フランスにおける階級闘争 第1部
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第1部 1848年6月の敗北

7月革命の後で、自由主義者の銀行家ラフィットは、自分の仲間のオルレアン公を意気揚々とパリ市庁舎に先導しながら、ふと漏らした。「これからは銀行家が支配する」と。ラフィットは革命の秘密を漏らしたんだ。

ルイ・フィリップの下で支配したのは、フランスのブルジョワジーじゃなくて、その一分派、銀行家や株取引王、炭鉱・鉄鉱山・森林所有者、それと彼らに結びついている一部の土地所有者たち--いわゆる金融貴族たちなんだ。そいつらが玉座に座り、議会で法律を公布し、内閣の大臣からタバコ局の役職に至るまで公職を分配した。

本来の産業ブルジョワジーは公式反対派の一部をなしていた。すなわち議会の少数派に代表されていたにすぎなかったんだ。金融貴族の専制が混じりけなしのものになればなるほど、また1832年、1834年、1839年の暴動が血の海の中に溺れ死に、労働者階級にたいする支配が確かなものになったと思われれば思われるほど、その反対意見は断固として主張された。グランダンは、ルーアンの製造業者で、立法国民公会でも憲法制定議会でも、ブルジョワの反応のもっとも狂信的な手先だったけど、下院ではギゾーの最も激しい反対者だった。レオン・フォーシェは、のちにフランス反革命のギゾーにまで這い上がろうと無益な努力をしたんで有名なんだけど、ルイ・フィリップ時代の終わりには産業界のために、投機とその追従者にたいしペンの戦いを繰り広げていた。バスティアはボルドーと全ワイン生産者の名の下に、支配制度に対抗するようフランス中を扇動していた。

あらゆる色合いのプチ・ブルジョワジーと農民もまた、政治権力から完全に締め出されていた。最後に、公式反対派のなか、あるいは選挙有権者のまったく埒外には、上に述べた階級のイデオロギー的代表者と代弁者、彼らの学識者、法律家、医者等々、言い換えると彼らのいわゆる才能ある人々がいたんだ。

財政難を背負いながら、7月王政はその始まりから大ブルジョワジーに依存してたんだけど、この大ブルジョワジーへの依存が増大する財政難の尽きることのない源泉だったんだ。予算収支のバランスがとれないでは、すなわち国家の支出と収入とのバランスが確立しないことには、国家の統治を国民生産の利害に従わせることなど不可能なことだ。そして、国家支出を制限せずに--すなわち支配制度の多くの支持者の利害を侵害せずに--また税を再配分することなく--すなわち税負担のかなりの部分を大ブルジョワジー自身の肩に移動させることなしに、どうしたらこのバランスを確立できるんだ?

逆に、議会を通じて支配し法を定めてきたブルジョワジーの分派は、国家の負債に直接利害をもっていた。国家の赤字が実にその投機の主要な対象で、それが富裕になるおもな源泉だったんだ。毎年末には新たな赤字が生じ、4、5年おきに新しい借入れが起こった。そして新しい借入れの度に、金融貴族には国家を食い物にする新しい機会を与えられた。国家は人為的に破産の淵に立たされ続けた--国家は銀行家と不利な条件で交渉しなければならなかった。新しい借入れのたびに、株取引の操作をつかってその資本を国債に投資し、公金を強奪する機会がさらに与えられた。これが政府と議会の多数派が内々に通じていた秘密なんだ。一般に、国家の信用が不安定であることと国家の秘密を手に入れたことで、銀行家と議会や玉座のその共犯者たちは国債の相場を突然に、しかも異常に変動させることが可能だった。その結果はいつも多くの小資本家が没落し、大博打うちが驚くほど急に金持ちになることになった。国家の赤字はブルジョワジーの支配分派の直接利益となることだったから、ルイ・フィリップの治世の末期の臨時国家支出がナポレオン統治下の臨時国家支出の2倍以上になった理由は明らかだ。フランスの年平均の総輸出額が7億5千万フランにのぼる額を達成することはめったになかったのに、臨時国家支出は、実に年総額4億フランに達してたんだ。このようにして、国家の手を介して流れ出た莫大な金額が、さらに詐取的な荷渡し契約、贈収賄、横領、あらゆる種類の悪業を助長した。

借入れに関しては卸売りで実施された国家からのだまし取り行為は、公共事業では小売りで繰り返された。議会と政府との間の関係で生じたことは、個々の部門と個々の請負人との関係の中で倍加された。

鉄道建設を食い物にした支配階級は、同じようにして、国家支出一般と国家借入れを食い物にした。議会は国家に思いきり重荷を積み上げ、投機的な金融貴族に金の果実を保証した。下院のスキャンダルで誰もが思い出すのは、国務大臣を含む多数派の全員が、後に立法者として彼らが国の費用で実施した鉄道建設に株主として利害関係をもっていたことが偶然洩れた事件だ。その一方で、もっとも小さな財政改革も、銀行家の介入で暗礁に乗り上げた。例えば郵政改革。国家が、絶えず増え続ける負債の利子をそこから支払わなければならない収入源を縮小してもよいのか?とロトシルトが異義を申し立てたんだ。

7月王制とはフランスの国有財産を食い物にするための株式会社以外のなにものでもなかった。その配当は国務大臣、国会議員、24万人の有権者、およびその支持者たちに分けられた。ルイ・フィリップはこの仲間の指揮者--玉座に座ったロベール・マケール[1]だった。貿易、工業、農業、海運業、産業ブルジョワジーの利害は、引続き、この制度の中で危機にさらされ、不公平な扱いを受けなければならなかった。安上がりの政府というのが7月王制時代に産業ブルジョワジーが旗じるしに書いた言葉だった。

金融貴族が法を作り、国家の統治の首脳部におさまり、組織された公共機関をすべて指令し、現状を通じまた新聞を通じて世論を支配していたから、同じ堕落、同じ恥知らずな詐欺、同じ金儲け熱が、あらゆる分野で繰り返され、宮廷からカフェ・ボルニュ[2]に至るまでが、生産によってではなく、既に使える状態の他人の富を着服することによって金を儲けようとした。絶えずブルジョワ法自身と衝突しながら、不健全で気ままな欲望が歯止めなく主張された。特にブルジョワ社会の頂点では。--そこでは博打で得た富が当然にもその満足を強欲の中に探し求め、快楽は堕落したものとなり、金と汚辱と血がいり混じっていた。金融貴族はものを獲得するやり方でも快楽でも、ルンペン・プロレタリアートがブルジョワ社会の頂点に生まれかわったもの以外の何者でもなかったんだ。

そしてフランス・ブルジョワジーの非支配分派は叫んだ、「腐敗だ!」と。1847年、ブルジョワ社会のもっとも目立つ舞台の上で、ルンペン・プロレタリアなら決まって売春宿へ、救貧院や精神病院へ、法廷の被告人席へ、地下牢へ、そして絞首台へと送り込まれるような同じ場面が演じられていたとき、人民は叫んだ、「大泥棒を打ち倒せ!暗殺者を打ち倒せ!」と。産業ブルジョワジーはその利害が危機に晒されるのを見たし、プチ・ブルジョワジーは道徳的に憤慨し、人民の想像力は不快な思いをした。パリは「ロトシルト王朝」、「時代の高利貸王」といったパンフレットで溢れかえったが、それらは多かれ少なかれ機知をめぐらして、金融貴族の支配を告発し、罪の焼き印を押すものだった。

