星色物語18



ヴェネの夢編



 渦巻き状の銀河を包む球状星団の中にヴェネはあった。大学星から直行便が出てお
らず、色んな経由で里帰りできると言うものの丸一日かかってしまうのでやはり辺境
と言わざるをえない星である。

 フロルは女性に変化してからは一度しか故郷に帰っていないのだ。タダが両親に結
婚の許可をもらいに来た時だけである。その時フロルは幼なじみである年上の男性か
ら“ずっと前から好きだった”と言われ、ショックを受けた事もその要因になってい
るのかも知れない。いや、両親を男になると言って困らせ、あげくに勝手に女になっ
てしまった上、両親の決めていた隣の領主との婚約を蹴ってタダを選んだ事… しか
し帰りづらい最大の原因は彼女自身が広い世界を知った事であった。宇宙大学に入学
した者のほとんどが異星の文化に接し、自分の常識を超えた常識に驚くのである。フ
ロルは入学して以来、今まで当たり前と思っていた一夫多妻制について考えるように
なっていたのである。

「兄上、久しぶり!」
ステーションに迎えに来たフロルの兄、ジードは妹の変化に改めて驚いた。彼女は以
前帰って来た時に比べ、随分女性らしくなっていたのである。内面まではわからない
が、少なくとも以前よりはそうであった。
「タダは来なかったのか?」
確か一緒に帰ると聞いていたのに彼はいなかったのだ。
「あいつなら明日来るよ。今日は抜けられない授業があるからな」
フロルは残念そうだった。若い恋人同士にとっては少しの別れも寂しいものなのだろ
うとジードは思った。宇宙大学に入学が決まってからは、フロルは故郷ヴェネから遠
く離れてしまった妹なのだ。
「こっちは冬だ、季節を間違えたな」
ジードは薄い服を着ているフロルにコートをかけてやった。いつもならこんな事はタ
ダがやっているのだろうな… ふと思った。 
「ただ今、父上、母上」
フロルは久しぶりに自分の家に帰って来た。兄の子供達がいっせいによって来る。彼
女はめったに会えない叔母なのだ。兄はヴェネの男性にしては変わっていて、たった
一人の妻を娶っただけなのである。彼はそれで満足だった。そのおかげで小さないさ
かいはジード達夫婦には起こらなかったのである。

 翌日フロルは前の帰郷の時に会えなかった友人たちと会っていた。今度は知らせて
いた為、友人たちが朝から押し寄せて来たのである。みんなは初めて見るフロルの変
化した姿に驚いていた。彼女は友人の中で最も早く変化したのである。
「お前も変化したんだな」
フロルは近所に住むデレックをまじまじ見ながら言った。彼は第一子の為、男の名前
がつけられている。そうやって名前をつけてゆくのがヴェネの常識であった。
「ああ、最近な」
声が低くなり体格が良くなっている。背も随分高くなったみたいなのだ。
「フロルは男になるって言ってたのに結局は女になったんだな。でもお前はそのほう
がいいよ。お前の男になった姿なんて想像出来ないからな」
「ところで女になるきっかけを作った婚約者はどこなんだ? タダトスっていうんだ
ろ? 君の父さんがすごく自慢していたぜ。あの宇宙大学でも秀才で通ってるって。
村の寄り合いの時もその話に花が咲いていたみたいだったし… 」
「そんな事言ってるのか? ほんとにもう… 」
フロルは自分が褒められた訳ではないのに赤くなって来た。
「そうだ、はやく紹介してくれよ。一緒に帰ってきたんだろ?」
男に変化したばかりのリックもタダの存在が気になっていた。
「いや、今はいねぇよ。今日の昼に着くって連絡が入ったんだ」
「それじゃ昼から僕の家においでよ。みんなもフロルの婚約者に会いたがってるしさ。
いいだろう?」
デレックが提案した。仕方ないな、と思ったがこれが帰郷の運命なのだ。

