「インフォームド・コンセプト」
2002/3/18
発表
「患者の権利、インフオームド・コンセント」
(はじめに)
これまで患者は、医の権威の前に不安と苦悩を抱えながら、なす術を知らなかった。
他方、医療側は、「医は仁術」であり、患者へのいたわりの心と専門知識を持って患者を癒すのだから、患者は安心して医者の言う通りにしておけばいい、というパターナリスティックな発想をその基本にしていた。
→しかし、現代医療はこのような患者の無知と依存を基本とする関係では成り立たない。
→あくまで、両者間の思いやりと信頼関係というものは、両者の対等を地位と権利関係を前提としてのものである。
→医療の場においても、患者には、
1,知る権利
2,自己決定権がある。
それ故、これから患者の権利というものを見てゆこう。
患者は医療の客体ではなくて、主体である。
〈イ〉実際、病と闘い、健康を取り戻そうとするのは患者である。
医者は、あくまでサポーターということになろう。
患者の自己決定権の尊重は、
「生命の保持を必ずしも最高の価値とするのではなくて、人格的存在としての
患者の精神的自雄こそ最高と見る」
という思想を前提としている。
←従来の価値観を覆すものである。
→医者もプロとして、十分分かりやすい説明をし、また、患者の同意に基づいて、
患者の病気の克服と、よりよい生き方を支援するという点で、主体的に医療に携わる。
→こうした関係においてこそ、医療者と患者の間に本当の信頼関係が生まれる
なお、患者の家族も、患者と同じ苦労と労苦をかかえて生活している以上、
医療においては、家族を含めた形で行われることが求められよう。
(ロ)患者の意志に反した手術をしたため、法的責任を問われた事例 <事実概要>
医師Yは、患者Xが舌癌であり、その切断手術が遇要であるとの診断を下したが、
Xには、癌の告知はせずに、悪性の潰瘍のため舌の手術が必要であると説明した。
しかしXは、舌の切断を強く拒否した。だがしかし、YはXの妻と娘に癌であると説明し、その摘出承諾を得た上で、 Xには切除するのではなくて、潰瘍の部分を薬で焼き取るだけだと
説明して手術に着手し、結局その3分の1を切除した。X提訴。
<判決の内容>
Xは、術後の食事や会話に大きな不便をきたし、肉体的・精神的苦痛を受けたことが認められるとし、また家族の承諾では足りず、手術はそれほど緊急を要するものではなかったと認定し、本件手術は本人の意志に反し違法であると断定、医師に不法行為による損害賠償を命じた。
(秋田地裁大曲支部S48.3.27判決)
→患者の生命を救うためとはいえ、患者の意志に反した医学的措置は、状況により違法と
されうるのである。
(二)患者の権利に関する宣言・運動・法案など
O患者の権利運動:アメリカ「患者の自主的判断を尊重する医療」(1960代)
→国際的広がり→日本でも最近「患者の権利法を作る会」がその法律要綱案を作成
→厚生省もその一部を実現しようとする
〈イ〉○国際的を動き:世界医師会「患者の権利に関するリスボン宣言」
〈1981〉→1995年に「ヨーロッパにおける患者の権利宣言」(1994)
を踏まえ全面改定
(ロ)○日本の動き:「患者の権利を作る会」(1991)
→「患者の諸権利を 定める法律要綱案」を作成(同年7.30)
一題:「与えられた医療から参加する医療へ−患者の権利法を私たちの手で」
しかし、→日本医師会などの根強い抵抗だが、
→社民党「患者の基本権利法(仮称)」を準備(1997)
→権利運動によって提唱されたものを厚生省も一部実現させようとしている
(例)診療報告明細書(レセプト)を主治医の了解のもと、患者の要請に応じて
開示するよう各保険者に通知
←全国レベルでの、患者の受診内容の適否・不正請求を正す方法に対応、
→カルテについては、日本医師会の法制化の反対で進展せず
→薬においては、薬品名や副作用に対する文章による情報開示
