「行ってらっしゃい」
 笑って、優しく笑って手を振る姿に見覚えがあった。そのまま煙のように立ち消えた幸福を思い出したら胸がいっぱいになった。強引に抱き寄せた。
「……行きたくないよ」
 他人のものを奪いたいと、初めて本気で意識した。











愛と同じくらい











 この歳になって、エスカレーターを逆走することになろうとは思わなかった。軍靴の底と足下が硬くぶつかりあう。夕暮れの疲れた人々がけげんそうに振り返る。登りの客とぶつかる寸前で斜めに飛び降りる。ソバージュの髪を宙にちらして女が逃げ出した。
 彼は全速力でそれを追う。駅に飛び込み、キオスクの脇を摺り抜け、中央通路を横切り、地下街、改札、チューブのホーム。車両に飛び乗られてしまうかという懸念は杞憂に終わった。列車は丁度動き出したところ。女は渡り通路を目指して再び足を速める。彼は深く息を吸い込んだ。
「止まらないと撃つぞ!」
 それで、女は立ち止まった。ひととき、全てが止まった。彼は殆どおそるおそる、一歩一歩、その場に歩み寄った。靴音が高く響いて、世界を呪縛した。動きを止めた女の肩を、背後から抱きとる。
 彼女は立ち止まった。昔からそういう、真っ正直で冷静な判断をする女だった。
「顔を上げて」
 真上から覗き込んで、今更ながら面差しを確かめる。見間違えるはずなどないと確信する一方で、こんな奇跡があるはずこそないようにも思えた。彼女はゆっくりと顎をあげ、彼を見上げた。夢を見ているような気がした。
「会いたかった」
 それは愛している、と白状するのと同じように響いた。彼女が彼の頬に左手を伸ばした。冷たいリングの感触が皮膚を灼いた。
「ごめんなさい」
 懐かしい声音が耳殻を奪った。彼はすすりなくような吐息を洩らした。
「何が僕から君を奪ったんだ?」
 彼女は首を振りながら両手で彼のこめかみを押さえ、角度を調節して視線を合わせた。彼はまた、金属の苦味を肌を感じた。
「あなた、勘違いをしてるわ」
 真っ直ぐに差し入る灯りの反射が胸の奥をくすぐり、何本目の指のリングか数えるのも放り出してしまう。ただ両腕に力が入った。
「教えてくれ」
「……逃げられそうもないわね」
 彼女は苦笑した。車両が風を巻き起こして入ってきた。
「乗りましょうか」と、彼女が言った。
「どこへ?」
「さぁ?」
 動かない彼の手を取って歩き出した。列車はひどく空いていて、先頭側にひとりの老人が目を閉じて座っているだけだった。彼女は後方の隅に席を取った。彼はその隣に、おずおずと腰を下ろした。重い音を立てて箱は動き出した。
 速度が安定する頃、彼は彼女の肩口に額を寄せた。言葉が出なかった。窓の外では、コンクリートに塗り固められた風景が飛ぶように去っていった。
「……僕は、何を間違ったんだろう」
 命令を受けて空へ行き、帰って来たときには恋人は消えていた。破局の物語はいつも、その局部的な出来事としてしか彼の意識に上らなかった。その朝までは、すべてが幸福のうちに進行していたのだ。だが何かに奪われたのでなければ、自分がミスを犯したのだと思うしかなかった。
「何も悪くはなかったのよ」
 己の職務が淋しい思いを強いたのか、と聞こうとして彼は再び言葉を詰まらせた。淋しがり屋はいつだって自分の方だった。
「さみしかった」
 質問の代わりに吐露すると、彼女は困ったときの顔で彼を振り返った。眩しい光に射られたみたいに、不意の雨に打たれたみたいに、眉を寄せて目を細める。昔のままの表情だった。
「2人でいてさみしくなるよりは、マシじゃないかしら」
 彼女が囁いた。微かに甘い匂いが香った。香水か、化粧か、シャンプーが。彼は随分と疎くなっている自分に気付いた。
「貴方を、幸福にしたかったわ」
「君はさみしかったのか?」
 自分といてなのか別れてなのか、我ながら判然としない聞き方だった。
「でも、何もかもを駄目にしてから別れるよりは、ずっとマシだと思ったの」
「僕は幸福にしてもらわなくたっていい」
 食い違っている台詞を誤魔化すような勢いで囁きを重ねあった。真摯な眼差しが互いのすぐ傍にあった。触れ合いそうな額、頬――。
「ずっと謝りたいと思ってたんだけど」
「ずっと君を忘れられなかった」
 これって、まだ愛し合ってるってことじゃないのかな?
 声に出して問えずに、そっと唇を重ねた。
「このまま、私と一緒にいてもいいの?」
 女が囁いた。
「ああ」
 彼は骨が軋むような深さと緩慢さで頷き、
「何処へ行く?」
と、緊張に擦れる声で聞いた。
「この列車でいける、一番遠くへ」
「もうじき折り返しだろう」
 彼は車内の路線図を振り返って確認した。
「すぐそこだよ、地下鉄でいける距離なんて」
 そうね、と彼女が微笑した。
「あなた、銀河を股にかけて暮らしてるんですものね」
 彼は唇を閉ざして苦笑した。
「そんな大袈裟なものじゃない」

