アンドレ物語・1
それはまだ寒い春の午後だった。アンドレ・グランディエは孤児になったの
である。彼を愛してくれた母の予測された静かな死は、驚きを伴わない悲しみ
を彼の胸にもたらしたのであった。
「おまえのばあさまが迎えに来てくれるよ。貴族のお屋敷に住めるんだよ」
隣に住む人の良い老婦人がアンドレをなぐさめてくれた。
“貴族の屋敷に住むだって?”
彼は老婦人の顔を見上げたのだ。
「おばあちゃんの事?」
彼は聞いた。あまり会った事はないのだが、やって来た時にはたくさんのおみ
やげをくれる祖母だった。
「そう、マロンさんの所だよ。なんでも伯爵家だって話じゃないか。こんな村
では見られないような大きなお屋敷に住めるんだよ。確かジャルジェ伯爵とか
言ってたっけ? 将軍様だよ」
彼女は見た事のない伯爵家を想像していたのだ。それはアンドレの母の死を、
マロンに知らせたこの老婦人の所に来た手紙に書いてあった事なのだ。
“でも僕はこの家がいい”
生まれてからずっとすんで来た家。父が亡くなった後、母が一人で自分を育て
てくれたこの家に彼は執着していたのである。
“僕は不幸なんだろうか?”
アンドレは思う。愛している者がまるで自分から擦り抜けて行くように次々と
いなくなってしまったのだ。父に続いて母までも…
「思い出が残るだけいいさ」
と、誰かが言った。きっとその人は今まで思い出に残る人もいなかったのだろ
うと思う。
“でも僕は僕より幸せな人に比べたら不幸なんだ”
彼の幼い頭はそう考える。しかしどうにもならない現実があった。
“僕はやはり子供だからここから離れなくてはいけないんだ… ”
ひとりではとても生きていけない事くらい知っている。しかしこの思い出の残
る家を離れ、見知らぬ町に行くなんて彼にはとても辛い事だった。
「ほら、マロンさんがお見えだよ。アンドレ」
アンドレの祖母が彼の家に入って来た。老婦人の所に来た手紙より半日も遅い
到着だった。
「アンドレ!」
と、マロンは大きな声で叫んだのだ。そして彼女はアンドレを見つけるなり号
泣したのである。
「かわいそうなアンドレ」
マロンは彼の事をそう呼んだ。かわいそうな… それには違いないのだが、で
も違うような気がする。
“かわいそうなのは母さんなんだよ! 死んでしまったのは母さんなんだから”
彼には母のもっと生きていたい気持ちが痛いほど分かっていた。
“アンドレ… 母さんがいなくなるなんてかわいそう。でも母さんはもっと辛
いよ。だっておまえの成長した姿が見られないんだよ。9才のアンドレや11
才のアンドレ… 大人になったアンドレをずっと見ていたい… ”
母は自分を抱いてそう言った。
「じゃ、死ななきゃいいんだ!」
アンドレは叫ぶように母の枕元で言いかえしたのだった。
“そうだった… 母さんとそんな話をしていたんだ… ”
彼の胸にぐっとくるものがある。しかしそれを乗り越えて黙っているアンドレ
は強い。
“子供を失った母親と、母親を失った子供とどっちの方が不幸なんだろう?”
そして彼は漠然とマロンと自分を見ながら考えていたのだった。
アンドレ・グランディエ、彼は普通の少年だ… いや、普通の少年より上背
があり大人びて見えた。そして一人っ子にありがちなわがままや甘えがないの
は彼の母のしつけのたまものだろう。
「アンドレ、行っちまうのか?」
彼の年上の友達が寂しそうに言った。
「行く」
短く答えるアンドレなのだ。
「あいつ、おまえの事… 好きだったんだぜ」
彼はアンドレより一つ年下の女の子の名前を告げた。健康的な肌色をしたやや
太めのかわいい女の子の名なのだ。
「僕は知らない」
彼はそっけなく答えたのである。彼の意識にその女の子の姿はない。彼の思春
期はまだなのだ。
「おまえがいなくなると寂しくなる」
友達は本音を言った。本当に寂しそうに… アンドレが切なくなるような気が
するほど彼はアンドレとの別れを惜しんでくれていたのである。取っ組み合い
のケンカもよくしたのだが今となっては懐かしい。
“泣きたい!”
