ベルサイユのばら
憂い編(後編)
「馬車を頼む、できるだけみずぼらしいのがいい」
オスカルは近くにいた召し使いに言った。
ジャルジェ家の馬車ではどうしてもパリの町は危険である。
彼女はロザリーに会いに行くつもりだった。
アランの妹、ディアンヌに出会ってからずっと、ロザリーの事が気にかかっていた。
ディアンヌはなぜかロザリーににているのだ。
そこにいるだけで周りの者を明るくしてくれるような…
しかし今、パリは大変である。あちこちで暴動が勃発し民衆の心もすさんできている。
だからこそ余計ロザリーの事が気にかかっていた。
「まあ… オスカルさま… 」
ロザリーはオスカルの駆け寄り抱きついた。
彼女の大きな目から涙が転がり落ちてオスカルの上着を濡らした。
「相変わらず泣き虫だな… ロザリーはもうりっぱなベルナール夫人なんだぞ」
オスカルは彼女を強く抱き締めた。
一緒に暮らしていた時がよみがえってくるようだ。
ベルナールはそんな二人を穏やかに見つめていた。
「君が軍服を着て来なかったのは正解だな」
ベルナールは言った。オスカルはどこからみても普通の平民の格好をしている。
帽子は深くかぶり人目をひく豪華な金髪を隠していた。
「パリは随分物騒になってきているからな… 」
彼女は自分のミスで暴徒に襲われた時の事を思い出して苦笑した。
「オスカルさま、だんなさまやばあやさんはお変わりりませんか?
お別れのあいさつもせずに出て来てしまって…
ずっと気になっていたのです… 」
「みな変わりは無い、父上なんぞすこぶる元気で困ってしまうよ」
オスカルはロザリーの額に指を立てて答えた。
随分会っていないにもかかわらずいつも身近にいるような気持ちにさせてくれる…
そんな彼女であった。
「ロザリー、俺はこれから出掛けてくるよ。すぐに帰るから食事の支度をたのむ。
お前の自慢の腕前をジャルジェ君に見せてやってくれないか、はは… 」
「ベルナール、今日はどこへ?」
「いつもの酒場だ。そうだ、君も来るかい?」
ベルナールはオスカルに向かって言った。ロザリーとは積もる話があったのだが彼
の持っている情報も知りたいのでついて行く事にした。
「私なんかが一緒でもよいのか?」
オスカルはベルナールに聞いた。待ち合わせの相手はまだ来ていない。
「かまわないぜ、ただし君が貴族で近衛隊の隊長だったって事を黙ってさえいてく
れたらな。
それより俺は聞きたかった事がある」
「何を… ?」
「君の事だ。どうして貴族でありながら…
しかも将軍家の令嬢でありながらなぜ君は俺たちの声が聞こえるのだ」
「聞こえたら悪いのか?」
オスカルはやや皮肉っぽく言った。
お互いまだ性格を把握していない所が多く警戒しあっていたのであった。
しかしベルナールはロザリーから聞くオスカルの人物像を少しは信じているのでオ
スカル程は疑り深くはなかった。
「いや、気を悪くしたのなら許してくれ。こういう仕事をしているとどうしてもこ
んな言い方しかできなくなるものらしい」
ベルナールは素直に謙虚に謝った。彼女も自分の言い方に刺があった事を十分に承
知していたので少し申し訳無さそうな顔をして答えた。
「私は確かに女伯爵という称号を授かっている。
しかしこの称号も公爵の前では何の主張も認められない。
それと同じように…
いや、私なんぞが想像もできないような思いを国民が味わっているとしたらこんな
矛盾はないと思う…
うまく言えないが…
人は皆、神の下において平等であり自由であるべきだと思う」
言いたい事は尽きなかった。しかし彼の前では今の所これ位が限度である。
ベルナールはオスカルの気持ちを察し、それ以上は聞かなかった。
彼はこの貴族にしては変わっている、いや、女性としても普通ではない彼女に少な
からずひかれていく自分に気が付いた。
好きとか嫌いとか言うのではない。人間的にな部分でである。
「君はルソーを読んだ事があるんだね」
ベルナールは唐突にそう言った。オスカルは顔を上げベルナールの顔を見た。
こんな話なら躊躇せずに答えられる。
