オスカルのゆうつ(オスカル15才) 編
アンドレが屋敷に引き取られてから数年の月日が流れていた。いつの間にか子供
だったアンドレは声が変わり随分と少年らしくなっていたのである。一方オスカル
もその年の少女にしては背が高く、ほっそりとした体型は未成熟な女性というより
少年性に近かった。
別に珍しい事ではないのだが、ある天気の良い午後にふたりは森まで遠乗りして
いたのである。
「もともとそうだったけど、又背が伸びたな」
オスカルが背を比べる為に彼の横に立ったのだ。
「おれは成長期だから仕方ないさ」
アンドレは笑っていた。
「それそれ、声が低くなって話し方も変わったぞ」
「良くないか?」
「悪くない」
オスカルは腕組みをして彼を見上げていた。
“こいつ、男なんだな”
オスカルはそう思う。自分は男として育てられたけれど、成長するに従ってどうし
ても男ではない自分を再認識せざるを得ない事にぶち当たる。剣ではアンドレを容
易に負かす事はできても素手ではとてもかなわない事を知っている。
“所詮わたしは父上の望む男にはなれないのだ… ”
それが悲しいのかどうかはわからないが、父を失望させてはいけないという責任感
と義務感が彼女を支配する。しかしこのままでよいのかという迷いがよぎらないで
もない。
「なぁ、オスカルはずっと男として生きるのか?」
唐突にアンドレが聞いた。
「え… 」
まるで心を見透かされていたかのように彼が聞いて来たので戸惑うオスカルだった。
「父上がそう期待しているからな」
オスカルがこたえたのである。
「そうだったな、オスカルは… 」
オスカルは、の次の言葉は彼の口から出なかった。言えば彼女は気にするかも知れ
ない、そんな気がしたからだ。
「わたしがどうした?」
黙っているアンドレをのぞき込むようにして彼女は聞いた。
「いや、おまえはおまえの道を行くのだなと思っただけだよ」
彼はとりあえず無難な言葉でごまかしていたのである。背は伸びたといっても所詮
少年の域を出ていないアンドレにとってオスカルの心はわからない。彼女自身もま
だ自分の事をよくわかっていないようなのだ。
「ああ、わたしは父上の期待がかかっているからな」
彼女はあえてはっきりと言い切った。
「そうだな」
アンドレはうなずくしかなかったのであった。
“おまえを見てると痛々しくなってくる時がある… どうして旦那様はおまえひと
りに荷を背おわすのだろう?”
アンドレはぼんやりとオスカルを見つめていた。彼は最近になってやっと自分の心
の中に芽生えていたものの正体をを突き止めたのである。
“おれはずっと前からオスカルが好きだ”
出会った時から感じていたのかも知れないものは着実に彼の内面を成長させていた。
僭越ながら男として育てられている彼女の為に何とか力になってやろうという思い
は彼を強くした。しかし表面上はその思いを見せはしない。
“今になってやっと貴族と平民の違いを知ったんだよ、オスカル”
彼はまるで何もなかったかのように馬を連れて来た。それは彼の仕事であり他人か
ら見ると従僕の仕事を忠実にこなしているように見える。
「奥様が心配されるだろ」
だから帰ろうと言うようにアンドレは彼女の白馬を指さしたのだった。
「アンドレ、アンドレ。聞いたかい? お嬢様がオーストリア皇女の護衛につくか
もって話」
ばあやが勢いよく彼の部屋にやって来たのである。
「オーストリア皇女っていってもどうして? あの女帝マリア・テレジアの姫だろ?」
彼はそれがオスカルとどう結び付くのかわからなくて聞き返したのだ。
「それがさ。その皇女をこのフランスの皇太子妃としてお迎えする提案が出されて
いるらしいんだよ。だったらジャルジェ将軍家としては当然その姫の護衛を任され
るだろうしオスカルさまならぴったりじゃないのかね」
彼女はまだ正式に決まっていない話と知りながらも弾む心を押さえきれないらしい
のだ。
「せっかちなんだよ、おばあちゃんは。もしその姫が皇太子妃にならなかったらど
うするんだ?」
「何を言ってるんだい、きっとなるさ。その時のお嬢様の姿が浮かんでくるよ」
彼女は目を閉じてオスカルの晴れ姿をまぶたの奥に描いていた。
「単純なんだな」
アンドレは声を出して笑っていた。
「単純なおまえに単純呼ばわりされたくないね!」
そう言って彼女はアンドレの頭を殴ったのだ。
「いってーっ! おばあちゃんは凶暴なんだから」
「ふん、あたしをばかにするなんて10年早いんだよ!」
彼女はそう言い残して孫の部屋から出て行ったのである。
“オスカルが皇女の護衛に… ”
それがもし実現すれば自分はどうなるのだろうと思う。
“おれはずっとオスカルの従僕でいられるのだろうか?”
