キスの代わりに微笑んで、抱擁の代わりに小指を絡めた。
約束
くるりと、花瓶に生けたガーベラが回る。
光を反射した水面は、窓際にゆらりとした影を浮かび上がらせた。
開け放たれた窓からは心地良い風が顔を覗かせて飛び込んでくる。
オレンジペコの紅茶にティーハニーを落としながら、
ウィンリィはそっか、と口元を綻ばせた。
「アルは中央に行っちゃうんだ」
足元の愛犬が顔を上げたが、すぐにまた寝入るようにして重ねた前足に頭を乗せる。
キッチンテーブルで向かい合わせに腰掛けたアルフォンスへ
もう一度そっか、と呟いた。
一緒に淹れて貰った紅茶に口を付けて、
彼は兄とよく似た琥珀色の瞳を細めてみせる。
「色んなことを学びたい。僕は兄さんみたいに天才じゃないからね」
おかしそうに、くすぐったそうに彼は笑う。
そう、笑っている。
そんな当たり前のことがこんなにも嬉しい。
ウィンリィもつられて頬を緩めた。
「アルは秀才タイプなのよ」
良くも悪くも兄と比べられている彼の方がよっぽど保護者のようだと、
いつか誰かが言っていたのを思い出す。
けれどやはり保護者は兄だったようで、
奨学金制度に肖ろうかと思っていたアルフォンスの学費や諸々の生活費は全て彼が賄うらしい。
アルフォンス曰く、借りているだけでいつか返すつもりのようではあるが、
それをエドワードが受け取るか否かは別の話だ。
「所在だって今度は分かるじゃない。今までとは違うよ」
「でもやっぱり、寂しくなるなぁ」
コルクボードに貼り付けられた、小さなメモに書かれたアドレスとテレフォンナンバー。
待ちぼうけの日々はもう終わった。
けれどこれはこれで寂しいものだ。
「莫迦みたいに、ずっと3人一緒なんだと思ってたのよ、私」
それを疑うこともなく、ずっと。
背伸びをしながら、ウィンリィはぽつりと零す。
「兄さんはリゼンブールに残るって」
「うん、昨日ばっちゃんに言ってた」
「ばっちゃんに?」
「私が直接聞いたワケじゃないわ」
不満を隠そうともせずに、彼女は口を尖らせた。
通りかかったドア越しの声。
弾かれたように踵を返して部屋に戻った。
嬉しいのと悔しいのと、同時に襲ってきてその場に立っていられなかった。
アルフォンスの次に教えてくれるのは自分だと思っていたウィンリィは、
そうではなかった事実が悔しくてたまらなかった。
随分と子ども染みた感情であるのは百も承知だ。
だからこそ八つ当たりも出来ずに頬を膨らませるに留めている。
「…と言うことはまだ言ってないのか、莫迦兄」
「へ?」
今度はアルフォンスが呟いてみせるが、ウィンリィの耳には届かなかったらしい。
小首を傾げる彼女にこっちの話、と手を振った。
「その兄さんは?」
「さぁ?また墓参りにでも行ってるか、お遣いに出されてるのかも」
飲み終えたカップを持って少女が立ち上がると、足元に居たデンが顔を上げた。
外へ向かう扉に向かって嬉しそうに尻尾を振る。
つられて2人も扉へと視線を投げた。
「帰ってきたかな」
開け放たれたままの扉の向こうに、見慣れた姿が欠伸をしながらこちらへと近付いてくる。
アルフォンスも立ち上がると、ひとつ背伸びをしてウィンリィへと手を差し出す。
どうやら彼女の分のカップも片付けてくれるようだった。
それに甘えて空っぽのカップを手渡す。
「僕、まだ荷造り少し残ってるから」
「うん、手伝えることあったら言ってね」
「ありがと」
小さく手を振ってアルフォンスが引っ込むと同時に、勝手口からエドワードが顔を出した。
居ると思った顔が居なかったのか、辺りをひと廻り見回す。
「アルは?」
「荷造りだって。何か飲む?」
いや、と断って、エドワードは所在無さげに入り口近くにある椅子を引いて腰掛けた。
尻尾を振って見上げるデンの頭やら首を撫でてやる。
何をするでもなかったウィンリィも、もう一度彼の近くの椅子へと腰を下ろす。
会話も無く、かと言ってどちらかが口を開くのも不自然な気がした。
静かで、穏やかで、きっとそれが彼らの知っているリゼンブールという故郷。
「部屋、どこ使う?」
窓のカーテンが靡いて、ようやっとウィンリィが口を開いた。
「今まで借りてた部屋」
エドワードも顔を上げる。
琥珀色の瞳に、少女の姿があどけなく映った。
まだまだ自分も彼も大人と呼ぶには躊躇いがあって、
けれど子どもと呼べるほど子どもにはなれなくて。
どこまで踏み込んで良いものかと考えあぐねる。
考えて、憤る。
「…何で?」
「何でって、本だの資料だの全部あの部屋に押し込んでるし」
「そうじゃなくて」
「うん?」
微かに寄せられた眉根に、エドワードは彼女の台詞を待つ。
