レーン講師編・後編(社会人)
フロルはレイを抱いて夜空を眺めていた。故郷のヴェネとは違う星が瞬いている。レイはフロルの腕
の中で小さな手をばたつかせて星をつかもうとするようなしぐさを見せたのだった。
「お前もパパやママみたいにパイロットになりたいのか?」
フロルはくすっと笑った。
“そうだ、オレはずっとちっちゃいころから星を見るのが好きだった。背中に羽があるんなら空に飛び出
せるのにと思った事もあった… 星がいっぱいある所に行きたいと思っていた。やっぱりパイロットにな
りたかったんだ!”
タダが横に座ってきた。
「何をいまごろ悩んでるんだ?」
タダは聞いた。
「いや、やっぱりオレ、パイロットになりたかったんだって… 今、思った。でもお前がいなかったらた
だの夢でおわってたんじゃねぇかと思うんだ」
タダは静かに笑っている。
「何か言えよ!」
フロルはタダが黙っているのが不満だった。
「いや、僕は父さんが昔パイロットをしていたというだけで、安直にパイロットの道を選んだんだって考
えていたんだ。だからフロルの方が少しましかなって思ったんだ」
「そうだな、お前もけっこう単純だったんだな」
「複雑なのがいいってわけじゃないだろ?」
タダはフロルからレイを取り上げながら答えたのである。レイはまだ空を見ていた。タダの頭の中に一瞬、
レイを連れて船に乗っている自分達の姿が浮かんだのである。ほんの一瞬だったのでよくわからなかって
が確かにレイはフロルよりも大きくなっていたのであった。それが予知なのか希望なのかわからないが、
その一瞬はタダの心に強く残ったのである。
「明日は早く終わるんだけど、たまにはふたりで食事に行かないか?」
タダは誘った。そんな事は久しくなかったのだ。
「じいさんたちには悪いけどオレ行きたい!」
もちろんフロルに異存はなかったのであった。
「いよいよ一週間前だ。自信のない奴は今日から必死で頑張ってくれよな。だれの為でもねぇ、これは自
分の為なんだからな」
フロルははっぱをかけた。
「みんな、ここに入った時の夢を忘れるんじゃねぇぞ!」
彼女はもう一度、ネンを押したのである。実習テストはどうすることもできないが筆記テストなら何とか
一週間あれば少しは実力アップさせる事ができる。
「だから… 」
!!
何かが倒れる音がした。隣のクラスからだった。トラップ教授のヒステリックな声が聞こえて来る。その
声に驚いて、学生達だけでなくフロルも自分の教室を飛び出したのであった。
「き… 君たちは僕に何をする気なんだ?」
青ざめた顔のトラップ教授がそこにいた。
「僕に逆らえばどうなるかわかっているんだろうな… 」
彼はおどおどしながら言った。
「しかしトラップ教授。いくら教授であるあなたでも僕たちをばかにする権利はないはずだ!」
興奮した学生が教授に詰め寄った。
「でもお前たちは… こんな簡単な問題も解けないじゃないか! 僕なら大学に入った年にこんな問題な
んて解いていたんだからな。お前たちは僕の教えた事の半分も理解しちゃいないんだ!」
「それは教授の教え方が速すぎるからじゃないか!」
「完全に僕たちをばかにしているじゃないか!」
別の学生が逆らった。トラップ教授は一歩退いた。
「君たちもトラップ教授もおやめなさい。ここは学習の場だ。争いの場ではないはずだ!」
フロルのクラスとは反対側のクラスの助教授が止めに入ったのである。
「お前たちなんか… パイロットになろうなんて所詮夢なんだよ、僕の授業についてけないくせに… 僕
に逆らうんじゃない」
トラップ教授は退きながらも悪態を付いていた。
「トラップ教授、言葉が過ぎるのじゃないですか?」
助教授が彼をたしなめた。
「何だって? 君は僕より年上とは言え所詮助教授じゃないか? 僕に向かって命令するんじゃない!」
しかし、その言葉が終わるか終わらないうちに彼はフロルから飛んで来たパンチをまともに食らって転
がってしまったのであった。
突然の出来事にみんなは驚いた。トラップ教授もまさかフロルからこんな仕打ちを受けるとは思っても
みなかったのである。彼は少なくともフロルだけは自分の味方だと思っていたからなのだ。
「ばーか、お前本当にばかだぜ! お前、大学で何習ってきたんだよ? こんなのがオレの先輩かとお
もうと腹が立ってしようがねぇや! お前にこいつらの夢を奪う権利はねぇんだからな! それにナルシ
ェ助教授は… 」
「レーン先生、そのくらいに… 」
今度は助教授があわててフロルを止めた。彼女の次の言葉がわかったからよけいである。彼女はトラップ
教授が年上である自分に向かって横柄な態度を取った事に対しても腹をたてているのがわかったからだっ
た。どうやらフロルは興奮したときには思考をロックし忘れるようなのだった。
職員室に戻ったフロルは自己嫌悪に陥っていたのである。いくら腹がたったとはいえ同僚である教授
をなぐってしまったのだから。自分はもう学生でははない。軽はずみな行動は慎むべきだったのだ。
“へたすりゃクビかな?”