彼は少し不安になるのだった。
少年の日々は短いものかも知れない。アンドレは当たり前のように少年期の終わ
りにくる思春期を迎えていたのである。それは彼だけではない、オスカルにしても
同じ事だった。
「アンドレはいいな… 」
オスカルがぽつりと言った。
「何がだ?」
あやふやに言われても彼にはわからない。
「いや、いつもおまえは広いって事さ」
オスカルはわざと核心に触れぬように言っているみたいなのだ。
「アントワネットさまの事か?」
アンドレが聞いた。彼女は近衛連隊長つき大尉としてアントワネットと席を同じく
する事が多くなっていた。そしてアンドレも平民という身分でありながら、オスカ
ルの従僕として宮廷に出入りを許されていたのだ。
「遠からずかな?」
やはり彼女はごまかそうとしている。しかし話を持ち出すという事は彼に何かを察
してほしいという事なのだろうか?
「わたしと同い年で嫁いで来られたのだぞ。アントワネットさまは」
オスカルの気持ちは複雑だった。はっきりと目に見えた政略結婚に彼女は皇女の悲
劇を見ていたのだ。
「貴族は誰でもこんな目にあうものなのだな… 」
彼女は大きくため息をついたのだった。そしてその貴族の中に彼女も入っている。
あらためて自分が女でありながら男として育てられた不自然さを、貴族であるがゆ
えだという事を納得しなければいけない自分の心を苦しく思っているようだった。
「でも貴族は得だ」
アンドレが軽く逆らったのだ。
「何だと?」
オスカルはムキになって声をあらげていた。彼女自身平民の暮らしを知っている訳
ではない。漠然と自分たちより貧乏であり、その分自由に生きられる事くらいにし
か感じていなかったのだ。かといってアンドレも平民の生活をよく知らない。ジャ
ルジェ家に引き取られてからの生活は一般の平民とは掛け離れていたし、彼の為に
支払われている給金は貧乏な貴族の収入よりははるかに多かったのだった。
「宮廷に出入りを許されてからはそれがよくわかったよ。同じじゃないんだよ」
彼のいう違いをオスカルは知っている。身分の差というものなのだ。アンドレにと
って平民とは貴族と身分が違うという事だけにとどまっていたのである。
「貴族だから仕方ない」
彼女が答えた。
「だから貴族なんだよ」
今日のアンドレはいつもと違っていた。彼の心に潜んでいる恋心を彼女は知らない。
ほのかな恋はやがて愛になるだろう。
“本気になればそれこそ悲劇だ”
そんな予感のするアンドレは焦燥感にさいなまれる事があったのだ。身分の差とい
うものがいかに大きなものか彼は彼女以上に知っていたのである。
“おまえはおれの前で無防備すぎるんだよ。きっとおれを男だと思っていないんだ
ろうな”
しかし彼は自分をセーブするすべを知っている。彼の心を見抜く事は今のオスカル
にはとうてい無理のようだった。
「いつものおまえじゃない!」
オスカルが怒ったような口調になった。肉親を除いたら彼女に逆らえるのは彼くら
いしかいなかった。しかし今日ほどではない。
「なぁ… オスカルはいつまで男なんだ?」
アンドレが聞いた。素朴な疑問だった。
「わたしは… 」
言葉につまるオスカルをアンドレは気の毒に思う。あきらかに彼女は揺れている。
同い年の貴族の娘たちが毎夜きれいに着飾って舞踏会に出掛けて行く。しかしオス
