『凡辞苑』
『凡辞苑』は、現代社会に生息する土人たちが日ごろ口にし合っている呪文や、彼らの信仰について解説する入門書である。


 

あ行

:自己愛、異(同)性愛、親子愛、きょうだい愛、家族愛、友愛、郷土愛、愛校心、愛社精神、愛国心、人類愛など、愛を含む熟語には愛が向けられる対象で愛を分類しているかのようなものが多い。しかし、これらの熟語が同一の特徴を持つ感情を対象によって分類しているとは考えられない。「愛」という言葉は、表明することによって得られる社会的利益を狙うものであると考えるほうが合理的であろう。 
  その主要な利益とは、1:愛という付加価値を与えることで自分が行なった他者への贈与の精神的価格を高め、より大きな恩を相手に着せようとすること。2:自己の人格・行動・信念を愛という概念によって擁護すること。3:「自分に反対する者は、愛という社会的に是認された概念を敵に回すことになるのだ」と暗に示して恫喝すること。の3つである。このような機能の語においては、相争う者がその語によって自分を擁護し敵を攻撃しようとするため、定義の奪い合いが起こる。当然ながら「本当の愛」が何かは力関係によって決定される。力は正義であるばかりでなく、愛でもある。 
――に飢える:愛情欠損型性格という概念は存在し、英国の精神科医J.ボウルビイによって提唱された。彼によれば、養育者との長期分離を経験した子ども(施設収容児など)や、過酷な養育環境(虐待など)に置かれた子どもは“無感動性”や“冷たさ”の際立った特異なパーソナリティを相対的に形成しやすいという。ボウルビイは盗癖児のなかに、他の情緒的問題児に対してこうした性格特徴を持つ子どもが多いと主張した。特徴は、他者との親密で安定した関係を築きにくく、根深い対人不信と愛情希求のあいだで絶えず揺れ動く結果、対人接触態度に一貫性が乏しく、対人関係の中で抑うつ的になったり、過度に攻撃的になったりもする。時に攻撃性が自分自身に向けられ、自虐的行為に走ることもある。以上の説明は、欲望や衝動や攻撃性がまるで流体のように存在し、どこかに必ず出現するという精神分析学の欲動論を含んでいる。この考えは科学的に反証されたものである。 
  これは相対的な形成されやすさの問題であって、誰かが無感動性や冷たさや攻撃性を示したからといって、それを根拠に「この人は愛に飢えているのだ」と結論することはできない。しかし、自分と意見の異なる者・気に食わない者を「愛に飢えている」などの表現で、精神的欠陥者と決め付けることにはメリットがある。相手への攻撃(嫌がらせ)と同時に、優越を示すことができる。また、相手の意見を単なる病状として扱うことができ、論駁の義務を免除される。この免除は心理的なものである。相手に性格的欠陥があることで、その意見が論駁の必要の無いものになるという論理は妥当でない。 そもそもこの傾向自体、ボウルビイが考えたものほど強くはないとする専門家の批判も多いのである。 

敢えて:本来は、普通とは異なった行動を特別な理由によって選択するときに使う言葉である。が、言うと根拠を問い詰められたり、または道徳的に責められるようなことを言ったり、したりしたいが、適切な正当化の方法を思い付かない場合に使われがちである。 このような用法にはあえて言おう、カスであると。

悪の科学者:マッド・サイエンティストの項で論じる彼らの性質をより強くデフォルメし、社会に対する故意の敵対という一項を加えたもの――恐らくこの辺りが、典型的な「悪の科学者」像と言えるだろう。主として子供向けの作品に登場する。 
  「差別的」な文学その他の表現の規制論者が言うには、差別的な内容を持つフィクションは被差別者にとって不快なばかりか、子どもの精神に影響を与え、差別を再生産してしまう可能性がある。ポルノの性差別に対する影響や、『ちびくろサンボ』の黒人差別に対する影響などがよく問題にされる。しかしながら、悪の科学者やマッド・サイエンティストが登場する膨大な数のSF作品が、職業差別にどのような影響を与えるかを論じる意見はないようだ。→
科学マッド・サイエンティスト 

 

いいところに気がついたね:情報の提供者が、まるで上手に情報を提供しているかのように見せかける展開に持ち込める場合に言う言葉。

家に帰るまでが遠足:教師が遠足の解散時に、注意して帰宅するよう促す時の決まり文句。筆者たちは20歳前後の若者を対象とした調査で、都道府県単位での出身地と、この文句を実際に教師から聞いたことがあるかどうかを尋ね、この文句が全国に広まっていることを明らかにした。遠足にまつわる決まり文句には他に「おやつは300円まで」「バナナはおやつに入らない」がある。 

痛み 
――は我慢できるが痒みは我慢できない:恐らく完全なでたらめであろう。このような俗説が普及する背景には、当然とされている説をくつがえす説を知った「選ばれし者」になりたいという願望が有ると考えられる。 

一番感受性の強い時期:青年期までならいつでもよい。 

一生懸命生きている:特筆すべき能力も業績も無い個人、または大衆をとりあえず美化する形容。 

一緒にするな:「AならばBである」とき、あるAでない事物Cを持ち出し「ゆえにBである」と結論することはできない。しかしCがAに属するならば、これをBと結論することは正しい。「哺乳類には心臓がある」ならば「ライオン」には「心臓がある」と結論できる。ライオンは哺乳類だからである。哺乳類に心臓が幾つあろうと、それゆえにアサガオに心臓があると結論づけることはできない。アサガオは哺乳類ではないからだ。この場合、アサガオに心臓があると言い出した者に「哺乳類とアサガオを一緒にするな」と抗議するのは論理的に正しい。しかし、「マザー・テレサに心臓がある」と言った人に対して「肉食獣と聖女を一緒にするな」と言うのは間違っている。ライオンがどれほど獰猛で、マザー・テレサがどれほど人格者であろうとも心臓の有無とは関わりが無い。条件にかかわる差異と無関係な差異を「一緒にしてはいけない」。 

 

遺伝子レベル:「生理的」「本能的」などと同じく、感情を強調する際に使われる語に「遺伝子レベルの」がある。原始的なものが知的なものより強力なはずだという非知的階層の願望から、このような語が強調に使われることになる。遺伝子レベルはやや冗談めかしており、なぜか恐怖の形容に使われやすい点が少々特異ではある。→生理的

癒し:医学的・薬学的治療による治癒に対して、心身相関的な意味での治癒、および超自然的な、理論的に説明しにくい治癒が達成されるとき、癒しと呼ばれる。時には、通常の治癒と超自然的な治癒とを含めた広い意味に用いられることもある。ターミナル・ケアにおいて、症状は治療しえなかったが心が癒されたという場合、より高い次元での精神的統合、調和への到達が意味されている。いくつかの異なる意味で用いられるので注意する必要がある。 (弘文堂『ラルース臨床心理学大事典』より抜粋) 
  ミネルヴァ書房『カウンセリング辞典』によれば「人間の全体性の回復」(healingの語源はギリシア語のholos=全体)である。通俗心理学の文脈で頻出するが非学術的な語であり、心理学・精神医学の辞典にはあまり載っていない。 

嫌なら見なければいい:批判とは対象を嫌がっている場合にだけするものではないが、好きなものに対する批判への抗議の言い草。したがって言っている当人にも当てはまってしまう。甚だしきは、自分が他人についてしている非難について批判された場合に使われることすらもある。 

うしろ向き:→ネガティヴ 

うざったい:旧世代の中には、この語の使用を若者の堕落の象徴として捉える者が多いようである。この語が、嫌悪を意味する伝統的な他の単語とどのように異なるのかは謎である。TVドラマ『仮面ライダークウガ』(この作品は「仮面ライダー」であるが少年問題を味付けに使っていることが特色のひとつである)には「殺すとか、ムカつくとか、うざったいとか、最近はいやな言葉を平気で使うようになっちまったなぁ……」という台詞がある。また『3年B組金八先生(第5シーズン)』においてもこの語が不道徳な若者の象徴として使われている。 
  若者的にこの語はすでに死語であり、省略形「うざい」こそが主役である。上記のドラマの放送当時すでにそうであった。だがこの手のドラマの作者や、少年犯罪報道を通してしか若者を知らないような人々に若者についての最新知識を期待するのは酷というものなのであろう。 

 

うつろな目:どんな目かは分からない。精神科医のなだいなだもそう言っている。分からないが、精神障害者の目を形容する時に使われる言葉。とくに犯罪を犯した場合に使われるが、そうでない例もある。というより、一般人が精神障害者に関心を持つのは犯罪報道のときくらいである。

:人間は、例えばコインを投げると表と裏が実際以上に交互に出るという直観を持っていることが明らかになっている。ランダムな事象の生起についてのこうした誤った直観は「偏りの錯誤」と呼ばれる。人はこれを運の良い時と悪い時、あるいは良い人と悪い人という超常現象的解釈で合理化する。スポーツやギャンブルの世界では「流れ」「波」とも呼ばれ、スポーツについては心理学的解釈が入るが、Gilovichらによって俗説の間違いが示された。この俗説を信じる心理的な原因は色々ある。→波に乗る 

えらくない:人の属性や行為の価値を否定するための決まり文句。例えば、筆者が小学校の頃の実体験であるが、写生会で引率の教師が「色のたくさん入った絵具を持ってくる人がいますが、全然えらくありません」とわざわざ言う場合などである。この表現は「〜が全てではない」などの表現に取って代わられ、現在では古いものになりつつあるか、既になっているようだ。 

エリート:知的能力によって獲得される地位の持ち主がスキャンダルの渦中にある時、その人物を形容する異称。オウム真理教の中心的なメンバーに「エリート」が数多くいたことは大衆を喜ばせ、ニュースメディアを潤わせた。しかしながら、この例は大衆が熱望するように「エリートには精神的な欠陥があるものだ」ということを示すものではな。単に「カルト教団においてさえエリートは欲しがられ、出世していくものだ」という、大衆にとって口惜しい事実を示すに過ぎないのである。→オウム真理教 

オウム真理教:松本サリン事件、地下鉄サリン事件を起こした宗教団体(現アレフ)。オウムと略称されることのほうが多い。幹部クラスにいわゆる一流大学の理系が幾人もいたことが一般民衆を狂喜させた。日本で最もイメージの悪い宗教集団であり、自分にとって不愉快な意見や生活習慣を持つ人々を喩えるのに使われる。マインド・コントロールのシンボルでもあり、日本でこの事件以後、マインド・コントロールを厚かった本は必ずオウムに触れている。

 

か行

科学 
――教:本来は科学への盲目的信頼を宗教に喩えて揶揄する言葉。相手が、十分な理由があって科学を重視している場合には当然、使用を控えるべきものだが、レッテル貼りに使われることが多い。科学絶対主義、科学万能主義なども同じように使われる。 
――がすべてではない:ある主張の根拠となる体系が十分に有力である場合、反対者はしばしばその無謬性や完全性を否定することで、心理的に信頼度を弱めようとする。「〜が全てではない」「〜は完全ではない」「〜も間違えることがある」はこのような目的でよく使われるが、これはその特殊形である。もちろん科学は全てではないし、間違えることもある。ただし、この言葉が否定している命題は「科学が間違えることは無い」ことなのである。反科学・反知性的言説が浸透した現在、こんなことを信じている者は仮にいたとしても少数であろう。 