フロルの頭の中にレイのめんどうを見てくれている長老とマリーばあさんの顔が浮かんで来た。
“せっかく講師になるよう言ってくれたのに… 申し訳ないや… ”
トラップ教授はまだ職員室には戻っていない。次の時間に授業が入っていたのだろう。しかし彼が上司
に知らせるのは時間の問題なのだ。
“オレってちっとも成長してねぇような気がする。誰かセーブしてくれる奴がいなけりゃやってけない
のかな?”
フロルは真剣に悩んでいた。
トラップ教授は授業があるのではなかった。彼はひとり、校舎からみえない植え込みに設置されたベ
ンチに腰掛けさっきの事を振り返っていたのである。どうして自分が殴られなければならなかったのか?
どうしてレーン講師は自分の味方じゃなかったのかを真剣に考えていた。彼は彼なりに結論を出そうと
していたのであった。
「ん?」
彼はキャンパスに入って来た男に目がいった。若い男だ。どうやらここの学生ではないようなのだ。ベ
ビィを連れているところを見ると、近所の住人なのだろうか? トラップ教授はその男の方に近寄って
行った。授業を終えて帰る学生達もその若い男を不思議そうに見ていたのであった。
「誰か探しているのかね?」
トラップ教授は話しかけた。
「いえ、人を待っているんです。少し前に着いたものですから… 」
「君、名前は?」
「タダトス・レーン、ここの学生じゃありませんよ」
ぶしつけな問いかけにタダはいらだちを隠せなくて、ついぶっきらぼうな言い方になってしまったので
あった。
「あなたは?」
今度はタダが聞いた。
「トラップ・リーニィ、ここの教授だ」
彼は横柄な態度で答えたのであった。
“やはりこの男か”
タダは思った。さっきからそんな気がしていたのである。
“フロルがいかにも嫌いそうな男だな。でも何か悩んでるみたいだ。心に迷いがあるぞ”
タダは直感力を働かせていたのである。フロルが嫌がる男の心を覗くのは、彼女の夫として当然の権利
のような気がする勝手なタダだったのだ。しかしその教授は別に気を悪くする様子も見せずに校舎の方
に消えて行ってしまったのであった。
「レイが離れてくれないんだ、だから連れてきた」
タダは駆け寄って来たフロルに嬉しそうな顔をして苦情?を言った。
「顔が笑ってるぞ!」
フロルはタダのほほを軽くつねったのである。
「さっき君の言ってたトラップ教授に会ったよ。会って納得したけど悪気のないような奴だった。考
え事をしてたみたいだけど… 」
「 … オレ、ここをやめなきゃいけないかも知れない… 」
フロルは今日の事をタダに話したのだった。
「そんな事ぐらいで… 個人経営の私立じゃあるまいし… 」
タダは悪い方には転がらないような気がするのだが、彼女は落ち込んでいるようだった。
フロルが予想していたような事は起こらなかった。結局トラップ教授は上司に何も言い付けなかった
のである。仮に言い付けたとしてもたいした事にはならなかっただろうが…
「トラップ教授、きのうは済まなかった。やっぱりオレが悪かったと思う」
翌日出勤して来たフロルはトラップ教授に謝った。彼は何か言いたそうな顔をしていたが… 何も言
わなかった。
今日の職員室ではフロルの事が話題になっていた。
「いやぁ、昨日は見ていてすっとしましたよ」
今までずっとトラップ教授にばかにされ続けていた教授補がフロルに親しそうに話しかけて来た。
「まさかあなたが彼に対しあのような行動にでるとは思わなかったな」
と、言って来た助教授も嬉しそうな顔をしているのだった。でもその言葉はかえっておかしいようにフ
ロルには感じられたのであった。
「みんな… トラップ教授に何遠慮してるんだ? あいつの気にいらねぇとこあったら文句を言えばい