カルは相変わらず軍服に身をつつみ剣をたずさえていた。それを見ているとアンド
レまでもが切なくなってくる。
「悪かった。おれは意地悪だ」
彼は素直に謝ったのだった。オスカルの運命はすでに父親によって決められている。
“疑う事を知らなかった子供の頃なら平気だったものに対して疑問を抱く年になっ
ているんだ”
アンドレはそう思ったのだ。
「わたしは今のままでしか生きられないのだな」
彼の返事にはなっていなかったけれど真実の言葉が悲しい。彼女の心の奥には着飾
って出掛けて行く娘たちに対する羨望があるのかも知れないのだ。
「それは… 」
違うと言えばこの屋敷の主人の意志に反する事になる。しかし肯定すれば彼女が悲
しむ事になるのを知っているアンドレはあえてはっきりしなかったのである。
その夜のオスカルは孤独だった。寝室ではいつもひとりというのがが当たり前な
のだが今夜は違うのだ。
“わたしは所詮定められた枠の中でしか生活できないのだな”
その枠に父という存在が大きくかかわっている事が感じられる。女に生まれながら
も男として生活しなければならない自分が辛いのだ。
“女に生まれてもアントワネット様に限らず政略結婚しなければいけないのだから
同じようなものだ”
そう割り切っていても辛さを感じるのはなぜだろう?
“何もきれいなドレスにあこがれている訳ではない。しかし… 父にとってわたし
は跡取りというだけの存在なのだろうか? それではもし、仮にわたしが女として
生活すると言ったのなら父は許して下さるのだろうか? 女としてのわたしの価値
はないのだろうか? もし、女に戻れば父はわたしを愛して… ”
その答えが怖いのだ。そして彼女の“孤独”はどんどん深みにはまって行く。
“アンドレ、おまえは鋭いところがあるぞ。今日、いつまで男なんだと聞いただろ
う? それは私が父に聞きたい言葉なのだ。でも怖い”
彼女は苦笑したのである。
“とんでもないのんびり屋だと感じる時もある。しかしおまえはいつだって深い。
何にも考えていないようで物事をしっかり見つめている部分がある。だからわたし
はおまえをあなどれない”
そして彼女は目を閉じた。今はもう眠ろう… 朝はもう近いのだ。
ジャルジェ夫人の密かな楽しみはオスカルの為にドレスをあつらえる事だった。
それにはばあやもかんでいたのである。
「ほら、こんな所に小さなリボンがついてますよ。見えない部分にも行き届いたド
レスなんですねぇ」
夫人の部屋でばあやは新しいドレスに見入っていたのである。
「そうですね、オスカルにはこんな色が似合うでしょうね」
彼女は娘の為に選んだ淡い青のサテンに真っ白なレースがのぞいているかわいいド
レスを手にとっていた。窓際の椅子にはすでに小さくなった新品のドレスがかけて
ある。それはいつかはオスカルが着るものと願いながらあつらえ、小さくなってし
まったものだった。
「ほら、これはこのドレスと同じレースを使った夜着ですよ。下着にもほら、ドレ
スみたいでしょ」
夫人はうっとりと夢見るような表情で目を閉じた。
“きっとお嬢様が着ている所を想像なさってるんでしょうね”
ばあやも又、目を閉じたのである。そんな時のふたりは遠い昔の着せ替え人形遊び
をしていた少女の心を思い出していたのである。
ジャルジェ将軍は夫人の入れたワインを手に取って言った。
「又… だな」
