#ソノ手ノナカノ永遠
何かの為とか、誰かの為とか、そういうことを考えながら此処へ来たわけではなかった。

「──────化けて出るくらいなら…死ななきゃよかったんだ…あの女」
突き放しては気がつくと助けられ、何かを思い出しかけた時には何もかもが遅かった。
悪態を吐きつつ、師匠の墓に蹴りの一つとささやかな献花。
微かに残る暖かな…懐かしい生活の匂い。
「あいつ…まだひょっこりここで暮らしてるんじゃないだろうな」
壷のごろごろしてる台所を抜けて、外へ出る。
「幽霊屋敷…か。王の 生家になり損ねたな?お前」
濃い翠が夏の夕暮れにねっとりと融けて、心身ともに眠くなる。
欠伸をかみ殺しながら、イツは街壁に向かって歩き出した。






真夏の川原、夕暮れの木陰に、籐で編んだロッキンッグチェアー。
少年が、零れた髪を枕にうつうつと…うたた寝る。
剣を抱いて素足を流れに浸していたシードは、覚えず血の海を連想させるような灼華の空を見上げた。
男の髪も、その手を濡らしてきた鮮赤に深く昏い金を交えた彩に染まる。
死者の眠りの番。

死者の手は
藤の繊細な象牙色よりも月長石の淡い白。
死を誘うに相応しく
ゆるやかに終末を迎えて流れる薄蒼い葉脈たちが 時を数えて連れていく

チェアーからことんと垂れている指に、真白の蝶々がまつわる。
不意に、その薄く白い生き物が可哀想な魂を連れていってしまうような気がして…
夕赤を受けて染まる鋼が、ぬめるような音を立て蝶を花片にかえた。
そよとも動かぬぬるい大気を、ひらひらと四枚の花びらが泳ぐ。
その時、少年が見開いた薄蒼の瞳に白く散る花と斑の鮮赤が映り込む。
シードに向ける、僅かに咎めるような視線は意識の明瞭と覚醒の明晰を示していたので…
眉根を寄せて怖い仏頂面をしてみせた。
「…蜂蜜漬け食べた後、手、拭いませんでしたね?」
近所の農家で貰ってきた、酸味の強い果実の蜂蜜漬。
薄めて割って果実酒をつくるのだと、留守番の青年が腕まくりしていたのを…お八つにちょろまかしてきた。
「あ…」 そうかも、と、少年は淡い色の唇に真白の指先を、含む。
「甘いですか…?」
ふぁ、と一つ欠伸してシードは恐ろしい夕焼けに腕を伸ばした。
「どうかな…」
難しい顔をして、もう一本の指を咥えようとする。よっこらという掛け声のわりにはやたらに身軽く立ち上がったシードが、その手首をぱ しっと掴んだ。
「…失礼」
ぱくん。



















高い高い崖の上、白い渓流を見下ろす涼しい松の木陰。
少年は何かで刻んだような疵のある、岩の下に脚を投げ出した。
ひどく血の気の無い、顔。
「…奪われたわけじゃない」
静かに呟くのは赤い空。
「ねぇ、ナナミ、…要らなかったんだ、僕の国も、不老不死も、ただもう、つまらない」
満たされない充たされない。
携帯用のリュックから、小麦色のほっそりした腕を引きずり出す。
愛した旅芸人の少女の、器用な、細い指先。幾度も口づけた、僕を愛した、細い腕。
「…いい眺めだろ?」
全部は連れてこれなかったから。
イツは少女の小さな掌に愛おしげに唇を押し当てた。
紋章を手に入れたその時から、変らないその姿、精神だけが身体を置いていったから、その笑みは少年の幼なげな貌をひどく不釣り 合いなものに見せる。
微かに腐臭の漂う腕を抱き、
少年の額に光のレリーフのように薄蒼い紋章が浮かび上がる。
力の波動が血の気の無い顔を白く染める 謳うように低く、呟く。
「蒼き門よ…この身体を切り刻め…」
ズバンと、鈍い音がして肩口から片腕がもぎ取られる。反動で崖にしたたか背を打ちながらイツは落ちた己の片腕を崖下に蹴り飛ば した。
『盾はくれてやるよ…ジョウイ』
凄惨な笑顔は 噴き出た血に染る。
「血に染まった運命も…呪いのように辿りつく」





さらさらと流れる川の、静かな夕暮れ。
紫紺へとかわりゆく血の色の空。
「甘い…?」
くすくすと微笑って、少年は片肘をついた。シードの腕がそっと抱き起こして、胸に持たれかけさせるようにするのに大人しく微笑んで 、身体をあずける。
青年はちいさな頤をもちあげて、ふわりと唇を重ねる。
「甘いか…?」
耳朶に低く囁きかける声に、今は死者と同じ少年が優しく頷いた。

紋章の力は僕らを殺した。
「僕は護ることしか出来なかった。」
「傷つけることしか出来なかった僕と」
「それだけが護れればいいと思ったものすべてを喪って、気付けば己の命すら蝕まれていた現実」
「この手を穢し、血に塗れ、人々の怨みを浴びて、ただ一つ己のものであるこの命を切り捨てて手に入れるはずだった未来」

すべて閉ざされ、命さえ尽きてもなにも手に入れることの叶わなかった絶望

肉づきの薄い、すべらかな胸を疵付けるくちづけ。
衣を剥ぎ取り、残光に仄か浮かぶ肌を剥き出しにする残酷な腕。
弱りきった躯、冷えた腕に熱を与える膚。
傷つけることで刃こぼれしていく鋭利な刃ならば、この身を鞘に。
振り下ろすべき剣にこの存在を。