「タダ!」
ステーションでフロルが待っていた。小雪がちらついていて彼女の言っていたとおり
随分寒い。タダはフロルに駆け寄った。
「お前の匂いがする… 」
フロルは背中に回された手に暖かなものを感じ、たった一日会わなかっただけだとい
うのに随分会っていなかったような錯覚に陥ったのである。
「不思議だな… お前のいない時間の方がお前の事がよく見えていたみたい… 何か
オレ、変な事言ってるみたいだな… 」
いない方がいいと思っていない事は確かだが、フロルは自分の気持ちを表す適切な言
葉が浮かんでこなかったのである。

 デレックをはじめとするフロルの同級生が彼の家に集まっていた。彼らの半数はま
だ未分化の完全体であり、変化後の性別は名前がたよりなのである。タダは改めてヴ
ェネという星の“当たり前”に驚くのであった。
「フロルはいいよね。すぐに結婚しなくてもいいんだから。私なんて父がもう決めち
ゃったんだよ。相手を」
女性に変化したミディがうらやましそうに言った。彼女はフロルに次いで女性に変化
したした友人である。
「そうか… じゃ、とりあえずおめでとうって言えばいいのかな?」
フロルは彼女の気持ちが分からないので遠慮して言った。
「じゃ、とりあえずありがとうって言っておくわ。まだ実感がないし… でもね、私
ね、大学に行きたかったし誰かを好きになって結婚したかったな」
それが彼女の本音なのだ。フロルは悪い事を言ったかな、と思ったがもう遅かった。
自分はタダという恋愛中の相手がいて、おまけに有意義な学生生活を送っている。
「ぐちっても仕方ないぜ。フロルってずっと前から特別だったんだから」
未分化の友人が言った。
「特別?」
タダは聞いた。
「そうなんだ、タダトス。フロルは小さい時から目立ってた。外見はもちろんだけど
学力でも僕たちの比ではなかったし… 射撃なんかも上手かったしな。末子なのに男
になりたいと言い出したのもフロルならわかる気がしたぜ」
「それにフロルなら何かをやってくれそうな気がしていた。現にこうやって宇宙大学
の学生になってるしね。僕たちには出来ないよ」
「いやだな、そんな言い方。オレ別に特別じゃねぇよ。お前らと一緒じゃんか、どこ
が違うんだよ」
フロルはむきになっていた。しかしタダは彼らの言っている特別の意味は理解できる
のだ。フロルは自分が気づかなかっただけでずっとそういう目で見られていたのであ
る。それはタダにも言える事であった。彼はそれをずっと感じながらシベリースの学
校を卒業したのであった。
「一緒じゃないわ。フロルは何でも出来るから私とは違うもの。うらやましくないと
言ったらうそになる。あなたは望めば男にでもなれたのよ」
ミディが言った。それが彼女の素直な気持ちだったのだ。
「私なんかもうすぐ女にならなけりゃいけないんだから。できたら男になりたかった。
そして町に出て大学に入って… でも所詮こんな事は夢だわ」
未分化の友人が言った。
「男女一対五の人口比は平和を保つのにはいいと言われているがそれが果たして正し
いかどうかわからないわ。どう考えても女は損よ。大学に行くと言っただけでも白い
目で見られてしまう」
「でもそれが女の運命だから仕方ないだろ。それに男女比はヴェネ政府が決めたんだ
から… くやしかったらフロルみたいに違う星の男と結婚すりゃいいじゃないか」
デレックは悪気なく言ったつもりだったのだがフロルはその言葉に腹がたった。
「女だから仕方ないだと? そんなの変だ。女でも教育を受ける権利があるし、もっ
と社会に出てもいいはずだ。それに一夫多妻なんてオレは嫌だ」
フロルの言葉にミディはうなずいた。彼女は第二夫人として嫁いで行く予定なのだっ
た。
「フロルだったら絶対第一夫人になれるさ」
デレックの言葉に罪はないのだがフロルにとってはその考え方事態が嫌なのだ。
「第一、第二とかの問題じゃねぇ、オレきっとこの星に生まれてこなかったら男にな
りたいなんて思わなかったと思う。この星だからこそ男の方が得だと思ってたんだ。
だから男になりたいと… 」
フロルは言葉を止めた。そうなのだ、自分はここにいる時はデレックと同じ考えだっ
たのに気が付いたのである。男になってちやほやされて… 兄みたいな成人式を迎え
て… やがて数人の妻を持っていたかもしれないのである。
“オレ、デレックの事、悪く言う資格なんてねぇよ”
「ごめん、フロル。オレ… 気に障る事、言ったみたいだな。オレお前と違ってばか
だから… 何が気に障ったのかわかんねぇよ」
デレックは謝った。無口のフロルははねっかえりの時よりこわいのだ。
「オレもばかだよ。お前が気にする事ねぇからな」
フロルはデレックに頭を下げてもらいたくはなかったのである。彼女の心に陰りが感
じられ、タダはそれとなくフロルのそばに寄り添ったのである。彼女は今、大勢に囲
まれながら孤独を感じていたのであった。

