山南敬助自叙伝
私はね、生まれてからずっと遠慮ばかりして生きてきたような気がするのですよ。
武家とはいえ名ばかりの貧乏暮らしだった為、両親が"何か買ってやる"と言っても
たいがい断ってました。
想いあった女もいたのですが家にそぐわないのであきらめました。B
しかしね、それが大人になってから大きくくつがえされたのです。人はね、子どもは
遠慮などするような生き物に見ていなかったのです。
その時気がつきました。
世の人は私ほど物事を深く考えていないくせに自分の器で他人を評価するものだと
言うことに。
所詮グチですがね・・
両親が亡くなり私は生まれて初めて自由を感じました。
悲しくないと言えばウソになりますがホッとしたのは事実です。
何となく両親の義理で生きてきたような私だったのですから・・・
江戸に出てきた私は試衛館に寄り付くようになりました。いや、食客と言った方が
正しいでしょう。
ここでは色んな人間が集い、己の夢や思想を論じ合っていました。
思えば一番楽しい時期だったと思います。
そのうち京に上る事になり、気が付けば私は新選組の幹部になっていたのです。
ここまでは良かったのです。
私は人間の集団の中でも充分にやってゆける人間だと思い込んでいたのですから・・
しかしそれは誤りでした。
新選組は変わって行くのです。世の中もどんどん動いてゆき人の心も移ります。
そんな中で私は孤立し戸惑ってしまったのです。
定められたワクの中で自分を発揮できる人間がいるのと反対に、ワクが苦しくて逃
出してしまう人間もいるのですから・・・
私は後者でした。
気が付くと大津にいたのです。
私は新選組から逃出してしまったのです。
組の掟では切腹でしょう。
私はね、たった一度の過ちで取り返しのつかなくなるようなことがあるのを知らない
ヤツだったのですよ。
やはり私は切腹でした。
まぁ、仕方ないでしょう。いや、言い訳じゃないが正直言ってホッとしたのです。
両親がなくなった時もそうでした。
私は・・・ひょっとすると生きることにも遠慮していたのかも知れません。
死に面しても、もし自分が生きながらえたら・・・って考えました。
もし、好きな女がいたら・・・子どもができるでしょう。
静かな所に家を見つけ、親子で穏やかに暮らしてゆけると思います。
しかしその子が自我に目覚めた時、はたして私は父親として、人間として、その子の
心を理解することができるでしょうか?
とても出来そうにありません・・・
子どもとは一番恐ろしい他人なのかも知れません。
・・ああ・・・
不安の材料って消える事がないものなのです。
やはり私は生きてゆくにはあまりにも気の小さな人間だったのでしょう・・・
人はよく私の事を穏やかな人だと言ってくれました。
しかし決してそうじゃないのです。
ホラ、よくいるでしょう?
嬉しい感情だけ素直に表す人が・・・
悲しいことや苦しいことがあっても顔に表さず、むしろ何食わぬ顔をして笑ってい
られる・・・
私はそれでした。
勘ぐり過ぎでしょうか? いつもニコニコしている人間が一番恐ろしい!!
時刻が近づいて来ました。
組の者の多くが、私が皆を恨みながら切腹するのだと思っている事でしょう。
しかしそうじゃないのです。
私は、決して、誰も恨みはしません。
死ぬ事でやっと安心できる人間もいるのですから・・・
「それでは沖田君、お願いしますよ」
終
前川家の一室にて・・・
山南敬助
1865・2.23