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「向日葵の向こう側」

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シナリオセンターでできた友達に誘われて、短編小説集の同人誌に参加した時書いた作品。はじめて書いた小説です。1996年秋執筆。


向日葵が、大きく首を垂れていた。

福島県いわき市。東北地方南端の都市の八月は、人が思うよりずっと明るい。

空は青く澄みわたり、痛く刺すような陽光が輝いている。遠くの太平洋の海からなのか、びゅうびゅうと勢いのよい風が吹き、重い湿気を振り払う。

タエは腰の曲がった小さな体をよっこらしょと伸ばし、彼女には少し高すぎる物干し竿に真っ白なシーツやフリルのついた枕カバーをかけて、しっかりと洗濯ばさみで固定した。客用の、隅に英語の刺繍が仰々しくしてあるような品である。

今日もあっという間に洗濯物は乾くだろう。タエは満足そうに微笑み、それから、さて、この庭はどうしたものだろうとそわそわした気分で見回した。

七十になるタエには広すぎる庭だった。

立派だった庭木の松も楓も、まだらに伸びた枝のせいで見る影もない。足元の玉砂利の間からは、雑草が細長い葉を伸ばしている。物干し台の隣の玄関のすぐ近くの一角には、今年向日葵が咲いた。向日葵の種を植えた覚えはない。

この土地の主婦にとって、手入れの行き届いていない庭を人前にさらすことほど耐えられないことはない。それは、年寄りの一人暮らしであるタエにとっても同じである。でも、と、タエは思った。守にこの大きな向日葵を見せてやろう。あんたがなかなか来てくれないから、こんな花まで咲いてしまったよ。守と向日葵とどっちが大きいだろうか。背比べをしてみよう。

あれよあれよという間に大きくなった向日葵は、まるで一人息子の守の姿に似て、頼もしくもあり可愛くもあり、とても簡単に抜くような気分にはなれないのであった。

タエの頭の中の守は、向日葵のような大男へと成長していた。もう、しばらく会っていないのだ。

今日、守は久しぶりに帰郷する。

「おばちゃん、ここも雑巾かけるのけ?」

縁側から姪の祐子が顔を出した。祐子の無造作に後ろに束ねてあるまっすぐな髪の毛が、汗を含んで踊った。日焼けした浅黒い顔からは、白い八重歯がのぞいている。祐子の事は、赤ん坊の時から知っている。

そんな祐子もとうとう二十四のいい年頃の娘である。しかし、縁談の話さえないようで、いつも化粧っ気のない顔をしてさばさばしている。誰かからの指示なのだろう。近所にアパート住まいをしているために、ちょくちょくやって来ては家の用事をやってくれるのであった。

「おばちゃん家は、雑巾かけているだけで日が暮れるねえ」

貴重な夏休みを叔母の家の掃除に当てているのは、老人福祉施設に看護助手として勤める祐子の良心の表われでもあるのだろう。しかし、男のようにあぐらをかき、大きな口を開けて大声で笑う祐子の姿を垣間見ると、タエはこんな荒々しい若者に介護される老人に同情すら感じるのであった。

それに、いくら身内の家出も下着の透けて見えるようなTシャツと、よく太った太股があらわな短いズボンに裸足にサンダルにといういでだちで訪問することもなかろう。せめて靴下だけでもはくものだ。

どうしても心の奥底では眉をひそめてしまう自分がいる。女として受けた教育の差なのだろうか。素直に感謝できない自分が歯がゆかった。

タエには、人には気づかれないそんな頑ななところがある。

もっとも、年寄りの家に出入りする者がいるだけでも恵まれていると考えなくてはいけないご時世である。

昔は年寄りをどんなことがあっても大事にしたものだが、戦争に負けて価値観が変わったのがいけないのであろうか。なんとも、長く生きづらい時代になったものだ。子供が所帯を持っても大丈夫なようにと考えて無理して大きな家を建てたのに、当の息子は「寝たきりになったら面倒みるよ」と素っ気ない。とうとう他人の世話になる身になった。祐子だけが頼みの綱である。

「ついでに、ここも、拭いてくれるかい」
「ほい、きた!」

祐子は、タエに向かって大きく右手を挙げて笑ったかと思うと、寺の小坊主よろしくドタドタと大きな尻をつきたてて縁側の長い廊下の雑巾がけを始めた。祐子の健康な体が、夏の光を浴びて馬のように輝いている。タエは、リレー選手の躍動した筋肉を想像した。祐子が動くと、こうした一連の作業はすべて運動競技に変化する。