彼は苦笑したのである。彼は夫人の密かな趣味を知っていたのである。それも当然
の事なのだ。洋装店の馬車が屋敷の中に入って来るという事は何の為に呼ばれたの
であるか、誰にだってわかるというものなのだ。
「そうです。今度のドレスはオスカルの似合う青にいたしましたの」
彼女は臆面もなく言ってのけたのである。
「オスカルがドレスをな」
彼は再び苦笑したのである。彼はすでに自分が無理な事を娘に押し付けていると察
していたからなのだ。
「よろしいのですか?」
夫人が聞いた。
「何がだ?」
彼は聞き直したのである。
「もしも… です。もし、オスカルが女に戻りたいと言ったら… あなたはあの子
をお許しになりますか? あなたはどこまであの子に求めているのですか?」
夫人は単刀直入に質問したのである。
「う… 」
彼は一瞬息をのんだ。彼の頭は目まぐるしく働いている。
「私は時々苦しくなる事があるのです。もし、普通の女性としてあの子を育ててい
たのからどんなに楽だったでしょう」
夫人は真っすぐな目を彼に向けた。
「神の与えたもうた性に逆らってあの子は生きているのですよ」
「だからどうしろというのだ」
ふてくされたように彼は言った。
「選択肢はあるのですか?」
夫人は、はっきりと聞いたのである。
「あれが… オスカルが望むのならば… わたしは一時の思いつきであれを男とし
て育ててきた。しかしいつかは行き止まる事があろう。その時には… 所詮わたし
は娘の幸せを望む普通の親なのだから… しかし他家には絶対嫁がせんぞ!」
夫人には彼の葛藤が目に見えていた。意地もある。そして彼にその言葉を言わせて
しまった自分が心苦しいのだ。
“この人も悩んでいたのだわ。このジャルジェ家を継ぐ男児をもうけなかった事を
責めてなさる… 先祖に対し、申し訳ないという気持ちもわかります。しかし親と
しての当たり前の心をお持ちなのは私にはわかっていた… ”
「オスカルが… どの娘より一番ドレスが似合うのではないのかな… 」
ジャルジェ将軍がぽつりと言った。
「本当に… 」
夫人があいづちをうったのである。
しかしこの会話をオスカルは知らない。そしてこの両親は彼女が自分の運命に従
わなければならない責任感に苦しんでいる事に気づいていなかったのである。
「今朝の馬車は洋装店のだったな」
剣の相手をしていたアンドレが手を止めた。ふたりはもう随分長い間ずっとけいこ
を続けている。そしてむだな動きの多い彼の疲労は極限に達しているようだった。
「ああ」
そっけなく返事をするオスカルは何の目的でその馬車が来たのかを知っていた。
「奥様とおばあちゃんの趣味だな。きっとおまえのドレスがもう一枚追加されたっ
てとこかな」
アンドレは笑っていたのである。しかしオスカルはつられて笑う事はしなかった。
“オスカルは女に戻りたがっているのか?”
それはもう疑問ではない。しかし彼にはどうする事もできない。それに彼女を上手
になぐさめるだけの話術を持ち合わせてはいなかった。
“着てみればいいじゃないか”
彼女に向かってその言葉が言いたい。しかし何も言えない。
「疲れたのか?」
ふっと表情を和らげたオスカルの顔と声がせまっていた。自然と頬が赤くなる。
「少し… 」
彼女が優しい声だと戸惑ってしまう自分がかわいい。
“当たり前に育っていればどんな貴婦人になっていただろう?”
