カレー味のハヤシ

モクジ
 定番カレー三百円、シェフの手作りハヤシライス九百円。
 夕刻。そんな張り紙のあるチェーンのカレー屋に、三人の客が入っていた。


「なぁ、究極の選択な。カレー味の……うく」
 カウンター席の真ん中に座った人相の悪い少し体重が重そうな男が何かを言いかけたところ、左隣のいかにも虚勢じみた口髭をたくわえた細っこい青年が、男の鳩尾に肘打ちをくれた。
「やめれ、汚い」
 丸い男がむせているのを傍目に、問答無用で手を出した青年がいまさらになって、投げやりな調子でそう言った。男は恨みがましく青年を睨み付け、ふざけんなよ、と誰にも聞こえない程度、口の中で呟いた。
 目方の大きい男は無精髭に人相の悪さもあいまって、ほとんどくたびれた中年の外貌である。髭の軽薄そうな小男は年齢不詳であったが、一見しただけならば、素行の悪い高校生にも見られるかもしれない。
 これ以上ないほどのバランスの悪い組み合わせであったが、三人とも――険悪な空気の流れる二人の隣で、我関せずの涼しい顔でハヤシライスを貪るひょろ長い男も含めて――二十前半の若者たちである。
「布施(ふせ)君が言おうとしたこと、僕知ってる気がする。なんだろこれ、デジャピュ?」
 黙々とハヤシライスを犬食いしていたひょろ長い男は、突然思いついたように顔をあげて呟いた。
「はあ、淳平てめーもあほ? メシ時にくだらないこと言ったら、お前も殴っから」
「まぁまぁ。カレー味の……」
「てめっ」
 小男がひょろ長い男に殴りかかろうと気色ばむが、間に太い男が入っているのですぐには腕が届かない。
「ハヤシと、ハヤシ味のカレー、食うならどっち? そう言おうとしたんだろ、布施君」
 立ち上がって手近にあった太い男の胸倉をつかんだ小男は、ひょろ長い男が下(しも)の話をしなかったことで、暴力の行き場を失う。
「くだらねー」
 突き放されて椅子から落とされた太い男は、理不尽な扱いを受けたにも関わらず、抗議もせずに呆然としている。
「くだらないけど。そういう選択の積み重ね。それが正解か正解じゃないかが、ときには生死にも関わる決断なのかもしれない、とも思うわけよ。僕は」
 そう言ってハヤシライスをスプーンで一杯口に運ぶと、ひょろ長い男が顔からハヤシに突っ伏した。
 ひょろ長い男はぶくぶくと、泡を吹きながら絶命していた。


「なぁ、究極の……」
 布施がなにかを言いかけたところ、左隣りの長田(おさだ)が突然布施に肘打ちをくれた。
「やめれ、汚い」
「なんだよ。おめー俺が何を言おうとしたのかわかんのかよ!」
 殴られた布施が至極当然の抗議をしているが、隣りで傍観――いや、黙々とカレーをがっついていて、見てすらいなかったのだが――していた淳平は、ふと違和感を感じた。
 布施は、おそらくカレー味のハヤシの話をしようとしたのだ。そしてそれを長田も知っている。
 淳平は入庁仕立ての、公務員であった。今月で県庁に勤めて、三ヶ月目である。ラクな仕事がしたいと願い、しかしその条件に適う企業からの内定には恵まれず、仕方なく勉強をして試験を受けて、公務員となった。
 布施や長田とは、大学時代の知り合いである。友人と言うべき並に付き合いはあったが、淳平は二人のことを尊敬できなかったし、好いてもいなかったから、友人と呼ぶには抵抗があった。
 公務員としての、平和だが単調な毎日。はみ出しものの二人と定期的に逢っているのは、社会の歯車になることに抵抗する、淳平なりのささやかな儀式である。
「でさ、淳平。なんでおまえ急にハヤシおごってくれんのさ?」
「ん、好奇心。気にならない? 値段設定明らかにおかしいし」
 カレー三百円、ハヤシライス九百円。ハヤシライスを奢ってやった布施の、うれしそうな問い掛けに、淳平は包み隠さず応えてやる。布施に食い物を恵むのはなかなか楽しい。顔は澄まして悪人面だが、尻尾があったら千切れんばかりに振り回しているであろう空気が、隠し様もなく振り撒かれる。
「ちぇー、毒見かよー。淳平らしーや」
「金出してまで知りたくねーけどな。てかカレーまじー。レトルト以下」
 どうにも隠し切れずうれしそうに毒づく布施の向こうで、長田が本気で毒づいた。それも店員すらも引っ込んでしまった無人の店内に、響き渡るほどの大きな声で。
 そんな長田の声を聞きつけてか、奥から厨房に引っ込んでいたインド人が顔を出す。
「お客さん、イチャモンやめてね。うちのカレーレトルトあっためたやつだから、レトルト以下ありえない。グリコ。メードインジャパンよ」
 エプロンの若いインド人の男は、調理をしていたのだろう右手に果物ナイフ、もうひとつの手には銀色の無地の業務用レトルトパックを持っていた。
 はあ? そう呟くと、長田はお冷をとって、食べ差しの自分の皿に水を注ぐ。
「店員さん、ハヤシはうまいよ。なんか色んなもん入ってる。ヨーグルトかな」
「おー、目玉高い。ハヤシは自家製よ。材料適当だから日替わりね」
 長田とは対照的に、布施が本気でおいしそうに感想を述べると、インド人も上機嫌に説明した。
「九百円の価値はあるね。ねっとりしてるのに、なんか刺激的だし」
「おっかしいね。無味無臭のハズよ」
 店員が初めて造り笑顔を仕舞って呟くと、布施がいきなり顔からハヤシに突っ伏した。
 ぶくぶくと、泡を吹きながら絶命していた。


