別離。
本当にそれだけだった。
僕は考えることが苦手だけど、言葉にするのは苦手だけど、ただ重すぎた。事実を理解する前に自分の脳みそが言うことを聞かなかった。何がなんだかわからなかった。いや、理解したくなかった。そして出てきた言葉が『別離』だった。
言葉にすることの恐怖というのが少しはわかった気がする、いや、まだ序の口なのかもしれない。それ以前にわかったつもりをしているだけなのかもしれない。気の遠くなるような作業、確かめてみたくなったその先にあったものがこんなにもつらいとは思わなかった。僕は君から言わせれば理想郷のようにオメデタイ人だったのかもしれないね。最近では前置き、前提条件そんなものが頭の中を錯綜して、最終的には何を言っているか支離滅裂な状態になっている。言葉にするということは物凄く覚悟がいることなのかもしれない。あらゆる曖昧さも許さない。しかし、言葉という制限の中で100%というものは無理だと知っている。けれどもそれは全部了解しなくてはならず、又、その上で否応なく全てが決定されていく。それゆえに少しの間違いも許されない。気が狂いそうだ。しかももう一度やり直しは許されない。
君は僕のピアノの下に散乱している楽譜を拾い上げて、
『羨ましいくらい美しい、きっと楽譜を作った人は天才だな。』
と言ったことがあったね。あの時は何を言っているのかわからなかったよ。実際、自分の思うところの楽譜の美しさはわかっていたが、その時はお茶を濁すだけだった。でも、今ならきっとこうだ、って胸を張って言うことができる。もうそんなこと言っても遅すぎだってことは十分わかっているよ。ただここに書き残したかっただけ。僕のただの我儘さ。でも気にしないだろう?だってすでに君と僕とは離れてしまったのだから。
人との相違点をなんとなくではなく、しっかりとみきわめてみたくて・・・あの時はただの好奇心だったのさ。怖いもの見たさって奴なのかもしれない。ただ僕は愚か過ぎたということは言うまでもない。人は過ちを犯してからでしか気付くことはできないのだろうか?もしそうだとしたら、あまりにも酷過ぎる。それともそんな駄目な奴は僕だけなのかい?それだけは、どうか誰かに答えてほしい。それはどんな答えであっても僕を救ってくれるに違いない。いや、そう信じずにはいられないんだ。
でもやっぱり僕は、悩みながらでもこんな自分が好きなんだ。止められないんだ。君が嫌いなんじゃない。むしろその逆だよ。ただ、僕のこのスタンスを変えるわけにはいかないのさ。哀れだろ。君には理解しがたいことなのかもしれない。僕が君に言えることは、君は天才、僕は変人、そして君は繊細、僕は脆い、ということだ。この図式は覚えておいて欲しい。卑屈と誰かに言われるかもしれないけど、そう言うしか他はない。現時点の僕にはこれ以上の言葉を知らないからだ。
とりあえず、君は僕を理解できなかったということだけは書いておかなくてはならない。これは君のプライドを傷つけるものかもしれない。だけど、君は僕を壊してくれはしたが、それだけだったんだよ。僕を分かろうとする行動、読み取ろうとする行動は僕を追い詰めた。いや、その全てが君にとって自動的に起こったもので、それは止められないものだということはよくわかっているさ。それが君の唯一の君の武器であり、鎧であったのだから。そういうと君はそうでない、と否定するだろう。でも僕にはそう見えた。それこそが僕にとって重要だったのさ。君の全てが『僕』に対して容喙し、僕は全てがなくなる前に、大切な何かを守る為に『僕』を撤退させた。
でも、君は逃げることを許さなかった。逃げている事に気付いているのなら君は性格が最高に悪いといってもいいだろう。僕はそんな風に君のことを思いたくない。もし、逃げている事に気付いていないなら、君への敬意は音を立てて崩れていくだろう。だけど、『僕』はそのどちらを選ぶのも嫌だった。だから自ら過去の僕を消そうとしたのさ。そう、君は理解する前に壊したんだ。『僕』のことをわかるわけがない。わざとそうしたのなら、僕は絶対君を許せそうにもない。でも君は違う。なんの悪意もなく、微塵の躊躇もなく『僕』を粉砕したんだろう。折角作り上げた砂の城を思いっきりぶち壊したんだ。だからもう一度僕は『僕』を必要に応じて作った。だからといって君を責めるつもりは全くない。君は当たり前のことをしただけだ。普通だと思っていることをしただけだから、君の生活を否定することはできない。そこだけは勘違いしないで欲しいんだ。むしろ僕は懐かしい気持ちだ。でも、そうだとしたら一体今の『僕』は何人目だろう?と思うとゾッとする。これを書いている今でも掌は脂汗で酷い状態になっている。
ただ、未だにわからないことがある。君がそうした動機だよ。なぜ僕に執着したのか?いや、ただの自惚れかもしれないね。周りの人は壊れているような感じがしない。本当に僕が脆かっただけなのか?ただの被害妄想なのか?それともやはり君の作為か?僕は最初から弄ばれていただけなのか?君と一緒にいると自分が決定したという感じが全くしない。何もかもが仕組まれたことのように思える。果たして最初から〈僕〉はいたのか?
