《プロジェクト杉田玄白正式参加作品》

君主

ニッコロ・マキャヴェリ:著

永江良一:訳

この文書は
Nicolo Machiavelli:
The Prince
Translated by W. K. Marriott
を日本語訳したものです。
翻訳はeBook@Adelaideのテキストに基づいています。

2005年3月17日 公開
2005年3月27日 typo修正 第21章一部修正
2005年08月11日 秘密結社「じめじめ団」の梅雨空文庫版に基きタイプミスを訂正。

©2005 Ryoichi Nagae 永江良一
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この翻訳は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(帰属 - 同一条件許諾)の下でライセンスされています。
ご指摘、ご教示などありますれば永江良一まで


目次


第1章 何種類の君主国があるのか、それらはどういう手段で獲得されたか

人民をこれまで支配した、また今支配している、あらゆる国家、あらゆる権力は、共和国か君主国のどちらかです。

君主国は、一族が長い間不動のものとしてきた世襲のものか、新興の君主国のどちらかです。

新興の君主国は、フランチェスコ・スフォルツァのものとなったミラノのような完全に新興の君主国と、スペイン王の手中に落ちたナポリ王国のように、もともと君主国であったものが、それを獲得した君主の世襲国の付属物となったもののいずれかです。

こうして獲得された領土は、君主のもとで生きることに順応していたものか、自由に生きることに順応していたものかのいずれかであり、そしてそれは、君主自身の武力によってか他の者の武力によって獲得されるか、そうでなければ、運や才能によって獲得されるかのどちらかなのです。


第2章 世襲の君主国について

私は、共和国については別のところで詳細にわたり書いていますので、それにつ いての議論は割愛し、君主国についてだけお話しいたすつもりです。そうするこ とで、先に示しました順序に従い、こうした君主国をどのように支配し、保持す るべきかということを論じるつもりです。

ただちに言えることですが、新興の国家にくらべると、世襲の国家で、君主の一族に長い間慣れ親しんだ国を保持するほうが困難ではありません。というのは、自国でおのれを守るくらいの平均的な能力のある君主にとっては、なにか並はずれた過大な力で国を奪われないかぎり、その父祖の慣習を破らないようにし、その慣習が生じた情況を慎重に取り扱えば十分だからです。それに、奪われた場合、強奪者になにか災いが起れば、彼はその国を奪還するでしょうから。

イタリアでの例を上げると、フェラーラ大公は、長きにわたってその領土を保ってこなかったとしたら、1484年のヴェネツィアの攻撃に持ちこたえることができなかったでしょうし、1510年の教皇ユリウスの攻撃にも耐えることができなかったでしょう。というのは、世襲の君主には反感を抱かせる原因も少なく、またそうする必要も少ないのだから、より愛されることになり、よほどの悪行で憎まれないかぎり、臣民が当然その君主によく仕えるものと期待するのは理にかなっているからです。またその支配が古く長く続けば、変革を起すような記憶も動機も失しなわれます。なぜなら、ある変革というものは別の変革に歯形を残していくものですから。


第3章 混合した君主国

しかし新興の君主国には困難が生じます。まず第一に、完全な新興の君主国ではなく、もともと君主国であったものが、集約されて混成国家と呼ばれるものの一員となった場合には、変化は主にあらゆる新興の君主国につきまとう固有の難点から生じます。というのは、自分がより良い状態になるという希望を抱いて、人はよろこんで支配者を変えるものですが、この希望のせいで彼らは支配する者に抗して武器を取るからです。彼らは後になって経験によってさらに悪い状態になっていることを悟るので、その点では欺かれているのですが。このことから、別の当然でもあり普通でもあるような必然的結果を生じるのですが、いつもそのせいで新しい君主は、服属する人々を、その兵士によって、また新領土に課すにちがいない無数の苦役によって、苦しめることになるのです。

こうして君主は、その君主国を奪うときに傷つけたあらゆる人たちを敵にまわし、自分をその地位につけた人々も、彼らが期待したようには満足させることができないので、味方につけておくことはできず、しかも彼らに恩義を感じるため、彼らにたいして強硬な手段をとることもできないのです。というのも、たとえ武力では極めて強力であったとしても、その地方に入るには、いつだって土地の人たちの善意が必要なのですから。

こうしたわけで、フランス王ルイ十二世は、たちまちミラノを占領したものの、たちまちこれを失ったのです。最初のときは、彼を追い払うのにルドヴィーコの手勢だけで十分でありました。なぜなら、ルイ十二世に城門を開いた者たちは、将来の幸福という希望で欺かれたことを悟り、新しい君主の虐待に我慢できなかったからなのです。二度目に謀反の地を奪取した後では、その後そうやすやすとは失うことはないことは、まさに真実です。なぜなら、君主は、さして思いわずらうことなく、謀反の機会をとらえて謀反人を処罰し、疑わしい者を一掃し、自分の弱点を補強するからです。こうして、フランスがミラノを失うには、最初はルドヴィーコ公[1]が国境で暴動を起すだけで十分だったのに、二度目には全世界を彼に対抗させ、彼の軍隊を打ち破り、イタリアから駆逐することが必要だったのです。これは上に述べた原因から生じたことなのです。

にもかかわらず、ミラノは一度ならず二度までもフランスから奪還されたのです。最初のときの概略の理由はもう述べましたが、二度目の理由を挙げること、そして、フランス王にどんな算段があったのか、もしだれかフランス王と同じ立場に置かれたら、獲得した国を彼よりももっと確実に保持するにはどうしたらよいかを見ておくことは、まだやり残しています。

さて、君主が新に領土を獲得してもとからの国家に併合する場合、その領土は同じ国土で言語も同じであるか、そうでないかのどちらかです。同じ場合には、その領土を保持するのは容易ですし、自治に慣れていなければ、なおさらです。その領土を確実に保持するには、それまで支配していた君主の一族を滅ぼしさえすれば十分なのです。なぜなら、その他のことは旧態のままにしておけば、二つの領民は習慣に違いはなく、一緒に平穏に暮していくからです。それは以前からフランスに併合されてきたブルターニュ、ブルゴーニュ、ガスコーニュで見られる通りです。その地方では、言語が少し異るとはいえ、習慣は同じようなものであり、一緒にうまくやっていくのです。併合した君主は、その領土を保持したいのなら、二つの事柄を念頭に置いておくだけでよいのです。その一つは、以前の領主の一族を根絶やしにすることであり、もう一つは、法や税を変えないことです。そうすれば極めて短期間のうちに、新領土はもとの君主国と完全に一体となるのです。

しかし、言語も習慣も法も異る国土で国家を獲得すれば、そこには諸困難があって、その国家を維持するには幸運と多大な精力が必要となります。もっとも巧みで実際的な手立ての一つは、そういう国家を獲得したら、そこに行って住みつくことです。トルコがギリシアでやったのがこうしたことでした。その国を保持するため他の手段をどれだけ講じようと、移住しなかったなら、ギリシアを保つことはできなかったでしょう。なぜなら、現地にいれば、不穏な動きがあればすぐにわかり、たちまち鎮めることができますが、真近かにいなければ、聞きつけたときには騒ぎは大きくなっていて、もう手のつけようもないことでしょう。その上、国が配下の役人たちに略奪されることがなく、臣民は直ちに君主を頼りにできることで納得します。こうして、善良であろうとすれば、君主を慕う動機を持つことになり、善良であろうとしないのであれば、君主を恐れることになるのです。外部からその国に攻撃をしかけようとする者はおそろしく慎重にかまえざるをえません。君主がそこに住みつくかぎり、彼からその国をもぎ取るのは、非常に困難となるのです。

別のもっと良い方策は、国の要といえる二、三の場所に移民団を送ることです。というのも、こうするか、さもなければ多数の騎兵や歩兵を駐屯させることが必要だからです。君主は移民団にはそれほど経費をかけずにすみます。というのは、ほとんど出費をせずに、あるいはまるで費用をかけずに、移民団を送り出し、そこに留め置くことができるからです。君主は、新しい住民に与えるために土地や家を取り上げられる少数の市民だけは感情を害することになりますが、感情を害した人たちは、貧しく散在したままなので、君主に害を与えることができません。一方、他の市民は損害を受けず、容易に平穏を保ち、同時に、強奪された連中と同じことが我が身にふりかかることを恐れて、誤らないようびくびくするのです。要するに私が言いたいのは、こういう移民団は費用がかからず、忠実で、害をなすことも少く、また、もう述べたように、損害を蒙った者たちも貧乏で散在してるから、危害を加えることはできません。この点については、人間を好遇するか叩き潰すかどちらかであるべきだということに、注意しなければなりません。なぜなら人は軽い損害には復讐できるけれど、重大な損害には復讐できないからです。それで、人に損害を与えるときは、恐怖のあまり復讐できないような損害でなければならないのです。

しかし、移民団のかわりに武装兵を保持すると、もっと費用がかさみ、国家の全歳入を駐屯兵に費すことになります。そうなると国家全体に被害が及ぶので、領土の獲得が損になり、もっと多くの人を激昂させます。駐屯軍があちらこちらへ移動することで、だれもが辛苦をなめ、だれもが敵対的になります。そして彼らは自分の土地のうえに打ち倒されたとはいえ、まだ害をなしうる敵なのです。だから、どの理由からみても、こうした守備隊は役に立たず、移民団は有用なのです。

さらに、上に述べた点で異なっている国を保持する君主は、より弱小の近隣国の盟主にして庇護者となり、そのなかのより強大な国の力を弱めようとしなければなりません。そして、なにが起ころうと、自分と同じくらい強力な外国勢力がその地域に地歩を固めないよう注意を払わなければならないのです。というのは、すでに見たとおり、すぎた野望からか恐怖からか、不満を抱いた人たちがこうした勢力を導き入れるでしょうから。アエトリア人がローマ軍をギリシアに招き入れたのですが、ローマが地歩を得たところはどこでも、住民が彼らを招き入れたのです。そして物事の通常の流れとして、強力な外国勢力が侵入するとたちまち、服属国というものは、支配者にたいして抱く恨みにかられて、離反するのです。それで、こうした服属国については、外国勢力は苦労もせずにそれらを手に入れるのです。なぜなら、服属国の全部がその地を獲得した国のもとにたちまち結集するからなのです。服属国があまり大きな力や権限を持たぬよう気をつけさえすれば、自分の勢力とそれらの国の善意とで、その中のより強力な国を容易に抑えこむことができ、そうして国土の完全な主人という地位に留まるのです。こういう努めを適切に果さないと、得たものをたちまち失なうでしょうし、保持している間も、絶え間のない困難と厄介を抱えこむでしょう。

