錦生如雪創楽会寄書き欄


音の落書き日誌
「楽譜通り」の演奏とは


平成17年3月26日号

 新聞記事の音楽評(平成17年3月22日付朝日新聞5面「音楽」欄
ー高橋悠治「ゴルドベルク変奏曲」ー)に、ある「音楽学者」のピアノコンサート鑑賞
評論が掲載されました。要点は次の通りです。

   ********* 高橋悠治のピアノコンサート音楽評 ********
  西洋近代は「音程と拍子を正確に合わせる」ということを演奏理想としてきた。

  高橋は、西洋音楽がまだ民族音楽的なものをいっぱい残していた時代へと、バッハを
  戻してやろうとする。

  アマチュア愛好家による気ままな合奏を、鍵盤で再現しようとしていると言って
  いいだろう。
  そんな合奏風景を彼は一人で同時に演じ分けてみせる。それは身体の各部を、まるで、
  関節がはずれたかのように、自在に別の方向へ動かしてみせる芸当にも似ている。

  (アンコールのシューベルト曲について)拍子による集中管理を「脱近代的に」解体
  するアプローチが、こうした「近代の」ロマン派ではバッハ以上にはまっていた・・・
   ************************************
 
 この音楽評によりますと、何か、高橋悠治は変わった演奏をして、「西洋近代」に
相応しい演奏をしていない、とでも言っていそうな表現です。「音楽学者」の評言ともなると
アンコール曲の評言にあるように「たいへんむづかしい日本語」となるのです。
 ホームページ担当者の感想は次の通りです。

 楽譜の意味する音楽は、色々に考え方と使い方があると思います。
 以下独断と偏見です。
   ************************************
   1.楽譜を「作曲者に帰属する固有の音楽世界を再現するもの」と限定する。
   2.楽譜を「ひとつの音楽世界を創出するための手段」と見る。
   ************************************

*****************************************
1.作曲者自身、「自分でこのように楽譜には書いたが、実際の演奏して欲しい、
音楽世界は、こうだ!」と自ら演奏するか、演奏現場に立ち会って指示するか、という演奏が、
いちばん、楽譜に忠実な音楽の再現と、いうことになりましょうか。
しかし、それは、作曲者に忠実であっても、その作曲家によって生み出された芸術の
一つの表現であって、それが絶対ではないという考えもありましょう。
「ある楽譜から、その作曲者の指定した音楽世界と別の音楽世界をつくっては
いけない」という考えが背景にあるばあいは、このようなことなるのでしょうか。

しかし、バッハやベートーベンが何時までも生きているなら、いいでしょうが、そうも
いきません。残るのは、楽譜だけです。

一例、グレン・グールドの演奏を、バッハ自身が聴いたら、どういうかです。
たとえ、バッハが、「何たる演奏をしてくれるのか」と、いっても20世紀の現代人は、
グールドのバッハに夢中になれれば、それはそれで、音楽の鑑賞と言うことになると
思うのです。(バッハさんが否定している音楽かもしれませんが)

******************************************
2.の考えは、簡単にいいますと、「楽譜に則っているが、拘束されない」ということです。
すなわち、楽譜をとおしてある演奏家によって創出された音楽世界も芸術作品と考える
考え方です。作曲者から、(遊離するとまでは言いませんが、)拘束されず、楽譜自身を
芸術作品実現の手段と見る見方です。
といいますのは、その楽譜を見て、ある演奏者者は、作曲者の意図するところを
こういう具合に思ったとして演奏しているばあいと、自分なら、こういう風に演奏したいと、
作曲者の音楽世界に演奏者の音楽世界を足したもの、あるいは、変形したもの、もっという
ならば、演奏者の作曲世界を観客に提示する場合もありましょう。

******************************************
1.は、正しくて、2.は、間違いと言えるのでしょうか。
2。も一種のその作曲家の作品となります。

要は音楽を鑑賞する人間が、もっとも感じる音楽世界を楽譜から創り出すのが、
演奏家の重要な役目であり、鑑賞者側ももっとも望むところではないかと思いますが。
たとえ、その演奏が、作曲者の意図した音楽世界から離れていても、その音楽を
その時代に鑑賞して、感じることが一番理想の姿と思うのです。

楽譜に忠実で有ればあるほど、「無味乾燥な単なる音楽」になるのではないでしょうか。
最初の数小節の速度と、最後の数小節の速度が、一秒も違ってはいけない、などと言われて
演奏しても、かたぐるしいばかりで、何の面白みもないでしょう。
あるひとは、ぐっと引き延ばす、あるときは、聴衆の雰囲気に応じて、受けるような
速度にするなど、あってこそ、生の音楽と言うことになるでしょう。
また、ある小節のある音符を、ある演奏家は、半音間違ってひいていたから、
演奏家としてはだめだ、としてしまうより、あのはずれがなんとも、いえない、生々しさが
有って面白かった、それはそれでいいのでは。


*******    (参考メモ)ピアニスト・高橋悠治の略歴    *******

 昭和13年(1938) (9月21日)東京都出身
   35年(1960) 22歳 赤シャツ姿でデビュー。
   41年(1966) 28歳 ロックフェラー財団費用で渡米、
                 西ベルリンで、クセナキスに作曲師事。
   47年(1972) 34歳 ヨーロッパより帰国し、作曲・演奏・評論活動。
   48年(1973) 35歳 作曲家グループ「トランソニック」組織。
   55年(1980) 42歳 水牛楽団結成。雑誌水牛通信発行。(昭和60年まで)
   58年(1983) 45歳 三宅榛名と実験バンド結成。
 平成 4年(1992) 56歳 「第30回レコードアカデミー賞」
                 (リアルタイム4糸の歯車)現代音楽だ一線で活躍、
                 戦闘的なピアニスト兼作曲家。
 平成11年(1999) 61歳 古典や現代の枠を越えた音楽作りを目指す。
                 日本伝統楽器の新しい演奏集団「糸」を結成。

 作品例   「光州から」「可不可」など。
 アルバム  「高橋悠治プレイズJSバッハ」「サティピアノ作品全集」など
 著書類   「たたかう音楽」「水牛楽団の出来るまで」「カフカ・夜の時間」など。
 師     柴田南雄 小倉朗 ヤニス・クセナキス
 家族    妹・高橋アキ(ピアニスト) 長男・高橋鮎生(音楽家)

*****************************************


平成17年3月27日 ***錦生如雪***


ご感想は、E-mail先まで、お寄せ下さい。
フロントページ に戻る。 錦生如雪創楽会目次ページ を開く。