僕はいつでも叫んでいる。自分のしたいこと、要求、要望すべてを前面に出して、そして今は不安を吐き出している。いや、僕の中の不安定さ、空回りしている僕の傲慢という空っぽな感情を露呈させている。あまりにも惨めだ。もしかしたら、いや間違いなく僕はある意味では〈冷たい〉人種だった。
ピリオドを打つべきは過去の『僕』なんぞではなく僕の怠惰に対してかもしれない。生産性も何もない、この憔悴しきっただけのただの塊は足踏みすらしていなかったのだから。僕にはこんなに広い世界で、傍から見れば比較的幸せな、この世界にいてもう立錐の余地もない。僕は自分自身を追い詰めすぎた。もう手遅れなんだ。何も意味のない厳しさと手ごたえのない甘さが仇となった。今いかに僕が本当に窮地に立たされているということを自覚している。
いささか直接的に書きすぎた気もする。君がこれを読んだら吐き気を催すかもしれない。しかし、そうだとしたら大成功だと思う。だけどこれは決して嫌がらせの類では決してない。もう気付いているかな?これは今の『僕』の自己紹介状であり、君への談判であり、感謝であり、なにより昔の『僕』だった人の遺書なんだ。君には受け取る権利がある。放棄してもかまわない。でも、僕にはこれを渡す義務があるんだ。わかってくれるよね?どうしようもない過去の悲鳴と今の新しい産声。いや、ただの負け犬の遠吠え、もっと言えば劣等感の燃えカスの崩れ去っていく音。それを聞いて欲しかっただけ、聞いてくれるだけで、いやこのことを懺悔することで許されると思い込みたい、許されてもいいと思うんだ。自分自身を前に押しやることができると思うんだ。ただそれだけ・・・
『ふーん、何か本当に《遺書》みたいね。』
『なんだよ。覗くなよ。』
『ここまで赤裸々に書くこともないんじゃないかなぁ、振られた男の愚痴みたい。ストーカーみたいで気持ち悪い。』
『悪かったな、どうせ僕は女の腐ったようなやつだよ。』
『そこまでは言ってない。』
『【そこまで】・・・か。』
男は無愛想にそういった。関心がなかった。それどころではなかったのだから。髭もそらず、爪も切らずむしろそういったことに気付く感覚というものが欠落していた。
アパートの一室。外から学生だろう声がなんか叫んでいるのが聞こえる。隣が居酒屋で夜は五月蝿くて実際男もうんざりしていた。台所の近くに置いてある除湿機が湿度76%を示しているせいか、女の声がいつもより低く聞こえる。男の右手には数学の専門書が手付かずのまま山積みされている。その左となりに国語辞典が開かれたまま置かれている。左手にはベッドと炬燵がならんでいる。本来ならば炬燵の季節ではない。ただ、しまうのも面倒という理由で放置してある。いや、それもあるが男は炬燵というものが好きだった。特に赤茶色のその炬燵を見ると何故か和む気さえした。炬燵には一種の魅力があるように感じられた。全ての感覚を吸い取ってくれるような、麻痺させてくれるような恍惚とした何かがあると思った。男は炬燵の中で夏でも汗をかきながら夢想することがあった。それが贅沢だと信じていた。
でも男はそれが間違いであることに気付いた。それはただショックだった。なんにもなかったのだ。善いとか悪いとかそういった判断のしかねる問題だった。自分で自分を許しているだけだった。妥協しているともいえる。ただ悉く安直だったことを、狡い自分を知った。でもどうしようもなかった。それは人為的で、悪意のない作為によって引き起こされた悪夢だったといえるだろう。
男はただ黙々ととり憑かれたように原稿用紙に鉛筆で何かを書き続け、珠にため息をつき、コップに注がれた麦茶を飲んだ。それはまるで何かの手順のように機械的で、むしろそれが、まだ《男が生きた人間である》ことを誇示しているようにもみえた。しかし女にとってこれほど退屈なことはないだろう。それは女とは関係のないことなのだから。寧ろ関係ないということが重要なのかもしれない。
気付くことなく灰色の水玉模様のあるカーペットに放置された紙屑。それはただの男の原稿用紙の失敗作だった。その周りには綿埃が溜まっている。カーペットの端は黄色いシミができていた。その上にも更に失敗作は落ちていた。女は手を伸ばして、なるべく体を屈むことなくそれを拾おうとした。しかし男がそれを制止した。
『読むなよ。それは誰かに読んでもらうためのものじゃない。』
『誰も読みもしないものを書いても意味がないじゃない。読んであげるわよ。』
