《プロジェクト杉田玄白正式参加作品》

君主

ニッコロ・マキャヴェリ:著

永江良一:訳

この文書は
Nicolo Machiavelli:
The Prince
Translated by W. K. Marriott
を日本語訳したものです。
翻訳はeBook@Adelaideのテキストに基づいています。

2005年3月17日 公開
2005年3月27日 typo修正 第21章一部修正
2005年08月11日 秘密結社「じめじめ団」の梅雨空文庫版に基きタイプミスを訂正。

©2005 Ryoichi Nagae 永江良一
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この翻訳は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(帰属 - 同一条件許諾)の下でライセンスされています。
ご指摘、ご教示などありますれば永江良一まで


目次


第1章 何種類の君主国があるのか、それらはどういう手段で獲得されたか

人民をこれまで支配した、また今支配している、あらゆる国家、あらゆる権力は、共和国か君主国のどちらかです。

君主国は、一族が長い間不動のものとしてきた世襲のものか、新興の君主国のどちらかです。

新興の君主国は、フランチェスコ・スフォルツァのものとなったミラノのような完全に新興の君主国と、スペイン王の手中に落ちたナポリ王国のように、もともと君主国であったものが、それを獲得した君主の世襲国の付属物となったもののいずれかです。

こうして獲得された領土は、君主のもとで生きることに順応していたものか、自由に生きることに順応していたものかのいずれかであり、そしてそれは、君主自身の武力によってか他の者の武力によって獲得されるか、そうでなければ、運や才能によって獲得されるかのどちらかなのです。


第2章 世襲の君主国について

私は、共和国については別のところで詳細にわたり書いていますので、それにつ いての議論は割愛し、君主国についてだけお話しいたすつもりです。そうするこ とで、先に示しました順序に従い、こうした君主国をどのように支配し、保持す るべきかということを論じるつもりです。

ただちに言えることですが、新興の国家にくらべると、世襲の国家で、君主の一族に長い間慣れ親しんだ国を保持するほうが困難ではありません。というのは、自国でおのれを守るくらいの平均的な能力のある君主にとっては、なにか並はずれた過大な力で国を奪われないかぎり、その父祖の慣習を破らないようにし、その慣習が生じた情況を慎重に取り扱えば十分だからです。それに、奪われた場合、強奪者になにか災いが起れば、彼はその国を奪還するでしょうから。

イタリアでの例を上げると、フェラーラ大公は、長きにわたってその領土を保ってこなかったとしたら、1484年のヴェネツィアの攻撃に持ちこたえることができなかったでしょうし、1510年の教皇ユリウスの攻撃にも耐えることができなかったでしょう。というのは、世襲の君主には反感を抱かせる原因も少なく、またそうする必要も少ないのだから、より愛されることになり、よほどの悪行で憎まれないかぎり、臣民が当然その君主によく仕えるものと期待するのは理にかなっているからです。またその支配が古く長く続けば、変革を起すような記憶も動機も失しなわれます。なぜなら、ある変革というものは別の変革に歯形を残していくものですから。


第3章 混合した君主国

しかし新興の君主国には困難が生じます。まず第一に、完全な新興の君主国ではなく、もともと君主国であったものが、集約されて混成国家と呼ばれるものの一員となった場合には、変化は主にあらゆる新興の君主国につきまとう固有の難点から生じます。というのは、自分がより良い状態になるという希望を抱いて、人はよろこんで支配者を変えるものですが、この希望のせいで彼らは支配する者に抗して武器を取るからです。彼らは後になって経験によってさらに悪い状態になっていることを悟るので、その点では欺かれているのですが。このことから、別の当然でもあり普通でもあるような必然的結果を生じるのですが、いつもそのせいで新しい君主は、服属する人々を、その兵士によって、また新領土に課すにちがいない無数の苦役によって、苦しめることになるのです。

こうして君主は、その君主国を奪うときに傷つけたあらゆる人たちを敵にまわし、自分をその地位につけた人々も、彼らが期待したようには満足させることができないので、味方につけておくことはできず、しかも彼らに恩義を感じるため、彼らにたいして強硬な手段をとることもできないのです。というのも、たとえ武力では極めて強力であったとしても、その地方に入るには、いつだって土地の人たちの善意が必要なのですから。

こうしたわけで、フランス王ルイ十二世は、たちまちミラノを占領したものの、たちまちこれを失ったのです。最初のときは、彼を追い払うのにルドヴィーコの手勢だけで十分でありました。なぜなら、ルイ十二世に城門を開いた者たちは、将来の幸福という希望で欺かれたことを悟り、新しい君主の虐待に我慢できなかったからなのです。二度目に謀反の地を奪取した後では、その後そうやすやすとは失うことはないことは、まさに真実です。なぜなら、君主は、さして思いわずらうことなく、謀反の機会をとらえて謀反人を処罰し、疑わしい者を一掃し、自分の弱点を補強するからです。こうして、フランスがミラノを失うには、最初はルドヴィーコ公[1]が国境で暴動を起すだけで十分だったのに、二度目には全世界を彼に対抗させ、彼の軍隊を打ち破り、イタリアから駆逐することが必要だったのです。これは上に述べた原因から生じたことなのです。

にもかかわらず、ミラノは一度ならず二度までもフランスから奪還されたのです。最初のときの概略の理由はもう述べましたが、二度目の理由を挙げること、そして、フランス王にどんな算段があったのか、もしだれかフランス王と同じ立場に置かれたら、獲得した国を彼よりももっと確実に保持するにはどうしたらよいかを見ておくことは、まだやり残しています。

さて、君主が新に領土を獲得してもとからの国家に併合する場合、その領土は同じ国土で言語も同じであるか、そうでないかのどちらかです。同じ場合には、その領土を保持するのは容易ですし、自治に慣れていなければ、なおさらです。その領土を確実に保持するには、それまで支配していた君主の一族を滅ぼしさえすれば十分なのです。なぜなら、その他のことは旧態のままにしておけば、二つの領民は習慣に違いはなく、一緒に平穏に暮していくからです。それは以前からフランスに併合されてきたブルターニュ、ブルゴーニュ、ガスコーニュで見られる通りです。その地方では、言語が少し異るとはいえ、習慣は同じようなものであり、一緒にうまくやっていくのです。併合した君主は、その領土を保持したいのなら、二つの事柄を念頭に置いておくだけでよいのです。その一つは、以前の領主の一族を根絶やしにすることであり、もう一つは、法や税を変えないことです。そうすれば極めて短期間のうちに、新領土はもとの君主国と完全に一体となるのです。

しかし、言語も習慣も法も異る国土で国家を獲得すれば、そこには諸困難があって、その国家を維持するには幸運と多大な精力が必要となります。もっとも巧みで実際的な手立ての一つは、そういう国家を獲得したら、そこに行って住みつくことです。トルコがギリシアでやったのがこうしたことでした。その国を保持するため他の手段をどれだけ講じようと、移住しなかったなら、ギリシアを保つことはできなかったでしょう。なぜなら、現地にいれば、不穏な動きがあればすぐにわかり、たちまち鎮めることができますが、真近かにいなければ、聞きつけたときには騒ぎは大きくなっていて、もう手のつけようもないことでしょう。その上、国が配下の役人たちに略奪されることがなく、臣民は直ちに君主を頼りにできることで納得します。こうして、善良であろうとすれば、君主を慕う動機を持つことになり、善良であろうとしないのであれば、君主を恐れることになるのです。外部からその国に攻撃をしかけようとする者はおそろしく慎重にかまえざるをえません。君主がそこに住みつくかぎり、彼からその国をもぎ取るのは、非常に困難となるのです。

別のもっと良い方策は、国の要といえる二、三の場所に移民団を送ることです。というのも、こうするか、さもなければ多数の騎兵や歩兵を駐屯させることが必要だからです。君主は移民団にはそれほど経費をかけずにすみます。というのは、ほとんど出費をせずに、あるいはまるで費用をかけずに、移民団を送り出し、そこに留め置くことができるからです。君主は、新しい住民に与えるために土地や家を取り上げられる少数の市民だけは感情を害することになりますが、感情を害した人たちは、貧しく散在したままなので、君主に害を与えることができません。一方、他の市民は損害を受けず、容易に平穏を保ち、同時に、強奪された連中と同じことが我が身にふりかかることを恐れて、誤らないようびくびくするのです。要するに私が言いたいのは、こういう移民団は費用がかからず、忠実で、害をなすことも少く、また、もう述べたように、損害を蒙った者たちも貧乏で散在してるから、危害を加えることはできません。この点については、人間を好遇するか叩き潰すかどちらかであるべきだということに、注意しなければなりません。なぜなら人は軽い損害には復讐できるけれど、重大な損害には復讐できないからです。それで、人に損害を与えるときは、恐怖のあまり復讐できないような損害でなければならないのです。

しかし、移民団のかわりに武装兵を保持すると、もっと費用がかさみ、国家の全歳入を駐屯兵に費すことになります。そうなると国家全体に被害が及ぶので、領土の獲得が損になり、もっと多くの人を激昂させます。駐屯軍があちらこちらへ移動することで、だれもが辛苦をなめ、だれもが敵対的になります。そして彼らは自分の土地のうえに打ち倒されたとはいえ、まだ害をなしうる敵なのです。だから、どの理由からみても、こうした守備隊は役に立たず、移民団は有用なのです。

さらに、上に述べた点で異なっている国を保持する君主は、より弱小の近隣国の盟主にして庇護者となり、そのなかのより強大な国の力を弱めようとしなければなりません。そして、なにが起ころうと、自分と同じくらい強力な外国勢力がその地域に地歩を固めないよう注意を払わなければならないのです。というのは、すでに見たとおり、すぎた野望からか恐怖からか、不満を抱いた人たちがこうした勢力を導き入れるでしょうから。アエトリア人がローマ軍をギリシアに招き入れたのですが、ローマが地歩を得たところはどこでも、住民が彼らを招き入れたのです。そして物事の通常の流れとして、強力な外国勢力が侵入するとたちまち、服属国というものは、支配者にたいして抱く恨みにかられて、離反するのです。それで、こうした服属国については、外国勢力は苦労もせずにそれらを手に入れるのです。なぜなら、服属国の全部がその地を獲得した国のもとにたちまち結集するからなのです。服属国があまり大きな力や権限を持たぬよう気をつけさえすれば、自分の勢力とそれらの国の善意とで、その中のより強力な国を容易に抑えこむことができ、そうして国土の完全な主人という地位に留まるのです。こういう努めを適切に果さないと、得たものをたちまち失なうでしょうし、保持している間も、絶え間のない困難と厄介を抱えこむでしょう。

ローマ人は、属領とした諸国で、この方策をきちんと守ってきました。彼らは移民団を送り、弱小な勢力と友好な関係を維持しながらも、その力を増大させないようにして、強大な勢力は抑えこんで、どんな強力な外国勢力にも権威を得させることはありませんでした。例としてギリシアをあげておけば十分だと思います。ローマはアカイア人とアエトリア人とは友好を保ち、マケドニア王国を敗北させて、アンティオコスを追い払いました。けれども、アカイア人とアエトリア人が功績あったといって、その勢力を増大させることを許容してもらえることはありませんでしたし、ピリッポスを一度叩きつぶしてからでないと、彼の求めに応じて友好関係を結ぶことはありませんでした。またアンティオコスが影響力があるからといって、彼がその国土の主権を保持することを是認することもありませんでした。なぜなら、ローマ人はこうした事例で、分別ある君主ならだれもがすべきことをしたからなのですが、分別ある君主というものは、ただ現在の厄介事だけでなく、将来の厄介事も考慮するものなのです。将来の厄介事には全精力をつかって準備をすべきです。というのも、予見しておけば、それを治療するのはわけないのですが、さし迫るまで待っていると、薬がまにあわず、病は不治のものとなってしまうのです。消耗熱の場合、病気の初めには見立ては難しいが治療は楽なのに、初期に診察も治療もせずに、病状が進むと、見立ては楽でも治療は大変だと、医者は言いますが、この場合も同じです。国事の場合もこうしたことが起こるのです。というのも、生じる災いを予見したら(予見するのは賢い人にしかできないことなのですが)、すぐにそれを鎮めることができますが、見過ごして、だれにもわかるほどまで、災いが大きくなると、もはや手のほどこしようがなくなるからです。だから、ローマ人は難事を予見すると、ただちにその処理をし、戦争を避けるためだとしても、難事を危機的な状態に至らせることはなかったのです。なぜなら、戦争は避けられるものでなく、先送りにすれば敵方を利するだけだということを、彼らはわかっていたのです。そのうえ、ローマ人はピリッポスやアンティオコスとイタリアで戦わないために、ギリシアで戦おうとしたのです。彼らはどちらも避けえたかもしれませんが、そうは望まなかったのです。そして彼らは、当代の賢者がいつも口にする「時の恵みを享受しよう」という言葉に満足せず、むしろ自らの勇気と思慮の恵みを恃んだのです。というのも、時はすべてを駆り立てて、禍福ないまぜにもたらすことができるのですから。

では、フランスに目を転じて、フランスが今述べたことをやってきたかどうか調べてみましょう。私が話そうとしているのは(シャルル[2]ではなく)ルイ王[3]のことです。彼はかなり長い期間イタリアを領有したので、その行動はより検証しやすいのです。そして、彼がやったことは、さまざまな要素から成り立っている国家を保持するためにしなければならないこととは正反対のことだったことが、おわかりになるでしょう。

ルイ王はヴェネツィアの野望によってイタリアにやってきたのです。ヴェネツィアは彼の干渉によってロンバルディア地方の半分を手に入れようとしたのです。私は王のとったこの方針を非難しようとは思いません。なぜなら、イタリアに足掛かりを得たいと思いながら、その地に味方がおらず、それどころかシャルル王の行動のおかげであらゆる門戸が閉じられて、得ることのできる友好関係は受入れざるをえなかったのですし、もし他の問題で失敗さえしかなったなら、彼はその計画でたちまち成功していたでしょうから。

とはいえ、王はロンバルディアを手に入れると、すぐにシャルル王が失なった権威をとりもどしました。ジェノヴァは屈伏し、フィレンツェ共和国は友好関係を結び、マントヴァ侯、フェラーラ公、ベンティヴォリオ家、フォルリ夫人、ファエンツァ、ピサロ、リミニ、カメリノ、ピオンビノの諸侯、ルッカ共和国、ピサ共和国、シエナ共和国はみな、友好関係を結ぼうと申し出たのです。そうしてヴェネツィアは、ロンバルディアの二つの都市を確保するためにとった方策が軽率だったせいで、ルイ王をイタリアの三分の二の支配者にしてしまったことを悟ったのです。

さて誰にもさして困難もなく、王は、上に述べた規則を守り、友邦を安全にし保護しておけば、イタリアでのその地位を保持できたと思われました。というのは、それらの国々は、数こそ多いものの、あるものは教会を恐れ、あるものはヴェネツィアを恐れて、弱小で臆病であり、それでフランス王の味方とならざるをえず、王はその力を借りて、依然強力であった国から自分の安全を確保できたでしょうから。ところが、王はミラノに入るとすぐに、それと反対に、ロマーニャを占領しようという教皇アレクサンデルを支援したのです。この行動によって、自分から友邦や膝下に身を投げ出した諸国を離反させ、一方では霊的権限に世俗の権力を付け加えて、教会を強大にし、こうして教会により大きな権威を与えて、自らを弱体化させているとは、思いもしなかったのです。この最初の誤りを犯すと、それに追従せざるをえず、そういうわけで、アレクサンデルの野望に歯止めをかけ、トスカナの支配者となるのを阻止するために、イタリアへやってこざるをえなかったのです。

そして王は、教会を強大にし、友邦を離反させるだけでは足りないかのように、ナポリ王国を欲しがって、スペイン王と分け合おうとしたのです。イタリアの第一人者であったのに、共同者を引込み、そのおかげでその国の野心家や王にたいする不満分子に隠れ家となるものを与えることになったのです。そのうえ、ナポリ王国には王として自分の手先を据えることもできたのに、その手先を追い出して、反対にルイ王を追い出すこともできる人物を王に据えたのです。

領土を獲得したいという欲望は、実際、きわめて自然であたりまえのことであり、人はできるときには、領土を獲得するので、そのことでは称賛されても非難されることはありません。けれど、できないときに、なんとしても領土を獲得したがるなら、愚かで非難されるでしょう。だから、フランスが独力でナポリを攻撃できるのなら、そうすべきであったのですが、そうできないのなら、ナポリを分け合ってはならなかったのです。ロンバルディアをヴェネツィアと分割したことは、それでイタリアに足掛かりを得たかったという口実で正当化できるでしょうが、こちらの分割は、必要性という口実がないので、非難されて当然です。

その結果、ルイ王は次の五つの誤りを犯したのです。彼は弱小勢力を破壊し、イタリアのより強い勢力の力を増大させ、外国勢力を導き入れ、またその国に移住せず、移民団も送りませんでした。ヴェネツィアから支配権を奪うという六番目の誤りを犯さなければ、どの誤りも、彼が生きているうちは、彼に損害を与えるほどのものではありませんでした。なぜなら、彼が教会を強大にしたり、スペイン王をイタリアに引き入れたりしていなければ、ヴェネツィアを屈伏させるのは理にかない必要なことでもあったのですが、こうした行動に出たからには、ヴェネツィアの没落に同意してはならなかったのです。というのも、ヴェネツィアが強力であれば、ロンバルディア攻略から他国を排除できたからです。ヴェネツィアは、自分がロンバルディアの支配者になるのでなければ、他国の攻略に同意することはなかったのです。また、他国がヴェネツィアにロンバルディアを与えるために、フランスから奪おうとはしないし、この両国に衝突しようという度胸はなったでしょうから。

ルイ王は戦争を避けるために、アレクサンデルにロマーニャを、スペインにナポリ王国を譲ったのだと言う人があるでしょうが、私はこれに、上に述べた理由から、戦争を避けるのは、やってはならない大失策だと答えるでしょう。なぜなら、戦争は避けられず、躊躇すれば不利益になるだけですから。また、ルイ王は自分の結婚の解消[4]とルーアン[5]の帽子と引き換えに、教皇の企図を援助するという約束を果そうとしたと断言する人には、この後に、君主の信義はどういうもので、どう守るべきかを述べるので、それを返答とします。

こうしてルイ王は、諸国を手に入れ、それを保持しようとした人たちが守るべき条件になにひとつ従わなかったので、ロンバルディアを失なったのです。それにはなんの不思議もなく、理にかなったまったく当然の結果でした。教皇アレクサンデルの息子でチェザーレ・ボルジアとして知られるヴァレンティノ公[6]がロマーニャを占領していたとき、私はナントでルーアンの枢機卿と、この問題について話したことがありますが、ルーアンの枢機卿は私に、イタリア人が戦争というものが分っていないと述べたので、私は、フランス人は治国というものが分っていない、分っていれば教会をあそこまで強大にはさせなかったろうにと申したのでした。また実際、教会とスペインがイタリアで強大になったのはフランスのせいであり、またそれらによってフランスは没落したのです。このことから決して間違いのない、あるいはほとんど間違うことのない一般的法則が導き出されます。それは、他人を強力にする原因となる者は没落するということです。なぜなら、その者の抜け目なさかさもなければ力によって優勢となったのですが、勢力を得てしまうと、このどちらも信頼がおけないからなのです。

英訳の注

[1] ルドヴィーコ公とは、フランチェスコ・スフォルツァの息子ルドヴィーコ・モロで、彼はベアトリーチェ・デエステと結婚した。1494年から1500年までミラノを支配し、1510年に死去。

[2] シャルル八世、フランス王、1470年生、1498年没。

[3] ルイ十二世、フランス王、「国民の父」、1462年生、1515年没。

[4] ルイ十二世は妻のルイ十一世の娘ジャンヌと離婚し、ブルターニュ公国をフランス王国に確保するために、シャルル八世の未亡人のブルターニュのアンヌと1499年に結婚した。

[5] ルーアン大司教、ジョルジュ・ダンボワーズ。アレクサンデル六世により枢機卿に叙任。1460年生、1510年没。

[6] イタリアでは、ルイ十二世によってヴァレンティノ公爵に任じられたことから、こう呼ばれる。


第4章 アレクサンダー大王に征服されたダリウスの王国は、大王の死後、なぜその後継者に反乱を起さなかったか

新しく獲得した国家を保持するさいの困難さを考えてみると、アレクサンダー大王が数年でアジアの支配者となり、まださして身を落つける間もなく死んだ(それゆえ帝国全土が反乱してもよさそうなものなのに)、それにもかかわらず、その後継者たちは自らを守り、自分の野望からお互いの間で引き起こした困難以外にはなんの困難にもあわなかったのは、どうようにしてなのか、不思議に思う人たちもいることでしょう。

私は次のように答えておきましょう。記録に残るような君主国は、異なる二つのやり方のどちらかで統治されてきました。一つは、家臣団をひきつれた君主によって統治されるもので、家臣団は君主の恩顧と認可による大臣として、君主が王国を統治するのを補佐します。もう一つは君主と封建領主によって統治されるもので、封建領主は君主の恩寵ではなく血統の古さでその地位を保持しているのです。こうした封建領主は自分の国と臣民を持っていて、この臣民は領主を主君と認め、彼に自然な親愛の情を抱いているのです。君主とその家臣団によって統治される国家は、君主を最も重視しています。なぜなら、国中では君主より優ると考えられるものは一つもなく、また別の人に服従するなら、大臣や官吏としてそうするのであり、君主になにか特定の親愛の情を抱いたりはしないからなのです。

当代のこの二つの統治の実例は、トルコとフランス王です。トルコの君主国全体は一人の主人によって統治され、その他の者は彼の家臣であって、その王国は県に分割され、そこには種々の行政官が派遣され、この行政官たちは王の選ぶがままに異動変更されるのです。しかしフランス王は古くからの領主の一団のただ中にあるのであり、この領主たちは自身の家臣に主人として承認され、敬愛されていて、自らの特権を持ち、王はこの特権を危険を冒さずに奪い取ることはできないのです。だから、この二つの国家を考察してみると、トルコという国家を獲得するのはとても困難だが、一旦征服すればそれを保持するのはとても簡単だとわかるでしょう。トルコの王国を獲得するのが困難である原因は、強奪者が王国の諸侯に迎え入れらることなんてありえないし、王の側近たちの反乱でその征服計画が助けられることを望みうべくもないからです。これは上で挙げた理由から生じます。というのも、その大臣はみな奴隷だから、買収するのはとても困難で、買収できたとしても、述べてきた理由から、彼らに民衆がつき従うはずもなく、彼らからはほとんどメリットを期待しようがないからです。だから、トルコを攻撃する者は、トルコが一致団結していることを思い知り、他人の反乱よりも自分の兵力を恃みにするしかないということを、念頭におかなければなりません。しかし、一旦トルコを征服し、その軍隊を立て直せないほどに戦場で敗走させれば、君主の一族以外に恐れるものはなく、この一族を根絶すれば、他には民衆に信頼されるものはいないので、恐れるものはなにも残りません。勝利の前には民衆をあてにできなかったと同じように、勝利の後では民衆を恐れる必要はないのです。