「笑われるかもしれないが… 『社会契約論』や『不平等起源論』よりも『ヌーベ
ルエロイーズ』を書いたセンチメンタル作家としての彼が印象に残っている」
オスカルはちょっとはにかんだ。
やはり気恥ずかしさがあるのだろう。
彼女はその小説にアンドレを重ねて見ている部分があるからだ。
「よっ! 遅くなったようだな」
ベルナールの友人が酒場に現れた。明らかに第三身分とわかるいでたちだ。
「ベルナール、明日はサン・タントワーヌ地区で演説をしてほしいのだが… 」
男はオスカルの方を見ながらいきなり切り出した。
せっかちな男なのだろう。
「心配はない。俺の友人だ、ロベスピエール先生とも会った事がある」
ベルナールはオスカルの事をさして言った。
「オスカル・フランソワです」
オスカルは自ら手を差し出した。
「ピエール・リュオーだ、ベルナールとは腐れ縁でね。仲良くさせてもらっている」
彼はにっと笑った。上品とは言えないが誠実そうな男だ。
年齢はオスカルよりは少し上みたいである。
彼はオスカルを警戒する事なくよくしゃべった。
当然出てくる王室批判、身分制度の矛盾、アンシャン・レジームの廃止、そして三
部会について…
黙って聞いている彼女はときおりあいづちをうち話の腰を折らぬように心掛けてい
た。おそらくベルナールはこういう話を彼の友人から伝える事によって、自分以外
のより多くの第三身分の者達の意見を知って欲しかったに違いない。
オスカルにはそれが十分に理解する事ができた。
時代の寵児、ルソーの掲げる所の“自由・平等・博愛”は、ロベスピエールをはじ
めとする革命家達に絶大な影響を与えていたのである。
貴族社会におけるルソーはファッションである場合が多いのであるが、第三身分に
とってはもっと違った意味をもっているとオスカルは思った。
「祖国フランスは生まれ変わる… 」
そっと目を伏せオスカルはぽそりとつぶやいた。
近くに起こるであろう何かを予感してか、彼女の言葉は妙に重みを持って彼等には
伝わった。
「ロザリー、明日サン・タントワーヌ地区に行く。
打ち合わせがあるので夜明け前にここを出る。悪いがしたくをしといてくれないか?」
食事をしながらベルナールは頼んだ。
ロザリーは毎度の事で慣れているのか二つ返事で引き受けた。
「良くできたかみさんだな、ベルナール」
オスカルと同じく夕食に誘われたピエールは彼をからかった。
「まぁ、そんな事をいってももうこれ以上のごちそうは出せませんよ」
ロザリーはピエールを軽くあしらった。
そのやりとりが絶妙で妙に楽しい。
“仲の良い夫婦がいるというだけで食事も楽しくなるものなのだな… ”
オスカルは自然と口元がほころんでいった。
「今日はせっかく来てくれたのに俺につきあわせてしまって悪かった。
ロザリーと話したい事もあっただろうに… 」
ベルナールはオスカルに謝った。
「いや、君達の話を聞くことができて良かったと思っている。
私こそ約束もせずにやって来て悪かった」
オスカルは謙虚に言った。
「オスカルさま、そんな他人行儀な事をおっしゃらないで。いつでもお待ちしています
から… また絶対来てくださいね」
ロザリーはオスカルの手を握り締めて訴えるように言った。
「わかった… ありがとう、ロザリー。お前はいまでもちっともかわっていないんだな」
オスカルは嬉しそうにほほ笑んだ。
「おい、ベルナール。いいのか? お前のかみさん、あの男にぞっこんだぜ」
ピエールはベルナールの腕を取って言った。
「男… だとしたら俺だって黙っちゃいないさ。彼女はロザリーのあこがれの女性なんだ」
「女? 女なのか、あいつ… へ… ぇ、驚いた。男にしちゃあ綺麗すぎると思ったぜ。
しかし何であんな格好をしてるんだ?」
あまりにも素朴な疑問であった。が、ベルナールは笑って取り合わなかった。
「それじゃあ又、ロザリー、今度はゆっくり話をしたいな。
ベルナール、明日の演説… 頑張ってくれ」
「こんな真夜中に女性を一人で帰すには忍びないが、あそこにいる御者は信用できる奴