いじゃん。あんたら直感力があるからかえってお互い自分を隠しあってるとこがあるんじゃねぇのか?」
彼女は疑問を投げかけたのであった。
「でもレーン先生、彼にさからっていたら将来この大学でいられなくなるかも知れないんですよ。言い
たいことなんて言えませんよ」
助教授が言った。宇宙大学出身は昇進も速い。
「でもそんな事おかしいぜ、最終的には自分の能力じゃねぇのか? 宇宙大学出た奴でも、卒業した地
点から努力を忘れて成長が止まる奴もいるんじゃねぇのかな? なんかあんたらあきらめてる所がある
んじゃねぇの? どうしてトラップ教授に対して一歩が踏み出せないんだよ?」
フロルは反発したのである。
「それはそうだと思うのだが… レーン先生はトラップ教授と同じ宇宙大学出のエリートだからそんな
事が言えるのじゃないですか? 私には生活がかかっているからとても言えませんよ」
助教授は彼にとってはあたりまえの事を言ったのだが、フロルにとってははそうではなかったのである。
「それって… 差別だよ… 」
彼女はなんだかすごく疲れてしまってそれ以上返す言葉がなかったのであった。
「レーン先生、昨日校門の所で話してた人、いったい誰なんですか?」
教壇に立ったフロルはいきなり質問されたのであった。
「ああ、あれは… 」
亭主、夫、だんなさま… 主人… 色々な呼び方があるが… フロルはタダの存在をどう表現しよう
と迷った。そうだ、まだ自分はタダの紹介の仕方を考えていなかったのだった。
「えっと… あれは… オレの大事な人、つまり亭主とガキ。だんなさまと息子だよ」
フロルはちょっと恥ずかしかったがそう答えたのである。今までそういう紹介の機会がなかった事を
改めて知ったのであった。
「ええっ?!」
一瞬みんなは声をそろえて驚いたのである。教室では数少ない女子学生までもが驚いていたのであ
った。
「そんなに驚くなよな。おまえらもいずれ結婚すんだろ? 別に… 当たり前の事じゃん」
フロルは開き直ったのであった。
「さ、テストは近いんだぜ、さっさとわかんねぇとこ聞いてくれよな!」
そして授業が開始されたのである。問題集を解いている学生達はみな真剣であった。彼らには大きな夢
がある。パイロットになる夢だ。ここにいる者の何人かは航空局所属のパイロットになる事ができる。
それ以外の者は民間の航空会社、旅行会社あるいは全く畑違いの職につくのであった。全員がパイロッ
トになれないとはいえここはシベリースにおける航空局所属の大学だ、レベルも高いため就職には困ら
ないのである。
「みんな… もうすぐだな。ほんとに頑張ってくれよな。この中の誰かが航空局に入ったらオレが入っ
た時には先輩になるんだからな。そん時はよろしく頼むぜ」
フロルは卒業後、すぐにパイロットになれなかった事を決して後悔はしていなかった。しかしタダが短
距離パイロットとはいえ、宇宙に飛び出した事を少しうらやましく思う事もあった。そして今、目の前
のパイロットの卵たちをみるとやはり自分も早くタダと同じ星を見て見たいと思うのであった。
「レーン先生が後輩になるのなら頑張って航空局のテスト、パスしなきゃな」
フロルを気に入っていた学生が言った。
「お前、その前にパイロットライセンスとらなきゃなんねぇんだぜ」
フロルはクギを刺した。
“学生達には夢がある、そんな夢があるからみんな生き生きしてるんだな”
さっき社会の現実を見てしまったフロルにとって彼らの顔は救いであった。生活することと夢を見るこ
とは相反しているのかな、とも思うのであった。
“これが社会に出たときにぶち当たる壁ってやつなのかな?”
