フランスにおける階級闘争 第2部
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第2部 1848年6月から1849年6月13日まで

1848年2月25日はフランスに共和制をもたらしたが、6月25日はフランスに革命を強制した。そして革命は、2月以前は政府形態の転覆を意味していたのに、6月以後はブルジョワ社会の転覆を意味した。

6月の戦闘はブルジョワジーの共和主義的分派が指導したので、勝利とともに政治権力は必然的にその取り分となったんだ。戒厳状態により、さるぐつわを噛まされたパリは彼らの足元に無抵抗となり、地方では道徳的戒厳状態が支配し、ブルジョワジーは威嚇的で残忍に勝利におごり昂ぶり、農民は野放しに財産熱に狂奔していた。だから、下からの危険は全くなかったんだ。

労働者の革命的な力の崩壊は同時に民主的共和派、すなわちプチ・ブルジョワジーの意味での共和派の崩壊であった。それは、執行委員会ではルドリュ-ロランが代表し、憲法制定国民議会では山岳党が代表し、新聞では「レフォルム」が代表していたものだった。ブルジョワ共和派と共に彼らは4月16日にプロレタリアートに対して陰謀を企て、6月事件でもブルジョワ共和派と共にプロレタリアートと戦った。プチ・ブルジョワジーはその背後にプロレタリアートがいるかぎりでだけ、ブルジョワジーに対して革命的態度を維持できるのだから、その背景があってこそ一勢力として人目を引いていたのに、こうして彼らはその背景を自分自身で吹き飛ばしたんだ。プロレタリアは退散した。ブルジョワ共和派は、臨時政府と執行委員会の時代にはしぶしぶと心のうちでは留保つきでプチ・ブルジョワ共和派と結んでいた見せかけの同盟を、公然と破棄した。同盟者としては鼻であしらわれ、追い払われながら、彼らは三色旗派の卑屈な取り巻きにまで落ちぶれた。彼らは三色旗派から何の譲歩も引き出せなかったが、三色旗派が、そしてそれと共に共和制が、反共和主義ブルジョワジー分派によって危機にさらされていると思われるといつも、三色旗派の支配を支援しなければならなかった。最後に、これら反共和主義分派、オルレアン派と正統王朝派は、最初から憲法制定国民議会の少数派だった。6月事件の前は、彼らが敢えて対応するにも、ブルジョワ共和主義の仮面を被るしかなかった。6月の勝利のおかげで、一瞬だけブルジョワのフランス全体がカヴェニャックに自分たちの救い主を感じとった。それで6月事件直後に、反共和主義政党がその独立を取り戻したときも、軍事独裁とパリの戒厳状態のせいで、彼らはすごく臆病に用心しながらしか、その触角を出せなかったんだ。

1830年以来、ブルジョワ共和主義分派の著述家、代弁者、才能と野心のある連中、代議士、将軍、銀行家、弁護士は、パリの新聞「ナシオナル」のまわりに結集していた。この新聞は地方にも地方新聞を持ってたんだ。「ナシオナル」の常連たちが三色旗共和制の王朝だった。そいつらが今や空席となった国家公職--閣僚、警視総監、郵政長官、知事、軍の高級将校の地位--を直ちに手にいれた。執行権力の頂点には連中の将軍カヴェニャックが立っていた。連中の編集長マラストは憲法制定国民議会の常任議長となった。同時に彼は司会役として、自分のサロンで、まともな共和制の栄誉を讃えた。

革命的なフランスの著述家たちでさえ、かつてのように、共和主義的伝統を畏敬して、王党派が憲法制定国民議会を支配していたという誤った信念を強調してきた。実際は反対に、6月事件後は憲法制定公民議会は依然として専らブルジョワ共和主義を代表していた。そして、議会の外で三色旗共和主義の影響力が崩れ去るにつれて、この側面はますますはっきりと強調されたんだ。問題がブルジョワ共和制の形式の維持についてなら、議会は自由裁量で民主的共和主義者から得票したが、問題ががその内容についてとなると、話ぶりさえ王党派のブルジョワ分派ともはや区別がつかなくなったんだ。なぜって、ブルジョワジーの利害、その階級支配と階級搾取こそが、ブルジョワ共和制の内容をなしてたんだから。

この最後は死んだのでも殺されたのでもなく、腐ってしまった憲法制定議会の生涯と業績の中で実現されたのは、このように王党主義ではなくブルジョワ共和主義だったんだ。

憲法制定議会が支配してた全期間にわたり、それが前舞台で国家という荘厳な出し物を演じていたあいだ中、舞台の背後では途切れること無く犠牲祭が上演されていた。つまりひっきりなしに軍事法廷は捕らえられた6月反乱者に判決を言い渡し、あるいは審理もなしに国外に追放したんだ。憲法制定議会は、6月反乱者の場合は犯罪者を裁いているのではなく、敵を一掃しているんだいうことを、認めるくらいの機転は持っていた。

憲法制定国民議会の最初の行為は、6月および5月15日の事件、およびその時期の社会主義的ならびに民主的政党の指導者の果たした役割を調査する委員会を設置することだった。その調査の直接の狙いはルイ・ブラン、ルドリュ-ロラン、コシディエールだった。ブルジョワ共和主義者はこのライバルたちを除きたくて、苛立っていたんだ。彼らがうっぷん晴らしを任せるには、オディロン・バロ氏ほどの適任者はいなかった。こいつは王党反対派の前主席で、自由主義の化身、真面目ぶった無能者、徹頭徹尾浅薄な奴で、王朝のために復讐するだけでなく、自分が首相になるのを妨げたというので、革命家に仕返しせずにはいられなかった男なんだ。これが彼は情け容赦無いことの確かな保証だ。だから、このバロが調査委員会議長に任命されたんだ。そこで彼は2月革命に対する完全な訴状を作り上げた。それは要約すると次のようなものである。3月17日デモ、4月16日陰謀、5月15日襲撃、6月23日内乱!彼はなぜ、その博覧強記の犯罪学的調査の手を2月24日にまで伸ばさなかったんだろう?「ジュルナル・デ・デバ」紙は調査した。その結果は、すなわちその日はローマの建国の日にあたるからというんだ。国家の起源は神話のなかに消え去る。神話は信じるものであって、論議するものではないんだ。ルイ・ブランとコシディエールは法廷に引き渡された。国民議会は5月15日に着手した自分自身の浄化という作業を完了した。

臨時政府が作り、グショーが再び取り上げた、抵当権課税の形での資本課税案は、憲法制定議会で否決された。一日の労働時間を10時間に制限する法律は、はねつけられた。負債拘留はもう一度導入された。フランス人の大部分である読み書きのできない者は陪審員の任務から排除された。なぜ選挙権から排除しなかったのか?新聞は再び保証金を預けなければならなかった。結社の権利は制限された。

6月事件のとき、パリのプチ・ブルジョワ--カフェやレストランの主人、居酒屋店主、小商人、小売店主、手職人等々--ほど熱狂的に財産の保全と信用の回復のために戦った者はなかった。小売店主たちは団結してバリケードに向かって行進し、通りから店にはいる交通を回復しようとした。でも、バリケードのかげにはお客と債務者が立っており、バリケードの手前には店の債権者がいた。で、バリケードは打ち倒され、労働者は粉砕されて、勝利に酔った店主が急いで店に戻ってみると、財産の救い主、債権の公式代理人が入口を塞ぎ、脅しの通告を手渡したんだ。不渡りの約束手形!支払い日を過ぎた家賃!支払い期限を過ぎた借用書!破滅した店!破滅した店主!

財産の保全!でも彼らが住んでいる家はその財産ではなかった。彼らが営んできた店はその財産ではなかった。彼らが扱ってきた商品はその財産ではなかった。彼らの商売も、彼らが食事をとる皿も、彼らが眠るベッドも、もう彼らのものではなかったんだ。財産を保全しなければならなかったのは、まさに彼らからだったいうわけなんだ。家を貸している家主のために、約束手形を割り引いた銀行家のために、現金を前貸しした資本家のために、これら小売商人に商品販売を委託した製造業者のために、これら手職人に原料を信用貸しした卸売業者のために。信用の回復!でも信用は再び強さを取り戻し、自分が力強く嫉妬深い神であることを示したんだ。信用は支払いができない債務者を妻子もろとも部屋から追いたて、彼の見せかけだけの財産を資本に引き渡し、債務者自身を債務監獄に投げ込んだ。この監獄は、6月の反乱者の死体のうえに再び威嚇するようにその頭を持ち上げていたんだ。

プチ・ブルジョワが怖きながら知ったことは、労働者を打ち倒したことで、自分たちが抵抗することもないまま、債権者の手にに引き渡されたことだった。プチ・ブルジョワの破産は、2月以来慢性的にだらだら進行し、表面上は見過ごされてきたのだが、6月以降はおおっぴらに宣告されたんだ。