ああ、もっとゆっくり隅のほうも丁寧に拭いてもらいたいとも思うが、口に出すことはしない。

「いつも、ありがとうね。祐子ちゃん」

タエは感謝の意を表現するために、意識して口を横に伸ばして笑顔を作り、そして、庭の手入れは諦めて、ひんやりする家の中に入った。

「草むしりもしなきゃね」

気のつく娘だった。

「今日はいいよ。疲れただろうから、アイスでもお食べ」
「おばちゃんとこはいいな。いつもおいしいものがあって」

子供のようなことを言う時があった。

「はい、おしまい!」

祐子は大きく万歳をして、残りの拭いていない部分を雑巾でさっとなでて濡らすと、大きな足音を立てて奥の台所へ駆け出していった。

やっと家の中がしんとなる。祐子が側にいないと、途端に周囲は静かになるのだ。

「お父さん、今日は貸してくださいよ」

タエは座敷の隅の小さな仏壇を覗き込み、仏前に供えてあったご飯茶碗をおろし、手を合わせた。九谷焼の大きな茶碗だ。生前、夫の圭造が使っていた茶碗であった。

今年で圭造のいない三度目の夏になる。

遺影の圭造はさわやかに笑っている。しかし、タエは圭造の笑った顔を知らない。

この写真は、かれこれ二十年も前、社員旅行で善光寺参りに行った時のスナップ写真を引き伸ばしたものであった。それほど写真というものは、なじみの無い人であった。遊びも知らなかった。夫婦で旅行など考えたことさえない。

タエにとって圭造とは、縦のものを横にもしないと決めたように上座の座椅子に座って動かない、むっつりとしかめ面をしたおそろしい主であった。どうして会社ではこんなに楽しげに笑えるのだろう。タエには想像がつかなかった。長年連れ添っていたというのに、夫はいつも遥か遠くの他人であった。

タエは、圭造を愛しいと思った事がない。

家長としての威厳を誇示し続けてきた夫であったが、その死は惨めでさえあった。脳梗塞で倒れてからは、身体の自由がきかなくなり、言葉も子供にかえった。記憶に残った少ない語彙でおむつを拒んでは泣き、死にたくないといっては泣き、死にたいのに死ねないといっては泣いた。その時初めて、タエは圭造を可愛いと感じたように思う。しかしそれは、憐憫にも似た感情であった。母性が目覚めただけに過ぎない愛情であった。

今、仏壇に飾られた写真の人は、自分よりずっと若くて血色のよい中年の男である。壮絶な介護の日々は嘘のようでさえあった。今もタエの夢の中に出てくる圭造は、いつも遺影と同じようにしっかりと正装し、姿勢を正した絶対的な権力者であった。そして、その圭造とタエの間には、胸を張りタエをかばう勇敢な幼い守がいる。

守は、小さな時から優しい息子であった。気に入らない事があれば怒鳴り、タエに手を挙げる圭造から母を守ろうと、精一杯に手を広げ青白いような鋭い眼光を投げかけて、父に理性を呼び起こした。

圭造も、息子を前にすれば父の顔になった。

三十を過ぎてからやっとできた子供である。母体から生まれ出てきた赤ん坊は、自分で産声をあげることさえできない未熟児だった。普段はタエのために何もしない圭造が、血相を変えて青ざめた子供を逆さに持ち、氷水につけ、尻を叩いたという。とたんに火のついたように赤子は泣き、やっと一人息子が誕生したのである。圭造にとっても、守は宝だった。

「僕はお母さんの味方」

タエの心には、この言葉がしっかりと刻み込まれている。小学校の「私の家族」というガリ版印刷の文章に、誇らしげに書かれた守の大きな文字。いい思い出だった。

「おばちゃん、今日、あんちゃん来るんでしょう」

祐子は口いっぱいに大きなアイスキャンディーを頬張っている。座敷の扇風機の風を自分の胸にしまいこむようにかがむと、汗ばんだ白い胸がシャツからこぼれおちそうにふるえた。

「あんちゃん来るの、半年ぶりくらいけ?」

タエは祐子の姿を見ないように、茶碗を抱えて台所に行った。わざわざだらしない娘だと眉をひそめるのは、自分にとっても楽しいことではない。

皿を洗って、おかずを用意して・・・、やらねばならぬことはまだまだ山ほどある。守の到着は夕方ごろのはずだ。いつも早く帰ってくればいいのに遅いのだ。深夜に帰ってきて、泥棒ではないかと肝を冷やしたことさえあった。仕事が忙しくて、休日は早起きできないのだという。

圭造の茶碗を水につけると、何だか自分がいくつなのか、夫は本当に死んだのか、分からないような感覚がした。太陽の光が台所の小窓からも差し込み、水がちかちかと輝いて、タエの頬を白く照らした。夏の平和な風景は、いつの時代の変わりはない。死ぬまで争いが絶えない夫婦だと思っていたが、新婚時代、満ち足りた幸せを感じながら、こんなふうに洗い物をしていたのではなかったか。記憶の糸をたどろうと小首をかしげた途端、祐子の声がそれを遮った。

「ああ、おばちゃん、これ新型じゃないの!」

里芋の入ったざると包丁を持って座敷に戻れば、祐子が宝物を見つけたようにはしゃいでいる。年寄りの家には似つかわしくないごつい形のCDラジカセを茶だんすの脇においていた。音楽も流れないのはさびしいだろうと、守が買ってくれたものである。

「おばちゃんも、CD聞くのけ」

祐子はおかしそうに笑った。.