栄光は一文にもならない!いつもどこでも平和を!戦争は3%公債や4%公債の相場を下げる。証券取引所の仲買人のフランスはその旗じるしにこう書き付けていた。それで、その外交政策は一連の屈辱の中でフランスの国民感情の支持を失ってきた。この国民感情は、ポーランドの侵犯がオーストリアによるクラクフの併合という結果をもたらし、ギゾーがスイス分離戦争では神聖同盟側にたって積極的に介入したとき、いっそう激昂した。この疑似戦争でスイスの自由主義者が勝利を収めると、フランスのブルジョワ反対派の自信は高まり、パレルモの人民の流血の蜂起は、麻痺状態の大衆に電撃ショックのように働いて、偉大なる革命の記憶と情熱をよびさました。

この一般的な不満の爆発を最終的に加速し、暴動へ向かう気分を熟成したのは、二つの経済世界の事件だった。

1845年と1846年のジャガイモ病と穀物不作で、人民のあいだの一般的な不安が高まった。1847年の飢きんは大陸の他の地域と同じようにフランスでも流血の衝突事件をひき起こした。金融貴族の破廉恥な乱痴気騒ぎに対抗しての、絶対必要な生活物資を得るための人民の闘争。ビュザンセディエでは飢餓暴動の参加者が処刑され、パリではたらふく食った詐欺漢どもが王族のはからいで裁判を免れた。

革命の勃発を早めた二つ目の大きな経済的事件は、イギリスの全般的な商工業恐慌だった。すでに1845年秋には鉄道株の投機で大量の失敗がでるという前触れがあったんだけど、1846年の間は差し迫った穀物法の廃止といった一連の偶発事で引き延ばされていた。それがついに1847年秋にロンドンの食品卸商の破産となって恐慌が爆発した。それに踵を接して、地方銀行の破産、イギリスの工業地帯の工場閉鎖が続いた。この恐慌の余波が大陸でまだおさまらないうちに、2月革命が勃発したんだ。

経済的流行病がひき起こした交易と産業の荒廃で、金融貴族の専制はいっそう耐えがたいものになった。フランス全土でブルジョワ反対派は選挙法改革のための宴会運動で扇動した。それによって、議会の多数派を勝ち取り、証券取引所の内閣を覆そうとしたんだ。パリでは産業恐慌で、さらに次のような際だった結果が生じた。それは、現状ではもはや外国市場で商売が立ちゆかなくなった多数の製造業者や大貿易商が国内市場にむかったということなんだ。彼らが大きな店を開いたので、小商人や小店主が大量に破滅した。それでパリのブルジョワジーのこの部分にたくさんの破産がおこったし、だから彼らは2月革命のときには革命的な行動をとったんだ。周知のように、ギゾーと議会は改革の提案に明らかに挑戦的な対応をし、ルイ・フィリップはバロ内閣を決定したが遅すぎて、事態は人民と軍隊が白兵戦となるまでにいたり、軍隊は国民軍の消極的行動により武装解除され、7月王制は臨時政府に席を譲った。

2月のバリケードから出現した臨時政府の構成は、必然的に勝利を分かちあった様々な党派を映し出した。それは一緒に7月の玉座をひっくり返した様々な階級の妥協の産物以外のものにはなりようがなかった。でも、その階級の利害はお互いに相容れないものだった。そのメンバーの大多数がブルジョワジーの代表から構成されていた。共和主義的プチ・ブルジョワジーはルドリュ・ロランとフロコンが、共和主義的ブルジョワジーは「ル・ナシオナル」紙[3]の人々が、王党派的反対派はクルミョーとデュポン・ド・ロールが代表した等々だったんだ。労働者階級はルイ・ブランとアルベールというわずか二人の代表者しか持たなかった。最後に臨時政府のラマルティーヌ、これは最初はなんら現実の利害も、明確な階級も代表しなかった。それは2月革命そのもの、その幻想、その詩、その幻視的内容、その詩句をともなった共同の反乱であった。残りの部分はというと、この2月革命の代弁者は、その地位からいってもその見解からいっても、ブルジョワジーに属していた。

政治的な中央集権の結果、パリがフランスを支配するならば、革命の激震の時には労働者がパリを支配する。臨時政府の生涯の第一幕目は、しらふのフランスへ呼びかけることで、酔いしれたパリの圧倒的な影響力から逃れようとすることだったんだ。ラマルティーヌは、バリケードの戦士たちが共和国を宣言する権利にたいして、その権利はフランス人の多数派だけが持っているという理由で異義を唱えた。彼らは投票を待たなければならず、パリのプロレタリアートはその勝利を専横で汚してはならないというんだ。ブルジョワジーがプロレタリアートに許した唯ひとつの専横--それは闘うことだった。

2月25日の正午になってもまだ共和国は宣言されていなかった。一方ではすべての大臣職はすでに臨時政府のブルジョワ分子の間で、「ル・ナシオナル」の将軍、銀行家、法律家の間で配分されてしまっていた。でも労働者はこのとき1830年7月のようなまやかしにはのるまいと決意していたんだ。彼らは新たに闘いを開始して武力で共和国を勝ち取る準備ができていた。このメッセージを携えてラスペーユはパリ市庁舎に向かった。パリのプロレタリアートの名において、彼は臨時政府に共和国を宣言するよう命じた。もしこの人民の命令が2時間以内に実行されないときは、彼は20万人を率いて戻って来るというのだ。倒れた死体は冷えきっておらず、バリケードはまだ武装解除されていなかった。そして彼らに対抗できる唯一の武装勢力は国民軍だった。こうした状況の下で、国家政策の考察から生じた疑念や臨時政府が抱いていた良心上の法律的ためらいは突然消え失せてしまった。2時間という制限時間がきれる前に、パリの壁中を巨大な英雄的な言葉が輝やかしく飾った。フランス共和国!自由、平等、友愛!

ブルジョワジーを2月革命へと駆り立ててきた限定された目的と動機の記憶さえもが、普通選挙権に基づく共和国宣言によってかき消された。ブルジョワジーのわずかな分派というだけではなく、フランス社会の全階級が突然政治権力の領域に投げ込まれ、貴賓席や特別席や桟敷から出て革命の舞台の登場人物を演じるよう強制されたんだ!立憲君主制と一緒に、ブルジョワ社会と独立して対峙している国家権力という見せかけは消え失せ、さらに権力のこうした見せかけがひき起こしてきた一連の付随的な闘争全体も消えた!

