銀色物語・シリーズbV
長老の手記編
タダはティムの両親に宛てた宇宙大学からのメッセージを持って里帰りをした。
ティムはタダのシベリースにおいての友人であったが若くして事故で逝ってしまっ
て今はもういない。しかし彼は亡くなる前に自分の研究していたレポートをタダに
託し、宇宙大学に渡していたのであった。
年中夏の惑星に吹く風は、いつもタダをなつかしい気持ちにさせてくれる。前に
帰って来た時はフロルも一緒だった… それは長老にフロルを紹介する為であり、
自分の育った所を見てもらいたい為でもあった。今回もフロルがついて来る予定で
あったが彼女は追試のためにこられなくなってしまったのである。今頃頑張ってい
るだろうな… と、タダはフロルのシミュレーションルームで船の操作している真
剣な表情を思い浮かべていた。ほんの短い帰郷にもかかわらず、もうフロルの事が
気にかかるなんて自分は思っている以上にフロルを必要としているのかもしれない
な、と思うタダであった。ティムの両親はタダから受け取ったメッセージに感激し、
大学側の誠意を感じていた。
「お帰り、タダ」
小さな診療所を開いている長老は、ちょうど患者が引けてしまったので仕事を終え
たところであった。タダが大学に行ってからは彼の替わりに助手を一人雇っていて
、細かい仕事を手伝ってもらっていたのである。その助手ももう帰るところであっ
た。
「随分遅かったな、もっと早く帰ると思っていたのだが… 」
長老は目を細めてタダを見た。ティムの所で時間をとっていたのであろう事は想像
できる。彼から見たタダはまだまだかわいい息子か孫のようなものなのだが、確実
に彼は帰る度に成長していたのである。少年らしさが抜けてしまったのが嬉しいの
か淋しいのか分からないが、ともかく帰って来るだけで嬉しくなって来るのだ。
“わしも歳をとったものだな… ”
長老の心がこぼれてきたのにタダは驚いた。今までそんな事があっただろうか?
ふたりっきりで暮らしていたとはいえ長老は長老であり決して父や祖父ではなかっ
たのである。それは両親が宇宙船の事故で病死したときからその位置は変わらなか
った。宇宙船の事故をきっかけに船長としての責任を取り、パイロットを辞め身寄
りのない自分を引き取って育ててくれた長老。幼いころから彼のようになりたい、
追いつきたい、甘えという感情を振り切り彼の養子として恥ずかしくないように振
る舞わなくてはと努めて来た自分。しかし、はたしてそれで良かったのであろうか?
タダはかつてない感情を長老に対して抱き始めていたのである。
「体の調子はいかがですか」
タダは聞いた。気のせいか顔色が悪いような気がする。いつの間にかたくましかっ
た肩の盛り上がりも少なくなってしまって、ひとまわり小さくなった老人が目の前
にいた。
「いや、大丈夫だ… 退院してからはずっと気をつけているからな。それより今日
はフロルと一緒じゃなかったのかね?」
長老は目を細めてタダを見た。彼女の名前をだすと、いつも冷静なタダらしくない
反応を示す。急に饒舌になったりして… そんなタダを見るのが楽しい長老であっ
た。
「フロルは追試があって来られなくなってしまったのです。でも、ひょっとしたら…
後から追っかける、とか言っていたけど… 」
タダはいつものフロルの成績からしてここに来るのは無理だろうな、と踏んでいた
のである。これは直感力というのではなくて誰でも彼女を知っていればわかる事な
のであった。彼女は嫌いな科目は徹底して苦手なのである。
「あしたあたりここにやってくるさ、お前に会いにな… 」
長老の直感力は確かではあるがタダには信じられなかった。フロルに関しては冷静
に直感力を働かす事のできないタダは長老の言葉がとても信じられなかったのであ
る。とは言え長老の直感力はあなどれない、しかしそれよりも“お前に会いに… ”
と言う長老の言葉にタダは赤くなった。
“歳のせいか意地悪くなったのかな?”