ローマ人は、属領とした諸国で、この方策をきちんと守ってきました。彼らは移民団を送り、弱小な勢力と友好な関係を維持しながらも、その力を増大させないようにして、強大な勢力は抑えこんで、どんな強力な外国勢力にも権威を得させることはありませんでした。例としてギリシアをあげておけば十分だと思います。ローマはアカイア人とアエトリア人とは友好を保ち、マケドニア王国を敗北させて、アンティオコスを追い払いました。けれども、アカイア人とアエトリア人が功績あったといって、その勢力を増大させることを許容してもらえることはありませんでしたし、ピリッポスを一度叩きつぶしてからでないと、彼の求めに応じて友好関係を結ぶことはありませんでした。またアンティオコスが影響力があるからといって、彼がその国土の主権を保持することを是認することもありませんでした。なぜなら、ローマ人はこうした事例で、分別ある君主ならだれもがすべきことをしたからなのですが、分別ある君主というものは、ただ現在の厄介事だけでなく、将来の厄介事も考慮するものなのです。将来の厄介事には全精力をつかって準備をすべきです。というのも、予見しておけば、それを治療するのはわけないのですが、さし迫るまで待っていると、薬がまにあわず、病は不治のものとなってしまうのです。消耗熱の場合、病気の初めには見立ては難しいが治療は楽なのに、初期に診察も治療もせずに、病状が進むと、見立ては楽でも治療は大変だと、医者は言いますが、この場合も同じです。国事の場合もこうしたことが起こるのです。というのも、生じる災いを予見したら(予見するのは賢い人にしかできないことなのですが)、すぐにそれを鎮めることができますが、見過ごして、だれにもわかるほどまで、災いが大きくなると、もはや手のほどこしようがなくなるからです。だから、ローマ人は難事を予見すると、ただちにその処理をし、戦争を避けるためだとしても、難事を危機的な状態に至らせることはなかったのです。なぜなら、戦争は避けられるものでなく、先送りにすれば敵方を利するだけだということを、彼らはわかっていたのです。そのうえ、ローマ人はピリッポスやアンティオコスとイタリアで戦わないために、ギリシアで戦おうとしたのです。彼らはどちらも避けえたかもしれませんが、そうは望まなかったのです。そして彼らは、当代の賢者がいつも口にする「時の恵みを享受しよう」という言葉に満足せず、むしろ自らの勇気と思慮の恵みを恃んだのです。というのも、時はすべてを駆り立てて、禍福ないまぜにもたらすことができるのですから。

では、フランスに目を転じて、フランスが今述べたことをやってきたかどうか調べてみましょう。私が話そうとしているのは(シャルル[2]ではなく)ルイ王[3]のことです。彼はかなり長い期間イタリアを領有したので、その行動はより検証しやすいのです。そして、彼がやったことは、さまざまな要素から成り立っている国家を保持するためにしなければならないこととは正反対のことだったことが、おわかりになるでしょう。

ルイ王はヴェネツィアの野望によってイタリアにやってきたのです。ヴェネツィアは彼の干渉によってロンバルディア地方の半分を手に入れようとしたのです。私は王のとったこの方針を非難しようとは思いません。なぜなら、イタリアに足掛かりを得たいと思いながら、その地に味方がおらず、それどころかシャルル王の行動のおかげであらゆる門戸が閉じられて、得ることのできる友好関係は受入れざるをえなかったのですし、もし他の問題で失敗さえしかなったなら、彼はその計画でたちまち成功していたでしょうから。

とはいえ、王はロンバルディアを手に入れると、すぐにシャルル王が失なった権威をとりもどしました。ジェノヴァは屈伏し、フィレンツェ共和国は友好関係を結び、マントヴァ侯、フェラーラ公、ベンティヴォリオ家、フォルリ夫人、ファエンツァ、ピサロ、リミニ、カメリノ、ピオンビノの諸侯、ルッカ共和国、ピサ共和国、シエナ共和国はみな、友好関係を結ぼうと申し出たのです。そうしてヴェネツィアは、ロンバルディアの二つの都市を確保するためにとった方策が軽率だったせいで、ルイ王をイタリアの三分の二の支配者にしてしまったことを悟ったのです。

さて誰にもさして困難もなく、王は、上に述べた規則を守り、友邦を安全にし保護しておけば、イタリアでのその地位を保持できたと思われました。というのは、それらの国々は、数こそ多いものの、あるものは教会を恐れ、あるものはヴェネツィアを恐れて、弱小で臆病であり、それでフランス王の味方とならざるをえず、王はその力を借りて、依然強力であった国から自分の安全を確保できたでしょうから。ところが、王はミラノに入るとすぐに、それと反対に、ロマーニャを占領しようという教皇アレクサンデルを支援したのです。この行動によって、自分から友邦や膝下に身を投げ出した諸国を離反させ、一方では霊的権限に世俗の権力を付け加えて、教会を強大にし、こうして教会により大きな権威を与えて、自らを弱体化させているとは、思いもしなかったのです。この最初の誤りを犯すと、それに追従せざるをえず、そういうわけで、アレクサンデルの野望に歯止めをかけ、トスカナの支配者となるのを阻止するために、イタリアへやってこざるをえなかったのです。

そして王は、教会を強大にし、友邦を離反させるだけでは足りないかのように、ナポリ王国を欲しがって、スペイン王と分け合おうとしたのです。イタリアの第一人者であったのに、共同者を引込み、そのおかげでその国の野心家や王にたいする不満分子に隠れ家となるものを与えることになったのです。そのうえ、ナポリ王国には王として自分の手先を据えることもできたのに、その手先を追い出して、反対にルイ王を追い出すこともできる人物を王に据えたのです。

領土を獲得したいという欲望は、実際、きわめて自然であたりまえのことであり、人はできるときには、領土を獲得するので、そのことでは称賛されても非難されることはありません。けれど、できないときに、なんとしても領土を獲得したがるなら、愚かで非難されるでしょう。だから、フランスが独力でナポリを攻撃できるのなら、そうすべきであったのですが、そうできないのなら、ナポリを分け合ってはならなかったのです。ロンバルディアをヴェネツィアと分割したことは、それでイタリアに足掛かりを得たかったという口実で正当化できるでしょうが、こちらの分割は、必要性という口実がないので、非難されて当然です。

その結果、ルイ王は次の五つの誤りを犯したのです。彼は弱小勢力を破壊し、イタリアのより強い勢力の力を増大させ、外国勢力を導き入れ、またその国に移住せず、移民団も送りませんでした。ヴェネツィアから支配権を奪うという六番目の誤りを犯さなければ、どの誤りも、彼が生きているうちは、彼に損害を与えるほどのものではありませんでした。なぜなら、彼が教会を強大にしたり、スペイン王をイタリアに引き入れたりしていなければ、ヴェネツィアを屈伏させるのは理にかない必要なことでもあったのですが、こうした行動に出たからには、ヴェネツィアの没落に同意してはならなかったのです。というのも、ヴェネツィアが強力であれば、ロンバルディア攻略から他国を排除できたからです。ヴェネツィアは、自分がロンバルディアの支配者になるのでなければ、他国の攻略に同意することはなかったのです。また、他国がヴェネツィアにロンバルディアを与えるために、フランスから奪おうとはしないし、この両国に衝突しようという度胸はなったでしょうから。

ルイ王は戦争を避けるために、アレクサンデルにロマーニャを、スペインにナポリ王国を譲ったのだと言う人があるでしょうが、私はこれに、上に述べた理由から、戦争を避けるのは、やってはならない大失策だと答えるでしょう。なぜなら、戦争は避けられず、躊躇すれば不利益になるだけですから。また、ルイ王は自分の結婚の解消[4]とルーアン[5]の帽子と引き換えに、教皇の企図を援助するという約束を果そうとしたと断言する人には、この後に、君主の信義はどういうもので、どう守るべきかを述べるので、それを返答とします。

こうしてルイ王は、諸国を手に入れ、それを保持しようとした人たちが守るべき条件になにひとつ従わなかったので、ロンバルディアを失なったのです。それにはなんの不思議もなく、理にかなったまったく当然の結果でした。教皇アレクサンデルの息子でチェザーレ・ボルジアとして知られるヴァレンティノ公[6]がロマーニャを占領していたとき、私はナントでルーアンの枢機卿と、この問題について話したことがありますが、ルーアンの枢機卿は私に、イタリア人が戦争というものが分っていないと述べたので、私は、フランス人は治国というものが分っていない、分っていれば教会をあそこまで強大にはさせなかったろうにと申したのでした。また実際、教会とスペインがイタリアで強大になったのはフランスのせいであり、またそれらによってフランスは没落したのです。このことから決して間違いのない、あるいはほとんど間違うことのない一般的法則が導き出されます。それは、他人を強力にする原因となる者は没落するということです。なぜなら、その者の抜け目なさかさもなければ力によって優勢となったのですが、勢力を得てしまうと、このどちらも信頼がおけないからなのです。

英訳の注

[1] ルドヴィーコ公とは、フランチェスコ・スフォルツァの息子ルドヴィーコ・モロで、彼はベアトリーチェ・デエステと結婚した。1494年から1500年までミラノを支配し、1510年に死去。

[2] シャルル八世、フランス王、1470年生、1498年没。

[3] ルイ十二世、フランス王、「国民の父」、1462年生、1515年没。

[4] ルイ十二世は妻のルイ十一世の娘ジャンヌと離婚し、ブルターニュ公国をフランス王国に確保するために、シャルル八世の未亡人のブルターニュのアンヌと1499年に結婚した。

[5] ルーアン大司教、ジョルジュ・ダンボワーズ。アレクサンデル六世により枢機卿に叙任。1460年生、1510年没。

[6] イタリアでは、ルイ十二世によってヴァレンティノ公爵に任じられたことから、こう呼ばれる。


第4章 アレクサンダー大王に征服されたダリウスの王国は、大王の死後、なぜその後継者に反乱を起さなかったか

新しく獲得した国家を保持するさいの困難さを考えてみると、アレクサンダー大王が数年でアジアの支配者となり、まださして身を落つける間もなく死んだ(それゆえ帝国全土が反乱してもよさそうなものなのに)、それにもかかわらず、その後継者たちは自らを守り、自分の野望からお互いの間で引き起こした困難以外にはなんの困難にもあわなかったのは、どうようにしてなのか、不思議に思う人たちもいることでしょう。

私は次のように答えておきましょう。記録に残るような君主国は、異なる二つのやり方のどちらかで統治されてきました。一つは、家臣団をひきつれた君主によって統治されるもので、家臣団は君主の恩顧と認可による大臣として、君主が王国を統治するのを補佐します。もう一つは君主と封建領主によって統治されるもので、封建領主は君主の恩寵ではなく血統の古さでその地位を保持しているのです。こうした封建領主は自分の国と臣民を持っていて、この臣民は領主を主君と認め、彼に自然な親愛の情を抱いているのです。君主とその家臣団によって統治される国家は、君主を最も重視しています。なぜなら、国中では君主より優ると考えられるものは一つもなく、また別の人に服従するなら、大臣や官吏としてそうするのであり、君主になにか特定の親愛の情を抱いたりはしないからなのです。

当代のこの二つの統治の実例は、トルコとフランス王です。トルコの君主国全体は一人の主人によって統治され、その他の者は彼の家臣であって、その王国は県に分割され、そこには種々の行政官が派遣され、この行政官たちは王の選ぶがままに異動変更されるのです。しかしフランス王は古くからの領主の一団のただ中にあるのであり、この領主たちは自身の家臣に主人として承認され、敬愛されていて、自らの特権を持ち、王はこの特権を危険を冒さずに奪い取ることはできないのです。だから、この二つの国家を考察してみると、トルコという国家を獲得するのはとても困難だが、一旦征服すればそれを保持するのはとても簡単だとわかるでしょう。トルコの王国を獲得するのが困難である原因は、強奪者が王国の諸侯に迎え入れらることなんてありえないし、王の側近たちの反乱でその征服計画が助けられることを望みうべくもないからです。これは上で挙げた理由から生じます。というのも、その大臣はみな奴隷だから、買収するのはとても困難で、買収できたとしても、述べてきた理由から、彼らに民衆がつき従うはずもなく、彼らからはほとんどメリットを期待しようがないからです。だから、トルコを攻撃する者は、トルコが一致団結していることを思い知り、他人の反乱よりも自分の兵力を恃みにするしかないということを、念頭におかなければなりません。しかし、一旦トルコを征服し、その軍隊を立て直せないほどに戦場で敗走させれば、君主の一族以外に恐れるものはなく、この一族を根絶すれば、他には民衆に信頼されるものはいないので、恐れるものはなにも残りません。勝利の前には民衆をあてにできなかったと同じように、勝利の後では民衆を恐れる必要はないのです。