学校は勉強する 
――ところだ: 教諭がよく使う凡言のひとつで、いわゆる逸脱行動に文句を言う際の常套句であった。 
――ためだけのところではない:「学校は勉強するところだ」が広まってしまうと、これを前提とした新たな凡言が誕生した。学校は勉強するところだと一般に思われているが、自分は一般より優れており、学校の本当の役目を知っているのだという錯覚を話者は味わうのだと考えられる。これも教諭がよく使う凡言。 

かわいそう:フィクションにおいて、善良な役柄のキャラクターが悪役に向かって「かわいそうな人ね」と呟く。このシチュエーションにおいては言われた悪役は激怒するか、少なくとも顕著な動揺を示さなければならない。しかし各作品の作者が、発言者がその状況において本心から相手に同情し、言われた方は激怒するものであると考えて描いているかは極めて疑問である。また、発言者が意図的に侮辱表現を用いていると考えるのにも無理がある。この発言をするキャラクターはしばしば、嫌がらせをするには余りにも純潔すぎるからだ。この表現の解釈は、(キャラクターが現実の人類と同じ精神の構造を持っていると仮定する限り)世界観の設定だけで解釈するには無理がある。この表現は「かわいそう」と評価するキャラクターの、評価されるキャラクターに対する優越を表現する記号であるという解釈が妥当であろう。また、発言者は非戦闘員(特に女性)が多い。おそらく、キャラクターが持つ何らかの秀でた力に対する読者の劣等感を低減させるためだろう。 
  しかし、現実に侮辱表現としてこの言葉を用いる者がしばしばいる。「虚構と現実との区別がついていない」のだろうか。この言葉は「成長」概念と同様、攻撃を正当化するものと考えられる。→
成長虚構と現実の区別がつかない 

考えさせられる:芸術作品のメッセージ性を賞賛するのに、何も考えず使われる語。 

 

官僚:不祥事の際やたらと強調される職業のひとつ。以下は、あるアメリカのジョークである。

ある官僚が小学校の前を通りがかったところ、女の子が犬に襲われていたので官僚はその犬をやっつけた。次の日、「善意の通行人が少女を救う!」という見出しが新聞に載っており、新聞社はこの英雄についての情報を募っていた。彼はそれが自分だと新聞社に電話をした。翌日の記事には次のように書かれていた。

 「続発する不祥事またも。エリート官僚が子犬を撲殺」 →エリート

机上の空論:論理的・科学的思考力に劣った人々は、しばしば感情や経験や直感がそれ以上に優れているものだと強硬に主張し、知的な議論が「実際には通用しない」ものであると希望的観測をするのが好きである。古代中国が生み出した故事成語のうちで、この言葉よりも現代日本の知的に劣った人々によって愛用されているものは恐らくない。 

逆説:小学館『新選国語辞典』によれば「@反対の議論。A真理にそむいているようでいて、よくたしかめると真理でもある説」。現在ではAの意味で使われることが多いだろう。すなわち、すぐに論理構造を見抜くことが難しく、一見して矛盾しているかのように見えるが正当な言説のことである。しかし、論理構造を見抜く能力には個人差があり、論理構造を見抜く能力が劣っているほど、より多くの言説が逆説に見えやすいと考えられる。とすれば、(他の条件が同等ならば)この能力の低さが、この語の出現頻度と正に相関すると考えられるだろう。「二重性」「二面性」という語にも同じ事が言える。 

狂気の科学者:→悪の科学者マッド・サイエンティスト 

虚構と現実の区別がつかない:虚構の代わりに、漫画やゲーム、インターネットなど具体的なメディア名が入ることもある。これらに共通するのは、割と新しいメディアであることである。1986年のアニメ映画『ドラえもん のび太と鉄人兵団』で、宇宙からロボットの兵団が攻めてくると騒ぐのび太達を、ママがマンガと現実の区別がつかなくなったのだと決め付ける(が呑気に家事を続けている)シーンがある。また1985年の『ことばを失った若者たち』(桜井哲夫、講談社現代新書)にもこのパターンの考えが見られる。主に若者の猟奇殺人などの犯罪がこのパターンと結び付けて語られる。しかし、これらの犯人達の発言には「ゲームをしているようだった」というような内容のものはあっても、比喩の範囲で説明でき、自分がテレビの前でゲームをしているという妄想を持っていたものはない。彼らは虚構と現実の区別を付けていたからこそ、書店やテレビルームから出て、わざわざ外で犯罪を行なったのである。 →リセットボタン 

キレる:かつては理性によるコントロールが不能になるほど強烈な怒りによって突発的な行動にでてしまうこと、またはそこまで強烈な怒りそのものを指していた。ところで、過激な表現が徐々にそれほどでもない事態にも使われるようになるのは、ありふれた現象である。若者たちは少々腹を立てた程度のことにも「キレた」と形容するようになり、若者の堕落の兆候を見出すことに喜びを感ずる旧世代はこれに飛びつき、キレる若者が増えていると結論する。 
  注目すべきは、「キレる若者」が槍玉に挙げられるようになってからも、強い怒りによって「本当の力」を引き出すことができるというモチーフは依然として人々の憧れであることだ。フィクションにも頻出し、SF・ファンタジー的設定のもとではさらなる超人的な強さを得る(最も有名な例は、漫画『DRAGON BALL』のスーパーサイヤ人の設定であろう)ことができ、そうでない設定の場合は相手を心理的に圧倒することができるようになる。ただしこの場合「キレる」という表現は出ない(昔の作品は別であろうが)。またフィクションにおいても「キレる」ことでは強くなれない。「キレる若者」はあくまで否定の対象であり、強くなるキャラクターは肯定の対象なのである。 

経験:経験の重要性の強調において、オーソドックスなものは次の2種類である。ひとつは凡庸な年長者が、平凡な人生において行われる経験を盾に取り、未経験者に優越を示そうとするタイプである。例えば「自分で働いて金を稼いでみろ!」「子どもを持って初めて分かる」などである。これらは、表面上同じ様に見える経験が、経験者の知能によって全く異なって見えるのだということを無視している。また職業経験においては、知能の高い者と低い者では作業の質も難易度もまったく異なる職種に就く傾向が大きいという事実をも無視している。「いくら勉強ができても自分で金を稼ぐことの苦労には敵わない」と得意気に語る人々は、学業と生業との間に神聖な断絶があるように錯覚している。しかし、科学者や医師や弁護士になるべき人がもし八百屋になったとしたら、その仕事を自分がやってきた学業よりも困難だと思うだろうか? 
  もうひとつのタイプは、普通は経験されないような事象を、経験されていないのを良い事に「経験されればこうなるのだ」と都合の良い空想を述べるというものだ。「宇宙飛行を経験すれば神の存在を確信する」というような。しかしながら、最も極端なこの例においてさえも反証が存在する。世界最初の宇宙飛行士ガガーリンは無神論を理念とするソ連の飛行士であったが、有名な科白「地球は青かった」の前に「宇宙に神はいなかった」と発言して、キリスト教徒が主体のアメリカを挑発したのだ。 →
子どもを持って初めて分かる人生経験 

 

健全な市民常識:洋の東西を問わず、古来より処刑は民衆にとってショーであり、また祭りでもあった。石打ちなど刑の種類によっては人々自身が積極的に参加し、公開処刑の場は人で溢れ、熱狂した民衆がさかんに声援を送った。執行人が処刑に失敗などすれば、怒り狂った大衆のリンチに遭って執行人自身が惨殺されることさえ稀ではなかったのである。もっとも、楽しみのあとは刑吏を差別することによって自分が殺戮を忌避するかのように装うことは忘れなかったが。

ところが近代になって、この熱狂に立ち塞がるものが現れた。人権保障の立場に立つ近代司法制度である。「推定無罪」「証拠主義」「被疑者の人権保障」……せっかくの流血の楽しみを邪魔された民衆は司法制度の担い手を憎悪を込めて罵る。いわく「法律家には一般常識がない」「加害者の人権が過剰に保護されている」といった文句である。犯罪者への厳罰という正当化された殺戮を求める心理を、彼ら自身は“健全な市民常識”と呼んでいる。

公共の福祉:出典は無論、日本国憲法である。 第一三条によれば、「この憲法が国民に保証する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」とある。国民の権利を制限するような法律に関する素人の議論では、反対者が自由又は権利の侵害を唱え、賛成者がそれは公共の福祉によって制限できると言うパターンはお決まりであるようだ。しかし、安易な制限が「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」という規定に反するのではないかという指摘を見かけないのは不思議である。 

:精神は物質よりも尊いものであり、卑俗な物理法則ではなく別のはるかに神秘的な法則で動いていると考える、強い衝動が伝統的に存在してきた。この衝動が、「科学では心を解明できない」「コンピュータが心を持つことなどありえない」などの信念に賛成票を集めさせている。デイヴィド・B・モリスは著書『痛みの文化史』の中で、痛みの研究をしていると話すと必ずといって良いほど「それは体の痛みですか、心の痛みですか」と聞かれるという体験を告白し、単純な二元論の誤りを指摘している。1995年のSFアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』では、兵器エヴァンゲリオンと操縦者の脳の連動を説明しようとした科学者が、友人に「心、でしょ」と穏やかに非難されるシーンがある。 なお「こころ」と平仮名表記すると、より感動的に受け取られ、またそれを意図して書かれることもある。→  
――の教育1984〜87年の「臨教審」の第二次答申の提唱に始まるとされるが、97年に起こった神戸市須磨区の児童連続殺傷事件をきっかけに盛んに言われるようになった。事件を受けて同年八月、文部省は第16期中央教育審議会に「幼児期からの心の教育のあり方」を緊急に諮問。これに呼応し、各地の教育委員会でも「心の教育」をテーマに様々な取り組みが始まった。特に、震源地と言える兵庫県教委と神戸市教委は合同で、河合隼雄を座長に「心の教育緊急会議」を設けた。しかし、日本子どもを守る会『子ども白書‘99』は「心の教育大合唱」について「明治以来、日本の支配層は体制の矛盾や困難が激化するとそれを隠蔽するために、あるいは反動的に打開するために、教育政策を利用してきました。しかも、知育偏重から徳育強化という形で。今回の「心の教育」の強調もその系譜につながっていることは言を待ちません。」と否定的である。 →知識偏重 
――をなくした心理学:主に行動主義などの実験的手法を用いる心理学を非難する言葉。科学的心理学はある種の人々の不興を買っており、他にも「脳を切っても心は出てこない」という表現も使われる。 →癒し人間を人間として扱う 

今年の風邪はたちが悪い 
――と毎年言われる:ユーモアとしては陳腐化しており、しかもこの文章が主張する事実は疑わしい。ある年に「今年の風邪は質が悪いといわれている」と感じることはやさしい。一度でも聞けば良いからだ。だが、そう言われなかったことを認識することはまずないのだ。人は大晦日や正月に「今年の風邪は質悪いと言われなかったな」などと考えたりはしないから、通常「今年の風邪は質が悪いといわれている」は反証されることがない。 

光年:時間の単位である「年」が、億を超えるとなぜか「百億光年」のように変化することがある距離の単位。

子ども:子供と書いてはならないのは、「子供」の「供」という字には“そなえる”“付き従う”等の意味を持ち、「子供」とすると「大人の持ち物・そなえもの」という意味になってしまうからだと言われている。しばしば社会運動は、子どもにスピーチをさせる。また、子どもの保護そのものを運動目的にしている社会運動は人気を博しやすい。賛同者が己の道徳性をアピールしやすい性質があるからだが、いかなる政策が本当に児童にとって利益かはしばしば明白ではないため、賛成派と反対派の間で、子どもを守るという大義名分の奪い合いが発生する。例えば、少年犯罪の厳罰化の問題、有害情報からの保護VS子どもの知る権利、児童の性的自己決定権などの問題においてこの現象が確認される。