 川のほとりに、一本の大きなもみの木が立っている。
 悪人面の、太い男が寝巻き姿で心細げに座っている。
 やがて皮ジャンの小男がやってきて、スーツ姿のひょろ長い男も現れた。
「てめー、ハヤシ食うなって話し合ったばっかじゃねぇか」
 皮ジャンが寝巻きに蹴りを入れる。寝巻きは反抗はしないが、不服そうにスーツを睨んだ。
「まぁまぁ、なかなかうまくいかないもんだね」
「そもそも淳平、てめーが布施にハヤシ食わせたんじゃねえか」
「怒んなよ。一蓮托生の仲間じゃないか。記憶があるわけじゃないんだから、しょうがないだろ。布施君と同じくらい、僕にも罪はない」
 スーツはへらへら笑って、寝巻きと皮ジャンに背を向けた。
「じゃ、僕先に行ってるから。ハヤシ食うなよ。やりなおしは最後にしような」
 去っていくスーツをしばし見送ってから、皮ジャンは一つツバを吐いて、スーツとは別の方向に歩いていく。
 最後に寝巻きが立ち上がり、スーツとも皮ジャンとも別の方向に、帰っていった。


 カウンターの席につくや、長田が布施の大きな腹を殴りつけた。
「てめー、汚え」
 ぶっ殺す、布施は口の中で呟いてみるが、本気で抗議はしなかった。理不尽極まりないはずの長田の言い分に、なぜか反論できない自分がいる。長田の親父がヤクザだからとか、人を殴り殺しかけたと嘯いているから喧嘩をしたくないとかではない。なぜか長田の言い分が、今回ばかりはある程度正当に聞こえるのだ。 「布施君、ハヤシライス食ってみなよ。僕が奢ったげるよ」
 淳平が猫撫で声でそんなことを言ってきた。ケチの代名詞であった淳平であったが、働き始めて少し金回りが良くなった。人を馬鹿にした態度は学生時代からだったが、社会人になってからはプーのままの自分たちを見下す目に、具体性のようなものを帯びるようになったと思う。
「いらねえよ。俺はカレーを食う」
 だからではないが、布施は淳平の申し出を断った。ハヤシライスは、食べてはいけない気がしたのだ。脈絡なく、この選択が重要なものに思えてならない。
 布施は証券マン崩れである。持ち前の見かけだけの豪胆さで大手の一流証券会社に就職したが、宴会毎に腹踊りを強要されることに耐え切れず、三ヶ月で辞職した。父親のツテで、ベンチャーの金融コンサルタント会社に再就職する目途は立っているが、そもそも労働には根本的に向いていない自身を、布施は三ヶ月間の証券マン生活で自覚していた。
 結局実家に閉じこもっている毎日であったが、せめてもの社会性を保つために、布施はこの悪友たちとの集まりに顔を出す。長田の暴力には閉口するが、布施はここ以外に、外との繋がりを持たなかった。
「カレーまじー。レトルト以下」
 左隣で、長田が無神経に毒づいた。そんな大きな声で言ったら、厨房に引っ込んでいる店員まで聞こえてしまう。三百円のカレーが、一晩寝かせてあるとでも思っているのだろうか。業務用のレトルトで当然、日本製だったら御の字な程である。
