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 深夜。

 日付が変わるより小一時間前に、私たちは準備をしはじめた。
 当麻くんから、念のため、と白いものをなげて寄越されて、見ると軍手だった。
 「一応着けとき。間違っても指紋採取されへんように」
 それから、マンションの住民に姿を見られないように、まず当麻くんが例の爆弾一式と懐中電灯をを持って外へ出、次いで私が後から、自分の自転車を押してマンションを出た。マンション前の旧国道を渡って、そこから淀川の堤防に出る道で落ち合う。

 「…何かスパイ活動みたいでドキドキする〜」
 良くも悪くも、私はまたしても緊張でかちこちになっていたが、彼は慎重ながらも精神的には落ち着いたものだった。
 「…ええで?別に麻智は家におっても。どうせ今日のは実験やし」
 「いや!アタシも傍におる。…別に手伝えるわけちゃうけど…」
 自転車の前カゴに荷物を入れると(何かそれも無造作で、モノがモノだけに私は非常にはらはらしたのだが)、当麻くんが自転車を漕いで、私は後ろの荷台に腰掛けて、彼の腰に、最初は遠慮がちに、腕を回した。…体温が伝わってくる。少し、違う意味でドキドキした。
 彼は自転車のライトをわざと消して、淀川沿いに堤防の上の道を暫く走った。暗いけど、天気が良く月も出ていて、星明りもあったので、目が慣れてくるとライトなしでも道くらい判る。

 途中、彼は突然自転車を停めた。え、と思ってると降りるように言われ、指示に従うと、自転車を預けられた。そして彼自身は懐中電灯片手に川の方、草の茂みがうっそうとしている一角に向かった。何だろうと思ってみていると、しばらく懐中電灯を使って何やら探していたが、どうやらその草の茂みに隠していたらしい、脚立を持って戻ってきた。
 「昼間買って隠しといてん。マンション持って帰ったら目立つし。出てく時も目立つやろ」
 で、また電灯は消して、彼はそのまま脚立を抱えて歩き、私は彼の横で自転車を押して歩いた。
 「何すんの、それ?」
 「ゆがみの中心に出来るだけ近い位置で爆発させたいから。ほら、最初俺空中に浮かんでた、ゆーてたやろ?で、この脚立を立ててその上に爆弾仕掛ける」
 「ああ、成る程」

 淀川沿いに暫く歩くと、例の天の川が合流する付近に出る。そこから右手に折れ、今度は天の川の堤防沿いの道を進むのだが、目的地よりはるか手前でまた止められた。目的地の側だと旧国道を通る車から目撃される可能性が高いので、今のうちに下の川岸まで下りると言う。
 「あそこ結構交通量多いからなぁ。昼間よりマシやと思うけど、トラックとかはむしろ夜間に多く通るし。本番前にちょっと一日の交通量調べて、一番車の少ないときにせんとなぁ。器物破損はしゃあないけど、人間巻き込むわけにはいかん。…前後の交差点の信号いじってちょっとの間、車けぇへんようにするか」
 「神様ここに犯罪者予備軍がいますー。お許しくださいー」
 わざとらしく祈ってやると、「そぉいうこという」と、呆れ顔をされる。暗くても、何となく表情が読めて、私はまた一人で嬉しくなった。

 彼はまず先に脚立を担いで下まで降り、そこに一端それを置いて戻ってくると、今度は二人がかりで自転車を抱えて下へ降ろした。川岸は、ずーっと目的地までコンクリートで固められ、道のようになっているから、自転車で走ることが出来る。で、何のための自転車かと言えば、爆破後素早く現場から離れるため…つまり、逃走用、というわけだ。
 でも、現場までは脚立を抱えて歩く当麻くんに合わせて私も自転車を押して行く。
 対岸の方には人家があるのだが、川のこちら側には大きな工場があるだけでそれがなく、人通りもないから、まぁ、河原にいることもあり、誰の目もありはしない。静かなものだ。二段構えで形成されている土手の草から秋の虫の涼しい声が、川のせせらぎとあいまって聞こえてくるだけ。
 ふと空を振り仰ぐと星が綺麗だった。頭上にも本物の天の川があるはずなんだけど、大阪の、このあたりからではそれもほとんど判らない。

