錦生如雪創楽会寄書き欄



28.歴史の彼方のプリマドンナたち

(イタリア・ミラノに死す・伊藤敦子の人生ドラマ)

目  次


<やまとなでしこのプリマドンナたち
<伊藤敦子略歴>
<日本のオペラとの接点>

<やまとなでしこのプリマドンナたち>

 これまで音楽関係のホームページに、次のような<やまとなでしこ・プリマドンナ>情報を
収集し、記してきました。

1.三浦環さんを初めとする長門美保、柳兼子、原信子女史など、明治時代の日本女性歌手世界
2.船橋栄吉門下の香山淑子(旧姓中村)、高田愛子、瀧田菊江(ソプラノ)
3.四家文子(アルト)など「戦前の日本の女性歌手」
4.ベルトラメリ能子、宮川美子など
5.仏蘭西パリに死す・喜波貞子
6.東敦子さんほかの「戦後の草分け的プリマドンナ」
 そして、今回は、関屋敏子(明治37年生まれ)より、二歳年長の
7.伊太利亜ミラノに死す・伊藤敦子
を知る機会を得ました。

 これまで収録した女流歌手を生年順に挙げますと次のようになりましょう。

 音楽家人名事典によって、三浦環さんから東敦子さんに至る日本のソプラノ歌手の
歴史を覗いてみますと、明治年間の西洋音楽吸収時代から、約50年かかって、
東さんのようにヨーロッパ特にイタリアやドイツへ、出かけていってそのまま欧州の
音楽世界で生きていけるソプラノ歌手を送り出せる日本になりました。

 明治生まれ 
(1)三浦環(ソプラノ)  1884(明治17年)〜1945(昭和20年)
(2)長門美保(ソプラノ) 1891(明治24年)〜
(3)柳兼子(ソプラノ)  1892(明治25年)〜1984(昭和59年) 
(4)原信子(ソプラノ)  1893(明治26年)〜1979(昭和54年)
(5)伊藤敦子(ソプラノ) 1902(明治35年)〜1986(昭和61年)
(6)喜波貞子(ソプラノ) 1902(明治35年)〜1983(昭和58年)
(7)ベルトラメリ能子(ソプラノ) 1903(明治36年)〜1973(昭和48年)
(8)関屋敏子(ソプラノ) 1904(明治37年)〜1941(昭和16年) 
(9)四家文子(アルト)  1906(明治39年)〜1981(昭和56年)

 大正生まれ 
(1)市来崎のり子(メゾ・ソプラノ) 1916(大正 5年)〜
(2)三宅春江(ソプラノ) 1918(大正 7年)〜
(3)大谷洌子(ソプラノ) 1919(大正 8年)〜
(4)栗本尊子(メゾ・ソプラノ) 1920(大正 9年)〜 
(5)砂原美智子(ソプラノ)1923(大正12年)〜1987(昭和62年)

 昭和(戦前)生まれ
(1)伊藤京子(ソプラノ) 1927(昭和 2年)〜
(2)樋本栄(ソプラノ)  1928(昭和 3年)〜
(3)中沢桂(ソプラノ)  1933(昭和 8年)〜
(4)今井久仁恵(ソプラノ)1933(昭和 8年)〜
(5)東敦子(ソプラノ)  1936(昭和11年)〜1999(平成11年)

 上述のほかに、戦後活躍しているソプラノ歌手の代表選手を「名演奏家事典」
(音楽之友社)(昭和57年3月版)より抽出しますと、次の6名が昭和10年代生まれで、
目覚ましい活躍をしている女流歌手として挙げられています。

 長野羊奈子(1933)河原洋子(1939) 松本美和子(1941)
 林廣子(1945)  伊原直子(1945) 秋定典江(1945) 

 欧州に留学し、あるいは各種のコンクールに好成績をあげ、目覚ましい活躍をしました。
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<伊藤敦子略歴>

 以下のメモ書きは、千厩ともゑ(せんまや・ともゑ)「伊藤敦子・望郷のミラノー
スカラ座を夢見たオペラ歌手の生涯ー」澤田出版(2007年11月15日)に
よっています。