ここで思い切り泣けたらと思う。当たり前の子供ならきっと泣いていただろう。
“アンドレ… 男の子はね、泣いちゃいけないんだよ”
母の言葉がよみがえる。父が亡くなった時の事なのだ。
「僕も寂しいよ」
その気持ちを殺してアンドレは答えたのだ。
「でも僕は行かなくちゃ。僕は一人で生きられないよ」
彼は幼い心で悟っていたのであった。
強い執着、それは思い出の残る家だけのものだった。執着を持つ人はもうい
ない、だからこそあきらめられるのだ。
迎えの馬車が来た。マロンを乗せたその馬車はアンドレの家の前で静かに止
まったのである。
「今日からおまえはあたしが働いているお屋敷の… 末のお姫様の遊び相手兼
護衛だよ。一つ年下のそれはおきれいなお嬢様だよ」
マロンこと、ばあやはアンドレに身振りをつけて教えてくれた。
“一つ年下?”
彼の頭に自分を好きだと言っていた女の子の顔が浮かんでは消えて行った。
“一つ年下の女の子か”
たいした感動もなくアンドレは心の中で復唱したのである。自分がこれからそ
のお屋敷で生きて行く為に与えられた仕事は彼女に仕える事なのだ。
「いいかい、おまえは平民の子なんだからね。お嬢様に失礼があってはいけな
いからようく気をつけるんだよ!」
彼女はネンを押したのだった。
平民、貴族のお嬢様… 生まれ育った村ではあまり聞かない言葉だったが彼
は知っていた。あきらかに自分の女主人は自分とは違う人間なのだ。
“僕は平民というものなんだ”
たいした知識もないままに彼は平民と言う言葉に納得していたのである。
「新しい生活はおまえにとって不自由かも知れないがね、でもおまえなら上手
くやるさ」
彼女は自分の肩を少し越した程度の孫の背中に手をあてた。
“もっとこうしてやるんだったよ… ”
愛情は思うだけでは伝わらない、そんな気がするのだ。
“甘えるのが苦手なんだね”
背中にあてた手が熱い。
“気丈な娘の子だからね。この子ならオスカルさまのお相手にちょうどいいか
も知れないよ”
その手にぐっと力を込めるとアンドレはそれに応えるかのように振り向いた。
「おばあちゃん、泣かないで」
知らぬ間に流れている涙を彼に見られたマロンはほほ笑んだ。
「いいかい、あたしゃね、涙もろいんだよ。女は皆そうなのさ」
彼女は言い訳をしたのである。
「でも母さんは泣かなかったよ」
アンドレは言い返したのだ。
「それはおまえの為なんだよ。親はね、子供の為に感情を殺さなきゃいけない
時があるんだよ。子供のおまえには難しいだろうけど… 女は泣ける男の前で
は泣くんだよ」
言ってしまってからマロンは少し後悔していたのだ。大人びた彼なら自分がそ
の対象でなかった事を悟るかも知れないと。しかし彼の表情に変化はなかった
のである。
「それじゃ、おばあちゃんは僕を信頼してるんだね」
「え?」
思わぬ反応に驚くマロンだった。
あまり長くない馬車の旅の後に見えて来たのは大きな門なのだ。もう暗くな
っていたけれど、その奥にある屋敷からは明かりがもれている部屋がある。大
きな馬小屋には何頭もの馬の気配がし、飼い葉の匂いのするその横を通り過ぎ
ると裏口に続く敷石があった。
「おはいり、アンドレ」
マロンは彼の肩を抱いて中に入れたのである。彼女は今からアンドレの為に遅
い夕食を作ってやろうと思っていた。
「ばあやさん、私がいたします」
若い女中が鍋を暖めようとした。しかしマロンはそれを止めたのだった。
「かわいい孫に出す最初の食事だよ。悪いけどあたしがやるからね」