 「天空の当麻が天の川に現れる、なーんて、考えたら出来すぎ」
 ふと気付いた偶然に、可笑しくなって私は小さくふふ、と笑った。
 「なぁ。何でよりによってここに飛ばされてきたんかな?…同じ異世界は異世界としてもや。小田原におってんやろ?こっちでも小田原あるのに、何で時空超えるだけじゃなくて場所的にも移動しちゃったんやろね」
 「…さぁなぁ。俺にも判らへん。まぁ、移動の運動エネルギーの関係かもな…」
 「ね、もしかして、時空歪められて飛ばされたとき、無意識に帰巣本能が働いたとか。ほら、ここ自分ちの近くやん。まぁ、世界としてズレはあるけど」
 「いや。それはないやろ」
 ちょっと思いつきで提案してみたが、あっさり否定されてしまった。

 「帰巣本能が働くならむしろ、俺は…」

 そこまで言って、彼は口を閉ざした。
 私はその続きが判るような気がして、少し、胸が痛んだ。
 きっと、彼が無意識に帰ろうとするのは、小田原のナスティの別荘なのだ。今では。



★☆★




 特に急ぐでもなく河原を歩いていた私たちは、じき目的地であるカササギ橋の見える辺りまで辿り着いた。
 「麻智、ストップ」
 橋に着くよりも二十メートルほど手前で止められる。
 「一応この辺まで安全域。まぁ、爆風はくるけど、大したことない」
 見ると、足元にぼんやり蛍光色に光る染みのような部分がある。
 「ああ。昼間に距離測って、蛍光塗料零して目印作っといてん。…一応、計算上は大丈夫なはずやけど…」
 「…とりあえず信じるよ」
 私は苦笑した。でも、自分の身に直接的な危険があるという不安はなかった。
 「OK。んじゃ、設置するから、麻智、自転車の頭向こうに向けた状態で、後ろで横倒しにしといてくれ。すぐ起こせるようにな」
 当麻くんは、いったん脚立を土手に立てかけ、自転車のカゴから爆弾その他を取り出しながらそう言った。私は言われた通り、自転車を反対方向…つまり、今来た方へ向けなおし、そこへ寝かせた。
 「そこの印のとこで待っとけ」
 後ろから声がして、振り返ると当麻くんが脚立を抱えて橋の下に向かってる。
 「あ、アタシも手伝うよ!」
 とっさにまだその辺に置いてあった明かりの消してある懐中電灯を持って後に続く。
 「設置にはライトいるやろ?手元照らすくらいは出来るもん」
 「…判った」
 来い、と言う風に彼が顎をしゃくったので、私は彼の元に駆け寄る。

 橋の下は、ただでさえ暗いのに星明りも届かないから余計に暗い。一人だったらこんなとこ、夜になんか絶対来ないなとか思いつつ、彼を見守る。
 そこにも蛍光塗料で目立たないけど印があって、彼はその位置に脚立を立てた。まず、自分がそこに登って、鎧珠を出して歪みを確認している。

 「ヤバイな…昼間来た時も反応がさらに弱まってたけど、ますます小さい」
 小声の彼の声は、時折橋の上を通り過ぎる車の振動音のせいで余計に聞き取りにくかった。
 「多分ラストチャンスやな。これで歪みが多少なり拡大できればしめたもんやけど…無理やったら、もう、空間の歪みは今日明日にも閉じる。この様子じゃ」
 脚立から飛び降りざま彼はそう言った。私はごくりと唾を飲む。



 ラストチャンス。もし…


 いや。おかしな想像は止めよう。どんなものでも、結果が全て。



 私たちはなるべく手早く爆弾の設置にかかった。といっても、設置自体は簡単で、当麻くんが筒状のそれを脚立の上に置き、点火装置に電池をセットした状態で(スイッチそのものは遠隔操作できるようにしたらしい。彼の手元に別にあるのだ)、紙テープを使って脚立に固定して終わり。