フランスのように統治されている王国では、逆のことが起ります。なぜなら、いつでも不満分子や政変を望む者が見つかるので、王国の領主のだれかを味方につければ、簡単にそこに侵入できるからです。こうした者たちは、さっき述べた理由から、その国へ入る道を開き、勝利を容易なものとしてくれます。しかし、その後もその国を保持しようとすると、助けてくれた者たちからも、打ち破った者たちからも、無数の困難に見舞われるのです。君主の一族を根絶するだけでは足りません。なぜなら、残った領主たちは新たな反抗行動の頭目となり、彼らを満足させることも根絶することもできないので、機会が到来すればいつでも、その国を失うことになるのです。

さて、ダリウスの統治の本質がどうであったかを考えてみると、それがトルコの王国に似ていることがわかります。だから、アレクサンダーはまず戦場でダリウスを打ち倒し、それから彼から国を奪い取ることだけが必要だったのです。この勝利の後、ダリウスは殺されたので、上述の理由から、国家はアレクサンダーの手に確保されました。そしてアレクサンダーの後継者たちは、結束しているかぎり、確実かつ容易にこの国を享受できたのです。というのも、彼ら自ら引き起こした以外には、王国には騒乱が起こらなかったのですから。

しかし、フランスのような構成の国家を平穏のうちに保持するのは不可能です。それで、スペイン、フランス、ギリシアでは、多くの君主国があったせいで、ローマ人にたいする反乱が多発し、そういう君主国の記憶が残るかぎりは、常にローマ人は不安定な領有しかできませんでした。しかし帝国の支配力とそれが長く続いたことで、その記憶が払拭されて、ローマ人の領有は確実なものになったのです。そしてそれ以後、互いに戦いながら、それぞれがそこで勝ち得た権力にしたがって、国内の固有の部分を付加していったのです。以前の領主の一族は根絶されているので、ローマ人以外には権威を認められることはありませんでした。

こうしたことを思い起せば、アレクサンダーが容易にアジアの帝国を保持し、それ以外のピュロス等々の多くの者たちが、獲得した国を維持するのに困難をきわめたことは、驚くにたりません。それは征服者の能力の多寡のせいで生じたのではなく、置かれた状況が同じではなかったせいなのです。


第5章 併合される前は独自の法のもとで暮していた都市や君主国を統治する方法について

もう言ってきたような獲得された国家が独自の法のもとで自由に生活するのに慣れてきたところでは、その国家を保持したいと思う人には三つの進路があります。その一つ目はこうした国家を破壊すること、次には本人がそこに住むこと、そして三番目は彼らが独自の法のもとで生活することを許して、租税を取り立て、内部には友好関係を保つ寡頭政権を確立することです。なぜなら、こうした政府は、君主によって生み出されたのであり、君主の友好と権益がなければ立ちいかないことを知っており、君主を支援するため最善をつくすからです。だから自由に慣れた都市を保持したいのであれば、他のいかなる手段にもまして、その市民たちを使えば、その都市を容易に維持できるでしょう。

例として、スパルタ人とローマ人をあげましょう。スパルタ人は寡頭政権を立ててアテネとテーベを保持しましたが、それにもかかわらず、両市を失しないました。ローマ人は、カプア、カルタゴ、ヌマンシアを保持するために、それらを破壊し、そしてそれらを失しなうことはありませんでした。彼らはスパルタ人がやったようにしてギリシアを保持したいと思い、ギリシアを自由にし、独自の法を持つことを許しましたが、成功しませんでした。それで、ギリシアを保持するためには、その地域の多くの都市を破壊せざるをえませんでした。というのは、実際のところ、そうした都市を保持するには、それを破壊する以外に確実な方法がないからです。そして、自由に慣れた都市の支配者となりながら、その都市を破壊しない者は、その都市によって破滅させられるものと思われます。なぜなら、反乱の際に都市は、勢力回復の契機として自由というスローガンと古くからの特権を持っているのですから。この二つは、どんなに時を経ようが、どんな恩恵を施そうが、忘れさられはしないのです。そして、それにたいして、何をしようが、どう対策を講じようが、都市は四散五裂していなければ、自由という名や自分たちの特権を忘れることはけっしてなく、あらゆる機会にそのもとへと直接糾合します。ピサは、フィレンツェに隷従してから百年の後に、そうしたのです。

しかし、君主のもとで生活するのに慣れ、しかも君主の家系が絶えた都市や地域では、一方では服従するのに慣れ、他方では古い君主がいないので、自分たちの間から君主を立てるのに合意することができず、また自己統治のやり方もわからないのです。こういう理由から、彼らは武器を取るのが極めて遲く、君主は彼らを味方につけることができ、やすやすと確保することができるのです。しかし、共和国ではもっと活力があり、憎悪も大きく、復讐心に富んでいて、以前の自由の記憶を決して忘れようとはしないので、もっとも安全な方法は、共和国を破壊するか、あるいはそこに住みつくことなのです。


第6章 自分の軍隊と力量で獲得した新しい君主国について

これから私がしようとする全く新しい君主国についての話で、君主についても国家についても最高の事例をもちだしたからといって、驚いたりしないでください。なぜなら、人間というものは、たいていの場合、他人が踏み固めた道を歩き、その行為をまねることで追従するものですが、他人の通った道を完全に辿ることもできないし、まねしようとする相手の力を手に入れることもできないからです。賢者はいつも偉人の踏み固めた道を辿り、至高の人のまねをするべきです。そうすれば、たとえその能力がそうした偉人に匹敵するものでなくても、少くともその風味を身につけることになるでしょう。あまりにも遠くに思われる的を射ようと思い、しかも自分の弓の力がどこまで届くか知っている賢明な射手は、的よりもっと高みを狙い、そのことで自分の力なり矢をそのような高みに届かせようとするのではなく、目標より高いところを狙うことで、射たい的に当てることを可能にするものですが、それと同じようにふるまうべきなのです。

だから、全く新しい君主国では、そこには新しい君主がいるわけですが、その国家を獲得した者の能力の多寡に応じて、そういう国家を維持する難しさに多寡が生じると言えるでしょう。さて、私人の状態から君主になるといった事態は才能か幸運のどちらかを前提条件にしているのだから、こうした二つのもののいずれも多くの困難をある程度は軽減するだろうことは明かです。それにしても、幸運に頼ることの少い者のほうが強固な地位を確保するのです。さらに言えば、君主が他に国家を持っておらず、本人自らがそこに住みつかざるをえないときのほうが、事態を容易にするのです。

しかし、幸運によってではなく自らの才能で君主に成り上った人たちに関するなら、モーゼ、キュロス、ロムルス、テーセウスといった人たちがその最も優れた実例と言えます。そしモーゼはただ神の御意志の執行者であるとして、誰もモーゼのことは吟味しようとはしませんが、とはいっても、神と語らう価値のあるものとした恩寵だけでも、彼を称賛すべきでしょう。しかし王国を獲得したり創建したキュロス等の人たちのことを考えると、全員が称賛に値することがわかります。彼らの個々の行動や振舞いをよく考えてみると、モーゼはかくも偉大な授戒者を持ったとはいえ、彼らがモーゼの行いに比べ劣ってるとは思えないのです。そして、彼らの行動や人生を検討してみれば、彼らが好機以上に運に頼ったわけではなく、その好機は彼らに最良と思われる形にかたどる素材をもたらしたのだいうことがわかるでしょう。そういう好機がなければ、彼らの精神の力は消え失せたでしょうし、またそういう力がなければ、好機も虚しいものとなったでしょう。

だから、モーゼにとって、エジプトのイスラエルの民が束縛から解放されようと彼に従う気にさせるためには、彼らがエジプト人に奴隷にされ抑圧されていることが必要でした。ロムルスがローマの王となり父祖の地の建国者となるためには、彼はアルバにとどまることなく、また生れ落ちるとすぐに捨てられることが必要でした。キュロスはペルシャ人がメディア人の統治に不満を抱き、メディア人が長い平和の軟弱で女々しくなっているのを知ることが必要でした。テーセウスはアテネ人が四散しているのを知らなければ、自分の才能を発揮できなかったことでしょう。こうした好機は、ですから、こうした人たちに幸運をもたらし、またそのすぐれた才能が彼らに好機を気付かせてくれました。この好機によって彼らの国は高貴なものとなり、有名になったのです。

これらの人と同じように武力によって君主となった者は、君主国を獲得するのに困難を伴うけれど、それを維持するのは容易です。君主国を獲得する上での困難は、一部は、彼らがその政権や保安を確立するために導入せざるをえなかった新しい規則や方法から生じるのです。そして、新しい秩序の導入の先頭にたつこと以上に、着手するのが難しく、行うのが危険で、成功が不確かなものにことを思い起すべきです。なぜなら革新者にとって、古い状況ではうまくやっていた人全員が敵であり、新しい状況でうまくやれそうな人はいいかげんな味方でしかないのですから。この冷淡さは一部は、反対派が自分たちの側に法を握っているので、彼らにたいする恐怖から生じます。また一部は、人間というものは新しい事物を長く経験してからでなければ簡単には信じないので、その猜疑心からも生じているのです。こうして、敵意のある人たちには遊撃隊のように攻撃の機会があり、一方ではその他の人たちは防衛に不熱心であれば、こうして君主は彼らとともに危険に陥ることになるのです。

ですから、この問題を隅から隅まで語りつくそうとしたいなら、こうした革新者が自らを恃むのか他人をあてにしているのか、すなわち、その事業を完遂するために祈るしかないのかそれとも力を行使できるのかを調べることが必要です。第一の場合はいつも上手くやりおおせず何事も達成できません。しかし、自らを恃みしかも力を行使できるなら、危険にさらされることは、ほとんどありません。それで、武装した預言者はみな勝利し、武装なき預言者は身を滅ぼしたのです。こうした理由のほかに、人々の本性は変りやすく、それで、彼らを説得するのは簡単ですが、その説得を受け入れたままにしておくのは難しいのです。こうして、彼らが信じなくなったときは、力ずくで信じさせることが可能となるような手段を講じることが必要なのです。

もしモーゼやキュロス、テーセウス、ロムルスが武装していなければ、自分たちの制度を長きにわたって押しつけることはできなかったことでしょう。それは私たちの時代にジロラモ・サヴォナローラ師の身に起ったのと同じことです。彼は大衆がもはや彼を信じなくなるとすぐに彼の新しい秩序とともに滅びました。そして、彼を信じてきた者をしっかりとつなぎとめ、信じていない者に信じさせる手段を持っていなかったのです。したがって、こうした人たちはその事業を成し遂げるのに大きな困難を抱えています。というのも、その危険はしだいに増大するからですが、それでも彼らは才能でそれらを克服していくのです。しかし、それらが克服され、彼らの成功を妬む人たちが根絶されると、彼らは尊敬されるようになり、その後は強大で安全で名誉ある幸福な状態が続くでしょう。

こうした偉大な事例にやや劣る一事例を加えておきましょう。やや劣るとはいってもそうした偉大な事例に似たところがあり、私は同様の事例すべてを十分代表するよう加えておきたいのです。それはシラクサのヒエロン[7]の事例です。この人は一私人の境遇からシラクサの王に成り上ったのですが、好機以外には運命の恩恵は受けませんでした。というのは、抑圧されていたシラクサ人は彼を自分たちの指揮者としたのであり、その後、その見返りとして自分たちの王としたのですから。彼は一私人としても大層な才能があり、彼について書いた人は、王として欠けていたのは王国だけだったと述べています。この人は古い軍制を廃止して新しい軍制を組織し、旧来の同盟を断って、新しい同盟関係を樹立しました。そして自分の軍隊と同盟者を手に入れると、こうした基盤の上に大建造物を築くことができたのです。このように彼は王国を得るには多くの苦労に耐えましたが、それを維持するにはほとんど苦労知らずでした。