←これに対し、報酬の加算を認めることにより、情報提供の分野でも制度化が始まる
(弐)インフォームド・コンセントについて
(一)その意義
ナチスの残虐な人体実験に対する反省→しかし、医学発展の名の下に、
癩者・老人・障害者・幼児・受刑者などに対する非人道的な人体実験が後を絶たなかった
→欧米で患者の権利運動→→インフォームド・コンセントはその中心
○国連総会でのインフォームド・コンセントの定義
○日弁連の「患者の権利の確立に関する宣言」(1992)での定義
〈二)その具体的展開
(イ)インフォームド・コンセントの原則に対する重要性認識→その手続き
なしでの医療は、医療過誤として法的責任を間われるもの
→厚生省「インフォームド・コンセントの在り方に関する検討会」
→報告書公開(1995)
→報告書副題は「元気の出るインフォームド・コンセントを目指して」
厚生省は医療法を一部改正
→「医療の担い手は、医療を提供するに当たり、適切な説明を行い、
医療を受ける者の理解を得るように努めるものとする」旨の規定盛り込み
→但し、「努める」である →努力義務のみで患者の「同意権」を確立する
意味あいなしとの批判もある
(ロ)告知の前提一患者がショックを受けない配慮
→患者の受容能力や受容できるようになる時期や告知の仕方を配慮
→適切な処置により、かなりの確率で治癒が可能である
→鎮痛医療の発達
→ホスピスケアの普及
→→身体的・精神的な支援の実施
→→医者と患者の信頼関係
○告知についての判例(最判H7.4.25)
<事実概要>
この判決より10年ほど前.患者が腹部異常のため病院を訪れ検査を受けたところ、
癌であることが分かった。しかし患者には、胆石症と告げたので、その後病院に来なくなり、その結果数ヶ月後に癌で死亡した。
<判決の内容>
この不告知による死亡の損害賠償請求に対し判決は、
「患者が初診でその性格などが分からず、また精神的打撃と治療への悪影響を考慮して、癌であることを告げないことも、当時の治療としては一般的であった。」
として、不告知も止むを得ないとした。
→しかし、告知を望む患者が多くなっている現在、必ずしも今後の原則となる判決とは思われない。
Oエイズの場合→(重要なのは)検査の任意性+告知後のサポート
(むすび)
○ これからの医療は、患者も医療の主体となる。
○ 患者の自己決定権や知る権利などの確立を基本とする
→しかし現実には、患者は医の権威の前には弱い立場にある
→だが、患者側にも「問うべきものは問う」という勇気と自覚が必要
→医療側も患者に対し、いい意味で、パターナリズムが要求される
→インフォームド・コンセントは、実質的に十分な目的を果たすものでなければならない
(医療側の隠れみの)
→→患者側と医療側との間の信頼関係→医療紛争による医療の萎鰭が避けられる →よりよい医療環境が作り出される
(私の意見)
このタイトルを選んだのは‐いわゆる「難病の告知をしない」という事が何かありがた迷惑に感じられたからである。
相手側がいくら親切で言っていたのだとしても、本人には、自分の病状を知る権利があると思う。周りに厩されたまま、死んでいくことは、むしろ、こちらの方が告知をするよりも残酷在のではまいか。
その人なりに、「自分の人生を見つめ直してみたいのではないか」、
「死に先立ってやり残した事があるのではないか」と思うのだが。
尊厳死のことにしても、その人には、その人なりの「生きる」事についての考えがあるだろうし、それを周りが「どんな形でも生きなくてはならない」とするのは、はっきり言って傲慢である。その人には自分の生きたかを決める権利すらないのか、いったい、だれに他人が(たとえ家族でも)どう生きるかについてまで決める権利があるのか。
少し愚痴のようになってしまいましたが、こういった事が、今回のテーマを決める動機になりましたので、ここに挙げさせておいてもらいます。
参考文献;石原明「法と生命倫理20講」日本評論社