ほほ笑みの時間編
まさに"春"、のある日だった。
ヒカルとアキラは指導碁に呼ばれていたのである。
「やんなっちゃうよなー、今日のも」
ヒカルはぼやいていた。
「仕方ないよ、仕事だから。ボクの方の〇〇社は父と仲が良くないプロ棋士がいつも
行っている所なんだよ」
アキラもついついグチが出る。
「でも感情をセーブするのもプロだ。君の場合は特にね」
注意が必要だとアキラの目は語っていた。
「うるせーな! オレもプロなのだからそんなコト、言われなくてもわかってる!」
ヒカルは憤慨した。
しかし中学を出たばかりの二人はまだまだ子どもの年齢だった。
何かの拍子に感情が爆発することもあるだろう。
それは落ち着いて見えるアキラにもいえることだった。
「塔矢も人のコト、言えねーじゃん!」
「ああ、わかっている。でも君よりはマシさ。せいぜい気をつけるのだね」
こんな時のアキラは非常に冷静だ。
少なくともヒカルの前ではあくまで自分がリードしたいと言うささやかな子どもっぽさの
表れかも知れないが。
「助けを呼んでもボクは行けないんだから」
と言ってポンとヒカルの頭をたたくアキラはニッコリ笑っていた。
確かに彼女の行く先の△△組合は中年男性が多そうだ。
当然セクハラ的な言動が多くなる。
口の悪い彼女の事だから何を言い出すかわからない。
思わずアカンベをするヒカル。
「じゃ・・」
と笑いながら去っていったアキラ。
ヒカルはおもしろくなさそうにタクシーをひろい、行き先を告げたのだった。
ヒカルの向った先は中年男性ばかりではなく女性も混じっていた。
女性がまじると中年男性は口を控える傾向がある。アキラが心配した事もなく、比較
的恵まれた環境の中で2面打ち3面打ちをこなしてゆくヒカルだった。
そろそろ終わりの時間になった頃、ひとりの中年女性がやって来た。
「あの・・・」
と、いいにくそうに女性は声をかけた。
「ああ、どうぞ」
指導碁をしてもらいたいのだろうと察したヒカルは快諾したのである。
それは不思議な碁だった。
そう感じるのはその女性のかもし出す何かだろう。
「碁をならったのは随分前のことでしたよ」
唐突に女性が言った。
「囲碁教室か何かですか?」
とヒカルが丁寧な言葉で聞く。
「主人に・・・でも去年息子に習ってから本気で好きになりました」
女性は楽しそうに笑っている。
「碁石を持っていると息子を感じられるのですから」
と言って女性は碁石を宙にかざしていた。
「え・・・?」
ヒカルの手が止まる。
「ええ」
と、女性はうなずいた。
「碁の中に息子がいるんですもの」
女性の声は明るい。
ヒカルの手が震えている。きっと彼女は冷静さを失っているのだろう。
「・・・」
「碁を打っていると息子が時々出てきます」
「・・・」
「楽しいのです、本当に・・」
「・・・」
母でも友人でもなく、何の縁もない女性を急に身近に感じたヒカルの胸中には佐為
がいた。
「大切な人をなくしたんだ・・」
ポツリとヒカルが言った。
「いるときはなんとも思っていなかったけど・・いなくなってから失ったものの大切さが
わかったんだ・・」
女性は黙って聞いている。
「あなたみたいに笑って話せない。まだ痛くて辛いよ。だってオレまだ、大人じゃない
から・・」
ヒカルの目に涙が浮かんでくる。
しかしアキラに感情をセーブできると言い切った手前ぐっとこらえていた。
そんなヒカルを女性はふんわり受け止めた。
「大人は最初からそんなに大人じゃないんですよ」
「 ? 」
「ひとつひとつ・・・苦しい事を乗り越えて、嬉しい目に合いそれを重ねていく・・もうこれ
以上苦しめないと思っても次には耐えられる・・そんな時私は大人になったのを知りま
した」
少しの間があった。
「それにね、悲しみは深まるのではなく同化するものだと知りましたよ」
「・・・」
「息子はきっと永遠をねがったと思います。しかし無理だと知り、私よりもっともっと苦し
んだと思います。ですから私は負けてはいけないと・・そう自分に言い聞かせましたよ」
女性の表情が少しだけ崩れていた。
「時間は戻りませんからね。前に進むしかないのだから・・」
そして再び悟ったような女性の言葉があった。
「それを悪くいえば図太いと言うのでしょうね」
女性は口を抑えて笑っている。
"今、笑えるのは過去に苦しみを知っているからだ"
それを乗り越えて生きてきたから笑えるのだとヒカルは感じていた。
それは本当に優しい碁だった。
"ありません・・"
ヒカルは心の中で投了した。
「ありがとうございます」
と言った女性に深々と頭を下げたヒカルは泣きたい気持ちをこらえていた。
彼女の前でこの涙は軽いと思う。
"まだ・・・なんだな・・"
彼女は帰っていく彼女を見送った。
昼下がりのまぶしい空は青い。
ふと見上げた宙空に佐為が笑っているようで、その笑顔につられて彼女も少しだけほ
ほ笑むのだった。
約束したレストランの前でアキラは待っていた。
少し遅れたヒカルが息を弾ませて飛んでくる。
「なぁなぁ!!」
騒々しく彼女が話してくる。
言いたい事がある時のヒカルはいつも性急だ。
「オレ、指導碁をしてもらったんだ。人生の指導碁だぜ」
何を言っているかわからないアキラは戸惑っている。
「本当に・・苦しかった・・・自分を抑えるのって難しいって・・だって今日、おまえをと約
束しただろう?」
ヒカルの支離滅裂な言葉について行けないアキラなのだ。
「すっげー悲しくなって泣きたかったけどこらえてたんだぜ!!」
「だから?」
アキラは聞いた。
「だからお前の顔を見たら安心した・・」
ふんわりと胸に触れる手の感触がアキラの心をあたためる。
「いつか・・碁で人生を語る日が来るかもな」
ヒカルが言った。
「ああ、その時ボクたちはどうなっているだろうな」
「今とたいして変わんねーんじゃね?」
「君と一緒に・・」
アキラは彼女を抱いていた。
「語れるように・・道を歩いて行こうね」
そう言ってヒカルの頬につたうものをふいてやるアキラだった。
終