英訳の注

[7] ヒエロン二世、およそ紀元前307年生、紀元前216年没。


第7章 他人の軍隊か幸運かによって獲得されて新しい君主国について

ただ幸運によってだけ私的な市民から君主となった者は、労せずに成り上がったのですが、頂点に留まり続けるには多難を極めるでしょう。彼らは突然その地位についたのだから、登りつめる道すがらにはなんの困難もなかったのですが、頂上にたどりつくと多くの困難が待ち受けているのです。どこかの国家を金銭と引き換えで、あるいは譲ろうという人の好意で手に入れた人たちも同様です。それはギリシアではイオニアやヘレスポントスの多くの都市で起こったことでした。その都市の君主はダリウスよってその地位についたのですが、それはダリウスの安全と栄光のためにその都市を維持させるためでした。また兵士の腐敗によって市民から皇帝になった場合も同様でした。こうしたことは彼らを登用した者の善意と幸運に依拠しているだけですが、この二つはもっとも変りやすく不安定なものなのです。彼らはその地位に必要な知識を持ち合わせてはいません。なぜなら、よほどの資産と才能に恵まれていなければ、ずっと私人の状態で暮してきたのに、命令のし方を知っていると期待するのが無理というものですから。また、彼らは味方となり忠実でありつづけるような手勢を持っていないので、その地位を保持することもできないのです。

思いがけず勃興する国家というものは、自然界の生れてはたちまち成長する他の事物と同様、しっかりした土台もなく、最初の嵐で転覆されないような安定した国家とは似たところもないのです。[ここに英訳注8があったのですが、省略しました。]言ったように、予期せず君主となった人たちが才能に恵まれていないかぎり、幸運がその膝に投げてくれたものを直ちにつかむだけの用意もなく、また彼が君主となる以前に他人がしつらえてれた土台を、後になって築かざるをえなくなるのです。

才能によるか、幸運によるかという君主に成り上るこの二つの方法に関して、記憶の中から二つの事例を挙げておこうと思います。それは、フランチェスコ・スフォルツァ[9]とチェザーレ・ボルジアの例です。フランチェスコは、適切な手段と大きな才能によって、一私人からミラノ公に成り上ったのですが、彼は獲得するのに幾多の苦心を重ねたのに、維持するにはほとんど苦労しませんでした。一方チェザーレ・ボルジアは、人々からはヴァレンティノ公と呼ばれましたが、父親の隆盛によってその国家を獲得し、父親が没落するとそれを失ないました。そうではあるけれど、他人の軍隊や運が彼に授けてくれた国家に根をしっかり張るために、あらゆる手立てを尽し、賢明で有能な人物がなすべきことをすべて行なったのです。

なぜなら、前に述べたように、最初は基盤を築いていなかった者も、大きな才能があれば後から基盤を築くことができるでしょうから。しかし、建築家は苦労をしょいこみ、建物には危険が伴うことになるでしょう。ですから、公のとったすべての道程を考察するなら、その将来の権力のための確固たる基盤を築くものであったことがわかるでしょう。私はそのことを議論するのが不必要なことだとは思いません。なぜなら、その行動という実例以上に、新しい君主に与える優れた教訓というものを、私は知らないのですから。そして、彼の手配がなんら役に立たなかったとしたら、それは彼の落度というより、運命の尋常ならざる極端な悪意のせいなのです。

アレクサンデル六世がその息子の公を強大にしようとしたとき、当面のまた将来の数多くの困難を抱えていました。まず第一に、彼を教会領以外の国家の主にする道はありませんでしたが、もしすすんで教会領を奪おうとすれば、ミラノ公やヴェネツィア人が同意しないのはわかっていました。というのは、ファエンツァとリミニはすでにヴェネツィア人の保護下にあったからです。そのうえ、イタリアの軍隊、特に援軍としたい軍隊は、教皇が強大化になるのを恐れる者たち、つまりオルシーニ家とコロンナ家、その追従者の手に握られていました。だから、こうした情勢を覆し、諸勢力を紛糾させて、その国家の一部を確実に支配下に置くことは、当然のことであったのです。これは彼にとって、たやすいことでした。というのは、ヴェネツィア人たちは、別の理由に突き動かされて、フランス軍をイタリアに呼び戻そうとしていたからです。彼はこれに反対しなかっただけでなく、ルイ王の前の婚姻を解消することで、それをいっそう容易にしました。それで、ヴェネツィア人の支援とアレクサンデルの同意のもとに、王はイタリアに侵入したのです。王がミラノに入るや、教皇はロマーニャ攻略のための兵を王から借り受け、王の威信のもとロマーニャは教皇に屈っしました。こうして、公はロマーニャを獲得し、コロンナ家を打倒し、ロマーニャを保持してさらに歩を進めようとしましたが、二つのことがそれを邪魔したのです。一つはその手勢が彼に忠実でないように思えたこと、もう一つはフランスの意志でした。つまり、それまで使ってきたオルシーニ家の手勢が彼の味方とならず、彼がそれ以上勝利するのを阻むばかりか、彼が勝ち得たものを簒奪しようとし、また王も同様であることを、公は恐れたのです。オルシーニ家については、ファエンツァを得た後、ボローニャを攻撃したとき、彼らがいやいや攻撃に赴いていることが判ったとき、警戒心を抱きました。また王については、ウルビーノ公国を得た後、トスカーナを攻撃したとき、王がその企図を思い留めようとして、その腹積りを悟ったのです。そこで、公はもはや他人の軍隊や運に頼るまいと決心しました。

まず手始めに、彼はオルシーニ党とコロンナ党の支持者の貴紳を自分の側へ引き入れ、自分の貴紳とし、よい報酬を与え、その地位にしたがって、文官や武官として厚遇し、こうして数ヶ月のうちには、両党派のとりまきは切り崩され、完全に公の側に寝返ったのです。これによって公はローマにおける両党を弱体化したのでした。こののち公は、コロンナ家の支持者を追い散らしてしまうと、オルシーニ家を壊滅する機会を待ちました。その機会はすぐに訪れ、公はその機会を巧みに利用しました。というのは、オルシーニ家は、公や教会の強大化は自分たちの滅亡であることにやっと気づくと、ペルージャ領内のマジョーネに会したからです。このことから、公にたいする際限のない危難となった、ウルビーノの反乱やロマーニャの騒乱が起きたのですが、公はフランスの助力でこれに打ち勝ったのです。公はその権力を回復すると、フランスやその他の外国の勢力を信用して危険にさらされないよう、策謀をめぐらせましたが、その考えをうまく隠したので、パオロ・オルシーニ卿の仲介―公はそれを確かなものとするため彼に金銭、衣裳、馬を贈った―によって、オルシーニ家は和解し、その単純さから、シニガリアで公の手のうちに落ちたのでした[10]。その領袖たちを皆殺しにし、その一味の者を味方として、公は十分に確固とした権力基盤を築いて、ロマーニャ全土とウルビーノ公国を手に入れたのでした。そして今や人々がその繁栄を謳歌しはじめると、公は完全に彼らを味方につけたのでした。この点は注目に値することで、他の人もまねるべきところであり、私は無視するわけにはいかないのです。

公がロマーニャを領有してみると、そこが意志の薄弱な支配者のもとにあったことを悟りました。その支配者たちは臣民を支配するのでなくて収奪し、その団結をはかるどころか分断の種をまき、国中に強盗や諍い、ありとあらゆる暴力沙汰がはびこっていたのです。そこで公は平和と権威への服従を取り戻そうと思い、優れた総督を送り込むことが必要だと考えました。そこでラミロ・ドルコル卿[11]という敏速で残忍な男を登用し、全権を委ねたのです。この男はたちまち首尾上々に平和と統一を回復しました。その後、公はこのような過度の権限を与えるのは賢明ではないと考えました。というのは、憎まれるのではないかという疑いをもったからです。そこで国内にもっとも優れた裁判長のもとに裁判所を設置し、そこに全都市がその弁護人を置くようにしました。そして、過去の苛烈が公自身にたいする恨みを引き起こしているのを知ったので、人々の心のうちで公自身を清廉なものにし、人々を完全に自分が取り込むために、残忍なことが行われたとすれば、自分に原因があるのではなく、代官の厳格な気性のせいだということを示そうと望んだのです。この口実でラミロを捕え、ある朝、彼を処刑して、木片と血塗りのナイフを傍らに置いて、チェゼーナの辻に晒しました。この残忍な光景に、人々は直ちに満足するとともに狼狽したのでした。

さて、私たちの出発点に立ち戻ってみましょう。公は今や十分に強力となり、それなりに自分の軍備を整えることで、ある程度は目の前の危難から安全となり、彼に損害を与えるような近隣の諸勢力はあらかた粉砕したので、彼がさらに征服の歩を進めたければ、次に考慮すべきなのはフランスのことでした。というのは、フランス王は自分の過ちに気付くのがあまりに遅すぎたのですが、もう公を支援しないことは、公にはわかっていたからです。そこでこれ以降、公は新しい同盟者を捜しはじめ、ガエタを包囲したスペイン軍に対抗してフランスがナポリ王国へ遠征したさいには、フランスにたいして日和見を決めこんだのです。公の意図はフランスから我が身を守ることでした。もしアレクサンデルが生きてさえいれば、このことはたちまち達成できたことでしょう。

これが当面の事態にたいする彼の方針だったのです。しか将来にたいしては、彼は、そもそも、教会の新しい後継者が彼に友好的でなく、アレクサンデルが与えてくれたものを取り上げるのではないかと恐れざるをえませんでした。そこで次の四つのやりかたで行動しようと決断しました。第一は、これまで略奪してきた領主に一族を根絶やしにして、教皇に口実を与えないようにすることでした。第二には、もう見たように、ローマの貴紳をみんな味方にして、その助力で教皇を抑制できるにようにすることでした。第三は、聖職者団体をもっと自分寄りに変えることでした。第四には、現教皇が死去するまえに、自分の手立てで最初の衝撃に耐えられるようにするため、もっと権力を手に入れることでした。この四つの事柄のうち、アレクサンデルの死去の時点では、三つが完了していました。というには、地位を奪われた領主のうち、襲うことのできた大多数は殺し、難を逃がれたのはわずかだったし、ローマの貴紳は味方につけ、聖職者団体では最大派閥を擁していたのです。そして新しい領土獲得については、トスカーナの主になるつもりでした。というのはもう既にペルジアトピオンビオを得ていたし、ピサは彼の保護下にあったからです。そしてもうフランスのことを気にかける必要がなくなった(なぜなら、フランスはスペイン軍によってナポリ王国から駆逐され、こうしてフランスとスペインの双方とも彼の好意を買わざるをえなかったから)ので、ピサを急襲したのです。この後、一部は憎しみから、また一部はフィレンツェ人にたいする恐れから、ルッカとシエナはすぐに屈っしました。またフィレンツェ人に回復策がなかったら、彼は成功を続けていたでしょう。アレクサンデルの死までは成功してきたように。というのは、彼は大きな権力と名声を得て、自立しており、もはや運や他人の勢力に依らずに、自分の権力と才能だけでやっていけたでしょうに。