タエが聞くのは、デパートなどで安売りしている童謡のカセットテープだけだ。あとは、どのボタンを押したらどうなるのか、何度説明されても皆目見当がつかない。

「聞いてもいい?」

答えを聞く間もなく、祐子はカセットの再生ボタンを押した。

雨、雨ふれふれ、母さんが・・・

可愛いらしい、児童合唱団の歌声が流れる。

「おばちゃんらしいね」

さらに声を上げて、身をよじらせて祐子は笑う。何がそんなにおもしろいのだろう。タエは何食わぬ顔で里芋の皮をむき始めた。一人、十二畳もある座敷に座って童謡を聞く夜がどんなものだか、分かれといっても無理なのかもしれない。若いということは、時として残酷なものだということを、祐子はまだ知らない。

「あれ、もう晩ご飯のしたく?」

いつも昼は簡単に済ますので、普段こんな時間に里芋などはむかない。

「まだ十一時だよ。おばちゃん」

祐子はタエの顔を覗き込んで、大袈裟に驚いてみせた。そして、優しく微笑んで、

「あんちゃんも、東京の仕事なんかやめたらいいのにね」

と言ってため息をつく。何もかも知っている風の顔をしている。もう大人の仲間のつもりであるらしかった。

守を待つ夏を数えたら、一体どのくらいになるのだろう。守はさっさと田舎を出て、東京に仕事を求めた。このあたりでは、三交代の工場勤務がおおかたの就職先であったから、野心を抱くものはみな、十八を過ぎれば姿を消して行くのであった。しかし、ただ平和に生活してゆくものに、野心など必要だろうか。タエには納得が行かなかった。

それにしても、祐子は簡単にものを言う。

「こっちのお嫁さんもらえばいいんだ」

三十も半ばを過ぎ、四十の声を聞こうというのに、守は結婚するような気配がない。見えないところで何をしているのかは知らないが、あまり女性に縁のあるほうではないらしい。圭造に似て、仕事の虫なのだ。

守は、夜勤も残業も当然という小さなコンピュータ会社の技師をやっている。しかしこのごろの不景気のせいもあって、驚くような収入を得ているわけではないようである。休日も不規則で、田舎に帰ってくる時はいつも睡眠不足の赤い目をこすっている。

「ここは長くいるところじゃないから」口癖のように言っているところを見ると、そろそろ潮時なのかもしれない。夢のような成功が、東京だから転がっていることなどないのだ。結局、多くの人にとって子供の時に生まれ育った故郷が一番心の平和を感じる場所になる。タエは今まで生きてきた経験からそれを知っている。もうすぐ守が疲れた羽根を休めに帰ってくるだろう。密かな期待の灯火が、タエの心を支えていた。

「それとも、おばちゃんが東京に行くか」
「よしておくれよ」

返した声は思った以上に荒だたしく響いた。

「だって、さみしいでしょう」

祐子は大人げなく口を尖らせた。祐子の言っていることは間違いではない。

しかし、正しいものは正しいとばっさり決め付けられると、タエは言葉を飲むしかない。祐子は、そんなタエの気持ちを推し量れるだけの成長は遂げていない。タエは、この心の隔たりに絶望感を感じている。「今時の若いものは・・・」という愚痴が胸をうずいた。祐子はタエの返事を待っているので、それは不機嫌な沈黙になった。

気まずい時間が流れた。

「さて、掃除も終わったし、映画でも見てこようかな」

祐子はどんと音をたてて立ち上がり、何が入っているのだか大きなリュックサックをしょった。決して、タエを冷やかしていたわけではないのだ。

「今日はご苦労様。これ、映画代」

タエは慌てて財布から小遣いを探す。

「いいから、いいから。アイスごちそうさま」

大きく手を振り払いながら、玄関の戸をがらがらと乱暴に開閉して、祐子は走り去っていった。若い娘の機嫌をとるのも大変である。嫁と姑の関係というものも、きっとこんなものなのであろう。

家中にタエのため息が響いた。

ただ不器用なだけなのである。決して嫌な年寄りになろうとしているわけではない。どんより重たい空気がタエの背中にのしかかった。これが孤独の重さなのだ。

自分のことに一生懸命に夢中になると、周囲の優しさなどにお構いなしになってしまう。それは分かっている。こうなってしまうのは、余裕のない体力のせいなのであろうか。悔やむがどうにもならない。