フランスのように統治されている王国では、逆のことが起ります。なぜなら、いつでも不満分子や政変を望む者が見つかるので、王国の領主のだれかを味方につければ、簡単にそこに侵入できるからです。こうした者たちは、さっき述べた理由から、その国へ入る道を開き、勝利を容易なものとしてくれます。しかし、その後もその国を保持しようとすると、助けてくれた者たちからも、打ち破った者たちからも、無数の困難に見舞われるのです。君主の一族を根絶するだけでは足りません。なぜなら、残った領主たちは新たな反抗行動の頭目となり、彼らを満足させることも根絶することもできないので、機会が到来すればいつでも、その国を失うことになるのです。

さて、ダリウスの統治の本質がどうであったかを考えてみると、それがトルコの王国に似ていることがわかります。だから、アレクサンダーはまず戦場でダリウスを打ち倒し、それから彼から国を奪い取ることだけが必要だったのです。この勝利の後、ダリウスは殺されたので、上述の理由から、国家はアレクサンダーの手に確保されました。そしてアレクサンダーの後継者たちは、結束しているかぎり、確実かつ容易にこの国を享受できたのです。というのも、彼ら自ら引き起こした以外には、王国には騒乱が起こらなかったのですから。

しかし、フランスのような構成の国家を平穏のうちに保持するのは不可能です。それで、スペイン、フランス、ギリシアでは、多くの君主国があったせいで、ローマ人にたいする反乱が多発し、そういう君主国の記憶が残るかぎりは、常にローマ人は不安定な領有しかできませんでした。しかし帝国の支配力とそれが長く続いたことで、その記憶が払拭されて、ローマ人の領有は確実なものになったのです。そしてそれ以後、互いに戦いながら、それぞれがそこで勝ち得た権力にしたがって、国内の固有の部分を付加していったのです。以前の領主の一族は根絶されているので、ローマ人以外には権威を認められることはありませんでした。

こうしたことを思い起せば、アレクサンダーが容易にアジアの帝国を保持し、それ以外のピュロス等々の多くの者たちが、獲得した国を維持するのに困難をきわめたことは、驚くにたりません。それは征服者の能力の多寡のせいで生じたのではなく、置かれた状況が同じではなかったせいなのです。


第5章 併合される前は独自の法のもとで暮していた都市や君主国を統治する方法について

もう言ってきたような獲得された国家が独自の法のもとで自由に生活するのに慣れてきたところでは、その国家を保持したいと思う人には三つの進路があります。その一つ目はこうした国家を破壊すること、次には本人がそこに住むこと、そして三番目は彼らが独自の法のもとで生活することを許して、租税を取り立て、内部には友好関係を保つ寡頭政権を確立することです。なぜなら、こうした政府は、君主によって生み出されたのであり、君主の友好と権益がなければ立ちいかないことを知っており、君主を支援するため最善をつくすからです。だから自由に慣れた都市を保持したいのであれば、他のいかなる手段にもまして、その市民たちを使えば、その都市を容易に維持できるでしょう。

例として、スパルタ人とローマ人をあげましょう。スパルタ人は寡頭政権を立ててアテネとテーベを保持しましたが、それにもかかわらず、両市を失しないました。ローマ人は、カプア、カルタゴ、ヌマンシアを保持するために、それらを破壊し、そしてそれらを失しなうことはありませんでした。彼らはスパルタ人がやったようにしてギリシアを保持したいと思い、ギリシアを自由にし、独自の法を持つことを許しましたが、成功しませんでした。それで、ギリシアを保持するためには、その地域の多くの都市を破壊せざるをえませんでした。というのは、実際のところ、そうした都市を保持するには、それを破壊する以外に確実な方法がないからです。そして、自由に慣れた都市の支配者となりながら、その都市を破壊しない者は、その都市によって破滅させられるものと思われます。なぜなら、反乱の際に都市は、勢力回復の契機として自由というスローガンと古くからの特権を持っているのですから。この二つは、どんなに時を経ようが、どんな恩恵を施そうが、忘れさられはしないのです。そして、それにたいして、何をしようが、どう対策を講じようが、都市は四散五裂していなければ、自由という名や自分たちの特権を忘れることはけっしてなく、あらゆる機会にそのもとへと直接糾合します。ピサは、フィレンツェに隷従してから百年の後に、そうしたのです。

しかし、君主のもとで生活するのに慣れ、しかも君主の家系が絶えた都市や地域では、一方では服従するのに慣れ、他方では古い君主がいないので、自分たちの間から君主を立てるのに合意することができず、また自己統治のやり方もわからないのです。こういう理由から、彼らは武器を取るのが極めて遲く、君主は彼らを味方につけることができ、やすやすと確保することができるのです。しかし、共和国ではもっと活力があり、憎悪も大きく、復讐心に富んでいて、以前の自由の記憶を決して忘れようとはしないので、もっとも安全な方法は、共和国を破壊するか、あるいはそこに住みつくことなのです。


第6章 自分の軍隊と力量で獲得した新しい君主国について

これから私がしようとする全く新しい君主国についての話で、君主についても国家についても最高の事例をもちだしたからといって、驚いたりしないでください。なぜなら、人間というものは、たいていの場合、他人が踏み固めた道を歩き、その行為をまねることで追従するものですが、他人の通った道を完全に辿ることもできないし、まねしようとする相手の力を手に入れることもできないからです。賢者はいつも偉人の踏み固めた道を辿り、至高の人のまねをするべきです。そうすれば、たとえその能力がそうした偉人に匹敵するものでなくても、少くともその風味を身につけることになるでしょう。あまりにも遠くに思われる的を射ようと思い、しかも自分の弓の力がどこまで届くか知っている賢明な射手は、的よりもっと高みを狙い、そのことで自分の力なり矢をそのような高みに届かせようとするのではなく、目標より高いところを狙うことで、射たい的に当てることを可能にするものですが、それと同じようにふるまうべきなのです。

だから、全く新しい君主国では、そこには新しい君主がいるわけですが、その国家を獲得した者の能力の多寡に応じて、そういう国家を維持する難しさに多寡が生じると言えるでしょう。さて、私人の状態から君主になるといった事態は才能か幸運のどちらかを前提条件にしているのだから、こうした二つのもののいずれも多くの困難をある程度は軽減するだろうことは明かです。それにしても、幸運に頼ることの少い者のほうが強固な地位を確保するのです。さらに言えば、君主が他に国家を持っておらず、本人自らがそこに住みつかざるをえないときのほうが、事態を容易にするのです。

しかし、幸運によってではなく自らの才能で君主に成り上った人たちに関するなら、モーゼ、キュロス、ロムルス、テーセウスといった人たちがその最も優れた実例と言えます。そしモーゼはただ神の御意志の執行者であるとして、誰もモーゼのことは吟味しようとはしませんが、とはいっても、神と語らう価値のあるものとした恩寵だけでも、彼を称賛すべきでしょう。しかし王国を獲得したり創建したキュロス等の人たちのことを考えると、全員が称賛に値することがわかります。彼らの個々の行動や振舞いをよく考えてみると、モーゼはかくも偉大な授戒者を持ったとはいえ、彼らがモーゼの行いに比べ劣ってるとは思えないのです。そして、彼らの行動や人生を検討してみれば、彼らが好機以上に運に頼ったわけではなく、その好機は彼らに最良と思われる形にかたどる素材をもたらしたのだいうことがわかるでしょう。そういう好機がなければ、彼らの精神の力は消え失せたでしょうし、またそういう力がなければ、好機も虚しいものとなったでしょう。

だから、モーゼにとって、エジプトのイスラエルの民が束縛から解放されようと彼に従う気にさせるためには、彼らがエジプト人に奴隷にされ抑圧されていることが必要でした。ロムルスがローマの王となり父祖の地の建国者となるためには、彼はアルバにとどまることなく、また生れ落ちるとすぐに捨てられることが必要でした。キュロスはペルシャ人がメディア人の統治に不満を抱き、メディア人が長い平和の軟弱で女々しくなっているのを知ることが必要でした。テーセウスはアテネ人が四散しているのを知らなければ、自分の才能を発揮できなかったことでしょう。こうした好機は、ですから、こうした人たちに幸運をもたらし、またそのすぐれた才能が彼らに好機を気付かせてくれました。この好機によって彼らの国は高貴なものとなり、有名になったのです。

これらの人と同じように武力によって君主となった者は、君主国を獲得するのに困難を伴うけれど、それを維持するのは容易です。君主国を獲得する上での困難は、一部は、彼らがその政権や保安を確立するために導入せざるをえなかった新しい規則や方法から生じるのです。そして、新しい秩序の導入の先頭にたつこと以上に、着手するのが難しく、行うのが危険で、成功が不確かなものにことを思い起すべきです。なぜなら革新者にとって、古い状況ではうまくやっていた人全員が敵であり、新しい状況でうまくやれそうな人はいいかげんな味方でしかないのですから。この冷淡さは一部は、反対派が自分たちの側に法を握っているので、彼らにたいする恐怖から生じます。また一部は、人間というものは新しい事物を長く経験してからでなければ簡単には信じないので、その猜疑心からも生じているのです。こうして、敵意のある人たちには遊撃隊のように攻撃の機会があり、一方ではその他の人たちは防衛に不熱心であれば、こうして君主は彼らとともに危険に陥ることになるのです。

ですから、この問題を隅から隅まで語りつくそうとしたいなら、こうした革新者が自らを恃むのか他人をあてにしているのか、すなわち、その事業を完遂するために祈るしかないのかそれとも力を行使できるのかを調べることが必要です。第一の場合はいつも上手くやりおおせず何事も達成できません。しかし、自らを恃みしかも力を行使できるなら、危険にさらされることは、ほとんどありません。それで、武装した預言者はみな勝利し、武装なき預言者は身を滅ぼしたのです。こうした理由のほかに、人々の本性は変りやすく、それで、彼らを説得するのは簡単ですが、その説得を受け入れたままにしておくのは難しいのです。こうして、彼らが信じなくなったときは、力ずくで信じさせることが可能となるような手段を講じることが必要なのです。

もしモーゼやキュロス、テーセウス、ロムルスが武装していなければ、自分たちの制度を長きにわたって押しつけることはできなかったことでしょう。それは私たちの時代にジロラモ・サヴォナローラ師の身に起ったのと同じことです。彼は大衆がもはや彼を信じなくなるとすぐに彼の新しい秩序とともに滅びました。そして、彼を信じてきた者をしっかりとつなぎとめ、信じていない者に信じさせる手段を持っていなかったのです。したがって、こうした人たちはその事業を成し遂げるのに大きな困難を抱えています。というのも、その危険はしだいに増大するからですが、それでも彼らは才能でそれらを克服していくのです。しかし、それらが克服され、彼らの成功を妬む人たちが根絶されると、彼らは尊敬されるようになり、その後は強大で安全で名誉ある幸福な状態が続くでしょう。

こうした偉大な事例にやや劣る一事例を加えておきましょう。やや劣るとはいってもそうした偉大な事例に似たところがあり、私は同様の事例すべてを十分代表するよう加えておきたいのです。それはシラクサのヒエロン[7]の事例です。この人は一私人の境遇からシラクサの王に成り上ったのですが、好機以外には運命の恩恵は受けませんでした。というのは、抑圧されていたシラクサ人は彼を自分たちの指揮者としたのであり、その後、その見返りとして自分たちの王としたのですから。彼は一私人としても大層な才能があり、彼について書いた人は、王として欠けていたのは王国だけだったと述べています。この人は古い軍制を廃止して新しい軍制を組織し、旧来の同盟を断って、新しい同盟関係を樹立しました。そして自分の軍隊と同盟者を手に入れると、こうした基盤の上に大建造物を築くことができたのです。このように彼は王国を得るには多くの苦労に耐えましたが、それを維持するにはほとんど苦労知らずでした。

英訳の注

[7] ヒエロン二世、およそ紀元前307年生、紀元前216年没。


第7章 他人の軍隊か幸運かによって獲得されて新しい君主国について

ただ幸運によってだけ私的な市民から君主となった者は、労せずに成り上がったのですが、頂点に留まり続けるには多難を極めるでしょう。彼らは突然その地位についたのだから、登りつめる道すがらにはなんの困難もなかったのですが、頂上にたどりつくと多くの困難が待ち受けているのです。どこかの国家を金銭と引き換えで、あるいは譲ろうという人の好意で手に入れた人たちも同様です。それはギリシアではイオニアやヘレスポントスの多くの都市で起こったことでした。その都市の君主はダリウスよってその地位についたのですが、それはダリウスの安全と栄光のためにその都市を維持させるためでした。また兵士の腐敗によって市民から皇帝になった場合も同様でした。こうしたことは彼らを登用した者の善意と幸運に依拠しているだけですが、この二つはもっとも変りやすく不安定なものなのです。彼らはその地位に必要な知識を持ち合わせてはいません。なぜなら、よほどの資産と才能に恵まれていなければ、ずっと私人の状態で暮してきたのに、命令のし方を知っていると期待するのが無理というものですから。また、彼らは味方となり忠実でありつづけるような手勢を持っていないので、その地位を保持することもできないのです。

思いがけず勃興する国家というものは、自然界の生れてはたちまち成長する他の事物と同様、しっかりした土台もなく、最初の嵐で転覆されないような安定した国家とは似たところもないのです。[ここに英訳注8があったのですが、省略しました。]言ったように、予期せず君主となった人たちが才能に恵まれていないかぎり、幸運がその膝に投げてくれたものを直ちにつかむだけの用意もなく、また彼が君主となる以前に他人がしつらえてれた土台を、後になって築かざるをえなくなるのです。

才能によるか、幸運によるかという君主に成り上るこの二つの方法に関して、記憶の中から二つの事例を挙げておこうと思います。それは、フランチェスコ・スフォルツァ[9]とチェザーレ・ボルジアの例です。フランチェスコは、適切な手段と大きな才能によって、一私人からミラノ公に成り上ったのですが、彼は獲得するのに幾多の苦心を重ねたのに、維持するにはほとんど苦労しませんでした。一方チェザーレ・ボルジアは、人々からはヴァレンティノ公と呼ばれましたが、父親の隆盛によってその国家を獲得し、父親が没落するとそれを失ないました。そうではあるけれど、他人の軍隊や運が彼に授けてくれた国家に根をしっかり張るために、あらゆる手立てを尽し、賢明で有能な人物がなすべきことをすべて行なったのです。

なぜなら、前に述べたように、最初は基盤を築いていなかった者も、大きな才能があれば後から基盤を築くことができるでしょうから。しかし、建築家は苦労をしょいこみ、建物には危険が伴うことになるでしょう。ですから、公のとったすべての道程を考察するなら、その将来の権力のための確固たる基盤を築くものであったことがわかるでしょう。私はそのことを議論するのが不必要なことだとは思いません。なぜなら、その行動という実例以上に、新しい君主に与える優れた教訓というものを、私は知らないのですから。そして、彼の手配がなんら役に立たなかったとしたら、それは彼の落度というより、運命の尋常ならざる極端な悪意のせいなのです。

アレクサンデル六世がその息子の公を強大にしようとしたとき、当面のまた将来の数多くの困難を抱えていました。まず第一に、彼を教会領以外の国家の主にする道はありませんでしたが、もしすすんで教会領を奪おうとすれば、ミラノ公やヴェネツィア人が同意しないのはわかっていました。というのは、ファエンツァとリミニはすでにヴェネツィア人の保護下にあったからです。そのうえ、イタリアの軍隊、特に援軍としたい軍隊は、教皇が強大化になるのを恐れる者たち、つまりオルシーニ家とコロンナ家、その追従者の手に握られていました。だから、こうした情勢を覆し、諸勢力を紛糾させて、その国家の一部を確実に支配下に置くことは、当然のことであったのです。これは彼にとって、たやすいことでした。というのは、ヴェネツィア人たちは、別の理由に突き動かされて、フランス軍をイタリアに呼び戻そうとしていたからです。彼はこれに反対しなかっただけでなく、ルイ王の前の婚姻を解消することで、それをいっそう容易にしました。それで、ヴェネツィア人の支援とアレクサンデルの同意のもとに、王はイタリアに侵入したのです。王がミラノに入るや、教皇はロマーニャ攻略のための兵を王から借り受け、王の威信のもとロマーニャは教皇に屈っしました。こうして、公はロマーニャを獲得し、コロンナ家を打倒し、ロマーニャを保持してさらに歩を進めようとしましたが、二つのことがそれを邪魔したのです。一つはその手勢が彼に忠実でないように思えたこと、もう一つはフランスの意志でした。つまり、それまで使ってきたオルシーニ家の手勢が彼の味方とならず、彼がそれ以上勝利するのを阻むばかりか、彼が勝ち得たものを簒奪しようとし、また王も同様であることを、公は恐れたのです。オルシーニ家については、ファエンツァを得た後、ボローニャを攻撃したとき、彼らがいやいや攻撃に赴いていることが判ったとき、警戒心を抱きました。また王については、ウルビーノ公国を得た後、トスカーナを攻撃したとき、王がその企図を思い留めようとして、その腹積りを悟ったのです。そこで、公はもはや他人の軍隊や運に頼るまいと決心しました。

まず手始めに、彼はオルシーニ党とコロンナ党の支持者の貴紳を自分の側へ引き入れ、自分の貴紳とし、よい報酬を与え、その地位にしたがって、文官や武官として厚遇し、こうして数ヶ月のうちには、両党派のとりまきは切り崩され、完全に公の側に寝返ったのです。これによって公はローマにおける両党を弱体化したのでした。こののち公は、コロンナ家の支持者を追い散らしてしまうと、オルシーニ家を壊滅する機会を待ちました。その機会はすぐに訪れ、公はその機会を巧みに利用しました。というのは、オルシーニ家は、公や教会の強大化は自分たちの滅亡であることにやっと気づくと、ペルージャ領内のマジョーネに会したからです。このことから、公にたいする際限のない危難となった、ウルビーノの反乱やロマーニャの騒乱が起きたのですが、公はフランスの助力でこれに打ち勝ったのです。公はその権力を回復すると、フランスやその他の外国の勢力を信用して危険にさらされないよう、策謀をめぐらせましたが、その考えをうまく隠したので、パオロ・オルシーニ卿の仲介―公はそれを確かなものとするため彼に金銭、衣裳、馬を贈った―によって、オルシーニ家は和解し、その単純さから、シニガリアで公の手のうちに落ちたのでした[10]。その領袖たちを皆殺しにし、その一味の者を味方として、公は十分に確固とした権力基盤を築いて、ロマーニャ全土とウルビーノ公国を手に入れたのでした。そして今や人々がその繁栄を謳歌しはじめると、公は完全に彼らを味方につけたのでした。この点は注目に値することで、他の人もまねるべきところであり、私は無視するわけにはいかないのです。

公がロマーニャを領有してみると、そこが意志の薄弱な支配者のもとにあったことを悟りました。その支配者たちは臣民を支配するのでなくて収奪し、その団結をはかるどころか分断の種をまき、国中に強盗や諍い、ありとあらゆる暴力沙汰がはびこっていたのです。そこで公は平和と権威への服従を取り戻そうと思い、優れた総督を送り込むことが必要だと考えました。そこでラミロ・ドルコル卿[11]という敏速で残忍な男を登用し、全権を委ねたのです。この男はたちまち首尾上々に平和と統一を回復しました。その後、公はこのような過度の権限を与えるのは賢明ではないと考えました。というのは、憎まれるのではないかという疑いをもったからです。そこで国内にもっとも優れた裁判長のもとに裁判所を設置し、そこに全都市がその弁護人を置くようにしました。そして、過去の苛烈が公自身にたいする恨みを引き起こしているのを知ったので、人々の心のうちで公自身を清廉なものにし、人々を完全に自分が取り込むために、残忍なことが行われたとすれば、自分に原因があるのではなく、代官の厳格な気性のせいだということを示そうと望んだのです。この口実でラミロを捕え、ある朝、彼を処刑して、木片と血塗りのナイフを傍らに置いて、チェゼーナの辻に晒しました。この残忍な光景に、人々は直ちに満足するとともに狼狽したのでした。

さて、私たちの出発点に立ち戻ってみましょう。公は今や十分に強力となり、それなりに自分の軍備を整えることで、ある程度は目の前の危難から安全となり、彼に損害を与えるような近隣の諸勢力はあらかた粉砕したので、彼がさらに征服の歩を進めたければ、次に考慮すべきなのはフランスのことでした。というのは、フランス王は自分の過ちに気付くのがあまりに遅すぎたのですが、もう公を支援しないことは、公にはわかっていたからです。そこでこれ以降、公は新しい同盟者を捜しはじめ、ガエタを包囲したスペイン軍に対抗してフランスがナポリ王国へ遠征したさいには、フランスにたいして日和見を決めこんだのです。公の意図はフランスから我が身を守ることでした。もしアレクサンデルが生きてさえいれば、このことはたちまち達成できたことでしょう。

これが当面の事態にたいする彼の方針だったのです。しか将来にたいしては、彼は、そもそも、教会の新しい後継者が彼に友好的でなく、アレクサンデルが与えてくれたものを取り上げるのではないかと恐れざるをえませんでした。そこで次の四つのやりかたで行動しようと決断しました。第一は、これまで略奪してきた領主に一族を根絶やしにして、教皇に口実を与えないようにすることでした。第二には、もう見たように、ローマの貴紳をみんな味方にして、その助力で教皇を抑制できるにようにすることでした。第三は、聖職者団体をもっと自分寄りに変えることでした。第四には、現教皇が死去するまえに、自分の手立てで最初の衝撃に耐えられるようにするため、もっと権力を手に入れることでした。この四つの事柄のうち、アレクサンデルの死去の時点では、三つが完了していました。というには、地位を奪われた領主のうち、襲うことのできた大多数は殺し、難を逃がれたのはわずかだったし、ローマの貴紳は味方につけ、聖職者団体では最大派閥を擁していたのです。そして新しい領土獲得については、トスカーナの主になるつもりでした。というのはもう既にペルジアトピオンビオを得ていたし、ピサは彼の保護下にあったからです。そしてもうフランスのことを気にかける必要がなくなった(なぜなら、フランスはスペイン軍によってナポリ王国から駆逐され、こうしてフランスとスペインの双方とも彼の好意を買わざるをえなかったから)ので、ピサを急襲したのです。この後、一部は憎しみから、また一部はフィレンツェ人にたいする恐れから、ルッカとシエナはすぐに屈っしました。またフィレンツェ人に回復策がなかったら、彼は成功を続けていたでしょう。アレクサンデルの死までは成功してきたように。というのは、彼は大きな権力と名声を得て、自立しており、もはや運や他人の勢力に依らずに、自分の権力と才能だけでやっていけたでしょうに。

