愛が見えますか? 編
宮殿の中庭で、その夫人はいつの間にかアンドレのすぐそばに立っていた。
“デュ・バリー夫人!"
彼はオスカルの共で宮廷にあがる事を許されている身なので彼女を知っていた
のである。
「ごきげんよう」
彼女から話しかけられて最大の敬意を表したアンドレは、しばし彼女に見入っ
ていた。一方的に知っていた期間は長いのだが、話かけられた事なぞ一度たり
ともなかったのであった。
“魅力的な女性なんだ"
オスカルの未成熟なものとは違う大人の色気が彼女から香り立つ。そのくせ彼
女からはアンドレの好きな土の匂いもした。
“どうして国王が愛されているのがわかる。彼女にはどの貴夫人も持っていな
い野生のたくましさがある"
彼はそれが彼女の生い立ちに起因していると感じていたのである。
“彼女は元は平民だった"
いやしい身分だとか娼婦だったとか色々なうわさが付きまとう彼女だが、今で
はだれも大っぴらに言う者はいないのだ。
「麗しい女主人が探していてよ」
彼女はにっこり笑ってアンドレに言った。
“あれ?”
そのほほ笑みに少し陰がある。
「恐れ多い事です」
疑問を感じながらも彼は丁寧に礼を言ってその場を後にしたのであった。
「わたしは探してはいないぞ」
オスカルはあわててやって来たアンドレに不思議そうな顔をして言った。
「でも確かにデュ・バリー夫人はおまえが探していたと… 」
アンドレも又、首をかしげたのだ。
「おまえ、何かしたのか?」
「まさか!」
「ともかくかかわりにならぬ方がよい。わたしはどうも気に食わない」
オスカルは嫌悪感をあらわにしたのである。
“体を武器に国王をあやつるなんて”
そんな思いが処女の彼女をそうさせる。
「かかわりになるつもりはない。しかしどうしてウソをついたんだろう?」
アンドレはその方が不思議だった。
「案外おまえに興味があったりしてな」
オスカルはからかったのである。事実、アンドレはうわさになる時がある。淡
い色のかつらを付け、派手な上着にキュロット姿の青年貴族の中で、地味なな
りをした上背がある黒髪の若き従僕は目立っていた。中には付け文をする者も
いるくらいなのだ。おまけに名前のわからない貴婦人からの贈り物もジャルジ
ェ家に届く事もよくあるのだった。
「まさか! 単なるたわむれだろう。おれが中庭でぼんやりしていたから」
「そうだな、アンドレはすきがある」
「悪かったな、どうせおれはぼーっとしているよ」
彼はいささか憤慨したのである。
“しかしおれはオスカルのようには思えない”
今では声をかける事すらできない程のデュ・バリー夫人なのだが元は平民なのだ。
国王の寵愛を受け、女性として頂点を極めた彼女の奥に潜む一抹の寂しさを見
たと思ったのは気のせいなのだろうか?
“いずれにせよおれには関係のない事だ”
「そう、むくれるな。せっかくのいい男がだいなしだぞ」
「だれが言った?」
「おしゃべりな貴婦人方のうわさだよ」
「本気にするぞ」
「単純な奴!」
他愛ないやり取りの後で二人は舞踏会を後にした。どうせいつもの習慣的なも
のなのだから彼らはいささか飽きていたのだ。並んで歩くベルサイユ宮殿の庭
は広大で、夕日に映える噴水の像は赤く光っていたのであった。
そのデュバリー夫人に大きな転機が訪れたのは狩りの途中で国王が倒れた事
に始まる。
天然痘、それは簡単に死を連想させる伝染病なのだ。王位継承者やその親族は
国王から離されて神に祈るしかなっかたのだった。
「アンドレ、国王の容体は?」
オスカルは情報通の彼に聞いた。いったいどこで仕入れてくるのか彼はオスカ
ルの知らない範囲の情報を彼女に提供してくれるのだ。
「もうかなり… さすがの国王様もはやり病には勝てないだろうな」
アンドレはふっとため息をついた。一瞬、彼の脳裏に浮かんだのはデュ・バリ
ー夫人だった。
“国王が逝去されたら彼女はどうなる?”
彼はなぜか彼女が気になるのだ。それは好きとか嫌いとかと言う次元ではない、
もっと別のものが彼に焦燥感を与えていたのである。
「どうした? アンドレ」
オスカルが聞いた。
「わかるぞ… わたしも同じ思いだ… 」
彼女は一人で納得したようにうなずいていた。オスカルは国王を気遣うアンド
レを想像していたのである。
“違うぞ、オスカル”
アンドレは心の中でつぶやいていた。
「そうだな… 」
しかし彼女に同意してその場の雰囲気をこわさぬようにしたのである。
デュ・バリー夫人の失脚を大いに喜んだのは3人の伯母たちだった。アント
ワネットの前でおおげさに悪口を言う彼女らは得意満面といったところだろう。
“目の前に迫る国王の死よりも大切な話題なのだろうか?”