守が帰ってくる時刻が気になった。

「あ、しまった・・・」

天袋の奥に、圭造の浴衣がある。守に着せようと思っていたのに、出してもらうのをすっかり忘れていた。

結局一人、脚立にのって宝探しだ。それもいつものことではないか。滅入ることはない。

タエは不安定な体に注意しながら、精一杯腕を伸ばした。

押し入れはもちろん、天袋までもあらゆる生活用品で詰まりきっている。タエと圭造が家庭を持ち、生活してきた三十五年の証であった。

座布団が二十組、客布団に客用の寝間着・・・。圭造は外で酒を飲んで女遊びをするというようなことはなかったが、夜も遅くなってから十数人の若い部下の客を引き連れてきて、よく寝間着姿のタエを面食らわせたものだった。妻にはほとほと迷惑なことであったが、今にして思えば、愛情表現の苦手な夫の唯一の甘えであったのかも知れない。客の絶えることのない家であった。押し入れに詰まった品々に、その名残があった。

今は、祐子が来るほかは誰が来るということもない。樟脳と、カビの臭いが、じんわりとタエの鼻をくすぐった。

また、中にはいつどちらかの葬式になっても困らないようにと、さらに買い揃えた品々もある。くたびれたダンボールの小箱から、皿や徳利、コップを包んだ新聞紙がめくれあがって覗いている。倒産した瀬戸物問屋の埃のかぶった在庫品置き場のようなありさまだ。どうせ、役に立たないがらくたでしかなかったのに。タエは悔やんだ。

定年退職した男に、会社が涙を流すことはないということに、タエは経験するまで気づかなかった。圭造の葬儀は実にひっそりとしたものであった。家庭を築いてからは市営バスの運転手として職務を果たし、労働組合の委員長として腕を奮った。その圭造の汗。それは弔電一本でねぎらわれたに過ぎなかった。座敷で盃をかわした社友達も、数人しか訪れなかった。

タエは、汗ばんでしびれる腕にさらに力を入れて、天袋の中をまさぐった。浴衣の箱は、四箱重ねてある整理箱の下から二番目だ。えいっと力を込めて身体をひいた途端、反動のついた背中が畳に吸い付くように宙に落ちた。小さな身体がひっくりかえっただけなのに、どたーんとびっくりするような大きな音がして意外であった。タエの身体中に、じんじんと熱が走った。

ぐるぐると目がまわるので、タエは、そのままの仰向けに寝た姿勢で、じっと耐えるように目を閉じた。

庭の蝉がジージーと鳴いている。

守はちゃんと起きて列車に乗ったろうか。

家の前の私道を、三、四人で連れだった小学生たちがふざけながら走る影が窓に流れた。ランドセルのキーホルダーがにぎやかに二拍子を刻んでいる。

年を取ると耳が遠くなるというが、むしろタエは音に敏感になっているように感じる。朝になると三軒先の借家から、「起きろ、起きろ!」と可愛い声で子供を起こす目覚し時計の音が聞こえてきた。それが消えた後のしばらくの間、布団の中で伸びをしている子供の息遣いまで想像できるのが不思議だった。単に静かに暮らしているから音のほうが届くようになったのか、周囲が今まで以上に騒がしく生活するようになったのか、それとも、自分だけにしか見えない空想の世界に生きるようになる前触れなのか。タエは、すこし恐ろしい気がしてこのことは誰にも言わない。

台所の流しの蛇口の水滴が、茶碗の眠る洗い桶に落ちている。

砂埃を踊らせる大きな風は、洗濯物の白いシーツをひるがえす。

向日葵も笑うようにゆれている。

さあ、起きなければ。タエは我に返った。年寄りにとって、ずっと寝ていることほど不安なことはない。身体は常に横になりたいと欲するが、このまま身体が落ち着いて二度と起きられなくなったら大変である。だから、年寄りは本能的に眠りが浅くなり早起きになるに違いない。

タエの胸の上には、戦利品の浴衣の箱がある。箱からは白い浴衣がはみ出していた。白地に根の千鳥のガラの付いた手縫いの浴衣だ。幾夏も越した浴衣ののりは程よく抜けてしまって、優しくくすぐるような肌触りがした。守の寝間着にはいいはずだ。

ふと、タエの脳裏に浴衣の袖から伸びていた圭造の腕の感触が生々しく甦ってきた。百姓の三男に生まれた圭造にとって、身体は大事な仕事道具であった。若いころは、高い賃金にひかれて炭坑夫をしていたこともあったという。そんなまっ黒な石炭のような二の腕。思い出すとタエの身体がじんわりと汗ばんだ。