しかし、彼が初めて剣を抜いてから五年のうちにアレクサンデルは死去したのです。彼が公に残したのは、ロマーニャの国家が唯一確固としたもので、残りは強大な敵軍の間に無夢散し、それと死に至る病なのでした。けれど、公には途方もない大胆さと才能があり、どうすれば人を味方につけ敵にまわすか、よくわかっていたし、また極めて短期のうちに築いた基盤はとても強固なので、こうした敵軍に苦しめられたりせず、健康であったら、公はあらゆる困難に打ち勝ったことでしょう。わかるように、その基盤はしっかりしていました。というのは、ロマーニャは一月以上も彼を待ち続けたのです。ローマで、彼は半死半生でしたが、身の安全は確保されていました。また、バリオーニ家、ヴィッテリ家、オリシーニ家の者たちがローマに来たとはいえ、彼にたいしてなにも成しえなかったのです。彼が望む者を教皇にすることはできなかったにしろ、少くとも望まない者が選出されないようにはできたはずです。アレクサンデル死去[12]の際に健康な状態にあったなら、すべては彼に都合よくことが運んだことでしょう。ユリウス二世[13]が選出された日に、彼が私に語ったのは、彼の父親が死んだら起こることはすべて考え、あらゆることに回復策を用意してあったが、実際に父親が死んだときに、まさか自分自身が死にかけるとは、思いもしなかったということでした。

公がとった行動をすべて思い返してみると、私には彼を非難すべきところは見当らないどころか、これまで述べたように、運と他人の武力で統治者に成り上がった人はみな彼を見習うよう勧めたいほどです。なぜなら、彼は高邁な精神と広大な目的を抱き、これ以上はやれないほど自分の行為を統御したのですが、ただアレクサンデルの短命と自分の病によって、その企図を阻まれたのですから。それだから、自分の新しい君主国で自分自身の身の安全を確保し、味方を増やし、武力か策略で制圧し、自分を人々から敬愛されるとともに畏怖されるようにし、兵士に従われかつ敬われ、彼を傷つけるだけの力と理由のある者たちを根絶し、古い制度を新しい制度に変え、苛烈にして慈悲深く、寛大でかつ気前よくし、不忠の軍隊を解体して新しい軍隊を創設し、王侯君主とは友好を保って、彼らが熱心に彼を援助し、困らせるにも慎重を期さざるをえないようにすることが、必要だと考える人には、この人の行動ほど生きいきとした実例は見つからないでしょう。

唯一彼がとがめられるのは、ユリウス二世の選出についてだけです。彼は過った選択をしたのです。なぜなら、言ってきたように、彼の意に沿う教皇を選出できなくても、それ以外の者が教皇に選出されるのを邪魔することはできたはずですから。それで、彼が傷つけたことのある枢機卿や教皇になったら彼を恐れる理由のある枢機卿が選出されることに、同意すべきではなかったのです。というのも、人が危害を与えるのは、恐怖か憎悪のどちらかによるからなのです。とりわけても、彼が傷つけた者というのは、サン・ピエトロ・アド・ヴィンクラ、コロンナ、サン・ジョルジョ、アスカニーオでした[14]。ルーアンとスペイン人以外の他の誰が教皇になっても、彼を恐れたでしょう。スペイン人はその親族関係と恩義から、ルーアンはフランス王国と彼との関係で、彼の影響下にあることから、彼を恐れることはなかったのです。だから、公は何よりもまず、スペイン人の教皇を立てるべきであり、それに失敗したなら、サン・ピエトロ・アド・ヴィンクラではなく、ルーアンを承諾すべきだったのです。お歴々に新しい恩恵を施せば、古傷を忘れてもらえると信じる者は、欺かれます。こうして、公はその選択を誤り、それが最終的な破滅の原因となったのです。

英訳の注

[9] フランチェスコ・スフォルツァは1401年生れ、1466年没。彼はミラノ公フィリッポ・ヴィスコンティの庶出の娘ビアンカ・マリア・ヴィスコンティと結婚し、フィリッポの死後、公国の君主になる道を得た。マキャヴェリは、シニガリアでのオルシーニ一族とヴィッテリの暗殺に至った諸事件の期間、チェザーレ・ボルジア(1478ー1507)のもとへフィレンツェ共和国の公式代表として赴いており、フィレンツェの上司への手紙とともに、『君主』の十年前に書かれた、公の処断の説明を『ヴィッテロッツォ・ヴィッテリ等を殺害したさいにヴァレンティノ公がとったやり方についての記述』に残した。その翻訳はこの本の付録にある。[この翻訳が基いているeBooks@Adelaideのテキストにはこの付録は収録されておらず、この翻訳でもその付録は含めていない。]

[10] 1502年12月31日のシニガリアでのこと。

[11] ラミロ・ドルコルはラミロ・デ・ロルカともいう。

[12] アレクサンデル六世は1503年8月18日に熱病で死んだ。

[13] ユリウス二世はサン・ピエトロ・アド・ヴィンクラの枢機卿、ジュリアーノ・デラ・ロヴェーレで、1443年生、1513年没。

[14] ユリウス二世はサン・ピエトロ・アド・ヴィンクラの枢機卿であった。サン・ジョルジョはラファエル・リアクシス、アスカニーオはアスカニーオ・スフォツァ枢機卿のこと。


第8章 非道によって君主国を獲得した者たちについて

完全に運や才能によるものだとすることのできない二つの方法によって、私人の状態から君主に成り上がることもあるのですが、これについて口をつぐんでおくべきではないのは明かだと思います。とはいえ、そのうち一つについては共和国について論じるさいにもっと詳しくあつかうのですが。この方法には、極悪非道なやり方で君主に登りつめる場合と、同胞市民の好意によってその国の君主になる場合があります。最初の方法について言えば、一つは古代のもう一つは現代の、二つの事例で説明し、この話題にはこれ以上立ち入らないことにします。強いてその真似をしたい人には、この二つの事例で十分だと思います。

シシリア人のアガトクレス[15]は、一私人というだけでなく下層の卑しい身分からシラクサの王となりました。彼は陶工の息子でしたが、その運がどう変ろうと悪評高い生き方を送ったのです。それにもかかわらず、彼の悪業には心身のすぐれた能力が伴なっていたので、軍務に身を投ずると、位階を登りつめて、シラクサの法務官となりました。その地位を確保し、自ら君主になり、これまでは同意によって与えられてきたものを、他人に恩義も感じずに、暴力で奪い取ろうと慎重に決意を固めると、カルタゴ人のハミルカルの合意を取りつけました。このハミルカルは、軍を率いて、シシリアで戦っていたのです。ある朝、彼は、共和国に関わる事柄を討議するかに装って、シラクサの人民と元老院を召集すると、取り決めておいた合図とともに、兵士が元老院議員と人民の中でも最も富裕な人々を全員殺しました。こうした人たちが死ぬと、彼は市民の動揺もなしに、この市の君主の座を奪い取り、居座ったのです。そしてカルタゴ軍によって二度も敗走させられ、ついには包囲されたにもかかわらず、その市を守りぬいたばかりか、兵の一部を守りに当らせ、残りを率いてアフリカを攻撃し、短期のうちにシラクサの包囲を解かせたのです。カルタゴ軍は窮地に陥り、アガトクレスと和睦せざるをえず、シシリアは彼に任せて、アフリカの領有で満足するしかなかったのです。

だから、この人の行動や才能をよく考えてみると、見てきたとおり、彼が傑出したものとなったのは、誰かの好意によってではなく、軍務で一段づつ登りつめたことによってであって、その昇進には幾多の困難と危険を伴い、またその後、大胆にも何度も危険を冒すことによってその地位を守ったのだから、運に帰すべきものは、全くといっていいほど見当たりません。しかし、同胞を殺戮し、友人を欺き、信義も慈悲も信仰もなかったことを、天賦の才ということはできません。こうしたやり方で帝国を得ることはできても、栄光は得られないのです。それでも、危険に飛び込んでは逃がれ出るアガトクレスの勇気を、苦難に耐えながらそれを克服するその精神の偉大さとあわせて、熟考すれば、彼を傑出した武将より劣ると評価する理由は見当たりません。にもかかわらず、彼の野蛮な残虐さと際限のない非道を伴った非人情によって、彼を優れた偉人に列することは認めることができないのです。彼の成し遂げたことは、運にも才能にも帰すことができません。

私たちの時代では、アレクサンデル六世の治下に、オリヴェロット・ダ・フェルモがいますが、彼はずいぶん以前に孤児となり、母方の伯父のジョヴァンニ・フォリアーニに養育されました。そして青年時代の初めには、パオロ・ヴィッテリの指導の下で訓練を積み、その下で戦いにあけくれ、軍務で高い地位を得ようと思ったのでした。パオロの死後には、その弟のヴィッテロッツォの下で戦い、極めて短期のうちに、機転と強健な心身に恵まれていたので、軍の第一人者となったのです。しかし、他人に仕えるのはつまらないことに思えたので、自分の国が隷属するほうが自由でいるよりましだと思うフェルモ市民の支援を得て、またヴィッテリの助力により、フェルモを強奪しようと決心したのです。そこでジョヴァンニ・フォリアーニに、多年にわたり故郷を留守にしたが、伯父とその市を訪問し、家督がどれほどが見ておきたいと、手紙を書き送りました。さらに、苦労してきたのは名誉を手に入れるためだけであったが、市民に無駄に時を送ったのではないことを知ってもらうため、百騎の騎兵と友人、家臣を引き連れて、故郷に錦を飾りたい。そして、ジョヴァンニにはフェルモの市民に丁重に迎えるよう取り計らい願いたい。そうすれば自分の栄誉となるだけでなく、育ての親のジョヴァンニの栄誉ともなるのだから、と書き記したのでした。

それで、ジョヴァンニは甥のために準備万端手抜かりなく整え、フェルモ人に丁重に迎えさせました。オリヴェロットは、自分の家に投宿して、数日を送り、その非道な計画に必要なことが整うと、盛大な宴会を開いて、ジョヴァンニ・フォリアーニやフェルモの指導者たちを招待したのです。ご馳走もそうした宴会につきものの余興が終ると、オリヴェロットは巧みに深刻な話題をしはじめ、教皇アレクサンデルとその息子チェザーレ、ならびにその事業の偉大さについて語り、その話題にジョヴァンニや他の者たちが反論すると、彼はやにわに立ち上がり、こういう事項はもっと私的な場所でするべきだと言って、一室に入っていったので、ジョヴァンニやその他の市民は彼の後に続きました。彼らが席につくや、秘密の場所から兵士は現われて、ジョヴァンニやその他の者を殺戮しました。この殺人の後、オリヴェッテロは馬に乗って、町中を駆けめぐり、主席政務官を宮殿に閉じ込め、それで人々は恐怖のあまり彼に服従せざるをえず、彼を君主とする政府を作るしかなかったのです。彼は自分を傷つけることのできる不満分子をすべて殺し、新しい民事法令や軍事法令で自分を強化し、こうして、彼が君主であった一年間は、彼はフェルモの市で身の安全を確保したばかりか、近隣諸国から恐れられる存在となりました。チェザーレ・ボルジアに出し抜かれたりしなければ、アガトクレスと同様、彼を滅ぼすのは困難でした。チェザーレは、前述の通り、彼をオルシーニ家やヴィッテリとともにシニガリアで捕えたのです。こうして父殺しを犯してから一年後、彼の武勇と非道の師であったヴィッテロッツォとともに、縊り殺されたのです。

アガトクレスやその同類は、数えきれない裏切りと残虐の後、その国で長きにわたってその身を守り、外敵から自分を防衛し、その同胞市民から陰謀を企てられることがなかったのに、他の多くの者たちが、残虐な手段をつかいながら、平時においてすら国を保持できず、戦時の不確かな時代にはまして国を保持できなかったのは、どうして生じるのか不思議に思う人もいることでしょう。私が思うに、残酷さ[16]を誤って使うか、適切に使うかによるのです。悪事に適切という言葉を使うのが妥当だとして、適切に使うというのは、一挙に行なわれ、しかもだれかの身の安全上に必要である場合であって、臣民の利益にならないかぎりは、その後繰り返されることはないという使い方なのです。誤った使い方は、最初はわずかであったにもかかわらず、回を重ねるごとに、おさまるどころかひどくなるような使い方です。最初のやり方を行なった者は、神か人の助けによって、アガトクレスと同じように、ある程度まで自分の支配の苛烈さを和らげることができますが、もう一つのやり方にしたがう者は、自らを保つことができません。

したがって、国家を強奪するにさいしては、強奪者は加える危害が必要なものか綿密に検証し、そうした危害を日常的に繰り返さなくてすむよう、一撃で事を済まさなければならないということに、注意をはらっておくべきです。そうすれば、人々に動揺を与えないことで、彼らを安心させ、恩恵で彼らを味方につけることができるのです。臆病や有害な助言から、そうでないやり方をすれば、いつも剣を握りしめておかなければならなくなり、絶え間なく何度も悪事を繰り返すために、臣民を信頼することも、臣民に慕われることもできません。というのは、危害を加えるのは一挙に済ますべきで、そうすることで、味合うのが少ければ、不快な思いをするのも少くなるのだから。また恩恵は少しづつ与えるべきで、そうすることで、その香気は長く残るでしょうから。

そしてなによりも、良きにつけ悪きにつけ、予期せぬ状況が起こっても変わることのないよう、その人民とともに暮すべきです。なぜなら、騒乱の時代にこうしたことが必要となれば、苛酷な施策をとるには遅すぎるし、寛大な施策も、やむなく出したものと考えられて、役に立たず、そのために、恩義を感じる者はだれもいないのですから。

英訳の注

[15] シシリア人アガトクレスは、紀元前361生、紀元前289年没。

[16] バード氏の言うところでは、この語(英訳では"severities")の意味はおそらく、マキャヴェリが"crudelta"と言うときに考えているものの現代的な相当語のほうが、もっと明らさまな"cruelties"という語よりも、近い。


第9章 市民君主国について

さて、ある指導的市民が、非道や耐えがたい暴力によるのではなく、同胞市民の好意によって、その国の君主になるといった、別の論点に話題を移すと、こうした国は市民君主国と呼んでもよいでしょう。その地位を得るには、才能だとか運だとかはまるで必要ではなく、むしろ巧妙な如才なさが必要なのです。言っておくと、このような君主の地位は、民衆の好意か貴族の好意のどちらかによって得られるものなのです。なぜなら、どの都市でもこの二つのはっきり区別された党派が見られるものですし、このことから、民衆は貴族に支配されたり抑圧されたりはしたがらないし、貴族は民衆を支配し抑圧したいと望むということが生じ、そして、この二つの相反する欲望から、都市は、君主制、自治、無政府状態という三つの結果のいずれかになるのです。

民衆と貴族のどちらか好機をつかむかによって、このうちのどちらかが君主制を創設します。というのは、貴族は、民衆をおしとどめることができないと悟ると、自分たちのうちの一人の名声を誉めそやし、彼を君主にするのです。そうやって、その影の下で自分たちの野望を遂げようとするのです。民衆は、貴族に抵抗しきれないと分ると、これまた、自分たちのうちの一人の名声を誉めそやし、彼を君主にして、その権威で守ってもらおうとするのです。貴族の支援で君主の地位に就いた人は、民衆の助力でその地位に就いた人より、自分の地位を維持する上でより多くの困難を伴ないます。なぜなら、貴族の支援による場合は、自分と同等だとみなされる者たちがその周りに多数いることに気づき、そのため、自分の意のままに彼らを支配したり統制したりできなくなるからです。しかし、民衆の好意によって君主の座に登った人は、自分に服従する覚悟のできていない者は、その周りには一人もいないか、いても極くわずかなのです。

そのうえ、公正に扱うことや他人を傷つけないことでは、貴族を満足させることはできませんが、民衆を満足させることはできます。というのは、貴族は抑圧したいのであるのに、民衆のほうはただ抑圧されたくないということであって、民衆の目的のほうが貴族の目的より正義にかなったものなのですから。またそれに加えて、敵対する民衆というものは、数が多いので、君主はそれにたいして我が身を守ることは決してできませんが、貴族からなら、その数も少いので、身を守ることができます。敵対する民衆から君主が予測しうる最悪のことは、彼らから見捨てられることですが、敵対する貴族からだと、ただ見捨てられることを恐れるだけでなく、彼にむかって反乱することも恐れなければなりません。というのは、貴族は、こうした事情では、もっと先を見遠せるし、抜け目もないので、いずれは我が身を救い、また彼からではなく有力になるだろうと思われる人物から好意を得ようと、企むものだからです。さらに、君主は常に同じ民衆とともに暮さざるをえませんが、同じ貴族がいなくても、うまくやれるし、日々貴族を作ったり潰したりできるし、したいように、権限を与えたり取り上げたりできるのです。

それで、この点をもっとはっきりさせるために言っておくと、貴族というものは主に次の二つのやり方で見なければならないのです。つまり、自分の行動指針を完全に君主の運に従うものとして定めるのか、そうでないのかの二つです。そういうふうに従い、また強欲ではない人は、尊敬され愛されるにちがいありません。そんなふうに従わない人は次の二通りのやりかたで扱われるでしょう。小心でもともと勇気が欠けているために、そうやれない人は、特に良き相談役として利用すべきです。そうすることで、順調なときは自らの名誉とし、逆境のときは彼らを恐れる必要もなくなります。しかし自分の野心的な目的のために従わないなら、それは彼が君主より自分のことに一層思いを巡らせている徴候であり、君主はそうした者を警戒し、公然たる敵のように恐れるべきです。なぜなら逆境のときには、彼らはいつも君主の破滅に手を貸のですから。

それだから、民衆の好意によって君主になった人は、民衆と親しい関係を保たねばなりませんが、民衆は彼に抑圧されたくないだけだということがわかれば、これをなすのは簡単です。しかし、民衆と対立して、貴族の好意で君主になった人は、なによりもまず、民衆を味方につけようとしなければなりませんが、民衆を庇護のもとにおけば、これは容易でしょう。なぜなら、人間というものは、自分に害をなすものと思っていた人から恩恵を施されると、その恩人に強く結びつくものなのです。こうして、民衆はたちまち、自分たちの好意で君主の座に就けたときよりいっそう、彼につくすようになります。君主は多くのやり方で民衆の心をつかむことができますが、それは状況しだいで様々であり、確固たる規則を当てはめることはできないので、省略したいと思います。しかし、繰り返しておきますが、君主が民衆と親密であることは必要なことで、そうでなければ、逆境で身の安全を図ることはできないのです。

スパルタの君主ナビス[17]は、全ギリシア軍と常勝のローマ軍の攻撃を受けましたが、それに対抗して自分の国と政権を守りました。この危難を克服するには、彼は少数の人にたいして身を守ることだけで十分でしたが、民衆を敵にまわしていたら、それでは収まらなかったことでしょう。さて、「民衆に依拠するのは、泥の上に築くがごとし」という陳腐な格言で、この意見に異論をさしはさまれないようにしておきましょう。というのは、この格言が正しいのは、一私人が民衆に依拠し、敵や為政者に迫害されれば、民衆が自分を解放してくれるだろうと、思いこむときなのです。そうなったときには、自分が欺かれていたと悟るのは、よくあることです。例えば、ローマのグラックス兄弟やフレンツェのジョルジョ・スカーリ殿[18]に起ったことがそうなのです。しかしそれが上に述べた地歩を固めた君主であるとすると、彼は命令を下せるし、逆境にもひるまない勇敢な人であり、他の資質にも翔るところがなく、その決断と活力で全民衆を鼓舞しつづけるでしょうから、こうした人は民衆から欺かれることはないし、その基盤がしっかりしたものであることを見せつけることでしょう。

こうした君主制が危機に陥りやすいのは、それが市民的な統治秩序から絶対的統治秩序へと移り変るときです。というのは、こうした君主は親政を行うか、政務官によって統治するかのどちらかですが、政務官による場合は、より脆弱で不安全なものとなります。なぜなら、それは政務官になった市民の善意に全面的に依拠しており、彼らは、特に難局においては、陰謀だの公然たる反抗だので、極めて容易に、政権を覆すことができるのですから。それに、君主のほうは、大騒動のさ中に絶対的権限を行使する機会がないのです。なぜなら、民衆や臣民は政務官から命令を受けるのに慣れ、こうした混乱の中では君主に従おうというつもりはないし、また将来が不安な時期には信頼に足る人物は不足するものですから。というのも、平穏な時期には、市民が国家を必要としており、それで誰もが君主を是認しているから、こうした混乱時の君主は、平穏な時期に見知ったことをあてにはできないのですから。彼らはみな君主のために命を投げ出すと請け合い、死が遠く離れているときは、そうするつもりでいるのです。しかし難局では、国家が市民を必要とするのですが、君主はわずかしか人材を見出せないのです。こうしたことを実地に体験するのは危険なので、それを試すのは一度きりしかありません。それだから賢明な君主は、市民がつねに、どんな状況のもとでも、国家と君主を必要とするような方針を採るべきです。そうしておけば、いつだって市民が忠実なことが判ろうというものです。

英訳の注

[17] ナビスはスパルタの独裁者で、紀元前195年にフラミニウス率いるローマ軍に破れ、紀元前192年に殺された。

[18] ジョルジョ・スカーリのこの事件はマキャヴェリの「フレンツェ史」第三巻にある。


第10章 あらゆる君主国の兵力をどう測るべきかについて

これらの君主国の性格を吟味するのに別の観点から考察することも必要です。それはつまり、必要な場合には、自分の力量で自らを維持できるような支配力を持っているのか、それとも常に他国からの支援を必要とするのか、という点です。この点を完全に明確にしておくために言いますと、私が思うに、自分の力量で自らを維持できる者というのは、人材や資金が豊富で、誰であれ攻撃を加える者とは戦闘を交じえるだけの軍隊を召集できる者だと思います。また、常に他国を必要とする者は、戦場で敵の前に姿を見せることができず、城壁にかげに隠れることでしか、身を守ることができないでしょう。第一の場合については、すでに論じてきましたが、立ち返る必要があれば、再度語りましょう。第二の場合は、そうした君主には、自分の町に食糧を備蓄し防備を固め、決してその領土を守ろうとしないよう勧めるしか、言いようがありません。そうして、自分の町の防備を固め、その臣民に関する他の事柄については、上に述べ、また何度も繰り返し述べるやり方で運営するなら、慎重を期すこともなく攻撃を加えられることは決してありません。というのは、人間というものは困難だと見てとれる企図には反対するものですし、自分の町の防備をきちんと固め、人民から憎まれていない君主を攻撃するのは容易なことではないと分るのですから。

ドイツの諸都市は完全に自由で、周辺にほとんど領土を持たず、自分たちに都合がよければ皇帝に服従しますが、そうでなければ、皇帝も近隣のいかなる諸勢力も恐れません。なぜなら、これらの都市を攻撃して手に入れるは厄介で困難だと、誰もが思うようなやり方で防備を固め、適切な溝や城壁を備えており、十分な火砲を持ち、公共倉庫には常に一年間分の食糧、飲料、燃料を備蓄しているからです。さらにそれ以上に、人々を平静に保ちながら国家が損失を蒙らないよう、都市の生命にして活力である労働者に公共作業を与えるという手段を持ち、それで人々が生活の糧をまかなうようにしているからです。また軍事教練を名誉あるものにし、その上、こうした教練を維持するために多くの法令を用意しているのです。

