ベルサイユのばら
憂い編(前編)
ブイエ将軍がまた、いやがらせにやって来た。
確か前に来た時はアランをはじめとする兵士達5名が反抗し、営倉入りになったの
だった。
将軍は父とはきわめて仲が悪かった。
父の方が出世が速かったのをねたんでいるのだろう。
しかし何もこんな時にくる事はなかろうに…
私ははっきりとあざがついたほほを押さえた。
まだゆうべの痛みが残っている。
そうなのだ、自分の不注意で民衆に襲われアンドレと共にめったうちにされてしまった。
その時改めて私は認識した。
彼が私にとってただ一人の男性であると言う事を…
「ブイエ将軍閣下に対し、さざげーっ、銃!」
オスカル隊長のリンとした声が響く。
今日の閲兵式は近衛隊にも勝るとも劣らぬくらい上出来であった。
さすがのブイエ将軍も文句のつけようがない。
彼は苦々しく笑いながら衛兵隊を後にした。
何かひとつジャルジェ准将に嫌みでも言ってやろうかと思ったが、突っ込む所がない。
おまけに彼女は益々たくましく、りりしくなったような気がするのは自分が老いた
せいなのだろうかと思ったりもした。
あの衛兵隊を仕切る事ができるのは、今は彼女しかいないだろう。
これから先、何が起こるか分からぬゆえ、とりあえず衛兵隊は彼女にまかすしかな
いのかもしれないとあらためて考えるブイエ将軍であった。
「おい、アラン! 傑作だったな。ブイエ将軍のやろう、文句がいえないもんだか
ら今頃イライラして馬車に乗ってるぜ」
兵士の一人が嬉しそうに言った。
「ふん、あいつにはこうするのが一番こたえるからな」
アランも心なしか声が明るくなっている。
「それに… オスカル隊長に恥をかかしたくねぇもんな、そうだろ? アラン」
彼はそれには答えずさっさと兵舎の方に向かって歩き始めた。
以前、ブイエ将軍を迎えて行った閲兵式では、女であるのに衛兵隊に赴任してき
たオスカル隊長を困らせてやろうとして兵士達はわざと彼女の命令に従わなかった。
その結果、ブイエ将軍を怒らせ、オスカル隊長を窮地に追いやったのだった。そこ
まですると普通の貴族の将校ならただちに兵士達の処分を申し渡すはずだが、彼女
はそれをしなかった。
彼女は兵士達に涙で訴えた。
“心は誰の奴隷にもならない。心は服従される事なく自由なのだ”と。
兵士達はその時初めてオスカル隊長を性を越えた存在とし、認めたのであった。
女という事にこだわっていた自分たちが恥ずかしくもあった。ここまで自分たちに
向かって飛び込んできた隊長は今までにいなかったのだ。
こういう所は衛兵隊士の方が、宮廷貴族よりは進歩的であった。
宮廷においてオスカルの存在とは好奇の目で見られている所もあり、決してその実
力が正当に評価されているとは言えず、父であるジャルジェ将軍無くしては存在を
認められなかったかもしれない。それほど女である事はハンデであった。
「ばあや、アンドレの具合はどうなのだ?」
オスカルは帰るなり聞いた。自分は通りかかったフェルゼンがすぐに助けてくれた
のでケガも少なかったがアンドレはかなりやられていた。
「大丈夫ですよ。お嬢様が心配する事なんてないんですよ。もともと丈夫な子です
からね」
ばあやにかかれば孫のアンドレなんか子供扱いであった。そのくせ心配でたまらず、
夜中に幾度となく彼の部屋をのぞいていたのをオスカルは知っていた。
“アンドレ、すまない… 私の不注意だった… 貴族でないお前までがこんな目に
あうなんて… ”
オスカルは眠っているアンドレの横顔を見つめた。
最近激務に追われ、彼の顔をこのようにじっくりとながめた事はなかった。
生々しい傷があちこちにあり、包帯を巻いた胸が痛々しい。
幼なじみだった少年は今、自分を深く愛してくれており己が傷つく事も厭わずその
身を盾にして守ってくれている。
オスカルはアンドレの手を握った。
“愛してる。アンドレ… 私も心から… ”
オスカルはまだ眠っている彼の耳元でささやいた。
アンドレは身分を越えようとして悩んでいる。
そして自分も女を越えようとして今まで悩んできた。