フロルは自分がエリートと呼ばれている事を初めて知ったのだ。そしてそれが人間関係において障害にな
る事も知った。トラップ教授もひょっとしたらそんな回りの対応を敏感に感じ取って、排他的にされるみ
じめさよりは自分が高圧的に出てプライドを頼りに教授生活を送って行く事を選んだのではないのかと思
うのであった。所詮どっちもどっちなのだ。フロルはそのどっちにもなりたくはなかったのである。
そしてパイロットライセンスの取得テストの結果が発表された。最初の予想どおり半数以上の者が合格
していたのであった。
「みんな、よく頑張ったな、合格した奴も不合格の奴もみんな頑張ったと思う。不合格だったからってく
よくよすんなよな、また今度があるんだから。そして合格した奴はこれからも努力を忘れるんじゃねぇぞ!」
フロルは合格した者に対して手放しで喜んでやりたい気持ちを押さえていた。不合格の者の気持ちを考え
るとそれはできない事なのだ。一方不合格者の身になって励ましてやる、それもここではできないのであ
る。学生達の前に立ち、授業を進めて行く“先生”という立場の者はこういうものだったんだと改めて痛
感するフロルだった。
一方トラップ教授の受け持つクラスはこの度のテストでは数あるクラスの中で最低の結果だったのであ
る。教授としてのプライドを持っている彼としては実に不本意な事であり、落胆も大きかったのである。
新任のレーン講師の受け持つクラスですら半数以上の合格者を出しているから余計であった。彼のプライ
ドは一挙に崩れ去ったのである。そしてその後に残る空しさを誰に話したらいいのだろうと悩んでいた。
気が付けば自分の回りに友人はいなかったのだから… 彼は数日間、眠れぬ夜を過ごしたのである。
「ナルシェ助教授、僕の教え方が間違っていたのでしょうか?」
トラップ教授はこの大学に新任で入って来て以来初めて助教授に向かって頭を下げたのであった。助教
授とはいえ職歴や人生歴はトラップ教授よりずっと上なのだ。今までのいきさつがあるにせよ、彼とて
下手に出られたら悪い気はしないのだった。
「私が思うには… 」
ナルシェ助教授はトラップ教授に対し、親切に色々と教えてやったのであった。トラップ教授はナルシェ
助教授だけでなく近くにいた教授補や講師にも自分の意見や教育に関する事を聞いてみた。そして彼は知
識というものに頼り過ぎていた自分を発見したのであった。
彼はその時、レーン講師が自分を殴った訳を知ったのである。そしてナルシェ助教授たちも、自分たち
がトラップ教授たちに対し最初から線を引いている、つまりレーン講師の言っていた差別というものを知
らぬうちに行っていた事を感じていたのであった。
「やだなぁ、行きたくねぇな… 」
タダの運転する車の中でフロルはぼやいていた。今日は講師として大学に行く日なのだ。一時間目から授
業の入っているフロルを彼が送って行っているのであった。
「なんだよ、まだ気にしているのかい? 君らしくない。社会に出れば色んなことがあるんだから、そ
んなに気にするなよ」
タダはいたってのんきに接していた。あまり悪い予感がしないのだ。
「オレは何も仕事が嫌だといってるんじゃねぇんだ! 職員室に入るのが嫌なだけなんだからな!」
「たいがいそんなもんだよ。仕事よりも人間関係で悩むものなの」
タダはドアを開けた。
「さ、行っておいで! いつもの君でいいじゃないか」
タダはフロルの手を取った。
「ん、まぁ行ってくるよ」
彼女は後ろを振り返りながら校舎に入って行ったのである。
「レーン先生、ちょっとちょっと!」
フロルはトラップ教授の受け持つ学生達に呼び止められた。
「何の用だ?」
フロルは学生達の思考を読むことは出来ない。不思議そうな顔をして彼女は彼らの後について行ったの
であった。
「ほら、見てくださいよ、これ」
フロルが見たものは教壇に張り付けられた紙製の宇宙船だった。
「この前の授業の時にトラップ教授がぽろっと言ったんですよ。本当は小さいころからパイロットにな
りたかったんだって。でもハイスクールくらいになると宇宙大学受験の為の勉強で、その夢を忘れて
しまっていたんだって」
ひとりの学生が言った。
「それでね、レーン先生に殴られてその夢を思い出したって言ってましたよ」
横にいた学生がおもしろそうに言った。
「あの教授が自分の事をいうなんて初めての事なんですよ」
“トラップ教授は変わったんだろうか?”