だから、強力な都市を持ち、憎しみを買わないようにしてきた君主は、攻撃を受けることはないでしょう。たとえ誰かが攻撃したとして、追い払われて恥をかくだけです。また、この世の事柄は移ろいやすいものなので、なんの邪魔だてもなく丸一年の間、出兵したままでいることなど不可能です。これに反論して、人々が市外に財産を持っていて、それが焼き払われるのを見たら、忍耐し続けることができず、長期の包囲戦と私利私欲から君主を見捨てるだろうと言う人がいるかもしれません。これに対しては、強力で勇敢な君主はその臣民に、あるときは災いは長くは続かないという希望を与え、またあるときは敵は残忍だという恐怖を与えて、彼にはあまりに向う見ずに思える臣民を巧みに避けて、こうした困難をすべて克服するだろうと、答えておきましょう。

さらに言えば、敵は当然にも、到来するや直ちに領土内を焼き破壊するでしょうが、その時には人々の気持はまだ熱く防衛の覚悟ができています。だから、それだけ一層、君主は二の足を踏むべきではありません。なぜなら、しばらくすれば、気持が醒め、すでに損害を受け、災難を蒙り、もはや修復のしようがないからです。それだから、人々は、君主を守るために自分の家を焼かれ、その財産を破壊された今こそ、君主は彼らに恩義を感じていると思い、ますます自分たちの君主と一体化しようという覚悟を固めるのです。というのも、人間の本性というものは、受けた恩恵と同様、施した恩恵にも束縛されるものですから。ですから、すべてをよく考えてみると、賢明な君主にとって、市民を養い守ることに失敗しなければ、その市民の気持ちを徹頭徹尾、確固としたものにしておくのは、困難なことではないのです。


第11章 教会君主国について

今や残っているのは、教会君主国についてだけとなりました。この君主国のあらゆる困難はそれを手に入れるよりも以前にあるのですが、この君主国を論じていきましょう。なぜそうなのかと言えば、それを得るには力量か幸運かによるのですが、これを保持するにはどちらもなくてよいからです。それというのも、教会君主国は宗教というしきたりによって支えられており、万能のものであって、君主がどう振舞いどう生活しようと君主制は揺がないという性格を持っているからです。こうした君主だけが国家は所有するがそれを防衛せず、臣民を抱えているがそれを支配しないですむのです。国家が無防備だとしても、奪われないし、臣民は支配されていないとしても、気にしないし、離反しようという気持ちもないし、そうする能力もないのです。こうした君主国だけは安全で幸福なのです。しかし、人知の及ばない力が支えているのですから、私はこれ以上語るのを止めましょう。なぜなら、こういう国は神が称え支持しているので、それについて論じるのは不遜で軽率な人間のやる行いですから。

とはいっても、以前はイタリアの有力君主は(有力君主とよばれる人たちだけなく、弱小な豪族貴族からも)教会の世俗権力を取るに足りないものとしてきたのに、アレクサンデルが出てからは、今やフランス王さえその前に身をすくめ、フランスをイタリアから駆逐し、ヴェネツィアを破滅させるにまでなったのを見て、どのようにして教会はこのような強大な世俗権力を得たのかと問う人があるかもしれません。このことは一目瞭然のことでしょうが、ある程度まで記憶から呼び起しておくのも、無駄ではないと思います。

フランス王シャルルがイタリアに入り込む[19]以前、この国は教皇、ヴェネツィア人、ナポリ王、ミラノ公、フィレンツェ人の支配下にありました。これらの諸勢力には二つの主な懸念を抱えていました。一つは、外国勢力が軍隊を率いてイタリアに侵入するのではないかということ、もう一つは自分たちのうちの誰かがさらに領土を拡張しないかということです。とりわけ最大の懸念は教皇とヴェネツィア人でした。ヴェネツィアを阻止しようとするには、フェラーラ防衛のときのように、その他の全勢力が連合することが必要でした。教皇を抑えておくには、彼らはローマの貴族を使ったのです。ローマの貴族はオルシーニ派とコロンナ派という二つの派閥に分れ、たえず騒乱の口実を設けては、教皇の面前で武器を携えて競いあい、教皇の地位を弱体化させ、無力化してきたのです。そして、ときにはセクストゥス四世のような勇敢な教皇が現われたにせよ、時の運も賢明さもこうした頭痛の種を片付けるに至りませんでした。さらに教皇が短命であることも、弱体化の原因となりました。教皇の在位の平均である十年間では、両派閥の一方を弱めるのがやっとのことであって、言ってみれば、ある教皇がコロンナ派をほとんど破滅寸前にしたとしても、別の教皇がオルシーニ派に敵意を抱いて、その対抗勢力を支援するのですが、オリシーニ派を破滅させるだけの時間もないのです。これがイタリアで教皇の世俗権力がほとんど尊重されなかった理由でした。

のちにアレクサンデル六世が現われて、これまでの教皇の誰よりも、財力と軍隊を持つ教皇がどれほど優勢になりうるかを示しました。そしてヴァレンティノ公の助けを得て、またフランスの侵入を理由に、先に公の行動を論じた事柄をすべて成し遂げたのです。教皇の意図が、教会の強大化でなくて、公の強大化にあったにせよ、彼がなしたことは、彼の死と公の破滅の後、その苦労の産物すべてを相続した教会の強化に寄与したのです。

その後、教皇ユリウスが現われましたが、教会は強力になって、ロマーニャ全域を所有しており、ローマの貴族は無力化し、アレクサンデルの厳罰で派閥は一掃されていました。また彼にはアレクサンデルの時代より前には実施されたことのないやり方での蓄財の道が開かれていたのです。ユリウスはこうしたことを追従しただけでなく、改良したのです。そしてボローニャを獲得し、ヴェネツィアを破滅させ、フランスをイタリアから駆逐しようと思ったのです。こうした企図はすべて成功し、しかも彼はすべてを私人のためでなく、教会の強化のために行なったので、ますます声望を高めたのです。彼はまたオルシーニとコロンナの両派閥を、すでに陥いっていた制約の内に閉じ込めました。彼らのなかには騒乱を企む者もいましが、それでもユリウスは二つのことを確実なものとしました。一つは教会の強大化であり、それで両派を怖けづかせたのです。もう一つは彼らの枢機卿を出させなかったことです。そうした枢機卿が両派の間の不和の原因でした。こうした派閥が自分たちの枢機卿を持っているあいだは、静穏であることはなかったのです。なぜなら、こうした枢機卿はローマの内外でその派閥を助長し、貴族は彼らを支援せざるをえず、こうして高位聖職者の野心から貴族間の不和と騒乱が生じたのです。こういうわけで、教皇レオ聖下[20]は教皇の地位がかくも強力であるのをご覧になり、他の教皇がその地位を軍事力で強大にしたのに、教皇聖下は善良さとその他無限の徳性によって、教皇の地位をさらに偉大で敬われるものにされようとしているのです。

英訳の注

[19] シャルル八世は1494年にイタリアに侵入した。

[20] 教皇レオ十世はメディチ出身の枢機卿だった。


第12章 軍隊はなん種類あるか、そして傭兵について

最初に論じようともくろんでいた君主国の性格については、詳細に申し述べましたし、それが良いものであったり悪いものであったりする原因についても、ある程度は、考察しました。また、多くの君主がそれを獲得したり保持するのに用いた方法も示しました。今や残っているのは、いずれの君主国にもある攻撃と防衛の手段を一般的に論じることです。

私たちはこれまで、君主が自分の基盤を固めることがいかに必要であり、そうしなければ必然的に破滅するのだということを見てきました。新興のものでも昔からのものでも、あるいは混合のものでも、あらゆる国家の主要な基盤となるのは、良い法律と良い軍隊です。国家がちゃんと武装していないところに、良い法律はありえず、ちゃんと武装したところでは、良い法律があるのです。法律については議論からはずし、軍隊について語っていきましょう。

それで、言いますと、君主が自分の国を守るための軍隊は、自前の軍隊、傭兵軍、外国からの援軍、それらの混成軍のいずれかです。傭兵軍と援軍は役に立たず、危険です。そうした軍隊に基礎を置く国を保持しているなら、確固とした基盤の上にも安全な基盤の上にも立つことはできません。なぜなら、そうした軍隊は団結していないし、野心的で、規律がとれず、不誠実で、味方の前では勇猛だが、敵の前では臆病なものだからです。彼らは神への畏れを知らず、人にたいして忠誠を抱きません。攻撃が長びけばそれだけ、破滅が先送りされます。というのは、平時には彼らから略奪され、戦時には敵に略奪されるのですから。実際、彼らが陣地を守るのは、僅かな俸給より以外に目当ても理由もないのです。その俸給ときたら、あなたのために喜んで命を捨てるほどのものではないのです。彼らは君主が戦争を起こす前に、その兵士になろうと準備万端整えています。しかし戦争になると、立ち去るか、敵の前から逃亡します。それを示すのは雑作ありません。というのは、イタリアが破滅したのは、何年もの間、傭兵に望みを託していたからにほかなりません。彼らは以前は自分たちの間では勇猛さを誇示し、そう見られてもいたのですが、外国軍が侵入すると、化けの皮がはげてしまったのです。こうしてフランス王シャルルは、片手に持った白墨で[21]、イタリアを占領してきたのです。そして私たちに、その原因は私たちの罪であると語った人は、真実を語ったのですが、しかしその罪は彼が考えたようなものではなくて、私が語ったようなものなのでした。そしてその罪は君主の罪であったので、罰を受けたのも君主でした。

さらに傭兵が不適切であることを示したいと思います。傭兵隊長は有能な者かそうでないかのいずれかです。もし有能なら彼を信頼できません。なぜなら、その主人たる君主を抑圧し、あるいは君主の意向に反して他の人々を抑圧して、自分が卓越することを切望するからです。しかし、隊長が熟練してなければ、君主は普通に破滅します。

傭兵であろうとなかろうと、武装して人間は同じように振舞うものだと説得する人があるかもしれませんが、武器が本来の持ち主に復するのは、君主か共和国のいずれかだと答えておきましょう。君主は本人自らが進み出て、指揮官の義務を果すべきですし、共和国はその市民を派遣すべきです。もし派遣した者が満足のいくものではないと分かれば、召喚すべきです。相応の者であれば、法で縛って、命令を逸脱しないようにすべきです。また経験の示すところでは、君主や共和国は独力で最大の発展を成し遂げますが、傭兵は害しかなしません。また共和国が市民のうちの一人の支配に陥るのは、外国軍で武装している場合より、自国軍で武装しているほうが、困難です。ローマとスパルタは多年にわたり軍備を整え自由を保ちました。スイスは完璧な軍備をこらして、完全に自由なのです。

例えば、古代の傭兵制はカルタゴに見られますが、彼らはローマとの第一次戦争の後、カルタゴ人は自国の市民を指揮官にしていたにもかかわらず、傭兵に屈伏しました。エパミノンダスの死後、マケドニアのフィリッポスはテーベ人によってその兵士の指揮官になりましたが、勝利の後、彼はテーベの自由を奪ったのです。

フィリッポ公の死後、ミラノ人はフランチェスコ・スフォルツァを軍に入れて、ヴェネツィアに対抗したのですが、彼はカラヴァッジョ[22]で敵を破るとヴェネツィアと同盟して主人であるミラノ人を征圧しました。彼の父のスフォルツァは、ナポリのジョハンナ女王[23]に雇われていたのに、彼女を無防備にまま放置し、それで女王はアラゴン王の腕に身を委ね、その王国を捧げるしかなかったのです。ヴェネツィアやフィレンツェは以前はこうした傭兵によって領土拡張したが、傭兵隊長が自ら君主となることはなく、その国を守ったではないかということについては、この場合、フィレンツェは運がよかったのだと答えておきましょう。というのは、恐れるべき有能な隊長のうち、ある者は勝利しなかったし、ある者は対抗者がいたし、その他の者も野心を他のことに向けたからです。勝利しなかった隊長というのはジョヴァンニ・アクト[24]で、勝利しなかったので、彼の忠誠を立証することはできません。しかし、だれしも認めるように、もし勝利していれば、フィレンツェ人は彼の意のままになっていたことでしょう。スフォルツァにはブラッチョ家が反目していて、互いに監視しあっていました。フランチェスコがその野心をロンバルディアに向けると、ブラッチョは教会領とナポリ王国をねらいました。さて、ほんの少しばかり前に起ったことに目を向けてみましょう。フィレンツェはパオロ・ヴィッテリを傭兵隊長に任じましたが、彼は分別ある男で、一市民から身を起し令名を馳せたのでした。この人物がピサを攻め落していれば、フィレンツェは彼とうまくやっていくのが適切だったことは、誰も否定しないでしょう。というのは、彼が敵方の兵士となれば、抵抗するすべがなかったし、もし彼に固執すれば、彼に服従したに相違ないからです。ヴェネツィアは、その偉業を考察してみると、自国民を戦争に派遣していた間は、問題もなくはなばなしくその力を発揮していました。その頃は、貴族も平民も武装して、勇敢に振る舞ったのです。彼らが企図を内陸に転じるまではそうだったのですが、内陸での戦闘を始めると、この長所を捨て、イタリアの慣習に従うようになったのです。内陸での領土拡張の初期には、それほど領土をもっておらず、名声も高かったので、ヴェネツィアは傭兵隊長をそれほど恐れずにすんだのです。しかし、カルミニョーラ[25]の指揮の下で、領土を拡張したとき、これが過ちであったことを味わったのです。というのは、彼が非常に勇猛な人物だとわかった(彼の統率の下、ミラノ公を打ち破った)その一方で、彼が戦争に倦んでいることを知ると、彼の指揮下ではもはや勝ち目がないことを恐れました。そうした理由で、彼が放逐する気にもなれず、また放逐できるはずもありませんでした。そうして、獲得したものを失なうまいとして、自分たちの安全を確保するため、彼を殺害せざるをえなくなったのです。その後、ヴェネツィアはバルトロメオ・ダ・ベルガモ、ロベルト・ダ・サン・セヴェリノ、ピチリアーノ伯[26]などを傭兵隊長としましたが、後にヴァイラ[27]で起ったように、彼らの指揮の下では、領土を獲得するどころか失なうのではないか案じなければならなくなりました。ヴァイラでは、八百年もかけて苦労して獲得したものを一度の戦闘で失なってしまったのです。なぜなら、こうした傭兵軍は、のんびりと時間をたっぷりかけて取るに足りないものしか得ないのに、一瞬のうちに驚くほどのものを失なうものなのですから。

さてこうした事例を挙げて、イタリアが多年に亘り傭兵に支配されてきたのを見てきましたが、もうすこし深く傭兵について論じておきましょう。それは、傭兵が勃興し発展するのを見て、うまく彼らの力を削ぐ準備となればと思ってのことです。知っておかねばならないのは、近年、イタリアでは帝国の勢力が放逐され、教皇が俗権を得て、イタリアが多くの国家に分裂したことです。その理由は、多くの大都市が、以前は皇帝に味方して諸都市を抑圧していた貴族にたいして、戦端を開き、一方教皇は俗権での勢威を高めるために都市に味方したからです。その他の多くの都市では市民が君主となりました。こうしたことから、イタリアは一部は教会の手に、一部は諸共和国の手に落ちたのです。そして、司祭からなる教会も市民からなる共和国も武器の扱いに不慣れで、双方とも外国人を軍隊に入れ始めました。

こうした兵士に名声をもたらした最初の人は、ロマーニャの土着の人であった、アルベリーゴ・ダ・コニオ[28]でした。この人の錬成所から輩出した人のうち、ブラチョとスフォルツァは、その当時のイタリアの権威者でした。こうしたことの後、現在までイタリアの軍隊を指揮してきたその他の傭兵隊長全員が現われたのです。そして、彼らの剛勇の結末は、イタリアがシャルルに蹂躙され、ルイに強奪され、フェルディナンドに荒され、スイス人に侮辱されることに終りました。彼らを導いた原理というのは、まずは、自分たちの評判を上げるために、歩兵の評判を落すことでした。彼らがそうしたのは、領土を持たずに報酬によって生計を立てていたので、多くの兵を養うことができず、少数の歩兵では威信を保てなくて、養えて名声に浴することができるだけの適度な兵力の騎兵を雇うしかなかったからです。こうして事態は二万の軍隊に歩兵は二千人もいないという状況になりました。その一方で彼らは自分たちや部下の兵士の労苦や危険を小くしようとあらゆる技巧を駆使して、乱闘では殺さず、捕虜にすると身代金なしで解放したのです。彼らは町に夜襲をかけることはなく、町の守備隊も野営地に夜襲をかけませんでした。野営地を防御柵や堀で囲うこともなく、冬季に出陣することもありませんでした。こうしたことはすべて、彼らの軍規で許容され、もう言ったように、労苦や危険を避けるために案出されたのです。こうして彼らはイタリアを奴隷状態に陥らせ軽蔑の対象としたのでした。

英訳の注

[21] 「片手に持った白墨」 これはアレクサンデル六世の名言で、シャルル八世のイタリア占拠がいかに用意だったかを言っており、王はその国を征服するのに兵士の宿舎とする民家に白墨で印をつける補給将校を派遣するだけで十分だったことを示している。ベーコン卿の『ヘンリー七世史』:「シャルル王は、一種の夢のような幸運のうちに、ナポリ王国を征服し、再びそれを失なった。王はイタリアにいた全期間をなんの抵抗も受けずに過ごした。それで教皇アレクサンデルが言うの常としていた、フランス人は戦うための剣ではなく、宿舎に印を付けるための白墨を手にして、イタリアに侵入した、という言葉は真実なのだ。」を参照のこと。

[22] カラヴァッジョの戦いは1448年9月15日に行われた。

[23] ナポリのジョハンナ二世はナポリ王ラディスラオの未亡人。

[24] ジョヴァンニ・アクトはジョン・ホークウッド卿という名のイギリスの騎士。フランスで百年戦争を戦い、エドワード三世に騎士に叙された。後に一団の軍勢を集めてイタリアに渡った。これが有名な「白騎士団」となった。多くの戦争に参戦し、1394年にフィレンツェで死去。彼はエセックスのサイブル・ヘディンガム村で1320年に生れた。ベルナール・ヴィスコンティの娘ドムニアと結婚。

[25] カルミニョーラ,フランチェスコ・ブッソーネは1390年頃カルマニョーラで生れ、1432年5月5日、ヴェネツィアで処刑された。

[26] バルトロメオ・コレオーニは1457年死去。サン・セヴェリノのロベルトはオーストリアのジギスムント伯との戦闘でヴェネツィアで戦死。「イタリア一の傭兵隊長」マキャヴェリ。ピチリアーノ伯ニッコロ・オルシーニは1442年生れ、1510年死去。

[27] 1509年のヴァイラの戦い

[28] アルベリゴ・ダ・コニオ、すなわちロマーニャのクニオ伯アルベリコ・ダ・バルビアノは、有名な「聖ジョージ騎士団」の指導者で、イタリアの兵士を全体にわたって纏め上げた。1409年死去。

第13章 外国からの援軍、混成軍、自国軍について

外国からの援軍は、もう一つの役に立たない軍隊ですが、別の君主が救援や防衛のため助勢を乞われたとき、使われます。 ごく最近では、教皇ユリウスが外国からの援軍を使いました。というのは、フェラーラ攻略の際、自分の傭兵が貧弱であることが明かとなったので、外国の援軍に頼ることにして、スペイン王フェルディナンド[29]とその部下や軍隊の支援を受ける取り決めを結んだのです。こうした軍隊は。それ自体は、役に立ち、有能なものなのですが、呼び寄せた側にとっては、いつでも不利益をもたらします。というのは、負ければ破滅し、勝てば勝ったで、支援軍の捕囚となるからです。

古代史はそうした事例に満ちているけれど、その危険性はたまたま気づかれずに終わったにせよ、教皇ユリウス二世のこの最近の事例を続けたいと思います。というのは、彼はフェラーラを得たいがために、外国人の手に自らを委ねたのです。しかし幸運にも第三の事態が起り、彼はその軽率な選択の果実を摘まずにすんだのです。なぜなら、援軍はラヴェンナで大敗北を喫すると、スイス傭兵が(教皇の予想も敵の予想も覆して)立ち上がって、勝利した敵を蹴散らし、それで、教皇は、敵が敗走したので、敵の捕囚とならずにすみ、また援軍以外の軍隊で勝利したので、外国の援軍の捕囚にもならずにすんだのです。

フィレンツェは全く軍隊を持たず、ピサ攻略には一万人にフランス兵を投入したが、その結果、それが陥いった苦難の時代のいずれよりも大きな危険に見まわれたのです。

コンスタンチノープルの皇帝[30]は近隣諸国に対抗するため、一万のトルコ軍をギリシアに引き入れたのですが、トルコ軍は戦争が終結しても、立ち去ろうとしなかったのです。これがギリシアが異教徒に隷属する始まりでした。

ですから、勝利したいと思わない者には、こうした援軍を使わせておけばよいのです。というのは、外国の援軍を使えば破滅するのは必至なのだから、傭兵よりずっと有害なのですから。外国からの援軍は全員団結しており、他の君主に忠誠を尽します。しかし傭兵を使うのであれば、彼らは勝利したときにも、その君主を害するには、時間もかかり良い機会にも恵まれなければなりません。傭兵は全員が一つの団体をなしているのではなく、君主に見出され、給金をもらっているのです。その指揮官になった第三者が、直ちにその君主を害するだけの権力を持つことはありえません。結論を言えば、もっとも危険なのは、傭兵では卑怯さですが、外国の援軍では勇猛さです。だから、賢明な君主はいつもこうした軍隊を避け、自国軍に頼ってきました。自国軍以外の軍隊で勝利するより、自国軍で敗北するほうがましだと思い、他国の軍隊で得た勝利は真の勝利だとはみなさないのです。

私はためらうことなく、チェザーレ・ボルジアとその行動のことを例として挙げます。この公は外国の援軍を使ってロマーニャに侵攻し、フランス兵を率い、彼らを使ってイモラとフォルリを得たのです。しかし後に、こうした兵力は信頼できないと思い、傭兵のほうが危険性が少いと見て、傭兵に頼ることにし、オルシーニ家やヴィッテリ家の者を兵に加えたのです。やがて、彼らを使ってみると、信頼できず、不誠実で、危険だとわかったので、傭兵をやめ自国軍に頼ることにしました。こうした兵力のそれぞれの違いは、フランス軍に依っていたとき、オルシーニ家とヴィッテリ家を雇っていたとき、自身の兵をあてにしていたときの公の声望の違いをみれば容易にわかります。その兵力の忠誠について彼はいつも重要だと考えており、つねにそれを増していったのです。彼が自分自身の兵力の完全な支配者だと誰もが認めたときが、彼が最高の評価を得たときでした。

私はイタリアの近年の事例以外を持ち出そうという気はないのですが、しぶしぶながら、前にその名前を挙げたシラクサのヒエロンを省くわけにはいきません。この男は、前にも述べたように、シラクサ市民によって軍隊の指揮官になったのですが、すぐに、我がイタリアの傭兵のように編成された雇い兵が役に立たないことを見抜きました。彼にはそれを維持するわけにもいかず、追い払うわけにもいかないと思えたので、全員を切り刻んでしまいました。その後、彼は自分の兵力だけで、他所者を使わずに戦争をしたのです。