 ――にどう説明すればいいのか:いわゆる清廉潔白であるべき職業の者の不祥事が報道された時、インタビューされた凡人がよく言う言葉。そのような職業とは教師や警察官など。ウルトラマンコスモスの変身前を演じた役者が捕まった時もこのように語られた。
――に見せられない:気に食わない表現にクレームを付ける時の口実。北原みのり『フェミの嫌われ方』によれば、“嫌ポルノ権”を主張する弁護士の田中早苗は、電車のピンク広告にクレームを付けた時の戦術を著者に語っている。「ポルノ表現が女性差別である、という風に訴えていたら、きっと時間がかかったでしょうね。今回の規制をかける時に、私は意図的に子供に見せることができない、という風にしたの。そうでなければ、なかなか変わらない。」 
――を持つ親:「馬から落馬」や「愚かな愚民」のようなトートロジー(同義反復語)のうちで、最高に神聖視されている言葉。また理性的指摘を無視しようとする経験信仰の一形態でもある。この語が聖化しているのは子どもそのものではなく、崇高なる「親の愛情」なるものであるため、子どもが最大の苦痛を受けているような現象について語っている場合にさえも、親の悲しみにだけ言及されて終わるという茶番劇が頻発している。世の中には親としての立場を、気に食わない意見を封殺するための殺人許可証程度にしか思っていない「子どもを持つ親」が多いようだ。 →地方ローカル 
――を持って初めて分かる:「子どもを持つ親」が、そうでない人から発言権を奪うことによって論理的批判を躱そうとするための常套句。 →経験

 

心の闇:ニュース・ワイドショー用語。犯罪心理をでたらめに推測したもの。心理学者では小田晋、精神科医では町沢静夫が得意とする分野。

 

さ行

最近:「この世界は急速に堕落しかかっており、崩壊へと近づいている。古き良き正義を守り続けている自分達だからこそ、この危機に気付くことができたのだ。」これは古代でも現代でも、宗教と若者論が共通して持っている信念である。昔の若者は現代ほど犯罪的でなく、昔の遊びは現代よりも健全で、昔のいじめは今ほど陰湿ではなく、昔のファッションは今より遥かにマトモであり、昔の通信手段には心が通い合っていたというわけだ。これらの事象を補強しようと試みるほとんど全ての通俗報道は極めて非実証的であり、論理的な人なら多くの場合に一読して誤りを挙げることができるほどである。このような信念は過去を懐かしむ旧世代にばかり愛されるわけではない。同年代の仲間に優越したい、より「成熟した」人間の証が欲しいと熱望する一部の若者もまたこの信念を信じたがる。 
  ネパールには「ボクシ」と呼ばれる黒魔術師についての民間信仰がある。悪霊の力を得て他人に呪いをかける存在だが、誰がボクシであるかは周囲の住民が勝手に決定する。ただし、その人がボクシであると気付いていることを本人に知られると呪いの対象となるので、当人がそう言われることはないし、人々はボクシだと思い込んでいる相手の前でも、決して悟られないように振舞う。そのためこの信仰は反証されることがなく、信じている人の信念は強固に守られる。ところで、ネパールにも次のように言う人々がいる――「最近ボクシが増えている」。悪霊の力による呪いは、少年犯罪のごとく激増している。 

酒鬼薔薇聖斗:略してサカキバラ。97年に起こった神戸市須磨区の児童連続殺傷事件の犯人で、当時14歳の少年が正体だったため話題となり、14歳ブームの火付け役となった。また事件に対し、兵庫県教委と神戸市教委は合同で河合隼雄を座長に「心の教育緊急会議」を設けた。彼が殺人を行なうようになった原因が盛んに論議され、平凡に家庭環境や友人関係、教育の不備に求めるもののほか、阪神大震災のトラウマ説(これは阪神大震災の被害が全国的には「神戸」という括りで認識されていたためである。実際には彼が住んでいた須磨区など神戸市西部に大した被害はなかった)や、有害電磁波のせいだとする奇書まで登場した。現代の危険な少年の代名詞。→14歳心の教育 

:「ぢ」と表記されがちだが、正式にはやはり「じ」と書く。 

自殺:一般に非常に不道徳な行為とされ、特にキリスト教においては神への反逆行為とされる。日本では1970年代後半に若者の自殺の激増が騒がれたが、実際には増えていなかった。現在の少年犯罪激増説と同様の現象である。 
――は卑怯者のすることだ1993年にベストセラーになった鶴見済の『完全自殺マニュアル』で著者は再三、この言葉に対する注意を促している。否定したい行動を取ろうとする者を故意に侮辱的なカテゴリに分類することで相手の自尊心を傷付け、止めさせようとする試みの一種。 

実社会:イメージとしては庶民の生活環境を指し、単に社会とも言われる。知識階級に対する庶民のありもしない優秀さを誇示しようとする意図で使われるため、大学(言われた人が生徒であれ教授であれ)・科学研究所・法廷は実社会でないことになった。これらの環境が、たとえば肉屋・農園・自動車工場・典型的サラリーマンのオフィスなどに比べて対人能力を発達させるのに不適であるという証拠はない。→社会で通用しない 

社会 
――で通用しない:気に食わない学生を非難するときの常套句。→実社会 

集英組:週刊少年ジャンプを始め、集英社が発行する漫画雑誌では作品中の暴力団に、頻繁に「集英組」または「集英会」の名が付けられる。架空の企業が登場作品の出版元から名前を借りることはよくあるが、集英という語は暴力団につけてもよく似合う。小学組では駄目であろう。 

自由 
――と身勝手は違う19世紀にギュスターヴ・フローベールが著した(フローベール自身は未完の小説中に収録するつもりであったようだ)『紋切型事典』の「自由」の項には、「自由は放縦と同義ではない」という台詞について「保守主義者の言いぐさ」と書かれている。19世紀には既に同じことが言われていたことの証拠である。 
――のはき違え:使われ方は上と同じである。履き違えとは本来、履き物を間違えて履いてしまうことで、転じて意味を誤解することを指すようになった。自由にしか使わないという訳ではないが、筆者がサーチエンジンで「履き違え」を検索し何に何回使われているかをカウントした結果、最初にヒットした180件中、「自由」を履き違えさせる用例が18件で最多であった。ちなみに2位は「愛情」など愛関係が6件、 3位は「目的」の3件であった(うち2件は目的と「手段の履き違え」)。 

宗教:嫌いなものを賞賛する人に貼るレッテルに「信者」があるが、賞賛する人々と嫌いなものをセットにして宗教というレッテルを貼ることもある。いずれの場合も新興宗教の連想を意図している。もっとも多く使われる例は当然ながら「オウム」である。 

消極的:→ネガティヴ 

城南大学:おそらく日本で最も多く使われる架空の大学名。このような「紋切り型」固有名詞をつけられた物は作品中で瑣末な役割しか持たないことが多い。ただし、TV朝日系で2000年1月から一年間放映された特撮番組『仮面ライダークウガ』に登場する城南大学は例外である。城南大学はオダギリジョー演じる主人公の母校であり、考古学研究室では彼と関わる遺跡を研究している。単に設定上の重要性だけでなく、ほぼ毎回登場するという優遇ぶりである。 

上祐史浩:テロ活動をした宗教団体オウム真理教(現アレフ)の広報部長として、頻繁にTV出演し、頻繁に反対者と論争をした。アカデミックな場においては、常識や道徳が懐疑され、あるいは切り捨てられるのは当然であるが、大衆が通常触れる「常識的な善を懐疑する者と、常識的な善を支持するものとの口論」は殆ど全てフィクションにおける善人と悪役のそれであり、 善の側が勝利するように構成されたやらせ的なものである。が、オウム事件が大問題となったことで上祐とその反対者たちの応答はメディアで大きく取り上げられ、大衆の目に触れるようになった。彼らの議論は大衆にとって、このような議論のほとんど唯一のものと言える。またオウム事件の内容が明らかになるにつれ、その犯罪行為は上祐の発言を、その過ちを論理的に考えることなく切り捨てる免罪符となった。逆にオウムの関係者をどんな理由であれ弁護することはタブー化した。そこで、自分の嫌いな論理には「上祐と同類」という便利なレッテルが使われる。→オウム真理教 

人格攻撃:論争において、相手の人格を批判し攻撃する行動。ルールに則って行われるディベートでは反則行為とされる。日本人は特にこの方略を常用するという俗説がある。 

信者:嫌いなものを賞賛する人に貼るレッテル。→宗教 

人生経験:知的な議論に対して知的でない人がおこなう対抗策に、「経験」を振りかざすというものがある。このような経験の用法には2種類がある。ひとつは通常経験できないような異常な状況を、反証されないのを良いことに都合の良い空想を述べること。もうひとつは、凡庸な年長者が、平凡な人生において行われる経験を盾に取り、未経験者に優越を示そうとする威嚇の類のものである。典型的な「人生経験」は、自分で金を稼ぐこと(いわゆる「実社会での経験」)、子どもを持つこと、恋愛、セックスである。
  実社会での経験を積んだ者は、人間の心理に精通できることになっている。ここで言う実社会とは、高度に知的な領域を排除している。学生ばかりでなく法律関係者や科学関係者はしばしば、実社会での経験がないために人格的な問題を抱えているというレッテルを貼られる。法廷や大学は人生経験を積むに不適であり、凡庸な肉屋やビジネスマンは人生経験を積んでいるらしい。ところが、書店で彼らが飛びつくために平積みになっている「ビジネス書」(内容は極めて凡庸なものであり、しばしば疑似科学を含む)とは、彼らが既に持っておりその点で若者や知識人よりも優れていると主張するまさにその能力を提供してくれるとされる本なのである。社会人とやらは心理に精通しているのか、いないのか? 正解は、優れた知性を本来持つ人物だけが、経験をデータとして適確に生かすことができるということである。凡人には自分の頭から単なる思い込みを淘汰するための知的能力が欠けているため、彼らの「経験から学んだ」意見は全く当てにならない。凡庸な60歳は、凡庸な16歳と比べて進歩がないのである。知的な16歳は、凡庸な16歳を――すなわち凡庸な60歳をも――遥かに凌駕し、さらに進歩する。
  また彼らは、実社会で生きてゆくこと自体が、高度な知的活動よりも困難であるのだと主張することがある。その根拠としては学歴の高い若者が職業についた際にも困難や挫折を経験することがあることを挙げる。彼らは次のことを忘れている。知的な若者は、知的でない人々とは異なる職業につくのだということを。弁護士・医師・科学者になる能力を持つ若者がなんらかの特殊な事情により魚屋になったとしたら、彼はその仕事をかつての学業より難しいものだとは思わないであろう。
  人気格闘漫画『-BAKI-バキ』はセックスの経験を極端な形で描写した。格闘家である主人公の少年は恋人との初体験によって大幅に強くなり、先日自分を倒したばかりの強敵を圧倒的な実力で翻弄した(格闘で、である)。この一連のエピソードは、色気とはほど遠い絵柄でのセックスシーンと相まってファンの失笑を買っている。これほど極端ではないにしても人生経験を振りかざす人々は、賢い若者は「人生経験」など常に内心嘲笑っていることを知っておいた方が良いであろう。→
経験、子どもを持ってはじめて分かる