臨時政府に共和国を押しつけ、そして臨時政府を介してフランスに共和国を押しつけることで、プロレタリアートは直ちに独立した政党として前景に踏み出したんだけど、同時に自分たちに対抗して競争に参加するようブルジョワ的フランス全体に挑戦したんだ。プロレタリアートが勝ち取ったものは、その革命的解放への闘いのための地歩であって、決してこの解放そのものを勝ち取ったんじゃなかった。

2月共和制が最初にしなければならなかったことは、むしろ、金融貴族だけなく、すべての有産階級が政治権力の領域に参加することを認めて、ブルジョワジーの支配を完成させることだったんだ。大土地所有者の大多数派である正統王党派は、7月王制が宣告した政治的無効から解放された。「ガゼット・ド・フランス」が反対派の新聞とともに煽動したのには理由があったし、ラ・ロッシュジャクランが6月24日の下院の議会中、革命の側にたったのも十分理由があってのことなんだ。名目上の財産所有者である農民はフランス人民の多数派をなしていたが、普通選挙によって彼らがフランスの運命の裁定者になった。2月革命は、その蔭に資本が隠れていた王冠を叩き落すことで、ついにブルジョワジーの支配をはっきりと目に見えるものにしたんだ。

労働者は7月のときにはブルジョワ王制を闘いとったように、2月のときにはブルジョワ共和制を闘いとった。7月王制が自らを共和制的制度に囲まれた王制と宣言したように、2月共和制は自らを社会的制度に囲まれた共和制であると宣言せざるをえなかった。パリのプロレタリアートが、またこの譲歩をさせずにおかなかった。

マルシュという労働者が、新しく成立した時政府は労働者に労働による生活を保証し、すべての市民に仕事を提供する等々の義務を負うという布告を押しつけた。だが、それから数日して、臨時政府が約束を忘れ、プロレタリアートのことを見落としているように見えたとき、2万人の労働者の群衆が労働を組織しろ!特別の労働省をつくれ!と叫びながら、パリ市庁舎に行進した。しぶしぶながら、しかも長い論争の末に、臨時政府は常設特別委員会を任命して、それに労働者階級の生活改善の手段を援助する任務を課した。この委員会はパリの職人のギルドの代表者から構成され、ルイ・ブランとアルベールが議長となった。リュクサンブール宮殿がこの委員会の会議場としてあてられた。こうして、労働者階級の代表者は臨時政府の所在地から追い出され、臨時政府のブルジョワ的部分が実質的な国家権力と統治の手綱をその手に独占して握ったんだ。こうして大蔵省や商務省や公共事業省と並んで、銀行や証券取引所と並んで、社会主義者のシナゴーグが建てられ、その司祭長のルイ・ブランとアルベールは約束の地を発見し、新しい福音を伝道し、パリのプロレタリアートに仕事を提供するという仕事を負ったんだ。いかなる世俗的国家権力とも異なって、彼らは一切予算を持たず、またその処置の実施権限をまったく持っていなかった。彼らはブルジョワ社会の支柱を頭突きを食らわして倒そうとするかのようだった。リュクサンブールが賢者の石を探している間に、パリ市庁舎では流通硬貨が鋳造されていた。

まあしかし、パリのプロレタリアートの要求は、ブルジョワ共和制を越え出たものである限り、リュクサンブールという雲みたいなもの以外の存在を勝ちとることはできなかったんだ。

ブルジョワジーと一緒に、労働者は2月革命を成し遂げた。彼らはブルジョワジーとならんで、自分たちの利益の増大を確実にしようとした。ちょうど、ブルジョワ多数派とならんで、臨時政府そのものに一人の労働者を入閣させたように。労働を組織せよ!しかし、賃労働、これこそが現存する、ブルジョワ的な労働の組織なんだ。賃労働なしには、資本もなく、ブルジョワジーもなく、ブルジョワ社会もない。特別の労働省!だが、大蔵省、商務省、公共事業省がブルジョワ的ば労働省じゃないのか?こうしたものとならんでいるプロレタリアートの労働省は、無力な省、かなわぬ望みの省、リュクサンブール委員会であるしかなかったんだ。労働者はブルジョワジーとならんで自分自身を解放できると考えていたのと同じように、他のブルジョワ諸国民とならんで、フランス国民という壁のなかで、プロレタリア革命を達成できると考えていた。しかしフランスの生産関係はフランスの対外貿易によって、世界市場でのその地位世界市場の法則によって、条件づけられていてるんだ。世界市場の専制君主であるイギリスを打ち倒すヨーロッパ革命戦争をせずに、どうやってフランスの生産関係を破壊できるというんだ?

社会の革命的利害が集中している階級は、立ち上がるとすぐに、それ自身の状況のうちに革命的活動の内容と材料を、直接見つけるものなんだ。すなわち打ち倒すべき敵と闘争の必要性がとれと命じる手段を見出し、それ自身の行動の結果がさらに彼らを駆り立てていくということになるんだ。自分の課題を理論的に調査したりはしないものなんだ。フランスの労働者階級はこのレベルまで達しておらず、まだ自分自身の革命を成し遂げる能力がなかったんだ。

産業プロレタリアートの発展は、一般に、産業ブルジョワジーの発展に条件付けられている。産業ブルジョワジーの支配の下でだけ、プロレタリアートは自分の革命を国民的革命に高めることのできる広範な国民的存在となり、そうすることによってのみ、プロレタリアート自身が近代的な生産手段を創り出すのだが、この生産手段はその数だけ彼らの革命的解放の手段となるんだ。ブルジョワ的支配だけが封建社会の物質的な根を引き抜き、その上でだけプロレタリアート革命が可能となる大地をならす。大陸の他の地域に比べると、フランスの産業はより発展しており、フランスのブルジョワジーはより革命的である。しかし2月革命は直接には金融貴族の打倒を目的としたものではなかったのか?この事実は産業ブルジョワジーがフランスを支配していなかったことの証拠なんだ。産業ブルジョワジーは、近代的産業がすべての所有関係を自分自身に適合させて形成するところでだけ、支配することができるし、そして産業は、国境というものがその発展に不適当なので、世界市場を征服できたところでだけ、こういう力をふるうことができるんだ。でもフランスの産業は大部分、国内市場に対する支配力さえ、多かれ少なかれ修正された法外な関税制度によってのみ、維持しているにすぎない。そうだから、フランスのプロレタリアートは、革命の瞬間には、パリではその力量を越えて突き進むよう刺激する現実の権力と影響力を持つにもかかわらず、フランスの他の地域では、分離し散在する産業の中心地に群がり集まりながら、圧倒的多数の農民とプチ・ブルジョワジーの中にほとんど消え失せてしまうんだ。発達した近代的形態での--決定的局面での--資本に対する闘争、すなわち産業賃労働者の産業ブルジョワジーに対する闘争は、フランスでは部分的な現象であって、2月革命の時代の後ではほとん革命の国民的内容を提供することができなかった。というのも、金融貴族に対する一般的蜂起には依然として、資本の二次的な搾取様式に対する闘争、すなわち高利と抵当に対する農民の闘争、卸売業者や銀行家や工場主に対する--一言でいえば破産に対する--プチ・ブルジョワの闘争が隠れていたからだ。パリのプロレタリアートが自分の利害を、社会そのものの革命的利害として強制する代りに、ブルジョワシーとならんでその増大を確保しようと努めたこと、三色旗に譲って赤旗を降ろしたことほど、理解しやすいことはない。革命の進行が国民大衆、つまりプロレタリアートとブルジョワジーの間にいる農民とプチ・ブルジョワを、この秩序に対して、資本の支配に対して立ち上がらせ、革命の主唱者であるプロレタリアートに加わざるをえなくなるまでは、フランスの労働者は一歩も前進できず、ブルジョワ秩序の髪の毛の一本にさえ触れることができなかった。労働者はこのような勝利を6月の恐ろしい敗北という代償によってだけ手に入れることができたんだ。