また、この主題にぴったりの事例を旧約聖書から思い起してみたいと思います。ダヴィデはペリシテ人の闘士ゴリアテと闘うことをサウルに申し出ました。サウルは彼を勇気づけるため、彼に自分の武具を身に着けさせましたが、身に着けるとすぐ、ダヴィデはこれを断り、その武具を役に立てることができず、自分の投石器と短剣で敵と相い見えたいと言いました。つまり、他人の武具というものは、背からずり落るか、重荷になるか、身を固く縛りつけるかするものなのです。

ルイ十一世[31]の父、シャルル七世[32]は,幸運と豪胆さでフランスをイギリスから解放したのですが、自国軍で軍備を固めることが必要だと悟り、自分の王国に重騎兵と歩兵に関わる法令を作りました。その後、その子のルイ王は、歩兵を廃止してスイス傭兵を軍に加えはじめたのです。この失策は、その他の王にも引き継がれたのですが、今見るように、フランス王国の危難のもととなっているのです。なぜなら、歩兵を全く廃止したため、スイス傭兵の名を高らしめ、自国軍の価値をすっかり低くしてしまったからです。そして、他国に依存するようになった重騎兵は、それで、スイス傭兵と一緒に戦うのが慣いとなって、今ではスイス傭兵がなくては勝てないと思われるようになりました。こうして、フランスはスイス兵に対抗できなくなり、スイス兵なしには他国にたいしてうまく事を構えることができなくなりました。こうしてフランスの軍隊は、一部は傭兵、一部は自国軍からなる混成軍となり、両軍が一緒となった混成軍は、傭兵だけとか、外国の援軍だけより、かなりましだが、自国軍よりははるかに劣ります。この例が明かにしているように、シャルルの法令を拡大ないし維持していれば、フランス王国は不敗となっていたことでしょう。

しかし、人間の乏しい知恵は、最初はよく見える事柄に飛び込んでいって、その陰に隠された毒に気がつかないのです。それは、私が消耗熱について前に述べたことと同じです。ですから、君主国を支配する人は、我が身に振りかかるまで不運に気がつかないなら、真に賢明だとは言えません。そしてこうした洞察力はわずかの人にしか与えられていないのです。そしてローマ帝国の最初の災厄[33]を考察してみるなら、それはゴート族を軍隊に入れたところから始まったことがわかります。なぜなら、それ以来ローマ帝国の勢力は衰え始め、帝国を奮い立たせた豪胆さは他の民族に移ってしまったのです。

だから、私の結論では、自分の兵力を持たなければ、いかなる君主国も安全ではなく、逆境のときにその国を防衛しようという豪胆さがなければ、ただただ運まかせということになります。自らの強さに基かない名声や権力ほど不確実で不安定なものはない、というのが賢者の意見や判断です。そして、自分の兵力というのは、臣民や市民、従者からなるもので、その他の兵力とは、傭兵や外国の援軍のことです。自分の兵力を用意する方法は、私が挙げた支配者たちに思いを巡らし、アレクサンダー大王の父フィリッポスや多くの共和国や君主がどのように軍備を固め自らを組織したのか考えれば、簡単に見つかるでしょう。そして、私はこうした支配者に完全に傾倒しているのです。

英訳の注

[29] フェルディナンド五世(アラゴン・シチリア王国では二世、ナポリ王国では三世)。「カトリック教徒」とあだ名される。1542年生れ、1516年死去。

[30] ヨハネス・カンタクゼヌス。1300年生まれ、1383年死去。

[31] ルイ十一世はシャルル七世の息子で、1423年生まれ、1483年死去。

[32] フランスのシャルル七世は「勝利王」とあだ名され、1403年生まれ1461年死去。

[33] 「軍縮論争で別の夜に議会で演説した多くの議員たちは、大英帝国がその存在を保ってきた諸条件について悲しむべき無知を示しているように思われる。ローマ帝国は軍事的義務負担の増大で没落したという論拠なき主張に答えて、バルフォア氏はそれは『まったく史実に反する』と言った。氏はさらに、ローマの力が絶頂に達したのは、どの市民も国家のために戦うべき義務を知っているときであり、その義務がもはや顧みられなくなるとすぐ、没落が始まったことを、付け加えるべきだった。」Pall Mall Gazett紙、1906年5月15日。


第14章 戦争の技術という課題について君主がかかわるべきこと

君主は、戦争およびその規則や軍事教練以外のことを目的にしたり考えたり、研究の対象に選んではなりません。というのは、これが支配者にふさわしい唯一の技術であり、そういう力が、君主に生れついた人を支えるだけでなく、たいていは、私人の地位から君主の位に成り上ることも可能にするのです。そして、反対に、軍事ではなく、安逸なことのほうを考えていると、その国を失うことになるのです。国を失なう第一に原因は、この技術を無視することであり、また国を獲得することを可能にするのは、この技術を修得することなのです。フランチェスコ・スフォルツァは、武人であったから、私人からミラノ公になったのですが、その息子たちは、軍事の苦難と面倒さを避けようとして、ミラノ公から一私人に成り下がったのです。非武装がもたらす害悪はいろいろあるなかでも、それが原因で見下されるようになり、これは、後に見るように、君主がそれから我が身を守るべき不面目の一つなのです。なぜなら、武装しているのと非武装であることの間には、釣り合いを保つようなものはなにもないからです。武装した者が非武装の者に喜んで忠誠を誓ったり、非武装の者が武装した召使いに囲まれて安全でいられるなどというのは、理にかないません。なんとなれば、一方は侮蔑しており、もう一方は疑念を抱いていれば、両者が一緒にうまくやっていくのは不可能ですから。それだから、戦争の技術を理解していない君主は、今まで述べてきた他の不運にもまして、兵士から尊敬されず、また兵士を頼ることもできないのです。したがって、君主は決して戦争という課題を念頭からはずしてはならないし、平時には、戦時よりもさらに一層、軍事訓練に没頭しなければならないのです。これには二つのやり方をとることができます。一つは行動によってであり、もう一つは研究によってなのです。

行動に関しては、君主はなによりもまず、その部下をうまく組織して訓練し、絶えず狩猟をして、それによって身体を苦難に慣らし、その地方の自然についてなにがしかを学び、山がどうそびえ、谷がどのように開き、平野がどう広がっているかを知り、川や沼沢のありようを理解しておくようにし、そうした事柄に最大の関心を払わなければなければなりません。こういう知識は二つのやり方で役立ちます。第一にその国をよく知ることになり、防備を固めやすくなります。後には、その地方の知識や観察を使って、将来研究することが必要となったそれ以外の地方も容易に理解できます。なぜなら、例えばトスカーナでは、丘や谷や平野や沼沢が、他国のものとなにか類似しており、それである地域の景観を知れば、他の地域のことも容易に分るようになるものだから。こういう技量を欠いた君主とは、指揮官が備えているべきものと望まれる不可欠の要素を欠いているのです。というのは、こういう技量によって、有利に敵を奇襲し、宿営地を選び、軍隊を先導し、布陣し、町を包囲することを、知ることができるからです。

アカイアの君主フィロポイメン[34]は、著述家たちが寄せた賛辞の中でも、彼が平時にあっても戦争の法則ばかりを考えていたことで、称賛されています。彼が友人と郊外にいたとき、しばしば歩みを止めて、友人と議論しました。「もし敵軍があの丘の上にいて、我々がここに我軍とともにあるとしたら、どちらが有利なのか。陣形を変えずに、どうしたらもっとも有利に敵と対戦できるか。退却したいときは、どうやったらよいか。敵が退却すれば、どう追撃すべきか。」彼は歩きながら、軍隊に降りかかるあらゆる出来事について友人に示し、友人の意見に耳を傾け、自説を述べ、論理をつくして確かなものにしました。こうした議論を継続したので、戦時には、彼が扱えないような予期せぬ状況は、起るはずもありませんでした。

さて知性の訓練のためには、君主は歴史を読み、傑出した人物の行動を研究して、彼が戦時にどう振舞ったかを見、その勝利と敗北の原因を吟味し、敗因を避け、勝因を見習わなければなりません。とりわけ、傑出した人物がやった通りに行うべきです。こうした傑出した人物もそれ以前の称賛された著名な人物を手本とし、その事績や行いを常に心に留めてきたのです。アレクサンダー大王はアキレウスを、カエサルはアレキサンダーを、スキピオはキュロスを真似ました。クセノフォンが書いたキュロスの生涯を読めば、誰しも、後にスキピオの生涯の中にキュロスの栄光の模倣がどれほどあるか、高潔さ、気前のよさ、慈悲深さ、寛大さということでは、スキピオがクセノフォンがキュロスについて書いたことを模範としたかに気づくはずです。賢明な君主はこうした規則を守り、平時には怠惰に過ごすべきではありません。逆境のときに役に立つやり方で、その力量を増やすことに励まなければならないのです。そうすれば、運が変わっても、その打撃に耐えられるだけの準備が整っていることでしょう。

英訳の注

[34] フィロポイメンは「最後のギリシア人」と言われるが、紀元前252年生まれ、紀元前183年死去。


第15章 人、特に君主が称賛されたり非難されたりする理由となる事柄について

さて、これから、臣民や友人にたいして君主がとるべき行動の規則がどうあるべきかについて見ておきましょう。この点については多く人が書き述べてきたことは知っておりますので、さらにこのことを述べたて、特に他の人たちのとっている方法とはかけ離れた方法で論じることで、生意気な奴だと思われるのではないかと思います。しかし、私が意図しているのは、理解すれば役に立つことを書くことなのですから、問題についての想像のことよりも、そのあるがままの真実を追及するほうが適切だと思えるのです。多くの人たちが、実際には知りもせず見たこともない共和国やら君主国を描いてきたのですが、人がどのように生きているかということと、どのように生きるべきかということは、大いに違っているので、為すべきことを重視して現に為すことを無視すると、たちまち我が身を守るどころか破滅してしまうのです。というのは、徳行を行なうという公言に全面的に従った行いをしたいと思うような人間は、邪な多くの者のあいだにあっては、直ちに彼を破滅させるようなことに出会うものだからなのです。

こうして、我が身を守りたいと思う君主にとっては、悪行のやりかたを知り、必要に応じてそれを使ったり使わなかったりしなければならないのです。だから、君主についての想像上の事柄は無視して、実際にある事柄について語っていきましょう。人々があれこれ語る人、それも主に身分の高い君主というものは、その性質のうち、彼らが非難されたり称賛されたりするものだけが、注目されるものです。そこである人は気前がよく、別のあるひとは、トスカナのことばを使えば(なぜトスカナのことばで言うのかといえば、私たちの言語で強欲な人というと、強奪してでも所有したがる人のことですが、しみったれな人というのは、自分のものを出し惜しみする人のことを言うからなのです)、しみったれだと評されます。ある人は気前がよくてある人はがつがつしているとか、ある人は残忍である人は情深いとか、ある人は信用できないが別の人は信用できるとか、ある人はめめしく臆病だが別の人は大胆で勇敢だとか、ある人は愛想がいいが別の人は傲慢だとか、ある人は好色だが別の人は身持が固いとか、ある人は誠実で別の人は狡猾だとか、ある人は堅実だが別の人はお気楽だとか、ある人は謹厳だが別の人は軽薄だとか、ある人は信心深くて別の人は神を信じないとか、あれこれ評するのです。上述の良いとされる性質をすべて示すのは、もっともあっぱれな君主だということは、だれもが認めるところでしょう。しかし彼らがそうした性質を完璧に持つことはなく、そういったことが見られることはありえません。というのは、人間的な諸条件がそんなことを許さないからですが、自分の国を失いかねないような悪徳の汚名は避けるだけの用心深さは、君主に必要なことです。さらに、我が身を守るには、できることなら、国を失なうほどではない悪評を避ける必要がありますが、それが無理なら、あまりためらうことなく、そうした悪徳に身を委ねてもよいでしょう。その上、そういう悪徳を行使しなければ、国家を守るのが困難であれば、それについての非難を受けることを、気に病む必要はありません。というのも、諸般を十分考慮してみると、徳と見えることに従うと破滅に陥り、悪徳と見えるものが、安全と繁栄をもたらすことがあるのですから。


第16章 気前よさとけちくささについて

さて、上にあげた性質のうち最初のものについて言えば、気前がよいと評されるのはよいことだと言えましょう。それにもかかわらず、気前がよいという評判を得られないようなやり方で、それを発揮すれば、傷つくことになります。というのは、真正直にそうふるまうべきだというやり方で、気前よくふるまえば、気前がよいと知られないことだってあり、その反対の謗りを受けることを避けることができないからです。ですから、人の間で気前がよいという評判を保とうとするには、豪華という特質を避けるわけにはいきません。それで、君主はこうしてその財産を豪華なふるまいに費しがちであり、気前がよいという名声を維持しつづけたいなら、おしまいには、その民衆を過度に苦しめ、重税を課し、金銭を得るためにできることはなんでもやる、ということにならざるをえないのです。こうしてこの君主はたちまち臣民から憎まれ、貧しくなると、だれからも価値を認められなくなります。このように、気前がよいことで、彼は多くの人を不快にし、少数のものに報いることになり、最初の難事に影響を受け、最初の危難がなんであれ、危機にさらされるのです。このことに気づき、それから手を引くと、たちまち、けちくさいという非難を受けることになります。

ですから、君主は気前がよいというこの美徳を、自分の犠牲を伴わずに、世に認められるようなやり方で発揮することはできないので、賢明な君主なら、けちだという悪評を恐れるべきではありません。というのは、やがて、その節約によって収入が十分に得られ、あらゆる攻撃から身を守れ、その民衆に負担をかけずに事業に乗り出すことができることが分かると、気前よくふるまった時よりも、尊敬されるようになるものなのです。こうして、奪い取らなかった人たち全員に気前よくふるまい、与えなかった少数の人にはけちにふるまったことになるのです。

私たちの時代には、偉大な事跡をあげたのは、けちだと思われた人しかいません。それ以外の人は失敗してしまったのです。教皇ユリウス二世は教皇の地位につくのに、気前がよいという評判に助けられたのですが、教皇の地位についた後では、フランス王との戦争を起すさいに、無理をして気前のよくしつづけようとはしませんでした。またフランス王は、その臣民に臨時の税を課することなく多くの戦争をしたのです。というのは、長年の倹約から付加的な費用を賄えたからなのです。現在のスペイン王も、気前がよいという評判をとっていたら、こんなに多くの事業に着手し、勝利を得たりはできなかったでしょう。ですから、自分の臣下から強奪せず、自分の身を守ることができ、貧しく卑屈にならず、強欲にならずにすむには、君主はけちだという評判を気にかけてはいけません。というのは、けちは彼が統治できるようにしてくれる悪徳の一つなのですから。

もし誰かが、カエサルは気前のよさで帝国を得たのであり、その他にも多くの人たちが、気前がよかったため、あるいはそう思われたことで、高い地位についたのだ、と言うのであれば、私は次のように答えましょう。実際にもう君主であるのか、それとも君主になる途上にあるのかと。君主となっている場合は、気前よさは危険ですが、君主になる途上であれば、気前がよいと思われることは、とても必要なことなのです。カエサルはローマ帝国の卓越者になろうとした人たちの一人でしたが、もしそうなった後も生き長らえ、その出費を抑えていなければ、その統治は破滅したことでしょう。それにたいして、多くの人たちが君主となり、軍隊を使って偉大な事跡をあげたのに、とても気前がよいと思われているではないかと、反論するなら、私はこう答えましょう。君主が浪費しているのは、自分のものなのか、臣民かそれ以外のだれか他の者のものなのかと。自分のものであれば、節約すべきだし、他人のものなら、気前よさを発揮する機会を見落してはなりません。そして自分の軍隊を率いて出兵する君主は、戦利品、略奪品、強奪品で、軍隊を力づけ、他人の所有物をほしいままにするには、この気前よさは必要なものです。さもなくば、兵士たちは従いません。自分のものでも臣民のものでもないなら、キュロスやカエサルやアレキサンダーのように気前よく与えることができます。なぜなら、他人のものを浪費しても、その評判を減じることはなく、高めてくれるからです。しかし、自分のものを浪費すれば、我が身を傷つけることになります。

気前よさほど急速に浪費させるものはありません。というのは、気前よさを発揮しているうちに、気前よくふるまう力を失い、そうして貧しいか軽蔑されるようになるか、さもなくば、貧困を避けようとして、強欲になるか憎まれ者になるのです。そして君主は、なによりも、軽蔑されたり憎悪されたりすることから、我が身を守るべきなのですが、気前よさが導くのはこの二つなのです。ですから、けちだという、不名誉ではあるが憎しみは買わない悪評を得るほうが、気前がよいという評判を追求して、憎悪を伴なう非難を生む、強欲者という名前を受けざるを得なくなるよりも、賢明なのです。


第17章 冷酷さと慈悲深さについて、また愛されるほうが恐れられるよりもよいかどうかについて

さて、さっきあげた他の性質について述べるところまできましたが、どの君主も慈悲深く冷酷はでないと思われたいにちがいありません。そうは言っても、この慈悲深さを間違って使わないよう注意すべきです。チェザーレ・ボルジアは冷酷だと思われましたが、それにもかかわらず、その冷酷さのおかげでロマーニャは和解し、平和と忠誠を取り戻したのです。このことを正当に評価すれば、彼はフィレンツェ人よりずっと情深かかったことがわかるでしょう。フィレンツェ人は冷酷だという評判を受けまいとして、ピストイアが破滅するのを[35]黙認したのです。ですから、君主は、その臣民を統合し忠誠を誓わせているかぎりは、冷酷だという非難を気にすべきではないのです。なぜなら、わずかな実例を見せしめにするだけで、それ以外の者にはずっと情深くするでしょうが、あまりに情深くしすぎると騒乱を招き、その結果、殺人や強奪が横行します。こうして全民衆を傷付けることになるのですが、一方、君主が行う処刑はただ個人だけを害するだけですみます。

それに、君主のなかでも、新しい君主は、新しい国家は危険に満ちているせいで、冷酷だという非難を避けることはできません。それだからヴェルギリウスはディドの口を通して、その治世は始まったばかりなので不人情なのだと弁解して、次のように言わせたのです。

揺らぐ玉座と生れたばかりの国ゆえに
力をつくして国の境を護り固めた
新しい君主は信じるのも、行動を起すのも慎重にすべきだとはいえ、分別を働かせ人情味をもって節度あるやり方で物事を進めるべきです。そうすれば、あまりに信じ込んで軽率になったり、あまりに不信を持ちすぎて不寛容になったりはしないでしょう。

このことから、ある疑問が生じます。それは、恐れられるより愛されるほうがよいのか、それとも愛されるより恐れられるほうがよいのかということです。その両方でありたいというのが答なのでしょうが、しかし一人の人格がこれを兼ね備えるのは難しいことなので、この二つのうちどちらかだけで済ますとすると、愛されるより恐れられるほうがずっと安全です。なぜなら、人間というものは一般に、恩知らずで、移り気で、不誠実で、臆病で、強欲なものであって、君主がうまくいっているうちは、全体として意のままになります。その血や財産、生命や子供を捧げてくれるのです。といっても前に述べたとおり、そうした要求がはるか彼方である間はということですが。しかし、いざそうした時が差し迫ると、反抗するようになります。そして、彼らの約束を全面的にあてにして、その他の予防策を講じなかった君主は滅亡するのです。なぜなら精神の偉大さや高邁さではなく、金銭の支払で得られた友情は、実際それなりのものでしょうが、確実なものではなく、必要なときにはあてにはできません。それに人間は、恐れる人より愛する人を傷つけるほうが、ためらいが少ないのです。というのは、恩義というつながりによった愛は、人間のあさましさのせいで、自分の利益になる機会があればいつでも破られるのですが、恐怖のほうは、必ずやふりかかる処罰を恐れて、君主を守ってくれるのです。

それでも君主は、愛を得られないなら、憎しみを避けるようにして、恐怖の念を惹き起こすべきです。なぜなら、君主は、市民や臣民の財産、その婦女子に手を出さしさえしなければ、憎まれてはいないままで、十分恐れられることができるからです。しかし、だれかの生命を処断することが必要になれば、適切な正当化のもとで明白な理由でそうすべきです。なによりもまず、他人の財産に手を出さないようにすべきです。なぜなら、人間は父親の死はすぐ忘れても、遺産を失なうことはそういかないものですから。さらに、財産を取りあげる口実が見つからないということは決してないのです。というのも、強奪で生計を立てはじめた者は、他人の所有する物を奪う口実をいつでも見つけるからです。しかし命を奪う理由というのは、その反対で、なかなか見つけるのが難しく、たちまち種切れになります。しかし、君主が自分の軍隊を率い、大勢の兵士を指揮しているときは、冷酷だという悪評を無視することが必要です。というのは、冷酷だという悪評がたたないようでは、軍隊を統合し、義務に従わせることはできないからです。

ハンニバルのすばらしい事績の一つには次のことも挙げられます。つまり、彼は様々な人種からなる大軍を率いて異国の地で戦いましたが、逆境のときも運のよいときも、軍隊の中でも、君主にたいしても、不和を生じたことがなかったのです。これはひとえにハンニバルの非人間的な冷酷さから生じたのです。彼の限りのない豪胆さとともに、この冷酷さおかげで、彼はその兵士の目には崇拝し恐るべきものに映りました。しかし、冷酷さがなければ、彼のその他の徳性だけでは、こうした効果を生むには不十分でした。近視眼的な著作家たちは、ある観点から彼の行為を褒めそやしながら、別の観点からはそれをもたらした根本的原因を非難しているのです。その他の徳性だけでは不十分だというのが正しいことは、スキピオの事例を見れば明かです。スキピオは、その時代だけでなく、人が記憶に留めるなかでも、もっとも優れた人物ですが、それでもスペインで自分の軍隊が謀反をおこしました。これは彼があまりに寛容すぎて、軍事教練にそぐわないほどの自由放埒をその兵士に許したせいで起ったのです。このせいで、スキピオは元老院でファビウス・マキシムスから非難され、ローマの軍隊を堕落させる者と言われたのです。スキピオの副官がロカリス人の地を破壊したが、スキピオは彼らの恨みをはらしも、副官を処罰しもしなったのですが、これは概して彼の気楽な気質によるものでした。それで、元老院のある人は、彼を弁護して、他人の過ちを正すより、自分が誤らないようにするほうがずっと大事だと思っている人間は数多くいるではないかと言ったのです。スキピオがずっと指揮を続けていれば、この気質のせいで、その名声も栄光も時とともに失なわれたことでしょうが、しかし元老院の指導の下にあったので、この有害な特徴は隠れただけでなく、その栄光に寄与したのです。

恐れられるべきか、愛されるべきという問題に立ち返えると、私は次のように結論します。人々は自分の意志で愛するのであり、君主の意向で恐れるのですから、賢明な君主は、他人の統制下ではなく自分の統制のもとにあるものに基いてその立場を固めるべきなのです。ただ注意しておいたように、恨まれることは避けるよう努めなければなりません。

