ヒカルの碁(ヒカ子)
眠り姫の時間(5)
屋上で出会った影にはあれから一度も会ったことがない。
しかし彼女以外の影が病院には何人もいるのを知ったヒカルだった。
きっと自分もその影からみたら同じようなものだと思う。
その影のひとりが教えてくれた。
こうやってさまよえるのは脳死じゃない証拠だと。
だから希望をもってもいいのだと。
そう言えば脳死って言葉を聞いた事がある。
よくわかんねーけど脳が全部死んでる状態だって。
オレはきっとそう思われてるんだと思った。
でもね、オレって生きてるんだよね。植物人間っていうのかな?
喉を切りさいて呼吸器なんて付けてねーし、こうして意識があるし。
戻れないだけなんだ。
ヒカルは今まで入った事のない病棟をさまよっていた。
<介>と、その病棟にプレートがはられている。
介護病棟?
ヒカルはゆったりとしたベッドの並ぶ病棟をめずらしそうに見ていたのだった。
介護保険専用の施設であるその病棟は療養型であり、ヒカルがいる一般病棟とは
雰囲気が違っていたのである。
四方が病棟で囲まれた中庭にはたくさんのウサギが飼育されており、一日中あき
ることなくそれをながめている痴呆性老人もいるようだった。
明るいなぁ、オレのとこと全然違うじゃん。
廊下や部屋につけられた名前は親しみやすいものばかりであり、どことなく幼稚園
のような感じがしたヒカルだった。
ん?
ヒカルは何かにひかれるようにある病室の前に来た。
"湖畔の宿"という名の大部屋の窓際にひとりの老女が眠っていた。
隣りにはその夫らしい老人がうつらうつらとしている。
ヒカルがベッドで老女を覗き込んだとき、彼女は目を開いたのだった。
「どうした?」
夫が聞いた。
「・・・・」
夫には聞き取れない老女の声。
しかしヒカルには聞こえたのだった。
「戻れたのよ」って。
おばーさんだったの?
ヒカルが聞いた。
<約束したでしょ?>
オレが見えるの?
<今では見えないわ。でも感じますよ。あなたを・・>
えーーー?本当に?本当に?
あれからあえないと思ってたんだ!
そーかぁ、良かったな! でもどうやって?
ヒカルは答をいそいでいた。
すると、じらすことなく老女は教えてくれたのだ。
<答えなんて簡単でしたよ>
老女はヒカルの方に顔を向けた。
<私が本当にこの人に必要だとわかったから戻る事ができました>
<私が勝手にすねて、苦しんでバカなことをしてたから戻れなかっただけだったのよ>
<だから帰りたいと思う気持ちがあれば帰れますよ、ここに・・>
老女はそう言って笑っていた。
<この人がね>
老女は頬を染めた。
<誰もいなくなった時にそっと口付けをしてくれたのですよ。本当にやさしくて・・
暖かで・・
こんなおばあちゃんの私を妻として愛してくれました。私にとって至福の時を感じ
ていたら私は気がついたのですよ>
おじいさんのキス??
ヒカルは信じられないという表情をした。
だって老人に性は無縁だと思っていたのだから。
<口なんて粘っこくて臭いのに、この人は何回も・・・>
ヒカルは感動して泣いていた。
理屈を越えてきれいだと思ったのだ。
<だから泣かないで、あなたも帰れます>
老女はほほ笑みながら、まだ舟をこいでいる夫を見つめていた。
悠久の時がふたりをつつんでいる。
ヒカルはその優しい時間を心で感じていたのだった。
ひょっとしてオレは何かを否定していたの?
戻れなくてもいいなんて思ってたのかな?
このままいたら佐為にちょこっとでも会えると思っていたのかも知れないってのは
ホントのことだけど・・・
でもオレは生身のオレに戻りたい!!
本当に本当に本当に元に戻りたいよ!
オレはもう自分を否定なんてしない!
ヒカルの脳裏に老人になったアキラと自分の姿が浮かんできた。
そうだ!
オレは・・
オレ、ひょっとしたら戻れるかも?
塔矢がオレを本当に必要としてくれてて、オレが塔矢を必要として・・
もしかしたら・・・??
塔矢〜!! オレにキスをしてーーー!!
どんなキスでもいいからオレを受け止めて!!
オレをつつんでよ!
つづく