人は皆、自分自身に疑問を投げかけ苦しみ、闘いながら生きているものなのかも知
れない。
“ … ”
オスカルはアンドレの手を離した。
“アンドレ、待っていてくれ。私にはする事がある… ”
彼女はアンドレの為にも、自分自身の為にもジェローデルとの事をはっきりしなけ
ればならないと思っていた。
オスカルの呼び出しを受けたジェローデルはなぜか、不吉な予感を拭いされなかっ
た。常日頃から自信の塊みたいなところの見えかくれする男ではあったが愛するオ
スカルの事に関しては別であった。
彼はその夜、彼女の口からはっきりと結婚する意志の無い事を聞かされた。
ジェローデルはアンドレに、いや、平民に負けたという事に大いに不満を持った。
しかし、それは彼女がまだ本当に恋をした事が無くただ単に幼なじみとして育った
アンドレを誤解しているだけなのだと信じて疑わなかった。
「 … わかりました。彼が不幸になればあなたも又、不幸になる、それだけで十
分です。身を引きましょう。
私の愛の証しです。
しかし… それでもいつまでも変わらず私の心があなたを求める事をお許しください」
彼はオスカルの前から去っていった。
“身を引く事がただひとつの愛の証し… 人間にはそんな愛もあったのだとは…
人間であればこそ… ”
オスカルは去って行くジェローデルをしばし見つめながら、なぜかほっとする心を不
謹慎だとは思いつつ抱いていた。
“アンドレ… 私の愛は身分を越える事ができるのか?
おまえはどうしてそんなに静かなのだ… ”
オスカルは不安になった。
フェルゼンとの辛い別れを経験して落ち込んでいる時に受けた、アンドレからの求愛…
今まで大切な友達だと思っていた彼はいつしか自分を深く愛してくれていたのである。
身分の違いもあり彼は顔には出さず悩んでいたのだろう。
突然抱き締められて唇を奪われた時、自分の心にはアンドレを受け入れる余裕が無かっ
たのか?
いや… そうではない。
良く分からないが自分はアンドレの事をずっと前から愛しており、友情と愛情の境が
分からなかっただけなのだった。
自分が拒んだ時、アンドレはもう二度とこんな事はしないと誓った。
その誓いは今でも続いている。
じれったくはあったが彼らしいと思う。
“アンドレ、終わったぞ… ”
オスカルは夜空を見上げつぶやいた。
風雲急を告げるフランス国内は今、大きく変わりつつあった。
ブルターニュ州では軍隊が反国王派の貴族の反抗にあい、ドーフィネ州では市民達が
軍隊に瓦を投げつけ、ベアルン州においては兵士達が上官の命令にそむいた。
王室の財政危機を救うため新しい税と借金をめぐり、高等法院側と国王側の激しい闘
いが国王臨席の御前会議においてくりひろげられていた。
反国王派の貴族達は公然と高等法院側に味方し、ここで貴族達が国王離れをする現状
をルイ十六世ははっきりと知る事ができた。
三部会、第一身分、第二身分、第三身分である僧侶、貴族、平民の代表である議員
からなる議会を開く声が、国王の権力を弱め自分達の利益を計ろうとした貴族達の反
乱によりあがっていった。
オスカルには考える事が山のようにうずたかく積んであった。王太子であるルイ・
ジョゼフ殿下の病気も気掛かりだった。
非常事態ゆえ、長い休暇は取れなかったが何としてでも殿下の元に行きたかった。
「 ・ ・ ・ 、では二週間後にまたここで会おう。元気で!」
兵士達はそれぞれ嬉しそうに散っていった。
「アラン、ディアンヌ嬢に私の心からの祝福を伝えてくれ」
オスカルはアランに声をかけた。
「 …… 」
ほほ笑んでいる彼女の気持ちは十分アランに伝わってはいるのだが、彼の若さゆえの
テレもあってなかなか素直に反応できない彼であった。
「オスカル、オスカル… よく来てくれました。ルイ・ジョゼフはずっとあなたに会
いたがっておりました。ずっと前から馬に乗りたいと… 。
お願いします。あの子の望みをかなえてやって下さい」
アントワネットは幼い王子の言う事なら何でも聞いてやろうと思っていた。