 「これでよし。戻るぞ」
 私は彼の手元を照らしていたライトを消し、彼に従って先ほどの目印の位置まで後退した。

 「これ。耳に詰めとけ」
 と、渡された物はどうやら耳栓のようだ。
 「音がな〜〜〜。俺もこれほどのを実際に爆発させたことないから、どのくらい響くか、感覚として掴めへん。なるべくご近所中が起き出して来るような爆音でないことを祈るばかりや」
 いいながら自分も詰めてる。私も頷いて、震える手で何とかそれを詰めた。
 「……」
 「え?何?」
 彼が何か言ってるが、耳栓のせいで聞こえない。それに気付いて、ため息ついて、彼は片方の栓を外し、私にもそうするようにゼスチャーで伝える。
 「何?」
 「大丈夫か?」
 「あ、うん」
 声が震えてる。私は自分の両手で自分の頬をパン!と挟み込むように叩いた。
 「大丈夫!さっさと片付けよ!」
 当麻くんは頷くと、軽く私の肩を二度ほど叩いてくれた。

 「頭低くしてうつ伏せに寝そべって。そう。手を前に組んで、顔庇っとけ。爆風緩むまでは絶対顔上げんなよ。故意には入れてへんけど、装置に使ってる金属やプラスチックの破片が飛んでくる可能性がある」
 「うん、判った」
 「頭を軽く二回叩いたら、スイッチ入れる合図やから。じゃ、耳栓して」
 私は指示に従って、ぎゅっと固く目を瞑った。緊張で、身体まで不必要な力が入ってがちがちに固くなる。
 けれど、言う通り防御したけど、本当はその必要もないくらいだった。彼が、片腕を私の頭に回し、抱え込むようにして、全身で護ってくれていたのだ。そのときばかりは本気で密着していたので、彼の鼓動が感じ取れたほどだ。うわあ、とそっちに気を取られてしまったとき、彼の手がとん、とん、と軽く私の頭で動き、そして。


 どむ、と鈍い音がしたような気がした。


 熱を帯びた突風が叩きつけるように私たちを遅い、思わず知らず小さな悲鳴が口から漏れた。
 爆風はほんの一瞬のもので、当麻くんの身体が私から離れたので、もう大丈夫なんだと判断して顔を上げ、耳栓をとる。その時には既に彼は爆破した中心地…歪みの場所へ向かって駆け出していた。見やると、立っていたはずの脚立は転がって、しかもひしゃげている。
 目を閉じていたから爆発そのものは見ていないので、規模が掴めないけど、相当な力があったことは確かだろう。辺りは焦げ臭く、煙っていたが、火気は残っていなかった。
 私は出遅れて、噎せながらも彼を追った。

 当麻くんは走りながら鎧珠を手にしていたようだった。橋の下まで来ると、邪魔な脚立の残骸を足で蹴ってどけ、珠を持つ手を上方、歪みの中心部へと伸ばす。
 暗いし、見えていたわけではないが、彼は必死の顔をしていたのではないかと思う。祈るような、と言い換えた方がいいだろうか。
 しかし。

 「…くそっ、アカン…っ!」

 彼は搾り出すような悪態をついて、上げていた手を叩きつけるかのように下へおろした。
 私は彼の方へ行きかけていた足を止める。


 祈りは届かなかったのだ。


 「天空の…力さえあったら…っ!」
 がっくり肩を落とし、鎧珠を抱え込むように握り締めて、彼は項垂れた頭をその珠につけた。その瞬間。



 一瞬、珠が青く輝いたのだ。パッと、まるで閃光のように強く。



 彼も気付いてはっと顔を上げたが、それは本当に一瞬で、次の瞬間には嘘のように消えて暗闇が戻っていた。訝しんで彼も、再度珠を掲げてみていたが、反応はなかったようでまた肩を落として首を振った。
 そのまま立ち尽くしてしまった彼の元へ行こうかと歩み寄りかけたとき、頭上から声がした。