フロルは思った。
「これ見たらあいつ、きっと喜んでくれると思うな。オレだったらすごく嬉しいもん」
フロルは感心したようにその宇宙船に見入っていた。
「トラップ教授には内緒ですよ!」
彼女は口止めされたのであった。学生達にとってフロルは講師というより友達みたいなものだったのだ。
職員室に向かう彼女の足取りは重かったがそれでも入らなくてはならないのだ。
「おはよう!」
フロルは努めて明るく入って行った。
「あ、おはよう、レーン先生!」
異常に明るいトラップ教授の声が返って来たのである。ナルシェ助教授もフロルに向かってあいさつを
返したのだった。彼女は思わず二人の顔を交互に見たのである。何かが変わった、そう思ったのだ。解
放された彼女の心は二人に正確に伝わっていったのであった。なんせ彼らには直感力という便利なもの
があるのだから…
「レーン先生、この前の事、謝るのは僕の方ですよ」
トラップ教授は謝って来た。
「え… 」
「私もですよ、あなたに対し随分ひどい事を言ったと反省しています」
ナルシェ助教授も謝って来たのである。
“あれ… ? 何か変だ… ”
覚悟を決めて入って行った職員室だったのだが数日前とは様子が違っていたのであった。
「レーン先生は今までいなかったタイプの先生だから戸惑いがあったのは確かなんですよ… 」
隣にいた教授補も済まなそうにそう言ったのであった。
“オレ… こんな場面… 苦手だ… ”
フロルは思わず顔を覆ってしまったのであった。神経がはりつめている時に思いがけない言葉をかけられる
と、どうしてもこうなってしまうのだ。
「レーン先生」
ナルシェ助教授はフロルの肩に手を置いた。彼はかける言葉が見つからなくて、そのままのポーズで黙って
いたのであった。
「タダ… 」
フロルは小さくつぶやいた。
“お前… こうなるの知ってたんじゃねぇだろな。もしそうだったら承知しねぇからな!”
フロルは照れ臭さを紛らわす為に、わざと違うことを考えようとしていたのである。タダに予知能力はない
ものの何かを感じていたのは確かだったのだが…
トラップ教授は一時間目のクラスで大いに驚かされたのであった。フロルが黙っていたため彼はその事を
知らなかったのである。彼もまた、違う意味で涙が出るほど嬉しかったのであった。パイロットライセンス
のテストで最低の結果を出した自分を力づける為にこんな事をしてくれた学生の気持ちが心を揺さぶったの
であった。学生達にとってはちょっとした気まぐれだったのかも知れないが、彼にとっては教授生活におけ
る最高の日だったのである。
「タダ、オレ講師の仕事、続きそうだよ」
フロルは言った。
「ん? 朝とずいぶん違ってるんだな。何かあったのか?」
タダは聞いた。フロルはタダの手に自分の手をからめて今日のことを伝えたのだ。
「フロル、君は自分では気づいていないがすごい力を持っているのかも知れないよ」
タダは近ごろそう思うようになった。彼女の素直な自然体は屈折した心を刺激するのである。
「なにばか言ってんだよ! オレがまじめに話してるっていうのに… 」
「ははっ、悪かった。でも僕もいたってまじめなんだけどな。ま、いいさ」
タダはレイを抱き上げた。ほんのりとミルクの香りがする。その甘い香りはいつもタダを幸せな気分にし
てくれたのであった。
「フロル、もしも次の子供がてきた時、その子をレイと同じくらい愛せるだろうか?」
タダは真剣な顔をして聞いてきた。
「愛せるに決まってるだろ。だってオレたちの子供なんだぜ。子供って愛されるために生まれてくるん
だから… 」
フロルはさも当然といった口調で答えたのである。
「レイ、お前ひとりじゃ寂しいよな」
彼女はレイに話しかけた。
“ひとりじゃ寂しい… ”
タダは心の中でその言葉を幾度となく繰り返したのであった。フロルは何げなく言ったのだろうが、自
分はその一人を経験して育って来たのだった。
「君のいう通りだな… レイの為にも早くほしいよな」
タダはひとりでしゃべって納得していたのである。
「でもまだできねぇよ」
フロルは笑ってそう言った。
「さ、レイ。じいさんが外で待ってるぞ。散歩の時間だって」
フロルはタダからレイを取り上げて長老の所へ連れていったのである。
「フロル… 」
タダは長老の後ろ姿を見ながら呼びかけた。
「なんだ?」
フロルは聞いた。
「いや… やっぱり僕は何人でも愛せるような気がしてきたんだ」
タダはきっぱりと言った。
「お前、熱でもあるのか? ほんとに… 」
フロルはそう言いながらもタダの肩に頭をちょこんと乗せたのであった。
シベリースに許されたただひとつの季節を彩るように、名も知らぬ花が風に揺れているのであった。
そのなか今、でふたつの影はひとつに重なったのであった。
終