タダの心が分かったのか長老は咳払いをした。
「あ… 」
タダはあわてて自分の部屋に荷物を置きに行くのであった。
「なあ、四世、オレの隣に乗ってくれないか?」
フロルは四世にたのんだ。ワープ航法の実技テストなのだ。彼女は時々このテスト
に落っこちる。いつもの彼女なら何が何でも自分の力で合格してやる、と頑張るの
だが今日は違っていた。タダが大学の用事で帰郷していて自分もそれについて行く
はずだった。なのにこのテストの為にに行かれなくなってしまったのである。でも
今日合格すれば明日にはタダのいるシベリースに行けるのだ。このさい小さなプラ
イドなんて無用の事なのだ。
「めずらしいな、お前が補助を頼むだなんて… 」
四世はフロルをまじまじと見た。
「そんなにタダの所に行きたいのか?」
アマゾンがからかった。
「ああ、行きたい! だから頼んでんじゃねぇか!」
フロルは恥ずかしそうなそぶりも見せずに言い切った。
「あーあ、お前にはかなわねぇな。全くタダは幸せもんだぜ」
アマゾンはガンガや四世らと顔を見合わせて笑った。
タダは自分のベットに寝転がってぼんやりとした時間を過ごしていた。別にこれ
といって考える事もなく悩んでいる事もない完全な弛緩状態であり、たまにはこう
いう時間の過ごし方もいいな、と思うタダなのだ。長老がいるからこそ、こんな時
間が持てるのかもしれない… 彼は自分にとってやはりなくてはならない存在なの
だとあらためて痛感するのであった。
長老も又、居間でぼんやりと自分の椅子に腰掛けて窓から見える夜空を眺めてい
た。タダの思考がなんとなく伝わって来る。はっきりとは分からないが、まだ自分
が必要とされているのが分かる。タダは感情表現が下手な子供だった。それは不慮
の事故で両親を亡くした事が起因になっているのだろう。しかし一生懸命になって
自分に気に入られようと努力していた小さな子供は、いつの間にか自分を追い越し
てしまった。彼を悲しませないように過去の記憶を封じ込めた時の事を思い出す。
いつかこの子が自分を越えた時、その封印された過去がよみがえってくるようにし
ておいたのだ。彼は自分の力で過去をよみがえらせた。恐るべき力である。彼は自
分が思っている以上の潜在能力を持っているらしい。まだ本人は気が付いていない
のであるが…
長老は古い木製の机の上に置いていたペンを執った。彼は肉筆で書く手記が好き
だった。若いころから書き綴られた分厚い手記は、同じく木製の本箱に収まってい
たのである。そして今、タダが帰って来た事を記す為に手記を開いたのであった。
タダはティムの事を考えた。この前シベリースに帰って来た時に会ったのが最期
だった。会ったといってもそれは肉体ではなく、彼から抜け出た魂だったのである
が… それは彼の研究していた超能力だったのかもしれない。あるいは単なる幻で、
自分たちが惑わされていただけかもしれない… いずれにせよ彼はもうどこにもい
ないのだ。ティムは自分と友達になりたがっていた。そして自分も彼の中に自分と
共通する何かを見いだしていて、それが嫌だったのか引かれているのかは分からな
いが彼に対し思う事があるのは確かであった。精神感応者… 超能力… 念動力…
はたして人間にはどこまで許されているのであろうか? 果てしなく神に近づけ
る人間はいるのであろうか?
“やめた! もう寝よう… ”
タダは薄い銀色に光るシーツのようなシベリース独特の織物の布団をかぶった。頭
の中にはティムの書いたレポートが走馬灯のように回っている。しばらくねむれそ
うになかったがとりあえず目をとじた。
シベリースの太陽は高い。まして正午ともなるとなおさらである。フロルは汗を
ぬぐって上着をぬいだ。焦げ茶のタンクトップに白いショートパンツを組み合わせ
た彼女は、決して派手ではないのだがステーションにいる人々の目を引くのには十
分であった。彼女は夜行の船で着いたところなのだ。宇宙において夜行というのは
おかしい表現であるが、直行便において、あるステーションを夜に出発し、目的地
に翌朝到着するように運行する船の事をさすのであった。だいたい夜行というのは
時間待ちの休憩が多く時間がかかる。おまけに時刻表に載っていないステーション
にも止まるので夜中に目を覚まして驚く事もあった。個室だったとはいえ慣れない
船の中で少々疲れ気味のフロルは大きく伸びをした。
「君、たしかタダの… ?」
ステーションにいた学生らしい団体の中の一人に声をかけられてフロルは振り向い