アントワネットの近くに控えていたオスカルは胸が悪くなる思いなのだ。
「だいたい卑しい身分の者が妾になるだなんて!」
「過ぎた事をするとロクな目にあいませんよ」
“今、確実にひとりの人間が死んで行ってるのに… ”
耳をおおいたくなるような悪口がオスカルの耳に飛び込んで来る。
「それでは… 」
彼女は短くあいさつをして出て行った。ドアの外で待っていたアンドレは彼女
に従ったのである。
「不自然なものだな」
唐突にアンドレが言った。
「何が?」
アンドレの言っている事がわからないオスカルが聞く。
「国王のまわりには身内の付き添う者がいない」
彼は答えたのである。
「それは仕方ない、染つる病気だから… 王太子夫妻に何かあればいけない
からな」
オスカルは当然と言うように言った。
「そうだな。王族だから… 」
もっと何か言いたかったのだけれど、そこで止めておいたアンドレだった。
その日もオスカルは王太子夫妻の部屋に向かっていた。アントワネットの
たっての願いでオスカルの休日も返上という事になっていたのである。
「悪いな、アンドレ。今日もおまえはドアの外で一日を過ごす事になる」
オスカルは気の毒そうに言った。
「いいさ、たまには外に出て中庭からこの部屋を見ているよ」
アンドレは笑っていた。宮仕えのオスカルの従僕だから仕方のない事なのだ。
「オスカルはアントワネットさまのお力になってあげればいい」
真顔に戻ったアンドレがオスカルの肩をポンとたたいてからドアを閉めたの
である。
王太子夫妻のいる部屋の前は近衛隊の隊士たちが守っている。正式な隊士
ではないアンドレは何もする事がなく、中途半端な立場におかれていたので
ある。エリート集団である近衛隊の隊士たちはアンドレの事をオスカルの従
僕として、そしてジャルジェ将軍にいち目おかれている人物として接してい
た。しかし自分たちとは違う平民だと言う事もふまえている。
「ごくろうさまです」
アンドレは彼らに短く目礼をしてから中庭に出たのであった。早朝の中庭は
見回り兵がいるくらいなもので、アンドレの吐く息がやけに白かったのであ
った。
“あれ?”
アンドレは足を止めた。立ち木に差し込む光の中にデュ・バリー夫人がたた
ずんでいたのである。
“ … ”
後ずさりするには近すぎて、かといって彼からは何の行動もおこせない状態
が長く感じられたのであった。
「アンドレ・グランディエ… 」
と、彼女は言った。
“オレの名を?”
驚いたように顔を上げたアンドレに彼女は話しかけたのである。
「不便なものね、貴族って」
デュ・バリー夫人が彼に言った。
“どうしてオレに?”
アンドレは戸惑ったのである。出身はどうであれ彼女は国王の愛妾であり、
れっきとした貴族なのだ。
「あの人は王太子をかわいがってらしたのに… 」
彼女は遠い目をして言った。その一言で察しがついたアンドレは彼女の方
を向いたのだ。
「そう、もうあの人の意識はほとんどないわ。どんな医者でももう治せな
い」
彼女はしっかりとした言葉とは裏腹に、悲しい表情をしていたのだった。
“逝去の日は近いのだろうな”
アンドレは確信した。しかし彼女に対して何の言葉も出て来ない。
「おしゃべりは好きよ、アンドレ・グランディエ。遠慮しなくてもいいの
よ」
デュ・バリー夫人はにっこりほほ笑んだのである。
「もう随分… 話をしてなかったような気がするの… 」
彼女は素直な表情をアンドレに見せた。
「わたしでよろしければ」
アンドレは一歩、歩み寄ったのである。いつもは近寄りがたい雰囲気を持
っているデュ・バリー夫人が今朝は違うのだ。
“これは… ”
以前、かすかに感じた土の匂いがする。それは力強い平民の持つたくまし
さというものかも知れない。アンドレとの共通点とも言えよう。
「遠慮深いのね、礼儀をわきまえているし」
「おそれいります」
アンドレはそのくらいの返事しかできなかったのである。もうすぐ彼女の
夫とも言える人がいなくなろうとしている。いくら金と権力の為に一緒に
いるとうわさされているにしても、少なからずの愛情はあるだろう。
「愛を知っている?」
デュ・バリー夫人が声をかけた。
「愛?」
アンドレは聞き返したのである。
「愛は… たとえどんな形で結ばれたにしても愛はあるのよ。静かな愛…
身を焦がす愛… 悲しいだけの愛… いつの間にか芽生えていた愛… 」
彼女はアンドレに何かを言いたかったのだろう。
“これは愛ではない。しかしオレ彼女にはひかれる部分がある”
アンドレは以前から感じていた事を再認識したのだった。
「わたしは愛を感じていた… わたしは自分の力で勝ち取った愛を守って
来た。だから怖くはないわ! たとえそれがひんしゅくを買っていたとし
ても、自分の努力なしで、最初から与えられたものだけを自慢し… 自分の
武器にしている人に比べたらマシと言うものじゃないのかしら?」
彼女は本来の激しさをアンドレの前で見せていた。
「わたしは何も持っていなかった。だからほしかった。当然わたしが自分で
努力しなくてはならなかったの。でも何もしないで他人を批判する人より
はずっとましな生き方をしていると自信を持ってるのよ… やりたい事は
やった、死刑でも修道院でも結構よ。わたしは最後まで取り乱したりしな
いから」
言いたい事を一気に言ったデュ・バリー夫人は紅潮した頬をアンドレに向
けていた。彼女の言っている事は理解できても、どうして自分にそれをぶ
つけるのかわからないアンドレは、ただ黙っていたのである。
「ごめんなさいね。でもあなたを見ていると、わたしが失った懐かしい何
かを感じるの… 」
ふっと表情をゆるめた彼女はとても国王の愛妾には見えない素朴なものだ
った。
「愛して… いたのですね… 」
アンドレはおそるおそる言った。
「 …… 」
デュ・バリー夫人はうなずいた。一粒の涙がこぼれている。
“強くなんかない! 悲しみに耐えているだけなんだ! 医師団の居並ぶ
国王の枕元では気を抜けないんだ… 彼女は… 彼女も普通の人なんだ!”