『どんな論理だよ、それじゃ答えになってない。これを読むのは僕だけ、自分のためだけに書いているんだ。』
『あんたもおかしいわよ。なんでそんなもの書くのよ。読まれたくもないのに、散らかしておくんじゃないわよ。大体私をあんたの部屋に呼んでおいて、あたし放ったらかしじゃない。ひどいわよ。』
『確かにひどいね。』
『はぁ?』
男は説明することを諦めた。彼女に言っても無理だというわけではない。自分に彼女を説得させるだけの語彙も能力も足りていないと思ったのだ。昔まではそんなことは決してなかった。頭の中に浮かび上がってくるものをすべて吐き出して生きていた。それでもなんとか生きることができた。だからこそ自分を見失うことはないのだという信念を持っていた。
だが男には覚悟がなかったのだ。覇気もなく、ただ平坦に生きてきた。自分しかいない人生。それが恐ろしく安全で、あまりにも虚しいものだということに気付いた。しかし
変えられない。変えたら多分容赦なく奪われる。きっと持ってイカレル。何もかもが一瞬のうちに終わってしまうだろう。
それだけは分かっていた、どうしようもないことはすでに分かりきったことだった。しかし、この不条理かつ非合理的な解答が男を悩ませた。悩む必要も、そもそも悩むこと自体が無駄だと知っていながら、それでも納得が行かない地獄、悪循環。立ち止まっていれば、その分傷が増えていくにも関わらずにそれをよく理解しながらも立ちすくんでいた。一方的に不利なリターンのないハイリスクなモラトリアム。ただそのすべてが劈頭から決められたことの様な気もする。
男は特に女に自分が彼女の言動を誘導していないかだけを心配していた。心配なんてしたくもないのに、その思いだけがまるで水飴のようにこびりつく。性質が悪い。まだはっきりとは流しきれていないようだ。なかなか虫が自分の耳から出て行かないもどかしさと種類はかわらないだろう。ただ出て行ったかもわからないのが今の男の現状だった。
『なんとか言いなさいよ。』
女はまだ膨れっ面をしている。明らかにこの不満をどうにかしろという顔をしている。
そんな顔が男を安心させた。人間は楽なほうへと進むものだとよく聞くが、確かにそのとおりだと思った。少しだけ気楽な気分になれた。ほんの束の間の一瞬の快楽みたいなものだった。しかし、男にはそれで十分だった。
『それはゴミなんだよ。』
『そりゃわかるわよ、こんなにしわくちゃにして。それとも馬鹿にしているの?』
男は笑った。それしかできなかったからともいえるが、多分そうではなかった。
『違うよ、それは『僕』なんだ。』
『それがどうしたっていうのよ。』
『最後まで話しを聞いて。』
いつの間にか男は哀願するような目になっていた。赤ん坊のような顔でもあった。女は一瞬硬直した。そして、柄にでもなく狼狽した。男のそれには理屈がないように感じられた。しかし、きっとあるはずの、いや、なくてはこの現状を説明できない何かがあったはずだった。それほど女は彼の顔からは自然な感じをさせる中にも、一種の不気味さを感じ取っていたのだった。正確に言えばそれしか嗅ぎ取ることができなかった。きっとそれは大切なことに違いなかった。しかし、彼女は敵愾心を示すことに夢中でそれを見逃してしまった。
もどかしさの上に重なる沈黙。長い沈黙。制圧すように、ふっと出てきて暴れだした沈黙が次の瞬間終わった。
『お願いだから聞いて・・・・・・くれないか・・・』
『【僕】にとって友人だと思っていた人はとても知識のある人で、記憶力も優れていて、思考力、論理力にも長けていて、とりあえず比べられるものは全てにおいて僕の上位にあった。少なくとも僕はそう思っていた。機転のきくところ、頭の回転の早さには舌を巻いた。とても尊敬していた。勿論いくらかの嫉妬があった。
今回の悲劇は僕と彼の異なった種の傲慢さが引き起こしたのかもしれない。もしかしたら僕の一方的に誤った認識と高すぎる理想のせいかもしれない。またはぼくの幼さから来る一種の残酷さなのかもしれない。彼はいろいろなことに興味を持ち、たくさんの知識を手に入れ、そして凄く考える人だった。彼は小説を書くことが好きで、いつもよく人を観察し、よく気を使う人だった。雑学も豊富で、会話の幅を広げた。人としても尊敬していたつもりだったんだ。少なくとも好意を抱いていたと思っていた。だから僕は彼のことが知りたくなった。