しかし彼の想像力は乏しかった。どう考えても今のままのオスカルしか浮かんで来
ないのだ。
“やはりおれは今のオスカルが好きなんだ”
彼も表情を和らげたのである。
夕食の後は静かに部屋にひきあげるアンドレなのだが今夜は妙に人恋しい。
「おばあちゃんはずっとこの屋敷にいたんだな」
彼は感心したように話しかけた。その中には肉親との生活をせずにジャルジェ家の
為に住み込みで働いていた彼女の苦労が含まれていた。
「じいさんがさっさとくたばっちまったから仕方がなかったんだ。でも後悔なんて
したくはないさ。わたしはそうやって生きて来たんだよ」
しかし強がってはいるものの彼女が肉親の愛に飢えていた事がアンドレにはわかる
のだ。
“あたしゃ今が一番幸せだよ”
ばあやはアンドレと暮らすこのジャルジェ家の生活に満足していたのだった。
「でもオスカルは」
アンドレが言った。
「オスカルお嬢様だろ!」
ばあやが注意する。どうもこの孫はお嬢様に対して従僕としての認識が欠けている
ように思えてならないのだ。
「ああ、そのオスカルお嬢様は旦那様や奥様に遠慮があるんだな」
彼はあえて遠慮という言葉で表したのだが、その奥には両親の意志で男としての生
活を押し付けられた彼女に対する憐憫の情があった。それに今まで見て来た家族で
末っ子というものは本来両親の愛情を一身に受けるものが当たり前だと思っていた
のである。その愛情はどの家族でも同じものではないのかと彼は思うのだ。
「確かに… だね。でもね、貴族の子供達は誰でも家と共に生きているんだよ。だ
からオスカルさまも自覚されているからああやって毅然とふるまってらっしゃるん
だから」
楽天的なばあやはその程度にしか感じていないようだった。
“違う! おれは知っている。オスカルは自由になりたいんだ!”
しかしそれは言っても仕方のない事だった。そしてそれはそのまま彼の胸に収まっ
たのである。
アントワネットのサロンには多くの貴婦人が訪れていた。今日はその中に珍しく
オスカルも加わっていたのである。
“オスカル、お願い! わたくしを快く思っていない人がいるみたいで怖いの”
オスカルにしてみれば不審者がそのサロンに来るのかと思い、不本意ながら様子を
伺いに言ったのだがどうやらそうではなさそうなのだ。どうやら彼女はオスカルを
自分のサロンに呼びたかっただけらしい。
「まぁ、今日はオスカルさまがいらしてたのね!」
「今夜は来たかいがありましたわ」
「やはりオスカルさまはりりしくって軍服がよくお似合いで… 」
彼女たちはオスカルをかこんで騒いでいたのである。
“全くくだらない会話ばかりだ”
オスカルはそれでもアントワネットの為にそれなりの受け答えをしていたのである
が…
“だいたいあんなに香水をつけるのは非常識だぞ。それにあのドレス、目立ってい
ればそれでいいというものではない”
彼女は入ってすぐにサロンにあきていたのである。
「オスカル、ゆっくりしていって下さいね。もうすぐとても珍しいお菓子が焼き上
がるの。それはもうすばらしくおいしくてよ」
アントワネットはそれがまるでものすごい事のようにオスカルに話してくれたのだ
が彼女にとっては迷惑なだけだった。
「光栄です」
オスカルは答えた。するとさらにアントワネットは話を続けたのである。
「ほら、こちらのロベール伯夫人のユリの刺繍。ドレスのデザインを引き立たせる
為にわざと同じ色で地模様にしているの。さりげない心遣いがその人柄をあらわし
ているでしょう」
「ユリの花はわたくしの母が好きな花。とてもお似合いですね」
短く返事したオスカルは、もうここからどう退散するかの言い訳を考えていたので
あった。
“お菓子みたいなものはどうだってよい。よくそんな物をありがたがって話題にで