全て
――ではない:例えば科学は全てではない。学歴が全てではない。これらはよく言われることである。しかし「人生経験が全てではない」「謙虚さが全てではない」とは言われない。なぜこのような差が存在するのであろうか。科学や学歴は選ばれた少数者にしか手に入らない。しかし、人生経験や謙虚さは誰にでも手に入れることが――少なくとも手に入れたと思い込むことが――できる。凡庸な大衆が嫉妬し、「すべてではない」などという消極的な形でも否定したいと望むのは前者なのである。
――の〜がそうではない:偏見が述べられた後に追加されるが、自ら付け加える場合は誤った正当化、反対者が掲げる場合は的外れな反論である。自ら付け加える時には、“私は「全てがそうだとは思っていない」。したがって、その意見が当てはまらない時には当てはまらないと認識する能力が私にはあるのだから、私が当てはまると思っている時には本当に当てはまっているに違いないのだ”という誤った推論を無意識的な前提としている。

スリルとサスペンス:G.フローベール『紋切型事典』は、イーリアスが登場すると必ず後にオデュッセイアが続くとしている。ギリシア古典古代に輝くホメロスのこの二大叙事詩が並び称される場合には、どちらの登場も別に不合理ではない。しかし、スリルとサスペンスが並び称される場合には多くの場合、サスペンスは完全に不要であり、スリルだけで良い。 
  筆者が通った高校では修学旅行がスキー旅行であったが、校長が「スキーの3『S』、それはスピード・スリル・サスペンスです」と語っていた。スリルがtで始まることに眼を瞑るとしても、やはりサスペンスが不要である。 

正解はない:〜に正解はない、という常套句が使われる際、その動機は大抵の場合「考察における怠惰もしくは無能力の正当化」「自らの達観のアピール」「主語の神聖化」のいずれかである。芸術作品の解釈など、無くて当然であるようなジャンルにばかり使われることが多い。 

成長:暴力的ポルノグラフィー、すなわちレイプ物のポルノが視聴者の攻撃性に及ぼす影響を調べていた心理学者達は、様々なレイプ・フィルムの効果を比較したところ、男性の対女性攻撃性を特に強めるタイプの映画があることに気付いた。それは、被害者の女性が快感を示すという内容のものである。このパターンのポルノはフィルムに限らず非常に多いが、「レイプ神話」と呼ばれる誤った俗説(女はレイプされれば歓ぶ)に基づいている。この種のポルノが男性の女性に対する攻撃性を特に高めること、性犯罪者の多くが強くレイプ神話を支持していることが証明された。暴力的ポルノグラフィーが男性の対女性攻撃性を高めることを説明する仮説には幾つかあるが、レイプ神話の効果を説明するのは、罪悪感低下説である。レイプの被害女性が快を示すなら、レイプは悪いことにはならなくなる。そうした描写に触れた男性は、レイプを罪悪視しなくなる可能性がある。 
  この構造は、最近流行の「心の成長」を描く物語に酷似している。これは被攻撃者(多くの場合いけすかない若者である)が、まず何らかの心理的問題や欠陥を抱えていると前提する。そして別のキャラクターによる問題の「指摘」や、何らかの形で被攻撃者の人格否定を明示または暗示させる不快体験をする様が描かれ、最終的には自分の欠点に「気づき」、精神的に「成長」した被攻撃者が、その不快体験当時の自己の人格の否定を受け容れる(非難者の思想に賛同するなど)という筋書きを持ったストーリーである。すなわち、レイプ神話に基づく暴力的ポルノグラフィーと同様に攻撃と、攻撃に対して快を示す被攻撃者という構造を持っているのである。また、この構造を持つ侮辱表現も多い。成長物語には、レイプ神話同様、人間の攻撃性を正当化する効果が有るのかもしれない。 →
レイプ神話 

 

生理的:「――嫌悪感」のように、強い感情を形容するのに使う言葉。どちらかというとその感情に対し、肯定したい気持ちがある場合に用いられやすい。生理的なものであれば抗いがたく、非難することが難しい、という連想からであろう。ただしこの「生理的」なる表現は、英語のterrible(恐ろしい)が単なる強調表現に意味を広げて使われるような言語の意味の変化ではない。その感情は学習されたもので生理的ではないと指摘されると、高確率で彼らは、そうではない、生理的なはずだと反論を返すのである。同「本能的」。→遺伝子レベル

積極的:→ポジティヴ 

全体は部分の総和ではない:最初に言ったのは社会学者E.デュルケームで、彼は社会科学の生物学的分析を嫌い、人間の行動は人間の行動からのみ説明できるとして、その特異性を擁護した。その後、「還元主義」(社会科学を生物学に、生物学を化学に、化学を物理学によってというふうに、より小さな構成要素を分析するという科学の手法のひとつ)を批判するキャッチフレーズとしてゲシュタルト心理学や複雑系などの科学分野、および全体論などの科学でない分野で引用されるようになった。この言葉は一面では正しい。300gの鉄がナイフであるためには、それが適切な形に結合していなくてはならない。つまり部分を研究するだけでは駄目で、それらがどのように関係して全体を作っているのかを分析するという手法は明らかに有用である。しかし全体論者(例えば「人間を人間として扱」ったりしたがる人々)は、ゲシュタルト心理学者や複雑系の研究者のようなこういう立場ではない。彼らは人間が科学によって分析されるのを嫌がり、伝統的人間観の枠内で人を取り扱いたがる。しかし「全体は部分の総和ではない」という言葉で、科学が十分に目を向けていない側面があると強調するのであれば、自分たちの人間観に背く全てをタブー視することは首尾一貫した行為とは言えない。→人間を人間として扱う 

 

た行

ダブル・ミーニング:この語が駄洒落の婉曲表現であることには、当人も気付いていない場合が多い。 

地球 
――の歴史を〜にたとえる:人類の歴史が地球史にくらべ、いかに僅かな時間であるかを強調するために用いられる比喩で、エコロジー的な意図で使われる。一年か一日に喩えることが多い。アメリカのエコロジー運動の創始者であるD・ブラウアーは、創世記で神が世界を創造したとされる六日間にたとえている。 

知識偏重:別名を詰め込み式。俗説によれば現在の教育は知識偏重である。では何に対して知識偏重であると思われているのかという問題だが、一般知能でも、むろん運動能力でもなく、道徳であると断言できよう。「心の教育」では、知識偏重の教育を改め、道徳性を重視するとのことである。明治時代にも同じパターン(当時は「知育偏重」と言った)で道徳教育が叫ばれ、日本が国粋主義に傾斜していく要因となった。 

地方ローカル:同義反復語(トートロジー)の一種。「子どもを持つ親」のように聖化されているわけではないが、トートロジーとして意識されていないという点では一致している。→子どもを持つ親 

中途半端が一番悪い:「バランスが大切」の対義語。あるものとあるもののバランスの最適点が100対ゼロである場合も一応存在するが、むしろ何らかの信念や行動への絶対的な執着は精神論的に美化されやすいということがこの語が使われる原因のようである。→バランスが大切 

詰め込み式教育:→知識偏重 

 

de:「デ」と読む。所有・帰属・内容・材料・出身・起点などを表すスペイン語の前置詞。仏語にもあるがその場合は「ド」。TV番組のコーナー名などでしばしば見られる、日本語の助詞「で」をこのように表記する表現がいまだに多用されているのは残念なものだ。

〜時に限って:自分のなんらかの都合に対して世界そのものが敵対的であるという主張を表明する場合に使われる。運に関する錯覚の一形態。単により不運に感じた事例が印象に残ったに過ぎない。印象に対する素朴な人の知的脆弱さには驚くべきものがある。→〜奴に限って

 

な行

内向的:他の人々に比べて、対人的な交流を好まない傾向のこと。大衆的偏見のもとでは、ある人が内向的であると発言することは、その人が臆病者で、社会的能力がなく、精神病に近い状態にあり、人間として劣等であると主張するに等しい。ユング派精神分析家の秋山さと子は、ある雑誌で母親コーナーの「子ども相談」を長期間受け持っていたが、「子どもが消極的でおとなしすぎる、内に閉じこもりがちで、社会性がない、なんとか今のうちに子どもの性格を変えられないだろうか、という親の願いが圧倒的に多かった」と述べている。 

流れ:→波に乗る 

波に乗る:スポーツやギャンブルなどの世界では、「成功が連続している時には次のチャレンジでも成功しやすい」という信念が広く信じられている。ギャンブルは論外として、スポーツにおいてこの信念を支持する内部理論は次のようなものである。2度・3度と成功(例えば得点)したスポーツ選手はリラックスし始め、自信もつくのでその後も成功しやすくなる。これが「波に乗る」である。反対に何回も連続して失敗した選手は「波に乗」れず、プレッシャーがかかったり慎重になり過ぎたりして、更にその後の失敗への悪循環に陥ってしまうという。 
  T.ギロビッチら(1985)はバスケットボールにおけるシュート成功率を実験的統計的に分析し、この現象が実在しないことを証明した。「波に乗る(hot hand)」という現象が実在するなら、同じ選手では直前のシュートが成功している場合には、直前に失敗している場合よりも成功しやすい筈である。まず彼らは1980-81年のフィラデルフィア・セヴンティシックサーズのシュート記録を統計的に分析した。結果は「波に乗る」という傾向はなく、むしろやや逆であった(前回失敗した選手の方がやや成功率が高かった)。しかし、これだけでは現象が反証されたとは言えない。「波に乗」っている選手はより難しい場面でもシュートしようとし、また敵チームの警戒も強くなるので、表面的にはシュートの成功率があがらないだけかもしれない。そこで妨害が無く、常に同じ距離から2回ずつシュートすることができるフリースローに分析対象を限定したが、選手の2回目のシュートの平均成功率は、1回目の成否にかかわらず等しかった。さらにギロビッチは続ける。これでもまだ納得しない人々は「波に乗る」という現象の存在を頑固にも主張するために、現象の意味が正しく理解されていないからだと反論する。「波に乗る」という現象は、成功や失敗が連続するということではなく、ショットの成否が予期できるという現象を言うのだ、と。しかし、彼らは大学のバスケットチームの選手を集めて実験し、この反論さえも否定した。選手たちは、自分では「波に乗る」という信仰を支持し、ショットが外れた時には次のショットも外れると予想し、成功した時には次のショットも成功すると考えていたが、全く偶然のレヴェルでしか当たらなかったのである。 

逃げ:心理的な意味での「逃げ」とは、ある認識が不快であるからできるだけ認識せずに済ませるための心的または行動的な反応である。この表現を流通させたのは、間違いなく精神分析学の「防衛機制」の概念であろう。また特に「抵抗」の概念が重要である。抵抗とは、精神分析の治療中に、結論が不快である患者がその認識へ達するのを妨げる反応のことである。まさに精神分析が正しいからこそ患者は抵抗するのだ、と精神分析家は言う。彼らはこの概念を駆使して患者達に精神分析学の正当性(と自分がそれに当てはまっていること)を認めさせるのに非常に成功した。口喧嘩に便利な概念だが、しかしこの論法は科学的にはインチキである。相手が分析結果に同意しようと拒否しようと精神分析的な説明がつくのであれば、同意も拒否も精神分析学が正しい証拠には全くならない。これは科学の常識である。実証心理学者による検証実験では、フロイトをはじめ精神分析家の概念は多くが否定されている。 