たとえそれが死期を早めようとも思い出無くして死んで行くより良いとずっと思っ
ていた。子供のいないオスカルでもアントワネットの気持ちは痛いほど理解する事が
でき、それが彼女を苦しめた。
自分ですらこんなに苦しいのだからましてやアントワネット様は祈るような気持ちで
毎日を過ごしておられるに違いないのだ。
「もっと… わがままを言って欲しいのに… あの子があまりにも素直すぎて…
もう半年も持たないかもしれません… 」
アントワネットはオスカルの胸で泣いた。
「アントワネット様… ルイ・ジョゼフ殿下をしばらく私にお預け下さい」
オスカルは泣きたい気持ちを押さえ、彼女に言った。
どうせ馬に乗せるのだったら少し離れた景色の良いところに連れて行ってやろうと思っ
たのだ。
「お願いします… あなたならきっとあの子も満足するはずです」
ルイ・ジョゼフ殿下の背骨は脊椎カリエスにむしばまれ、すでに組織の崩壊が進み
その一部が後方に隆起して曲がっていた。
結核菌によっておこるこの病気は、炎症を伴うものの激しい痛みはなく、今は微熱が
続いている状態であった。オスカルは殿下をいたわりつつゆっくりと馬を進めた。
「オスカル!もっとお馬をとばしてください。もっと、もっと! 病気に追いつかれ
ないように!」
ルイ・ジョゼフは嬉しそうに叫んだ。
か細い声だがずっと病床にあった者とは思えない程明るかった。
そのさりげない言葉は鋭くオスカルの胸に突き刺さり、彼女の顔はこわばった。
小さな池のほとりには名も知らぬ鳥がさえずっていた。
「オスカル、僕… 7歳になりました… 」
「殿下、お祝いの時は忙しくてベルサイユ宮までしか参上できませんでした」
彼女は済まなそうにほほ笑んだ。ルイ・ジョゼフはじっと彼女の目を見つめている。
「オスカル、お母様から離れないで… お母様を僕の分まで愛してあげて… 」
ルイ・ジョゼフの澄んだ目は、既に王室から離れているオスカルの心を見透かしてい
るようで辛かった。
“この少年は自分がもうすぐ死ぬということを察しているのだ…
子供が死ぬなんて…
親より先に子供が死ぬなんて… ”
「ご安心下さい、殿下。ご心配には及びません」
オスカルは殿下を安心させるためにそう答えた。
彼は静かにほほ笑みオスカルの首に小さな細い腕をからませた。
「あなたが好き…
今度、生まれて来たらきっと…
きっと病気なんかしないで元気で大きくなって…
立派な青年になって…
だから待っていて、急ぐから…待って… 」
それがルイ・ジョゼフ殿下とオスカルの最後の語らいであった。
自分の死期をはっきりと悟り、けなげに今を生きている幼い少年の目はオスカルに深
い感動を与えたのであった。
休暇に入ったもののオスカルの心はずっと沈んでいた。王太子の言葉が胸を締め付
けるようだった。
“お母様から離れないで… ”
王室を見限る者の多い中、自分もそのうちのひとりになりそうでこわい。
アントワネット様は自分に無い魅力を持っており、同い年ということもあってか引か
れるものがあった。
ずっとそばに付いていた近衛隊時代とは違い、今では彼女の姿を見る事は少ない。
彼女は自分に女の友情を求めてきたが、結局自分は忠誠という堅い表現しかできなかっ
たのではないかと悔やまれてならなかった。
彼女がポリニャック夫人におぼれた事も原因の一つに自分がはいっているのかもしれ
ない… 。
考える事は無尽蔵にあった。
今はまだおとなしい衛兵隊もいつ反逆をおこすかわからない。
平民が多い衛兵隊だ、自分に人望が無ければその命さえ危うい。
「アンドレ、入っていいか?」
オスカルはアンドレの部屋の前で声をかけた。
しかし返事はない。どこかに行ってしまったのだろうか?
でも一体どこに?
よく考えたら彼の事をあまり知らないオスカルであった。
屋敷の中では従僕として過ごし、衛兵隊においては兵士として勤務する毎日だ、今ま
で考えた事はなかったが彼こそ疲れがたまっても不思議ではない。
こんなに身近な者の事すら気づかなかった自分に改めて驚くオスカルであった。
前編 終