僕たちは、戦いの果てに存在している。
僕たちの先祖の中で、戦いをやらなかった人間など誰一人いないだろう。
僕の先祖だって、どこかで戦っていたはずだ。
戦いを悪とするのであれば、何が善なのだ?平和が善なのか?
人が二人いれば意見が合わないのが普通なのに、二人の意見を擦りあわせて
いいところに落ち着いたのを平和と表現したいのか?
……誰かがいる以上、どんな形だとしても戦いはある。
血が流れる戦いは嫌だという人々がいる。血を流す戦いによってここにいる人々がいる。
今、血を流している人々がいる。
戦いに依って存在している人々がいる。戦いなどまったく知らない人々がいる。
戦いに触ったことがない人々は、格闘技に夢中になっている。
僕たちが食べている肉だって、実は「動物と人間との戦い」の果てのものなんだ。
動物だって、自分を構成しているものを簡単に差し出すわけじゃない。
人間との圧倒的な力の差に敗北して、こうして肉として僕たちの前に現れているだけなんだ。
戦いがなくては、今の平和を実感できないのだ。
言論の戦いにも、勝者と敗者がいる。肉体の戦いにも、勝者と敗者がいる。
よく「戦いに勝者も敗者もない」というが、数的勝者は存在している。
勝者がいるから、平和がある。敗者がいるから、平和がある。
一つの学説が確定するときも、必ず敗者がいる。
孫子が説くように、血を流すことだけが勝利じゃない。
アレクサンダーが戦ったように、血を流すことによる勝利もある。
ハンニバルが示したように、血を流すことで人の心に何かの影響が与えられる。
諸葛亮の天下三分の計のように、戦いと隣り合わせのある程度の平和なら作り出せる。
しかし、……戦いがない平和は、いまだ創り出せていない。
完璧な平和は、未だに成り立っていない。
戦いがない社会が、一番幸せとは限らない。
ただ脂肪だけが無駄についていくことが、平和じゃない。
戦いと勝利と平和は必ずしも同一ではないけど、
戦いの果てに平和があることだけは、きっと確実なのだろう。
血を流しても流さなくても。
戦いを考えずに平和など考えられない。
なぜなら、あまりにも人間が多すぎるから。
僕たちが戦うのは、地球のバランスを保つための不可避の本能かもしれない。
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