ずっと共に過ごして来た幼馴染だからこそ分かる、小さな変化。
そうしていつも、そんな顔をさせているのは自分なのだと理解もしていた。
「何で、帰って来る気になったの?」
右腕左足、弟の体を引き換えに得たのは凄惨な現実。
全てを取り戻す為に帰るべき家を焼き、根無し草の旅に出た。
ウィンリィは、彼らが一箇所に留まることなどこの先もうないのだと予感していた。
していたからこそ、口にはしなかった。
口にしてしまえば現実になってしまいそうで怖かった。
いつだって行かないでとは言えなくて、いってらっしゃいと振り返らない背中に手を振って。
今も夢ではないかと、目が覚める度に確かめる。
エドワードはウィンリィの問いに嘆息した。
「…元々、あんなことがなければ俺はここを離れるつもりは無かったよ」
両手の指を組んで、彼は俯く。
強い黄金の髪が頬を掠めた。
「嘘」
「嘘じゃねぇって。勉強だって独学で何とかなるし、それ以上なら東部まで学校にでも通えば良かった」
信じようとしないウィンリィに苦笑して、テーブルに頬杖を付く。
ゆっくりと目を瞬かせ、今まで語らなかったものをひとつひとつ紐解いていく。
「母さんが生きていた場所を、家を、離れようと思ったことなんて、無かった」
それでもあの頃は、いつか母親を生き返らせて今度こそ護るのだと思い込んでいた。
死んだ者は黄泉帰らない。
大自然の理であり、抗ってはならない絶対の法則。
帰らないから泣くのだと、帰らないから嘆くのだと、帰らないからこそ、哀しむのだと。
理解しようともせずに、無邪気に夢見た。
そうして、失ってから気付く愚かさに自分を罵るしかなかったのだ。
「お前は?」
辛気臭いのは終わりとばかりに、エドワードはウィンリィへと口を開いた。
戸惑いながらも、ウィンリィは幼い頃思い描いていたものを言葉に変える。
いくら機械が好きだからと言って、一所では学ぶものにも限界があった。
「私、は…機械鎧をもっと学びたいって思ったら多分、外の世界を見たいって」
遅かれ早かれ、例えエドワードのことが無かったにせよ、
別の世界を目にすれば迷わず彼女は飛び出しただろう。
根底にあるのは彼女の両親と同じもの。
誰かの助けになりたい、その手で出来ることがあるのならいくらでも。
「だろうな」
いつかのように、膝の上で強く握り締められたウィンリィの手を取り、
ひとつひとつ指を解いていく。
生かす手なのだと、懇願したあの日。
豆だらけで、同じ年頃の少女とは全く違う手が好きだった。
「だから、俺はここを離れようとは思わなかったんだ」
「エド?」
解かれた指で、エドワードの手を握り締める。
不思議そうに首を傾げるウィンリィに、エドワードは顔を顰めた。
「…まだ、分かんねぇのかよ」
ずっと共にあったからこそ、そういった心の機微には気付かないものなのか。
苦いものを覚えながら、色々な言葉を思い浮かべて、止めた。
飾り立てた台詞が言えるほど、彼は器用ではない。
諦めて、エドワードは長い溜息を吐くしかなかった。
「俺が、お前の帰る場所に居たかったんだよ」
ウィンリィに手を掴まれたまま、気付かれたくないのか紅くなった顔を逸らす。
逆になっちまったけどな、とぼやくが少女には最早問題ではなかった。
帰る家がないのならせめて、帰る場所でありたいと願った。
どんなときも、笑っておかえりといってらっしゃいを言える自分でありたかった。
だからこそ彼が同じ想いを抱いているだなんて、考えたこともなかったのだ。
リゼンブールの空と同じ色をした蒼い瞳が見開かれ、揺らぐ。
「…部屋、勝手に入らないでよ?」
「へいへい」
ぎゅ、と彼の手を握る手に力を込めた。
照れたからと言ってそれを振り解くこともせず、エドワードは頷く。
「電話、ちゃんと出なさいよ?」
「分かってるって」
堪えきれずにぽろぽろと溢れ出した雫が頬を伝う。
泣き顔は苦手だ。
エドワードが腕を伸ばすよりも先に、ウィンリィは彼の肩口に額を押し付ける。
甘い香りと柔らかい髪に取り乱しそうになる心を何とか抑えた。
「私が修行終わるまで、絶対、待っててよ?」
彼らの体が元に戻ったからと言って、彼女の修行が同時に終わるはずもなく。
自分で選んだ道であるからこそ、中途半端に投げ出すなんて以ての外だ。
最優先されるのが感情であってはならない。
「うん」
分かっているから、エドワードも何も言わない。
今度は彼が待つ番だ。
「そしたら私、ちゃんと言うから」
「じゃあ、俺も」
この両腕はまだ、彼女を抱き締めることは出来ない。
この唇はまだ、彼女に触れることは出来ない。
だから。
「約束」
キスの代わりに微笑んで、抱擁の代わりに小指を絡めた。
END