リュクサンブール委員会、このパリ労働者の創造物には、全ヨーロッパの演壇の上から、プロレタリアートの解放という19世紀の革命の秘密を暴露したという功績を認めなければならない。「モニトール」紙は、それまでは社会主義者の典拠不明な文書に埋もれ、ときおり、はるかかなたの半ば恐ろしく、半ば滑稽な伝説としてだけブルジョワジーの耳に届いていた「とっぴなうわ言」を公式に広めなければならなくなったとき、赤面した。ヨーロッパはそのブルジョワ的まどろみから驚いてとび起きた。そうだから、金融貴族をブルジョワジー一般と混同していたプロレタリアの頭の中でも、階級の存在そのものを否定するか、せいぜい立憲君主制の結果とみなしていたひとのよい共和主義者の想像の中でも、今まで権力から排除されていたブルジョワジー分派の偽善的文句の中でも、ブルジョワジーの支配は共和制の採用とともに廃絶されていたはずだったんだ。そのとき王党派はみんな共和主義者に変わり、パリの百万長者はみんな労働者に変わった。この想像上の階級関係の廃絶に対応する文句が友愛、普遍的な親睦と同胞愛なんだ。階級対立のこの心地よい捨象、矛盾する階級利害のこの情緒的和解、階級闘争からのこの空想的な超克、この友愛が2月革命のほんとの標語だったんだ。階級は単に誤解によって分かたれたにすぎず、6月24日には、ラマルティーヌは臨時政府を「異なる階級間に存在するこの恐ろしい誤解を取り除く政府」と名付けた。パリのプロレタリアートは友愛というこの寛大な陶酔に酔いしれていたんだ。

臨時政府としては、一旦無理強いされて共和制を宣言してしまうと、これをブルジョワジーと地方に受け入れてもらえるように、あらゆることをした。フランス第一共和制の流血テロは政治的反対に対する死刑の廃止によって拒否したし、新聞はあらゆる意見に開放されていた。--軍隊、裁判所、行政官庁はわずかな例外を除いて、相変わらず以前からの高官の手に握られたままだった。7月王制の大罪人は誰も責任を問われなかった。「ル・ナショナル」のブルジョワ共和主義者たちは王制時代の名前や衣装を共和制時代のものに取り換えて楽しんでいた。彼らにとって、共和制は古いブルジョワ社会の新しい舞踏会衣装にすぎなかったんだ。若い共和制はその主なメリットを人をおびえさせることにではなく、いつも自分がおびえることに、柔和な譲歩と無抵抗によって存在を認めさせ、抵抗を無害化することに求めた。国内では特権階級にたいし、国外では専制的強国にたいして、共和制は平和な性質を持つと声高に公言した。生きそして生かしめよというのがその公然としたモットーだった。それに加えて、2月革命の後すぐに、ドイツ人、ポーランド人、ハンガリー人、イタリア人が、それぞれの人民がその直面する状況にしたがって反乱を起こした。ロシアとイギリスは、後者は動揺しており、前者はおびえていて、準備ができていなかった。だから、共和制には面とむかった国民的な敵などいなかった。結果として、活力に火をつけ、革命の過程を早め、臨時政府を前に駆り立てるかさもなくば葬り去ってしまうような、大規模な対外紛争など全くなかった。パリのプロレタリアートは、共和制を自分たち自身の創造物とみなしていたが、当然ながらブルジョワ社会での共和制の確固たる地歩固めを促進する臨時政府の行為にはどれにも拍手喝采だった。彼らは、労働者と使用者との賃金争議の調停をルイ・ブランに任せたように、パリでの財産を保護するためコシディエールによる警察業務に喜んで従事した。共和制のブルジョワ的名誉をヨーロッパの目前で汚点なく保つことは、プロレタリアートの面目にかかわることであったんだ。

共和制は国外でも国内でもどんな抵抗にもあわなかった。このため共和制は武装解除された。その課題は、もはや世界を革命的に改造することではなく、自分をブルジョワ社会の諸関係に適合させることだけとなった。臨時政府がどんなに熱心にこの課題に取り組んだか、その財政方策ほど雄弁な証拠はない。

公的信用も私的信用も、当然ながら動揺していた。公的信用は、国家が金融界の狼どもの食い物になってくれるという確信をあてにしていた。ところが、古い国家は消えてなくなったし、革命は何よりもまず金融貴族にたいして向けられたものだった。最近のヨーロッパの商業恐慌の動揺はまだおさまっていなかった。依然として破産に破産が引き続いていた。

それで、2月革命が勃発する以前に、私的信用は麻痺し、流通は制限され、生産は停滞していた。革命的危機は商業恐慌を増幅した。で、もし私的信用がブルジョワ的関係の範囲全体--すなわちブルジョワ的秩序--においてブルジョワ的生産が触られることもなく、不可侵のままでいられるという確信に基づいているのなら、ブルジョワ的生産の基盤、すなわちプロレタリアートの経済的奴隷制を問題にし、証券取引所に対抗してリュクサンブール委員会というスフィンクスを設立するような革命はどんな影響を与えたんだろうか?プロレタリアートの蜂起はブルジョワ的信用の廃止だ。というのも、それはブルジョワ的生産とその秩序の廃止なんだから。公的信用と私的信用は、革命の強度を測ることのできる経済的体温計なんだ。信用という目盛が下がるほど、革命が引き起こす熱は高く、その生成力は大きいことになる。

臨時政府は共和制からその反ブルジョワ的な見かけを剥ぎとりたかった。それで、臨時政府はなによりもこの新しい国家形態の交換価値、証券取引所でのその相場を安定させなければならなかった。共和制の証券取引所時価相場とともに、私的信用も必然的に再び上昇したんだ。

王制から背負わされた債務を履行しないか、あるいはできなのではないのではないかという疑惑を払拭するために、共和制のブルジョワ的道徳と支払能力への信頼を築くために、臨時政府は子供じみているといわれるほどみっともない空自慢の手をうった。臨時政府は、法定支払日に先だって、国家債券者に5%、4.5%、4%利付き債券の利子を支払ったんだ。この政府が自分たちの信頼を買おうとして焦っているのを見て、ブルジョワの冷静さ、資本家の自信は突然よみがえった。