 「ちょっと!さっき何か大きな音がしてんけど、何や?お前らそこで何してんねん!?」
 しまった。誰かに気付かれた。
 橋から少しこちらに寄りながら、堤防の上の道から誰か、男の人らしい誰かが顔を覗かせた。

 「走れ!」

 当麻くんは、次の瞬間には、足元の脚立の残骸を思い切り遠く、川の中のほうへ投げ入れながら(最初から廃棄するつもりでいたらしい)、私に怒鳴った。
 私は彼の意を正確に汲み取って、上から階段を探してこっちに来ようとしてるおじさんが呼び止める声を無視して、反転して駆け出し、転がしておいた自転車を急いで起こす。そのままハンドルを握って駆けながら押してると、すぐ後ろから走ってきた当麻くんが追いついて、左にいた私と反対の右側からハンドルを掴む。私は彼に自転車を委ねた。

 「乗れ!」

 走りながら自転車に駆け乗った彼がこう声をかけるまでもなく、私も並走しながらタイミングを合わせ、当麻くんの腰を掴んで荷台に横座りに飛び乗った。そのまま彼の腰に腕をぎゅっと回したのを合図に、当麻くんは自転車を猛スピードで漕ぎ出し、何か喚いてるおじさんはあっという間に後ろになった。
 その姿が見えなくなっても彼はスピードを緩めず、自転車を飛ばし、かささぎ橋が見えなくなって、淀川の手前まで来てやっと止まったが、ただ止まったのではない。私たちは立ち止まることなく、彼は降りると同時に自転車を抱え上げ、私もそのお尻の部分を支え上げるようにして、堤防の上の道に出る階段を一気に駆け上った。上に着くとまたさっさと自転車に二人して飛び乗って、淀川沿いを自宅マンションへ向かって疾走した。その間二人とも一言も喋らなかったが、やるべきことは判っていたので、阿吽の呼吸で動いてたと思う。

 必死だった。私は自転車の後ろで当麻くんにしがみつきながら、追っ手が来ないかと背後ばかり気にしていた。
 だが、幸いにも追いつけなかったのか、それとも追いかける程でもないと判断されたのか、追っ手がかかる様子はなく、私たちは無事にマンションに辿り着いた。
 しかし、マンションの駐輪場に自転車を止め、エレベーターで最上階に上がって自宅の鍵を開けて中へ入り、後ろ手にドアを閉めるまで、私は緊張し続けた。ドアを閉めたところで一応はぁ、と安堵ともなんともつかない吐息を大きく漏らしたが、それまでは二人とも口を閉ざしていた。

 私はそのままずるずると電気もつけていない玄関先に座り込んだ。当麻くんもそれは同じで、たたきと廊下の境の段差に腰掛け、脚の上に手を組んでその中に頭を埋めてしまっていた。
 自分の鼓動ばかりが耳についた。凄く煩くて、凄く苦しい。今頃になって震えがきて、私は自分の身体に腕を回して抱きしめた。落ち着こうと、震える息で深呼吸を繰り返す。


 そうしてどのくらい呆けていただろう。少し落ち着いてきた。耳を澄ますけれど、マンションの廊下は静かなもので、追っ手の気配など微塵もない。中に入ってから十五分くらいは経っていたのじゃないだろうか。多分、もう大丈夫だろう。

 私は顔を上げた。当麻くんもその時には顔を上げていて、膝についた片手で額を支えるようにして玄関の靴箱の一角を見るともなしに見ていたが、私が顔を上げた気配にこちらを向いた。暗かったけど、目は暗がりに馴染んでいたので、お互いの顔は認識できた。
 とりあえず一応は何とか無事に逃げおおせたのだから、普通だったら、この時、顔を見合わせて苦笑いくらい交わしていたろうと思う。でも、その気力さえなかった。