英訳の注

[35] 1502年から1502年のカンチェリエリ党とパンチェティキ党の間の暴動の時期のことである。


第18章 君主が信義を守るやり方について[37]

君主にあっては、信義を守り、清廉のうちに奸計を弄さずに生きることが、どんなに称賛に値するかは、だれしも認めるところです。それにもかかわらず、私たちの経験では、偉大なことを為しとげた君主というのは、善き信義にはほとんど重きを置かず、奸計で人の思考を欺くやり方を知りぬいており、最後には、言葉に信を置く者たちを圧倒してきました。君主たるものは、覇を競う[38]には二つのやり方があり、一方は法によるもので、もう一方は力によるものであることを、心得ているべきです。最初の方法は人間にふさわしく、第二の方法は獣にふさわしいのですが、しかし、第一の方法だけでは不十分なので、第二の方法を頼みにすることも必要なのです。ですから、君主にとっては、獣の道も人の道も利用するやり方を理解することが必要です。このことは古代の著述家たちが君主に比喩的に教えてきたことです。その記述によれば、アキレウスやその他の古えの君主たちは、ケンタウロスのキロンに養育され、その教えのもとで育ったということですが、それが意味しているのは単に、彼らが半獣半人のものを教師としたように、君主はどちらの本性についても使い方を知っておく必要があり、どちらか一方を欠けば、永くは続かないということなのです。ですから、君主は承知の上で獣の道をとらざるをえないのであり、その際は狐と獅子の性質を選ばなくてはなりません。なぜなら、獅子は罠からは我が身を守れませんし、狐は狼から我が身を守れないからです。それだから、罠を見破る狐となり、狼を恐れさせる獅子となる必要があるのです。ただ単に獅子たることに頼る者は、それが何たるかは理解でません。だから、名君たる者は、信義を守ると自分に不利なとき、またその信義を担保にするべき理由がもはやなくなったときには、その信義を守ることはできず、また守るべきでもありません。人間が完全に善良だとしたら、この教えは成り立ちません。しかし人間は邪悪なもので、信義を守ろうとはしないのですから、君主のほうでも守ろうとせずともよいのです。それにまた、君主にとっては不履行の正当な理由は見つかるものなのです。このことの際限の無いほどの最近の事例を挙げ、どれほど多くの条約や約束が反古となり無効となったかを示すことができます。そして、狐の道の使い方をもっともよく知る者が、もっともうまく成功する者なのです。

しかし、この特徴を隠し、見事な詐称者で猫かぶりとなる方法を、よく知っておくことが必要です。それに、人間はとても単純で、目先の必要に左右されやすいので、騙そうとする者はいつだって騙される人間を見つけだすものです。近年の一つの実例を黙って見逃がすわけにはいきません。アレクサンデル六世は人を欺くことしかしなかった人で、常々それ以外のことは考えたこともありませんでしたが、いつも獲物は見つかったのです。というのは、この人ほど、力をこめて断言し、おおげさに誓いを立てとうけあいながら、それを守らなかった人はいなかったのです。それにもかかわらず、彼は人間のこうした面をよく理解していたので、その詐術はいつもその思いのままに[39]成功したのです。

ですから、君主にとっては、私が数え挙げた善い性質をすべてもっていることは必要ではありませんが、そうした性質をもっているように見せることは、非常に必要なことです。また思い切って言えば、こうした性質を持ち、それをずっと維持することは、有害であって、そうした性質を持っていると見せかけることが有益なのです。つまり、慈悲深く、誠実で、思いやりがあって、信仰にあつく、正直である等々と見せかけて、そうする必要がないと思えば、まるで反対のものに変ることができ、そのように変る方法を知っておいたほうがよいのです。

君主、特に新しく君主となった者は、人が重んじることをすべて守ることなどできないし、また国家を維持するためには、信義[40]や友情や人間性や宗教に反した行いをせざるをえないことも、多々あるのだということを、理解しておかなければなりません。それだから君主は、風向きや運の変化が強いるままに、いつでも心変りできるようにしておく必要があるのです。けれど、前に言ったように、善から逸脱しなくてすむのなら、逸脱すべきではありません。しかし、強いられたなら、善を逸脱する方法を知っておくことも必要なのです。

こういうわけで君主は、上に挙げた五つの性質を備えていないことを、その口から漏らすことのないよう、注意を払わなければなりません。彼のことを見聞きする人には、まるで慈悲深く、信義にあつく、人情があって、高潔で、信仰にあついと思わせておかなければならないのです。この中でも最後の性質を持っていると思わせることこそが一番肝要なのです。なぜなら、総じて人間は手に触れたものより目で見たことで判断するものですが、だれもが君主を見るけれど、君主に触れるのはごくわずかしかいないからです。君主がどんなふうかは、だれもが見ますが、君主が実際にどんなものか知るのはわずかですし、しかも、国家の権勢が庇護している多数派の意見にあえて異を唱えるものはいないのです。しかも、あらゆる人間の行動、わけても君主の行動に、疑いをさしはさむのは分別あることではなく、人はその結果を見て判断するのです。

こういうわけで、君主はその国家を勝ち取り、守るという栄誉をになえばよいのです。その手段はいつでも賞賛され、君主はだれからも褒め称えられることでしょう。なぜなら、大衆はいつだって、見えていることによって、またもたらされる結果によって判断するものですから。というのも、多数者が依りどころをもたぬところでしか、少数者には居場所がないのです。

名は挙げないが、現代のある君主[41]は、平和だとか固い信義というお題目を唱えるばかりですが、実際にはこの二つにはほとんど正反対であり、もしそのどちらかでも守っていたら、その声望も王国も、幾度となく奪い取られていることでしょう。

英訳の注

[37] 「この章はマキャヴェリの著作のどれよりも激しい攻撃を受けてきた」Burd, “Il Principe,” p. 297.

[38] 「覇を競う」とは、すなわち「支配権をめっぐて抗争する」ことである。Burd氏によれば、この一節はキケロの『義務論』をそのまま、まねている。

「なぜなら、争うには二つのやり方がある。ひとつは論争によるのであり、もうひとつは戦闘によるものである。前者が人間を特徴づけ、後者は獣を特徴づけるものであって、前者をとることができないときにかぎり、後者を頼るしかないのだ。」

[39] 「思いのままに(ad votum)」という言葉は1550年のテスティナ版では欠落している。
アレクサンデルは言ったことを決してやらない。チェザーレはやったことを決して言わない。---イタリアの諺

[40] 「信義に反し」“contro alla fede”と次の段落の「まるで信義にあつい」“tutto fede”という二つの句はテスティナ版では欠落していることに注意。この版は教皇の権限の裁可を得て公刊されたものである。おそらく、“fede”という言葉に付随する意味は「信仰」すなわちカソリック信条であって、ここで言っている「信義にあつい」ではなかったのだろう。テスティナ版のテキストでは“religione”という語は使うのを許されているが、この語は例えば「信仰」といったあらゆるニュアンスでの信念を区別なしに意味するのに使われ、必然的にユグノーの異端を示すのに使われる語句だった。Southはその「説教 第9巻」p.69(1843年編)でこの語句について次のように解説している。「この連中の大パトロンにして指導者であるニッコロ・マキャヴェリはその政治体系で支配的な規則として『信仰にあついという見かけは政治家には役に立つが、実際にそうであるのは有害で致命的である』と断言した」。

[41] アラゴンのフェルディナンド王。「マキャヴェリが『君主』を著述していた頃は、無礼をはたらかずにフェルディナンドの名を挙げることは、明かに不可能なことだった」Burd “Il Principe,” p. 308.


第19章 軽蔑され憎悪されるのを避けること

さて、上で言及した性質については、重要なことは述べてきましたが、それ以外のことについて、つぎのような概要のもとに手短かに論じてみようと思います。つまり、一部前にも言いましたが、君主は、憎まれたり軽蔑されたりするようなことを、どうやって避けたらよいかを考えておかなければならないということです。これをうまく避けるたびに、その役割を果すことになり、他の非難を浴びてもなんら危険を恐れる必要はないのです。

なににもまして、君主が憎悪されるのは、すでに述べたように、強欲となり臣民の財産や婦女子を侵害することであり、君主はこの二つを差し控えなければなりません。そして臣民の財産や名誉に手を出さなければ、大多数の人は満足して生活し、それで、君主は少数の者の野心とだけ闘えばよく、その野心は簡単に多くの方法で抑えこむことができるのです。

君主が移り気で、軽薄で、軟弱で、心は狭く、優柔不断だと思われると、軽蔑されます。それで君主は、暗礁から身を守るように、これらから身を守らなければなりません。そして、自分の行為に偉大さや勇気や真剣さや剛毅さが示されるよう努力すべきです。また臣民を私的に扱うさいにも、その判断が撤回不能であることを示し、だれも彼を欺いたり言いくるめたり望むべくもないという評判を守らなければなりません。

自分のこうした印象を作った君主は高く評価され、高く評価される君主は容易に陰謀を企てられることはありません。というのは、彼が優れた人物で、その民衆から崇敬されていることが知れわたっていれば、攻撃するのは困難なのですから。こういうわけで、君主は二つのことを懸念しておかなければなりません。一つは、その臣民に関る国の内部からの懸念であり、もう一つは、外国勢力に関る国外からの懸念なのです。国外からの懸念は、しっかりと武装し良好な同盟関係を結べば防げるもので、またしっかり武装していれば、良い友好国は見つかるものです。情勢が陰謀でかき乱されているというのでなければ、国外関係が平穏なら、国内はいつも平穏でしょうし、国外情勢が騒然としてる場合でさえ、君主が準備万端整えて、私が述べてきたとおりに生活していれば、自暴自棄とならないかぎり、君主はあらゆる攻撃に耐えていけるでしょう。それはスパルタのナビスの事績について述べたとおりです。

しかし、その臣下については、国外情勢が騒然としているときは、彼らが秘かに陰謀を企てることだけを懸念すべきですが、そのことからは、君主は憎悪され軽蔑されるのを避け、民衆が彼に満足しているようにしておけば、容易に身を守ることができます。これまで長々と述べてきたように、このことを達成することが、君主にはもっとも必要なことなのです。君主が陰謀に対抗するもっとも効果的な対策の一つは、民衆から憎悪され軽蔑されないことなのです。というのは、君主にたいして陰謀を企てる者は、いつでも君主を除くことで民衆が喜ぶと期待するものなのです。しかし陰謀家が民衆を怒らせるだけだとわかれば、彼が直面する困難には際限がないので、そうした計画を実行する勇気は挫けます。経験が示すとおり、これまで陰謀は多数なされましたが、成功したのはわずかです。なぜなら、陰謀家は単独では行動できず、また仲間にひき入れることができるのは、不満を抱いていると思える連中しかなく、不平分子に本心を明かすや、そいつが満足する素材を与えるしかなくなるのですから。というのも、陰謀家を告発することでも彼は利益を得られ、それだから、この計画から得られる利得が確かなもので、それ以外は不確かで危険に満ちているという点では、陰謀家に誠実であるためには、仲間にするのは無二の親友か、君主の筋金入りの敵しかないのです。

そして、問題を小さな範囲に限定すれば、陰謀家の側には、恐怖や嫉妬や彼をおののかせる刑罰という予想しかないのに、君主の側には、君主権の威光や法律、彼を守る友人や国家の保護があるのだ、と言えましょう。だから、これらすべてに加えて民衆の好意があれば、向う見ずにも陰謀を企てるのはだれにも不可能でしょう。一般に陰謀家はその策略の実行の前にはたじろぐものですが、この場合には犯罪の結末にも恐れを抱かざるをえないのです。なぜなら、それに関して、民衆を敵にまわし、そうして逃れる望みを持てないからです。

この問題については数多くの事例を挙げることができますが、私たちの父の代の記憶に残る一例で満足してきましょう。ボローニャの君主、アンニバーレ・ベンティヴォリオ公(現アンニバーレ公の祖父)は、公への陰謀を企てたカンネスキ家に殺害され、その一族では幼少のジョヴァンニ公[42]だけが生き延びたのでした。その暗殺の直後、民衆は蜂起して、カンネスキ家の者を皆殺しにしたのです。これはその時代、ボローニャでベンティヴォリオ家が受けた民衆の好意から発っしたものでした。この好意はとても大きく、アンニバーレ死後には国家を統治できる者がだれも残っていなかったけれど、ボローニャ人たちは、その頃には鍛冶屋の倅だと思われていたが、ベンティヴォリオ一族の者がフィレンツェにいると聞きつけ、彼をさがしにフィレンツェに使いを出し、その市の統治を彼に委ね、ジョヴァンニ公がやがて統治できるようになるまで、彼が市を支配したのです。

こういうわけで、民衆が君主を尊重しているときは、君主は陰謀を気にすることはないと、思います。しかし、民衆が敵対しており、君主に憎悪を抱いているのなら、君主はすべてのこと、すべての者に懸念を抱くべきです。きちんと秩序立った国家と賢明な君主は、なにごとにつけ、貴族がすてばちにならぬよう、民衆が安心立命できるよう図ってきました。というのも、これは君主のもっとも重要な目標の一つだからです。

当代のもっともよく秩序だち統治された王国のうちに、フランスがありますが、そこには王の自由と安全が依ってたつ多くのすばらしい制度が見いだされます。その中で第一のものは高等法院とその権威です。なぜなら、王国の創設者は貴族の野心やその大胆さを知っており、彼らを抑えこむには、その口に轡をくわえさせることが必要だと思っていました。その一方で、民衆が、恐怖に基づいて、貴族に憎悪を抱いていることも知っていたので、民衆を保護したいと思ったのですが、しかし、このために、王が特別に関心を払いたくはなかったのです。それで、貴族から民衆寄りだと非難され、民衆から貴族の味方だと非難されるのを避けるため、王にたいする非難を起こさずに、強者を挫き弱者に味方する裁定者を設置したのです。これ以上に優れており、しかも細心の注意を払った布置はないでしょうし、王と王国の安全をこれ以上に確保するものもないでしょう。このことから、もう一つ重要な結論を引き出すことができます。それはつまり、君主は非難を受けるような事柄は他人に手に委せて、自分の手には温情のあるものだけを残しておけばよいということです。さらに言えば、君主は貴族を尊重しながらも、そのことで民衆から憎しみを買わないようにすべきだと思うのです。

おそらく、ローマ皇帝の生き死にを検証して、その多くが私の意見の反証となっており、そのうちの何人かは高貴に生き、精神の偉大な資質を示しながらも、帝国を失なったり、陰謀を企てた臣民に殺害されたりしていると言う人たちが現われることでしょう。そこで、この反論に答えるために、ローマ皇帝の幾人かの性格を思い起こし、その破滅の原因が私の主張するとこと異らないことを示しておきましょう。同時に考察にあたり、当時の事情を研究する人には注目に価する事柄について、意見を述べることにします。

哲人皇帝マルクスからマクシミヌスまで帝国を継承した皇帝たちを全員取り上げれば十分でしょう。それは、マルクスとその子コモドゥス、ペルティナクス、ユリアヌス、セウェルス、その子アントニヌス・カラカラ、マクリヌス、ヘリオガバルス、アレクサンデル、マクシミヌスの諸帝です。

まず注意してほしいのは、他の君主国では貴族の野心と民衆の不遜と取り組めばよいだけですが、ローマ皇帝は兵士たちの残酷と強欲に耐えるという第三の困難を抱えこんでいたことです。これは多くの皇帝が身を滅ぼすという、とても厄介な問題でした。というのは兵士と民衆の両方を満足させるのは難しい事だからです。なぜなら、民衆は平和を愛するもので、それだから、彼らは現状満足型の君主を愛するのですが、一方、兵士のほうは、大胆で残忍で強欲な好戦的な君主を愛するのです。それにこうした特質を皇帝が民衆にたいして行使することを兵士たちはとても喜んだのですが、そうやって兵士たちは二重に支払いを受け、強欲と残忍さのはけ口を得たのです。こうして、生れながらか修練によって、大きな権限をもたない皇帝は、いつも打倒され、皇帝の多く、特に新に君主の座に就いた者は、この相反する二つの気性のもつ困難を認めながらも、兵士を満足させる傾向にあり、民衆が傷つけられることにはあまり気を懸けなかったのです。こうした成行きはしかたのないことでした。なぜなら、君主がだれからも憎まれないことはできないことで、まず第一に、君主はだれからも憎まれないように努力すべきですが、それが達成できなければ、もっとも力あるものから憎まれないよう、最大限の努力を払うべきなのです。ですから、こうした皇帝は、経験のなさから、民衆よりも兵士のほうにしっかり結びついた特別の愛顧をかける必要があったのです。こと成行きが君主の利につながるかどうかは、君主が兵士たちに権威を維持する方法を知っているかどうかによりました。

こうした理由から、マルクス・アウレリウス、ペルティナクス、アレクサンデルはみな質素な生活をし、正義を愛し、残忍を憎み、人情厚く、温和でありましたが、マルクスを除けば、悲惨な最期をとげました。マルクスだけは名誉のうちに生きそして死にました。なぜなら、彼は玉座を世襲の称号として引き継いだのであり、兵士にも民衆にもなんら負うところがなかったからです。そして後には、尊敬を受ける多くの徳を身につけて、生きているうちは両者をしかるべき秩序を保ち、憎悪されることも軽蔑されることもありませんでした。

しかしペルティナクスは、兵士の意にさからって帝位についた皇帝であり、兵士たちはコモドゥスの下で放埒に生きるのに慣れていたので、ペルティナクスが彼らに無理強いた質素な生活には耐えられなかったのです。こうして憎悪の原因をもたらしたのですが、その上に彼が老齢であったため軽蔑までが加わり、その統治のごく初期のうちに打倒されたのでした。そして、ここで注意しておきたいのは、憎悪されるようになるのは、悪い行いによってではなく、良い行いによるほうが多いということです。ですから、以前に言ったように、君主はその国家を保とうとすれば、しばしば悪行をせざるをえないのです。というのは、君主が自身を維持するために必要だと考える集団が、それが民衆であれ兵士であれ貴族であれ、堕落しているなら、その気風に合わせ、彼らを喜ばせざるをえず、それで、良い行いが君主を害することにもなるのです。

さてアレクサンデルに話を移すと、この人は非常に善良で、彼に与えられた賞賛の中でも特に、十四年にわたって判決なしに皇帝により死を賜わった者がいなかったことで称えられています。それにもかかわらず、彼はめめしくて、母親に統治を左右されるような人物とみなされて、軽蔑され、軍隊に背かれて殺害されました。

次にコモドゥス、セウェルス、アントニヌス・カラカラ、マクシミヌスという正反対の性格の皇帝に話を移しましょう。すると彼らがみな残忍で強欲なことに気がつきます。彼らは兵士を満足させるためには、民衆にたいしてあらゆる種類の不正を働くことに躊躇しませんでした。そしてセウェルスを除けば全員が非業の最期をとげました。しかし、セウェルスにあっては、非常に豪胆で、兵士には親しくし、民衆は抑圧したものの、うまく統治したのです。というのは、彼の豪胆さは兵士の目にも民衆の目にもすばらしいものに映り、民衆は驚愕のまま畏怖し、兵士たちは尊敬し満足していたからです。また、この人物の行動は。新君主としては偉大であったので、彼が狐と獅子の真似方を熟知していたことを簡単に示しておきたいと思います。この性質は、前に述べたように、君主がぜひとも模倣すべきものなのです。

ユリアヌス帝の怠惰を知ると、ローマに進軍し近衛兵に殺されたペルティナクスの死の仇を討とうと、彼が指揮していたスクラヴォニアの軍隊を説き伏せました。この口実のもとに、帝位への野心はみせず、ローマに軍を進め、発進した知らせが届く前にイタリアに入ったのです。ローマに到着すると、元老院は恐怖にかられて、彼を皇帝に選び、ユリアヌスを殺害したのです。その後、全帝国の主人となろうとしていたセウェルスには二つの困難が残っていました。その一つはアジアにあり、アジア方面軍の司令官ニゲルが皇帝を僭称していました。もう一つは西方にあり、アルビヌスも帝位をねらっていたのです。そして両者を同時に敵だと公言するのは危険だと考え、アルビヌスを欺いてニゲルを攻撃しようと決断しました。アルビヌスには、自分が元老院に皇帝に選ばれたが、その地位を彼と分ちたいと思い、カエサルの称号を彼に贈る、その上、元老院は彼を自分と同職に選んだと書き送りました。そしてアルビヌスはこれを真にうけたのです。しかし、セウェルスはニゲルを打ち破り、彼を殺し、東方情勢を収拾すると、ローマに帰還し、アルビヌスは彼から受けた恩義をほとんど顧みることなく、背信して彼を殺害しようとしており、この忘恩にたいして彼を罰せざるをえないと、元老院に訴えたのです。その後、彼はアルビヌスをフランスで探し出すと、彼から政権と生命を奪ったのです。ですから、この人物を注意深く検証すると、彼がもっとも獰猛な獅子であるとともに、もっとも狡賢い狐であることがわかります。彼はだれからも恐れられ尊敬され、軍隊からは憎まれませんでした。そして、彼が新君主としてうまくやれたことを不思議がる必要はありません。なぜなら、彼の暴力によって民衆が抱く憎悪からは、その優れた名声によって守られていたからです。

さて、彼の息子のアントニヌスも非常に傑出した人物で、極めて優れた性格を持っていました。それで、民衆の目にもすばらしいものに見え、兵士たちにも受けがよかったのです。というのも、彼は好戦的な人物で、どんな労苦にも耐え、美食やその他の贅沢を嫌っていたので、軍隊から敬愛されていました。それにもかかわらず、彼の蛮行と残虐さはひどいもので、前代未聞のもので、数えきれないほどの単なる殺人の後、ローマの大多数の民衆とアレキサンドリアの全人口を殺害したのです。彼は世界中から憎まれ、取り巻きの連中からも恐れられ、とうとう軍隊のただ中で百人隊長に殺害されたのでした。ここで留意しておくべきは、固く決意した命懸けの意地をもって慎重に加えられたこうした殺意からは、君主といえども逃れる術はないということです。なぜなら、死を恐れぬ者ならばだれでも、こういう害を加えることができるのですから。しかし、そうしたことは極めてまれだから、君主はそれをさほど恐れる必要はありません。しかし君主は自分が使用したり、国事のために周りに侍らせる者たちには、重大な危害を加えないよう、注意すべきです。アントニヌスはこの注意を怠り、百人隊長の兄弟を傲慢無礼に殺し、この百人隊長を日々脅威にさらしながら、しかも警護兵に加えていたのです。起ったとおり、それは無鉄砲な行いであり、結局は皇帝は破滅することになりました。

次にコモドゥスを見てみると、彼はマルクスの息子で、帝国を相続したのだから、それを維持するのはとても簡単なことでした。彼は父親の足跡をたどって、民衆と兵士を満足させていればよかったのです。しかし生来、残忍で獰猛だったので、軍隊を楽しませ堕落させて、民衆をほしいままに強奪したのです。その一方で、自分の威厳を保つこともなく、しばしば闘技場に降りては、剣闘士たちと闘い、皇帝の尊厳にはそぐわない、その他の破廉恥行為を行ない、兵士から軽蔑されるようになりました。一方からは憎悪され、もう一方からは軽蔑されて、陰謀を図られて、殺害されたのです。