臨時政府の財政難は、手持ち現金の蓄えを奪いさる芝居じみた手では、当然ながら緩和されることはなかった。財政危機はもはや隠しようがなくなり、プチ・ブルジョワ、雇人、労働者が国家債権者の不意打ちの喜びの代価を支払わなければならなかった。

100フラン以上の金額は貯蓄銀行の預金通帳から引き出せないという布告が出された。貯蓄銀行に預金された金額は徴発され、布告によって無償還国債に変えられてしまった。このことは、もう既にいきづまっていたプチ・ブルジョワに共和制に対する反感を抱かせることになった。彼らは貯蓄銀行預金通帳の代わりに国債を受け取ったので、しかたなしに証券取引所に行ってそれを売り、こうして取引所の仲買人の手に我が身を直接引渡すよりほかはなかった。2月革命を起こしたのは、そいつらに対してだったのだが。

7月王制の下で支配した金融貴族は、その高教会を銀行にもっていた。証券取引所が国家信用を支配するように、銀行は商業信用を支配する。

銀行は、2月革命によってその支配ばかりか、その存在そのものも脅威にさらされたので、最初から、信用一般の欠如状態をつくりだすことで、共和制の信用を失墜させようとした。銀行は突然、銀行家、製造業者、商人の信用を停止した。この策略は直ちに反革命を引き起こすことにはならなかったので、必然的に銀行自身にはねかえってきた。資本家は銀行の金庫室に預けておいたお金を引き出した。銀行券の所有者は、それを金や銀に交換するため、支払い窓口に殺到した。

臨時政府は強行的に干渉することなく、合法的なやりかたで、銀行を破産に追い込むことができた。消極的なままで、銀行をその運命の手に任せておきさえすればよかったんだ。銀行の破産は、金融貴族、共和制のもっとも強力で危険な敵、7月王制の黄金の台座を一瞬にしてフランス国土から一掃してしまう大洪水であっただろう。そして一旦銀行が破産してしまえば、政府が国立銀行を設立し、国民信用を国民の統制に従わせるとしても、ブルジョワジー自身がそれを最後の苦肉の救済策とみなさざるをえなかっただろう。

臨時政府は、逆に、銀行券の強制的相場価格を固定した。それにとどまらず、すべての地方銀行をフランス銀行の支店に変え、フランス銀行がフランス全土にその支店網をはることができるようにした。その後、政府はフランス銀行と契約した借入れにたいする保証として、国有林を担保に入れた。こうして2月革命は、それが倒すはずだった銀行支配を直接強化し拡大したんだ。

その間、臨時政府は増大する赤字という悪夢に悶え苦しんでいた。政府は、むなしく愛国的犠牲を乞うてまわった。唯一労働者だけが政府に施しを与えた。頼みの綱は英雄的手段、すなわち新しい税金を課税することしかなくなった。だが誰に課税するんだ?証券取引所の狼どもにか、銀行王にか、国家債権者にか、金利生活者にか、製造業者にか?それは共和制をブルジョワジーの気にいらせるようなやり方ではなかった。一方ではあれほどの犠牲をはらい恥ずかしい思いをしながら、国家信用と商業信用を手に入れようとしてきたのに、もう一方でそんなことをすれば、それらの信用を危険にさらすことになる。しかし誰かがお金を差し出さなければならないんだ。じゃあ誰がブルジョワ的信用の犠牲となったのか?お人好しのジャック、つまりは農民というわけだ。

臨時政府は四種類の直接税について1フランにつき45サンチームの付加税を課税した。政府系の新聞はパリのプロレタリアートをまるめこんで、この税は主に大土地所有者、すなわち王制復古が与えた十億フランの所有者に科せられるんだと信じ込ませた。しかし実際には、この税はなによりもまず農民、すなわちフランス人民の大多数派を襲ったんだ。農民が2月革命の費用を支払わなければならなかった。彼らのなかから、反革命はその材料を得たんだ。45サンチーム税はフランス農民には死活問題だった。農民はこれを共和制の死活問題にした。この瞬間からフランス農民にとって共和制は45サンチーム税を意味することとなったんだ。そして彼らはパリのプロレタリアートに自分たちの負担で裕福に暮らす放蕩者を見ていた。

1789年の革命は農民から封建制の重荷を取り除けることから始まったんだけど、1848年の革命は農村の人々には、資本を危うくしないため、また国家機構の運用を維持するための新税の課税によって、自らを布告したんだ。

臨時政府がこうした面倒事をすべて片付け、国家を古い轍からひっぱり出す方法が一つだけあった。それは国家の破産を宣告することだったんだ。誰しも、ルドリュ-ロランが現在のフランス大蔵大臣の証券取引所のユダヤ人フルドのこの無遠慮な提案を義憤をもって拒絶したことを、その直後の国民議会で述べたことを思い起こすだろう。フルドは彼に知恵の木のリンゴを手渡そうしたというのに。

古いブルジョワ社会が国家にあてて振り出した手形を引き受けたことで、臨時政府はブルジョワ社会に屈伏したんだ。臨時政府は多年にわたる革命の負債を熱心に取り立てる債権者としてブルジョワ社会に立ち向かうかわりに、ブルジョワ社会の追い詰められた債務者となってしまった。政府は、ブルジョワ的諸関係の中でだけ果たすべき義務を果たすために、ぐらついているブルジョワ的諸関係を強固にしなければならなかった。信用は政府の生存条件となり、プロレタリアートにたいする譲歩、彼らにした約束は、はずさなければならない足枷となったんだ。労働者の解放は--ただ文句としてさえ--新しい共和制には耐えがたい危険なものとなった。なぜって、それは信用の回復にたいする終ることのない抗議であったから。信用というものは、現存の経済的階級関係を邪魔されることなく、問題もなく承認することに基づいているものなんだ。だから必然的に労働者は片付けてしまわなくてはならなかったんだ。

2月革命は軍隊をパリの外に追い払っていた。国民軍、すなわちさまざまな色合いのブルジョワジーが、唯一の軍事力をなしていた。しかし、国民軍は単独ではプロレタリアートに対抗できないと感じていた。そのうえ、粘り強く抵抗し、百にものぼるさまざまな妨害を設置したあとのことではあるが、徐々に少しづつ隊伍を開いて武装したプロレタリアの入隊を許さざるをえなくなっていた。その結果逃げ道はただ一つしかなかった。それはプロレタリアートの一部を残りに対抗させることだったんだ。

この目的のために、臨時政府は24個大隊の機動警備軍を編成した。各大隊は1000名の強健な、15歳から20歳までの青年から構成されていた。彼らの大部分はルンペン・プロレタリアートに属していた。それはあらゆる大都会にいる産業プロレタリアートとははっきり区別される群衆で、盗人やあらゆる種類の犯罪者の供給源で、社会の屑で生活しており、定職のない人々、無頼漢、宿無しの無籍者であって、その属する民族の文明化の度合によってさまざまではあるけれど、その賎民的性格を捨てることは決してないんだ。そして臨時政府が募集したような若い年頃には、総じて適応性にとみ、最も英雄的な行為や最も崇高な犠牲的行為も可能なら、獣のような山賊行為も最も卑劣な堕落行為もやりかねないんだ。臨時政府は彼らに日給1フラン50サンチームを支払った。つまりは彼らを買い取ったんだ。臨時政府は彼らに独自の制服を支給した。つまりは彼らを外見上で仕事着を着た労働者と区別したんだ。一部ではその指揮官に常備軍の将校が配属され、一部では指揮官にブルジョワの若い子息が選ばれたが、こいつらの祖国のための死とか共和国への献身といった大言壮語が連中を魅了したんだ。