プチ・ブルジョワを財産の名の下に戦場に駆り出すことが重要であった間は、彼らの名ばかりの財産は激しく責めたてられることもなかった。今やプロレタリアートとの大問題が片付いたので、今度は食料品屋のささいな問題も片付けることができるようになったんだ。パリでは支払い期限を過ぎた手形が2千百万フラン以上にのぼり、地方でも百万フランを超えた。7千のパリの事業所の経営者が2月以来家賃を支払っていなかった。

国民議会は政治的犯罪の調査を2月に遡って実施したが、今度はプチ・ブルジョワが2月24日時点での民事負債の調査を要求した。彼らは大勢で証券取引所のホールに集まり、支払い不能が専ら革命が引き起こした不景気によるもので、2月24日時点では商売が順調であったと証明できる商売人を代表して、商事裁判所の命令で支払い期間を延長すること、適当な割合での支払いによって債権者の支払い要求を強制的に放棄させることを、脅迫するようにして要求したんだ。法案としては、この問題は国民議会で和解協約という形で取り扱われた。議会は動揺したが、そのとき突然、同じ時に反乱者の妻と子供数千人がサン・ドニ門で恩赦請願の準備をしているという知らせがはいった。

6月の亡霊がよみがえったので、プチ・ブルジョワは震え上がり、国民議会は冷酷さを取り戻した。和解協約、この債務者と債権者との和解解決策は、もっとも本質的な点を否決された。

こうして、国民議会内でプチ・ブルジョワの民主主義的代表がブルジョワの共和主義的代表に撃退されてずいぶんたってから、この議会内の仲間割れは、債務者であるプチ・ブルジョワが債権者であるブルジョワに引き渡されるという、ブルジョワ的な、現実経済的な意味を得たんだ。プチ・ブルジョワの大部分はすっかり没落し、残った者たちも、資本の完全な奴隷になるという条件でだけその商売を続けることができたんだ。1848年8月22日には国民議会は和解協約を否決した。1848年9月19日には、戒厳状態の最中にルイ・ボナパルト公とヴァンセンヌの囚人で共産主義者のラスペーユがパリの代議士に選出された。一方ブルジョワジーは高利の両替商でオルレアン派のフルドを選出した。つまりすべての側から同時に、憲法制定国民議会に対して、ブルジョワ共和主義に対して、カヴェニャックに対して宣戦布告したんだ。

パリのプチ・ブルジョワの大量破産が、その直接の犠牲の範囲をはるかに超えた余波を生じ、またしてもブルジョワ的商業を震憾させたこと、その一方で、国家の欠損が6月反乱の出費でさらにふくれ上がり、また国家収入が、生産の停滞、消費の制限、輸入の減少によって落ち込んだことを示すのに議論の余地なんかないだろう。カヴェニャックと国民議会は新たな借入れ以外に頼る手段がなかったが、それでさらにいっそう金融貴族の隷属することになった。

プチ・ブルジョワは裁判所の命令による破産と清算という6月の勝利の果実を得たが、一方カヴェニャックの親衛隊である機動警備軍の褒美は娼婦の柔らかい腕だった。そして「社会の若い救い手」である機動警備軍は、まっとうな共和国の主人役と吟遊詩人の二役を同時に演じた三色旗の騎士、マラストのサロンでありとあらゆる敬意を受けたんだ。そうしているうちに、機動警備軍への社会的えこひいきと不相応な高給に、軍隊は苦々しい思いを募らせ、一方ではルイ・フィリップ治下で、ブルジョワ共和主義が、その新聞「ナシオナル」を通じて振りまき、軍隊や農民階級の一部を惹きつけてきた社会的幻想は、すべて一度に消え失せてしまった。カンヴェニャックと国民議会が北イタリアで、イギリスと共同して、この地域をオーストリアに売り渡すのに果たした仲介役--統治下のこの一日が「ナシオナル」が果たしてきた18年にわたる反対派という地位を無に帰したんだ。「ナシオナル」の政府ほど国民的でない政府はなかったし、イギリスに依存した政府はなかった。そして、ルイ・フィリップ時代には「ナシオナル」はカトーの格言「カルタゴは絶滅すべし」を日々言い替えて生き延びてきたのに、この政府ほど神聖同盟にへつらったものはなかった。しかも、「ナシオナル」はかつてはギゾーのようなやつにウィーン条約破棄を要求していたんだ。歴史の皮肉から、「ナシオナル」の前外交問題編集者バスティードがフランスの外務大臣となり、自分の記事の一つ一つを自分の急報文書で反駁してまわるはめになった。

しばらくの間、軍隊と農民階級は、軍事独裁と同時に、フランスにふさわしく対外戦争がはじまり栄光がもたらされるのだと信じていた。ところが、カヴェニャクはブルジョワに対する剣の独裁ではなく、剣によるブルジョワの独裁だった。そこで必要な兵士は憲兵だけだった。カヴェニャックは、その古くさい共和主義に忍従した厳しい顔つきの下に隠れて、そのブルジョワ的職務の卑屈な条件を退屈そうに甘受していた。お金は主人を持たない!カヴェニャックも、またおおむね憲法制定議会も、この古い第三階級の選挙スローガンを、ブルジョワジーは王を持たない、その支配の真の姿は共和制だという政治的言葉に翻訳して、理想化したんだ。

そして憲法制定国民議会の「偉大な組織的作業」とは、この形態を仕上げること、共和主義憲法をつくることだった。キリスト暦を共和暦に改名し、聖バーソロミューを聖ロベスピエールに改名しても風や天候になんの変化も生じなかったと同じように、この憲法がブルジョワ社会を変えることはなかったし、変えるはずもなかった。憲法が衣装を取り換えることだけに留まらなかった点は、現実にある事実を記録したことだ。こうして憲法は共和制という事実、普通選挙権という事実、二つの制限された立憲議院にかわる単一の最高権をもつ国民議会という事実を、厳かに記録したんだ。こうして憲法は、不動で責任の無い世襲王制を、変わりやすく責任のある選挙王制、つまり任期4年制の大統領制に置き換えることで、カヴェニャックの独裁という事実を記録し法制化したんだ。こうして憲法は、国民議会が5月15日と6月25日の恐怖を味わった後に自分自身の保安のために慎重に大統領に付与した非常特権という事実を、基本法にまで持ち上げた。憲法制定で残ったのは術語上の作業だった。古い王制の機構から王党派的ラベルは剥され、共和主義的ラベルが貼り付けられた。以前の「ナシオナル」の編集長で、今や憲法の編集長となったマラストは、この学術的な作業を、そこそこの手腕で、やってのけた。

地下の鳴動がまさに足もとで土地を吹き飛ばす火山の噴火を告げていた時に、土地の所有関係をもっと確実に統制しようと地籍調査をしていたチリの役人がいたというが、憲法制定議会はこのチリの役人に似ていた。理論上は憲法制定議会はまちがいなくブルジョワジーの支配を共和主義的に表現する形式を確定したが、現実にはあらゆる打開策の廃止によって、簡単に言えば強制力によって、つまり戒厳状態によってだけ自分を維持していたんだ。議会は憲法制定作業にはいる2日前に戒厳状態の延長を宣言した。以前は、革命の社会的過程が休止点に到達し、新しく形成された階級関係が確立して、支配階級の対立しあう分派が妥協点を頼みに、互いに闘争を続けながらも力尽きた人民大衆を支配から排除しておけるようになるとすぐに、憲法が作られ採用されたものなんだ。しかしこの憲法は、それとは反対に、まったく社会革命を認定したものではなく、むしろ革命に対する旧社会の一時的勝利を認定したものだった。

6月事件以前に作られた憲法の第1次草案にはまだ労働の権利が含まれていた。これはプロレタリアートの革命的な要求を要約した、最初の不器用な方策だった。それが公的扶助の権利に変えられたが、何らかの形で貧困者を扶養しない近代国家などあるんだろうか?労働の権利は、ブルジョワ的意味では、不条理なもの、みじめで非現実的な望みなんだ。しかし労働の権利の背後には資本に対する支配力があり、資本に対する支配力の背後には生産手段の専有が、つまり生産手段を団結した労働者階級の支配下におくことが、したがって賃労働と資本およびその相互関係の廃止がある。「労働の権利」の背後には6月反乱があったんだ。憲法制定議会は革命的プロレタリアートを事実上法の埓外に置いたが、原理としてプロレタリアートの方策を、法の中の法である憲法から排除しなければならなかった。つまり「労働の権利」に破門を言い渡さなければならなかったんだ。だがそれにとどまったわけではない。プラトンがその共和国から詩人を追放したように、議会はその共和国から累進税を永久追放した。とはいえ、累進税は現存の生産関係の範囲内で多少なりとも実施できるブルジョワ的手段だっただけでなく、ブルジョワ社会の中間層を「まっとうな」共和主義に縛り付け、国家負債を減らし、反共和主義的なブルジョワジー多数派を牽制する唯一の手段でもあったんだ。

