目覚めたら、頭が重かった。体の中のほとんどは水だっていうけど、今のわたしの肉体の水は中途半端に残ったペットボトルのぬるいカルピスのように甘くべったりと濁っている。
隣でぐうぐうといびきをかいて眠っているごつい野良犬のような男。呼吸のたびに筋だらけの腹が上下し、喉が鳴る。なんて名前だったっけ?背中の引っ掻き傷が赤くみみずばれになっていて、またいじめたくなる。そんなに丸くなって。あなたの朝はまだまだ遠いのね。あたしはもう、目覚めてしまった。記憶喪失になりたいような朝よ。
たいしたことじゃないって、人は言うだろう。 あたしの笑顔はあれからもっと華やかになり、声は大きくなり、そして人からますます愛され、毎日は忙しくなり、彼の存在なんて世間の人から忘れられてしまった。
あたしの心が傷ついてるなんて、思ってもみないだろうな。
あたしは強い、女だ。女は弱いのよっていえない馬鹿な女。
あの時。行かないで。一人きりがさみしいの。そう言ったら、いい加減にしろよと笑われて彼の拳がわたしの頬をはらした。それで終わってしまった。あたしは彼に憎まれるために彼を愛して優しくして、結ばれて腕組んでバージンロード歩いて、はるばる遠くから家財道具を引っ越して一緒に籍入れて住んだんだっけ?思い返しても思い返してもわからない謎。しあわせな時っていつだったんだっけ?
いいわよね、私も離婚の一つもしたいわと、二人目を身ごもったでっぷりした腹をあたしに見せつけながらうらやましそうに言った友達がいた。ナイフでぐちゃぐちゃにしてやりたかった。そしてまたあたしはひとつの仮面を知り、それを盾にわたしの思い出を、わたしの心を切り売りした。…もう、彼はこの世界にあらわれることはできないだろう。わたしは、こうすることで彼を、彼との思い出を、本当のわたしを抹殺した。
うううう…といって男は小さく伸びをした。マサオ、だっけ?マサキだっけ?まあいいや。この子だってあたしの名前を覚えているわけはない。違う名前を呼び合っていたのかもしれない。二人できっと、違う誰かを抱擁していたのよ。馬鹿で滑稽な人間。隙間を埋めてと埋めようとすればするほど、その奥の奥はただ熱くなるばかりで、ため息が漏れるばかりでむなしくなるだけだった。どうかしていたんだ。お酒のせいだ。…なんだか中年男が出来心で浮気したみたいな気持ち。でも、あたしはもう、ごめんなさいという人もいない。
「おはよう」 男は、前からの知りあいみたいに目を細めてあたしを見た。
「うううううあー。…ああ、疲れた…。何か、飲み物ない?」 あたしは近くにあったペットボトルのミネラルウォーターを手渡す。一気に飲み干す男。若いっていいねえとあたしは人ごとみたいに思う。体の芯がひりひりしていていることに今ごろあたしは気づいた。
薄暗い空気の湿った豪華絢爛な部屋にも朝日は射し込んできて、汚れたカーテンの隙間から白い線が走っていた。しましま模様になった彼の汗ばんだ背中がもうすぐ夏だといっていた。