アンドレの胸に込み上げるものがあった。今までデュ・バリー夫人に感じ
た事のない親しみともとれる何かが彼の心を揺さぶった。
“でも… やはり強い… ”
「陛下がお待ちだわ。せめて許される限りのお世話をさせていただくの」
デュ・バリー夫人はもういつもの彼女に戻っていた。キッとまゆを上げ、
まるで戦場に戻る戦士のように背筋を伸ばして言い切ったのである。
「あなたはいい人ね」
きつい表情のままでほほ笑んだ彼女からは何者をも寄せ付けない強さが感
じられ、アンドレはその迫力に押されていたのである。
“愛されているから強くなれたのか?”
それはまだ若いアンドレにはわからない。彼女が中庭から去って行った後
もしばらく動く気になれなくて、漠然と空を仰ぐアンドレだったのであっ
た。
オスカルはドアの前で待っていた。
「どこにいたのだ?」
彼女はアンドレに言った。
「いや、中庭に… 」
彼はそこまでにしておいた。デュ・バリー夫人の事を良く思っていないオ
スカルに言ってもしかたのない事なのだ。
“女を強くさせるような男になりたい!”
それには男がさらに大きく強くなくてはならない。身分も権力もない彼に
とっては困難な事だろう。
「どうかしたのか?」
オスカルが聞いた。
「いや、陛下はかなりお悪いとうわさする者がいた。もうすぐ… 」
「 …… 」
オスカルは確実に近付く新しい時代の足音を感じていた。しかしそれは国
王の崩御を意味するものなので何も言えなかったのである。
「オスカル」
アンドレが呼んだ。
「何だ?」
「 …いや… 」
彼は国王の死後、デュ・バリー夫人がどうなるのか聞こうとした。しかし
おそらく良い返事はないだろう。
「不治の病なんだな… 」
アンドレはとぎれた言葉の続きを言った。
“おまえは母親の最期を思い出しているのだな… ”
オスカルは真剣なアンドレの横顔を見ていたのだ。普段から見慣れている
彼の顔がいつもと違っていて、一種の近寄りがたい雰囲気をかもし出して
いた。
“ごくまれにだが、おまえがわからなくなる時がある”
彼女はアンドレから視線を外していた。ふたりで帰るジャルジェ家までの
道のりは長く、それぞれの思いが口を重くしていたのであった。
国王の懴悔がしめやかに行われていた。ほとんど意識のない国王はうつ
つの状態でデュ・バリー夫人の宮廷からの追放にうなずいていたのである。
彼が最期に見た夢はいったい何だったのだろうか? それは誰にもわから
ない。
デュ・バリー夫人は平然と前を向いていた。その態度が彼女を憎む者た
ちを悔しがらせ、ふてぶてしさを平民の持つ下品さともうわさされたと言
う。
“やはりあなたは天下のデュ・バリー夫人ですね”
遠くから見ていたアンドレの口元が緩んでいた。きっと彼女ならどんな環
境に置かれても生きて行けると思うのだ。
「新しい時代が来るのだな… 」
オスカルが言った。
「ああ… 」
アンドレが短く答えていた。
「彼女はたった一人で戦い続けていたのかも知れないな… 」
オスカルはデュ・バリー夫人の乗っている馬車を見ながら言った。
“オスカル!”
アンドレは知った。彼女は思っているよりも考え深いという事を。
「戦い続けて行く運命にあるのかもな」
アンドレは答えたのである。
「だとしたら悲しい運命だな… でもわたしにはない強さを持っている」
オスカルの言葉は素直で優しかったのだ。思わぬ所で彼女と心が触れ合っ
たアンドレは興奮を押さえていた。
“どんな時でもオレがいる! オレがおまえを守りたい!”
もうずっと前からの思いが込み上げて来る。
“だからオレはもっと強くなる”
身分の違う彼にとって、悪あがきともとれる恋心だった。
馬車の見えなくなった丘でふたりは立っていた。通り過ぎる風はまだ
冷たくて、春なのに青く透き通ったような印象を受けたアンドレであった。
終