後に残るは、マクシミヌスの性格についてですが、この人は非常に好戦的な人物でした。もうすでに述べた、アレクサンデルの軟弱さに愛想をつかした軍隊が、アレクサンデルを殺害して、マクシミヌスを皇帝に選んだのです。この地位を彼はそう長くは保つことができませんでした。というのは二つの事から彼は憎悪され軽蔑されたからです。一つは、彼がトラキアで羊飼いをしていたことで、それで彼は軽蔑されたのです。(このことは皆によく知られていて、だれからも非常に辱かしいことだと思われたのです。)もう一つは、彼が支配権を得たとき、ローマに行き、皇帝の座につくのに出遅れたことです。それにまた、自分の属州長官にローマやその他帝国各地で残虐行為を行なわせ、それで極めて残忍だという悪評を得たのです。それで全世界が彼の生れの卑賤さに怒り、その野蛮さを恐れるようになりました。まずアフリカが反乱を起し、次に元老院とローマの民衆が背き、全イタリアが彼に陰謀を企て、それに彼の軍隊まで加わりました。彼の軍隊はアキレイアを包囲しながら、それをなかなか落せずにいましたが、彼の残忍さに嫌気がさし、あまりに敵が多いので彼を恐れなくなり、彼を殺害したのです。

ヘリオガバルスやマクリヌス、ユリアヌスについては、論じようとは思いません。彼らは、まるで見下げはてた輩で、たちまち一掃されました。それでは、この論述の結論として、次のように言っておきましょう。当代の君主たちは、その兵士の法外な満足を与えるという困難は、さほどではなくなっています。なぜなら、兵士になにほどかの恩恵を施さなくてはならないにしても、それはすぐに実行できます。こうした君主のだれ一人として、ローマ帝国のように、属州の統治や行政におけるような年季のはいった軍隊など持っていないのですから。それに当時は民衆よりも兵士を満足させることが必要でしたが、現在では、トルコとエジプトを除けば、どの君主にとっても、兵士よりも民衆を満足させることが必要となっているからです。なぜなら、民衆のほうがずっと強力になっているのですから。

上に述べたことからトルコを除きましたが、トルコはいつも十二師団の歩兵隊と十五万騎の騎兵を擁し、王国の安全と強大さはこれに依っています。それで、民衆への配慮を後回しにしても、軍隊を味方につける必要があるのです。エジプト王国も同様です。すべてが兵士の手中にあるため、民衆を無視しても、兵士たちを味方にしなければならないのです。しかしエジプトは他の君主国とは異なっていることに注意すべきです。それはキリスト教の教皇制に似ているので、世襲の君主国とも新興の君主国とも呼ぶことができないのです。なぜなら、老君主の子息が跡継ぎとなるのではなく、権限を持つ人たちに選出された者がその地位につくのです。子息はただ貴族であるにすぎないのです。それに、これは古くからの慣行であって、新興の君主国と呼ぶこともできないのです。なぜなら、新君主が遭遇するような困難は、そこにはなに一つないのですから。というのは、君主は新しくても、国家の体制は古く、それはまるで世襲の君主であるかのように、彼を受入れればよいだけのものに作られているからです。

さて、私たちの論議の主題にたち返ると、それをよく考えてみると、名を挙げた皇帝たちに致命的であったのは、憎悪か軽蔑のいずれかであったことがわかるでしょう。そして、ある人たちはあるやり方で、別の人たちは別のやり方で振舞い、そのうち、どちらか一方だけが幸福に終り、他の者は不幸に終ったということが、どのように生じたかも分ります。なぜなら、ペルティナクスとアレクサンデルは新君主であるから、帝国を世襲したマルクスの真似をするのは無用で危険なことです。同じように、カラカラやコモドゥスやマクシムヌスがセウェルスの真似をするのは、その足跡を辿っていけるほど豪胆ではないのだから、極めて破滅的なのです。ですから、君主国には新参の君主が、マルクスの行動を真似ることはできないし、またセウェルスの行動に従う必要もないのです。しかし、セウェルスからは、国家の基礎を固めるのに必要な部分を得て、マルクスからは、すでに安定し確固とした国家を維持するのに適切ですばらしい方策を得なければなりません。

英訳の注

[42] ジョヴァンニ・ベンティヴォリオ。1438年ボローニャで生まれ、1508年ミラノで死去。彼は1462年から1506年までボローニャを支配した。マキャヴェリの陰謀たいする強い非難は、彼自身のごく最近の体験(1513年2月)から激しさを増している。その時、マキャヴェリはボスコーリ家の陰謀に加担したと申し立てられ、逮捕され拷問を受けた。


第20章 君主がしばしば頼りにする要塞やその他のものは役に立つか、それとも有害か

1.ある君主は、国家を安全に保持するために、臣民から武器を取り上げ、べつの君主は、支配下の町を派閥争いによって維持しようとします。互いの敵意を助長する君主もいれば、統治の始めに信頼を寄せなかった連中を味方につけるために力を尽くす君主もいます。ある君主が要塞を築くと思えば、ある君主はそれを打ち倒して破壊します。その決断がなされた状況の詳細がわからないと、こうしたことのどれ一つにも最終的な判断を下すことはできないのですが、事態の許すかぎり包括的に、論じてみましょう。

2.新興の君主で、臣民から武器を取り上げた人は一人としていませんでした。むしろ、臣民が武装していなければ、武装させるのが常でした。なぜなら、臣民を武装させることで、その武器は君主の武器となり、不信を抱いていた連中は忠実になり、忠実だった臣民は忠誠を守り、こうしてその臣民は支持者となるからです。それに、すべての臣民に武装させることができないにしても、武装させた者には恩恵を施すと、他の者はもっと思うがままにあつかえるし、この処遇の差は、まったくそのとおりだと了解されて、それによって武装している者は君主に依存するようになり、また武装していない者は、危険が大きく、服務も重い者がそれだけ報酬が大きいのも当然と思い、君主を大目に見るのです。しかし、彼らの武器を取り上げると、臆病のせいか忠誠心が欠けているせいで彼らを信頼しないと示すことになり、すぐに不興をかうでしょうし、どちらの見解も君主にたいする憎しみを生み出します。武装しないではおれないので、君主は傭兵に頼るようになるのですが、その性格はすでに示しました。傭兵は優れていたとしても、強大な敵や不信を抱いた臣民から、君主を守るには十分ではありません。ですから、言ってきたように、新興の君主国の新興の君主は武器を配布するのが常なのです。歴史にはこうした事例がたくさんあります。しかし、君主が新しい国家を獲得して、元からの国に属領として付け加えるときは、その国を獲得するときに自分の味方となった者以外は、その国の人々から武器を取り上げることが必要です。そのうえで、時間をかけ機会をみはからっては、その人々を温和で軟弱にしていかなくてはなりません。このようにして、国内の武装した人間は元の国の自分の側にはべる自軍の兵士だけとなるよう、事態を扱っていかなければならないのです。

3.私たちの父祖で、しかも賢者と言われる人たちは、ピストイアを保持するには派閥闘争が要るが、ピサを保持するには要塞が要る、と言うのが常でした。この考えにしたがって、自分たちに服属する町を容易に領有するために、そのいくつかではもめ事を助長してきました。こうしたことは、イタリアが均衡を保っていた時代には十分効果があったのでしょうが、今日では指針として受け入れがたいと思います。なぜなら、派閥闘争がいつまでも有効とは思えず、むしろ分裂した都市に敵が襲来すると、最弱の党派は外部の勢力を助けるのが常で、その他の党派は抵抗できなくなるので、たちまちそれを失なうに決っているのですから。ヴェネツィア人は、思うに、こうした理由につき動かされ、服属する都市でグェルフ党とギベリン党との派閥闘争を助長したのです。流血沙汰になるのは許さなかったとはいえ、その間の紛争を煽ってきました。そうやって、市民は意見の相違に困惑させ、一致団結してヴェネツィア人に対抗しないようにしたのです。このことは、見てのとおり、後にはそん思惑通りにはなりませんでした。なぜなら、ヴァイラの敗走の後、一つの党派が勇気を奮いたたせて、国家を奪い取ったのですから。力のある君主国ではこうした派閥闘争を許されるものではないのですから、こうした方法は君主の弱体を示すもです。臣民を御すのを容易にするのにこうした方法を取るのは、平和な時代でこそ役に立つものの、戦争になると、この政策は当てにならないことがわかってしまうのです。

4.疑いもなく、君主は直面する困難や障害を克服すると、偉大なものとなるのです。それだから運命が特に新興の君主を偉大なものにしたいとき、そうした君主は世襲の君主よりも名声を得る必要が大きいので、敵を出現させて彼に対抗するよう目論むのです。そうやって、それに打ち勝つ機会を与え、敵が立て掛ける梯子を登るようにして、高みに上げるのです。こういうわけで、賢い君主は、機会があれば、策を弄して自分への反感を助長し、そうやって、それを粉砕することで自分の名声を高めるのだと、多くの人たちは思っているのです。

5.君主、特に新興の君主は、統治しはじめた頃は信用できなかった者のほうが、信頼していた者よりも、忠誠心があり役に立つとわかることがあります。シエナの君主パンドルフ・ペトルッチは、他の者よりも、信用しなかった者に国を支配させました。しかし、この問題については、一概に語ることはできません。というのは、個々人で様々ですから。ただこれだけは言えます。君主の座についた当初には敵意を抱いた者が、生計を立てるために助けを必要としている連中なら、いとも簡単に味方にすることができるのが常なのです。そして連中は、忠誠を込めて君主に一生懸命仕えるでしょう。それは、一旦与えた悪い印象を行動で打ち消すことが、自分にとってとても必要だということを、連中はよくわかっているからなのです。ですから君主は、あまりに安穏と仕えて、自分の立場を弁えない者よりも、この連中からのほうが、より大きな利益を引き出せるのです。そして事態が求めるので、人目につかない好意によって新な国を手に入れた君主にはぜひとも忠告しておかなければならないことがあります。それは、好意を示した者が、なぜそうしようとしたかの理由を、よくよく熟慮すべきだということです。それが君主にたいする自然な敬愛からではなく、ただ自分たちの政府にたいする不満によるものなら、君主がこの連中と親しくするのは、ただ大きな苦労と困難を背負いこむだけです。というのも連中を満足させるのは不可能ですから。そして古代や近代の事件からとられたそういう事例で、このわけをよく考えてみれば、君主は、以前の政府に不満を抱いているので、彼に好意を示し、その国を奪うよう激励した連中よりも、以前の政府のもとで満足しており、それで彼の敵であった者たちのほうと親しくするほうが、ずっと容易いことがわかります。

6.君主には、その国家をより安全に保持するために、君主に反乱を企てる者にたいする手綱とくつわの役目をはたし、最初の攻撃からの非難場所となるよう、要塞を築くという慣例がありました。この制度は昔から利用されてたので、素晴しいものでしょう。それにもかかわらず、ニッコロ・ヴァッテリ卿は国を守ろうとチッタ・ディ・カステッロの二つの要塞を取り壊しました。ウルビーノ公グィドゥバルドは、チェザーレ・ボルジアに国外追放されていましたが、領国に帰還すると、その属領のすべての要塞を土台から破壊しましたが、要塞がないほうが国を失ない難いと考えたのです。ボローニャに帰還したベンティヴォリオ家も同じような決断をしました。ですから、要塞が役に立つか立たないかは、状況しだいなのです。ある場合は役にたつが、別の場合は害をなすのです。この問題は次のように判断できるでしょう。外国勢力より民衆に脅かされている君主は要塞を築くべきですが、民衆より外国勢力に脅かされている君主は要塞なしにすませるべきです。ミラノの城塞は、フランチェスコ・スフォルツァが築いたものですが、国内のいかなる騒乱にもまして、スフォルツァ家の困難の種となってきましたし、これからもそうでありましょう。こういう理由で、可能な最上の要塞とは、民衆に憎まれないことです。なぜなら、要塞があったとしても、君主が民衆に憎まれるなら、要塞は君主を救ってはくれないのです。というのは、武器をとって反乱した民衆を支援する外国勢力に事欠くことはありませんから。当代ではこうした要塞がだれか君主の役に立ったということは、フォルリ伯夫人[43]の場合以外には見当たりません。彼女の夫ジロラモ伯が殺されたとき、彼女は要塞によって、民衆の攻撃をしのぎ、ミラノからの援軍を待つことができ、自分の国家を回復したのです。それに外国勢力が民衆を支援できないような情勢でした。後にチェザーレ・ボルジアが彼女を攻撃、彼女の敵である民衆が外国勢力と同盟すると、要塞はほとんど役に立ちませんでした。ですから、その時も以前の時も、要塞を持つことより、民衆に憎まれないことのほうが、彼女にとってより安全だったのです。万事考えあわせてみると、私は要塞を築いた人も築かなかった人も讃えますが、要塞を頼みにして、民衆から憎まれることには注意を払わない人は咎めだてるのです。

英訳の注

[43] カテリーネ・スフォルツァ。ガレアッツォ・スフォルツァとルクレツィア・ランドリアーニの娘。1463年生れ、1509年死去。1499年にマキャヴェリが羨望を受けながら派遣されたのは、このフォルリ伯夫人のもとへだった。フォルトゥナーティは伯夫人にこの任命を伝える手紙で言っている。「私は貴族たちから、彼らが誰をいつ派遣するかを知りました。彼らは、学識のある若いフィレンツェの貴族で十人委員会の書記官であるニッコロ・マキャヴェリに、私とともに直ちに出立するよう命じたのです。」パゾリーニ伯爵著、P.シルヴェスター訳『カテリーネ・スフォルツァ』を参照。


第21章 君主は名声を得るためにどうふるまうべきか

偉大な企図やすばらしい手本を示すことほど、君主の評価を高めるものはありません。当代では、現在のスペイン王アラゴンのフェルディナンドがいます。この人はほとんど新興の君主ということができます。なぜなら彼は、名声と栄誉によって、とるにたりない王から、キリスト教国一の王に成り上がったのですから。それに彼の偉業を顧みれば、それがどれも偉大であり、そのうちいくつかは並はずれたものであることが分るでしょう。その治世の初めに彼はグラナダを攻撃し、この企図がその領土の基礎となりました。最初は控え目にことを進め、邪魔立てされる恐れもありませんでした。というのは、カスティーリャの封建貴族たちの頭を戦争のことで一杯にして、革新的なものをまるで懸念させなかったのです。こうして彼らは、このグラナダ攻撃という手段をつかって、王が自分たちにたいする権力と権威を手に入れたとは、知るよしもなかったのです。彼は教会の資金や民衆の資金をつぎこんで、自分の軍隊を維持できましたし、その長期にわたる戦争によって、それ以降彼を際立たせてきた軍事技術の基礎を築くことできたのです。さらに、もっと大きな計画に着手するため、いつも宗教を口実にしながら、宗教にかこつけた残虐さで、その王国からムーア人を駆逐し一掃することに専念しました。これほど見事でまれに見る事例はありません。同じ口実のもと、彼はアフリカを襲い、イタリアに攻め入り、ついにはフランスを攻撃しました。このように彼の成し遂げたことも計画したことも偉大でした。そしてその民衆の気をもませては感嘆させ、彼らはことの成行きに夢中になりました。こうして彼は次から次へと行動を起して、人々に落ち着いて反抗する時間を与えなかったのです。

さらに、ベルナーボ・ダ・ミラノ卿について語り草となっているのと同様な、内政問題での際立った実例を挙げることは、大いに君主の役に立つことでしょう。この人は、機会をとらえては、市民生活で、良きにつけ悪きにつけ、並はずれた行いをした者を、語り草となるような方法で褒めたり罰したりしました。そして君主は、なによりも、どんな行動をとるときも、偉大で注目に値する人物だという評判を得るよう努力すべきなのです。

君主はまた、真の友か全くの敵を持つと、つまり、なんの留保もなく、一方の党派に味方しもう一方には敵対することを鮮明にすると、尊敬されます。そうしたやり方は常に中立であるより有利なのです。なぜなら、近所の力自慢の二人が殴りあったとして、勝ったほうは、あなたにとって恐ろしい性格のやつかそうでないか、いずれかなのです。どちらの場合にも、自分の旗幟を鮮明にして、奮戦するほうが有利なのです。最初の場合には、自分の旗幟を鮮明にしてなければ、必ずや勝者の餌食となり、敗北した側を慰め満足させるとになりますし、守もり庇護してくれるよう申し入れる理由もなく、そうしてくれるものもないのです。なぜなら、勝者は試練の時に助けにならない疑わしい友を必要とはしないし、敗者も、剣を手にして進んで運命を共にしなかったという理由で、その者をかくまおうとはしないでしょうから。

アンティオコスは、アエトリア人にローマ人を駆逐するための派兵を請われて、ギリシアに侵入しました。彼はローマの友邦であったアカイア人に特使を送って、中立を保つよう勧めました。その一方ではローマ人が彼らに武器をとるよう強く迫っていました。この問題はアカイア人の評議会で討議されることになり、その場でアンティオコスの使節は中立を守るよう説得しました。これに答えてローマの使節は「言われたことは、我らが戦争に介入しないほうが、諸君の国家にとってより良いし、有利だということだった。これほど誤っていることはない。なぜなら、介入しないままでいれば、恩顧もなく敬意も払われずに、勝者への褒美とされるのだ」と言いました。友人でない者が中立を要請し、友人が参戦を布告するよう頼むといったことは、常々起こることです。そして優柔不断な君主は、目先の危険を避けようとして、たいていは中立の道を採り、たいていは破滅します。しかし、君主が堂々として一方の側に味方することを明らかにすると、もし同盟した側が勝てば、勝者がどんなに強力で、彼がそのなすがままであったとしても、勝者は彼に恩義があり、友愛の絆を結びます。それに人間というものは、味方を抑圧して忘恩の記念碑となるほど、恥知らずではありません。勝者がなんの気遣いもせず、特に正義に配慮しなくてすむような、完璧な勝利など、そもそも、ありえないのです。また、同盟した側が負ければ、同盟者がかくまってくれるでしょうし、できうれば支援してくれるでしょう。そうして、いつかまた上向くかもしれぬ運命を共にする仲間となるでしょう。

第二の場合、つまり戦っているのが、どっちが勝とうが気にする必要もないほどの者だというときは、一方と同盟するほうが得策なのです。なぜなら、賢明なら互いに助けあうものなのに、その一方を支援してもう一方を滅ぼすのを手助けることになるのですから。そして、勝った場合は、支援がなければ勝てなかったのだから、支援した君主の意のままとなるのです。ここで留意しておいて欲しいのは、君主は、他国を攻撃するのに、上に述べたように、必要に迫られないかぎりは、自分より強大な国と同盟してはならないということです。なぜなら、もし勝てば、同盟した君主の意のままとなるからであり、そして君主は、できるかぎり他人の意のままになるのは避けなければならないからです。ヴェネツィア人はミラノ公に対抗するためフランスと結びました。この同盟はその破滅の原因となりましたが、この同盟は避けることができたものでした。しかし、教皇とスペインが派兵してロンバルディアを攻撃したときにフィレンツェに起ったように、同盟が避けがたいときは、前に述べたように、君主はどちらか一方の側の味方とならざるをえないのです。

どんな政府も完全に安全な政策を選択できると思ってはなりません。むしろ極めて不確かな政策をとらざるをえないと思うべきです。なぜなら、一つの困難を避けようとして、別の困難に陥ることは、普通の出来事ですから。そうではなくて、思慮分別というものは、困難の性質を見分ける方法を知り、より害の少いものを選ぶことにあるのです。

君主はまた、才能ある者の後援者であることを示し、あらゆる技芸でその熟達者に栄誉を与えなければなりません。同時に、その市民が、商業であれ農業であれあるいはその他の諸々であれ、平穏にその職業に専念するよう奨励して、取り上げられはすまいかと恐れてその財産を殖やすのをやめたり、税金を恐れて商売をやめたりしないようにすべきです。また、こうしたことをしたいと願い、なんとかしてその都市や国家が繁栄するよう目論む人に、君主は褒美を与えるべきなのです。

さらに君主は、一年のうち都合のよい時期に、祭りや見世物で人々を楽しませなければなりません。そしてどの都市も同業組合や地区組織[44]に分たれているので、君主はこうした団体を尊重し、ときにはそれらと会して、自分が寛大さと気前よさの手本であることを示すべきです。それでもやはり、いつも自分の地位の威厳を保ち、そのためには何事においても、その地位を低めるようなことを認めてはならないのです。

英訳の注

[44] 原文では"in arti o in tribu"。arti は手工業者や商人の同業者組合である。Florio:「arte は・・・都市や自治町の同業者全員からなる団体である」を参照。Edgcumbe Staley氏はこの主題を扱った著作(Methuen, 1906)の中で、フィレンツェの同業者組合がもっとも見事だと述べている。altel とよばれる、なにがしか似た性格をもつ制度が現代のロシアに存在している。Mackenzie Wallace卿の『ロシア』(ed. 1905):「子弟は・・・労働期間のあいだずっと artel のメンバーである。いくつかの大きな町にはもっと複雑な artel、大きな資本を持ち、個々のメンバーの行動に金銭的な責任を負う永続的な組合が存在している。」を参照。artel という言葉は、外見上は似ているにもかかわらず、Aylmer Maude氏が私に断言することによれば、ars や arte とはなんの関係もない。その語源は、誓約によって義務づけられるという意味の動詞 rotisya であり、これは一般には rota という別の形態でだけ許容されているが、この語は現在は連隊を意味する。どちらの語でも基礎をなす概念は、誓約で一体となった人の団体ということである。tribu はおそらく、共通の血統によって一体となり、婚姻で結びついた個々人を含む、氏族集団であろう。多分、英語では septs や clans という語が適切であろう。


第22章 君主の秘書官について

君主にとって使用人を選らぶことはかなり重要なことで、使用人の良し悪しは君主の眼識にかかっています。人が君主について、それに彼の知力について抱く最初の評価というものは、その側近を観察して得られるのです。側近が有能で信頼できるなら、君主は賢明だと思われるのが常です。なぜなら、その君主は有能かどうか見抜く方法と、彼らに忠誠を守らせる方法を知っているからなのです。しかし側近がそうではないときには、その君主について良い評価を下すことはできません。というのは、その君主の犯した第一の誤りは、そうした側近を選んだことにあるのでから。

シエナの君主パンドルフ・ペトルッチの使用人であるアントニオ・ダ・ヴェナフロ卿を知っている人はだれしも、ヴェナフロを使用人にしたことで、パンドルフを大層賢明な人物と思わざるをえませんでした。なぜなら、知性には三つの種類があり、一つは自力で理解するもの、もう一つは他人が理解したことの真価がわかるもの、そして第三は自力でも他人が示すことによっても理解しないものの三つですが、最初のものがもっとも優れており、第二のものはまあまあのもので、第三のものは無益です。だから、それから必然的に言えるのは、パンドルフは第一の等級ではないにせよ、第二の等級であるということです。というのは、言われたり為されたりしたとき、その良し悪しについての判断を求められると、彼は主導権をもつことはなかったとしても、その使用人の良い行いと悪い行いはよく分っており、良い行いは褒め、悪い行いは矯正したからです。こうして使用人たちは君主を欺くことを望むべくもなく、正直にふるまうのです。