 ラストチャンス…私たちは失敗したのだ。



★☆★




 土曜日。

 結局私たちは明け方までまんじりともせず夜を明かした。流石にいつまでも玄関先に蹲ってはいなかったが、明かりをつけ、リビングに移動しても気分が晴れないのは同じだ。
 リビングに移ったとき、私は自分と彼の分と二つ、コーヒーを入れたが、彼のそれは手付かずのままソファテーブルの上で冷たくなっていった。
 爆発を通報されたのならパトカーのサイレンの音でも聞こえやしないかと思い、私は暫く道路に面したベランダの方に耳を澄ませていたのだが、結局そう言う事もなく、あのあとどうなったのかは知りようもなかった。明るくなったら一度確認に行くべきだろうか。
 私は冷めかけのコーヒーを一口すすった。

 「冷めちゃったね…入れなおしてくるわ」

 私はカップを二つとも持って席を立ち、キッチンへたった。少し寒い。十月も半ば近くなると流石に夜は冷え込んでくる。お湯が沸くのを待つ間、私は薄手の毛布を取りに行った。ひとつは自分のため、もうひとつはさっきからずっと、ソファに浅く腰掛けたまま微動だにしない彼の為に。
 「また風邪引いちゃうよ」
 彼にかける言葉を何も持たない私は、代わりにそっと毛布をかけてあげることしか出来ない。すると、彼が微かに頷いた。
 熱いコーヒーを入れなおして戻ると、テーブルにそれを置いて、私は席を変え、当麻くんの隣に移った。何となく、傍に誰かいる方がこういう時はいいような気がしたのだ。例え鬱陶しがられても、一人にしないほうが。
自分も毛布に包まって、私は熱いコーヒーをふぅふぅ冷ましながら少しすすった。

 「結果…聞かへんのな」

 やっと、彼はぽつりと口を利いた。

 「ああ…うん」
 「まぁ、聞かんでも判るか。…歪み…変化なし、どころかもうあれで閉じてもた…な」
 「え、でも…!でも、あの時、鎧珠輝かへんかった?…一瞬やったけど、確かに見たで?青い…光。初めてやん、そんなん。…反応あったんちゃうん?」
 「…うん。確かにあの一瞬だけ、何でか強い力を感じた。けど…。閉じる前の、最後の
揺らぎ…煌き、みたいなもんやったらしい…。あの一瞬だけで、次にはもう、全く反応がなくなってた」
 「けど…まだ…まだ判らへんで?も一回、あそこ行って確認しよ?な?ほら、あの時は邪魔が入ったからおちおち調査も出来へんかったやん」
 「…ああ。再確認はする。けど…」
 当麻くんは掛けられた毛布をかき寄せるようにして、背を丸めた。
 「…取り残されたな…八方手詰まり、かな?」

 そのまま再び押し黙った。

 取り残された。彼の言う通りなら。もし、もう彼の世界との唯一の繋がりが、完全に断たれてしまったと言うのなら。それが事実なら。

 彼の孤独は計り知れない…



 それきりもう、二人とも黙ってしまって、私はいろいろなことを考えたけど、どれもこれもとりとめがなく、彼の役には立ちそうもない事ばかりだった。
 彼は彼で、考え込んでいたけれど、もう私には彼の考えは読めなかった。


 そのまま明け方近くなってから、お互いにそこでいつの間にか眠っていたらしい。
 ベランダからの陽射しの眩しさで、浅い眠りから目が覚めたときには、もう九時を回ろうとしていた。


 「麻智、学校…」
 私が起きたのにつられて目覚めたらしい(流石に熟睡など出来なかったのだろう)当麻くんが、まだ眠気の残っていそうな目を無理やり開けて、時計を確認してこう言った。
 でも、私は首を横に振る。
 「いい。…行かへんから、今日はもう。…行く気になれへんし」

 相変わらず彼は覇気がなく、それがただ眠気のせいだけでないことは判りきっていた。こんな状態の彼を、とても一人になど出来ないし、そもそも実際、私自身が学校などどうでも良くなっていた。どうせ、行ったところで今からじゃ遅刻だし、今日は土曜日。半日だけだ。

 「…起きたんやったら、何か食べる?」
 「…ああ…。ああ、そやな。…シャワー借りていいか?」
 「うん。…スッキリしといで」

 そうして彼はバスルームへ姿を消し、私はキッチンに立って朝食の用意を始めた。トースターにパンを入れ、コーヒーを入れる。
 スクランブルエッグでも作ろうかと卵を割っていて、ふと、彼が初めてうちに来た夜のことを思い出した。あの時も、とりあえず彼をバスルームへ遣って、私はキッチンで食事を作りかけ…


 あの時彼は何をした?