夏の午後はひときわ蒸し暑い。

空の入道雲が膨らんだ。

タエの働く時間だった。もっと芋をむかなければならない。

守は子供のときから里芋の煮ころがしが好きだった。

ぬめりを取っていないつるつるの里芋を、箸で追いかけっこするようにつまんでは満足そうに微笑んでいたものであった。東京では食べられない味である。今の守の食事は、安い定食屋かスーパーの惣菜売り場で調達されている。

「うまいよ、結構」大学生だった守の東京の下宿を覗いた時、出されたパック詰めの煮物は吐き出したくなるほどまずいものであった。甘くもしょっぱくもない冷たい里芋は、みな型ぬきでもしたかのような同じ球形で、口の中でざらりとくずれる。あんなものを毎日食べているのかと思うとぞっとしてしまう。病気になるのではないか心配でしかたない。

タエは料理の腕には自信があった。筑前煮に、白菜の漬物、炊き込みご飯・・・多くの客を満足させるための長い努力と幾多の工夫の成果であった。

圭造がいない今、守がこの家の家長である。今まで空席にしていた上座の席に、今日は守に座ってもらおう。晩酌も少しなら許してやろう。つまみは新鮮な鰹の刺し身。それから、タエのとっておきのヌカ床でつけたキュウリとナスの糠漬け。米は三合炊けば間に合うだろうか。おかずは守の好きな里芋の煮物に、青菜のごまあえ、酢の物・・・。そうだ、それから、キンキの煮たのも出してやろう。東京ではキンキは二千円もするといっていたから・・・。

台所の二つのガス台には、大きな鍋が火にかけられ、おいしそうな白い湯気を吹き出していた。タエは、久しぶりに主婦の幸せをかみしめた。

まだ三時を少し回ったところである。日がとっぷりとくれるにはまだまだ時間があった。いつもは童謡のテープを聞いてこくりこくりとするような時間だ。

今からこんなに張り切っていろいろ作ったところで、何時間待たされるか分かったものではない。外で食事は済ませた、と、素っ気無いことをいうこともあった。期待はだいたい裏切られる。

しかし、タエはじっとしていることができなかった。いくら待たされてもいい。待つ人がいるということが、新鮮な喜びであった。たった十数年前まで、冷えてしまった夕飯を前にして夫と息子を不機嫌な思い出待ちつづけていたのが懐かしかった。

忘れていたことが、次から次へと甦ってくる。台所で働く気力が生き生きと膨らんだ。機転が身体を動かした。

いい思いつきをした。庭のシソをとって、シソ巻を作ってやろう。

シソを広げて味付けをした味噌をのせ、くるりと巻いてそれを炒ると、香の良い一品になった。こんな風に暑い日が続いて食が進まない時に作ると喜ばれたものだ。守はお盆も休めずに仕事をしていたのだから、もしかしたら、夏ばてになっているかもしれない。

タエは台所の仕事をひと区切りつけて、庭に出ようと突っかけを履いた。

「いたんだ、おふくろ」

玄関の戸を開けると、門の向こうに圭造とうりふたつの守がいる。タエは目を疑った。

しばらくぶりに見る守は、少し腰のあたりに肉が付いて、働き盛りの中間管理職の体裁をなしていた。もうすっかり東京の会社員の姿である。

「何回ピンポン鳴らしても出ないから、買い物にでも行ったのかと思った」
「守、早いでねえけ」
「また壊れたのかな、ピンポン」
「お母さん、今、お前のために一生懸命おかず作ってたから、聞こえなかったんだろ」

タエの顔のしわが満面の笑みでくずれた。

予想外の早い「御帰還」である。

「今、シソ巻を作ってやろうと思って・・・。食べるけ?守」
「ああ、懐かしいな」
「まあ、そんなところじっとしてないで・・・列車は混んだけ?」
「ああ・・・、そんなでもない」
「お疲れ様。お帰りなさいませ」

タエが守の手を取ろうと進み出た時、今までじっとしていた守が背後を向いた。

タエの心がずきんと鳴った。かすかに勘が働いた。母として息子と向かい合って培ったある種の不安であり予感であった。女が男に直感する何かの力にもそれは似ていた。

「な、おふくろ、なまっているだろ。言葉、わかる?」

勘は間違いなく当たるだろう。

「こんにちは」

守の後ろで微笑んでいた若い女が頭を下げた。

「関口涼子さん。おふくろに会ってもらおうと思って、連れてきた」

いつにもない固い口調で守は訪問客を紹介した。タエは、なんてだらしない笑い方をする子なんだろうと初めて守に嫌悪を感じた。

「すみません。突然おじゃまして・・・。守さんがどうしてもって連れてきちゃったんです」

関口涼子というその人は、今日という日のためにそなえてあつらえたのだろう。上品なピンク色の半袖のワンピースの裾を揺らして、華奢な腰を再度折り曲げた。

タエの頬がかあっと熱くなった。

化粧も髪も整えていないこの姿は、みすぼらしい年寄りに見えるに違いなかった。

「まあ・・・、気づきませんで・・・・さあ、中へ入って・・・どうぞいらっしゃい」

まだ片づけきっていない家の中が気になりながら、タエは友好的に、二人の「客人」を招き入れた。

守と涼子は並んで仏壇に手を合わせ、そして並んでタエの向かいに座った。

どんなことがあっても、もう遺影の中の圭造の表情は変わらない。タエは頼りなかった。いいのだろうか。圭造の気持ちは、笑顔のままでいいのだろうか。喜ばしいことに違いないのだが。