二重性:→逆説 

二度と繰り返してはならない愚行:歴史上の大規模な人災、特に戦争を形容するのに使われる言葉。

 

 日本人にはユーモアのセンスがない2002年、イギリスのサイトが「世界一面白いジョーク」のウェブ投票を行った。次のジョークが1位であった。

 

「米ニュージャージー州のハンター2人が狩りに出た。1人が木から落ちてしまった。仰天した連れのハンターが携帯電話で『息がない』と緊急通報した。救急隊のオペレーターが『落ち着いて。大丈夫。まず死んでるのか確かめなさい』と声をかける。一瞬の静寂後、オペレーターの耳に1発の銃声。続いて、『死んでる。これからどうしたらいいの?』というハンターの声が響いた」

 

続いて2位である。

「シャーロック・ホームズがワトソン博士とキャンプに出かけた。2人は星空の下、テントを張って眠りについた。真夜中近く、ホームズがワトソンを起こし『ワトソン君、上を見て君の推理を聞かせてくれたまえ』。ワトソンは『無数の星が見える』と言った。

『そのことから何が分かるね、ワトソン君?』ワトソンは答えた。

『宇宙には何百万もの銀河とおそらくは、何十億もの惑星がある。占星学的に言えば、土星は獅子座にある。測時法で言えば、今はだいたい三時十五分だ。神学的には、神は全能で、ぼくたちは小さく取るに足らない存在だ。気象学的には、たぶん、明日はよい天気だろう』
 ホームズは叫んだ。『馬鹿。僕たちのテントが盗まれたんだよ!』

 

大和民族は「ユーモアのセンス」という一点において、自民族中心的である資格を有すると考えられよう。

二面性:→逆説 

人間:この言葉を使う話者がすべて人間である関係で、この語は非常に肯定的に捉えられることが多い。ひらがなで表記すると、漢字表記よりもいっそう感動的であると感じる人々がいるようだ。なお、ひらがな表記では「にんげん性」のような複合語は構成しない。 
――がつくったもの:人工物(あるいは科学技術)を卑下したいときにしばしば使われる語。ある種の思想によれば、コンピュータが人間のような心を持つことは「不可能」であるらしい。このような考え方は反科学主義と非常に仲が良い。灰谷健次郎の小説『島物語』の中で、主人公の父親が、家畜の改良品種はどうしても自然のものよりも弱いという信念を表明する場面がある。 
――と動物の違い:分類学上はヒトは動物に属するが、動物という言葉が「人間を除いた動物」という意味で使われることも多い。道具を作ること、火を使うこと、言葉を持っていること、埋葬をすることなどが挙げられている。人間と他の動物の違いについては非常によく語られるが、たとえば「クモと他の動物の違い」などについて語られたりはしない(クモと昆虫の違いについて語られることはあるが)。 

――の集中力は〜分しかもたない15分説・30分説・45分説・1時間説・90分説・2時間説・2時間半説・3時間などがある。多すぎであり、安直にも15分刻みである。15分説には「テレビのCMが15分おきに入るのは視聴者を休憩させるためだ」という説と、「CMが15分おきに入るから今の若者は集中力が15分ていどになってしまった」という因果の逆転した説がある。特に後者はいくらなんでも無理がある。なお、かの高橋名人が「ゲームは一日一時間」と言っていたのは1時間説を真に受けたかららしい。


――を人間として扱う:この文は二つの意味で使われる。一つは人に残虐な扱いをしないということであり、もう一つは発言者が望んでいる人間観の枠内で人間を考え、そこから逸脱する場合には論理的・科学的に正当なものであってもタブーとするということである。Harre一派によれば、心理学における実験は心理学界の全ての「悪」(実証主義、機械論的モデル、S-R因果モデルなど)を具現化するものであり、人間を人間として扱うのに相応しい方法にとって代わられなければならない。 

ネガティヴ:消極的な。恐らくは人間性心理学の影響で、積極的=善・消極的=悪という図式が広まった。しかし、実際の影響とは何の関わりも無い「ネガティヴ←→ポジティヴ」という価値観を持ち込んで、「ネガティヴ」なものを否定するのは非常にネガティヴな行為であると言わざるを得ない。 

 
――を切っても心は出てこない:あるいは「脳をいくら調べても心は出てこない」。肺を切っても呼吸は出てこないし、血管を切って循環が出てくるわけでもない。機能と内容物を混同しているゆえの的外れな科学批判である。科学的心理学は精神現象を神聖化しようとする多くの人の不興を買っているので、しばしばこのような言いがかりをつけられる。→ 

能ある鷹は爪を隠す:ある人が自分の優れた能力を隠そうとしない場合、そのことは大衆の嫉妬心を刺激する。嫉妬に燃える凡人たちは、その対象をなんとかして攻撃し、貶めようとすることがよくある。例えば「あいつには本当は大した能力がないんだ」という具合に。このことわざは、凡人が優秀者の能力を知るケース、つまり嫉妬を刺激される全てのケースに当てはまる汎用的な対抗策である。能ある鷹が爪を隠すのではなく、爪を隠さない能ある鷹に対する小鳥の反発心がこのことわざを生み出したのだ。

 

は行

バランスが大切:「徳とはいかなる状態であるか。それは中庸である。中庸とは二つの悪徳の、すなわち過超に基づくものと不足に基づくものとの間のことである」とアリストテレスは唱えた。例えば、蛮勇と臆病の中庸に真の勇気が存在すると。しかしながら最適な点が最適であるのはトートロジーである。単にあるものが気に入らない時に、「極端な」それを否定してそれ自体を否定した気分に浸る用例が多い。対義語は「中途半端が一番悪い」。→中途半端が一番悪い 

被害者 
――遺族:少年犯罪や精神障害者の犯罪に対する厳罰化や“有害情報”の規制が叫ばれるとき、論理的批判に対抗するための切り札的存在。 
  人間がすべて自分の家族を好きなわけではない。だが、家族を殺された人間がカメラの前で「この刑で妥当だと思いますか」と聞かれた場合、それで構わないと答えて報道されれば、その人は社会からどういう扱いを受けるだろうか。こう考えると、記者やレポーターの問いは一種の脅迫に近い。また、そのような報道が繰り返されることによって社会に「家族を殺されるとそういう気になるものなのだ」という意識が浸透すると、実際の遺族もそれに影響された言動を取るようになるかもしれない。すなわち、現在の報道に登場する“遺族”は犯人を憎んでいるのではなく、自分が犯人を憎んでいると思い込んでいるのかも知れないのである。 

非科学的:科学的でないものを否定する言葉ということになっているが、(少なくとも)最近では、科学者や科学を重視する意見を述べる実在の人々によって発せられることは少ないようだ。フィクションに登場するマッド・サイエンティストなどは好んで使用する(すなわち作者が好んで使用させる。例えば『FINAL FANTASYZ』の宝条)ことなどから、この修飾詞は、修飾されるものの否定するためではなく、発言者を否定するための象徴であると考えるのが妥当であろう。 

 
――の痛みが分からない:ある種の俗説によれば、広い遊び場や時間的余裕の不足のために、子ども同士が集団で遊び、ケンカなどをする機会に乏しく、そのため重大な怪我を負わせない程度の力加減が分からなくなっている。これがエスカレートしたものか、若者犯罪論などの文脈で、「人を傷付けるのは、人の痛みが分からないからである」とも言われている。 
  しかし、間違っていることがこれほど明確な俗説も珍しい。暴力は、相手を物理的に戦闘不能にする(あるいは殺す)以外のほとんど、通常の犯罪などの場合には、苦痛を与え、そこから何らかの利益(多くは服従という過程を経て)を引き出すことを目的として行われる。つまり、相手の痛みが分からなければ成立し得ない。無痛症患者でさえ他人が痛みを感じることを社会的に学習するのである。 
――は一人では生きられない:決まり文句の中には「科学が全てではない」のように、相手の主張内容よりも極端なことを否定するタイプのものがある。これはその典型で、相手が何かへの協力を拒んだり、自由選択を主張したりしている場合などに用いられる。 
――を殺してなぜ悪いの?1997年9月、TBSのTV番組『NEWS23』の神戸小学生連続殺害事件についての特集で、出演していた高校生がこう発言した。その後、大江健三郎(彼も出演していた)が朝日新聞紙上で非難。青少年の病理を象徴するフレーズとして広まった。それだけの話で、別に多くの若者が「殺人は悪くない」という見方を支持したなどの統計結果があるわけではない。 

ヒトラー 
――のクローン:クローニングなど遺伝子技術の是非に関する話題で、反対者側がよく言う例。この一言しか語られないために、発言者がクローン技術をどう理解し、それがどのように応用された結果として「ヒトラーのクローン」像を想定しているのか不明なことも多い。つまり議論の役に全く立たないことが多い。この表現の起源はアイラ・レヴィン原作、フランクリン・J・シャフナー監督のSF映画『ブラジルから来た少年』(1979)の設定である。また1997年3月、ドイツの週刊誌『シュピーゲル』はクローン羊「ドリー」誕生を報じたが、このときの表紙は、行列をつくる何人ものクラウディア・シェーファー(モデル)、アインシュタイン、そしてヒトラーの絵であった。 
  いわゆる「科学の悪」のシンボルとして、オカルティストであり、知識人や科学者に根深い敵意を持っていたヒトラーが使われるのは皮肉なことである。ユダヤ人科学者を追放することは、ドイツから物理や科学を追放することである、という批判にヒトラーは「それなら、これから百年、ドイツは物理も科学も無しでやっていこう」と答えたのだ。 

 

ひとりの人間の命は地球より重い:地球の質量は実に、5.92×10^21tである。しかしながら、質量と重さは異なる概念である。物理学的に言えば地球自体は重力場に完全に反応している。言い換えれば自由落下の状態にある。自由落下にある物体の重さは、質量にかかわらずゼロとなる。

 地球の重さはゼロなのである。それよりは重いだろう。

 

ひらがな:「こころ」「いのち」「にんげん」など一部の語は、市民運動などのポスターやパンフレットで感動的な表現にすることを狙ってしばしば平仮名表記される。ひらがな:漢字=素朴:知性=(心が)温かい:冷たい、という連想の結果であろう。多くはプラスイメージの言葉だが、例外に「いじめ」がある。また、ある漢字が差別的であるとか、不道徳であるとか社会的に非難される場合、ポリティカリー・コレクトネスに配慮して一部の漢字をひらがな表記する場合もある。「子ども」「障がい者」がそうである。 

 

比例:数学的に比例とは、変数XとYに対して、Y=aX(aは実数定数)という関係が成り立つ場合を指す。しかしながら、単に片方が増えるともう片方が増えるような関係に対して、「比例」という言葉が当てはめられる場合が多い。「仕事の上手さは、経験に比例する」などがそうである。このような突っ込みを不快に思う人は渋い顔をして「この言葉は間違いではない。数学における比例現象に共通する特徴をとらえた比喩なのだ」と主張する。しかしその人は、比例定数が正の数とは限らないことを忘れているのである。なお、仕事の上手さと経験の長さにおいて線形な関係も成り立たないだろう。おそらく仕事の上手さは初期には経験によって急激に上昇し、その後は横這いとなり、最終的には老いによって低下していくことであろう。

