旅の終わりの・・編





 因島への短い旅の終わりに悲しみがよみがえる・・・
でもあきらめられない自分がいる事を感じずにはいられれないヒカルだった。




 案内された場所は棋譜置き場だった。
古い棋譜を保存するのに適した室温や湿度に保たれたそこは棋院の奥の目
立たない場所にあった。
「本因坊秀策・・・」
ヒカルは彼の名を読んだ。
「佐為が打った碁なんだ・・」
懐かしさとともに彼の未知の実力に触れたいヒカルの碁打ちのサガが棋譜の頁を
繰らせる。
弱冠7歳で碁の才能を認められ本因坊丈和の門下に入門した虎次郎は、師匠であ
る丈和が"本因坊道策150年来の碁豪"と言わしめたものだと聞く。
今なお伝わる秀策の400局ほどの棋譜は学ぶものが多いだろう。
「コレ・・佐為が打ったんだ・・」
ヒカルは棋譜に見入っていた。
ぼんやりと意識が薄れてくる。
その向こうに見えるのは二人の影だった。



「誰・・?」
ヒカルは声を出した。
しかしその影は答えない。
「佐為!」

ヒカルは見た。その影の後にいる佐為を!。

「ウソ? これ、夢?」
ヒカルは自分が夢の中にいるのを感じていた。

 ヒカルの実体はないのだろう。
それは佐為にすら見えはしない存在なのだから。
「オレって佐為より幽霊らしいじゃん」
彼女は佐為に近づいた。
少しだけ首をかしげる佐為。
しかしすぐに盤上に目を落とす。
その前にいる青年はまぎれもなく虎次郎だろう。
虎次郎の対戦相手はうなっていた。
「佐為が追い詰めているんだ」
ヒカルは佐為の放つ手を見つめていた。
「すごい・・・すごいよ、佐為・・」
相手が戦意喪失して行く様を前に佐為はにっこりほほ笑んだ。
「こっちの勝ちだろう?」
某御仁が虎次郎をさした。
その者は碁に詳しくないらしい。
「そうしてそれを?」
まわりにいた者が聞いた。
「ホラ、先生の耳が赤い」
彼は虎次郎の前の男を指差した。
先生といわれるからにはそれなりの実力者なのだろう。
その先生の赤くなった耳は焦りや屈辱をあらわしている。
「すごい一手を打つんだな・・」
ヒカルは憧憬の眼差しで佐為を見つめていた。
「佐為! オレだよ! オレ! わかんねぇの?」
ヒカルは佐為の真横で騒いでいた。
しかし佐為は気付かない。もちろん彼に触れることもできないのだ。
「佐為〜っ!!」
佐為はそんなヒカルを尻目に勝った虎次郎と仲良さげに話している。
「佐為―っ! オレの時と違うじゃん!」
ヒカルは虎次郎に嫉妬した。
それほど穏やかで優しい佐為がいた。
嫣然とした表情で長い黒髪を揺らしている佐為は、さながら1枚の完成された日本
画のようだった。

「あれ・・」
ヒカルの体が軽くなる。
もう一度、彼女の視界が薄れてきた。
「オレ・・・どうなっちゃうんだろう? これ、やっぱ夢?」
今度の夢は佐為の悲しみがただよう空間のものだった。

 その一室に虎次郎はいた。
すでに本因坊跡目となり御城碁に出仕して十数年の彼を佐為は虎次郎と呼んで
いた。
「虎次郎・・・」
佐為は彼の横に無力な自分をなげいていた。
その病に対する知識を佐為は知らない。
水分が失われ脱水して行く虎次郎の目はくぼんでいた。
ひと目見ただけでももう長くはないと察せられる虎次郎は乾いた口で何かを訴え
ていた。

「佐為・・」
虎次郎の声が聞こえる。
「もっと・・」
苦しげに彼は言う。
「もっと・・」
「佐為といたかった・・」
彼の手が佐為に向けられた。
「出会いが別れの始まりなら・・」
彼の言葉はとぎれそうだ。
「虎次郎・・」
触れる事のできない手を触れようとする佐為。
「佐為・・別れは出会いまでの準備の期間だと・・」
彼の呼吸が浅くなる。
「でも今はすまない・・」
虎次郎の声が遠くなる。
「すまない・・佐為・・」

 ヒカルは消えゆく佐為を見た。
光の粒がゆっくりと散ってゆく・・・

ああ、これが死?

それはなんて儚いのだろう?

「でも別れちゃうともう会えないんだぜ! そんな別れだったじゃん!」
ヒカルは虎次郎に向って叫んでいた。
佐為のいない虎次郎の亡がらはあまりにも残酷に彼女にはうつっていた。


しかしヒカルは聞いたのだ。
佐為に出会えて幸せだったという虎次郎の最期の言葉を・・




「でも本当は別れたくなかったんだろう?」
ヒカルは棋譜置き場で泣いている自分に気がついた。
どこにもいない佐為。
奥まった部屋で泣いているのは自分・・
そう、佐為のいないオレ・・

 棋院を後にしたヒカルは暗くなった空を見上げ、家に帰る道すがら考えた。

消えてしまった佐為の思いはどこに行くのだろう?
ヒカルは漠然と人の死を考えた。
少なくとも人は生きる、死ぬという事に関しては平等だろう。
しかし佐為の存在はそれを否定する。
人は二度も三度も生きられないのだ。
だから消えたのか?
しかし彼が秀策だけでなく、自分の中によみがえるには何かワケがあるのだろう。
ではなぜ?

ヒカルは考える。
結論は出ない。
佐為がいない・・・
その事実が彼女を混乱させたのだった。
ただ、わかった事は佐為がいかに天才だったかという事だ。
悲しみなんていくらでも湧いてくる。
今日が一番悲しい日かどうかはわからない。
後悔という言葉も今日知った。
純粋に悲しみのままに泣き叫ぶ自分を恥ずかしいとか滑稽だとか思わない。

そしてまぎれもなく佐為はもういないのだと、本当に、感じたのだった。




                           終

   

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