和解協約に関しては、三色旗共和主義者は実際上プチ・ブルジョワジーを大ブルジョワジーの犠牲とした。彼らはこの一度きりの事実を、累進税の法的禁止によって原則にまで持ち上げたんだ。彼らはブルジョワ的改革をプロレタリア革命と同列に置いた。だがそれでは、どの階級が彼らの共和国の大黒柱として残るのだろうか?大ブルジョワジーだ。だが大ブルジョワジーの大多数は反共和主義者だった。彼らは「ナシオナル」の共和主義者を、古い経済生活関係を再び強固にするためにこき使ったが、一方ではこの再度強固になった社会関係を、これに対応する政治形態を復活させるのに利用しようと考えた。早くも10月初めには、カヴェニャックはルイ・フィリップの前大臣だったデュフォールとヴィヴィアンを共和国の大臣にせざるをえないと感じていた。自分の党の脳なしの潔癖家は不平をいったり、怒鳴りつけたりしたんだが。

三色旗憲法はプチ・ブルジョワジーとのどんな妥協も拒み、新しい政府形態に新しい社会要素まったく付け加えることができなかったのに、一方では、あわてて古い国家のもっとも頑固で小うるさく、狂信的な擁護者から構成された団体に、伝統的な不可侵性を取り戻そうとした。憲法は、臨時政府が問題視していた判事を罷免できないことを、基本法に持ち上げた。憲法が退位させた一人の王は、これら罷免できない適法性についての審問官として再び何十という数で甦った。

フランスの新聞は、多方面からマラスト氏の憲法の矛盾、たとえば、国民議会と大統領という二つの主権者が並存している点等々を分析した。

しかし、この憲法の包括的な矛盾は次の点なんだ。それは、憲法が社会的奴隷状態を永続化しようとしている諸階級--プロレタリアート、農民、プチ・ブルジョワジーに普通選挙権によって政治権力を持たせていることだ。また、この憲法は、旧来からの社会権力を是認している階級、すなわちブルジョワジーからは、その権力の社会的保障を奪ってるんだ。この憲法はブルジョワジーの政治的支配を民主主義的な条件の中に押し込めたが、こうした条件はいつでも、敵対階級が勝利しブルジョワ社会の基盤そのものを脅かすことを助長するんだ。憲法は、最初のグループには政治的解放が社会的解放へと進まないよう求め、もう一方のグループには社会的復古から政治的復古にまで戻らないよう求めたんだ。

こうした矛盾でブルジョワ共和主義者が狼狽することは、ほとんどなかった。ブルジョワ共和主義者が欠くことのできないものであるのをやめ、そしてただ単に革命的プロレタリアートに対する旧社会の対抗者としてだけ不可欠の存在となるにつれ、その勝利の数週間後には、政党の地位から同人仲間の地位にまで転落した。そしてブルジョワ共和主義者は憲法を大きな陰謀として扱ったんだ。彼らが憲法で制定しようとしたのは、なによりもまず、この同人仲間の支配なんだ。大統領は引き延ばされたカヴェニャックで、立法議会は引き延ばされた憲法制定議会となるはずだった。彼らは人民大衆の政治的権力を見かけだけの権力に縮小し、またこのまがいものの権力をうまくあやつって、絶えずブルジョワジー多数派が6月事件のディレンマ、すなわち「ナシオナル」の王国か無政府の王国かというディレンマに陥いったままにしておくことがことができたらと望んでいた。

憲法制定の作業は9月4日に始まり、10月23日には終了した。9月2日に憲法制定議会は憲法を補足する基本法が制定されるまでは解散しないと決議した。にもかかわらず、憲法制定議会の活動が一巡し終るずっと前の12月4日には、そのもっとも独特な創造物である大統領を出現させることに決めた。それほど確かに憲法のホムンクルスは、母親の息子だと認めていたんだ。予防措置として、2百万票を獲得した立候補者がいなければ、選挙は国民から議会の手に移るものとされていた。

無駄な措置だった!憲法が実施された最初の日は、憲法制定議会が支配する最後の日となった。投票箱の奥底には死刑判決が入っていた。憲法制定議会は「母親の息子」を探していて、見つけたのは「叔父の甥っ子」だったんだ。サウルのカヴェニャックは百万票を得た。だがダビデのナポレオンは6百万票を獲得した。サウルのカヴェニャックは6倍以上の差で打ち負かされたんだ。

1848年12月10日は農民反乱の日だった。この日からはじめてフランス農民の2月が始まったんだ。農民が革命運動に参加したことを表しているしるし、すなわち不器用な狡猾さ、無頼な素朴さ、間の抜けた尊大さ、計算ずくの迷信、痛ましい茶番、巧妙だが愚かしい時代錯誤、世界史的な悪ふざけ、文明人の理解力では判読できない象形文字--こういうしるしは文明の中の野蛮を代表する階級の人相をまぎれもなく表していた。共和制は自身を徴税人でもって農民階級に知らせたんだが、農民階級は自身を皇帝でもって共和制に知らせた。ナポレオンは、1789年に新たに生まれた、農民階級の利害と想像力を余すことなく体現した唯一の人物だった。共和制の正面にナポレオンの名前を書き付けることで、農民階級は外国には戦争を、国内にはその階級利害の貫徹を宣言したんだ。農民にとってはナポレオンは人物ではなくて綱領なんだ。旗をおし立て、太鼓を打ちラッパを吹きならして、彼らは投票所へと行進し叫んだ。税金はもうたくさん、金持ちをやっつけろ、共和制をやっつけろ、皇帝万歳!と。皇帝のうしろには農民戦争がひそんでいたんだ。農民が選挙で倒した共和制は金持ちの共和制だった。

12月10日は現存の政府を打倒した農民のクーデタだった。農民がフランスから一つの政府を奪い去り、一つの政府を与えたこの日以来、農民の目はじっとパリを見据えていた。一瞬の間革命劇の活動的なヒーローとなり、もはや農民を不活発で根性なしの合唱隊へと押し戻すことはできなかった。

その他の階級も、農民の選挙での勝利が完全なものとなるのを助けた。プロレタリアートにとって、ナポレオンの選出とは、カヴェニャックの免職、憲法制定議会の転覆、ブルジョワ共和主義の棄却、6月の勝利の終了という意味だった。プチ・ブルジョワジーにとっては、ナポレオンは債権者に対する債務者の支配を意味した。大ブルジョワジーの多数派にとっては、ナポレオンの選出は、しばらくの間革命に対抗するのに利用したが、その一時的地位を憲法上の地位に固定しょうとしたとたん我慢できないものになったブルジョワ分派と公然と決裂することを意味した。この多数派にとって、カヴェニャックのかわりにナポレオンというのは、共和制のかわりに王制、王制復古の始まり、意味ありげにオルレアン朝をほのめかすこと、スミレのかげのユリを意味した。最後に、軍隊は機動警備軍に対抗し、平和なのどかさに反対し、戦争に賛成してナポレオンに票を投じたんだ。

こうして新ライン新聞が言ったように、フランス中でもっとも単純な頭の男が、もっとも多種多様な意味を持つことになった。この男は何者でもなかったので、自分以外のすべてのものを意味することができた。一方で、いろいろな階級が口にするナポレオンという名前の意味が様々に違っていようと、投票用紙にこの名前を書くと言うことは、「ナシオナル」の党を倒せ、カヴェニャックを倒せ、憲法制定議会を倒せ、ブルジョワ共和制を倒せと言うことだったんだ。大臣デュフォールは憲法制定議会で公然と、12月10日は第二の2月24日だと明言した。

プチ・ブルジョワジーとプロレタリアートは、カヴェニャックに反対投票し、またその投票をまとめて、憲法制定議会から最終決定権をもぎとるために、一団となってナポレオンに投票した。といっても、この二つの階級のもっと進歩的な層は独自の候補を立てたんだが。ナポレオンは、ブルジョワ共和制に反対して連合したすべての党派の集合名詞だった。だが、ルドリュ-ロランとラスぺーユは、前者は民主主義的プチ・ブルジョワジーの、後者は革命的プロレタリアートの固有名詞だった。ラスペーユへの投票は、プロレタリアやその社会主義的代弁者が大声でそれを言っていたんだけど、その票数分があらゆる大統領制への抗議、すなわち憲法そのものへの抗議なんだ、その票数だけルドリュ-ロランに反対なんだという単なる示威活動だった。これがプロレタリアートが、独立した政党として、民主主義的政党から分離したことを宣言した最初の行動だったんだ。一方この民主主義的政党、つまり民主主義的プチ・ブルジョワジーとその国会での代表である山岳党[6]は、ルドリュ-ロランの立候補を大真面目で取り扱った。彼らは大真面目にやることで、もったいぶって自己欺瞞する癖があるんだ。それ以後、これが独立した政党として、プロレタリアートに対抗して行った最後の試みだった。共和主義的ブルジョワ政党だけでなく、民主主義的プチ・ブルジョワジーとその山岳党も、12月10日に打ち負かされた。