た。以前会った事のある学生が立っている。名前は忘れたが一度しゃべった事があ
ったのだ。小さなステーションの事だ、知っている人間に会っても不思議ではない。
フロルはにっこりとほほ笑んだ。知らぬ間にフロルのまわりに輪ができて話がはず
んでいた。
「じゃ、僕が送って行くよ」
声をかけた学生が、名前はドナンというのだが… 彼の車でタダの家に向かうこと
になった。
「オレも一緒に行くよ。こいつだけだと危険だ」
シェーンとオツールも同行する事になった。
「ばか、どうして僕が危険なんだよ! タダの婚約者にそんな失礼な事はしない」
ドナンのむきになる様子がおかしくて、フロルは思わず大きなで笑っていた。
タダの家に向かう車はなだらかな丘陵地帯を走っている。時おり小さな村落があ
るぐらいで対向車も少なかった。
「フロル、君はどうしてタダと婚約したんだい?」
シェーンは聞いた。タダの学生時代を知っているシェーンにとってタダの婚約は不
思議以外の何物でもなかったのだ。
「そんなにおかしな事?」
逆にフロルは聞き返した。
「ああ、すごく不思議だ。だってタダは学生時代に誰ともつきあった事はなかった
んだ。もちろんあいつに心を寄せる女はいたけどな。でもあいつは決して付き合お
うとはしなかったんだ。勉強はそつなくこなすし運動神経もいいし、おまけに直感
力においてはあいつの右に出る者なんていなかった。教授でさえかなわなかったか
らな。でもあいつは取っ付きにくいから友達は少なかった。自分で拒否しているみ
たいな所があって… 」
シェーンはフロルにの問いかけに答えてやった。
「そうかな? オレ、タダが取っ付きにくいなんて感じた事なかったけどな。あい
つけっこうムキになるタイプでさ、オレなんか一度ひっぱたかれた事もあったぜ。
でもほんとはすごく優しいしおまけに甘いとこがあってさ、いいやつだぜ」
フロルは大学入学の最終テストを思い出していた。
「そんなもんかな、でもなんか他人行儀な態度をする時があったりするけどな。
ちょっと暗くて… 」
オツールはフロルの言葉が信じられないのだ。
「なあ、お前らほんとにタダの友達なんか? オレ、友達にそんなに思われてた
ら泣きたくなるよ」
フロルは彼らの言葉にむっとした。
「でも本当の事なんだぜ。でもタダが思っている以上にオレ達はタダの事を友達
として見ているんだけどな… あいつは自分の事に関しては以外と鈍感なんだか
ら。本人は気づいていないかもしれないが」
友人とともに現れたフロルを見てタダは驚いた。長老の直感を否定しながらも
そうあればいいと願っていただけにその驚きは大きかったのだ。
「フロル、よくテストにパスしたね」
タダはフロルの両肩にポンと手を置いた。
「ありがとう。君たちがフロルを連れて来てくれたんだね。よくフロルの事、お
ぼえていてくれたんだね」
タダは嬉しそうに礼を言った。
「こんな美人、一度見たら忘れないよ」
ドナンはお世辞ではなく本気で言った。それを知ってドナンは本当にいいやつだ
と思う単純なタダであった。もちろんタダの心は彼らには見抜けなかったが…
フロルを迎えた昼食は長老と二人の時よりもずっと華やかなものになった。
「タダ、フロルの荷物を部屋に運んであげなさい」
長老の言葉にタダはうなずいた。立ち上がろうとするフロルを制し、長老は話し
かけた。
「フロル、タダは君に対してはかなり打ち解けているようだね」
長老の言葉にフロルは疑問を持った。
「オレに対して… と、いうのかどうかは分からないけどタダは何でも話してく
れるよ」
フロルの言葉にウソのないのがわかる。
「でもさ、オレ思うんだけどタダはどうしてじいさんの事、長老って呼ぶんだろ
う?」
突然フロルにじいさんと呼ばれ長老は驚きと共に、今まで感じたことのない甘い
響きを味わった。
「あ、ごめん。オレ、失礼な呼び方したんかな? でもオレ、長老って呼びたく
ないな。だってなんだか一線をひいてるみたいな呼び方なんだもん。嫌だな」
長老はそんなフロルをいとしそうに目を細めて眺め、首を横に振った。
「私はかまわんよ。今まで私の事をそう呼んでくれる人間がいなかったから少し
くすぐったいような気がするが」
「じゃ、いいんだね。オレがそう呼んだって。良かった! なんだかすごく嬉し
いや」
フロルは長老の手を取った。ふしくれだったお世辞にもきれいとは言えない老人
の片手がフロルの手のひらの中に包まれ、その素直な愛情表現に今までタダや自