1902(明治35年)岩手県花巻市東和町・大地主伊藤家の次女「アツ」として誕生。
1914(大正 3年)盛岡高等女学校進学。二年生二学期、音楽教師新居ノブ子は、
           東京音楽学校声楽家出身のため、敦子の歌手としての才能を
           見抜いている。後任教師新藤武ともども、東京音楽学校声楽科を
           めざす。声楽科教授・武岡鶴代にも師事する。
1914(大正 3年)(三浦環・ロンドンアルバートホールで日本歌曲デビュー)
1915(大正 4年)(「蝶々夫人」デビュー、絶讃され、以後15年間アメリカの
            オペラハウスを中心に欧米で歌い続ける。)
1918(大正 7年)東京音楽学校声楽科入学。生涯の友、菊池綾子を知る。
1919(大正 8年)本科進学。
1920(大正 9年)(プッチーニが三浦環を絶讃する。)
1923(大正12年)女学校音楽教師。オペラ歌手を目指す。
           新聞記者陶山三保之介と結婚。
1929(昭和 4年)陶山と協議離婚。(長女百合子2歳。長男廣太郎0歳)
           本格的イタリアオペラ研究団体活動開始。
1930(昭和 5年)「オペラ・ヴェルディアーナ」始動。イタリア人バリトン歌手
           ベレッティ氏の指導。イタリア大使館付け、東京外国語学校講師
           ガブリエーレ・フォルモーゾ氏の言語指導。(渡伊後夫となる。)
           杉田村雄と結婚。
1931(昭和 6年)イタリア・ミラノで修行中の日本人歌手連。
           (渡邊光、児玉義雄、中川牧三、佐藤千夜子、松平里子、
            関屋敏子、菊池綾子、など)
           (リリコ劇場では、三浦環(47歳)が「蝶々夫人」に出演)
           (ダル・ヴェルメ劇場などでは、原信子が出演)
1932(昭和 7年)4月、ミラノ留学・菊池綾子NHKラジオ放送オペラ
              「ヴォーカルフォ」に田谷力三の相手役として出演。
           6月、伊藤敦子も「カルメン」ミカエラ役出演。
1934(昭和 9年)藤原義江主演グランドオペラ「ラ・ボエーム」出演。
1935(昭和10年)藤原義江歌劇団第4回公演「リゴレット」出演。
1936(昭和11年)盛岡市公会堂で、オペラアリアコンサート開催。
           バリトン歌手ベレッッティ氏離日。
1937(昭和12年)長崎港から伊太利亜に渡る。ナポリ港にフォルモーゾ氏出迎え。
           ローマに下宿し、声楽の修行にはいる。(日中戦争勃発)
           8月、フォルモーゾ・敦子は、ミラノに引っ越す。
1939(昭和14年)3月、ミラノのプッチーニ劇場で、「蝶々夫人」で、デビュー。
           10月、ミラノのダル・ヴェルメ劇場で、「蝶々夫人」で、
           アメリカ帰りにティート・スキーパ(50歳)と競演。 
           <以降、ミラノを中心に、フレンツェ・コムナーレ劇場、
            パリ・シャンゼリーゼ劇場など、欧州各地で「蝶々夫人」を
            500回以上演じる。>
1940(昭和15年)イタリアは英仏両国に宣戦布告、第二次世界対戦参戦。
1941(昭和16年)12月、プッチーニ劇場で、マリオ・デル・モナコ(26歳)と
           共演。(後年、1959年初来日の時に、インタビューで言及。)
           (2歳年下で良きライバルの関屋敏子(37祭)東京品川で自殺、
            12月、日本は太平洋戦争突入)
1943(昭和18年)スカラ座のスペイン・ポルトガル海外巡演に参加。
           ミラノ空襲で、スカラ座壊滅。
1944(昭和19年)スカラ座引っ越し公演「ラ・ボエーム」に、マリオ・デル・モナコと
           共演。
1946(昭和21年)フォルモーゾ・敦子は、正式に結婚。