フランスは今や山岳党とならんでナポレオンまで持つことになったが、このどちらも、そいつらが名を借りてきた偉大な本ものの生気の無い戯画にすぎないという証拠もあがったんだ。皇帝帽をかぶり鷲の印をつけたルイ・ナポレオンは昔のナポレオンのみじめなもじりだが、1793年から借りた文句を使い、煽動家の恰好をした山岳党も同じように昔の山岳党のみじめなもじりだった。こうして伝統的な1793年の迷信が剥ぎ取られると同時に、伝統的なナポレオンの迷信も剥ぎ取られたんだ。革命はそれ自身の本来の名前を勝ち取ったときだけ、その真価を発揮するんだし、現代の革命的階級、産業プロレタリアートが優位にたって革命の前面に現れたときだけ、革命はそうなることができるんだ。12月10日は、人を馬鹿にした農民の冗談で古い革命の古典的な類似性が大笑いのうちに突然打ちきりになった日というだけでも、山岳党は言葉も出ないほど驚き、分別を失ったと言えるんだ。

12月20日にカヴェニャックはその職を退き、憲法制定議会はルイ・ナポレオンを共和国大統領と宣言した。12月19日、その単独支配の最後の日に、憲法制定議会は6月反乱者の大赦動議を否決した。判決なしに1万5千人の反乱者を国外追放に処した6月27日の布告を無効にすることは、6月の戦闘そのものを無効にするという意味になるのでないか?というんだ。

ルイ・フィリップ最後の大臣オディロン・バロがルイ・ナポレオンの最初の大臣になった。ルイ・ナポレオンは、自分の支配を12月10日からではなく、1804年の元老院布告から起算したように、その内閣を12月20日からではなく2月24日の勅令から起算する総理大臣を見つけ出した。ルイ・フィリップの正統の継承者として、ルイ・ナポレオンは古い内閣を温存することで、政体の変化を緩和しようとしたんだ。この内閣は、そのうえ使い古しになるほど時間を経てなかった。なぜって、それは生まれて何かにとりかかるだけの時間もなかったんだから。

王党派のブルジョワ分派の指導者どもが、ナポレオンにこの人選を進言したんだ。この古い王朝派的反対派の党首は、無意識に「ナシオナル」の共和派への移行に関与したが、完全に意識してブルジョワ共和制から君主制への移行に関与するほうが、ずうっと適役というもんだ。

オディロン・バロは、いつも大臣の椅子を争って無駄な努力をしていたが、まだ疲れ果ててはいない、一つの古い反対派政党の党首だった。矢つぎばやに革命はすべての古い反対派政党を国家の頂点に投げ上げ、そうすることで自分たちの過去の文句を、行動だけでなく言葉によってさえ否定し否認しなければならくなり、最後には人民により歴史の糞だめに一緒くたに投げ込まれ、結合して胸の悪くなるような混合物と化したんだ。そしてこのバロ、このブルジョワ自由主義の化身、18年間にわたり精神の恥知らずな愚鈍さを肉体のもったいぶった態度の陰に隠してきた男が、やらなかった背信行為はなかった。ときに現在のアザミと過去の月桂樹とのあまりの違いに自分自身驚くことがあっても、鏡をちょっとみれば、大臣らしい落ち着きと人間らしいうぬぼれを取り戻せた。鏡の中から彼を照らし出していたのはギゾー、バロがいつも羨み、いつもバロを屈伏させてきたギゾーその人、だがオディロンのオリュンポスの神のような額をしたギゾーだった。バロが見過ごしたのはマイダス王の耳だったんだ。

2月24日のバロは、12月20日のバロではじめて明らかになった。オルレアン派でヴォルテール主義者のバロと組んだのは、正統王朝派でジェズイットの文部大臣ファローだった。

数日後、内務大臣職がマルサス主義者のレオン・フォーシュに与えられた。法律、宗教そして政治経済学!バロ内閣はこのすべてを含んでおり、加えて正統王朝派とオルレアン派の連合体でもあった。ただボナパルト派だけが欠けていたんだ。ボナパルトはナポレオンたらんとする熱望をまだ隠したままだった。というのもスルークはまだトゥサン・ルヴェルチュールの役を演じてなかったからだ。

「ナシオナル」の一党はすぐに、これまで占めてきた高級役職を解任された。警視総監、郵政長官、検視総監、パリ市長は以前の王制の手下どもに占められた。正統王朝派のシャンガルニエはセーヌ県国民軍、機動警備軍、正規軍第1師団の統合最高指令部を受け持った。オルレアン派のビュジョーはアルプス軍最高指令官に任命された。こういう役職の変更はバロ政権のもとでは中断されることなく続いた。バロ内閣が最初にやったのは、昔の王制期の行政機関の復活だった。公務の場面はすぐにかわった。舞台装置も、衣装も、台詞も、役者も、エキストラも、だんまり役者も、プロンプターも、政党の位置も、劇のテーマも、葛藤の内容も、場面全体がかわったんだ。ただ世界の創造以前からある憲法制定議会だけがもとからの位置に留まったままだった。だが国民議会がボナパルト、ボナパルト=バロ、バロ=シャンガルニエを任命したときから、フランスは共和主義的憲法の時代から制定された共和制に時代へと足を踏み出したんだ。じゃあ、制定された共和制では、憲法制定議会はどこに身を置けばいいのか?大地が創造された後では、その創造者にはどんな場所もなくて天上に逃げ込むしかないんだ。憲法制定議会はその前例にならうと決まったわけではなかった。国民議会はブルジョワ共和主義者の党の最後の聖域だった。執行権力のレバーがすべて議会の手から奪いとられれば、議会から憲法を制定する全能の力が失われるんだ。議会の最初の考えは、それまで占めてきた主権者の地位を維持し、そこから失地を回復しようというものだった。バロ内閣を「ナシオナル」派の内閣に置き換えてしまえば、すぐに王党派のやつらは行政府を明け渡し、三色旗派の連中が意気ようようと返り咲くだろうというんだ。国民議会は内閣を転覆しようと決意したが、内閣そのものが攻撃の機会を差し出した。それは憲法制定議会がでっちあげようとしたのよりずっとましなものだった。

農民にとってルイ・ボナパルトは「もう税金はまっぴら!」という意味だったことを思い出して欲しい。ボナパルトは大統領に椅子に6日間すわり、そして7日目の12月27日、彼の内閣は塩税の温存を提案した。この税の廃止は臨時政府が布告していたんだ。塩税はブドウ酒税とともに、古いフランスの財政制度のスケープゴートであるという名誉を分けあっていた。特に田舎の連中の目にはそう映っていたんだ。バロ内閣が農民が選出した人の口から吐かせるには、塩税の復活!という言葉ほどその選挙民についての皮肉のキツイ風刺はなかった。塩税とともに、ボナパルトは革命の塩を失ったんだ。つまり農民反乱のナポレオンは幻のように消え失せ、王党派ブルジョワの陰謀という大いなる未知のものだけが残ったというわけだ。で、バロ内閣が意図もなしに、この無神経なほど粗雑な幻想破壊の法令を大統領の最初の政府法令にしたわけではなかろう。

憲法制定議会は、それとしては、しきりに内閣を転覆する二重の機会を捕らえようとしており、農民の選んだ候補者に対抗して、自分たちが農民の利害の代表者になろうとした。議会は大蔵大臣の議案を否決し、塩税を以前の額の3分の1に減税し、そうすることで国家負債を6千万増やして5億6千万にし、この不信任投票の後は静かに内閣の辞職を待ったんだ。それほどまでにわずかしか、議会はとりまく新しい世界も自分の地位が変化したことも理解していなかった。内閣のうしろには大統領がいて、大統領のうしろには、多くが憲法制定議会への不信任票を投票箱に投じた6百万人がいた。憲法制定議会は国民に不信任票をお返しした。お馬鹿の応酬!議会はその投票にはもう法的裏付けがないことを忘れてた。塩税の否決によって、ボナパルトとその内閣が憲法制定議会を終りにする決断を固めただけのこととなった。憲法制定議会の後半生の全期間続く長い決闘が始まったんだ。1月29日、3月31日そして5月8日が、この危機の大きな事件の日であり、6月13日の先触れだった。

例えばルイ・ブランのようなフランス人は、1月29日を立憲制の矛盾、つまり普通選挙で生まれた主権をもち永続的な国民議会と、言葉の上では議会に責任を負うが、実際上はそれだけではなく、同じように普通選挙で支持された大統領との間の矛盾が吹き出した日だと解釈した。大統領はそれに加えて、百に分けられ国民議会の個々のメンバーに分散された全投票をその人格に統合しており、また全執行権力を完全に手中に収めていて、国民議会は単に道徳的力として、この権力を監視してるだけなんだ。1月29日をこんな風に解釈することは、演壇上や新聞紙上やクラブ内での闘争の言葉を闘争の実際の内容とごっちゃにしている。ルイ・ボナパルトが憲法制定国民議会に対抗しているということは、一つの一面的な立憲的権力が別の一面的権力に対抗しているということ、つまり執行権力が立法権力に対抗しているということではなかった。それは制定されたブルジョワ共和制自身がブルジョワジーの革命的分派の陰謀とイデオロギー的要求に対抗しているということだったんだ。この分派は共和制を樹立したのだが、今ではその制定された共和制が復活して王制のように見えることに気づいて驚いており、今や力ずくで憲法制定の期間を、その条件、その幻想、その言葉、その人物もろとも延長させたがっていて、成熟したブルジョワ共和制がその完成した独自の形式で出現するの防ごうとしていたんだ。憲法制定国民議会を代表していたのが、今は議会に逆戻りしてしまったカヴェニャックであったように、ボナパルトは、まだ彼と離縁していない立法国民議会、つまり制定されたブルジョワ共和制の国民議会を代表していた。

