アンドレ物語・3
オスカルがジャルジェ家の舞踏会が姿を見せてからというものは他の貴族達からの
舞踏会の招待状には彼女の名を記したものが後を絶たなかったのである。
「どうしたものかな」
ジャルジェ伯爵は夫人にぼやいていた。確かにうわさになるだけの器量を持つ娘なの
だが彼女を見世物にする気はなかったのだ。
「それでも断ってばかりはいられませんよ。オスカルはこれから先にある程度の好奇
心の中に身を置かなくてはいけないのじゃないのですか?」
夫人はさらりと返事を出したのである。
「出席させろというのか?」
「そんな場合もあります」
夫人の言葉は強いものがある。ふだんはしおらしくて上品な彼女も時として彼を威圧
するような迫力を持っていた。
「男として生きて行く為の試練かも知れません」
もう一度、彼女は同じ口調で言ったのだ。
“わたしの一時の思いつきが娘の運命を変えたのだな”
軽い後悔がジャルジェ伯爵の胸をよぎっていた。しかし今さらどうなるものではない。
「わかった。今度の舞踏会はオスカルも連れて行く」
彼は決意したのである。そうなのだ、オスカルは娘でありながら娘ではない。その運
命を背負わせたのは自分なのだ。
「見守って行くつもりですから」
彼女はにっこりほほ笑んで彼の手に自分の手を重ねたのだ。
「おまえを妻に選んだ事をほこりに思うよ」
彼の最大の賛辞を彼女に送る伯爵は正直者だったのである。
ジェローデル伯爵家には前評判が行き渡っているのかジャルジェ家の舞踏会よりも
多くの貴族達が押しかけていた。
「たった7つの子供にバカみたいだな。でもあいつが女伯爵になるのか?」
自分の従僕にそう言ってのけたのはジェローデル伯爵家の次男であるビクトル・クレ
マン・ド・ジェローデルだ。跡継ぎの長男ではない彼は、末っ子でありながらも伯爵
家を継ぎ、女伯爵となるオスカルがうらやましかったのである。
“ご自分もまだ8つだというのにビクトルさまは… ”
彼の従僕はまだ見ぬオスカルに嫉妬している彼に同情していたのだ。ひいき目に見な
くても彼はジェローデル家の長男よりも優れていた。容姿端麗で剣の素質もあり、頭
も切れる彼は幼いながらも並以上のプライドを持っていた。
「ビクトルさま、旦那様がお呼びですよ」
彼は気難しい幼い主人に舞踏会に出るように促したのであった。
盛大な舞踏会で当然のようにオスカルはみなに注目されていた。ジャルジェ伯爵の
元には同い年くらいの子供をつれた貴族達が集まって来ており、いつもとは違った雰
囲気になっていたのである。
“あいつがそうなのか”
ビクトルはジャルジェ伯爵の横にいるオスカルの姿を見つけたのだ。
“確かに見た目はうわさ通りだな”
幼いながらも彼の審美眼は確かだった。
“しかし女じゃな。どうしてドレスを着て来なかったのだ?”
「おい、あいつはいつもああなのか?」
彼は横に控えていた従僕に聞いた。
「わたしもお目にかかったのは初めてではございますが、いつも男のなりをしておら
れるようです」
「男のなりを… なのか。でも生意気そうだ」
彼はあごに手をやって何かを考えていた。彼は少なからずオスカルに興味を持ったよ
うであり、それがどうしてだかわからないままに彼女の姿を目で追っていたのであっ
た。
「アンドレ、アンドレ!」
アンドレは従僕部屋の大人たちの中でぽつんとイスに座り御馳走を食べていた。今日
はジャルジェ伯爵がいたので彼の出番はなかったのだ。しかし他の従僕たちのように
酒を飲んで談笑する事のできない彼はオスカルの呼ぶ声にぱっと顔を輝かせ近寄って
行った。
「外に出よう。ここは息苦しい」
そして彼女はアンドレの手を引いてジェローデル伯爵家の裏庭に出て行ったのである。
広い裏庭は幾何学模様の花壇があり色とりどりの花が咲き乱れていた。それは自然
の多いジャルジェ家の庭よりずっと華やかな印象を受けるのだ。オスカルは外の空気
を吸いながらいつもの表情を取り戻していたのあった。
「おい!」
と、呼び止めたのはビクトルだった。
「わたしの事か?」
オスカルが声のする方に顔を向けた。そこには栗色の髪をした少年が腕組みをして立
っていたのである。
「おまえだ。どうしてここにいる?」
ビクトルの横柄な言い方にむっとしたオスカルは彼をにらみつけていた。
「おまえなんぞに言う必要はない。行くぞ、アンドレ」
彼女は彼を無視してその場を離れようとしたのである。
「待て、わたしが待てと言っている」
再びビクトルの声が降ってきた。しかしオスカルはそんな失礼な者の命令に従うほど
お人よしではない。
「どこの誰かは知らぬ奴の命令なんて聞かない!」
彼女は振り向きもせずに答えたのであった。
「何を!」
ムキになったビクトルはオスカルの前に回り込んだのだ。
「オスカルに何をする!」
彼女をかばうようにしてアンドレが前に出た。
「おまえは関係ない」
しかしアンドレは彼女の前から離れない。それが余計にビクトルのしゃくに障ったの
だった。
「どけっ!」