「じゃあな」
フロルはデレックの家を後にした。今からタダと一緒に買い物に行く予定なのだ。兄
に借りた車はステーションの方に向かって走りはじめていた。
「タダ、そこの公園で止めてくれよ」
フロルは車を降りた。雪が舞っている。夕方近くになって気温が下がって来たようだ。
彼女は公園の遊具をなつかしそうに見ている。きっとこの公園には幼いころの思い出
があるのだろう。タダは寒そうにコートの襟を立てた。
「フロル、フロル、雪だるまになっちまうよ」
タダは少し向こうでぼんやりしているフロルに呼びかけた。彼女はもう真っ白になっ
ていた。
「そろそろ行こうか?」
タダはさそった。雪は止みそうにない。フロルは息を弾ませて走って来た。
「もう少しここにいたい… 」
フロルはにっこりと笑った。でも心までは笑っていない。
「君らしくないよ、作り笑顔をしたって僕にはわかるから。でもこれ以上ここにいた
ら風邪をひいてしまうよ。とりあえず車に乗って!」
タダはフロルを助手席に押し込んだ。透明の屋根やボディに雪が積もり、車内は薄暗
くなっていた。
「オレさ、なんだかこの星が嫌になっちまった… 今までどうしてあまり帰らなかっ
たんだろうって考えた事があったけど、その答えが見つかった気がするんだ。ここに
は何も知らなかった頃の嫌な自分がいる」
それだけではなかった。幼なじみが自分に対して持っていた違和感… 特別な存在と
して見られていた事実… それも、ヴェネから出て行ってからわかった事なのだ。
「オレは何にも考えなかっただけで、ものすごく孤独な人間だったんじゃねぇのかな?」
タダはフロルが真面目になればなるほどおかしくなってしまって笑いをこらえるのに
必死だった。
「そんな事、ないと思うけど… 」
タダは震える声で言った。確かにヴェネの文化は異質だったが決して異常ではない。
かつてテラでも一夫多妻制が取り入れられていた国があったからだ。フロルには悪い
がそれが各星の文化の差、というものであろう。
「女になったから言うんじゃねぇが… 女って悪くねぇよ」
“それはお前がいたせいでもあるんだぞ”フロルは語りかけた。
「フロル… 」
タダはフロルの目を見つめた。しかし… タダはそのあまりにも真剣な表情に耐え切
れず、思わず吹き出してしまったのである。
 フロルの手がタダの頬を打った!!
「お前って… 」
フロルは車から飛び出した。真っ白な雪に彼女の足跡だけが続いている。タダはフロ
ルのコートを持って彼女を追った。
 吹きすさぶ白い雪の中をスカートの裾をひるがえしてふわふわ走って行くフロルは
タダの目に幻想的に写っていた。自分は今、何をしているのだろうと状況がわからな
くなってしまうほど、その光景はメルヘンチックだったのである。もっとこのまま見
つめていたい… タダのもう一つの心がささやいている。しかし追わなくては… タ
ダは足を速めた。
「捕まえた!」
タダはフロルに飛びついた。雪煙が舞って二人の体が白い雪にしずんでゆく。
「君だけがいとおしいんだ… 」
タダはさっきの事を忘れてフロルにささやいた。真っ白な幻想がタダを詩人にしたの
か? 
「君はまだ、僕がどんなに君の事を思っているか知らないんだ」
タダは雪の中でフロルを抱いていた。