ボナパルトが選出されたことは、一つの名前の場所にその多様な意味が書き込まれ、その選出が新しい国民議会の選挙で繰り返されることによってだけ、説明可能なのもになることができた。古い国民議会の権限は12月10日の選挙で無効になった。こうして、1月29日に顔を突き合わせていたのは、同じ共和制の大統領と国民議会なのではなかった。それは出来上がろうとしている共和制の国民議会ともう出来上がっている共和制の大統領だった。つまりは共和制の生活過程の全くちがう時期を体現した二つの権力だったというわけなんだ。一方はブルジョワジーのうちの小さな共和主義分派で、彼らだけが共和制を宣言し、市街戦と恐怖政治で革命的プロレタリアートから共和制をもぎ取り、憲法の中に共和制の理想的な基本特徴を起草することができたんだ。もう一方はブルジョワジーのうちの全ての王党派的集団で、彼らだけがこの制定されたブルジョワ共和制を支配し、憲法からイデオロギー的飾りをはぎ取り、立法と統治によってプロレタリアートを服属させるのに不可欠の条件を実現できたんだ。

1月29日に起こった嵐は1月まる一ヵ月の間にその諸要素を集めていた。憲法制定議会は不信任投票でバロ内閣を辞職に追い込もうとしていた。一方では、バロ内閣は憲法制定議会に、自らに最終的な不信任票を投じて、自殺を決意し、自分自身の解散を命じたらどうだと提案した。1月6日には、無名議員の一人ラトーが内閣の命令で、憲法制定議会にこの動議を出した。だがこの議会は8月に憲法を補完する一連の基本法をすべて制定するまでは解散しないと決議していたんだ。内閣支持者のフロドは、無遠慮にも議会に向かって「混乱した信用を回復するために」議会の解散が必要なのだと宣言した。議会は臨時的な段階を引き延ばし、バロとともにボナパルトに異義を唱え、ボナパルトとともに制定された共和制に異義を唱えたとき、議会は信用を混乱させなかったのか?オリンポスの神であるバロは、共和主義者に10ヵ月もお預けを食ったあげくに、やっと転がり込んだ首相の職が、わずか2週間楽しんだだけで再び奪われそうなのを見て、狂えるローランとなった。バロは、この哀れな議会に対峙して、ひどい暴君ぶりを発揮した。彼の一番穏やかな言葉というのが「議会には未来はない。」というものなんだ。そして実際、議会は過去だけを代表していた。「議会は、共和制の地固めに必要な制度を共和制に提供する能力がない。」と彼は皮肉っぽく付け加えた。実際、無能なんだ!議会のプロレタリアートに対するひときわ激しい対立がなくなると同時に、議会のブルジョワ的エネルギーもついえたが、議会が王党派と対立するとともに、議会の共和主義的な活力も新たに甦ったんだ。こうして議会は、議会がもはや理解できなくなっているブルジョワ共和制を、対応する制度でブルジョワ共和制の地固めをすることは、2重の意味で不可能だった。

ラトーの動議と同時に、内閣は国中に請願の嵐を呼び起こし、憲法制定議会の頭上にはフランスの隅々から毎日、多かれ少なかれ頭ごなしに解散し遺言状を作るよう求める恋文が舞い込んだ。憲法制定議会のほうでも、議会の存続を求める反対請願を呼び起こした。ボナパルトとカヴェニャックの間の選挙合戦は、国民議会の解散の是非を問う請願合戦として復活したんだ。この請願は12月10日の遅ればせの論評というべきものだった。この世論喚起活動は1月中続いた。

憲法制定議会と大統領の間の衝突で、議会はその起源である総選挙にまで遡って引合いに出すことができなかった。というのは、抗議は議会から普通選挙権に向けられたものだったからなんだ。議会は規則に基づいて制定されて権力を根拠とすることができなかった。なぜかというと、合法的権力に対する闘争が問題だからだ。議会は1月6日と26日に再度試みたような、不信任投票によって内閣を倒すことができなかった。というのも内閣はその信任を問うてはいなかったんだ。たったひとつ可能性が残っていた。それは反乱だ。反乱の戦闘力は国民軍の共和主義者の部分、機動警備軍、革命的プロレタリアートの中心部分、それにクラブだ。6月事件の英雄だった機動警備軍は、12月にはブルジョワジーの共和主義分派の組織された戦闘力をなしていた。それはちょうど6月以前に国民作業場が革命的プロレタリアートの組織された戦闘力をなしていたのと同じである。憲法制定議会の執行委員会が、もはや我慢できなくなったプロレタリアートの要求を終らせなければならなくなったとき、国民作業場に残酷な攻撃を向けたの同じように、ボナパルトの内閣は、もはや我慢できなくなったブルジョワジーの共和主義分派の要求を終らせなければならなくなったとき、機動警部軍にその攻撃を向けたんだ。内閣は機動警部軍に解散を命じた。半数が首になって街頭に投げ出され、残り半数は民主主義的方針ではなく王制的方針で組織され、給料も正規軍の並みの給料にまで引き下げられた。機動警備軍は6月の反乱者と同じ位置にあることに気づき、連日、新聞には機動警備軍が6月事件での咎を認め、プロレタリアートにその許しを乞う公開の告白が掲載された。

ではクラブはどうなのか?憲法制定議会がバロに代って大統領に異義を唱え、大統領に代って制定されたブルジョワ共和制に異義を唱え、制定されたブルジョワ共和制に代ってブルジョワ共和制一般に異義を唱えたその瞬間から、2月革命の構成要素の全てが必然的に憲法制定議会のまわり集まってきた。つまり現存する共和制を打倒し、暴力で過程を逆行させて、それを自分たちの階級利害と原理に適った共和制へと変えようとする全ての政党が集まってきたんだ。炒り卵はかき混ぜる前の状態になり、革命運動の結晶体は再び液状となり、争奪の的である共和制は再び2月革命の時期の無規定な共和制になり、共和制をどう規定するかはそれぞれの政党に留保されたんだ。しばらくの間、政党は再び以前の2月の位置をしめたが、今度は2月の幻想を持ってはいなかった。「ナシオナル」の三色旗共和派は再び「レフォルム」の民主主義共和派を頼り、彼らを議会闘争の最前面に主役として押し出した。民主主義共和派は再び社会主義共和派を頼った。1月27日に公表綱領は彼らが和解し団結したことを告げたんだ。そして彼らはクラブで彼らの反乱の背景を準備していた。政府系新聞は正しくも「ナシオナル」の三色旗共和派を復活した6月反乱者として扱った。彼らはブルジョワ共和制の先頭にいることに固執して、ブルジョワ共和制そのものに異義を唱えたんだ。1月26日に大臣フォーシェは結社権についての法案を提出したが、その第1条には「クラブを禁止する。」とあった。彼はこの法案を直ちに緊急に討議するという動議を出した。憲法制定議会はこの動議を否決し、1月27日にはルドリュ-ロランが230人の署名を付けて、憲法違反により内閣を弾劾する提案を提出した。こうした行動が審判者すなわち議会の多数派の無力を無神経に暴露することになり、あるいはこの多数派そのものへの告発者の無力な抗議でしかないような時期に内閣を弾劾すること、これは当世の山岳党がこれ以降危機が頂点に達する度に出した革命の切札だった。哀れな山岳党!この党は自分の名前の重みで潰れてしまったんだ。

5月15日に、ブランキ、バルブ、ラスペーユたちが、パリ・プロレタリアートの先頭にたち、憲法制定議会の議場に無理矢理押し入って議会を粉砕しようとしたことがあった。バロは、同じ議会に自主的解散と議場閉鎖を申し渡したくなったとき、その議会に対し道徳的5月15日を用意したんだ。同じ議会が5月事件の被告に対する審問をバロに委任していたが、今やバロが議会の前に王党派のブランキ然として現れ、議会がバロに対抗しようとクラブや革命的プロレタリアートやブランキ党に同盟者を探し求めていたまさにその時、情け容赦のないバロは、5月事件の囚人を陪審法廷からはずして、「ナシオナル」の党が発案した高等法院に引き渡すという発議で議会を苦しめた。大臣職を追われるかもしれないという激しい恐怖が、どうやってバロみたいな奴の頭からボーマルシュに匹敵するような妙手をたたき出したのか驚くべきことだ。さんざん迷ったあげくに、国民議会は彼の発議を受け入れた。5月の襲撃犯にたいしたときは、議会もその正常な性格を取り戻したんだ。