こうしてパリのプロレタリアートは、自分自身の中から引き抜かれた、二万四千人の若い、強健な、向こう見ずな連中からなる軍隊に対峙させられたんだ。プロレタリアートはパリ中を行進する機動警備軍に歓声をあげた。彼らは機動警備軍をバリケードの先頭部隊だと思っていた。彼らはそれをブルジョワの国民軍に対比されるプロレタリアの護衛兵とみなしたんだ。彼らの誤りは無理もなかった。

機動警備軍とは別に、政府は自分の周りに産業労働者の軍隊を結集しようと決めた。恐慌と革命によって街頭に投げ出された十万人の労働者を、大臣マリはいわゆる国民作業場に登録した。この大げさな名前の下に隠されていたのは、23スーの賃金で労働者を退屈で単調で非生産的な土掘り作業に従事させることでしかなかった。戸外のイギリスの収容作業場--国民作業所とはこうしたものだったんだ。臨時政府は、その中に労働者自身に対抗する第二プロレタリア軍を作ったんだと信じていた。労働者が機動警備軍を誤解したように、今度はブルジョワジーが国民作業場を誤解した。彼らは反乱のための軍隊を創り出したんだ。

しかし、目的の一つは達成された。

国民作業場とはルイ・ブランがリュクサンブール宮殿で説いていた人民の作業場の名前だった。リュクサンブールに直接対抗して考案されたマリの作業場は、共通する名札のおかげで、スペインの召使笑劇顔負けの間違いの喜劇のきっかけを与えたんだ。臨時政府そのものがこそこそと、これらの国民作業場はルイ・ブランの発見だという噂をひろめてまわったが、国民作業場の預言者、ルイ・ブランが臨時政府の一員であったことから、この噂はいっそうもっともらしく見えた。半ば素朴で半ば意図的なブルジョワジーの混同の中で、またフランスやヨーロッパの人工的に作られた世論の中で、これらの収容作業場が社会主義が最初に実現したものだとされ、社会主義はそれと一緒にもの笑いの種となったんだ。

国民作業場は、その内容ではなくて、その呼び名によって、ブルジョワ的産業、ブルジョワ的信用、ブルジョワ共和制にたいするプロレタリアートの抗議を体現したものだった。だからブルジョワジーの全ての憎しみがそれに向けられたんだ。それと同時に、ブルジョワジーは、2月の幻想をおおっぴらに破るほど強くなるとすぐに、直接攻撃を仕掛けることのできる点を、国民作業場にみつけた。プチ・ブルジョワのすべての不満、すべての不快感も共通の標的、国民作業場に向けられていた。心底から激怒して、彼らは、自分たちの状況が日ましに耐えがたくなっているというのに、プロレタリアの怠け者が食い潰す銭の勘定をした。見せかけだけの仕事にたいする国家の扶助、それが社会主義だ!彼らはぶつぶつ不平をつぶやいた。彼らは自分たちの不幸の理由を国民作業場に、リュクサンブールの長演説に、パリを練り歩く労働者の行進に探し求めた。そして、破産の淵を希望を失ってうろついているプチ・ブルジョワほど、根拠も無しに言いたてられる共産主義者の陰謀を熱狂的に信じるものはいなかった。

こうして近づいてくるブルジョワジーとプロレタリアートの間の戦闘において、すべての利点、すべての決定的持ち場、すべての社会中間層はブルジョワジーの手中にあったが、ちょうどその時には、2月革命の波が高くあがってヨーロッパ大陸全土を襲い、新着の郵便が、今度はイタリアから、今度はドイツから、今度は東南ヨーロッパのはるか遠い地方からと、革命の新しい速報をもたらし、勝利の証拠を絶え間無く見せられて、人民は一般的恍惚状態に陥ったままだった。でもこの勝利はもう既に失われていたんだ。

3月17日と4月16日は、ブルジョワ共和制がその翼の下に隠していた大きな階級闘争の最初の小競り合いだった。

3月17日はプロレタリアートが曖昧な状況にあり、それで決定的行為ができないことをばらした。そのデモはもともと臨時政府を革命の道へと押し戻し、状況次第では政府のブルジョワ閣僚を排除するよう働きかけ、国民会議と国民軍の選挙を延期させるという目的のものだった。しかし3月16日に国民軍が代表するブルジョワジーが臨時政府にたいする敵対デモを企画した。彼らはルドリュ・ロランを倒せ!と叫びながら、パリ市庁舎に殺到した。それで人民は、3月17日には、ルドリュ-ロラン万歳!臨時政府万歳!と叫ばざるをえなかった。彼らはブルジョワジーに対抗して、ブルジョワ共和制を支持せざるをえなかった。この共和制は彼らには危機に瀕していると思われたんだ。彼らは臨時政府を服従させるかわりに強化した。3月17日はメロドラマの一場の中に消え失せた。そしてこの日、パリのプロレタリアートがその巨体を誇示したのにたいして、臨時政府の内外のブルジョワジーは彼らを叩き潰す決意を一層固めたんだ。

4月16日は臨時政府がブルジョワジーと同盟して工作した誤解だった。労働者が、国民軍参謀の自分たちの指名者を選ぶために、錬兵場と競馬場に多数集まっていた。労働者が武装して錬兵場に集結し、ルイ・ブラン、ブランキ、カベー、ラスペーユの指導のもとに、そこからパリ市庁舎に行進して、臨時政府を転覆し、共産主義政府を宣言しようとしてるという内容の噂が、突然パリ中を端から端まで雷光のような早さでひろまった。一般警報が鳴り響き--後にルドリュ-ロラン、マラスト、ラマルティ-ヌはその発案者の名誉を争った--一時間のうちに十万人が武器を手にし、パリ市庁舎は国民軍に完全に占拠され、共産主義者を倒せ!ルイ・ブランを、ブランキを、ラスペーユを、カベーを倒せ!という叫びがパリ中にとどろいた。夥しい数の代表者が臨時政府に忠誠を誓い、皆祖国と社会を救う準備をした。最後に、錬兵場で集めた愛国献金を臨時政府に渡そうと、労働者がパリ市庁舎の前に現れたが、ブルジョワのパリが周到に計画された模擬戦で自分たちの影を打ち破ったことを知って驚いたんだ。4月16日の恐るべき計画はパリに軍隊を呼び返す口実--これこそが不器用に上演された喜劇の本当の目的だったんだ--を与え、また地方の反動的連邦主義者のデモの口実を与えた。