しかし、彼が初めて剣を抜いてから五年のうちにアレクサンデルは死去したのです。彼が公に残したのは、ロマーニャの国家が唯一確固としたもので、残りは強大な敵軍の間に無夢散し、それと死に至る病なのでした。けれど、公には途方もない大胆さと才能があり、どうすれば人を味方につけ敵にまわすか、よくわかっていたし、また極めて短期のうちに築いた基盤はとても強固なので、こうした敵軍に苦しめられたりせず、健康であったら、公はあらゆる困難に打ち勝ったことでしょう。わかるように、その基盤はしっかりしていました。というのは、ロマーニャは一月以上も彼を待ち続けたのです。ローマで、彼は半死半生でしたが、身の安全は確保されていました。また、バリオーニ家、ヴィッテリ家、オリシーニ家の者たちがローマに来たとはいえ、彼にたいしてなにも成しえなかったのです。彼が望む者を教皇にすることはできなかったにしろ、少くとも望まない者が選出されないようにはできたはずです。アレクサンデル死去[12]の際に健康な状態にあったなら、すべては彼に都合よくことが運んだことでしょう。ユリウス二世[13]が選出された日に、彼が私に語ったのは、彼の父親が死んだら起こることはすべて考え、あらゆることに回復策を用意してあったが、実際に父親が死んだときに、まさか自分自身が死にかけるとは、思いもしなかったということでした。

公がとった行動をすべて思い返してみると、私には彼を非難すべきところは見当らないどころか、これまで述べたように、運と他人の武力で統治者に成り上がった人はみな彼を見習うよう勧めたいほどです。なぜなら、彼は高邁な精神と広大な目的を抱き、これ以上はやれないほど自分の行為を統御したのですが、ただアレクサンデルの短命と自分の病によって、その企図を阻まれたのですから。それだから、自分の新しい君主国で自分自身の身の安全を確保し、味方を増やし、武力か策略で制圧し、自分を人々から敬愛されるとともに畏怖されるようにし、兵士に従われかつ敬われ、彼を傷つけるだけの力と理由のある者たちを根絶し、古い制度を新しい制度に変え、苛烈にして慈悲深く、寛大でかつ気前よくし、不忠の軍隊を解体して新しい軍隊を創設し、王侯君主とは友好を保って、彼らが熱心に彼を援助し、困らせるにも慎重を期さざるをえないようにすることが、必要だと考える人には、この人の行動ほど生きいきとした実例は見つからないでしょう。

唯一彼がとがめられるのは、ユリウス二世の選出についてだけです。彼は過った選択をしたのです。なぜなら、言ってきたように、彼の意に沿う教皇を選出できなくても、それ以外の者が教皇に選出されるのを邪魔することはできたはずですから。それで、彼が傷つけたことのある枢機卿や教皇になったら彼を恐れる理由のある枢機卿が選出されることに、同意すべきではなかったのです。というのも、人が危害を与えるのは、恐怖か憎悪のどちらかによるからなのです。とりわけても、彼が傷つけた者というのは、サン・ピエトロ・アド・ヴィンクラ、コロンナ、サン・ジョルジョ、アスカニーオでした[14]。ルーアンとスペイン人以外の他の誰が教皇になっても、彼を恐れたでしょう。スペイン人はその親族関係と恩義から、ルーアンはフランス王国と彼との関係で、彼の影響下にあることから、彼を恐れることはなかったのです。だから、公は何よりもまず、スペイン人の教皇を立てるべきであり、それに失敗したなら、サン・ピエトロ・アド・ヴィンクラではなく、ルーアンを承諾すべきだったのです。お歴々に新しい恩恵を施せば、古傷を忘れてもらえると信じる者は、欺かれます。こうして、公はその選択を誤り、それが最終的な破滅の原因となったのです。

英訳の注

[9] フランチェスコ・スフォルツァは1401年生れ、1466年没。彼はミラノ公フィリッポ・ヴィスコンティの庶出の娘ビアンカ・マリア・ヴィスコンティと結婚し、フィリッポの死後、公国の君主になる道を得た。マキャヴェリは、シニガリアでのオルシーニ一族とヴィッテリの暗殺に至った諸事件の期間、チェザーレ・ボルジア(1478ー1507)のもとへフィレンツェ共和国の公式代表として赴いており、フィレンツェの上司への手紙とともに、『君主』の十年前に書かれた、公の処断の説明を『ヴィッテロッツォ・ヴィッテリ等を殺害したさいにヴァレンティノ公がとったやり方についての記述』に残した。その翻訳はこの本の付録にある。[この翻訳が基いているeBooks@Adelaideのテキストにはこの付録は収録されておらず、この翻訳でもその付録は含めていない。]

[10] 1502年12月31日のシニガリアでのこと。

[11] ラミロ・ドルコルはラミロ・デ・ロルカともいう。

[12] アレクサンデル六世は1503年8月18日に熱病で死んだ。

[13] ユリウス二世はサン・ピエトロ・アド・ヴィンクラの枢機卿、ジュリアーノ・デラ・ロヴェーレで、1443年生、1513年没。

[14] ユリウス二世はサン・ピエトロ・アド・ヴィンクラの枢機卿であった。サン・ジョルジョはラファエル・リアクシス、アスカニーオはアスカニーオ・スフォツァ枢機卿のこと。


第8章 非道によって君主国を獲得した者たちについて

完全に運や才能によるものだとすることのできない二つの方法によって、私人の状態から君主に成り上がることもあるのですが、これについて口をつぐんでおくべきではないのは明かだと思います。とはいえ、そのうち一つについては共和国について論じるさいにもっと詳しくあつかうのですが。この方法には、極悪非道なやり方で君主に登りつめる場合と、同胞市民の好意によってその国の君主になる場合があります。最初の方法について言えば、一つは古代のもう一つは現代の、二つの事例で説明し、この話題にはこれ以上立ち入らないことにします。強いてその真似をしたい人には、この二つの事例で十分だと思います。

シシリア人のアガトクレス[15]は、一私人というだけでなく下層の卑しい身分からシラクサの王となりました。彼は陶工の息子でしたが、その運がどう変ろうと悪評高い生き方を送ったのです。それにもかかわらず、彼の悪業には心身のすぐれた能力が伴なっていたので、軍務に身を投ずると、位階を登りつめて、シラクサの法務官となりました。その地位を確保し、自ら君主になり、これまでは同意によって与えられてきたものを、他人に恩義も感じずに、暴力で奪い取ろうと慎重に決意を固めると、カルタゴ人のハミルカルの合意を取りつけました。このハミルカルは、軍を率いて、シシリアで戦っていたのです。ある朝、彼は、共和国に関わる事柄を討議するかに装って、シラクサの人民と元老院を召集すると、取り決めておいた合図とともに、兵士が元老院議員と人民の中でも最も富裕な人々を全員殺しました。こうした人たちが死ぬと、彼は市民の動揺もなしに、この市の君主の座を奪い取り、居座ったのです。そしてカルタゴ軍によって二度も敗走させられ、ついには包囲されたにもかかわらず、その市を守りぬいたばかりか、兵の一部を守りに当らせ、残りを率いてアフリカを攻撃し、短期のうちにシラクサの包囲を解かせたのです。カルタゴ軍は窮地に陥り、アガトクレスと和睦せざるをえず、シシリアは彼に任せて、アフリカの領有で満足するしかなかったのです。

だから、この人の行動や才能をよく考えてみると、見てきたとおり、彼が傑出したものとなったのは、誰かの好意によってではなく、軍務で一段づつ登りつめたことによってであって、その昇進には幾多の困難と危険を伴い、またその後、大胆にも何度も危険を冒すことによってその地位を守ったのだから、運に帰すべきものは、全くといっていいほど見当たりません。しかし、同胞を殺戮し、友人を欺き、信義も慈悲も信仰もなかったことを、天賦の才ということはできません。こうしたやり方で帝国を得ることはできても、栄光は得られないのです。それでも、危険に飛び込んでは逃がれ出るアガトクレスの勇気を、苦難に耐えながらそれを克服するその精神の偉大さとあわせて、熟考すれば、彼を傑出した武将より劣ると評価する理由は見当たりません。にもかかわらず、彼の野蛮な残虐さと際限のない非道を伴った非人情によって、彼を優れた偉人に列することは認めることができないのです。彼の成し遂げたことは、運にも才能にも帰すことができません。

私たちの時代では、アレクサンデル六世の治下に、オリヴェロット・ダ・フェルモがいますが、彼はずいぶん以前に孤児となり、母方の伯父のジョヴァンニ・フォリアーニに養育されました。そして青年時代の初めには、パオロ・ヴィッテリの指導の下で訓練を積み、その下で戦いにあけくれ、軍務で高い地位を得ようと思ったのでした。パオロの死後には、その弟のヴィッテロッツォの下で戦い、極めて短期のうちに、機転と強健な心身に恵まれていたので、軍の第一人者となったのです。しかし、他人に仕えるのはつまらないことに思えたので、自分の国が隷属するほうが自由でいるよりましだと思うフェルモ市民の支援を得て、またヴィッテリの助力により、フェルモを強奪しようと決心したのです。そこでジョヴァンニ・フォリアーニに、多年にわたり故郷を留守にしたが、伯父とその市を訪問し、家督がどれほどが見ておきたいと、手紙を書き送りました。さらに、苦労してきたのは名誉を手に入れるためだけであったが、市民に無駄に時を送ったのではないことを知ってもらうため、百騎の騎兵と友人、家臣を引き連れて、故郷に錦を飾りたい。そして、ジョヴァンニにはフェルモの市民に丁重に迎えるよう取り計らい願いたい。そうすれば自分の栄誉となるだけでなく、育ての親のジョヴァンニの栄誉ともなるのだから、と書き記したのでした。

それで、ジョヴァンニは甥のために準備万端手抜かりなく整え、フェルモ人に丁重に迎えさせました。オリヴェロットは、自分の家に投宿して、数日を送り、その非道な計画に必要なことが整うと、盛大な宴会を開いて、ジョヴァンニ・フォリアーニやフェルモの指導者たちを招待したのです。ご馳走もそうした宴会につきものの余興が終ると、オリヴェロットは巧みに深刻な話題をしはじめ、教皇アレクサンデルとその息子チェザーレ、ならびにその事業の偉大さについて語り、その話題にジョヴァンニや他の者たちが反論すると、彼はやにわに立ち上がり、こういう事項はもっと私的な場所でするべきだと言って、一室に入っていったので、ジョヴァンニやその他の市民は彼の後に続きました。彼らが席につくや、秘密の場所から兵士は現われて、ジョヴァンニやその他の者を殺戮しました。この殺人の後、オリヴェッテロは馬に乗って、町中を駆けめぐり、主席政務官を宮殿に閉じ込め、それで人々は恐怖のあまり彼に服従せざるをえず、彼を君主とする政府を作るしかなかったのです。彼は自分を傷つけることのできる不満分子をすべて殺し、新しい民事法令や軍事法令で自分を強化し、こうして、彼が君主であった一年間は、彼はフェルモの市で身の安全を確保したばかりか、近隣諸国から恐れられる存在となりました。チェザーレ・ボルジアに出し抜かれたりしなければ、アガトクレスと同様、彼を滅ぼすのは困難でした。チェザーレは、前述の通り、彼をオルシーニ家やヴィッテリとともにシニガリアで捕えたのです。こうして父殺しを犯してから一年後、彼の武勇と非道の師であったヴィッテロッツォとともに、縊り殺されたのです。

アガトクレスやその同類は、数えきれない裏切りと残虐の後、その国で長きにわたってその身を守り、外敵から自分を防衛し、その同胞市民から陰謀を企てられることがなかったのに、他の多くの者たちが、残虐な手段をつかいながら、平時においてすら国を保持できず、戦時の不確かな時代にはまして国を保持できなかったのは、どうして生じるのか不思議に思う人もいることでしょう。私が思うに、残酷さ[16]を誤って使うか、適切に使うかによるのです。悪事に適切という言葉を使うのが妥当だとして、適切に使うというのは、一挙に行なわれ、しかもだれかの身の安全上に必要である場合であって、臣民の利益にならないかぎりは、その後繰り返されることはないという使い方なのです。誤った使い方は、最初はわずかであったにもかかわらず、回を重ねるごとに、おさまるどころかひどくなるような使い方です。最初のやり方を行なった者は、神か人の助けによって、アガトクレスと同じように、ある程度まで自分の支配の苛烈さを和らげることができますが、もう一つのやり方にしたがう者は、自らを保つことができません。