(左)昭和12年渡伊時のパスポート写真・伊藤敦子
(右)昭和7年「ヴェルディアーナ活動」に関与した頃のフォルモーゾ氏
1947(昭和22年)スペイン・バルセロナのオペラ公演。
1953(昭和28年)(スカラ座オペラシーズン、マリア・カラス、ディ・スティファノ、
            レナータ・テバルディの30台の新人歌手時代に入った。)
           ミラノで「日本の昔の衣装展」が日本大使館主催で開催。
           オペラ・アリアを唱う。原田大使主催の宴席で引退宣言。
1954(昭和31年)NHKイタリア歌劇団第1回公演。(マリオ・デル・モナコは
           未少女交際の裁判で出演キャンセルとなる。)
1959(昭和34年)NHKイタリア歌劇団第2回公演。マリオ・デル・モナコ初来日。
1960(昭和35年)(第17回ローマ・オリンピック開催。)
           盛岡女学校の恩師長岡栄の娘で女優の長岡輝子さんが訪問。
1972(昭和47年)林康子(お茶の水女子大教授)日本人初のスカラ座舞台デビュー。
           スカラ座を目指した「やまとなでしこのプリマドンナ達」として、
           伊藤敦子伝記筆者は、記す。

 「三浦環が、1914(大正三年)、スカラ座の舞台を目指して日本を出発してから、
  はや58年。ついに、林康子がスカラ座の舞台に、日本人プリマドンナとして、初めて
  名を刻んだのである。環の後に、何人のソプラノ歌手が、この舞台を目指したろうか。
  関屋敏子、原信子、喜波貞子、松平里子、佐藤千夜子などなど。そして目前まで近づいて
  いた伊藤敦子。・・・・
  敦子は芸大の後輩でもある林康子をことのほかかわいがり、周囲や故郷の人々にも、
  いつも自慢をしていた。」
  林康子は伊藤敦子のことを
 「わたしと伊藤先生は、心を許したなんでも話し合える女友達というのが正しいでしょうね。
  年齢差はあっても、ミラノでプリマドンナとして舞台に立った者同士、尊敬の念を
  お互いが持っていました。・・・・」

1981(昭和56年)夫フォルモーゾ氏他界。
 「親の反対を押し切っての伊太利亜留学と結婚で、実の子供達は親族からも孤立する妻を
  フォルモーゾは、自分の相続財産、全身全霊を架けて、中世の騎士のように守り続けた。
  敦子も彼の期待に応えるべく、ミラノでオペラか歌手として名を成し、引退後は良き
  妻としての修行を怠らなかった。・・」

1986(昭和61年) 2月27日ミラノ東部の市営住宅にて没。享年84歳。

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<日本のオペラとの接点>

(その1)マリオ・デル・モナコと伊藤敦子
 1959(昭和34年)1月25日付け新聞記事
 「来日中のNHK「イタリア歌劇団公演」テノール歌手マリオ・デル・モナコ記者会見」
 (注)イタリア歌劇団第一回公演は、1956(昭和31年)
 新聞記者の質問「あなたが本格的にデビューしたのは、いつ、どんな作品でしたか。」
 デル・モナコの返答「私が本格的オペラにデビューしたのは、1941(昭和16年)
           ミラノ(プッチーニ劇場での「マダムバタフライ」)です。
           ・・・その時の蝶々さん役が、日本のアッコ・イトーという
           プリマドンナで、・・・」

 当時絶頂の世界的テノール歌手から、言及された「アッコ・イトー」なるプリマドンナは、
日本に於いては、残念ながら「歴史の彼方の歌手」でしかなかったのです。
 伊藤敦子は、イタリアに渡る前、1934(昭和9年)藤原歌劇団旗揚げ公演になる
「ラ・ボエーム」で藤原義江の相手役ミミを演じていたのですが、時勢が、太平洋戦争に
突入したばかりで、デル・モナコの相手役をやって活躍していたイタリア在のプリマドンナ
のニュースは聞き取れるような状況ではなかったのです。
 イタリアに渡って22年、1959年頃、伊藤敦子はすでにオペラ歌手の現役を引退して
いました。第二次世界大戦が彼女の人生を思わざる物にしたと言うことでしょう。

(その2)三浦環の「蝶々夫人」
 1914(大正3年)横浜を出発して、アメリカを中心に蝶々夫人を20年以上歌い続け
 1935(昭和10年)日本へ引き揚げてくる。すでに、50歳をこえ、蝶々夫人も
            2000回に近い公演数となっていた。

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平成20年7月31日
 *** 錦生如雪 ***


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