しかし、君主がその使用人について評価を下すことができるためには、絶対失敗しない見分け方があるのです。使用人が君主の利害より自分の利害のことを考え、内心ではなにをさておき自分の利益を追い求めていることがわかれば、そうした人間は良き使用人には決してならないし、また信頼するわけにはいきません。なぜなら、別の人から国家の支配責任を任されている人は、自分のことなど決して考えず、ひたすら君主のことを考えるべきであり、君主が関わりをもたないことに注意を払ってはならないからです。

一方、使用人を正直者にしておくには、君主は彼のことを観察し、褒め、裕福にし、彼にたいして親切に振る舞い、彼と名誉と苦労を分かち合わなければなりません。それと同時に、彼が一人ではやっていけないことを分からせ、そうして大きな名誉を与えて、それ以上の名誉を求めないようにし、多くの富を与えてそれ以上の富裕を望まないようにし、多くの苦労を与えて変化を恐れるようにすべきです。ですから、使用人と使用人にたいする君主の態度がこのようなものであれば、お互いに信頼できるでしょう。しかし、そうでなければ、最後は必ずやどちらか一方が悲惨な目にあうのです。


第23章 おべっか使いをどのように避けるべきか

私はこの問題の重要な一分肢を省かないようにしようと思います。というのは、それは非常に注意を払い、きちんと見分けないと、君主がそれから身を守るのに困難を伴うような危険だからです。それはおべっか使い、つまり宮廷にあふれている連中についての問題だからです。なぜなら、人間というものは自分自身の諸事では自惚れが強く、ある意味、こうしたことでは欺かれやすいので、この疫病から身を守るのは難事であり、また身を守ろうとすると、侮られる危険に身をさらすことにもなるからなのです。そのわけは、おべっか使いから身を守るには、真実を告げることが君主の機嫌を損ねることにならないことを人々に理解させる以外に道はないのですが、だれもが真実を告げてもよいとなれば、君主の尊厳を貶めることになるからです。

ですから、賢明な君主は第三の道を採って、国内から賢者を選らび、彼らにだけ君主に真実を離す自由を与え、しかも君主が諮問した事柄だけで、それ以外は話させないようにすべきです。君主はなにごとも彼らに質問し、その意見に耳を傾け、その後に自分の結論を下すべきです。ばらばらであれ集団であれ、この相談役に、その一人一人が気兼ねなく話せばそれだけ好ましいということを理解するよう、君主は振舞わなければなりません。それ以外には、君主はだれの意見も聴かず、決定したことに専心して、その決定を守り通すべきです。そうしなければ、おべっか使いによって滅亡するか、さまざまな意見によってしばしば決定を変更して、軽蔑されることになるのです。

この問題について、現代の事例を一つ挙げておきましょう。現皇帝マクシミリアン[45]の事務処理役であったルカ師は、この皇帝について次のように言っています。皇帝はだれにも助言を求めなかったが、なにごとも自分の思い通りにしなかった、と。こうしたことは、皇帝が上に述べたのと反対のやり方をしたために生じたのです。というのは、この皇帝は秘密主義の人物で、自分の計画をだれにも伝えず、またそれについてだれの意見も聴きませんでした。しかし計画を実行しようとすると、事は露見して周知にものとなり、直ちに周囲から妨害され、すると皇帝は言いなりなって、その計画から方針転換するのです。こうしてその結果、ある日行ったことを次の日には取り止め、皇帝がなにを望みなにを行おうとしているのかだれも理解できず、皇帝の決断をだれもあてにできない状態になりました。

ですから、君主はいつも助言を聴くべきですが、ただそれは君主が聴きたいときに聴くのであって、他人が助言したいときであってはなりません。むしろだれにせよ、尋ねもしないのに彼に忠告しようという気を起こさせてはならないのです。しかし君主は、飽くなき探究者であるべきで、次いで、探究する事柄に関しては忍耐強い聴き手であるべきなのです。また、あれこれ考えて、真実を告げなかったことがわかれば、君主は自分が怒っていることを感じとらせなければならないのです。

また、賢明だと評判の君主は、自分の能力によるのでなくて、側近の良き助言者のおかげなのだと思う人があれば、それは明らかに間違っています。なぜなら、君主が賢明でなければ、良き助言を採ることはないというのは、外れようのない格律なのですから。しかし、たまたま、君主がその諸事を全面的にある個人に委ね、この人が非常に分別があるという場合は別です。この場合は、この人がうまく管理されるでしょうが、それは長くは続かないでしょう。なぜなら、まもなくこうした役人が君主から国を奪い取るでしょうから。

しかし経験の浅い君主が、複数の人から助言を受けても、彼はまとまった助言を得ることにはならないし、そうした助言をまとめる仕方も知らないでしょう。それぞれの相談役は自分の利害を考えるでしょうし、君主はそれらを統制する術も、そういう助言を通して理解する術も知らないでしょう。それに彼らはそれ以外の者ではありようがないのです。なぜなら、人間というものは、むりやり正直にさせられているのでなければ、君主にたいして不実であるのが常なのですから。ですから、推測するに、良き助言は、だれから得られたにしても、君主の知恵から生まれるのであって、君主の知恵が良き助言から生まれるわけではないのです。

英訳の注

[45] マクシミリアン一世。1459年生れ、1519年死去。神聖ローマ帝国の皇帝。彼は最初ボルドーのシャルルの娘マリーと結婚したが、その死後、ビアンカ・スフォルツァと結婚し、こうしてイタリアの政局に巻き込まれるようになった。


第24章 なぜイタリアの君主たちはその国を失しなってきたか

前に述べたことを注意深く守れば、新興の君主も不動の地位を築いたように見せることができるでしょうし、同時にまた、長らくその地位に就いた場合よりも、その国内で確実で安定したものとすることができるでしょう。というのは、新興の君主の行動は世襲の君主よりも詳細に吟味され、有能な人物だと見られると、古い家柄の君主よりも、多くの人々を味方につけ、一層固い絆で結びつけます。なぜなら人間は過去より現在のものに心魅かれるものであり、現に今が幸福だと思えば、それを享受してそれ以上のものを探そうとはしないからです。また、君主がその他のことでも人々を失望させなければ、人々は君主をなんとしても守ろうとするでしょう。こうして、新しい君主国を築き、良い法律、優れた軍隊、良好な同盟関係、さらに素晴しい手本でその国を飾りたて、強くすることは、新興の君主にとって二重の栄光となるでしょう。そうして生れながらの君主が、賢明さが足りないばかりに、その国を失なえば、彼にとって二重の不名誉となるのです。

そして、ナポリ王やミラノ公など、当代イタリアで国を失なった諸侯をよく検討してみると、まず第一に、これまで詳細に論じてきた理由から、軍事に関して共通した弱点を持っていたことがわかります。次に、民衆に敵対するか、あるいは民衆とは友好的であったとしても、貴族を確保する方法を知らなかったかの、いずれかであったことが見てとれるでしょう。こうした弱点がなければ、出兵しておけるほどの力のある国を失なうことは、ありそうもないことです。

アレキサンダー大王の父親でなく、ティトゥス・クィンティウスに敗れたほうのマケドニア王フィリッポスは、彼を攻撃したローマやギリシアの強大さに比べればたいした領土を持っていませんでしたが、民衆を魅了し貴族を確保する術を心得た好戦的な人物であり、何年もの間、敵に抗して戦争を続け、最後はいくつかの都市の支配権を失なったとはいえ、その王国を守り抜きました。

ですから、多年にわたり所有してきた君主国を失ったことで、我が君主たちに運命を非難させてはなりません。むしろ非難されるべきは、その怠慢なのです。なぜなら、平穏な時代には、状況が一変するなどとは思いもせず(凪いでいる時に嵐にたいする備えをしないのは人類共通の欠点ですが)、その後に逆境の時代がくると、逃げることだけ考えて自国を防衛することを忘れ、民衆が征服者の横暴に嫌気がさして、自分たちを呼び戻してくるのではないかということに望みを託してきたのです。他の方策が尽きたのなら、この方策もよいでしょう。しかし、そのためのほかの手段をすべて無視して、この方策というのはきわめて不面目です。というのも、後に自分を助け起してくれる人が見つかるだろうと信じているという理由で、倒れようと思ったりしないでしょうから。そんなことは起らないし、起ったとしても、そんな解決策は独立独歩でいるためには無益なことなので、自分の防護策とはならないでしょう。自身とその豪胆さを恃むことこそ、頼りになる、確実で、永続的な方策なのです。


第25章 運命が人間の諸事に及ぼす効果と運命に対抗する方法

この世の諸事情は運命と神によってうまく統べられているのであって、人の知恵では思うようにできず、改善することさえできないという意見を、どれほど多くの人が抱いてきたか、また今なお抱いているのか、ということは私にもわかっています。このせいで、私たちは諸事にわたって労力を費やす必要はなく、偶然に任せておけばよいと信じているのです。当代では、人間には推し量ることのできないような大きな変化を、日々目の当りにし、これからも目撃するでしょうから、この意見は一層信憑性を帯びています。ときにこのことに思いを巡らせると、私も幾分かはそうした意見に傾むきます。そうは言っても、私たちの自由意志が消えないかぎりは、運命は私たちの行動の半分の決定者であって[46]、残り半分ないしおそらく半分近くは、私たちの裁量に任されているというのが、真実なのでしょう。

運命を荒れ狂う川に例えてみましょう。洪水が起ると、川は平野に氾濫し、木々や建物を押し流し、土砂をある場所から別の場所へと運び去ります。それを前にしてはだれもが逃げ去り、あらゆるものが、それに抗す術もなく、その猛威の被害を受けるのです。その本性はこうしたものですが、だからといって、天気が良いときに、防護壁や遮蔽物で備えておき、こうして、再び増水したら、水を運河に流し、その力を無制限で危険なものでないようにしなくていい、ということにはならないでしょう。運命も同じことで、それに抵抗する肚が固まっていないところで、その力を発揮し、それを妨げるよう遮蔽物や防壁が築かれていないとわかると、そちらへと力を向けるものなのです。

さてイタリアについて考えてみましょう。ここはこうした変化の中枢であり、その衝撃を受けた場所ですが、遮蔽物もなければ防壁もない無防備な国であることがわかります。というのは、ドイツやスペインやフランスのように本当の意味での豪胆さがあれば、この侵略がこんな大きな変化をもたらさなかったでしょうし、そうした侵略などまるで起らなかったでしょうから。一般に運命にたいする抵抗については、このことにつきていると思います。

もっと詳細なことに限ってみると、ある君主が、気質や性格が変化したわけでもないのに、今日幸福であったものが、明日は没落していることがあります。思うに、こうしたことは、第一にはこれまで既に詳細に論じてきたような原因、つまり、まるで運命に頼りきっている君主は、運命が変わると滅ぶということから生じるのです。また、時代の精神にあわせて行動を律する人は成功し、時代にあった行動をとらない人は成功しないのだ、と思うのです。なぜなら人間というものは、見ての通り、各自の目前にある目的、つまり栄光や富に導く諸事において、様々な方法で成功を収めようとするものなのですから。ある者は用心深く、別の者は性急に、ある者は力ずくで、別の者は巧妙に、ある者は忍耐強く、別の者はその反対に、そして各人各様のやり方で目標到達に成功しようとしているのです。二人の用心深い人が、一方は成功し、他方は失敗するということもありますし、同様に、一方は用心深く、他方は衝動的というような、異なる行動様式の二人の人が、同じように成功するすることもあります。こうしたことが生じるのは、そのやり方が時代の精神に適ったかどうかによるのです。私が述べたことの結果、二人の人が異なる努力をして同じ効果をもたらし、同じような努力を重ねたうちの一人は目標を達成し、もう一人は達成しない、ということが生じるのです。

境遇の変化もまたこのことから生じます。というのは、自らを律して慎重で忍耐強くふるまってきた人にとって、彼のやり方がうまくいくように、時代と状況が収斂するなら、彼には運は向くでしょうが、時代や状況が変わったのに、その行動方針が変わらないなら、彼は破滅します。しかし人間というものは、生来の傾向からやりがちなことに背を向けることができず、また同時に、これまでいつも一つのやり方で首尾よくいったので、それをやめることを納得しないという理由から、変化に対応する術を身につけるほど用意周到であることはまれなのです。ですから、慎重な人は、予断を許さない時代がくると、どうやってよいかわからずに、破滅するのです。しかし彼が時代に合わせて行動を変えていれば、運が変わることもなかったのです。

教皇ユリウス二世は自分の問題はなんであれ果断にことを行なってきましたが、時代と状況がその行動方針にうまく適合していたので、常に成功をおさめてきたのです。彼の最初のボローニャにたいする企図のことを考えてみましょう。それはまだジョヴァンニ・ベンティヴォリオ卿が存命中のことでした。ヴェネツィア人もスペイン王もその企図に同意せず、まだフランス王と検討中でしたが、それにもかかわらず、彼はいつもの大胆さと勢いでじきじきに遠征にのりだしたのです。この処置でスペインとヴェネツィアは優柔不断で消極的になりました。ヴェネツィアは恐怖心から、スペインはナポリ王国を回復するという欲望からそうなったのです。一方、教皇はフランス王を引き込みました。なぜならフランス王はこういう動きをみて、ヴェネツィアを卑しめるために、教皇の友となりたいと思い、また出兵を断ると、教皇を公然と傷つけることになると悟ったからなのです。だから他の教皇がだれも純真で思いやりのある知恵によってはなしえなかったことを、ユリウスは果断な行動で成し遂げるたのです。というのは、他の教皇がやってきたように、計画が決まり、用意万端整って出発できるようになるまで、ローマにとどまっていれば、決して成功しきれなかったでしょう。なぜなら、そうなれば、フランス王は何千もの言い訳をもち出し、それ以外の諸国は数多くの脅しをかけたことでしょうから。

彼の他の行動は、みな似たものであり、すべてがうまくいったので、傍らに置いておくことにしましょう。というのは彼の生涯は短かったので、反対のことを経験せずにすんだのです。しかし彼に慎重に行動するよう求めるような状況が生じたなら、彼はその結果破滅したことでしょう。なぜなら彼も、生来の傾向によってそうしたやり方に背を向けることはなかったでしょうから。

それで、私の結論では、運命は変わりやすく、また人間は自分のやり方に固執するものだから、この二つが一致するかぎりは成功し、それらが合わないと失敗することになります。私としては、慎重であるより、果断な方がましだと思います。なぜなら運命は女であって、服従させておくには、彼女を打ちのめし酷使する必要があるのです。それに運命は冷静にことを進める人よりも、大胆不敵な人に支配されるのを認めるようです。それで、運命はいつでも女のように、若者の愛人なのです。なぜなら、若者は慎重さに欠け、粗暴で、厚かましくも女を意のままにするのですから。

英訳の注

[46] フリードリッヒ大王は常々次のように言っていた。「歳老いるほど納得するのは、この貧弱な世界の諸事の四分の三は偶然という王のしわざということだ。」Sorel『東方問題』


第26章 イタリアを蛮族から解放せよという勧め

これまで述べてきた論述の主題を注意深く考察し、当代が新興の君主に好都合なのか、賢明で力量のある人に新しい秩序を導入して、彼には名誉をこの国の民衆には幸福をもたらすような機会を与える諸要素があるのかどうか、私は内心で思い巡らせてきましたが、万事一致して新興の君主に有利に働き、現在ほど適切な時代はかつてないように、私には思えるのです。

前に述べたように、モーゼの力量を明らかにするにはイスラエルの民が囚われの身となることが必要であり、キュロスの偉大な心が見出されるにはペルシャ人がメディア人に抑圧されることが必要であり、テーセウスの能力が示されるにはアテナイ人が散り散りになることが必要だったとするなら、現在にあっては、イタリア精神の力量を見出すためには、イタリアは現在のような窮地に陥り、ヘブライ人よりもっとひどい奴隷状態になり、ペルシャ人以上に抑圧され、アテナイ人よりも散り散りになり、指導者もなく、秩序もなく、打ちのめされ、略奪され、引き裂かれ、制圧されて、あらゆる荒廃に耐えることが必要だったのです。

最近、ある人物のおかげで閃光が見え、その人は私たちを救済するために神が任じられたのだ思ったものですが、しかしながら、後から振り返ると、それが彼の経歴の最盛期であって、運命は彼を見限ったのでした。こうしてイタリアは生気を失ったまま、その傷を癒し、ロンバルディアの破壊と略奪、ナポリ王国とトスカナの詐取と重税を終わらせて、長い間苦しんできた痛みをとってくれる人を待ち望んでいるのです。見てのとおり、イタリアはこうした悪事や野蛮な横暴から解放してくれる人を遣わしたまえと神様に懇願しています。またイタリアはだれかが旗を掲げれば、その旗のもとにつき従う覚悟も意欲もあるのです。

現在、イタリアが望みを託せるのは、貴殿[47]の、武勇と幸運をもって高名なる、また神によっておよび今やその長となられた教会の愛でる御一家をおいてほかにはありません。貴家こそがこの贖罪の頭となりうるのです。貴殿が私が名を挙げた人々の行為と生涯を思い起すなら、それは困難ことではありますまい。彼らは偉大で素晴しい人物であったとはいえ、所詮は人間であり、そのうちだれ一人として現在差出されているほどの好機に恵まれた者はいませんでした。というのは、彼らの企図はこれほど正義にかなったわけでも、容易なものでもなかったのですし、また神が貴殿の味方をなされるほどには、彼らの味方とはなられなかったのですから。

我らには大いなる正義があるのです。なぜなら、やむにやまれぬ戦は義にかない、武器よりほかに望みがなければ、その武器は神聖であるのですから。やる気は満ちており、やる気満々のところでは、私が注意を向けようとしてきた人々を手本とするなら、困難が大きいはずがありません。それに加えて、神の御業は例のないほど並はずれて示され、海は分たれ、雲は行く手を導き、岩は水を吹き、天からマナが降り、すべてが貴殿の偉大さに寄与してきました。貴殿は残る部分を為すべきなのです。神はすべてをやり遂げられようとはされないのですが、そうすることで私たちの自由意志と私たちに帰すべき栄光の分け前を奪いとるまいとされているのです。

先に名を挙げたイタリア人のだれ一人も、高名なる貴家に期待されることをすべて成し遂げえなかったこと、またイタリアの多くの変革、多くの軍事行動のなかで、軍事的力量が尽き果てたかのように見えることを不思議に思わなくてもよいのです。こうしたことが起きたのは、古い秩序が妥当なものでなく、私たちのだれ一人として新しい秩序を見出す術を知らなかった故なのです。新たに身を起したとき、新しい法、新しい秩序を確立することほど、人にとって名誉なことはありません。それらがきちんと創られ立派なものとなるとき、そうしたことで彼は崇敬され称賛されるでしょう。しかも、イタリアでは、どんな形態であれ、そうしたものを利用しはじめる機会が欠けているわけではないのです。

ここでは、偉大な勇猛さは、手足にはあるけれど、頭には欠けているのです。決闘だの一対一の戦闘を注意して見てみると、イタリア人は力や技巧や巧妙さではとても優れています。しかし軍隊となると、比較に耐えません。これは全くもって指導者の無能から生じているのです。有能な人は従順でなく、個々人が自分はよく知っているのだと思い込んでいるので、武勇でも運でも他の者から目立つほど優れた人がおらず、他の者が指導者に従わなかったからなのです。このため、長い間、過去二十年の戦乱の間、全軍イタリア人の場合はいつも、戦績は振わなかったのです。その証拠がタロ、アレッサンドリア、カプア、ジェノヴァ、ヴァイラ、ボローニャ、メストリの戦いでした[48]

ですから、高名なる貴家が国を質から請け出そうという優れた人材を率いようとするなら、どんな企図でも真の基盤となるご自身の軍事力を用意することが、何よりもまず必要です。なぜなら自分の軍隊以上に忠実でまっとうで優良な兵士は、いないのですから。彼ら個々人が優れているといっても、自分たちの君主が指揮しており、その君主が栄誉を授け、その君主の費用で養われていると知れば、さらにいっそう優れたものとなるでしょう。それで貴殿はイタリアの武勇によって外交勢力から守られるのです。

スイスやスペインの歩兵が非常に手ごわいとはいっても、両軍とも欠陥があり、そのため第三の軍制で彼らに対抗できるだけでなく、彼らを壊滅させることができるかもしれません。というのは、スペイン軍は騎兵に対抗できないし、またスイス兵は接近戦で遭遇するとかならず歩兵を恐れるのです。このおかげで、スペイン軍がフランス騎兵に対抗できず、スイス兵が歩兵によって壊走するのが、これまで見られてきたし、これからも見られるでしょう。スイス兵の件はきちんと証明することはできないのですが、ラヴェンナの戦いでそのいくらかは明らかになりました。その戦いではスペイン歩兵がドイツの大隊と戦ったのですが、ドイツ大隊はスイス兵と同じ戦術をとっていました。スペイン兵が集団の敏捷さと盾の助けでドイツ軍の槍をかいくぐり、危険がなく攻撃可能な場所にたったのに、ドイツ軍のほうは孤立無援の状態になったのでした。もし騎兵が駆けつけなければ、彼らは万事休していたことでしょう。ですから、こうした両歩兵の欠陥を知れば、騎兵に対抗できて歩兵を恐れない、新しい歩兵を創案することも可能です。これには新しい軍団を創設する必要はなく、古くからある軍団に変更を加えるだけで十分です。これは新しい君主に名声と権力をもたらす改善なのです。

ですから、イタリアがついにその解放者が現れるのを目にしようというこの機会を、見過ごしてはなりません。これら外国の屑どもから痛めつけられたあらゆる地方で、どれほどの愛で、どれほどの復讐の渇望をもって、どれほど強固な信念で、どれほど献身で、どれほど涙で、その解放者が迎えられるか、表現できないほどです。彼にたいし閉される門戸があるのでしょうか。だれが彼に服従するのを拒むのでしょうか。どんな妬みが彼を邪魔だてするのでしょうか。どういうイタリア人が彼に臣従を誓うのを拒むのでしょうか。私たち全員にとって、この蛮族の支配が悪臭を放っています。ですから、高名なる貴家が、あらゆる正義の企図に着手する際に抱く勇気と希望をもって、この任務を引き受け、その軍旗の下に我が祖国の名を高らしめ、その吉兆の下にペトラルカの次の言葉が正しいことを示されますよう。

暴虐に抗う徳は
武器を取りて、戦はたちまち止まん
いにしえの猛き心は
イタリアの民の胸に未だ滅びざれば

英訳の注

[47] ジュリアーノ・デ・メディチ。彼はレオ十世により枢機卿に叙任されたところであった。1523年にはジュリアーノは教皇に選出され、クレメンスという称号を得た。

[48] イル・タロの戦闘は1495年、アレッサンドリアは1499年、カプアは1501年、ジェノヴァは1507年、ヴァイラは1509年、ボローニャは1511年、メストリは1513年に起った。


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