5月4日に直接普通選挙で成立した国民議会[4]が招集された。普通選挙権は旧式の共和主義者があると思っていたような魔法の力を持ってはいなかった。彼らはフランス全体に、少なくともフランス人の多数派の中に、同じ利害、同じ分別等々を持つ市民を見ていた。これは彼らの人民崇拝だった。選挙は、彼らの想像上の人民の代わりに、現実の人民を、すなわち人民が分裂している様々な階級の代表者を白日の下へ連れ出した。なぜ農民とプチ・ブルジョワジーが、戦闘好きのブルジョワジーや王制復古にやっきとなっている大土地所有者の指導のもとに投票しなければならなかったかは、既に見てきた。しかし、普通選挙権が奇跡ではない--共和主義者のおえら方が思っていたような魔法の杖の働きはしないにしても、それは、階級闘争を束縛から解き放ち、ブルジョワ社会の様々な中間層に彼らの幻想と幻滅を急いで体験させ、搾取階級の全分派を国家の頂点に押し上げ、こうして彼らからまやかしの仮面を剥ぎ取るという、比べものにならない大きな利点があったんだ。これに対して、財産資格制選挙権をもった王制は、ブルジョワジーのある分派だけの体面を傷つけ、その他の分派は背景に隠れさせ、共通の反対派という後光で包んだんだ。

5月4日に招集された憲法制定国民議会は、ブルジョワ共和主義者、すなわち「ル・ナシオナル」の共和主義者が優位にたった。正統王朝派やオルレアン派でさえ、最初のうちはブルジョワ共和主義の仮面をつけてしか姿を見せようとはしなかった。プロレタリアートにたいする戦闘は共和制の名においてだけ行うことができた。

共和制の日付は2月25日ではなくて、5月4日から始まった。すなわち、フランス国民が承認した共和制は、ということなんだが。それはパリのプロレタリアートが臨時政府に押しつけた共和制ではなかったし、社会制度をともなった共和制でもなく、バリケード上の戦士たちの前に浮かび上がった幻でもなかった。国民議会が宣言した共和制、ただ一つの正統な共和制は、ブルジョワ秩序にたいして革命の武器を持つのではなく、むしろブルジョワ社会の政治的再構成、政治的再強化である共和制、一言でいえばブルジョワ共和制だった。この主張は国民議会の論壇上から響きわたり、その反響は共和主義的であれ反共和主義的であれすべてのブルジョワ新聞で見られた。

で、僕らが見てきたのは、実際の2月共和制はブルジョワ共和制でしかなく、またそれ以外のものではありえなかったこと、臨時政府は、それにもかかわらず、プロレタリアートの直接の圧力により、それが社会的制度をもつ共和制であると布告せざるをえなかったこと、パリのプロレタリアートは、空想や想像以外には、ブルジョワ共和制を乗り越えて進むことはまだできなかったこと、彼らが実際に行動するときは、どこででも共和制はブルジョワジーに役立とうとふるまったこと、プロレタリアートにした約束は新しい共和制には堪えがたい危険となったこと、臨時政府の全生涯の過程は、要約すればプロレタリアートの要求に対する絶え間のない戦いだったことなんだ。

国民議会では全フランスがパリのプロレタリアートを裁いた。議会は直ちに2月革命の幻想と決別し、ブルジョワ共和制を、そしてブルジョワ共和制以外のなにものでもないことを、きっぱりと宣言した。議会はすぐに自分たちが任命した執行委員会から、プロレタリアートの代表、ルイ・ブランとアルベールを排除した。議会は特別の労働省という提案を否決し、大臣トレラの「問題は今や労働を以前の状態にもどすことだけだ。」という声明を拍手で受け入れた。

でもこれだけでは十分でなかったんだ。2月共和制はブルジョワジーの消極的支持のもとで労働者が勝ち取ったものだった。プロレタリアは当然自分たちが勝利者だと思ったし、勝利者の傲慢な要求を持ち出していた。彼らを路上で降伏させなければならなかったし、ブルジョワジーとともに戦うのではなく、ブルジョワジーに対して戦うならすぐに、彼らは打ち破られてしまうということを示さなければならなかった。2月革命が、社会主義的な譲歩をして、ブルジョワジーと連合したプロレタリアートの王制に対する戦いを必要としたように、共和制を社会主義的な譲歩から分離させ、ブルジョワ共和制を公式に支配勢力として仕上げるには、第二の戦いが必要だった。ブルジョワジーは、武器を手にして、プロレタリアートの要求を退けなければならなかった。ブルジョワ共和制の本当の誕生の地は、2月の勝利ではなく、6月の敗北なんだ。

5月15日にプロレタリアートが国民議会に押し入って、革命的な影響力を取り戻そうと無駄な努力をして、自分たちの精力的指導者をブルジョワジーの獄吏に引き渡しただけに終ったとき、彼らは決定を早めさせることになった。こんな状況は終らせなくてはならない!こういう叫びとともに、国民議会は無理矢理にでもプロレタリアートを雌雄を決する闘争にひきずり込もうという決意をぶちまけたんだ。執行委員会は人民集会禁止等々というような一連の徴発的な布告を出した。労働者は、憲法制定議会の論壇上から直接、徴発され、侮辱され、嘲笑されたんだ。でも本当の攻撃点は、見てきたように、国民作業場だった。憲法制定議会は緊急にこれらの作業場を執行委員会に指示したが、執行委員会は自分たちの計画が国民議会の指令として宣言されるのが聞こえてくるのを待つばかりになっていたんだ。

執行委員会は、表向きは土掘り作業の建設のためと称して、日給を出来高給に変更したり、パリ生まれでない労働者をソローニュへ追い出したりして、国民作業場への入場をもっと難しくすることから手をつけた。労働者が我に帰り、仲間に知らせたように、こうした土掘り作業は単に追放を粉飾する修辞的決まり文句にすぎなかった。ついには、6月21日には「モニトール」紙上に、すべての未婚の労働者を国民作業場から強制的に排除するか軍隊に入隊させるよう命じた布告が出た。

労働者には選択の余地はなかった。彼らは餓死するか戦端をひらくかしかなかった。6月22日に彼らは激烈な反乱で答えたが、そこで近代社会を分裂させている二つの階級の間の最初の大戦闘が闘われたんだ。それはブルジョワ的秩序を保持するか絶滅させるかの闘いだった。共和制をおおっていたヴェールはずたずたに引き裂かれたんだ。

周知のとおり、労働者たちは、前例もないほど勇敢でしかも巧みに、指導者もなく、共通の計画もなく、手段もなく、大抵は武器さえ持たずに、五日間にわたり、軍隊を、機動警備軍を、パリの国民軍を、そして地方から流れ込む国民軍を抑え続けた。周知のとおり、ブルジョワジーは彼らが被った死ぬ程の苦しみを三千人以上の捕虜を虐殺するという前代未聞の蛮行で埋め合わせたんだ。フランスの民主主義の代議士どもはどっぷりと共和制のイデオロギーに浸かりこんでおり、数週間もたってから6月の戦闘の重要性をうすうす感じとる始末だった。彼らは自分たちの幻想的な共和制を夢散させた硝煙で麻痺していたんだ。