そう言って彼女はせかせかと動き始めたのである。初老とはいえ動きは若者に
負けんとする意地もあり敏速だったのだ。
「ばあやさんは相変わらずですね」
女中は食器を並べながら笑っていた。何が相変わらずなのかはアンドレにはわ
からないが、彼女が気を悪くしていない事だけは確かなようだった。
「おなかすいただろう? 男の子はいっぱい食べなきゃいけないんだよ!」
マロンはアンドレの前に幾皿ものごちそうを並べたのである。もちろんそれは
アンドレを驚かすのに充分だった。
「これ… 」
彼は思わずツバを飲み込んだのである。慣れない馬車の旅で正直言ってあまり
空腹感をおぼえていなかったのだが体は正直なのだ。
「いままでどんな暮らしをしていたのかわからないけど… 今日からおまえは
ここで生活するのだからね」
マロンは優しくほほ笑んだ。
“あたしは孫と住めるんだ”
その思いが胸を熱くする。嬉しそうに皿をからっぽにして行くアンドレの仕草
を見て、再びいとおしさが込み上げて来るのだった。
ジャルジェ伯爵の末娘であるオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェの朝が
始まった。それはいつもの朝のようだけれどそうではない。昨夜、彼女が寝て
しまってからこの屋敷に新しい召し使いが入ったのだ。そしてその召し使いは
自分の遊び相手兼護衛をする為に呼び寄せられたと聞いている。
“いったいどんな奴なんだ?”
オスカルは髪を整えてくれる女中に聞きたくてうずうずしていたのだ。しかし
数多い召し使いの中にはその情報を知らない者も多いのだ。それに妙にうかれ
ている仕草を彼女に見られたくなくてわざと黙っていたのだった。
“ばあやの孫ならきっとおせっかいで口うるさい奴なんだろうな”
彼女はまだ見ぬ少年を想像していたのである。この屋敷には召し使いの息子で
ある少年も住んでいるのだが彼女の遊び相手ではない。
“ばあやの孫だからな”
少女であるオスカルでも察する事ができるくらいジャルジェ家におけるマロン
の地位は高かったのであった。
ジャルジェ伯爵の私室に呼ばれたアンドレ・グランディエは飾り気のない広
い部屋で彼の主人になる少女を待っていた。マロンこと、ばあやに教えられた
通りの挨拶をすませたアンドレは落ち着かない面持ちで外を見ていたのである。
とにかくこの屋敷は落ち着かないのだ。彼にあてがわれた高い天井の広い部屋
にある大きなベッドは今まで彼の村では見たこともないようなものだった。
「 …レ、アンドレ!」
ばあやの声がする。いつの間に入って来たのか目の前に少年が立っていたのだ
った。
「オスカルお嬢様だよ」
ばあやが少年を指して言ったのだ。
「 ? 」
一瞬の沈黙を破ったのはその少年の声だった。
「おまえがばあやの孫なのか?」
彼女は、青い目をした金髪の少女はまじまじと彼を見つめていたのである。そ
してアンドレも彼女の事を見ていたのだった。
「そうだ、オスカルは男として育てている。少々てこずるかも知れんがな」
伯爵は剣を取り出してアンドレに手渡した。
「剣の相手もしてやってくれ」
と、彼は付け足したのである。その時アンドレは初めてオスカルと呼ばれてい
る少年が自分の主人になる少女だと知ったのであった。
“どうして女の子が男の子の格好をしているんだろう?”
そんな疑問が胸にわいて来たのだが聞くのがはばかられて何も言わなかったア
ンドレなのである。
終