今度はタエが何か行動しなくては行けない番になった。

「麦茶しかないけど・・・」

重たい腰を上げて、台所へ向かった。

鍋の煮物は、もうぬるくなっているようだった。

「こっちの麦茶はおいしいな。やっぱり、水が違うからかな」

冷たい水滴のついた麦茶のコップを差し出すと、守はごくごくと喉を鳴らしてそれを飲み干した。守の額や首筋から、汗の粒が吹き出した。昔から暑がりなのであった。

「そんなに急いで飲んで・・・。お腹をこわすよ」

タエはいつものようにたしなめる。そうすることが、タエの唯一の主張であり反抗であった。母としての生活を誇示したかった。

そんなことでもただおもしろいのか、守の隣にはくすりと笑う人がいる。守は照れたようだった。

「改めて・・・、俺のおふくろ」

笑ったまま、彼女は小さく会釈した。困った守さんですよね、と、一緒に言いたいような表情だ。

タエは昔お客が来た時に向けていたようなよそ行きの笑顔を貼り付けた。

「いつか紹介しなくちゃと思ってたんだけど、なかなか来られなくて。彼女も仕事が忙しいんだ」
「お勤めされてるの」
「うん、うちの関連会社でね」
「まあ、そう。いつもお世話になってたの。すみません、知らなくて。うちの子は大事なことは何も言ってくれないんですよ」
「いろいろ決まらないうちに話すと、おふくろはただ心配するからね」
「それは、そうでしょう。あなたの母親なんだから」
「でもまあ、お互いなんとか区切りがつきそうだから、そろそろちゃんと式をして籍を入れようと思って。彼女も大変だったんだ。何といっても会社のホープだから、忙しいなんてものじゃなくて」

守の言うこと一つ一つがつっかかった。タエには何か不真面目な関係の末の結婚のように感じられた。そうに違いなかった。結婚はもっと純粋で清純なものでなくてはならないはずである。それに、仕事と結婚がどう関係するというのだろう。

「もう、こちらの御両親にはごあいさつしたの?」

そういう関係であるのなら、自分もあいさつせねばならない。

「ああ、婚約した時に」
「婚約?」

タエは茫然とした。

「結婚を前提に付き合うようになってからは、それなりにお付き合いしているよ」

そんなことは今まで一度も聞いていない。

「父は、守さんと将棋を指すのを毎週楽しみにしているんです」

助け船を出すように、彼女は初めてタエに話しかけた。王手をかける棋士の顔はこんなだろうかとタエは思った。彼女は不敵であった。

「強いんだ、これが」
「そんなにお邪魔して・・・」
「いい人たちだよ、本当に」

安心しろよという表情で、守はタエを見つめた。その隣にはすっかり守を信頼しきって見つめる彼女のまなざしがある。二人に深い長い生活の歴史があることが感じられた。これが今時の恋愛結婚の姿なのであろうか。これが普通なのであろうか。タエは混乱した。

「何も、こんなおじさんと一緒にならなくても・・・」
「おじさんなんて、とんでもありません」
「おいくつなの?」
「二十四です」

祐子と同じ年であった。どきりとした。

彼女は照れたように子供っぽく笑った。祐子と同級なのだ。まだまだ子供に違いない。守につりあう相手ではない。きっとそうに違いない。

しかし、反対する言葉は何も見つからなかった。嫁不足と世間ではやされているように、年寄りの親のいる一人息子の、しかも中年にさしかかった息子の嫁になろうとする人は少なかった。若い彼女は、まだ結婚後に押し寄せる嫁の苦労というものに気づいていないのかも知れなかった。それとも、今の時代、嫁の苦労をしようという考え自体がもう死んでしまったのか。

「おふくろもこれで安心だろ。まさか、一生独身のもてない男だって思ってた?」
「・・・・・」
「そんなに驚かれると、参るなあ」

守と彼女は愉快そうに笑った。母が反対するという恐れは一切ないのであった。

「今後とも、どうぞよろしくお願いいたします」

彼女は台本の台詞を読むように言ってから、しとやかに座礼した。栗色のカールをした長い髪の毛が、肩からゆるりとこぼれ落ちた。白い首筋もワンピースと同じピンク色に染まっていた。女にとって、一番大事な決断をする時であった。今となっては、祐子の黒い顔がいとおしかった。彼女の白い肌には、タエを寄せ付ける隙間がなかった。