 布施がなんとなしに憂鬱な気分でカレーを掬っていると、長田の暴言を聞きつけたのか、奥からインド人が現れた。
「お客さん、イチャモンやめてね。うちのカレーレトルトあっためたやつだから、レトルト以下ありえない。グリコ。メードインジャパンよ」
 エプロンの若いインド人の男は、料理をしていたのだろう右手に果物ナイフ、もう片方の手には銀色の無地の業務用レトルトパックを持っていた。
「はあ?」
 長田がそんな風に因縁をつけると、お冷をとって、食べ差しの自分の皿に水を注いだ。その常識のなさに、嫌悪を感じる。
「おー、お客さん、お腹(なか)立ってるか。ごめんね。お詫びに自家製ハヤシライスただでサービスするよ」
「はあ!?」
 ものすごい剣幕で、長田が立ち上がってカウンター越しにインド人の胸倉を掴んだ。長田の怒りは相変わらず理不尽であったが、今回ばかりはなぜか納得している自分がいる。右隣の淳平も、止めるではなく、黙々とカレーを貪っている。
 インド人はおもむろに果物ナイフを振りかざすと、カレーに集中している淳平のうなじに突き刺した。
「正当防衛よ」
「淳平かんけーねぇじゃねえか!」
 長田がインド人の胸倉を掴んだまま叫ぶ。気が強いと言うより、ほとんど動転している様子である。布施も、腰が砕けて立ち上がれない。インド人は抜いた刃を、さらに布施にも振るった。
「じゃあ、口止めね。私ハヤシライスに毒入れてるよ」
 痛い。布施の頭から、血がたくさん流れている。
 長田はインド人を放して、逃げ出した。布施と淳平、二人を見捨てて。


 川のほとりの、大きなもみの木の元、スーツ姿のひょろ長い男と、寝巻き姿の太った男が座っている。
「また職場からやり直しだよ。まったく、みんなが残業してる中先に帰るのって、気まずいんに。何回やらせんだよ」
 スーツは不機嫌に呟くと、黙ったままの寝巻きに、少し嫌味な笑みを造ってみせた。
「布施君は夕方まで寝てるんだね。気楽だな」
「ふざけんなよ、淳平。殺すぞ!」
 小さくなっていた寝巻きが、突然立ち上がって喚いた。
「あ、長田君が来たよ」
 ビクッと、寝巻きは太い体を一瞬痙攣させて動きを止める。
「布施ぇ、相手見て態度変えんの、やめたほうがいいぜ。だせぇ」
 皮ジャンのポケットに手を突っ込み、チンピラ歩きでやってきた小男が、開口一番にそう言った。
「長田君のせいで殺されたんだけどー。しかもそのまま見捨てられたんだけどー」
 スーツは座り込んだまま、不平たらたらに半眼でやってきた皮ジャンを睨めあげる。皮ジャンは迷惑そうに顔をしかめて、すぐに踵を返した。
「先、行ってっから」
 寝巻きとスーツは皮ジャンの去っていくのを見送り。やがてそれぞれ、無言で別の方向へ帰っていった。