だ。本当に… 」
ベルナールは何かをオスカルに言おうとしたが言葉は途切れてしまった。
彼女は次の言葉を待ったがとうとうそれは出て来なかった。
辻馬車はパレロワイヤルを尻目にサン・トノレ通りをぬけ、ベルサイユに向かって走っ
て行く。
軽い疲労と充実感を感じながらオスカルは規則正しい揺れに身をまかせていた。
ロザリーの事なら心配ない。
もともと弱そうに見えてしっかりしている娘なのだ。
ベルナールもついている。
ジャルジェ家の前に着いた時にはもう12時をかなりまわっていた。
門の前に降り立つとアンドレが中から出て来た。
「アンドレ… お前… 」
オスカルは彼のそばに駆け寄った。
おそらく自分が帰って来るのを待っていたのだろう。
悪い事をしたな、と思いつつ自分に黙って出掛けて行ったのはアンドレの方が先なのだと
思うと少し恨み言でも言いたい心境であった。
彼は何も言わず何も聞かない。
“アンドレ、何か言ってくれ… ”
オスカルはアンドレの背中に向かって声には出さず訴えた。
沈黙が重苦しい。
彼は玄関をぬけて奥の方に歩いて行く。
オスカルの部屋はそっちではないのだが後をついていった。
「なぜついてくるんだ?」
台所のドアの前でアンドレは振り向いた。
「なぜと言われても… 」
オスカルは口ごもった。
いつもとは違う。
どうしてなのだ?
アンドレはふっと笑った。
彼女はカッと熱くなるものを感じた。
「寒かっただろう。ショコラでも飲むか?」
台所に入って行くと熱いお茶の用意が整っていた。
アンドレがこんな事をするのだろうか?
今まで考えなかった疑問がわきあがってくる。
ごく当たり前のように誰かが運んで来るお茶を飲み、それがいつの間にか片付けられてい
る… そんな環境におかれている自分がロザリーの事を心配していただなんて…
第一ここに足を踏み入れた事なんてめったにない。
「ここで頂くよ」
オスカルは壁際にある使用人用のいすに腰掛けた。
アンドレが彼女の前にカップを置く。
ロザリーならきっとこういう事をベルナールにはさせないだろう。
「ロザリーのところに行っていたのだ」
オスカルは自分の前に座ったアンドレに向かってしゃべり始めた。
ベルナールやピエールの事も… もちろんベルナールの妻として、しっかりきりもりして
いるロザリーは高く評価した。
アンドレはそんなオスカルの話振りを楽しそうに見つめていた。
「オスカル」
アンドレはカップにからまるオスカルの指を、人差し指でポンと触れた。
「 … ? 」
「サン・タントワーヌに行ってみないか?」
もちろんベルナールの演説を聞きにいくという意味だ。
オスカルはうなずいた。
木箱で作られた質素な演台に立ち、ベルナールは演説を始めた。
自由・平等・博愛、ジャン・ジャック・ルソーの理想を実現させる為に、彼は力強く民衆
に向かって呼びかけた。
誰もが皆、平等に暮らせる日がやってくる。
貴族でもない平民でもない。
一人一人の人間を認める時代がやってくる。
アンドレはいつしかオスカルの肩を抱いていた。
熱心に聞いている彼の目はまるで少年のように輝いていた。オスカルはそっとアンドレの
胸に頭を預けた。
身分というものがなければ自分はただの女である。
こうやって寄り添うのもいいかもしれない…。
「アンドレ、私は… 」
ちょうどその時、ベルナールの演説は終わった。
サン・タントワーヌ地区に拍手が鳴り響く。
オスカルの言葉は彼等によってかき消されてしまった。
今を疎いながらも精一杯生きている民衆。
それは確かに新しい時代の幕開けを感じさせる何かが備わっていた。
自分達の幸せを追求しようという者に罪はない。
それは国王であろうと王妃であろうと関係はない。
しかし、手段が問題なのだ。
明らかに彼等はどこかで違う方向に行ってしまったのだ。
自分はいつまで衛兵隊に籍をおいていられるだろうか?
又、兵士達はどんな思いで勤務を続けているのだろう?
そんな憂いを知る由もなく、二頭の馬は丘陵をかけて行くのであった。
終