したがって、国家を強奪するにさいしては、強奪者は加える危害が必要なものか綿密に検証し、そうした危害を日常的に繰り返さなくてすむよう、一撃で事を済まさなければならないということに、注意をはらっておくべきです。そうすれば、人々に動揺を与えないことで、彼らを安心させ、恩恵で彼らを味方につけることができるのです。臆病や有害な助言から、そうでないやり方をすれば、いつも剣を握りしめておかなければならなくなり、絶え間なく何度も悪事を繰り返すために、臣民を信頼することも、臣民に慕われることもできません。というのは、危害を加えるのは一挙に済ますべきで、そうすることで、味合うのが少ければ、不快な思いをするのも少くなるのだから。また恩恵は少しづつ与えるべきで、そうすることで、その香気は長く残るでしょうから。

そしてなによりも、良きにつけ悪きにつけ、予期せぬ状況が起こっても変わることのないよう、その人民とともに暮すべきです。なぜなら、騒乱の時代にこうしたことが必要となれば、苛酷な施策をとるには遅すぎるし、寛大な施策も、やむなく出したものと考えられて、役に立たず、そのために、恩義を感じる者はだれもいないのですから。

英訳の注

[15] シシリア人アガトクレスは、紀元前361生、紀元前289年没。

[16] バード氏の言うところでは、この語(英訳では"severities")の意味はおそらく、マキャヴェリが"crudelta"と言うときに考えているものの現代的な相当語のほうが、もっと明らさまな"cruelties"という語よりも、近い。


第9章 市民君主国について

さて、ある指導的市民が、非道や耐えがたい暴力によるのではなく、同胞市民の好意によって、その国の君主になるといった、別の論点に話題を移すと、こうした国は市民君主国と呼んでもよいでしょう。その地位を得るには、才能だとか運だとかはまるで必要ではなく、むしろ巧妙な如才なさが必要なのです。言っておくと、このような君主の地位は、民衆の好意か貴族の好意のどちらかによって得られるものなのです。なぜなら、どの都市でもこの二つのはっきり区別された党派が見られるものですし、このことから、民衆は貴族に支配されたり抑圧されたりはしたがらないし、貴族は民衆を支配し抑圧したいと望むということが生じ、そして、この二つの相反する欲望から、都市は、君主制、自治、無政府状態という三つの結果のいずれかになるのです。

民衆と貴族のどちらか好機をつかむかによって、このうちのどちらかが君主制を創設します。というのは、貴族は、民衆をおしとどめることができないと悟ると、自分たちのうちの一人の名声を誉めそやし、彼を君主にするのです。そうやって、その影の下で自分たちの野望を遂げようとするのです。民衆は、貴族に抵抗しきれないと分ると、これまた、自分たちのうちの一人の名声を誉めそやし、彼を君主にして、その権威で守ってもらおうとするのです。貴族の支援で君主の地位に就いた人は、民衆の助力でその地位に就いた人より、自分の地位を維持する上でより多くの困難を伴ないます。なぜなら、貴族の支援による場合は、自分と同等だとみなされる者たちがその周りに多数いることに気づき、そのため、自分の意のままに彼らを支配したり統制したりできなくなるからです。しかし、民衆の好意によって君主の座に登った人は、自分に服従する覚悟のできていない者は、その周りには一人もいないか、いても極くわずかなのです。

そのうえ、公正に扱うことや他人を傷つけないことでは、貴族を満足させることはできませんが、民衆を満足させることはできます。というのは、貴族は抑圧したいのであるのに、民衆のほうはただ抑圧されたくないということであって、民衆の目的のほうが貴族の目的より正義にかなったものなのですから。またそれに加えて、敵対する民衆というものは、数が多いので、君主はそれにたいして我が身を守ることは決してできませんが、貴族からなら、その数も少いので、身を守ることができます。敵対する民衆から君主が予測しうる最悪のことは、彼らから見捨てられることですが、敵対する貴族からだと、ただ見捨てられることを恐れるだけでなく、彼にむかって反乱することも恐れなければなりません。というのは、貴族は、こうした事情では、もっと先を見遠せるし、抜け目もないので、いずれは我が身を救い、また彼からではなく有力になるだろうと思われる人物から好意を得ようと、企むものだからです。さらに、君主は常に同じ民衆とともに暮さざるをえませんが、同じ貴族がいなくても、うまくやれるし、日々貴族を作ったり潰したりできるし、したいように、権限を与えたり取り上げたりできるのです。

それで、この点をもっとはっきりさせるために言っておくと、貴族というものは主に次の二つのやり方で見なければならないのです。つまり、自分の行動指針を完全に君主の運に従うものとして定めるのか、そうでないのかの二つです。そういうふうに従い、また強欲ではない人は、尊敬され愛されるにちがいありません。そんなふうに従わない人は次の二通りのやりかたで扱われるでしょう。小心でもともと勇気が欠けているために、そうやれない人は、特に良き相談役として利用すべきです。そうすることで、順調なときは自らの名誉とし、逆境のときは彼らを恐れる必要もなくなります。しかし自分の野心的な目的のために従わないなら、それは彼が君主より自分のことに一層思いを巡らせている徴候であり、君主はそうした者を警戒し、公然たる敵のように恐れるべきです。なぜなら逆境のときには、彼らはいつも君主の破滅に手を貸のですから。

それだから、民衆の好意によって君主になった人は、民衆と親しい関係を保たねばなりませんが、民衆は彼に抑圧されたくないだけだということがわかれば、これをなすのは簡単です。しかし、民衆と対立して、貴族の好意で君主になった人は、なによりもまず、民衆を味方につけようとしなければなりませんが、民衆を庇護のもとにおけば、これは容易でしょう。なぜなら、人間というものは、自分に害をなすものと思っていた人から恩恵を施されると、その恩人に強く結びつくものなのです。こうして、民衆はたちまち、自分たちの好意で君主の座に就けたときよりいっそう、彼につくすようになります。君主は多くのやり方で民衆の心をつかむことができますが、それは状況しだいで様々であり、確固たる規則を当てはめることはできないので、省略したいと思います。しかし、繰り返しておきますが、君主が民衆と親密であることは必要なことで、そうでなければ、逆境で身の安全を図ることはできないのです。

スパルタの君主ナビス[17]は、全ギリシア軍と常勝のローマ軍の攻撃を受けましたが、それに対抗して自分の国と政権を守りました。この危難を克服するには、彼は少数の人にたいして身を守ることだけで十分でしたが、民衆を敵にまわしていたら、それでは収まらなかったことでしょう。さて、「民衆に依拠するのは、泥の上に築くがごとし」という陳腐な格言で、この意見に異論をさしはさまれないようにしておきましょう。というのは、この格言が正しいのは、一私人が民衆に依拠し、敵や為政者に迫害されれば、民衆が自分を解放してくれるだろうと、思いこむときなのです。そうなったときには、自分が欺かれていたと悟るのは、よくあることです。例えば、ローマのグラックス兄弟やフレンツェのジョルジョ・スカーリ殿[18]に起ったことがそうなのです。しかしそれが上に述べた地歩を固めた君主であるとすると、彼は命令を下せるし、逆境にもひるまない勇敢な人であり、他の資質にも翔るところがなく、その決断と活力で全民衆を鼓舞しつづけるでしょうから、こうした人は民衆から欺かれることはないし、その基盤がしっかりしたものであることを見せつけることでしょう。

こうした君主制が危機に陥りやすいのは、それが市民的な統治秩序から絶対的統治秩序へと移り変るときです。というのは、こうした君主は親政を行うか、政務官によって統治するかのどちらかですが、政務官による場合は、より脆弱で不安全なものとなります。なぜなら、それは政務官になった市民の善意に全面的に依拠しており、彼らは、特に難局においては、陰謀だの公然たる反抗だので、極めて容易に、政権を覆すことができるのですから。それに、君主のほうは、大騒動のさ中に絶対的権限を行使する機会がないのです。なぜなら、民衆や臣民は政務官から命令を受けるのに慣れ、こうした混乱の中では君主に従おうというつもりはないし、また将来が不安な時期には信頼に足る人物は不足するものですから。というのも、平穏な時期には、市民が国家を必要としており、それで誰もが君主を是認しているから、こうした混乱時の君主は、平穏な時期に見知ったことをあてにはできないのですから。彼らはみな君主のために命を投げ出すと請け合い、死が遠く離れているときは、そうするつもりでいるのです。しかし難局では、国家が市民を必要とするのですが、君主はわずかしか人材を見出せないのです。こうしたことを実地に体験するのは危険なので、それを試すのは一度きりしかありません。それだから賢明な君主は、市民がつねに、どんな状況のもとでも、国家と君主を必要とするような方針を採るべきです。そうしておけば、いつだって市民が忠実なことが判ろうというものです。

英訳の注

[17] ナビスはスパルタの独裁者で、紀元前195年にフラミニウス率いるローマ軍に破れ、紀元前192年に殺された。

[18] ジョルジョ・スカーリのこの事件はマキャヴェリの「フレンツェ史」第三巻にある。


第10章 あらゆる君主国の兵力をどう測るべきかについて

これらの君主国の性格を吟味するのに別の観点から考察することも必要です。それはつまり、必要な場合には、自分の力量で自らを維持できるような支配力を持っているのか、それとも常に他国からの支援を必要とするのか、という点です。この点を完全に明確にしておくために言いますと、私が思うに、自分の力量で自らを維持できる者というのは、人材や資金が豊富で、誰であれ攻撃を加える者とは戦闘を交じえるだけの軍隊を召集できる者だと思います。また、常に他国を必要とする者は、戦場で敵の前に姿を見せることができず、城壁にかげに隠れることでしか、身を守ることができないでしょう。第一の場合については、すでに論じてきましたが、立ち返る必要があれば、再度語りましょう。第二の場合は、そうした君主には、自分の町に食糧を備蓄し防備を固め、決してその領土を守ろうとしないよう勧めるしか、言いようがありません。そうして、自分の町の防備を固め、その臣民に関する他の事柄については、上に述べ、また何度も繰り返し述べるやり方で運営するなら、慎重を期すこともなく攻撃を加えられることは決してありません。というのは、人間というものは困難だと見てとれる企図には反対するものですし、自分の町の防備をきちんと固め、人民から憎まれていない君主を攻撃するのは容易なことではないと分るのですから。

ドイツの諸都市は完全に自由で、周辺にほとんど領土を持たず、自分たちに都合がよければ皇帝に服従しますが、そうでなければ、皇帝も近隣のいかなる諸勢力も恐れません。なぜなら、これらの都市を攻撃して手に入れるは厄介で困難だと、誰もが思うようなやり方で防備を固め、適切な溝や城壁を備えており、十分な火砲を持ち、公共倉庫には常に一年間分の食糧、飲料、燃料を備蓄しているからです。さらにそれ以上に、人々を平静に保ちながら国家が損失を蒙らないよう、都市の生命にして活力である労働者に公共作業を与えるという手段を持ち、それで人々が生活の糧をまかなうようにしているからです。また軍事教練を名誉あるものにし、その上、こうした教練を維持するために多くの法令を用意しているのです。