憲法制定議会が大統領と内閣に対して反乱に駆り立てられたするなら、大統領と内閣は憲法制定議会に対してクーデタに駆り立てられた。なぜなら彼らには議会を解散する法的手段がまるでなかったのだから。だが憲法制定議会は憲法の母であり、憲法は大統領の母だった。クーデタによって、大統領は憲法を廃却し、その共和制的な法的資格も消してしまうことになる。そのときは帝制的な法的資格を引っ張り出すしかなくなるが、しかし帝制的な法的資格はオルレアン朝の法的資格を呼び起こし、このどちらの法的資格も正統王朝の法的資格の前では青ざめてしまう。オルレアン派の政党がまだ2月の敗者にすぎず、ボナパルトがまだ12月10日の勝者でしかなくて、この両者が共和派の簒奪に自分たちの同じように簒奪した王制的資格を対置するしかなかった瞬間には、合法的共和制の没落はそのまるっきりの正反対のもの、正統王朝派の王制を頂上に押し上げることしかできなかった。正統王朝派はこの瞬間の好機に気がついて、公然と陰謀を企てた。彼らはシャンガルニエ将軍が自分たちの僧侶であることを期待できた。プロレタリアのクラブでは赤色共和制が差し迫っていると公然と告知されていたように、正統王朝派のクラブでは白色王制が差し迫っていると公然と告知された。

巧い具合に鎮圧された暴動があれば、内閣はすべての困難から脱出できるだろう。「合法は我が死」とオディロン・バロは叫んだ。暴動が起これば、公共の安全を口実に、憲法制定議会を解散し、憲法自身を守るために憲法を侵害することができるだろう。国民議会でのオディロン・バロの粗暴な態度、クラブを解散する素振り、大騒動で50人の三色旗派の知事を罷免し王党派で置き換えたこと、機動警備軍の解散、シャンガルニエが機動警備軍の隊長を冷遇したこと、ギゾーのもとでさえ不可能だったレルミニェ教授の復職、正統王朝派の大言壮語の容認、こうしたことすべてが蜂起の挑発だった。しかし蜂起はなりをひそめたままだった。待っていたのは内閣からの合図ではなくて、憲法制定議会からの合図だったんだ。

ついに1月29日が来た。この日はラトーの動議の無条件否決を求めた(ドローム県選出の)マティュの動議が採決される日だった。正統王朝派も、オルレアン派も、ボナパルト派も、機動警備軍も、山岳党も、クラブも、この日はみんなお互いに、うわべの敵に対しても、うわべの同盟者に対しても、陰謀を企てていた。ボナパルトは馬に乗って、コンコルド広場で一部の軍隊の閲兵を行なったし、シャンガルニエは戦略作戦の演習をやって見せた。憲法制定議会は議事堂が軍によって占拠されたのを知った。すべての矛盾する希望、恐れ、期待、興奮、緊張、陰謀の中心であるこの議会、ライオンのように勇敢な議会は、今までで一番世界精神に近づいたその時、一瞬たりともひるみはしなかった。議会は、自分の武器を使うことを恐れるだけなく、対抗者の武器を壊さないでおくことに義務を感じる戦士のようだった。議会は死を笑いとばしながら、自分の死刑宣告に署名し、ラトーの動議の無条件否決案を否決した。議会は、自分自身が戒厳状態にあって、憲法制定活動を制限したんだ。この憲法制定活動はパリの戒厳状態という枠組を必要としていたのにね。議会は翌日、内閣が1月29日に議会を驚かせたことの調査を開始して、自分にふさわしいやり方で復讐した。この陰謀の大喜劇の中で、山岳党は「ナシオナル」の党に抗争の触れ役として使われることになってしまい、革命的エネルギーも政治的判断力もないことが明らかになった。「ナシオナル」の党は、ブルジョワ共和制が始まったばかりの時期に持っていた独占的支配権を、制定された共和制でも引続き維持しようという最後の試みを行なったんだ。その試みは座礁した。

1月危機には憲法制定議会の存続が問題となったが、3月21日の危機には憲法の存続が問題となった。1月には「ナシオナル」党の顔ぶれが問題だったのに、3月にはその理想が問題となったんだ。ご立派な共和主義者は、自分たちのイデオロギーの高揚感を、統治権力の世俗的享受よりも安値で手放したことは、指摘するまでもない。

3月21日には結社の権利に対抗するフォーシェの法案、クラブ禁止法案が国民議会の審議日程にのぼった。憲法第8条はすべてのフランス人に結社の権利を保証している。だからクラブの禁止は明らかな憲法違反だが、憲法制定議会自身はその最も神聖なものの冒涜を公認しようというんだ。だがクラブは革命的プロレタリアートの集結点であり、陰謀の拠点なんだ。国民議会自身がブルジョワジーに対抗する労働者の団結を禁じたことがあった。そしてクラブなるものは、全ブルジョワ階級に対抗する全労働者階級の団結、ブルジョワ国家に対抗する労働者国家の形成にほかならないのではないか?クラブはそれぞれがみなプロレタリアートの憲法制定議会であり、それぞれがみな戦闘準備の整った反乱部隊ではないのか?憲法が何をさておき制定すべきものは、ブルジョワジーの支配なんだ。だから憲法のいう結社の権利は、明らかにブルジョワジーの支配、すなわちブルジョワ的秩序と調和する結社のことだけを意味している。理論上の体裁から憲法が一般的な用語で表現されているとすれば、政府と国民議会は、特殊な場合に憲法を解釈し適用するために存在しているのではないのか?そして共和制の創始期にはクラブが戒厳状態で実質上は禁止されてたとすれば、秩序だった制定された共和制ではクラブを法律で禁止されるべきではないのか?三色旗共和派は、この憲法の散文的な解釈に対抗するには、憲法についての大げさな言葉遣いしか持ち合わせていなかった。三色旗共和派の一部、パニュエル、デュクレール等は内閣に賛成票を投じ、それによって内閣は多数票を得たんだ。大天使カヴェニャックと教父マラストに率いられた他の三色旗派は、クラブ禁止条項が通過したあと、ルドリュ-ロランと山岳党とともに、特別委員会室に退いて、「協議会を開いた。」国民議会は麻痺し、もはや定数割れに陥った。よい頃合でクレミュー議員が委員会室で、そこから道はまっすぐ街頭に続いており、いまはもはや1848年2月ではなく1849年3月なんだってことを思い出させたんだ。「ナシオナル」の党は突然納得がいって、国民議会議場に戻った。その背後では、山岳党がまたもや、かつがれた。山岳党はいつも革命熱に悩まされ、同時にいつも憲政の可能性をつかもうとしながら、未だに革命的プロレタリアートの前面に立つより、ブルジョワ共和主義者の背後にいる方が居心地がよかったんだ。こんなふうに喜劇は演じられた。そして憲法制定議会自身が、文字通りの憲法に違反することが憲法の精神を適切に実現する唯一のやり方だと布告したんだ。

処理しなければならない問題点として残っていたのは、制定された共和制のヨーロッパ革命に対する関係、つまりその外交政策だけとなった。1849年5月8日、異例の興奮が憲法制定議会を覆っていた。憲法制定議会の生存期間はあと数日で終るところに来ていた。フランス軍によるローマ攻撃、ローマ人によるその撃退、フランス軍の政治的不名誉と軍事的恥辱フランス共和国によるローマ共和国の卑劣な暗殺、つまりは2代目ボナパルトの第1回イタリア出征が審議日程にのぼっていた。山岳党はまたもや取っておきの切札を使った。ルドリュ-ロランは、憲法違反のかどでお定まりの内閣弾劾案を、そしてこの度はボナパルト弾劾案をも、大統領のテーブルに置いたんだ。

5月8日の動機は後に6月13日の動機として繰り返された。そこでローマ遠征について明らかにしておこう

早くも1848年11月の半ばには、カヴェニャックは教皇を保護し、船に乗せてフランスに連れてくために、チヴィッタ・ヴェッキアに戦艦隊を派遣した。教皇はご立派な共和国を聖化し、カヴェニャックの大統領当選を確実にしようというんだ。カヴェニャックは教皇で坊主を、坊主で農民を、農民で大統領職を釣り上げようと思ったんだ。カヴェニャックの遠征は、その直接の目的は選挙広告だったんだけど、同時にローマ革命に対する抗議と威嚇だったんだ。そこにあるのは、萌芽とはいえ、教皇に味方したフランスの干渉だった。

教皇を支持して、オーストリアやナポリ王国と連携して行なわれた、このローマ共和国にたいする干渉は、12月23日のボナパルトの内閣の第1回閣議で決定された。内閣にはファローがいたが、それは教皇をローマに、しかも教皇領ローマにということを意味していたんだ。ボナパルトはもはや、農民の大統領になるために教皇を必要としてはいなかった。だが大統領の農民を保持するには、教皇を保持しておくことが必要だった。農民が信じやすいことが、ボナパルトを大統領にしたんだ。農民は信心をなくせば信じやすくなくなるし、教皇がいなくなれば信心をなくす。それに連合したオルレアン派と正統王朝派がいる。彼らがボナパルトの名のもとに支配していたんだ。王が復位する前に、王を聖化する力が復活しなくてはならない。彼らの王党主義はさておいても、教皇の世俗支配に服する古きローマがなければ教皇はなく、教皇がなければカトリック教はなく、カトリック教がなければフランスの宗教はなく、宗教がなければ古きフランス社会はどうなってしまうのだろう?農民が天上の財産にたいして持つ抵当が、ブルジョワが農民の財産にたいして持つ抵当を保証しているんだ。だからローマ共和国は財産権への、ブルジョワ的秩序への攻撃であり、6月革命みたいに恐ろしいものなんだ。フランスで再び確立されたブルジョワ支配には、ローマの教皇支配の復活が必要なんだ。最後に、ローマの革命家を叩くことはフランスの革命家との同盟を叩くことになる。制定されたフランス共和国の反革命階級の同盟は、必然的にフランス共和国と神聖同盟との、オーストリアとナポリとの同盟で補完された。

