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斜視の彼女がものを言うことはなかった。


それに気がついたのは、療養所の門下で行き倒れていた彼女を保護して、およそ数刻のことだった。
傍らには、片時も離れようとしない幼い少女──妹なのだろう。二人の面差しはそれは良く似ていた。

胸を患い、少しでも清浄な空気をと療養のために森深いこの場に居を移して、実に一月経つ。
初めは不便さに閉口していた様子の娘と息子も、ようやくやっと森奥深い生活に慣れてきた矢先だった。

かげることを知らぬ満月の初秋──
幼い少女を伴った彼女は、屋敷の門前で行き倒れていた。

初めは、物の怪か、魔障かと──思った。
行き倒れて意識のない彼女を急いで保護して、介抱する間も──実は人間かどうか、疑っていた。
そばに付き添っていた幼い少女は敵意を剥き出しにして睨みつけてくるようだったし、一切人と口を利こうとしなかったからだ。
これは人あらざるものを助けてしまったか──と思ったが、どちらにせよ先の短い病身の身、たとえ人あらざるものの命を救ったとて、罪業が深くなるわけでもない。むしろ、来世の罪が軽くなるやもしれぬ──そう計算した。

無論、それはただ、身寄りのない若い女を屋敷に寄せた言い訳であることは、指摘されないでも分かっていたが。

妻に先立たれ数年。
妻以外の女に心を傾ける気はなかったが、それでもやはり、外聞が多少気になった。
小国とはいえ、一国の主、滅多な振る舞いはできない。
公明正大であれ──息子にそう教えてきた。私もそれを実践しなければなるまい。


彼女は──


斜視の彼女が、ものを言うことはなかった。


※ ※ ※


彼女は、口が利けなくなっていた。
声をあげない。
口が──利けないのだ。
何かを話そうとする素振りはあるが、声が出ない。出ないのか、出さないのか……それは良く分からなかったが、とにかく、彼女は一度も口を利かなかった。
伴っていた少女のほうは、幼い子ども特有の明るさと持ち前らしい人懐こい性格で息子と随分仲良くなった。
娘のほうは──
やや人見知りしているらしく、少女を遠巻きに見ているだけだったが、気にはしている様子だった。
女同士だ、いずれ仲良くもなろう。
同世代の友人がない息子と娘には、いつもすまなく思っていたが、これで多少、山里の生活にも彩りを添えられるかもしれぬ。
私は──そう思った。

胸の患いは、日に日に悪化し、ついに私は庭に降りるのも叶わない身となってしまった。
彼女を介抱してから、およそ十日ほど。
私は息子と娘のためにも、屋敷に留まってほしいと彼女に頼んだ。
たぶん──
私の病は、平癒することはない。
おそらく、先は長くないだろう。だからせめて、息子と娘に友人と過ごすという日々を私の元で送ってほしい、そう思ったのだ。

彼女が連れていた少女は、凛という名だった。

物言わぬ彼女は、少女の名を尋ねたときに、そう紙に記した。
だから、たぶん、少女の名は凛というのだろう。
彼女自身の名を尋ねると、彼女はやや間を置いて、そっと紙に書き付けた。

彼女は──竜胆と言った。


※ ※ ※


秋風が御簾を揺らし、雲の切れ間より洩れ出ずる月の光が涼やかな夜──
私は床に臥したまま、御簾を上げた向こう、夜空を眺めていた。
先日は、半月だった。
そして月は、やせ細っていく。
私は病が進行していく躯を、冷めた心持で自覚していた。
夜空にまたたくは、無数の星々。
冷え冷えとした、秋の夜空だった。

この秋。
……たぶん、私は乗り切れない。

枕もとで、わずかな風が揺れた。
物言わぬ斜視──彼女は、静かに、ただ静かに、やせ細っていく月を見つめていた。
いや。
……星を見つめているのか。

風が、御簾を吹き抜けて──駆け抜けない。
舞い降りる埃のような月光。
虫の声が遠く、静かに鳴いている。

「──あなたは、あまり月の光を浴びぬほうがいい──」

私はかすれた声でそう忠告した。
彼女は一呼吸おいて、私を見た。
右目は、どこか違うところを見ている──斜視。
彼女は口を開き……また閉じた。何か言おうとした様子だったが、……何を言うつもりだったのか、よく分からない。
ただ、私はこのとき、亡き妻が生きていたら、きっと私をこういうふうに見ただろうと思った。

「月の光を浴びつづけていたら、命が短くなる。……そういうふうに、昔の人は思ったものですよ」
「……」

言葉が、追随しない。
だが、視線だけは、追随した。
私は目を閉じて、秋風を感じ取ろうとしたが、風の音にも、秋を感じることは出来なかった……
こんなにもあたりは秋の色を帯びているというのに、私は風の音にも秋を感じとれない……

「私の妻は──あれは、もう随分前に死んだのですが、月を見るのが好きな女でした。さてはそのせいで先立たれてしまったのかと未練がましく思うときもあるのです──」

彼女はうなずくかうなずかないか、わずかに微妙に目を伏せた。
聞きたくない──のかもしれない。
こんな、年老いた男の未練がましい亡妻歌など。

「しかし、そう思う反面、こうも思うのです。人の生死はあらかじめ決まっていて、その間をいかに美しく費やすかが人生の価値を決めるのではないかと──まさに人の命は散っていく花。散らぬ花はもとより、散るのを先延ばそうとする花は、醜悪」
「──」
「花びらが散りかけたのならば、そのままにしておくべきだ。だが──進んで散らすことはない。私はもはや花弁一枚ほどの命ですが──あなたはまだかげりもない。私はもうここまでですが──あなたは」

彼女はそっと手をかざした。
話すのをやめろ──といいたいのか。
口をつぐんだ私の前で、彼女は斜視の視線を流して寄越した。


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