分に持ち合わせていなかった魅力を感じる長老であった。それは“じいさん”と
いう言葉の響きに酔っているからかも知れないが、それはそれでいいと思うので
ある。長老はフロルの頭に手を置いて、まるで小さな子供にするように髪をなで
た。彼はタダに対する愛情と同じようなものをフロルに感じずにはいられないの
である。
「孫とはこういうものなのかな… 」
長老のもらした言葉にフロルはタダの長老に対する態度を思い出した。フロルは
思った。
“タダ、お前が悪い” … と。
「フロル、来てごらん。こっちだ!」
タダが二階から呼んでいる。何だか興奮しているようだ。フロルは思わず長老と
顔を見合わせた。
「何だよ? いったい… 」
フロルはタダの部屋に入って行った。
「ほら、あそこ」
タダの指さす方を見ればそこには薄紅色に輝く鳥の群れが飛んでいた。それも半
端な数ではない。
「うわっ! すげぇ… 何だよ。季節もないのに渡り鳥というんじゃねぇよな。
でもきれい… 」
空を一面に埋めつくし鳥は飛んでいる。だんだん近づいてきた鳥はタダの家の上
をも飛んだ。
「エサの昆虫を求めて飛び立ったんだ。ここではめずらしい鳥じゃないけどこれ
だけの群れの移動は初めてだ… 」
タダの顔はまるで少年のようだ。
「じいさん! じいさんも来てみなよ。すごくきれいんだから」
タダの部屋の前まで来ていた長老にフロルは声をかけた。長老はタダの部屋に入
り一緒ににそれを眺めた。タダはフロルの長老に対する“じいさん”という呼び
かけに驚き、彼の方を見たが彼は別にそれを気にしている風にも見えなかった。
長老は窓の外を見ながらさりげなく二人の肩に手を置いた。少し驚くタダ。自然
に受け止めるフロル。二人の心の対比がおもしろく失笑する長老。彼はフロルに
刺激され、タダに対し一歩踏み込んで見ようと決意した。
今日はあいにくの雨だ。ステーションまでいつも長老が車で送ってくれる。
「体に気をつけてな」
長老は二人に言った。
「じいさんこそオレたちが帰っちまってがっくりこないようにな」
フロルは長老の手を握って答えた。タダは黙って笑っている。
「タダ、これを… 」
長老は一冊の堅い表紙の本らしき物を彼に渡した。かなり古いものだ。どうやら
長老の手記らしい。
「お前の事が書いてある」
長老の言葉にはっとするタダ。
「さあ、行きなさい。もうすぐ船が出るぞ」
長老にせかされて二人はステーションの中に消えていった。長老は二人を見送っ
た後でぼんやりと雨の音を聞いていた。しかし何を思ったのか突然ステーション
の中に引き返した。
まだ少し時間がある。タダはさっきの手記を開いて読み始めた。フロルはそん
なタダの邪魔をしないようにそっと彼の横に腰掛けた。タダは真剣に読んでいる。
中には彼の両親の事が書かれていたのである。宇宙船の事故で亡くなる前に、船
長であった長老に託したタダに対する母親の思い、彼の生い立ち… きわめて平
凡な環境で育ったタダだったがこの事故の為に彼の人生は変わった事など克明に
書いてある。
しかしタダが一番ショックをうけたのは、長老がタダを本当にかわいがって育
ててくれていたという事実だった。子供のいない長老にとって初めての育児や教
育は並大抵の物ではなかったのである。初めて高い熱を出した時の医者にあるま
じき程のうろたえよう… 自分になついてくれない淋しさ、学習面においてトッ
プを独占し続けている事の他人に対しての自慢、直感力に秀でた彼をさらに成長
さす為の努力など数えあげればきりがなかった。長老は本当にタダがかわいいの
だった。しかしタダと同じく感情表現が下手だった。すぐれた直感力を持ちなが
らお互いのことを見抜けなかった愚かしさをタダは痛感した。
タダは知らぬ間にあふれた涙を拭った。
「どうした? タダ。どうしたんだ?」
フロルは不安げに彼の肩を揺すった。
「フロル、僕はずっと長い間長老の気持ちがわからなかったんだ… だからいつ
も… きっと僕はかわいげの無い子供に写ってたんだと思う… 違うのに… 本
当はずっと好きだった。血はつながっていなくても肉親だと思ってた… 」
タダは手記を閉じた。
フロルはいきなりタダの手を引っ張った。突然のことに驚くタダ。しかしフロ
ルはやめない。彼の腕をつかみ、さっき通った改札の外に引っ張って行ってしま
ったのだ。フロルのされるがままになっていたタダは、そこに長老が立っている