 すっかりびしょ濡れになった二人は暖炉の前で暖まっていた。さっきのタダの言葉
がフロルの心に波のように押し寄せては引いてゆく… 
「さっきから黙ってしまってケンカでもしたのかい?」
ジードが心配そうに二人を見た。
「いえ、そんなんじゃないんです。雪の中でふざけてて疲れちゃって… 」
タダはあわてて言い繕った。
「暖かいものでも持って来させよう」
ジードは居間から出て行った。
「タダ、オレさ… 友達って何なんだろうって思う… 幼なじみは友達じゃねぇのか
な? オレだけ特別に見られていたなんて知らなかったんだ。そんなの嫌だよ、みん
な同じでいいじゃねぇか。そんなんだったらオレ、大学の友達だけでいいや。幼なじ
みなんていらねぇ。アマゾンやチャコや四世やガンガ… あいつらだったらオレの事、
特別だって言わねぇもん。オレにとって親友はあいつらだけだよな」
フロルは同意を求めるようにタダに向かって言った。
「そんな事、言うもんじゃないよ。君はいつだってみんなから注目をされてたって事
じゃないのかな? 特別だからと言って、他人行儀とかのけ者にされてた訳じゃない
だろ? 君がこだわっているだけじゃないのかな」
タダははっきりと言った。優しく言うのだけが親切ではない。時として優しさは遠慮
につながるのだ。 
「オレ、わかんねぇよ… 言える事はオレだけが変わってしまったんじゃねぇかって
事だけなんだ」
それはタダも同感だった。確かにフロルは変わったのだ。しかしそれは自分も同じ事
であり、宇宙大学に入学したほとんどの学生が初めて接する異文化に驚き、戸惑いそ
して変わってゆくのだろう。それは単なる一過性のものかも知れないし続いてゆくか
もしれないし、それは個人差があるものなのだ。フロルの場合は文化が違い過ぎたの
だろう。

 タダはジードと話していた。彼は遠く離れた所で生活している妹が心配なのだ。彼
はタダから大学での様子を聞いていたのである。
「兄妹っていいものですね。僕にはいないから… あなたを見ているとフロルがどれ
だけ愛されているのかがわかる」
「そうか… 君は父親がわりの長老に育てられたんだったね。辛いこともあったんじ
ゃないのかい?」
「いえ、そんな事を感じさせない程、長老は気を使ってくれてたんです。後でわかっ
た事なんですけど」
ジードはおだやかにほほ笑んだ。この青年がいずれは自分の弟になるのである。ジー
ドはすでに嫁いでいる妹たちの夫に感じた事のないような感情をタダに感じていた。
 ふいにジードは両手でタダの手を包んだ。妹を案ずる兄の心がはっきりと見える。
“フロルだけを守ってやってほしい… ”
ジードがみずからたった一人の妻しか娶らなかったように、タダにもそれを望んでい
たのであった。もっともそれはタダにとっては常識だったのであるが…
タダはその呼びかけに心で答えたのである。ジードは満足であった。

