ユングの夢分析について








夢、およびその分析は、ユング派の分析において中核をなしている重要なものである。しかしながら、「夢の重要性」などと聞くだ けでも、非科学的とか前近代的とかの感じが先立ってしまって、馬鹿らしく思われるひとが多いかもしれない。実際、一般には、馬 鹿らしい望みを託した考えを、「夢物語」といって非難したりする。このように非現実的な夢を、大切な「現実」として、われわれ は心理療法の場面に生かしてゆこうとするのであるが、確かに、これは少しでも誤れば奈落に落ち込んでしまいそうな、現実と非現 実の境を歩む危険な仕事である。
 夢が心理的に重要な意義をもつことを、最初に明確に示したのはフロイトである。一九〇〇年に出版した『夢判断』において、彼 は、夢は結局は「ある(抑圧された)願望の、(偽装した)充足である」ことを、多くの夢と、その分析例をあげて説明する。その 後、フロイトは治療場面においては夢分析よりは自由連想法を重んずるようになるが、ユングは夢を重要視して、治療場面における重 要な手段と考え、夢に対する研究を発展させてきた。

夢はわれわれの生活に対して大きい意義をもっている。簡単にいえば、夢はそのときの意識こ対応する無意識の状態が何らかの心像に よって表現した自画像であるともいうことができる。この表現された心像を検討することにより、われわれはそのときの自分の無意識 の状態を明らかにし、それの意識に対する意義について考えてゆこうとするのである。夢はまったく同様の働きをしており、われわれの意識の体系、自我を われわれの心とより深く密接に つなぎ、基礎づける役割をもっていると思われる。このことは、その日にあった諸経験のうちでで、われわれがその意義や、それに伴 う感情を十分に認識し、体験しないで終わったと思われることが、夢に生じることが多い事実によって示される。

 フロイトが引用しているアナトール・フランスの言葉は、このような点を端的に表わしているようである。すなわち、「夜、われわ れが夢に見るものは、昼間われわれがなおざりにしたもののあわれな残滓である。夢はしばしば、軽蔑された事実の復讐であり、見す てられたひとびとの非難の声である」(『赤い百合』)。このように端的に「軽蔑された事実の復讐」といったことではなく、 むしろ、新しい経験が自我のなかに取り入れられ、意識体系のなかに組み入れられたとしても、なお、それを深いレベルへと基礎づけ るために、夢みることが必要であると考えられる。今述べたような、自我のいわば外的経験による夢と共に、内的な力の強い夢も存在 する。すなわち、つねに発展してゆく自我は、外からのみならず内からもその可能性を見出してゆくわけであり、この場合は、その個 人の実際経験よりも、そのひとの内的なもの、元型的な心像による夢となって現われてくる。そして、この夢より得た心的内容を自我 は統合して発展してゆくのである。もちろん、実際には、このように区別するよりは、内的なものと外的なものの出合う接点として、 つまり、外的なものを消化する働きと、内なるものを外に展開する働きの相互作用の結果として夢を考えるのが妥当であろう。

 意識と無意識の相互作用の結果としての夢が建設的な役割をもつことを、非常に端的に示すのは、夢による創作や発見の例であろう。 たとえば、タルティーニが作曲した 『悪魔のトリル』は、夢のなかで悪魔がバイオリンで弾いた曲をあとで思い出したものといわれ ており、スチブンソンが『ジキルとハイド』の話を夢に見たというのも有名である。夢のなかの心像が科学的な発見に役立つたものとし ては、べンゼンリングの考えを思いついたケキュレの例が有名である。ケキュレは考え込んでいるうちに眠ってしまい、一匹の 蛇が自分の尾を呑み込むのを夢にみて、それからヒントを得てべンゼンリングの考えを完成するのである。ここに、蛇が自分の尾を呑 む心像は、ウロポロス (uroboros)と呼ばれ、古来からシンボルとして用いられてきたものである事実と思い合わせると、真 に興味の深いことである。このように非常に普遍性のある心像がケキュレの夢に生じ、それによってヒントを得て、彼はベンゼンリン グの考えを創設していったのである。心像のもつ創造的意義については前節に述べたことであるが、そのときに述べた心像の具象性と いうことも、そのまま夢に当てはまることである。夢のなかでは抽象的なことも具象化されて表現されるのである。例えば、つねに 自分の感情を殺すのに役立った思考機能は、殺人犯人として表わされ、直接的な関係のもちにくいことは、電話による聞き聞き取りに くい会話として具象化される。あるいは、新しい考え方が生じてきたことは、子供の誕生の夢として表わされたり、二人のひと の相互関係が、二人のひとがボール遊びをする夢として具象化されたりする。そして、心像の特徴として述べた点が、いろいろと夢の なかに認められ、相似たものが同一のものとなったり、部分が全体を代表したり、二つのものが錯合して出てきたりする。これらは、 多くの点で未開人や子供の心性と共通点をもっており、未開人の心性の研究が夢分析の知識を豊かにし、また、逆に夢の知識を豊富に もつことは、子供の遊戯療法を行なう上で大きい助けとなるのである。たとえば、遊戯療法のために準備しておく玩具として、電話や ボールは欠くことのできぬものであるが、 夢においても、球技の夢をみるひとは非常に多い。「ボール投げをしたのですが、相手のひとが下手で、いくらこちらが投げても上手 に受けとめてくれないのです」という夢に、分析家の受けとめ方が前回にどれほど下手であったかが如実に示されていたりするのであ る。これら夢のイメージのもつ意味を理解することは困難なことも多いが、このような表現がわかり出すと、その生き生きとした表現 力や、適切さには心を打たれることが多い。まさに、ニーチェの言葉どおり、「人間は、夢の世界を創り出すことにかけては誰でも完 全な芸術家である」といいたくなるのである。

 
引用・参考文献
河合隼雄著 『ユング心理学入門』培風館 1967



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