のを見つけた。一瞬とまどうタダ。
「どうした? お前、素直じゃねぇぞ! お前のじいさんじゃないか。どうして
遠慮なんかするんだよ… 言葉にださなきゃわかんない事だってあるんだぞ!」
タダはフロルの方を見た。悲しそうな顔をしている。タダは自分の意気地の無さ
を恥じた。
「 …… ずっと… 父さんみたいだと思ってた… そしてこれからも… 」
今まで弱みを見せなかったタダが初めて長老の前で涙をこぼした。タダは長老の
体を両腕でそっと包み込んだ。いつの間にか小さかったタダは長老よりも大きく
なっていた。背は高くなり声が低くなった。そんな彼は全身で長老に対し愛情表
現をしたのであった。
タダはしばらく動かなかった。
「もう一度、お前がここに戻ってくる予感がしたのだ… タダ」
長老は嬉しそうに言った。
「私はここで、いつまでもお前の成長を見ているからな。それにフロル、タダは
お前がいなければ駄目みたいだ。こいつの事をよろしく頼むよ」
「まさか、頼りにしてんのはオレのほうだよ。だってオレ、何にもできないから」
フロルは肩をすくめた。
「さあ、行くがよい。これをのがすと大学行の船に間に合わないぞ」
長老は二人を再び送り出した。出発の時刻が迫っている。タダはフロルの手を取
った。
「行こう!」
二人は振り向かず走って行った。長老はそれをながめながらいつしか自分の人生
を振り返っていた。タダを引き取って良かったと感じたのは一度や二度ではなか
った。彼のいない人生はもはや考えることができず、今更ながらかれの存在の大
きさに驚くのであった。そしてフロルも… 突然両手を広げて飛び込んで来た無
邪気な天使のような娘だった。これから先、二人がどんな人生を歩むのであろう
かと想像がつかないのは自分が老いたせいであろうか? それでもいいだろう。
でも確実に予感する事ができるのは、タダのまだ眠っている才能が、確実にそう
遠くない時期に開花するであろうという事実である。
長老は一人で笑っていた。
“まだまだ人生は捨てたもんじゃないな”
そんな思いであった。
「どうしてーっ!」
フロルは思いっきり不満を言った。シベリース発の船が遅れた為に大学行の船が
出てしまったのだ。
「仕方がない。夜行で帰ろう」
タダはチケットを買いに行った。
「あーあ、またかよ。オレ、行きも夜行だったんだぜ… 又、ねられないや」
フロルはまだ文句を言っている。間もなくタダが戻って来た。何だか嬉しそうだ。
「フロル、実は… 」
タダは言いにくそうだ。
「何だよ?」
フロルは聞いた。
「実は… 満席で個室が一つしか取れなかった。それでいいかい?」
フロルは思わず赤くなった頬に両手をあてた。
「し… しかたねぇだろ。これに乗らなきゃ帰れないんだもん」
フロルはチケットをタダから取り上げた。タダはフロルの荷物も持って船に乗り
込んで行った。
狭い個室のベットに二人は腰掛けた。
「フロル、君は長老の言うとおり僕にとってなくてはならない存在なんだと思う」
タダはフロルの肩を抱いた。フロルは下を向いて黙っている。
「フロル… ?」
タダはフロルをのぞき込んだ。
「お前さ。オレの事、同情で婚約したんだと思ってた。でもほんとに違うよな?
オレ… ずっと聞くのが怖かったんだ… 」
フロルがそんな事を言うのは意外だったが、タダはそんな彼女の不安を取り除く
ように優しく髪をなでながら答えた。
「まだ未分化だった頃の君に最初からひかれていた… 本当だよ」
タダはフロルの背中に手をまわしだきしめた。
「好きだよ… タダ」
フロルは小さな声で言った。
「じゃ、僕は愛している!」
タダははっきりと言った。
「あ。じゃ、オレも!」
フロルは少しむきになった。そんなフロルがタダはどうしようもないくらい愛し
く感じられ、彼女を抱く手に力が入った。
「おい、フロル? 寝ちまったのかい?」
タダの腕の中でいつしか彼女は眠ってしまった。短い旅行に往復夜行でというの
はかなりきついのだ。タダはフロルにシーツをかけてやり、小さな寝息をたては
じめた彼女にそっとキスをした。
「君って本当に… 」
タダはため息をついた。彼は全く普通の青年だったのだ。
「タダ、早く来いよ!」
熟睡していたフロルは実に元気一杯であった。しかし一睡もできなかったタダは
最低の気分だった。
“いつまでこんな気持ちでいなきゃならないんだろうな”
タダは心底そう思った。そんなタダの気持ちなんて全く知らないフロルはずっと
前を駆けて行くのであった。
終