 今日の空はどんよりと曇っていて、また雪が降りそうだった。二人は今夜、大学に
帰る予定なのだ。大学までは遠い、明日では間に合わないのである。荷造りをしてい
たフロルはため息をついた。兄の子供たちが彼女の回りによって来ている。フロルは
彼らにとってはめったに会えない遊び相手だったのだ。昨日一日は帰って来た姉たち
にもまれて慌ただしく過ぎてしまったのだ。彼女たちの帰った後は嵐が去った静けさ
だったのだ。
「フロル、ミディが来てるわよ」
母が呼びに来た。気のない返事をしてフロルは玄関に下りて行った。
「よぉ、どうしたんだ? 顔色悪いぜ」
ミディは思い詰めたような顔をしているのである。
「今日帰っちゃうんでしょ、フロル」
フロルはうなづいた。もうすぐ出発する予定なのだ。
「私たちが送ったら迷惑?」
彼女は聞いた。兄にステーションまで送ってもらうつもりだったのだ。
「いや、かまわねぇよ」
フロルの返事にミディの顔がほころんだ。
「よかった! ほんと言うと気になってたんだ。フロルが私達の事、嫌んなったんじ
ゃないかってみんなで心配してたんだ」
「そんな事ねぇよ!」
フロルはあわてて否定した。そういう気持ちがあった事は確かなのだ。

 デレックの運転する大型の車がフロル達を迎えに来た。
「じゃ!」
短い言葉で家族に別れを済ませフロル達は車に乗り込んだ。小型バスほどの車内には
この前のメンバーがフロル達を待っていた。
「またしばらく帰ってこないんでしょ、これみんなからフロルにと思って」
ミディは空色のリボンがついたブーケをフロルに手渡した。彼女の後ろにいた誰かが
彼女の頭に透き通ったベールをふわりと掛けた。
「何すんだよ、これ… 」
フロルはベールをつまんだ。
「あなたたちの婚約祝いよ」
そこにいた幼なじみたちが二人に向かって紙吹雪を投げた。
「おめでとう、フロル。いい人見つけたわね。タダトス、フロルをお願いね!」
ミディが祝いの言葉を言った。
「フロル、君が特別って言葉を嫌ってたけど、それは決して悪い意味で言ったんじゃ
ないんだ。それに君は僕たちにとってたった一人で宇宙に飛び出した… いわば僕た
ちの夢のかたまりみたいなものなんだ」
「そうだよ、フロルはリレーで言うとアンカーなんだ。オレ達の期待を一身に受けた
最終走者なんだ。だから… ずっと君を、遠く離れて応援してるから頑張れよ! オ
レ達はこの星で頑張るからさ」
「もし落第してここに帰って来てもオレ達は決して笑ったりしないからな! そんな
奴がいたらぶっとばしてやるよ」
「おいおい、オレ落第する気はねぇからな! でもありがとう。そうならないように
オレ、やってみるよ」
フロルはタダの方を向いた。タダはフロルの心が晴れて行くのを感じ、彼らの素朴な
親切をありがたく思っているのであった。
「写真をとろうぜ」
誰かが言った。その声にデレックは車を止めた。みんながフロル達のまわりによって
くる。
“フロル、笑って!”
泣き出しそうな顔をしているフロルにタダがそっとささやいた。カメラの持ち主は何
枚も自動シャッターのスイッチを押した。

「はい、これは二人の分」
ミディが写真を渡した。焼き増しじゃないので二枚とも微妙に違って写っている。そ
の写真をじっと眺めながらフロルはいつしか彼らに対するわだかまりを消していた。
彼女は一時でも彼らの事を疎ましく思った自分を恥じていたのである。
「ありがとう、君たちの事は忘れないよ。フロルには素敵な幼なじみがたくさんいる
んだって事を知って僕も嬉しいよ」
タダは手を差し出した。その結果、彼はたちまち握手の渦に巻き込まれたのである。
なかには“フロルの事を好きだったのに… ”と言う、おもしろくない感情が込めら
れていた手があったのだが… あえて直感を働かせないようにしたタダだったのだ。

