる。また、昭和2〜7年頃の中・近距離離村の急増も、かかる機業核心地における雇傭機会の存在と関係があったと考えられる。
しかるに、丹後機業は、戦時中には企業整備によって衰退し、昭和24年の統制撤廃による再興(勝田、1964)41)までは、単身離村については徴兵や京阪神・舞鶴地区などの軍需工場への徴用などによって継続するものの、挙家離村については、まったく逼塞することになった。その後は朝鮮戦争後の好景気によって、丹後機業が急速に立ち直り、特に昭和32年頃からは、ウール御召のブームに乗って、従来からの機業核心地を中心に、出機と呼ばれる、京都西陣機業地の下請けによる、家内工業型の先染賃機が急激に浸透してきた。これによって、これらの地域では、農家の機業兼業が盛んとなり、農地に対する人口圧が低下し、遊休農地すら現れて、離村者による耕地・宅地の借用・購入が容易となり、また転業不安が小さくなって、低位集落からはもちろん、隔絶性の強い高原面集落に至るまで、中・近距離離村が急激的に進行することになった。
さらに、昭和36年以降になると、都市労賃の高騰を背景に、西陣の出機が丹後地方に大量に流れ込み、これまでの機業核心地の外側にも溢れ出し、宮津市・伊根町・丹後町・久美浜町などの農漁業地域に振興の機業地を作り出した(島田、1968)。かかる機業のこの地域への著しい浸透要因としては、需要地側に零細農漁家経済の停滞を打開するために、兼業導入が切実であったことと、その創業・拡大に対して資金的・技術的な制約が少なかったことが重要であった。
その内の資金調達の面については、農漁家の場合には用地費がいらず、作業場の改築費や機械の購入費なども比較的に少額にすみ、かつ賃織ゆえに原糸購入費が不要であるうえに、織機メーカーの割賦販売制度が普及しており、それに農林漁業金融公庫や特に農協の低利融資を活用するなどにより、自己支度金の負担が少なかった。また、技術修得の面についても、極端に分業化した生産工程の一端を担うだけで、中でも特に製織技術の簡単な先染ウール着尺の生産の場合には、ごく短期間の織機操作の訓練によって自立できる容易さがあった(青野、1969)42)。
ただし、そうした場合でもその操業には道路条件、特に京都からの距離と積雪による交通の途絶期間が障害条件となり、さらに動力電線などの産業基盤の整備も必要になる。従って、そのような条件にめぐまれない山地地域では、こうしたものの導入はほとんど不可能であり、それによって平地部との間に画然とした産業構造上の格差が現れることになった。そのうえに、通勤兼業化も不可能なために、ここに大量の挙家離村が発生し、廃村化が進行することになったものと思われる。しかし、昭和40年になると全国的にも織機の過剰問題が生じ、日本絹人絹工業組合連合によって織機の産地間移動が禁止され、41年春の不況もあって、その後の機業創業は減少する。それとともに、山地からの挙家離村は、困難化し始め、廃村化も抑止されるようになってきた。
要するに、丹後半島では、平地の高い人口圧によって高密度におしあげられてきた、山地住民が、平地の産業構造の高次化に伴い、その隔絶的な地形障害ともあいまって、降下移動を始めたものと考えられる。その場合に、平地の機業も核心的な先進地から周辺的な新興地に波及していく形をとったために、その先進地に近接した集落、特に西部の集落ではいち早く戸数欠落が進行し、それによって孤立化を深めたその田の僻遠集落、特に隔絶性の強い高地集落では急激的な戸数欠落が生じ、ここに時期的・地域的に集中的な廃村現象が発生したものとみなすことができる。
最後になるが、本稿作成にあたり、資料の提供をはじめ数々の助言をして下さった弥栄町企画財政課の蒲田真穂さん、弥栄町議会議員の今西欽一氏、弥栄町等楽寺の吉岡正博さん、丹後リゾート総合企画株式会社の篁雄巳さんをはじめ数多くの方々に大変お世話になった。紙面上であるが、感謝の意を表したい。
注
(1)半田次男「辺地の振興」(大来佐武郎編『都市開発講座T』、鹿島出版会、1967) 222〜263頁。
(2)岡橋秀典「わが国山村における就業構造の動向分析−1965〜1975年を対象として」、 経済地理学年報27、1981、16−30頁。
(3)藤田佳久『日本の山村』、地人書房、1981、245−247頁。
(4)斉藤晴造編著『過疎の実証分析』、法政大学出版局、1967、562頁。