彼はいきなりオスカルにかかって行ったのである。それはあまりにもとっさであり、
アンドレも一瞬のすきを突かれたような格好になっていたのである。
「おまえは生意気なんだ!」
ビクトルはオスカルの両腕をつかみ花壇に押し付けた。
「何をするっ!」
彼女は押しのけようとしたが無理だった。ひとつ違いの彼の力は強く、オスカルの力
ではとても振りほどけないものだった。
「 … 」
出遅れたアンドレは名誉を挽回するかのようにビクトルを彼の腕をつかみオスカルを
自由にしたのである。
「何をするっ!」
今度はアンドレに向かって牙をむくビクトルの目は怒りに燃えていた。
「素手なら君には負けない」
冷静にしゃべるアンドレに彼はますますいきり立ったのである。
「おい、おまえの相手はわたしだろう」
アンドレに向かおうとしているビクトルにオスカルは花壇から拝借した木製の杭を放
り投げたのだ。
「わたしは強いぞ、卑怯者!」
彼女も又、怒っていたのである。どこの誰かもわからぬ者にいきなり花壇に押し付け
られ自由を奪われた、それだけでも大いなる屈辱なのだ。
「やめろ! オスカル。相手がケガをする!」
今度はビクトルをかばうアンドレなのだ。しかしオスカルを前に引くようなビクトル
ではなかったのだった。
「従僕! 黙っていろ」
彼はアンドレを腕で払い、オスカルに勝負を挑んだのである。
勝負は一瞬だった。圧倒的に強いオスカルの剣の前にビクトルはあっさりと敗れて
しまったのだ。将軍の地位を持つ父に直接指導を受けている彼女とろくに剣も使えぬ
従僕を相手にしていた彼の差は歴然としていたのである。
「わたしは剣も強いはずだ… 」
はいつくばった彼は信じられないというような顔で彼はオスカルを見上げていた。
「負けてもらっていたのだろう」
強気な彼女はビクトルの目の前に杭を突き付けた。
「名をなのれ!」
オスカルは澄んだ声で命令した。
「ビクトル… クレマン・ド・ジェローデル… 」
素直に名乗った後で、彼はさっきの彼女の言葉を思い出していた。
“負けてもらっていた… ”
そんな事に今まで気づかなかった自分が恥ずかしい。ましてや年下の彼女に素手でつ
かみかかった事も今から思えば恥ずかしすぎるのだ。
“彼女が気になっていたのだ… 伯爵になるからとかいうのじゃなくて最初から…
私は話をするきっかけを作りたかっただけなのだ… ”
ビクトルの胸に後悔が押し寄せる。しかし切れる彼の頭は次にどういうリアクション
をするかを考えていたのである。
「マドモアゼル… 」
すっと手を差し伸べて彼はオスカルの指を持ち上げた。
「 … 」
彼は無言で彼女の指にキスをしたのである。それはあまりにも鮮やかで、とても8才
の少年の仕草とは思えないものだった。しかしそれが本来の彼の姿のようであり自然
だったのである。
ビクトルの去った裏庭に夕闇が迫っていた。知らぬ間に舞踏会から抜け出した幾組
かのカップルが彼らの横を通り過ぎ、奥の林にと消えて行ったのだ。それが何を意味
するのかを知らぬアンドレはぼんやりとその跡を目で追っていたのである。
「オスカル?」
ふいに下を向いた彼女にアンドレは呼びかけた。
「アンドレ… わたしは男になりたかった… 」
ぽつりと彼女が言った。
「もっと強い男になってさっきの奴に負けないようになりたい」
こぼれそうになる涙をふいてオスカルは上を向いたのだ。武器を取れば勝てる相手だ
けれども素手ではどうしようもなかった自分の性がうらめしいのだ。
「強いじゃないか」
彼が言った。
「わたしは弱い。負けた」
彼女が答えた。
「剣で勝ったさ。すごいじゃないか。女だと力は弱くて当たり前だ。悔しかったらも
っと強くなればいい」
下手な慰めは逆効果だという事を理屈じゃなくて知っているアンドレはあえて優しい
言葉はかけなかったのである。肉体的な力の差はこれからもずっとついて来るだろう
し彼女も認めなくてはいけない事だと思うからだ。
“でもオスカルは泣くんだな”
彼はオスカルが自分の前で涙を見せたのが嬉しかったのだ。
“こんな気持ちになったのは初めてだ… 少しは頼りにされているのかな”
暖かくて切ない思いが彼の心を支配する。
“あの人差し指に… ”
そしてビクトルと名乗った少年がキスをした彼女の指が気になって来たのだった。
「アンドレ」
オスカルが振り向かずに話しかけた。
「わたしは強くなる」
彼女は自分に言い聞かせるように言った。
「ああ」
アンドレは短くあいづちを打ったのだ。
「剣では負けたくない!」
振り向いた彼女の顔はいつもの勝ち気なオスカルだった。そうして彼女は自分の道を
真っすぐに生きて行くのだろう。
“僕はいつでもオスカルの味方だよ”
言葉に出さない彼の気持ちは彼女には伝わっていなかった。しかし遠からず伝わる時
が来るだろう。幼いふたりはまだ出会ったばかりなのだ。
早春の風が吹く夕暮れの裏庭をふたりは歩いていた。これから始まる歴史を知るよ
しもなく。ふたりは… ただ歩いていたのであった。
終