きるのだな。これが女同士の当たり前の会話だというのか? もっと違った話はで
きないのか? せっかくの午後を意味のない会話でだらだら過ごすなんぞわたしの
性に合わぬ。そうだ、こんな天気の良い日は遠乗りをして… ”
ふっとアンドレの顔が浮かんで来た。しかし今、彼はいないのだ。
“遠乗りじゃなくてもいい。本を、歴史でもいいな。いつものように過去の英雄に
ついてアンドレと論じるのも楽しいぞ”
もはや彼女の心はここにはないのだ。しかし中座するのもはばかられて我慢し続け
ていたのであった。
「全くくだらぬ!」
帰る道すがらオスカルはアンドレにぼやいていた。
「そのわりには長い間いたじゃないか。さっさと出て来るのかと思ったら」
長い間、控えの間で待っていたアンドレは暇を持て余していたのである。
「出たかったさ。しかし一応わたしの任務だからな。アントワネットさまが不審者
がいるかも知れないとおっしゃるのなら仕方ない」
「いなかっただろう?」
アンドレが茶化したのだ。
「うるさい!」
最初からそれを知っていたようなアンドレの口ぶりに少し腹がたったのだ。
「でもアントワネットさまは寂しいのかも知れんぞ。同い年くらいの取りまきがい
ないから。それをおまえに求めているのじゃないかな? 肉親や知り合いのいない
このフランスで生きていくのはひとりの女性として寂しすぎるのではないのじゃな
いのか?」
「 … 」
「王太子さまがおられる」
オスカルは答えた。しかしその言葉に自信はない。所詮は政略結婚なのだから。そ
してアンドレには言わなかったが何か、その寂しさの為に何かがおこるかも知れな
い不安を感じていたのである。
“わたしには両親がすぐそばにいる。それにアンドレがいる。わたしは… ”
「どうしたんだ?」
アンドレが聞いた。
「いや、いい」
「じゃ、聞かないよ」
彼は歩調を速めて前を歩きだしたのだった。
その夜、オスカルは今までの迷いを解決する為に父のいる書斎に向かったのであ
る。彼女は自分が両親に愛されていると確信したい単なる娘である事を証明したか
ったのだ。
“わたしはずっと以前からこの事を父に聞きたかったのだ。そして幾度その言葉を
飲み込んできた事か… わたしは恐れていた。しかしわたしは小心者ではないぞ!”
彼女はきっとまゆを上げて書斎のドアをノックしたのである。
「父上!」
彼女は奥に向かって声をかけた。
「オスカル… か?」
ジャルジェ将軍が返事をしたのである。その隣には夫人もいた。
「どうしたのです? 怖い顔をして」
彼女は優しくほほ笑みかけたのだった。
「お話しがあるのです」
オスカルは彼らの前に歩み寄って今までの思いを伝えるべく口を開いたのである。
それは賭けのようなものだった。
「わたしはジャルジェ家の為だけに生まれてきたのですか?」
彼女は淡々と語ったのである。それは今までの15年を振り返り、男として跡取り
として歩んで来た人生に対する疑問だったのである。しかし苦しい事ばかりではな
かった。武術や馬術、そして女として育てられなかったために知る事ができた広い
世界、それを気に入っている自分もいた事も話したのである。
しばらくの沈黙をやぶってジャルジェ伯爵がぽつりと言った。
「おまえの道を行くがよい」
そして彼は大きくため息をついたのである。
「わたしの道?」
オスカルは聞き返した。
「そうだ、おまえの道だ」
彼はもう一度、言ったのであった。
“わたしは選んでもよかったのか?”
彼女は耳を疑ったのである。
“そうだったのか… それじゃ今までの心のつかえは何だったのだ?”
「ずっと男でなくてもよいのですか? わたしは… わたしは男にならなくてはと
思っていた… 」
ジャルジェ将軍はオスカルの表情から彼女の心情を察したのであった。
“わたしは自分のわがままでオスカルを苦しめていたというのか!”