(5)森川洋・宮内久光「瀬戸内海島嶼部の人口推移」広島大学文学部内海文化研究 紀要18−19、1990、105−125頁。
(6)岡橋秀典「現代日本における山村研究の課題と展望」、人文地理41、1989、
144−171頁。
(7)勝田均「山村と挙家離村ー丹後半島の一事例ー」、人文地理16、1964、
636−654頁。
(8)原田桂志郎「山村集落の挙家離村についての実証的研究ー愛知県北設楽郡東栄町を 事例としてー」、地理学報告(愛知教育大学)25・26、1966、49−58頁。
(9)坂口慶治「丹後半島における廃村現象の地理学的考察」、人文地理18、1966、603 −643頁。
坂口慶治「丹波高地東部における廃村化と耕地荒廃の過程」、地理学評論47、1974、 21−40頁。
坂口慶治「京都市近郊山地における廃村化の機構と要因」、人文地理27、1975、
559−610頁。
山口源吾「奥越山地における西谷村の完全廃村への過程」、人文地理22、1970、
438−453頁
(10) 篠原重則「人口激減地域における集落の変貌過程ー四国山地中部と南部の事例 ー」、人文地理21、1969、453−480頁。
(11) 松田松男・楠本達彦・孫 永律・高橋昭久「林業生産の衰退と労働市場の変化ー奥
秩父過疎山村・大滝村の場合」、人文地理33、1981、556−569頁。
(12)堤 研二「過疎山村・大分県上津江村からの人口移動の分析」、人文地理39、1987、
193−215頁。(13)藤田佳久・井手上直子・芳賀保則「十津川山村における人口減少の地理学的研究
(その1)ーその地域類型と背景ー」、愛知大学文学論叢63、1980、1−37頁。
(14)神前進一「被合併山村における挙家離村の展開過程ー富山県八尾町大長谷・仁歩地 区の事例ー」、富山大学人文学部紀要9、1985、37−78頁。
(15)岡本市郎「広島県における過疎地域の研究」、日本研究創刊号、1985、24−43頁。
(16)端郷は、江戸時代開拓などで本郷から分立した村。本郷は、端郷のもとの村
。 (17)弥栄町役場「弥栄町史」竹野郡弥栄町、昭和45年11月3日、17−26頁。
(18)弥栄町役場「弥栄町史」竹野郡弥栄町、昭和45年11月3日、642頁。
(19)弥栄町役場「弥栄町史」竹野郡弥栄町、昭和45年11月3日、643頁。
(20)吉岡泰治「望郷のきろく」峰山孔版社、平成7年4月16日、22〜26頁。
(21)斗は尺貫法で、容積の単位。1斗は一升の10倍(18リットル)。
貫は尺貫法で、重さの単位。1貫は、3.75s。
(22)「しりがえ」と読む。 (23)「しろずみ」または、「はくたん」。堅くて、表面の白い木炭。
(24)山中に自生する多年草。黄色で、つやのいい花を開く。めでたい花として、鉢植えを 正月に飾る。
(25)調理の際、濾すために用いる道具。 (26)くず繭を引き伸ばして綿のようにしたもの。
(27)横の柄に数本の太い歯をつけて、牛馬に引かせる鍬。代かき、または、田畑をならす ために使う。
(28)吉岡泰治「望郷のきろく」峰山孔版社、平成7年4月16日、32〜34頁。
(29)大根の方言 (30)「すさのうのみこと」と読む。
(31)吉岡泰治「望郷のきろく」峰山孔版社、平成7年4月16日、121〜122頁。
(32)吉岡泰治「望郷のきろく」峰山孔版社、平成7年4月16日、46頁。
(33)都会と田舎。 (34)坂口慶治「京都府下丹後地方の山村ーその廃村化過程と移住域ー」
首都圏の空間構造、1991、416頁。
(35)森脇誠「京都府弥栄町における廃村調査(世帯表)」1999
(36)1町=10反、1反=300歩=10畝、畝=1a=30歩、1a=100u
(37)「固定資産家屋要図」(昭和25年)、「世帯票」(昭和26年)弥栄村農地委員会
(38)森脇誠「京都府弥栄町における廃村調査(世帯表)」、1999
(39)森脇誠「京都府弥栄町における廃村調査(世帯表)、(個人票)」、1999
(40)島田正彦「漁業不振と奥丹後漁村ー広がる機業兼業をめぐってー」、人文地理20、
125−154頁。
(41)勝田均「山村と挙家離村ー丹後半島の一事例ー」、人文地理16、1964、
636−654頁。
(42)青野壽彦「丹後・久美浜町における農村織物業の展開ー農村工業地域形成の一事例研 究ー」、人文地理21、22−62頁。