だから、強力な都市を持ち、憎しみを買わないようにしてきた君主は、攻撃を受けることはないでしょう。たとえ誰かが攻撃したとして、追い払われて恥をかくだけです。また、この世の事柄は移ろいやすいものなので、なんの邪魔だてもなく丸一年の間、出兵したままでいることなど不可能です。これに反論して、人々が市外に財産を持っていて、それが焼き払われるのを見たら、忍耐し続けることができず、長期の包囲戦と私利私欲から君主を見捨てるだろうと言う人がいるかもしれません。これに対しては、強力で勇敢な君主はその臣民に、あるときは災いは長くは続かないという希望を与え、またあるときは敵は残忍だという恐怖を与えて、彼にはあまりに向う見ずに思える臣民を巧みに避けて、こうした困難をすべて克服するだろうと、答えておきましょう。

さらに言えば、敵は当然にも、到来するや直ちに領土内を焼き破壊するでしょうが、その時には人々の気持はまだ熱く防衛の覚悟ができています。だから、それだけ一層、君主は二の足を踏むべきではありません。なぜなら、しばらくすれば、気持が醒め、すでに損害を受け、災難を蒙り、もはや修復のしようがないからです。それだから、人々は、君主を守るために自分の家を焼かれ、その財産を破壊された今こそ、君主は彼らに恩義を感じていると思い、ますます自分たちの君主と一体化しようという覚悟を固めるのです。というのも、人間の本性というものは、受けた恩恵と同様、施した恩恵にも束縛されるものですから。ですから、すべてをよく考えてみると、賢明な君主にとって、市民を養い守ることに失敗しなければ、その市民の気持ちを徹頭徹尾、確固としたものにしておくのは、困難なことではないのです。


第11章 教会君主国について

今や残っているのは、教会君主国についてだけとなりました。この君主国のあらゆる困難はそれを手に入れるよりも以前にあるのですが、この君主国を論じていきましょう。なぜそうなのかと言えば、それを得るには力量か幸運かによるのですが、これを保持するにはどちらもなくてよいからです。それというのも、教会君主国は宗教というしきたりによって支えられており、万能のものであって、君主がどう振舞いどう生活しようと君主制は揺がないという性格を持っているからです。こうした君主だけが国家は所有するがそれを防衛せず、臣民を抱えているがそれを支配しないですむのです。国家が無防備だとしても、奪われないし、臣民は支配されていないとしても、気にしないし、離反しようという気持ちもないし、そうする能力もないのです。こうした君主国だけは安全で幸福なのです。しかし、人知の及ばない力が支えているのですから、私はこれ以上語るのを止めましょう。なぜなら、こういう国は神が称え支持しているので、それについて論じるのは不遜で軽率な人間のやる行いですから。

とはいっても、以前はイタリアの有力君主は(有力君主とよばれる人たちだけなく、弱小な豪族貴族からも)教会の世俗権力を取るに足りないものとしてきたのに、アレクサンデルが出てからは、今やフランス王さえその前に身をすくめ、フランスをイタリアから駆逐し、ヴェネツィアを破滅させるにまでなったのを見て、どのようにして教会はこのような強大な世俗権力を得たのかと問う人があるかもしれません。このことは一目瞭然のことでしょうが、ある程度まで記憶から呼び起しておくのも、無駄ではないと思います。

フランス王シャルルがイタリアに入り込む[19]以前、この国は教皇、ヴェネツィア人、ナポリ王、ミラノ公、フィレンツェ人の支配下にありました。これらの諸勢力には二つの主な懸念を抱えていました。一つは、外国勢力が軍隊を率いてイタリアに侵入するのではないかということ、もう一つは自分たちのうちの誰かがさらに領土を拡張しないかということです。とりわけ最大の懸念は教皇とヴェネツィア人でした。ヴェネツィアを阻止しようとするには、フェラーラ防衛のときのように、その他の全勢力が連合することが必要でした。教皇を抑えておくには、彼らはローマの貴族を使ったのです。ローマの貴族はオルシーニ派とコロンナ派という二つの派閥に分れ、たえず騒乱の口実を設けては、教皇の面前で武器を携えて競いあい、教皇の地位を弱体化させ、無力化してきたのです。そして、ときにはセクストゥス四世のような勇敢な教皇が現われたにせよ、時の運も賢明さもこうした頭痛の種を片付けるに至りませんでした。さらに教皇が短命であることも、弱体化の原因となりました。教皇の在位の平均である十年間では、両派閥の一方を弱めるのがやっとのことであって、言ってみれば、ある教皇がコロンナ派をほとんど破滅寸前にしたとしても、別の教皇がオルシーニ派に敵意を抱いて、その対抗勢力を支援するのですが、オリシーニ派を破滅させるだけの時間もないのです。これがイタリアで教皇の世俗権力がほとんど尊重されなかった理由でした。

のちにアレクサンデル六世が現われて、これまでの教皇の誰よりも、財力と軍隊を持つ教皇がどれほど優勢になりうるかを示しました。そしてヴァレンティノ公の助けを得て、またフランスの侵入を理由に、先に公の行動を論じた事柄をすべて成し遂げたのです。教皇の意図が、教会の強大化でなくて、公の強大化にあったにせよ、彼がなしたことは、彼の死と公の破滅の後、その苦労の産物すべてを相続した教会の強化に寄与したのです。

その後、教皇ユリウスが現われましたが、教会は強力になって、ロマーニャ全域を所有しており、ローマの貴族は無力化し、アレクサンデルの厳罰で派閥は一掃されていました。また彼にはアレクサンデルの時代より前には実施されたことのないやり方での蓄財の道が開かれていたのです。ユリウスはこうしたことを追従しただけでなく、改良したのです。そしてボローニャを獲得し、ヴェネツィアを破滅させ、フランスをイタリアから駆逐しようと思ったのです。こうした企図はすべて成功し、しかも彼はすべてを私人のためでなく、教会の強化のために行なったので、ますます声望を高めたのです。彼はまたオルシーニとコロンナの両派閥を、すでに陥いっていた制約の内に閉じ込めました。彼らのなかには騒乱を企む者もいましが、それでもユリウスは二つのことを確実なものとしました。一つは教会の強大化であり、それで両派を怖けづかせたのです。もう一つは彼らの枢機卿を出させなかったことです。そうした枢機卿が両派の間の不和の原因でした。こうした派閥が自分たちの枢機卿を持っているあいだは、静穏であることはなかったのです。なぜなら、こうした枢機卿はローマの内外でその派閥を助長し、貴族は彼らを支援せざるをえず、こうして高位聖職者の野心から貴族間の不和と騒乱が生じたのです。こういうわけで、教皇レオ聖下[20]は教皇の地位がかくも強力であるのをご覧になり、他の教皇がその地位を軍事力で強大にしたのに、教皇聖下は善良さとその他無限の徳性によって、教皇の地位をさらに偉大で敬われるものにされようとしているのです。

英訳の注

[19] シャルル八世は1494年にイタリアに侵入した。

[20] 教皇レオ十世はメディチ出身の枢機卿だった。


第12章 軍隊はなん種類あるか、そして傭兵について

最初に論じようともくろんでいた君主国の性格については、詳細に申し述べましたし、それが良いものであったり悪いものであったりする原因についても、ある程度は、考察しました。また、多くの君主がそれを獲得したり保持するのに用いた方法も示しました。今や残っているのは、いずれの君主国にもある攻撃と防衛の手段を一般的に論じることです。

私たちはこれまで、君主が自分の基盤を固めることがいかに必要であり、そうしなければ必然的に破滅するのだということを見てきました。新興のものでも昔からのものでも、あるいは混合のものでも、あらゆる国家の主要な基盤となるのは、良い法律と良い軍隊です。国家がちゃんと武装していないところに、良い法律はありえず、ちゃんと武装したところでは、良い法律があるのです。法律については議論からはずし、軍隊について語っていきましょう。

それで、言いますと、君主が自分の国を守るための軍隊は、自前の軍隊、傭兵軍、外国からの援軍、それらの混成軍のいずれかです。傭兵軍と援軍は役に立たず、危険です。そうした軍隊に基礎を置く国を保持しているなら、確固とした基盤の上にも安全な基盤の上にも立つことはできません。なぜなら、そうした軍隊は団結していないし、野心的で、規律がとれず、不誠実で、味方の前では勇猛だが、敵の前では臆病なものだからです。彼らは神への畏れを知らず、人にたいして忠誠を抱きません。攻撃が長びけばそれだけ、破滅が先送りされます。というのは、平時には彼らから略奪され、戦時には敵に略奪されるのですから。実際、彼らが陣地を守るのは、僅かな俸給より以外に目当ても理由もないのです。その俸給ときたら、あなたのために喜んで命を捨てるほどのものではないのです。彼らは君主が戦争を起こす前に、その兵士になろうと準備万端整えています。しかし戦争になると、立ち去るか、敵の前から逃亡します。それを示すのは雑作ありません。というのは、イタリアが破滅したのは、何年もの間、傭兵に望みを託していたからにほかなりません。彼らは以前は自分たちの間では勇猛さを誇示し、そう見られてもいたのですが、外国軍が侵入すると、化けの皮がはげてしまったのです。こうしてフランス王シャルルは、片手に持った白墨で[21]、イタリアを占領してきたのです。そして私たちに、その原因は私たちの罪であると語った人は、真実を語ったのですが、しかしその罪は彼が考えたようなものではなくて、私が語ったようなものなのでした。そしてその罪は君主の罪であったので、罰を受けたのも君主でした。

さらに傭兵が不適切であることを示したいと思います。傭兵隊長は有能な者かそうでないかのいずれかです。もし有能なら彼を信頼できません。なぜなら、その主人たる君主を抑圧し、あるいは君主の意向に反して他の人々を抑圧して、自分が卓越することを切望するからです。しかし、隊長が熟練してなければ、君主は普通に破滅します。

傭兵であろうとなかろうと、武装して人間は同じように振舞うものだと説得する人があるかもしれませんが、武器が本来の持ち主に復するのは、君主か共和国のいずれかだと答えておきましょう。君主は本人自らが進み出て、指揮官の義務を果すべきですし、共和国はその市民を派遣すべきです。もし派遣した者が満足のいくものではないと分かれば、召喚すべきです。相応の者であれば、法で縛って、命令を逸脱しないようにすべきです。また経験の示すところでは、君主や共和国は独力で最大の発展を成し遂げますが、傭兵は害しかなしません。また共和国が市民のうちの一人の支配に陥るのは、外国軍で武装している場合より、自国軍で武装しているほうが、困難です。ローマとスパルタは多年にわたり軍備を整え自由を保ちました。スイスは完璧な軍備をこらして、完全に自由なのです。

例えば、古代の傭兵制はカルタゴに見られますが、彼らはローマとの第一次戦争の後、カルタゴ人は自国の市民を指揮官にしていたにもかかわらず、傭兵に屈伏しました。エパミノンダスの死後、マケドニアのフィリッポスはテーベ人によってその兵士の指揮官になりましたが、勝利の後、彼はテーベの自由を奪ったのです。