12月23日の閣議決定は憲法制定議会に秘密ではなかった。1月8日にルドリュ-ロランはそれについて内閣に質問したが、内閣はこれを否定したので、国民議会は通常の議事日程を進めたんだ。議会は内閣の言葉を信用したのか?知っての通り、議会は内閣不信任投票をするのに、1月まる1か月を費したんだ。だが嘘をつくのが内閣の役割の一つなら、その嘘を信じるふりをして、それによって共和国のうわべの面目を保つのは国民議会の役割の一つなんだ。

そうこうするうちにピエモンテは破れ、カルロ・アルベルト王は退位した。そしてオーストリア軍はフランスの門戸をノックした。ルドリュ-ロランは激しく説明を求めた。内閣は、それは単に北イタリアでカヴェニャックの政策を継続したのであり、カヴェニャックは単に臨時政府の、つまりルドリュ-ロランの政策を継続したってことを立証した。このときは内閣は国民議会からの信任票を得て、サルディニアの領土保全とローマ問題についてオーストリアと平和裡に交渉をすることを支援するために、北イタリアの適当な場所を一時的に占領することを承認されたんだ。知っての通り、イタリアの運命は北イタリアの戦場で決まる。したがってローマはロンバルディアやピエモンテと一緒に陥落するか、さもなくばフランスがオーストリアに宣戦し、そうすることでヨーロッパの反革命勢力に宣戦するかのどちらかだった。国民議会はバロ内閣を昔の公安委員会と思ったのか?それとも自分を国民公会と思ったのか?なぜこの時期に北イタリアの一地点の軍事占領なのか?この見え透いたヴェールがローマにたいする遠征を隠していたんだ。

4月14日、ウディノ指揮下の1万4千人がチヴィッタ・ヴェッキアに向かって出航した。4月16日、国民議会は内閣に、地中海の干渉艦隊の3ヵ月の維持費として120万フランの支出限度を承認した。こうして議会は内閣にローマに干渉するあらゆる手段を与えたが、オーストリアに干渉させているようなポーズを取っていたんだ。議会は内閣のやっていることは見ずに、内閣の言っていることを聞いていただけなんだ。こんな信仰はイスラエルの民にも見あたらない。憲法制定議会は、制定された共和国が何をしなければならないか知ろうともしない態度になっていたんだ。

ついに5月8日に喜劇の最後の一場が上演された。憲法制定議会は内閣に対し、イタリア遠征を本来の目的に戻すよう至急手段を講じるよう求めた。ボナパルトはその晩「モニトゥール」紙に、ウディノをべたぼめした手紙を掲載した。5月11日には、国民議会はこの同じボナパルトとその内閣に対する弾劾議案を否決した。山岳党はこの欺瞞の網を引き破るかわりに、議会の喜劇を悲劇的にうけとめ、その中でフキエ・タンヴィルの役どころを演じようとしたが、国民公会から借りてきたライオンの皮の下から、本来のプチ・ブルジョワの子牛の皮をうっかり見せなかったか!

憲法制定議会の後半生というのは、次のように要約できる。1月29日には王党派のブルジョワ分派が自分が制定した共和制の当然の上席者だと認めた。3月21日には憲法を破ることが憲法を実現することだと認めた。5月11日には、大げさに宣言したフランス共和国と闘争している諸民族との消極的同盟というのが、フランスとヨーロッパの反革命との積極的同盟のことなんだと認めた。

このみじめな議会は自ら満足した後、舞台を降りたが、それは一歳の誕生日である5月4日の2日前、6月反乱者の恩赦動議を否決した日だった。その権力は千々に砕かれ、人々からはひどく憎まれ、ブルジョワジーの手先だったのに、ブルジョワジーからは拒絶され、虐待され、馬鹿にしたように傍らに投げ捨てられ、その後半生には前半生を否認せざるをえず、共和制的な幻想を奪い取られ、過去には偉大な業績を上げることもなく、将来には希望もなく、生きたまま少しずつ死にながら、憲法制定議会は頻繁に6月の勝利を思い起こしては何度も経験しなおし、断罪されたものをたえず繰り返して断罪することで自分自身を肯定することでだけ、自分の骸を生き返らせることができたんだ。6月の反乱者の血で生きながらえる吸血鬼め!

憲法制定議会は、6月反乱の費用、塩税の廃止、黒人奴隷制の廃止に対してプランテーション所有者に支払った補償金、ローマ遠征の費用、酒税の廃止によって増加した国家負債を、そのあとに残した。この酒税の廃止は、もうすでにこの議会のご臨終というときに決定されたんだ。議会は、笑っている相続人に支払わないと面子の立たない博打の借りを押しつけて満足げな、意地悪じいさんだった。

3月がはじまるとともに、立法国民会議の選挙への煽動が始まった。2つの主要グループが対立していた。秩序党と民主社会党つまり赤色党である。この両者の間に憲法の友がいた。この名のもとに「ナシオナル」の三色旗共和派は政党として目立とうとしていたんだ。秩序党は6月事件の直後に結成されたのだが、ブルジョワ共和派の「ナシオナル」の連中を振り払うことができた12月10日以降に、オルレアン派と政党王朝派が連合してひとつの政党になったという存在の秘密が明らかになった。ブルジョワ階級は2つの大きな分派に分かれいて、それがかわるがわる、復古王政のもとでは大土地所有者が、7月王政のもとでは金融貴族と産業ブルジョワジーが権力の独占を維持してきた。ブルボンとはその一方の利害が優勢な影響力をもっていることを表す王朝名だったし、オルレアンはもう一方の利害が優勢な影響力をもっていることの王朝名だったんだ。共和国という名前のない王国が、どちらの分派もお互いの競争をやめずに同等の権力をもって共通の階級利害を維持することのできる唯一の国だった。ブルジョワ共和国が完成され、明確に表現された全ブルジョワ階級の支配以外の何ものでもないのなら、それは正統王朝派に補完されたオルレアン派の支配にして、オルレアン派に補完された正統王朝派の支配、復古王政と7月王政の総合以外の何ものでもないだろう。「ナシオナル」のブルジョワ共和派は、経済的基盤に立脚したブルジョワ階級の大きな分派をなんら代表していなかった。彼らは、二つのブルジョワ分派が自分たちの特殊な体制しか理解しなかったのに比べ、王政の下で、ブルジョワ階級の一般的体制、つまり名前のない共和国という王国を主張したという重要性と歴史的権利しか持ってはいない。この共和国を彼らは理想化し古代風の唐草模様で飾りたてたが、何よりもまず自分たちの仲間の支配を歓呼して迎えたんだ。「ナシオナル」の党が、自分たちが創設した共和国の頂上にいる連合した王党派のことを述べようとして、困惑していくなら、これら王党派もそれにおとらず自分たちの連合した支配という事実を勘違いしていた。彼らは、分派のそれぞれを別個に見ればそれ自身は王党派であるのに、その化学的結合の産物は必然的に共和派となること、白の君主制と青の君主制は互いに中和して三色の共和制になるしかないことが理解できなかった。革命的プロレタリアートとそれを中心としてますます結集していく中間諸階級との対立に強いられて、自分たちの連合した力をかきあつめ、この連合した力の組織を保持するために、秩序党のそれぞれの分派は、他方の復古欲と傲慢な信念に抗して、共同支配すなわち共和的形態のブルジョワ支配を主張するしかなかった。こうして、これら王党派は、最初のうちはすぐにも復古することを信じたけれど、後には憤激し共和制へのひどい悪口を言い立てながらも、共和制を保持し、ついには共和制でだけお互いを辛抱できるのだと告白し復古を無期延期したんだ。共同支配を亨有すること自体が、それぞれの分派を強化し、一方が他方に従属すること、すなわち君主制を復古することをますます不可能にし、気が進まないものにした。