深み:凡庸な知能の人間にとって難解なものに対する賛美。彼らにとって難解なもの(平易な論理で理解しきれないもの)には、二種類がある。高度な論理で理解しうるものと、そもそも論理など存在していないものである。凡人の望みは、論理が存在していないもの神秘的なものを賛美し、「自分には理解できないが賢い人には理解できるもの」すなわち論理性を否定することである。「深い」よりも名詞形「深さ」の方がこの用途に使われる傾向が強いが、きちんと高度な論理を賛美している場合もまだ多い。しかし「深み」になるともうダメであり、論理性を追求する例は皆無に等しい(例:「言葉に深みがない」など)。

普通の子:激増する少年犯罪の加害当事者とされる少年の特徴としてあげられる。ある年代のごく特殊な層が犯罪的である、というだけでは、その世代全体に対して優越感を感じることができないのであろう。

へ理屈:嫌いな論理のことをこう呼ぶ。嫌いな論理に対し、反論以外で言い返そうとする言葉の一つ。単に 「理屈」でも同様。  

弁護士:センセーショナルに報道された犯罪事件についての話題では、弁護士に対する憎悪と職業差別の発言が公然と語られる。なぜなら弁護士は、自分達がおおっぴらに誰かに憎悪の目を向けて攻撃する、せっかくの楽しいチャンスに水を差す存在であるからだ。しかし弁護士制度の存在によって、彼らの攻撃対象はむしろ増えているのである。犯罪の被疑者本人に、「犯罪者を守る」弁護士という新たな攻撃対象が。 

方言:己の「自然な感情」を装いたい場合に意識的に使われる。最も使用頻度が高いのは関西弁である。が、非関西人がTVなどで学習する関西弁は、生粋の関西人からはリアルとは言いがたいのである。従って相手が関西出身者である場合、目的の感情を強調するどころか、その作為ばかりが目についている相手は内心で失笑しているのが普通である。なお筆者は関西出身者である。

ポジティヴ:積極的=進んでことを行なうことだが、以前はあくまで価値中立的な意味で使われ、積極的であるべきか消極的であるべきかは各々の場合に即して考えられていたようだ。積極的であること自体を善と見なすようになったのは、おそらくポジティヴ・シンキングを打ち出す人間性心理学の影響であろう。「前向き」も同じ。 
――シンキング:積極的思考。よほど世俗的な領域のみで広まっているのか、心理学・精神医学事典の類にはこの語は載っていない。別冊宝島304『洗脳されたい!』のINTRODUCTIONにはこうある。 
  
  自己啓発(開発)セミナー、アムウェイ販売員のネットワーク、KKC、ヤマギシ会、催眠セラピー、成功哲学、前世療法、コンプレックス商法、オカルトグッズ、潜在能力開発プログラム、マルチ商法、カルト宗教、そして船井流ビジネス……と、世紀末の沈滞ムードに「一発逆転」や「自己実現」の請け負い人を名乗って集客するマインド・ビジネスの現場、、いうなれば、“それぞれの脳内革命の現場”を探訪してみたレポート集である。一見、単発的に発生しているように見えるマインド・ビジネスがらみの個々の出来事を、「ポジティヴ・シンキング」という糸で結んでみたら何が見えるのか? 
  その答えは、本書のタイトル『洗脳されたい!』に集約されている。 
  (中略) 
  この本は、やみくもな善意や向上心が暴走したとき、人はどうなってしまうのか、と疑ってみる「ネガティヴ・シンカー」からの訓話集でもある。 

凡辞苑:項目の言葉の一般的な定義ではなく、皮肉な論評が書かれた娯楽読み物という試みには、A・ビアス『悪魔の辞典』、ギュスターヴ・フローベール『紋切型事典』などがある。『冷笑家辞典』『世界毒舌大辞典』などは個人が書き下ろしたものではなく、著名人の発言を編集したものである。また、漫画の中には決まりきった表現や格言をパロディにしたギャグがしばしばある。しかし、これらの著作の主眼はあくまで皮肉やギャグにあり、発生過程や濫用の問題点などに対する分析に欠けるものであった。『凡辞苑』では分析を主体とし、大げさな表現や決め付けを避けることを心がけたつもりである。 

本当の:好きなものが嫌いなカテゴリに含まれる、あるいは嫌いなものが好きなカテゴリに含まれることを防ぐ目的で使われる。「本当の〜とは……」という表現は、しばしば通用している意味とは全く無関係に放たれる。同じシステムは「真の」「本物の」や「〜は…ではない」という表現にも見られる。 例:オウムは宗教ではない。 
――自分:しかし「本当の自分」は例外的に、上記のような使い方ではない。これは精神分析学のユング派や人間性心理学の「自己実現」概念の影響と見られる。自己実現という語彙の発明者はK.ゴールドシュタインであるという文献と、C.ユングとする文献がある。定義はそれぞれ「有機体がその最高の成果を達成しようとすること(ゴールドシュタインは有機体にはそのような傾向があるとした)」「個人の中に存在するあらゆる可能性を自律的に実現し、本来の自分自身に向かうこと」である。K.ホーナイは、「各個人に独自な成長の源」を“real self”と呼び、その成長過程を自己実現と呼んだ。さっぱり分からなくても気にしなくてよい。A.マズローは自己実現している人の条件を4つ、特徴を15個挙げているが、大まかに言って「(実現不可能なほどの)いい人」である。これらが起源であるとすると、俗語の「本当の自分」という言葉が意味不明なのもうなずける。 
――強さ:肯定的な単語は、自分が嫌いなものに使われると不快である。そこで意味を曖昧にしたまま「本当の」というエクスキューズを付けることで、好ましいものにだけ使われるよう限定したがると考えられる。強さという概念は、実際に使われる対象はあまり善悪とは関係しないが、使われると非常に肯定的な印象をもたらす。「本当の強さ」乱発の理由はそこにあるだろう。柳田理科雄『空想科学読本2』の後書きは、これの愉快なパロディで締めくくられる。「……しかし、本当の強さもまた、数値にはならない。ゴジラやレッドキングは、数値ではたしかにガマクジラやゴルドンに勝てなかった。しかし、われわれの心の中では、やはり強く魅力的な怪獣として生き続けているではないか。」 
――勇気:勇気もまた「自分」「強さ」と並んで「本当の」を付けられやすい単語である。ソクラテスとその友人達が「勇気とは何か」について議論する物語が残されている。 友人達は様々な定義を提出するが、ソクラテスはその定義ではこのような悪い例までもが勇気に含まれることになる、という理由をつけて全て拒否してしまう。このエピソードには、好きなものと嫌いなものを分離させていたいという人間の欲望がよく現れている。 :→勇気

本能的:→生理的遺伝子レベル

 

ま行

前向き:→ポジティヴ 

マッド・サイエンティストSFによく登場する人物のタイプで「狂気の科学者」と訳される。有能かつ研究熱心な科学者で、対人関係が苦手または無関心、プライドが高い、非寛容、本来の意味での科学教的思想を持つなどの特徴がある。やせているか中肉であり、太っていることはまずない(なぜか科学者と国王においては、太っていることは善良さの記号である。特に平成ウルトラシリーズはこの図式を反復している)。悪の科学者とはイコールではなく、これを含む概念である。悪の科学者は故意に社会に敵対するが、それ以外のマッド・サイエンティストはしばしば失敗や科学への激しい情熱、または社会的リスクへの関心の低さのため、止むなく危険をもたらす。作品の対象年齢が下がるとデフォルメが強くなり、「悪の科学者」という安直な言葉に当てはまる人物も多くなる。 
  マッド・サイエンティストに対立する形でしばしば登場するある類型的キャラクターは興味深い。彼らはマッド・サイエンティストとは逆の価値観を持つ、マッド・サイエンティスト以上の科学者である。彼らの優越性は業績で示されたり、単に研究ジャンルの神秘性によって雰囲気として醸し出される。神秘的な研究ジャンルとは、代表的なものでは宇宙論・量子力学・カオス理論など、何やら科学界では凄い革命らしいが(読者・視聴者である)大衆には何のことだかよく分からないジャンルである。マイクル・クライトン原作、スピルバーグ監督の映画『ジュラシック・パーク』では、遺伝子操作で作られた恐竜園ジュラシック・パークに招かれた科学者達のうち、カオス理論を専攻する数学者がこの計画について不吉な言葉を吐く。もちろん彼の予言は(カオスではなくパニック映画の法則に従って)的中する。この的中という結果によって彼と、(結果を予期できなかった)ジュラシック・パーク建設に携わったマッド・サイエンティスト達との対比が一段と鮮やかになるのである。 
  また、スクウェアのRPG『FINAL FANTASY Z』に描かれる宝条とガストという二人の科学者の対立図式はきわめて典型的なものである。宝条は過剰演出気味の典型的マッド・サイエンティスト、ガストは宝条を上回る天才でありしかも穏やかな人格者として登場する。宝条が「いいところ」を見せるシーンは、誇張でなくひとつも無い。一方ガスト博士は(物語の時代には既に故人であるにもかかわらず)、数多くの道徳的「見せ場」を与えられている。 
  このような演出が普及する背景に潜む大衆のニーズを見取るのは容易である。つまり、大衆は科学を権威として認識しているが、同時に反発や不安も抱いている。そこで架空のマッド・サイエンティスト達に欠点や失敗を見つけたり、あるいは科学者でない登場人物(=自分たちの代弁者)が彼らを堂々と批判する様を見て少し安心するが、それだけでは十分ではない。科学という不思議で強大な力は、相変わらず科学者に独占されてしまっているのである。そこで、非常に都合の良い存在――自分たちの味方であり、しかも最高の科学者――を創り出し、その権威を借りるのである。ここに至って、知性や科学はもはや敵の独占武器ではなく、自分たちの保護者となる。大衆はわけのわからない科学なる力を使う偉そうな連中に独力で対抗する必要はなくなる。マッド・サイエンティストより強く、彼らの武器を知り尽くした科学者が自分たちを保護してくれるという安心感が得られるのだ。さらにもうひとつの動機は、むろん自己正当化である。あるたった一人の科学者を肯定するだけで「全ての科学者を否定しているわけではない」とし、自分の科学憎悪を正当なものであると錯覚できるのだから。→
悪の科学者科学 

守るために、戦う。:項目の句読点の使い方が最も凡庸かつ感動的であるようだ。フェミニズムは、男が女を守るために戦うという規範が、実は男が女を所有しそれを他の男から防衛することによって自らの力を示すための社会的システムであることを暴露した。しかし、このメカニズムは男女関係にのみあるものではない。「守る」という語で美化されているあらゆる人間関係はこれであり、その動機が愛という命名によって正当化されている点でも同じである。→ 

宮崎勤1989年に逮捕された幼女連続殺人犯で、まれに宮崎駿と言い間違われる。オタクという語はこの事件の報道によって広まった。アニメ・特撮・スプラッタ系などのビデオを収集していたことが話題となった。彼が最も愛好していたのは特撮ヒーロー番組であり、このジャンルは大きな報道被害を受けた。しかし、それ以上に長期的な被害があったのは、アニメ業界である。幼女連続誘拐殺人犯という肩書きには、特撮ヒーローマニアよりも「美少女の映像に群がるアニメオタク」のイメージの方が大衆にはしっくりきたのであろう。ところが、彼が事件前にビデオクラブの会報に発表した「これが私のベスト10」と題する文章では、アニメ作品は辛うじて最下位に入っていたに過ぎない。そのアニメ『怪獣王ターガン』すら、「ロリコンアニメ」や「美少女キャラクター」などという発想からは実に縁遠い作品なのである。なお10作の内訳は、6作が特撮、2作が一般向けドラマ、1作がバラエティ番組の1コーナーであった。
  オタクの(特に差別される)特徴には「優等生」「学歴エリート」「科学者」にも当てはまるものが多い。大衆的な流行を軽視しがちで、研究心が旺盛である、ファッションに気を遣わない人が比較的多いなど。おそらく当時の報道と大衆は、自分達よりも知性を持っている憎むべき連中のイメージであるこれらの属性を攻撃してもよい格好のターゲットとして、宮崎勤とその同類であるオタク達を見出したのではないだろうか。 