「こちらこそ、ありがとうね。本当に、こんな息子でいいのかしら」

タエは丁寧に返礼した。

守はそのやり取りを居心地悪そうに見つめている。男社会の中でもまれ、さまざまな経験を積んだとしても、家庭生活の範疇のなかでは、青臭い一人息子のままなのであった。

「じゃあ、今日はお祝いね。若い人の口に合うか分からないけど、お腹すいたでしょう。ちょっと、待ってください」

タエはなまらないようになまらないようにと、標準語を思い出しながら喋った。ちぐはぐなアクセントが、このぎこちない場を滑稽にして救うのだ。

立ち上がると、頭がくらりとした。若い客人から発する力に圧倒されたのだろう。いつもの貧血になったのかもしれない。

鍋の中身に火が通るのが、今までこんなに短く感じられたことはない。もうしばらくじっとしていたかった。嬉しいのか、悲しいのか。分からない感覚だった。何にこんなに動揺しているのか。裏切られた。裏切られたという気持ちだけが、湧き水のように止まらなかった。しかし、理屈に間違いはなかった。

タエは考えるのをやめて、慌てて膳をととのえる。あまり時間がかかっては、向こうも気にしてしまうだろう。料理はうまくできていた。

「お手伝いします、お母さん」

守が促したのだろうか。彼女がそろりと台所を覗いた。まだ台所という場にしっくりと居慣れていない初々しさが、これから主婦となる女性の美しさを強調していた。何をして良いのか分からずに、彼女は手持ちぶさたにふらふらとタエの周囲をまわり、用意された膳を覗いた。

「わあ、おいしそう。守さんから、お母さんの料理はすごく上手だって聞いていたんです。いろいろ教えてください。お願いします」

年の割に、良くできた娘のようであった。

タエは、食器棚から客用のそろいの茶碗の一つをだした。これが今後彼女のために用意される茶碗となるのである。

「このお膳、持って行っていただけますか?それから・・・、あなたもお酒、大丈夫よね」
「ほんのちょっとです。私は」

涼子はいたずらっぽく笑った。

タエも微笑んだ。この風景はきっと、いい嫁と姑の風景に見えるに違いなかった。後戻りしてはいけないような、危うい会話だった。笑みを絶やしてはいけない。

タエは、圭造の大きな茶碗に守のご飯をよそった。

食卓には、さまざまな料理が並び、三人は改めて席についた。

「さあ、どうぞ」

新しく夫婦になろうとする者への祝いの膳である。タエは何も食べずに二人の様子を見つめた。

「おふくろ、こんなに飯食えないよ。東京ではこんなに米食べないんだぜ、なあ?」

守は、それが圭造の茶碗だということを忘れているようであった。

「あら、そんなことないわよ。おいしいご飯」

涼子はむ利して食べているようであった。

「どれも田舎料理で、若い人には合わないわねえ」
「いえ、すごくおいしいです」

守は何も言わなかった。

「遅いお昼になっちゃったわね」
「来たのが遅かったんだから。でも、こんなに用意しているとは思わなかったよ」
「虫の知らせかねえ」

守に何か言ってほしかった。

蝉がいっそうじりじりと鳴いた。

空が重い湿っぽい雲に覆われていくようであった。

生暖かい風が、タエの耳元をかすめた。


「洗い物くらい、やらせてください。ごちそう作っていただいたんですから」
「いいから、疲れたでしょう。守と一緒にテレビでも見ていてください」
「お母さんにお皿まで洗っていただいたなんて両親が聞いたら、しかられます」

流しの前で二人がもみ合っているところに、守が食器を持って入ってきた。今までそんな手伝いさえしない息子であった。

「お、もう嫁姑の戦い?」

守は二人の女がよそ行きの謙遜をして立ち働いていることが、ものめずらしく、おかしく思われてならない。

「守も、私が片づけるから・・・」
「やってもらえば? 俺も手伝おうか」

守は腕まくりを始めた。「男子厨房に入らず」と、一家の主婦がこの年まで頑張りつづけてきた努力を認める者は、ここにはいない。

「ね、お母さんこそ休んでください」

強引に「若夫婦」に流しを占領される形となった。

タエの出る幕はなくなった。

丹精こめてきれいにしてきたタエの台所であった。

彼女は食器洗いのスポンジに念入りに洗剤を含ませて、勢いよく食器をこすり始めた。ガチャガチャと水の中で皿やコップが音を立てる。白い泡が洗い桶からあふれ出て、小さな滴が床や近くの鍋に飛び散った。