 彼らは駅を出ると、斜め向かいのシティホテルに入った。はぐらかされたままだ、と彼は思った。どこまで問い詰めても、きっと自分には納得できないだろう。ソリヴィジョンドラマばりの恐喝や因縁を告白されでもしない限り。だけど。
「聞き損ってた」
 彼が呟くと、彼女は髪を揺らして隣を振り返った。
「どうしてあの時、黙って?」
「ああ、ナイトハルト…」
 彼女はあやすように甘く笑った。目尻の皺は昔より深いのかもしれない。それでも懐かしさに胸がちりちりした。
「そんな顔見せられたら、出て行けなくなるからじゃない」
 ルームキーは金属製で、回転の重さが彼の手に、開かれる扉の確かさを伝えた。あるいは開かれる新しい時間の手ごたえを。部屋は白紙を思わせる白さだった。彼女が後から入って来てドアを閉め、ロックを落とした。
 彼はその気配を背中で感じながら部屋を見渡した。白紙を思わせるほどにシンプルだが、しかし軍施設の素っ気なさとはまた違った。
 取り合えず、と彼は備え付けの冷蔵庫を開けた。
「君も仕事帰りだろう?ビールでも飲む?」
「ええ」
 彼は少し前に発売された目に鮮やかな缶を2本掴んだ。昔ふたりでとことん嵌った銘柄は、いつの間にか街で見かけなくなっていた。プルタブを引きながら、恨み言はやめにしよう、と内心に言う。勿論古傷はまだ疼いた。
 ――愛してたのに、愛してるのに、あなたはそうじゃなかった?
 彼は抗うように顎を引き、強引に自分を捩じ伏せた。
 ――であれば、それに値する人間になれば良いだけではないか。
 忠勤によって地位を贖ったように。勲功によって名声を得たように。それはひとりの月日に覚えたやり方だった。愛を勝ち取るだなんて、あの頃には考えたこともなかった。
 しかし缶を差し出す手は初恋の頃と変わらぬ初心で、マニュキアの指先に触れられれば、他愛もなく震えた。


 テーブルに置こうとした3つめの空き缶が、軽薄な音を立てて転がった。
「そんなに飲んで大丈夫なのかしら?」
と、女が揶揄した。
「言ったな」
と、彼は笑い、身を乗り出した。また微かな匂いを感じ取った。彼の知っていた香水ではない。それでもそれは甘かった。もどかしさが思考を、より明晰ならざる物へと変えていく。せつなさが背を押す。
「まだ、遅くないよね」
と、彼は囁いた。夜の深さを尋ねたのではなかった。彼には、紛らわしくしか聞けない己が煩わしかった。染み付いた臆病な習性から、急には自由になれない。
「…私でいいの?」
 囁き返す細い頤が震えていた。彼はそれで、どうやらあやうい橋の上に居るらしいと悟った。だからといって踏み止まれるかと、内心で問うた。前線を駆け巡る数年に、危険はむしろ彼を挑発する物になっていた。
「うん」
 彼は首を縦に振った。幸福を取り戻すためにここまでやってきた。それはつまり、奪うために生きているということだった。我執に佳人を巻き込もうとしている。これは、愛ではないのかもしれない。良心の針が胸を刺した。それでも、
「君に、側にいて欲しかったんだ」
 すべての幸福な時間、全ての病めるときに。
 それは、純粋な情熱ではないのかもしれないけれど、同じように彼に眩暈を起こさせた。
 彼女は黙って手を伸ばし、彼のカラーを抜いた。彼は腕をクロスさせて女のシャツの前を解いた。柔らかな身体が零れだす。彼女は真顔で肩を抜いた。
「全部脱いでよ」
 彼は言いざま、薬指に噛み付いた。リングを歯で固定し、噛み千切るような仕草で外す。
 彼のシャツを脱がしながら、
「飲み込んじゃ駄目よ?」と、微笑の彼女が首を傾げた。
 彼は口を閉ざしてにやりとした。
 即座に、抉じ開けるようにして指を突っ込まれた。金属と細い指と唾液と歯 が追い駆け合う口の中はちょっとしたカオスだった。
 彼女は鉤にした指先にリングをひっかけて引き出した。指輪をサイドテーブルに置いて、ぬめる指先を再び唇に寄せた。そこにあることを確かめるように触れ、唇を重ねた。
 彼は与えられるままに紅い果実を貪った。抱きしめ、抱きしめられた。


 求めることは愛ではないのかもしれない。
 だがその情動は、愛と同じくらい強引で破滅的で、愛と同じくらい彼を幸福にした。



以前に音海さんにあらましを聞いて、書いてみたいと思いつつのびのびになってた「略奪愛@リベンジ」ネタです。一部概要説明メールより抜粋翻案…。 やはし恋愛物は苦手らしいです;;
タイトルは…意味があるような無いような。サガンのエッセイでこんな題のを見かけたような。結局見つからなくて(存在するのは確かなんだけどっ)読んでないし(^^;

…で、コンクリートはあの遠い未来世界にもあるのか?(笑)

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