彼はあらためて父親としての自分を見つめ直していたのである。拍子抜けしている
オスカルに引き換え彼の表情は沈鬱だった。
「オスカル… 」
第三者の夫人が声をかけた。
「たとえあなたが女であろうと男であろうとわたしのこの手はかわりませんよ」
彼女はそう言って優しくオスカルの肩を包んだのである。
「母上… 」
オスカルは母の目を見つめていた。それはずっと昔、小さな子供のころに見た母の
目と変わらない。
「ありがとうございます」
彼女は父に向かって礼を言った。彼女にとって最も欲しかった答えを得た今はもう
迷う事はなかったのである。
「オスカル」
ジャルジェ将軍は何かを言おうとした。しかしよしておいたのだ。今はもう何も言
わない方がよいだろう、そう思ったからだ。彼はオスカルが出て行くのを止めなか
ったのだった。
書斎から出て行ったオスカルはアンドレの部屋に立っていた。中で彼の気配がす
る。彼女はノックもせずにドアを開けたのであった。
「どうした? いきなり」
急な来訪に驚いたアンドレがベッドに起き上がった。どうやら寝っ転がって本を読
んでいたらしい。
「アンドレ!」
オスカルはかなり興奮しているようなのだ。
「だから何だ?」
彼は本を枕元に置き、彼女をサイドテーブルの小さなイスに腰掛けさせたのである。
「言ったのか? オスカル」
彼はオスカルの明るさが嬉しかったのである。
「ああ、おまえの察している通りだよ。わたしはずっと大人はもう完成されたもの
だと思っていた。しかし大人になっても悩んだり焦ったりするものだと… 父上の
表情を見ているとわかったよ。そうなのだな、アンドレ」
オスカルはしみじみと語ったのである。
「そんなものなんだろうな。でもそれをおまえには悟られないように、少なくとも
親は子供にその不安を気づかれないようにと考えているものなんだと思うよ。まぁ、
おれには親の気持ちなんてわからない。おれも今はまだ保護者を持つ身だけれど、
いずれはおれがおばあちゃんの保護者になる」
「そうだな、わたしもまだ両親の保護下にあるけれど… まだ親の気持ちが理解し
きれないところがあるけれど、わたしもいづれは大人になる。その時のわたしはど
んな大人になるのだろうと思うのだ」
今日の彼女はいつもの突っ張った表情が影をひそめて素直だった。
「いい顔してるぞ、オスカル」
アンドレがにっこり笑って言った。
「バカ、何を言っている!」
彼女は怒るポーズを取る。しかし素直になれた自分に満足しているのがわかる口調
だった。
「どんなに身近にいても本音で話をしない親子が多いのではないのかな? でも良
かった。少なくともわたしは子供として両親から愛されている事を知ったよ。家だ
けの為の存在じゃなかった事が嬉しいのだ」
オスカルはハイになる心を押さえられずにいた。
「それでどうする?」
彼は聞いた。
「どうもしないさ、そのままだ。わたしは父上の犠牲になったとは思いたくなかっ
ただけなのだ。剣も嫌いじゃない。下らぬおしゃべりをして一日を過ごす奴を軽蔑
していた時もある。わたしは男としての生活が気に入っているような気がする。だ
から今日からのわたしは自分の意志も尊重していると言える」
彼女がそのままだというのを聞いたアンドレは少し残念だった。
“おまえのドレス姿を見たかったな”
本音はそうなのだが、やはり今のオスカルがいなくなるというの考えられない事な
のだ。
「らしい結果だな」
アンドレはグラスをふたつ取り出した。
「ワインだよ。おばあちゃんに内緒でもらって来たんだ」
彼は赤ワインをオスカルにすすめたのだ。飾り気のない部屋で高級でないワインだ
ったが彼女はありがたく飲み干したのであった。
ジャルジェ将軍は不安だった。ゆうべのオスカルは今までの自分を否定しきって
いなかった。それが少しは彼の救いになっていたのだが…
“全責任はわたしが取る!”
もしオスカルが近衛連隊長つき大尉の仕事を放棄するのなら、自分がいかなる処分
でも受けようと思うのである。彼は給仕の取り分けた前菜に手をつけず考え事を続
けるのだった。
「父上」
と、呼びかけたのはオスカルだった。
「オスカル!」
彼は小さく叫んだのである。
「何か?」
オスカルがとぼけて返事をした。彼女はいつもの軍服にいつもの剣をたずさえて立
っていたのである。
「いや、何でもないわ」
彼は平静を装って前菜に手をつけた。それはいつもの朝と同じであり、何一つ変わ
る事のない朝の光景だったのである。
“わたしは… わたしはやはりあなたの娘でよかったと思います!”
オスカルは父を見て思った。結果的に父は自分に似合う人生を与えてくれたのかも
知れないと。
そしてその道を続く限り歩み続けていきたいと思ったのであった。
終