「な、働き者の、いい嫁だろ!」

自分の親に結婚相手を紹介するということは、男にとっても緊張することらしい。守はさっきとはうってかわった気楽な表情でおどけた。

「さ、俺にもかしてよ」

守が涼子の横から、洗い物を奪おうとしたその時だった。

泡まみれのつるつるした食器が、涼子の手からするりと滑って床に落下した。

あっという間もなく、食器が砕け散り、陶器のかけらががしゃりと飛んだ。

それは、九谷焼の大きな茶碗だった。圭造の茶碗だった。

雷がごろりと鳴った。

「あああ、やっちゃった」

守は何がおかしいのか、ふざけるように大きな声を上げた。

「ごめんなさい、ごめんなさいお母さん」
「それより、涼子さんは怪我は大丈夫?」

涼子さんと呼ぶ声が上ずった。初めて「涼子さん」と名前を呼んだタエの表情は、能面のように平静であった。

「悪い、悪い。やっぱり、俺は役に立たないな」

守は遊んだおもちゃを片づけるように足元のかけらを拾った。

タエの手のひらに、菱形になった茶碗のかけらが載った。かけらはひやりと冷たかった。しみるようであった。

「気にするなって。おふくろが買うものはいつも安物なんだから。な、おふくろ」
「そうよ」

タエはゆっくりとした鈍い動作で腰をかがめた。

「あ、やだなあ、おふくろ。背中、背中! 出てるよ、ブラウス!」

タエのズボンからブラウスがだらしなくはみ出て、着古した綿の下着が覗いた。痩せた骨張った背中は、人生を背負っている年数だけ疲れたようにたわんでいた。

「しょうがないなあ、おふくろは」

少年の時と同じ口調でこぼしながら、守はタエのズボンの中にブラウスを押し込んだ。

「え、ああ・・・」

タエの身体は虚脱していた。

やっとタエは自分が何者であったかを思い出していた。もう自分は若くはない。一体何をはしゃいでいたのだろう。何を期待していたのだろう。なぜ、こんなに失望を感じるのだ。

突然、激しい雨音が響いた。

「あら、雨」
「何だよ、今日は海に行けないな」

割れ物を拾う手が止まった。

「あ、いけない。洗濯物!」

タエは慌てて廊下を駆けた。守のために干したシーツがある。

「やだなあ、まだボケないでくれよ!」

その背中を守の優しい声が刺した。

「おっちょこちょいなんだよ。うちのおふくろ、おもしろいだろ」


タエは玄関まで出て途方にくれた。

重い雨粒が、庭を叩きつけている。

タエは向日葵を見た。

向日葵の大きな花弁が雨の重さに耐え切れないようにしおれている。守に見せるような立派な花ではないような気がして、しんしんと悲しくなった。

今年の夏ももう終わりだろう。この、夕立が過ぎれば秋風が吹く。

雨、雨ふれふれ、母さんが・・・

ちいさな坊やと若い母親が、手をつないで歩くには強すぎる雨であった。

幼い守の小さくて暖かい左手の柔らかい感触は、まだタエの右手に残っている。今、その手の平は圭造の茶碗の破片を握っていた。圭造は、もういない。そんな当たり前のことがタエには堪えた。右手がちりちりと痛み、一筋の血が流れた。

タエが思い切って雨の降る庭に走り出ると、冷たい雨がばちばちとタエの身体を叩いた。

奥の台所からわきおこる守と涼子の笑い声が、雨音に混じってかすかに聞こえてくる。

母という人間が、幾千幾万回と繰り返してきた、息子と母の別れの儀式であった。

ただ、それだけのことではないか。タエは思った。だからといって、何も変わるものはないのだ。年に何度かの守の帰省の日と、庭の花の咲くのを楽しみにしていれば一年はあっという間に過ぎてしまう。あとは、毎日仏壇に手を合わせ、腰をさすりながら長い長い廊下の掃除をし、窓を拭く。テレビのボリュームを大きくしてワイドショーを見て、簡単な食事をとって茶を飲み、昼寝をする。孤独が退屈になれば、買い物ついでに散歩に出る。夜が長くて眠れなければ、カセットテープに合わせて下手な童謡を声にして歌おう。いつもと同じ平凡な日々。

変わるといえば、これから守が一人で帰ってくることがないであろうことと、あと数年もすれば、かわいい孫も誕生して「おばあちゃん」と呼ばれるであろうこと。きっとにぎやかになるだろう。楽しくなるだろう。

タエの目から、暖かいものが流れた。

夕立は、タエにその温度を感じさせないためのように降り続いていた。


おわり


いやはや、長らく御拝読いただきまして、ありがとうございます。

おぎゅうのつくるものに、もどりましょうか

御感想いただけたら、幸いです