フィリッポ公の死後、ミラノ人はフランチェスコ・スフォルツァを軍に入れて、ヴェネツィアに対抗したのですが、彼はカラヴァッジョ[22]で敵を破るとヴェネツィアと同盟して主人であるミラノ人を征圧しました。彼の父のスフォルツァは、ナポリのジョハンナ女王[23]に雇われていたのに、彼女を無防備にまま放置し、それで女王はアラゴン王の腕に身を委ね、その王国を捧げるしかなかったのです。ヴェネツィアやフィレンツェは以前はこうした傭兵によって領土拡張したが、傭兵隊長が自ら君主となることはなく、その国を守ったではないかということについては、この場合、フィレンツェは運がよかったのだと答えておきましょう。というのは、恐れるべき有能な隊長のうち、ある者は勝利しなかったし、ある者は対抗者がいたし、その他の者も野心を他のことに向けたからです。勝利しなかった隊長というのはジョヴァンニ・アクト[24]で、勝利しなかったので、彼の忠誠を立証することはできません。しかし、だれしも認めるように、もし勝利していれば、フィレンツェ人は彼の意のままになっていたことでしょう。スフォルツァにはブラッチョ家が反目していて、互いに監視しあっていました。フランチェスコがその野心をロンバルディアに向けると、ブラッチョは教会領とナポリ王国をねらいました。さて、ほんの少しばかり前に起ったことに目を向けてみましょう。フィレンツェはパオロ・ヴィッテリを傭兵隊長に任じましたが、彼は分別ある男で、一市民から身を起し令名を馳せたのでした。この人物がピサを攻め落していれば、フィレンツェは彼とうまくやっていくのが適切だったことは、誰も否定しないでしょう。というのは、彼が敵方の兵士となれば、抵抗するすべがなかったし、もし彼に固執すれば、彼に服従したに相違ないからです。ヴェネツィアは、その偉業を考察してみると、自国民を戦争に派遣していた間は、問題もなくはなばなしくその力を発揮していました。その頃は、貴族も平民も武装して、勇敢に振る舞ったのです。彼らが企図を内陸に転じるまではそうだったのですが、内陸での戦闘を始めると、この長所を捨て、イタリアの慣習に従うようになったのです。内陸での領土拡張の初期には、それほど領土をもっておらず、名声も高かったので、ヴェネツィアは傭兵隊長をそれほど恐れずにすんだのです。しかし、カルミニョーラ[25]の指揮の下で、領土を拡張したとき、これが過ちであったことを味わったのです。というのは、彼が非常に勇猛な人物だとわかった(彼の統率の下、ミラノ公を打ち破った)その一方で、彼が戦争に倦んでいることを知ると、彼の指揮下ではもはや勝ち目がないことを恐れました。そうした理由で、彼が放逐する気にもなれず、また放逐できるはずもありませんでした。そうして、獲得したものを失なうまいとして、自分たちの安全を確保するため、彼を殺害せざるをえなくなったのです。その後、ヴェネツィアはバルトロメオ・ダ・ベルガモ、ロベルト・ダ・サン・セヴェリノ、ピチリアーノ伯[26]などを傭兵隊長としましたが、後にヴァイラ[27]で起ったように、彼らの指揮の下では、領土を獲得するどころか失なうのではないか案じなければならなくなりました。ヴァイラでは、八百年もかけて苦労して獲得したものを一度の戦闘で失なってしまったのです。なぜなら、こうした傭兵軍は、のんびりと時間をたっぷりかけて取るに足りないものしか得ないのに、一瞬のうちに驚くほどのものを失なうものなのですから。

さてこうした事例を挙げて、イタリアが多年に亘り傭兵に支配されてきたのを見てきましたが、もうすこし深く傭兵について論じておきましょう。それは、傭兵が勃興し発展するのを見て、うまく彼らの力を削ぐ準備となればと思ってのことです。知っておかねばならないのは、近年、イタリアでは帝国の勢力が放逐され、教皇が俗権を得て、イタリアが多くの国家に分裂したことです。その理由は、多くの大都市が、以前は皇帝に味方して諸都市を抑圧していた貴族にたいして、戦端を開き、一方教皇は俗権での勢威を高めるために都市に味方したからです。その他の多くの都市では市民が君主となりました。こうしたことから、イタリアは一部は教会の手に、一部は諸共和国の手に落ちたのです。そして、司祭からなる教会も市民からなる共和国も武器の扱いに不慣れで、双方とも外国人を軍隊に入れ始めました。

こうした兵士に名声をもたらした最初の人は、ロマーニャの土着の人であった、アルベリーゴ・ダ・コニオ[28]でした。この人の錬成所から輩出した人のうち、ブラチョとスフォルツァは、その当時のイタリアの権威者でした。こうしたことの後、現在までイタリアの軍隊を指揮してきたその他の傭兵隊長全員が現われたのです。そして、彼らの剛勇の結末は、イタリアがシャルルに蹂躙され、ルイに強奪され、フェルディナンドに荒され、スイス人に侮辱されることに終りました。彼らを導いた原理というのは、まずは、自分たちの評判を上げるために、歩兵の評判を落すことでした。彼らがそうしたのは、領土を持たずに報酬によって生計を立てていたので、多くの兵を養うことができず、少数の歩兵では威信を保てなくて、養えて名声に浴することができるだけの適度な兵力の騎兵を雇うしかなかったからです。こうして事態は二万の軍隊に歩兵は二千人もいないという状況になりました。その一方で彼らは自分たちや部下の兵士の労苦や危険を小くしようとあらゆる技巧を駆使して、乱闘では殺さず、捕虜にすると身代金なしで解放したのです。彼らは町に夜襲をかけることはなく、町の守備隊も野営地に夜襲をかけませんでした。野営地を防御柵や堀で囲うこともなく、冬季に出陣することもありませんでした。こうしたことはすべて、彼らの軍規で許容され、もう言ったように、労苦や危険を避けるために案出されたのです。こうして彼らはイタリアを奴隷状態に陥らせ軽蔑の対象としたのでした。

英訳の注

[21] 「片手に持った白墨」 これはアレクサンデル六世の名言で、シャルル八世のイタリア占拠がいかに用意だったかを言っており、王はその国を征服するのに兵士の宿舎とする民家に白墨で印をつける補給将校を派遣するだけで十分だったことを示している。ベーコン卿の『ヘンリー七世史』:「シャルル王は、一種の夢のような幸運のうちに、ナポリ王国を征服し、再びそれを失なった。王はイタリアにいた全期間をなんの抵抗も受けずに過ごした。それで教皇アレクサンデルが言うの常としていた、フランス人は戦うための剣ではなく、宿舎に印を付けるための白墨を手にして、イタリアに侵入した、という言葉は真実なのだ。」を参照のこと。

[22] カラヴァッジョの戦いは1448年9月15日に行われた。

[23] ナポリのジョハンナ二世はナポリ王ラディスラオの未亡人。

[24] ジョヴァンニ・アクトはジョン・ホークウッド卿という名のイギリスの騎士。フランスで百年戦争を戦い、エドワード三世に騎士に叙された。後に一団の軍勢を集めてイタリアに渡った。これが有名な「白騎士団」となった。多くの戦争に参戦し、1394年にフィレンツェで死去。彼はエセックスのサイブル・ヘディンガム村で1320年に生れた。ベルナール・ヴィスコンティの娘ドムニアと結婚。

[25] カルミニョーラ,フランチェスコ・ブッソーネは1390年頃カルマニョーラで生れ、1432年5月5日、ヴェネツィアで処刑された。

[26] バルトロメオ・コレオーニは1457年死去。サン・セヴェリノのロベルトはオーストリアのジギスムント伯との戦闘でヴェネツィアで戦死。「イタリア一の傭兵隊長」マキャヴェリ。ピチリアーノ伯ニッコロ・オルシーニは1442年生れ、1510年死去。

[27] 1509年のヴァイラの戦い

[28] アルベリゴ・ダ・コニオ、すなわちロマーニャのクニオ伯アルベリコ・ダ・バルビアノは、有名な「聖ジョージ騎士団」の指導者で、イタリアの兵士を全体にわたって纏め上げた。1409年死去。

第13章 外国からの援軍、混成軍、自国軍について

外国からの援軍は、もう一つの役に立たない軍隊ですが、別の君主が救援や防衛のため助勢を乞われたとき、使われます。 ごく最近では、教皇ユリウスが外国からの援軍を使いました。というのは、フェラーラ攻略の際、自分の傭兵が貧弱であることが明かとなったので、外国の援軍に頼ることにして、スペイン王フェルディナンド[29]とその部下や軍隊の支援を受ける取り決めを結んだのです。こうした軍隊は。それ自体は、役に立ち、有能なものなのですが、呼び寄せた側にとっては、いつでも不利益をもたらします。というのは、負ければ破滅し、勝てば勝ったで、支援軍の捕囚となるからです。

古代史はそうした事例に満ちているけれど、その危険性はたまたま気づかれずに終わったにせよ、教皇ユリウス二世のこの最近の事例を続けたいと思います。というのは、彼はフェラーラを得たいがために、外国人の手に自らを委ねたのです。しかし幸運にも第三の事態が起り、彼はその軽率な選択の果実を摘まずにすんだのです。なぜなら、援軍はラヴェンナで大敗北を喫すると、スイス傭兵が(教皇の予想も敵の予想も覆して)立ち上がって、勝利した敵を蹴散らし、それで、教皇は、敵が敗走したので、敵の捕囚とならずにすみ、また援軍以外の軍隊で勝利したので、外国の援軍の捕囚にもならずにすんだのです。

フィレンツェは全く軍隊を持たず、ピサ攻略には一万人にフランス兵を投入したが、その結果、それが陥いった苦難の時代のいずれよりも大きな危険に見まわれたのです。

コンスタンチノープルの皇帝[30]は近隣諸国に対抗するため、一万のトルコ軍をギリシアに引き入れたのですが、トルコ軍は戦争が終結しても、立ち去ろうとしなかったのです。これがギリシアが異教徒に隷属する始まりでした。

ですから、勝利したいと思わない者には、こうした援軍を使わせておけばよいのです。というのは、外国の援軍を使えば破滅するのは必至なのだから、傭兵よりずっと有害なのですから。外国からの援軍は全員団結しており、他の君主に忠誠を尽します。しかし傭兵を使うのであれば、彼らは勝利したときにも、その君主を害するには、時間もかかり良い機会にも恵まれなければなりません。傭兵は全員が一つの団体をなしているのではなく、君主に見出され、給金をもらっているのです。その指揮官になった第三者が、直ちにその君主を害するだけの権力を持つことはありえません。結論を言えば、もっとも危険なのは、傭兵では卑怯さですが、外国の援軍では勇猛さです。だから、賢明な君主はいつもこうした軍隊を避け、自国軍に頼ってきました。自国軍以外の軍隊で勝利するより、自国軍で敗北するほうがましだと思い、他国の軍隊で得た勝利は真の勝利だとはみなさないのです。

私はためらうことなく、チェザーレ・ボルジアとその行動のことを例として挙げます。この公は外国の援軍を使ってロマーニャに侵攻し、フランス兵を率い、彼らを使ってイモラとフォルリを得たのです。しかし後に、こうした兵力は信頼できないと思い、傭兵のほうが危険性が少いと見て、傭兵に頼ることにし、オルシーニ家やヴィッテリ家の者を兵に加えたのです。やがて、彼らを使ってみると、信頼できず、不誠実で、危険だとわかったので、傭兵をやめ自国軍に頼ることにしました。こうした兵力のそれぞれの違いは、フランス軍に依っていたとき、オルシーニ家とヴィッテリ家を雇っていたとき、自身の兵をあてにしていたときの公の声望の違いをみれば容易にわかります。その兵力の忠誠について彼はいつも重要だと考えており、つねにそれを増していったのです。彼が自分自身の兵力の完全な支配者だと誰もが認めたときが、彼が最高の評価を得たときでした。

私はイタリアの近年の事例以外を持ち出そうという気はないのですが、しぶしぶながら、前にその名前を挙げたシラクサのヒエロンを省くわけにはいきません。この男は、前にも述べたように、シラクサ市民によって軍隊の指揮官になったのですが、すぐに、我がイタリアの傭兵のように編成された雇い兵が役に立たないことを見抜きました。彼にはそれを維持するわけにもいかず、追い払うわけにもいかないと思