「長田、なんも言わねーから殴んなよぉ」
 長田が席につくや、布施がそんなことを言ってきた。なんなのだろう、こいつの脈絡のない被害妄想は。しかもちょうど殴ろうと思っていただけに、長田の中で余計にイライラが募る。
 結局長田は、布施の腹に肘鉄を入れる。ぶよぶよしてそうで、意外に固太りしているものだから、殴り心地が悪い。
 陰湿にぶつぶつなにやら独り言を呟いている布施に、
「わけわかんねぇこと言ってんじゃねえよ」
 今になって殴った理由を思いつき、長田は遅れ馳せながら口にした。
 布施は、マゾなのだろうと思う。長田は自分が布施に酷く当たっているのは自覚しているが、それにも関わらず集まりには毎度凝りもせずに出てくるのだ。何を考えているのだろう。布施の感覚は、理解できないものがある。
 長田は、弁護士を目指して勉強中である。少なくとも、その環境にいた。法学部を卒業し、今はロースクールに在籍している。
 いつもの習性で過剰に言いふらしてしまっている分、長田は何時の間にか追い詰められてしまっていた。親がヤクザであるだとか、人を殺しかけるまで殴りつづけたことがあるだとか、そんなハッタリは嘘でも本当でも誰も気にはしない。だが司法試験に関しては、本気で目指してしまった以上、自分の限界に気付いても、引き返すことすら容易でない。
 その点でのみ、この腐れ縁の二人は居心地が良かった。無気力無関心の化身のようなこの二人は、カレー屋で隣に座っている人間の状況になど、興味すら示すはずもないのである。
「ところで、長田君。究極の選択……」
「うるせえ、カレー味のハヤシはカレーだし、ハヤシ味のカレーはハヤシじゃねえか。くだらない質問すんじゃねえよ」
 布施を飛び越して投げかけられた淳平の質問を遮り、長田は答えた。見やると淳平が、怪訝な顔をしている。布施まで、おかしな目で自分を見ていた。そういえばなぜ自分は、淳平の言うことが先にわかったのだろう……長田は何かが引っかかっているようなもどかしさを感じ、頭を捻った。
 横では淳平が布施にハヤシライスを奢ることを申し出、布施がそれを断っていた。
 不可解だ。ケチな淳平が他人にメシを奢るのもおかしいが、卑しい布施が他人の奢りを断るのはほとんど気味が悪い。
 得体の知れない違和感に、むやみに気分が悪くなる。カレーがまずい。
「カレーまじー。レトルト以下」
 あまり考えず口にして、冷や汗が噴き出した。戦慄にも似た、この背筋の寒さは、なんだろう。 「お客さん、イチャモンやめてね。うちのカレーレトルトあっためたやつだから、レトルト以下ありえない。グリコ。メードインジャパンよ」
 インド人が出てきて、ふざけた口調で何かを言った。言葉が頭に入らない。顔が、上げられない。 「お客さん、顔面の色悪いよ。自家製ハヤシライスサービスしよか?」
 ダメだ。頭の中で何かが強く警告を発した。
「俺、先帰るわ……」
 長田は席を立ち、百円玉を三枚カウンタに置いて、店を出た。
 消沈して、うなだれたまま歩いていると、布施と淳平が追ってきた。期待していなかった分、不覚にも少しうれしかった。
 しかし聞こえてきたのは、布施の不穏な言葉であった。
「長田ー、どうしようもなく許せねえ。ぶっ殺す」
 布施が、ドタドタと派手に足音を鳴らしながら、顔を紅潮させて殴りかからんと走ってくる。今まで長田が布施にやってきたことから考えて、怒るのはある意味普通の反応であったが、よくわからないタイミングで切れたものである。
 飛んできた大根のような腕を交わし、長田は布施の腹にカウンターを打ちこんだ。
「淳平。布施、トチ狂ってんだけど」
 遅れて追いついた淳平は、数瞬長田の顔をしげしげと見つめ、突然殴りかかってきた。不意打ちで倒され、馬乗りになられ。さらに立ち直った布施との二人掛かりの攻撃に、長田に抗う術はない。
「なんでか、不公平な気がするんだよね、長田君だけ死んでないような。それにどうしようもなくむかつくんだ。長田君、僕に何か嫌なことをしただろう」
 意識を失いかけた長田を容赦なく滅多打ちにしながら、淳平は心底不思議そうにそう呟いた。


「死んだ……。さて、またやり直そうか」
 動かなくなった小男に馬乗りになったひょろ長い男が、呟いた。
「……長田、あっちで怒ってるぜ、絶対」
 人相の悪い太い男が、やや怯えるように言葉を零す。
「知らないよ。あー、もうカレー食いたくないし」
 ひょろ長い男が、げんなりした様子でそう言った。



 ――究極の選択な。カレー味のハヤシと、ハヤシ味のカレー。食うならどっちがいい?
モクジ
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