6月の敗北のニュースが僕らにもたらされたときの最初の印象を、新ライン新聞に載せた言葉[5]で述べることをお許しいただきたい。

執行委員会、この2月革命最後の公式の遺物は、こうした重々しい事件の前で幽霊のように消え失せた。ラマルティーヌの花火は、カヴェニヤックの焼夷弾に変わった。

友愛、一方の階級が他方の階級を搾取している敵対する階級の友愛、2月に宣言され、パリの建物の正面に、すべての牢獄に、すべての兵舎に大きな文字で書き付けられたこの友愛--この友愛はその本当の、混じりけの無い、散文的な表現を、内乱に、もっとも恐ろしい様相の内乱に、労働の資本家に対する戦争に見出したんだ。この友愛が6月25日の晩、パリの窓の前で燃え上がったんだ。そのときブルジョワジーのパリは美しく照らし出されていたというのに、プロレタリアートのパリは焼け、血を流し、断末魔の呻き声をあげていた。

この友愛はブルジョワジーとプロレタリアートの間に親密な利害関係がある間だけ続いたんだ。1793年の古い革命の伝統にしがみつく物知りども、ブルジョワジーに人民への施しを乞い、プロレタリアートというライオンをあやして寝かせているかぎり長々と説教をし恥を晒すのを許された社会主義の空論家、王冠をかぶった頭以外は、古いブルジョワ的秩序をそくりそのまま維持したがる共和主義者、たまたま内閣更迭のかわりに王朝の転覆という課題を課せられた王朝反対派、お仕着せを脱ぎ捨てたいわけではなく、単にそのスタイルを変えたいだけの正統王朝派、こうした連中が人民がその2月革命を闘った同盟者だった。......

2月革命は素敵な革命、普遍的共感の革命だ。なぜって、この革命の中で王制に抗して噴き出した対立は、まだ未発達で穏やかにまどろんだようなものだったから。なぜって、その背景を形作った社会的闘争は、かりそめの存在、言い替えれば語句の上の存在をかち取っただけだから。6月革命は醜い革命、不快な革命だ。なぜって空文句が事実に席を譲ったから。なぜって、共和制が、怪物の頭から保護し隠していた王冠を叩き落して、その頭をむき出しにしたから。

秩序!それがギゾーのときの声だ。秩序!ワルシャワがロシア領になったとき、ギゾー派のセバスティアニはそう叫んだ。秩序!フランス国民議会と共和派ブルジョワジーの残忍な反響カヴェニャックはそう叫んだ

秩序!彼のブドウ弾はプロレタリアートの体を引き裂きながら、そう鳴り響いた。

1789年以来フランスのブルジョワジーの多くの革命のどれひとつとして、現存する秩序を攻撃したものはなかった。というのも、どの革命も、階級支配、労働者奴隷制、ブルジョワ的制度は保持したのだから。たとえこの支配とこの奴隷制の政治的形態がたびたび変化したにせよ。6月暴動はこの制度を攻撃したんだ。6月暴動に災いあれ!

6月に災いあれ!この言葉がヨーロッパ中に響きわたる。

パリのプロレタリアートはブルジョワジーによって無理矢理6月暴動へと追い込まれた。このことはその非運に注目すれば十分納得できる。暴動を起こす差し迫った公然とした必要があって、プロレタリアートは力づくでブルジョワジーを転覆する闘いに係わるよう駆り立てられたわけでもないし、プロレタリアートがこの課題を成し遂げるだけの力があるというわけでもなかった。モニトール紙は次のことを公に知らせるべきだった。共和制がプロレタリアートの幻想に恭しく礼をする儀式をみている時は過去のものとなり、プロレタリアートの敗北だけが、その地位をわずかでも改善しょうとすることは依然としてブルジョワ共和制の中ではユートピア、現実的なものとなることを求めるとすぐに犯罪となるようなユートピアであるという真実を、彼らに納得させたんだということを。形式上は熱狂的だが内容としてはかなり制限されブルジョワ的ですらあるような要求、その譲歩をプロレタリアートはなんとか2月革命から引き出したかった要求にかわって、ブルジョワジーの打倒!労働者階級の独裁!という革命的闘争の大胆なスローガンが現れた。

プロレタリアートの埋葬地をブルジョワ共和制の生誕の地とすることによって、プロレタリアートは無理矢理ブルジョワ共和制が国家としての純粋な形態で現われさせたが、それは資本の支配と労働の隷属を永続させることを自らの目的とするものだった。目の前にいつも、傷だらけの、和解できない、勝てそうもない--勝てそうもないのはその存在がブルジョワジー自身の生活の条件だからだ--敵をかかえているので、ブルジョワ的支配は、あらゆる束縛から解放されると、直ちにブルジョワ的テロリズムに変わらざるをえなかった。プロレタリアートがしばらくの間舞台から追いたてられ、ブルジョワジーの独裁が公式に承認されると、ブルジョワ社会の中間層、プチ・ブルジョワと農民階級は、彼らの地位が耐えがたくなればなるほど、またブルジョワジーとの敵対関係が激しくなればなるほど、ますます密接にプロレタリアートに追従せざるえなくなった。彼らはその悲惨の原因を以前はプロレタリアートの台頭にあると思っていたように、今ではその敗北にあると思うようになったんだ。

6月反乱が大陸中でブルジョワジーの自身を高揚させ、ブルジョワジーが人民に対抗して公然と封建王制と同盟する原因になったとすれば、この同盟の最初の犠牲者は誰だったのか?それは大陸のブルジョワジー自身だった。6月の敗北は、大陸のブルジョワジーがその支配を確立し、人民を、半ば満足で半ば不満のまま、ブルジョワ革命の最低の段階にとどめ置くことを妨げたんだ。

最後に、6月の敗北はヨーローッパの専制的列強諸国に、フランスは国内で内戦を行うことができるには、国外では如何なる代償を払っても平和を維持しなければならないという秘密を暴露した。こうして民族独立の闘いを開始した人民は、ロシア、オーストリア、プロシアの強大な権力に引き渡されたが、同時にこうした国民革命の運命はプロレタリア革命の運命に従うものとなり、その外見上の自主性、大社会革命の独立性を奪い取られた。労働者が奴隷のままであるかぎり、ハンガリー人もポーランド人もイタリア人も自由ではありえないんだ!

ついには、神聖同盟の勝利とともに、ヨーロッパはフランスにおけるどんな新しいプロレタリア反乱も世界戦争と同時に起こるような状態になった。新しいフランス革命は直ちに国土を捨て去って、ヨーロッパ全土を征服するだろう。その上でだけ、19世紀の社会革命は完成することができるんだ。

こうして、6月の敗北だけが、フランスがヨーロッパ革命の主導権を握ることができるすべての条件を作りだした。6月の反乱者の血に浸されてはじめて、三色旗はヨーロッパ革命の旗--赤旗となったんだ。

そして僕らは叫ぶ。革命は死んだ!革命よ永遠なれ!と。


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