宮崎駿:日本で最も著名であり、最高のヒット作を連発しているアニメ監督。現在の日本では、中高生以上は普通のアニメを鑑賞すると「オタク」なのかという自己認識を迫られる。「オタク」は非オタクな一般人にとってはマイナスイメージであるために、この点で普通のアニメは敷居が高い。オタクに対するマイナスイメージを反省することも自分のものとして受け入れることもなく楽しむことのできるアニメ作品は宮崎作品とディズニーだけであり、ディズニー映画は質的に和製アニメと競合しない。おそらくこれが彼の作品をヒットさせている最大の理由であろう。あれほど凡庸な作品を絶賛するほどアニメに飢えているなら見れば良いのに、御苦労な事である。また、宮崎アニメを賞賛することで、自分は全てのアニメを差別しているわけではないから、多くのアニメに対する自分の差別意識は正当なものだと思いこむことができる。これも大衆にとって都合の良い点である。 

ミレニアム2000年がまだまだ先の話である頃には、このきりのよい数字を21世紀の到来と同一視することが心理的に容易であった。このため、実際の2000年が訪れてもまだ一部の人々は21世紀の開始が2001年からであることに気づかず、早すぎる新世紀気分を感じたり表明してしまったりした。他の人々にとって、このずれは現実の2000年が近づくにつれて負担となってきた。そこで彼らはX000年が新たなミレニアムの始まりであることに注目した。千年紀というミレニアムの訳語は顧みられなかった。そして「新ミレニアム」「ミレニアムの始まり」などという言葉は長すぎるためだろう、日本の人々は細かいことにこだわらず、ミレニアムを2000年のキーワードとすることにしたのである。 →2001年 

眼鏡:「教育ある人間は眼鏡をかけていることが多い」という統計的事実はあるようだ。西洋では眼鏡は学識の象徴であり、眼鏡の発明(13世紀)以前の実在の人物を描いた絵画にも、 学識を示すため眼鏡をかけているものが多い。そのため目上の者の前で眼鏡をかけるのは高慢であるという印象があり、例えばドイツでは皇帝の前で眼鏡を外す儀礼があった。こうした傾向は東洋にも伝わり、中国では目上の者の前では眼鏡を外さなければならず、韓国も親の前ではそうしなければならなかった。日本では長い間、眼鏡は単なる実用品として捉えられていたが、明治の富国強兵を目的とした教育政策以後は、やはり学識・エリートの象徴という見方をされるようになった。(以上、白山晰也『眼鏡の社会史』による) 
  アイザック・アシモフは『無学礼賛』と題するエッセイで、ユーモアを交えながら次のように分析している。 

  今日の大衆的視覚芸術においては、メガネは高度の知性の象徴なのである(おそらく、世間の人が、教育ある人間は読書という有害で不健康な習慣にふけって、眼をだめにしてしまうものと信じているためだろう)。ふつう映画やテレビの主人公は、メガネをかけない。しかし、時には主人公が建築技師や化学者であることがあって、彼は大学にいったことを証明するために、メガネをかけなければならないのである。この場合、彼は、熱弁をふるうたびに、いつもメガネをぱっと取るのである。というのは、男らしいこととメガネをかけることとは両立しないからだ。もちろん、彼は一枚の印刷物を読むべく眼鏡をかけるが、唇をきっと結んで、学者に似合わず勇ましいおなじみの役割を演ずる時には、またもやそれを引き剥すのだ。 
  もっといい例はハリウッドのお定まりのやつなのだが、これはあまり始終使い古されて陳腐になってしまったので、ハリウッドでさえ、とてももう一度使うわけにはいかないという代物である(まず信じ難いようなできごとだ)。ここでいうお定まりとは、絶世の美女(ローラ・ラブリーと呼んでおこう)がメガネをかけているために醜く見えると仮定する類のやつである。 
  この手は、何度も使われた。ローラ・ラブリーは図書館員だったり学校の先生だったりするが(ハリウッドの慣習によれば、女性に独身と不幸せを保証する二つの職業である)、もちろんその事実を示すべく大きな鼈甲縁のメガネ(最も知的なタイプだ)をかけている。 
  さて、観衆の中の五体満足な男性なら誰でも、メガネをかけたローラの姿に、メガネをかけていない時と少しも変ることなく情緒をかき立てられる。ところが、映画の主人公を演ずる俳優の歪んだ眼には、メガネをかけたローラ・ラブリーは平凡な女に見えるのだ。話の途中で、世慣れた親切なローラの女友達が、彼女からメガネを外す。思いがけなくもローラはメガネなしで完璧に見えることがわかり、わが主人公は今や美人のローラと烈しい恋に陥って、ここに申し分なく華やかなフィナーレとなるのである。(中略) 
  そうだ、このメガネは、文字どおりのメガネではないのだ。それは単なる象徴――知性の象徴に過ぎないのだ。観衆は二つのことを教えられる。つまり、(a)教養が目立ちすぎると社会で邪魔になり不幸をもたらす、(b)正規の教育は不可欠ではなく、その気になれば最低に切りつめることができ、その結果として知性の発達が押さえられれば幸せがくる、ということである。 

  アシモフの例示の、前者の好例が日本の低年齢児童向け番組の主人公にも存在する。アイビー星から地球の調査にやって来た大学生ニックは、星雲仮面マシンマンに変身する直前、眼鏡を地面に投げ捨てるのがパターンである。 

目に見えるものしか信じられない:擬似科学や宗教などの信奉者が、自分たちの信念を受け容れない人々――特に「非科学的」であることを理由にその信念の共有を拒否する人々に向ける非難の言葉。字義通りの意味では明らかに間違っている。「目に見えない」科学的概念は、熱、真空、電流、重力、電磁波(可視光線も光を反射する訳ではないので、正確には目に見えない)、酸素や窒素などすべての無色透明の気体、エントロピー、ブラックホール、不確定性など数知れない。 

盲導犬:障害者と動物はいずれも感動的物語の小道具として一般的であるが、一つの物語のなかでその両者を登場させる際によく使われる、便利な生命体。

 

や行

〜奴に限って:貶めたいと願う属性や行動傾向に対し、それを持つ人間は別の短所を持つのだと主張したい場合に使われる慣用句。「勉強のできる奴に限って……」など→〜時に限って 

やはり:この語はしばしば、明確で論理的な指摘に対し、論理で反論できなくなった者が実感や気分のみを理由にし、あるいは何物も理由にせず、持論を固持して反復する場合に使われる。例としては次のようなものがある。 

  文部省の調査報告によれば、94年度中に起こった「いじめ」の件数は、小学校では25,295件、中学校では26,828件、高等学校では4,253件となっています。 
  発生件数を前年度と比べてみると、2倍〜4倍に膨れ上がっています。 
  それは、「学校として事実を確認しているもの」という限定を取り除いた結果と言われています。第2回目の「いじめ」の波と言って良いでしょう。 
  1985年の第1回目の波が過ぎた後、一時期「いじめ」の終息が見られるといわれましたが、やはり、単に調査方法の違いによる数値の増加ではなく、教育現場の実感としても「いじめ」は増加していると言って良いでしょう。(『NHKビデオ シリーズ「いじめ」活用の手引』より抜粋) 

  それはやはり定義が拡大したことによるものと言うべきであろう。 

勇気:「〜する勇気を持て」とはすなわち、「〜せよ」を感動的に修飾した表現に過ぎない。 →本当の 

優生学:すなわちナチズム・軍国主義・極右・自民族中心主義という連想が広まっているが、これは誤りである。優生政策を推進した国はその当時、アメリカのようにナチスの敵国であったり、ソ連のように(ナチスが最も敵視した)共産主義国家であったりした。 
  優生思想から、自民族こそが優先的に種の保存をすべきだ・混血を防ぐべきだという考え方に至るまでには、「自民族こそが遺伝的に現に優秀である」という前提が必要である。優生学は歴史的には、こうした考えに協力したり反発したりしている。例えば、フランスでは特定人種の優越説は受け容れられず、優生学は人類全体を改善する学問として考えられた。というのは、ゲルマン民族などと違ってフランス人は多くの種族の混合から成っているという認識があり、フランス人のナショナリズムはこうした考えを退けたのである。また日本では、ナチスの断種法をモデルにした国民優生法が国会に提出された時、有力だった反対意見の一つが「子種を断つ断種は、日本の国是である天皇中心の家族国家主義や多産奨励に反する」というものであった。終戦後の1946年、当時の厚生大臣芦田均は国民優生法を「生ぬるい」と批判、優生保護法では優生対策が強化された。48年の制定時には癩疾患(ハンセン病)が、51年改正では「精神病」「精神薄弱」が中絶対象に、52年改正で「配偶者が精神病もしくは精神薄弱を有しているもの」「遺伝性のもの以外の精神病または精神薄弱に罹つている者」が不妊手術の対象として追加された。この法律は96年まで存続していた。 
  また、現実には優生学者の大多数が反戦主義者であった。これは以下のような事情に基づく。優生思想は、近代以降の社会に潜む「逆淘汰」の危険性に対処しようとする考え方である。たとえば医療や福祉の充実は、自然界なら淘汰されていたはずの劣等な個体を救ってしまう。しかし、これらよりも遥かにたちの悪い逆淘汰が戦争である。戦争では健康で優秀な者から戦場に出される。ということは健康で優秀な者から死んでいくということである。つまり戦争は、単に@劣等者をあまり死なせる効果が無いだけでなく、A多くの優秀者を死なせ、B劣等者の競争相手を消すことで、劣等者がさらに子孫を残しやすくするのである。ドイツの優生学のことを普通は民族衛生学と訳すが、指導的な民族衛生学者プレッツはナチス首脳部との対立も覚悟の上で反戦活動を続け、ノーベル平和賞の候補にもなった。彼は講演で次のように述べている。 

  戦争が開始されれば、それがもたらす逆淘汰の影響は、きわめて恐ろしいものになるでしょう。なぜなら、戦争は、生まれつき優秀な者の出生率が低下するのを食い止め、低価値な資質の持ち主を民族内部から除去するために民族衛生学が全精力を傾けておこなうことのすべてを、一瞬のうちに、何百倍、何千倍の規模で無に帰してしまうからであり、そのことによって、われわれの種は向上の道から突き落とされ、西洋文化は戦勝国においても、敗戦国においても、致命的な打撃をこうむることになるからです。(略)民族衛生学を妨害する最も恐ろしい敵は、戦争に他なりません。民族衛生学は今日、必要不可欠なものであるがゆえに、われらドイツ人の総統ヒトラーも、国家社会主義はこれを全生活の中心に据えなければならないと宣言したのです。この民族衛生学は平和においてのみ、その実を結ぶことができるのであって、それ以外に道はありえません!(略)われわれ民族衛生学者は平和を創造し、これを維持するよう誠心誠意、努力しなければならないのです。 
 