 「当麻くんっ!」
 私は急に強い不安に捕われて、卵を割り入れたボウルを放り出して、バスルームへ駆けた。まさか。
 早まった事したり…

 バスルームからはシャワーの水音が聞こえる。すりガラスのドアの外からは中の様子が窺えない。私は彼の無事だけを思って、ガラス戸を思い切り引こうとしたが、中から鍵がかかっている。剃刀と赤い血。それしか頭になくなって、恐怖でいっぱいになった私は必死にガラス戸を叩いて彼を呼んだ。
 「当麻くん!当麻くん、ちゃんといるっ!?は、早まった事したらアカン、アカンからッ!!」
 拳で叩く、厚みのあるガラス戸はだん、だん、と鈍い音を立てて揺れた。シャワーの音が止まる。
 そして、戸惑ったような声が中から聞こえた。

 「…ま、麻智?どうかしたんか?」

 ああ。ちゃんと無事でいるじゃないか。
 私は気が抜けて、笑うでも泣くでもないような、何だかよく判らない安堵の声を漏らして、その場にへたり込んでしまった。

 「麻智?麻智、何や?何かあったんか、大丈夫か?」
 ガラス戸を内側から叩いて、彼が心配そうな声で尋ねてくる。心配していたのは私なのだが。でも、どうやらそれは杞憂だったらしい。
 「…ゴメン。何でもないねん、ただ…」
 「…ゴキブリとかか?…俺、今、裸やねんけど…。麻智そこにおったら、出るに出られへん」

 すりガラスだから、はっきり何が見えるじゃないけど、人影はしっかり判る。私は彼の一言で、急に今の状態を認識して羞恥に頬を染めた。
 「なっ、何でもないっっ!邪魔してゴメン!!」
 脱兎の如く、その場から離れてキッチンへ駆け戻る。それから一人で真っ赤になって、憤然と卵を必要以上に泡立ててしまった。

 ややあって、当麻くんがキッチンへ戻ってきた。
 「さっきの、何やってん?」
 「もーいいの!なんもないからっ」
 ぶすっとしながら、朝食をテーブルに並べる私を、彼は首をかしげて見ていた。言える訳がない。当麻くんが絶望して自殺を図るかと思っただなんて。
 馬鹿な私。彼がそんな、弱いわけがないのに。

 ふいに当麻くんが小さく苦笑した。

 「何か知らんけど。でも、ま、助かった」
 「え?」
 「ん…ちょっと流石に落ち込んでてんけど、麻智がゴキブリくらいで大騒ぎしたお陰で吹き飛んだ」
 「…も、もーっ、ゴキブリちゃうもん!人の気も知らんとぉ…」
 少し、からかうような意地悪な顔で私を見る。…完全に、私がゴキブリで怯えたと勘違いしているらしいこれは。
 でも、まぁ、いい。いちいち否定する気にもなれないし。何より少し、表情に余裕が戻っている。人をからかうことの出来る程度には。

 「…ね、もう…大丈夫やんな…?」
 小さく、聞き取れるか取れないほどの声で呟くと、彼が少し驚いたように私を見、それから微苦笑した。
 「…ああ」


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どうでもいい話ですが、天の川沿いの工場(倉紡)は今はなくなってるんで、広大な空き地が広がっております…
爆発に関しては、前回も書いてますが大変いい加減ですので。やー、実際はどのくらい大きな音するかなぁ?(笑)

 

 

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