秩序党はその選挙綱領の中でブルジョワ階級の支配を、すなわちその支配の生存条件:財産、家族、宗教、秩序の維持を率直に表明した。当然にも、秩序党は自分たちの階級支配とその階級支配の条件を、文明の支配として、物質的生産の、そして生産から生じる社会的交易関係の必要条件として言い表していた。秩序党は自由になる金と資源をたくさん持っており、フランス中に支部を組織し、古い社会のイデオロギー吹聴者をことごとく雇いれ、現在の政府権力の影響力を思うがままに駆使し、プチ・ブルジョワと農民からなる全大衆の中に無給の家来衆の一軍隊を持っていた。プチ・ブルジョワと農民はまだ革命運動には加わっておらず、財産持ちのお偉方を自分たちの哀れな偏見の代表者と見ていたんだ。この党は、全国にわたる無数の小王たちに代表されており、自党の候補者を拒否することを反乱として罰することもできれば、反抗的労働者、扱いにくい農場労働者、召使、事務員、鉄道従業員、筆耕者、市民生活で彼らに従属しているすべての役人を解雇できた。最後に、そこここで秩序党は、共和主義的な憲法制定議会は12月10日のボナパルト政府がその奇跡的力を発揮するのを防いだという妄想を、そのままにしておくこともできた。秩序党に関連してボナパルト派にはまだふれていなかった。ボナパルト派はブルジョワ階級の重要な分派ではなく、年老いた迷信的な廃兵と若く不信心で幸運を求める兵士たちの寄せ集めだった。秩序党は選挙に勝ち、立法議会に最大多数を送り込んだ。

連合した反革命的ブルジョワ階級に対抗して、すでに革命的になっていたプチ・ブルジョワジーと農民階級の一部は、当然ながら革命的利害の大立物である革命的プロレタリアートと連合せざるを得なかった。議会でのプチ・ブルジョワジーの民主的代弁者、つまり山岳党がどんなふうに議会での敗北によってプロレタリアートの社会主義的代弁者のほうへ追いやられ、議会の外では、現実のプチ・ブルジョワジーがどんなふうに和解協約やブルジョワ的利益の無慈悲な強制や破産によって現実のプロレタリアートのほうへ追いやられたかは、既に見てきた。1月27日には山岳党と社会主義者は自分たちの和解を祝い、1849年2月の大宴会では連合活動を繰り返した。社会党と民主党、労働者の政党とプチ・ブルジョワの政党は連合して社会民主党、つまり赤色党をつくったんだ。

フランス共和国は、6月事件に続く苦悶でしばらく麻痺していたが、戒厳状態の解除以来、つまり10月14日以来、ずっと続く熱病のような興奮状態にあった。まずは大統領職をめぐる闘争、ついで大統領と憲法制定議会の間の闘争、クラブ存続をめぐる闘争、ブルジェの裁判--この裁判は大統領や連合した王党派、体裁のよい共和主義者、民主的山岳党、プロレタリアートの社会主義空論家の小さな姿に比べ、プロレタリアートの本物の革命家を大洪水だけが社会の表面に残していくような、あるいは社会的大洪水の魁としてだけ現れるような原始の怪物のように見せたんだ--、選挙の煽動、ブレアの殺害犯の処刑、あい続く新聞への訴訟、警察活動による宴会運動への政府の暴力的干渉、王党派の横柄な挑発、ルイ・ブランとコシディエールの肖像さらし物事件、制定された共和制と憲法制定議会との中断することのない闘争--この闘争は瞬間毎に勝利者を敗北者に、敗北者を勝利者に変え、たちまちに政党と階級の立場、その分離結合を転変させた--、ヨーロッパ反革命のすばやい進展、栄光に満ちたハンガリーの戦い、ドイツでの武装蜂起、ローマ遠征、ローマ直前でのフランス軍の不名誉な敗北--この運動の渦の中で、この社会不安の苦悩の中で、この革命的情熱と希望と失望の劇的な干満の中で、フランス社会のさまざまな階級は、自分たちの発展段階を、以前は半世紀単位で計っていたのに、今では週単位で計らなければならなかった。農民と地方の相当な部分が革命化した。農民がナポレオンに失望しただけではなかった。赤色党は彼らに名目にかわって内容を、幻想ばかり減税にかわって正統王朝派に支払われた10億フランの返還を、抵当の調整を、高利貸の廃止を公約した。

軍隊自体が革命熱に感染した。ボナパルトに一票投じたのは、勝利に一票投じたつもりだったのに、ボナパルトがくれたのは敗北だった。軍隊がボナパルトに票を投じたのは、うちに革命の偉大な将軍の才を秘めた小伍長[訳注:ナポレオン一世のこと]を得るためだったのに、ボナパルトがよこしたのは、教練には厳格だが我が身を守る伍長を内に秘めた大将軍連だった。パリや軍隊や地方の大部分が赤色党すなわち山岳党に票を投じ、この党が圧勝ではないけれど、勝利の凱歌をあげるにちがいないことは、疑いもなかった。山岳党党首ルドリュ-ロランは5つの県で選出されたが、秩序党のどの指導者も、また本来のプロレタリアの部分に属するどの立候補者もこのような勝利をおさめた者はいなかった。この選挙が民主社会党の秘密を明らかにする。一方でプチ・ブルジョワジーの議会でのチャンピオン、山岳党がプロレタリアートの社会主義的空論家と連合せざるをえなかった--プロレタリアートの方はは6月の恐るべき肉体的敗北によって理論的勝利で再起するしかなく、しかも残る諸階級の発展を通して革命的独裁権を手に入れることもできず、自分たちの解放を説く空論家、社会主義的セクトの創設者の腕の中に身を投げるしかなかったんだ--が、他方では革命的な農民、軍隊、地方は山岳党に追随し、こうして山岳党は革命陣営の主人にして指導者となり、社会主義者との合意を通して、革命党内の対立を消し去った。憲法制定議会の後半期には、山岳党は共和主義熱を代表し、臨時政府時代や執行委員会時代や6月事件の頃の罪を、忘却のなかに葬り去っていた。「ナシオナル」の党が中途半端な本性のため王党派内閣によっておとしめられていったのにしたがい、「ナシオナル」派の全盛期には無視されていた山岳党は革命の議会代表として台頭し認められるようになったんだ。事実「ナシオナル」の党は、野心的性格と理想主義的たわごと以外に、他の王党的分派に対抗できるものは何ももっていなかった。反対に、山岳党はブルジョワジーとプロレタリアートの間で揺れ動くする大衆、物質的利害を民主的制度に求める大衆を代表していた。だから、カヴェニャックのような連中やマラストのような連中に比べると、ルドリュ-ロランと山岳党は本当の革命を代表していて、この重要な状況という意識から、革命的エネルギーの表現が、弾劾案を提出したり、威嚇したり、大声をはりあげたり、嵐のように演説したり、言葉の上でだけの極論をはいたりといった、議会での攻撃に制限されればされるほど、ますます勇気を奮い起こしたんだ。農民はプチ・ブルジョワジーとほぼ同じ位置付けにあって、多かれ少なかれ同じような要求を持ち出していた。だから社会の中間階層は、革命運動へと駆り立てられれば駆り立てられるほど、ルドリュ-ロランに自分たちの英雄を認めるようになったんだ。ルドリュ-ロランは民主的プチ・ブルジョワジーの立役者だった。秩序党に対抗するには、半ば保守的で半ば革命的な、今ある秩序の全くもってユートピア的な改革者を、まずは先頭に押し立てなかればならなかったんだ。

「ナシオナル」の党、「それでもやはり憲法の友」、断固たる共和主義者は、選挙で完全に敗北した。そのごくわずかが立法議会に送り込まれた。この党のもっとも名の知られた指導者たちは舞台から姿を消した。編集長にしてまっとうな共和国のオルフェウス、マラストさえも。

5月28日に立法議会が招集された。6月11日には5月8日の衝突が繰り返され、ルドリュ-ロランは山岳党の名で、憲法違反のかどで、すなわちローマ砲撃のかどで、大統領と内閣への弾劾案を提出した。憲法制定議会が5月11日に弾劾を否決したのと同じように、6月12日に立法議会は弾劾案を否決した。しかし今度はプロレタリアートが山岳党を街頭へと駆り出した。でもそれは市街戦ではなく、ただの街頭行進だった。山岳党が運動の先頭にたったのは、運動が敗北し、1849年の6月が1848年の6月の下劣であるとともに馬鹿馬鹿しい戯画であることを思い知るためだったと言っておけば十分だろう。6月13日の大後退をしのぐのは、秩序党が間に合わせにつくり出した偉大な人物シャンガルニエのさらに大げさな戦闘報告だった。社会の各時代はそれぞれの時代の偉大な人物というものが必要なんだ。そしてそういう人物が見つからなければ、エルヴェシウスが言うように、それを発明するものなんだ。

12月20日には制定されたブルジョワ共和制の半分だけ、大統領だけがあった。5月28日には残り半分の立法議会によってそれは完成した。1848年の6月には制定されつつあったブルジョワ共和制がプロレタリアートに対する言語に絶する戦闘で、1849年6月には制定されたブルジョワ共和制がプチ・ブルジョワジーとのお話しにならない喜劇で、歴史の出生名簿にその名を刻んだ。1849年の6月は1848年の6月の天罰だった。1849年6月に打ち破られたのは、労働者ではなかった。打ち倒されたのは、労働者と革命の間に立っていたプチ・ブルジョワジーだったんだ。1849年6月は、賃労働と資本の間の流血の悲劇ではなく、債務者と債権者の、牢獄の場面ばかりの悲嘆劇だった。秩序党は勝利し、全能となった。そこで今や自分が何ものか示さなければならなくなった。


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