 出航の時間が来た。タダはフロルと共に船の方に歩いて行った。
「フロル!!」
デレックはフロルの後ろ姿に向かって叫んだ。
「たまにはオレ達の事も思い出してくれよな! 大学の友達が今のお前にとっては大
事な事ぐらいわかっているけど… オレ達もいるんだって事、おぼえといてくれよな!!
  ヴェネからお前が頑張ってるのを見てるからな!」
フロルが振り向いたのと泣き出したのは同時だった。そんなフロルをタダは受け止め
た。
「タダ、フロルを頼むぞ!!」
デレックはもう一度叫んだ。タダは手を振ってそれに答えたのである。

 船のロビーでフロルはすでに見えなくなったヴェネの方を名残惜しそうに見つめて
いた。故郷を後にする時の気持ちはいつも変わらない。
「デレックは僕の事をタダと呼んだ」
タダはフロルに言った。
「 ……? 」
「それまではタダトスって呼んでたんだぜ」
その事か… フロルは何を言い出すのかと思ったのだ。タダには時々そんな事がある。
「いい友達だね、君の幼なじみって」
「うん、オレもそう思う。今になって思った… 」
「いっそさっきの車の中で結婚しちまえばよかったな」
「えっ?!」
フロルの驚きは大きかった。ロビーにいた他の乗客が何事かと振り返ったのである。
「ベールをかぶった君の姿を見た時そう思ったんだ。紙切れ一つの事で結婚してると
かしてないとか言うの、ばからしくなってきちまった」
その言葉にタダの本心が見えたような気がするフロルはあえて否定しなかった。
「お前、けっこう単純だな。でもオレはかまわねぇよ」
フロルはタダの首に腕をからませた。
 ロビーにいた乗客はそんな二人の様子を怪訝そうに眺めていた。細くて中性的に見
えるフロルが男の子みたいな服装をしていたので“怪しい二人”に勘違いされたので
ある。そんな他人の感情がタダに伝わって来たのだが、彼はあえて無視していた。所
詮、旅の恥はかき捨てなのだ。
「オレ達って似合いのカップルに見えるんかな?」
フロルは自分たちに視線が集まっているのを感じていた。それは彼女の誤解だったの
だが… 
「多分ね」
タダはいたずらっぽく笑った。その笑顔につられてフロルも笑った。まわりで見てい
た乗客は勝手に誤解して何かをささやきあっている。しかしタダはその状況を楽しん
でいた。これが余裕と言うものなんだな… タダは思った。かれはいつもと同じよう
にフロルを抱いて髪をなでていた。

 乗り継ぎのステーションまでまだ時間がある。二人は客室で仮眠を取っていた。ヴ
ェネでは夜の時間なのだ。
“さっきと季節が違う… ”
ヴェネの季節が移っている。まだ寒いけれど淡い緑の草の芽がのぞいている。今は早
春なのだ。
“これは予感なのかな?”
タダは目を覚ました。自分の横でフロルはまだ眠っている。その寝顔をじっと見てい
たタダは安心したように再び目を閉じた。
 早春の光の中に立っているフロルの姿が見えた。自分を呼ぶ声がする。タダはそっ
ちの方に走って行った。
 知らぬ間にデレックがいた。ミディをはじめ変化を終えたフロルの友達がいる。フ
ロルはずっと前からそうして来たように彼らと楽しそうにしゃべっていた。かけがい
のない故郷に住む友達はいつも暖かく彼女を迎えてくれる。彼女は今、それを心から
感じているようだった。それはタダの夢とは思えないほど鮮明であり近接未来にあり
そうな光景だったのである。

 かすかにほほ笑むタダを乗客はやはり薄気味悪いものを見るような目をして通り過
ぎるのであった。一度気になったものは何度も見に行きたくなる。すっかりその対象
にされてしまった二人は誤解を受けたまま、乗り継ぎのステーションまでの船旅を続
けるのであった。もちろんフロルはそんな事は夢にも感じていなかったのであるが…


                                    終



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