  日本で優生学がタブーとなるのは実は、1970年代中盤以後のことである。脳性マヒの障害者団体「青い芝の会」は、70年代前半の優生保護法改正反対運動を通じ、「優生」=ナチス・ヒトラーという連想を浸透させていった。それまで優生思想はタブーではなく、学校教育でも堂々と(大々的という意味ではない)教えられていた。さらに1980年10月『週刊文春』に載った渡部昇一のエッセイ「神聖な義務」が社会問題化したことで、日本では優生=ナチス・ヒトラー連想が決定的となったのである。 

 

許す:正しい者が、間違ったものを許すのであろうか? 正義が悪を許すのであろうか? そうではない。強い者が弱い者を許すのである。このことを前提に、3種の使われ方をする。1つは、強者が弱者を「許してやる」ことによって、相手に自分が「許してもらう」弱者であることを強調し、屈辱を与え優越感に浸ること。2つ目は、弱者が強者に「許してください」と頼むこと。相手に強者であることの満足感を与え、それ以上の攻撃を回避しようとするのである。最後のひとつは、攻撃をしたくともできない弱者が強者に対して「相手を許している」と自己を欺瞞し、心の中だけで強者になった気分を味わうというものである。吉本新喜劇などで見られる、敗者が「今日はこのぐらいにしといたろか」と捨てゼリフを吐く古典的なギャグにこの心理を看取することができる。

欲望に負ける:ニュートラルな表現をすれば欲望の通りに行動することだが、主語には人間が当てられるため、この語は常に不公平な使い方をされる。ある人が自分の欲望に勝ったり負けたりするとはどういう事か。この句で指されている欲望にその人が従わなかったとすれば、その理由は必ず、その欲望と相容れない別の欲望に従ったから、である。 この考え方にも、精神分析学の強い影響が見られる。すなわち、欲望とそれを統制する理性、というパターンであるが、このパターンは「本人にとって」欲望の統制が快楽原則的にプラスになる場合にしか通用しないことは明らかである。言い換えれば、ある欲望が別の欲望に勝つことはあっても、ある人が欲望に勝つことなど絶対に有り得ない、ということであり、この言葉は気に食わない行為を誹謗するためにのみ使われることが明らかである。 

弱きを助け強きをくじく:よく読むと、弱きものが善であるとも強きものが悪であるとも保証されていない。 強きものはその善悪や理非を問われる前に、強いがゆえに挫かれるべきものとされている。一方で弱きものは大衆自身であるがゆえに助けられるべきであると考えられている。この言葉に読み取れるものは、凡人の利己性と強者への嫉妬である。

 

ら行

来来軒:日本で最も多く使われる架空の中華料理店の名。「来々軒」と表記することも。 

:誰かのある行為が気に食わない場合、それが誰のどんな行為であろうと、勇気や忍耐力の欠如が原因であるかのように言うことのできる表現が広まっている。それが「そのほうが楽」である。この語は非難の言葉だが、誰に向けられても常に正しく、それゆえに無意味である。誰のどんな行動でも非難できるということは、論理的にはどのように改心しても非難を免れないということだからだ。もっとも、発言者の望むように行動を改めれば、その発言者は非難しなくなるだろう。非難されないという楽な道を選んだわけである。つまり、行動を改めた人が「楽」をしなくなった訳ではなく、単にそう言われなくなったというだけに過ぎない。 

理屈:論理に対する否定的な表現。→へ理屈 

リセットボタン:コンシューマゲーム機についているボタンのうち、非ゲームユーザーに最も著名なボタン。著名な理由は、このボタンが少年犯罪を助長しているという通俗信念が流布しているせいである。リセットボタンの機能はどの機種でも同じく、バックアップした分以外のデータを破棄し改めてゲームを開始することができる。これに慣れた今の子どもや若者は安易に殺人などの凶行に走ってしまう――と未だ言われている。→虚構と現実の区別がつかない 

レイプ神話:レイプを免罪し、被害者女性の責任を強調するような複合的通俗信念のこと。いわく「男性は女性より遥かに抑えがたい性欲を持っているのでレイプはやむをえないこともある」「レイプは一時の激情によるもので厳しく咎めるべきではない」「女性の性的挑発にも責任がある」「レイプ事件の中には、被害者女性が捏造したものが多い」。Morokoff1983)は、レイプ神話の起源が女性の性的マゾヒズムを主張する精神分析思想にあると指摘している。 
  レイプ物のポルノが視聴者の攻撃性に及ぼす影響を調べていた心理学者達は、様々なレイプ・フィルムの効果を比較したところ、男性の対女性攻撃性を特に強めるタイプの映画があることに気付いた。それは、被害者の女性が快感を示すという内容のものである。このパターンのポルノはフィルムに限らず非常に多いが、この種のポルノが男性の女性に対する攻撃性を特に高めること、性犯罪者の多くが一般人よりはるかに強くレイプ神話を支持していることが証明された。暴力的ポルノグラフィーが男性の対女性攻撃性を高めることを説明する仮説には幾つかあるが、レイプ神話の効果を説明するのは、罪悪感低下説である。レイプの被害女性が快を示すなら、レイプは悪いことにはならなくなる。そうした描写に触れた男性は、レイプを罪悪視しなくなる可能性があるという。→
成長 

歴史 
――にifは禁物といわれるが:のようなエクスキューズを入れるだけで歴史にifを持ち込むことが許されるのは奇妙である。科学では「有意水準を越えていないと帰無仮説を棄却してはいけないと言いますが……」と前置きしても、その仮説は受け容れられない。「歴史にifは禁物」に見られるこのような現象は、この台詞が純粋に優越を示すための言葉と捉えると説明がつく。この台詞は、自分は歴史にifは禁物であるという何か高度な意味が有りそうな文句を知っている、お前は知らなかっただろ、という意味なのである。しかし相手がこの台詞を知っていることを予めアピールしておけばこの機能は失われる。そのために「〜といわれるが」という言い訳が用いられるようになったと考えられる。 

――は流れで覚える:年代を覚えたくない時に、あるいは年代を覚えなくてもいいんだよと生徒に誤魔化す時に使う言葉。流れとはこの場合、歴史事実の因果関係を指す。歴史を流れで覚えることはすばらしい。主要年代を覚えるのに難しさを感じるような者が、各事件の因果関係までいちいち覚えていられるのならば。

レモン:健康食品に含まれるビタミンC含有量の単位。語源は果実の名。農林水産省が定めている新食品ガイドラインが認めるレモン1個分のビタミンCは20mgであり、各健康食品の表示はこれに従っている。ビタミンCを売りにしているドリンクや錠剤などは常に酸味とライトイエローを強調するが、いずれもビタミンCによる性質ではない。レモン=ビタミンCというイメージに合致させるために人工的に両要素を賦与しているわけだが、ではレモンはビタミンCが飛び抜けて多量に含まれている食物なのかというとそうでもない(少なくはないが、苺やキウイの方が多い。アセロラは340mgも含んでいる)。 
  なおビタミンCは水溶性ビタミンであるため多量摂取しても尿から排出されてしまう。アイザック・アシモフは「我々の尿の栄養価を高めるだけのために、それほど大量のビタミンCを摂取する必要があるとは思われない」と述べている。

 

わ行
 

ワープロ:ワープロが文学や人間に与える影響について考えている振りをすることは、その人が考え深いかのように見せる効果が有るのかもしれない。アイザック・アシモフはこの種の効果を狙っていた愚かな人物と会話した体験を述べている。レストランで、その人物は彼に「もしトルストイがワープロを持っていたら『罪と罰』はどうなっていたでしょうね?」と質問した。「どうもならなかったでしょうな」と彼は答え、続けて言った。「『罪と罰』はドストエフスキーの作品ですからな」――この答えでアシモフは「この愚か者に構わずゆっくりと食事を楽しむことができた」とのことである。 

〜をするために生まれてきたんじゃない:「〜しなくても良いのだ」の感動的婉曲表現。従って、主語が自分である場合は「〜したくない」を意味することになる。

 

数・記号
 

14歳97年、神戸小学生連続殺傷事件の犯人・酒鬼薔薇聖斗が当時14歳の少年であったことが話題になった。最初のうち社会の反応は、単に若い子どもが猟奇殺人犯であったことへの驚きであったが、マスコミは同じ14歳による犯罪を見出しにして続々と報道していったため「14歳が危ない」「いま14歳に何が起きているのか」などと問題化した。→17歳酒鬼薔薇聖斗 

17歳97年の「14歳」とほぼ同じ現象が、2000年にも17歳を対象に発生した。編集者の新保信長は著書『笑う新聞』のなかで、17歳がただ1人だけ含まれる数人の若者グループの犯罪を「17歳少年ら」と表現した新聞記事を紹介し「とにかく17歳が何かすれば見出しになってしまう今日このごろ」と評している。ところで、97年当時の14歳と2000年の17歳は同じ世代である。この世代に本当に何か特異な面があるのなら、このことは大変重要な意味を持つはずだ。だがこれは問題視されなかった。「14歳」「17歳」で騒いだ人々は、この程度のことにすら気づかなかったのだ(もっともこの点に触れてしまうと、なぜ彼らは15歳と16歳の時には凶行に及ばなかったのかという当然の疑問に到達せざるを得なくなるが)。このブームがいかに思考を伴わない流行であったがよく分かる事実である。→14歳 

1999年1970年代はじめの日本は公害やオイルショックが大問題になり、関東大震災の再来が語られ始め、終末ブームとでも言うべき様相を呈していた。「世紀末には大気汚染の悪化でガスマスク無しでは外に出られなくなる」という説がかなり真面目に論じられていた。73年には『終末から』という題の雑誌まで創刊されたほどだ。フィクションでは小松左京の『日本沈没』、楳図かずお『漂流教室』、永井豪『デビルマン』などがこの時代の作品である。 
  五島勉『ノストラダムスの大予言』は73年に出版され、世相に乗って大ベストセラーとなった。「16世紀フランスの予言者ノストラダムスが、1999年7月に人類が滅亡すると予言した」という誤解を日本中に広めた。予言の解釈にせよノストラダムスその他についての記述にせよ全く出鱈目であったが、多くの宗教家や疑似科学系ライターがこの世界観を取り入れ、フィクションの世界にも多大な影響を与えた。 
  五島よりも正しくノストラダムスの予言を解読したと称する者も後を絶たなかった。五島自身も『大予言』をシリーズ化して自説を主張し続けた。しかし、当然ながら彼らの解読は、ノストラダムスの意味の分かりにくい詩を自分の空想にこじつけたものでしかなかった。84年、藤子・F・不二雄は『ドラえもん』の「ナゾの予言書」(単行本では「大予言・地球の滅びる日」に改題)というエピソードでこの現象を風刺している。この話でのび太は意味不明な短文と日付をちりばめた本を見つけ、それを見たスネ夫が「これは予言だ」と新聞記事から記述に合う事件を次々と見つけ出していく。そして最後のページにあった「この日○終わり、悲しきかな」という記述を見つけた二人は「地球の終わりだ!」と大騒ぎをし、友達に危機を知らせてまわる。その本はドラえもんの暗号日記だった。彼は地球の滅亡ではなく、好物のどら焼きを食べ尽してしまったことを悲しんでいたのだ。 

2000年:→ミレニアム2001年 

2001年:今度こそ間違いなく新世紀の幕開けであった2001年は盛大に祝われた。「新世紀」「21世紀」の名を冠した企画や表現がメディアに溢れかえったが、「2001年」もかなり使われている。「世紀」との差別化ばかりではない。かの名作SF映画『2001年宇宙の旅』の影響を無視することはできないだろう。 →ミレニアム

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