だんだん無邪気な『僕』の質問が始まった。ただの情報収集のつもりだった。どのようにしたら彼のようになれるかというのも最初のうちはいくらかはあったと思う。負けず嫌いでムキになったこともあったから、ほんの少しは悪戯心みたいなものがあったことは否定しないよ。でも内に漲る好奇心を抑えることはできなかった。その人のスタンス、生き方にまで突っ込んでいった。小説の書き方、その際どんなことに気を配っているか、どんな気持ちのときに書くか、文を修正するときの気持ち、人を描写するときに絶対してはいけないこと・・・。彼の小説に対する姿勢は凄まじかった。期待通りだったんだ。だから僕は自分の予想が当たっていたことに浮かれていたのかもしれない。そして最終的には人と人の違いというところまでぶちあたってしまったんだ。
他人と自分自身が違うということは常識としては知っているけど、本当の意味を経験している人は少ないのではないかな。もうそれはただ発狂したくなる。でも、それをギリギリのところである種の錘が体に絡み付いて、纏わりついて、満足に動くことができなくなる。叫びたいのに何かが邪魔して話させてくれはしない。尊敬している人との、近づきたいと思っている人との歴然とした差。底がないような溝。これを乗り越えようとしていけばその溝にまっ逆さまに堕ちていくだろうという予感。そしてその溝は大なり小なり周囲の人にもあるんだというような追い討ちをかけるような考え。ありとあらゆる情報が一瞬に脳髄に叩き込まれた。
でも、長い沈黙の後で彼は口を開いた。
『もう気付いていると思った。』
そして、その次に、
『ごめんな。』
と続けた。
『僕』は何も答えられなかった。罰が当たったのかもしれない。すぐ目の前には彼がいるのに、一瞬何も見えなかった。なかったことにしておきたかったんだ。ただ寂寥感だけが残った。僕はただ一人で何もかもやっていたんだと自覚した。僕は間抜けなやつだった。僕は確かに人と違うけれど、そんなことは当たり前なんだけど、それでもなんとかやっていけると思っていたんだ。ぼくはただいろいろなことを遠回しにしておいたんだ。刺激を必要として、ありとあらゆる刺激に慣れもしないで、慣れたつもりになって、いきなり大物に当たってしまったのさ。
そして彼は何より僕を信じていなかった。これは一番ショックだった。彼でも僕はわからないのかと。孤独であるということは知らせてくれた。そしてそれは確かに感謝するべきことなのだろう。でも、その孤独感からは救ってくれないのだ。僕は彼が困ったような顔をしているのを始めてみた気がする。もし、それが演技だというならば、もう何も言うことはない。それはやはり僕を信じていないことと等しいのだから。彼は僕を分かっていなかったんだ。彼なら少しは分かってくれると思った。もしかしたらそれを期待していたのかもしれない。どちらにしろ、僕は周りに情報を与え続けていただけだった。まるでピエロだ。サービス満点のお人好しだった。
僕だけはどうやら人を信じていたようなんだ。約束事でなく、おべんちゃらとかそういったのではなくて、もっとこうなんというか根本的なところでマルっと全体的に信じていたようなんだ。そうでなければこんなに落胆するわけがない。
僕はそこで完璧に理解した。彼は確かに凄かった。でも僕を感動させてくれはしないだろう。それはただ凄いだけなんだ。嫉妬くらいしか残らない。
僕が哀れむようなことは一つもない。むしろ哀れんで欲しいのはこちらのほうだ。でも、彼に対する同情の点があるとすれば、なまじ凄い能力の持ち主であるからして、僕に対してはそれ以上になれないことだろうということだ。まぁ、それはどうでもいいことかもしれないが。きっと彼は凄い業績を残すだろうし、もしかしたら歴史に名を残すかもしれない。でも、ただそれだけだ。それで利益を得られる人は手をたたいて喜ぶだろう。賞賛する人だっているだろう。でも、本当にそれだけだ。僕は救われない。
僕には関係ない。
そしてもう一つショックだったのは彼が僕を騙していたということだ。確かに嘘はついていない。でも騙していた、鮮やかに。彼の頭の回転の早さをここまでだと思わなかった。
彼はどうやら大体のことを、僕の行動する理由まで知っていたようなのだ。とどのつまり彼は理性では気を使っていたが、あくまで合理的なものにあってであって、そうでないものに対しては責任をもてないということだ。
続き・・・