ハウスキーパーのように一人黙々と働いていた青年は、水汲みに屋敷の裏手に廻った。
音だけが頼りの漆黒の闇、ただ周囲を包む河曲だけが…
ざわり、と総毛だつような気配に、クルガンは足を竦ませた。
見える筈の無い黒い流れの、最中、川面に立つ少年がゆっくりと振り返る。
「…見・つ・け・た」










(…ョウイ…、…ジ)

透明な水のはじける音。
自分があげているらしい、掠れた喘ぎを意識外のノイズに紛れさせてくれる。
両の腕を背に取られ、膝の上で上身を縛られた船首の女神のようにもがく細い躰を、青年の指がもどかしげに這い回っていく。
明確な羞恥と意識の混濁の狭間、零れる悲鳴を愛おしげに吸いとられ、剣持つ指の意外なくらい繊細な愛撫にかたくなな精神の抵 抗を絡め取られ、
「シー…ド…、シ…」
苦しいのか …のか
もうわからない
「ぁ、アァッ…」
はねるくらい過敏に反応するきゃしゃな身体を強く引き寄せられて
「─────── 。」
囁かれる言葉は心を、欲望が躯を繋ぐ。
青年は銀を折り混ぜたしなやかな亜麻色の髪を愛おしげに噛み、やわらかな唇を濡れた音をたてて探る。
「イヤだ…いや… …いや…」
泣きそうに繰り返し呟いて、昇りつめる。
鏡のような薄蒼の瞳に、表面張力で零れるのを堪える透明な膜。
ぽたぽたと滴り落ちる白濁が、内腿からつうっと伝い落ちた。
押し殺した息をついて、青年が動きを早める。
夢うつつのまま肩に、項にきつく口づけられて、意識せぬまま溢れた涙に梳けた髪が張りついた。
「シ…ド…」
強い腕が間際、細い咽の、細い息が止まるほどの力で抱き締める。
「俺を愛していますか…?」
逃げられないから抱かれているわけではないのだと
意外な我が侭さで自分を求める青年に ジョウイはちいさくうなずいた。






藤椅子に横たえられた、まま。
名を、呼ばれた気がした。
朧の底の意識に冷たい手が挿し入れられるようで

(何かがそばに…いる)
(気付かないのか…シード?)
夕闇に凝る、冷ややかな、神気と死気の混じりあった…ともかく人外のもの。
まだ痺れたような体は瞼を上げることさえ覚束ない。

ちゃりっと砂利を踏む音がして、シードが傍らに跪いたのがわかった。
汗ばんだ白い肌を、冷たい水に浸した布でそっと拭う。
身じろぎして、ぼんやりと見上げてくる少年の青灰銀の瞳から表情が読み取れなくてシードは瞬きした。
「ジョウイ様…?」
(…離れる。シードには…寄りつけないのか)
細い指先が、はだけた薄い上衣をぎゅっと握りあわせる。
「…ありがとう、シード」
掠れた声で少年は呟いた。
「はい…?」
なんのことやら。
シードは少年にやわらかな外套を着せ掛け、軽い身体を抱き上げる。
「さ、帰りましょうか…夕飯すっぽかされて、クルガンのやつがおかんむりでしょーから」
くっくっと愉快げに含み笑う青年に、ちょっと呆れたような風に表情を和ませる。
「お前の所為だろう…?」
「俺はちゃんと腹が減ってますよ」
カンテラをちょん、と持たせて抱いたまま歩き出す。
少年が微かに震えているのをシードが気付かなかったわけも無いのだが、当の主が腕の中で深い思考に沈んでいるように俯いてい るのに黙って嘆息する。

果たして食卓には
『あたためて食べて下さい』
との、そっけなくも硬質な筆調の書き置きが残されているのみであった。

「シチューだな…つくづく器用なやつ」
鍋の中にとろりと赤いシチュー。
味見して感心してるシードの、上着をくいくいっとジョウイは引っ張った。
「…いい加減に降ろしてくれないか?」
「おっと 失礼♪」
お姫様抱っこから、テーブルの上に腰掛けさせる。
…まともに歩けもしない少年は人形娘のようだ。
「シード…っ、テーブルの上なんかに…」
お行儀が悪い。ちょっとふくれるジョウイにシードはスプーンを突き出した。
「結構いけるぜ?」
一匙分のトマトベースシチュー。香草の良い香りがふわんと鼻孔をくすぐる。
くー、きゅる、とちいさく少年のお腹が鳴いた。
「おやおや? ここに」
悪戯っぽく臍の辺りをつついてくる、シード。
「仔猫でも飼ってんのか…?」
「シード!!!」
白い頬を淡く染めて抗議するように眉を顰める、少年の歳相応に幼い表情にシードも腹を押えてククッと笑い崩れる。
「なにがおかしい!
「…いや…おかしいっつーか、…可愛くて…」
「そんなに笑うことないだろう!」
叫んだ瞬間にぱくんとスプーンを口に入れられる。
「んん」
憤慨を塞がれる形になって、ジョウイは複雑極まりない表情で目線を落とした。
「……おいしい」
しゃっきりしてるのに綺麗に臭みの抜けた玉葱、微かに香ばしくて歯応えのある赤身の肉…シチュー本体の深みも甘さもあるとろりと した刺激が舌を這ってく。
「さて。俺は風呂の準備してきますから…火加減でも見ててくださいね」
腕まくりして出て行くシードをジョウイはなんとかテーブルから降りて見送った。
椅子を調理台の前まで引き摺っていって、ふう、と大きく吐息ひとつ。
深く腰掛けて、ゆらゆら透明な竈の火を見つめている、炎を映す瞳には痛みのフィードバック。
血と戦乱、罪悪の記憶。