《プロジェクト杉田玄白正式参加作品》

ソクラテスの弁明

プラトン:著

永江良一:訳

この文書は
Plato :
Apology
Translated in English by Benjamin Jowett
を日本語訳したものです。
翻訳はProject Gutenbergのテキストに基づいています。

2002年09月02日 本文は暫定訳完了
2002年09月26日 英訳者序文も含め、暫定完了
2003年01月10日 KTさんのご指摘により、typoを多数修正
2003年06月14日 椎野 裕樹さんのご指摘により、typoを修正
2003年06月15日 序文を多少変更
2005年12月07日 typo修正。ついでに1ファイルにまとめてみた

©2002-2003 Ryoichi Nagae 永江良一
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この翻訳は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(帰属 - 同一条件許諾)の下でライセンスされています。
ご指摘、ご教示などありますれば永江良一まで


もくじ


英訳者ベンジャミン・ジョーウェットによる序文

プラトンの『弁明』が実際のソクラテスの弁護とどういう関係にあるのか、はっきりさせる手立てはありません。確かに調子や特徴はクセノフォンの記述と一致しています。クセノフォンは『思い出』の中で、「もっと穏便に裁判官の温情を得れば」ソクラテスは無罪になっただろうにと言っています。またソクラテスの友人ヘルモゲネスの証言に関した別の節では、ソクラテスは生きる望みを失っており、また神のお告げが弁護を準備することを許さなかったとも、またソクラテス自身が、その人生の長きにわたって、この時に対する準備をしてきたという理由で、弁護の準備は不必要だといったとも伝えています。弁論は一貫して挑戦的な精神に満ちており(「判決をうけるのに、哀願者や罪人のようにではなく、まるで教師か主人であるかのようであった。」キケロ『雄弁家について』)、また気ままで取り留めのない話ぶりは、「広場や両替商の店先で」ソクラテスが話してきた「いつものやり方」にならったものです。『クリトン』での言及はおそらく、いくつかの部分が文字通りに正確だということのさらなる証拠として、引証できるでしょう。しかし概して言えば、それはプラトンのソクラテスについての概念にしたがった、ソクラテスの理想像と見なすべきです。それはソクラテスの生涯の最も偉大で最も公的な場面で、その偉業の絶頂において現れたものです。そのとき、ソクラテスは衰弱しきっていたのですが、しかし人類というものに最もよく精通していたのです。まるで偶然そうなったかのように、弁護の過程の中に、ソクラテスの生涯の事実が要約され、その性格の特徴が表われています。会話体というやり方、外観上必要とされた配置、アイロニー的簡明さが、ソクラテスの肖像という完璧な芸術作品を仕上ている|のです。

しかし、話題のいくつかは実際にソクラテスが使ったものであったでしょう。ソクラテスその人の言葉が思い起こされ、その弟子の耳で鳴り響いていたにちがいありません。プラトンの『弁明』とよく比較されるのは、トュキディデスの演説ですが、そこではトュキディデスは偉大なペリクレスの高遠な性格と政策についての自分の概念を具体化し、同時に歴史家という観点から情勢の解説を加えています。したがって『弁明』には文字どおりの真実というより理想化された真実があるのです。その多くが実際には言われなかったことであるし、状況についてのプラトンの見解にほかならないのです。プラトンは、クセノフォンとちがって、事実の記録者ではありません。彼はどの著作でも、文字どおりの正確さを目的にしていません。ですからプラトンをクセノフォンの『思い出』や『饗宴』で補う必要はありません。これらはまったく違った種類の著作なのです。プラトンの『弁明』はソクラテスが言ったことの記録ではなくて、実際は対話篇とおなじような、入念に仕上げた創作物なのです。おそらく師匠は弟子より優れているのだから、ソクラテスの実際の弁護はプラトン風の弁護よりずっとすばらしかったのではと、想像に耽ることさえあるでしょう。しかし、ともかくは、ソクラテスの使った言葉は覚えられており、また記録されたことのいくつかは実際に起こったことです。プラトンが弁護の場に居合わせたと言われていること(『弁明』)は、パイドンの最後の場面でプラトンはいなかったと言われているのと同じく、重要なことです。プラトンの意図が、一方には正真正銘真実だという印を打ち、もう一方はそうしないことにあったとするのは、空想にすぎます。特に、プラトンが自分のことを述べているのはこの二つの節だけだということを考えると、なおさらです。ソクラテスが申し出た罰金の支払いの保証人の一人にプラトンがなるとういう状況は、本当らしい外観を示しています。ソクラテスが、世の中を訊問するという彼のお気に入りの使命への最初のはずみとなったのが、デルフォイの神託から受けたという記述は、もっと疑わしいものがあります。というのは、カエレフォンが神託(謎)を求める以前に、ソクラテスはもう有名であったにちがいなく、またこの物語はいかにも創作されそうなものなのですから。全体として私たちは次のような結論にたどり着きます。『弁明』ではソクラテスの性格に偽りはないが、そのなかのどの記述がソクラテスが実際に話した通りなのかは示すことができません。ソクラテスの精神が息づいていますが、それはプラトンという鋳型で鋳なおされたものなのです。

ほかの対話篇には『弁明』と比較できるようなものはあまりありません。『共和国』で正しき人の受難を描いたとき、プラトンが思い浮かべていたのは師についての同じ思い出であったかもしれません。『クリトン』はまた『弁明』の付録とみることもできるでしょう。そこでは、ソクラテスは審判官を拒んでいますが、それにもかかわらず法律には誠実に従う人として描かれています。『ゴルギアス』では受難者の理想化がさらに進んでいます。そこでは「苦しむほうが悪事をなすよりまし」という命題が主張されています。そして修辞術は自責の目的に役立つだけだとされています。いわゆるクセノフォンの『弁明』に現れている類似性は注目する価値はありません。なぜなら、それが含まれている著作は明らかに偽作だからです。ソクラテスの裁判と死に関する『思い出』の記述は一般にプラトンと一致しています。しかしクセノフォンの語り口の中で、ソクラテス的なアイロニーの風味を失っています。

『弁明』つまりプラトン風のソクラテス弁護は三部に分かれています。最初はいわゆる本来の弁護、二番目は刑罰の軽減についてのわりと短い演説、三番目は予言的な非難と奨励という最後の言葉の三部です。

第一部はソクラテスの日常会話体についての言い訳から始まります。ソクラテスは、これまでもそうであったように、修辞の敵であり、修辞のことは知らないが、真理は知っているのです。彼は話術で自分の性格を偽ろうとはしないのです。それに続いて、自分の非難者を二種類に分けます。最初に名前のない非難者、つまり世評があります。世間は、すっと以前から、ソクラテスは若者を堕落させると聞いてきましたし、アリストファネスの『雲』で戯画化されたソクラテスを見てきたのです。二番目に公然たる告発者がいますが、彼らは他の人々の代弁者でしかありません。どちらの非難もある決まり文句にまとめることができます。最初の非難者は「ソクラテスは悪事を働くもので、好奇心の強い者であり、地下や天上の事物を探り、悪しき企てを良き企てと見せかけている。そして前述した教義を他の者たちに教えこんでいるのである。」と言いますし、二番目の告発者は「ソクラテスは悪事をなす者で、若者を堕落させ、国家の神々を信じず、自らの何か他の新しい心霊を奉じている。」と言います。この後のほうの言葉が実際の告発状であったようです(クセノフォンの『思い出』参照)最初の決まり文句は、世評を要約したもので、それを同じ法的な文体にしてみたものです。

答弁は混同を払拭することで始まります。喜劇作家の表現でも、大衆の意見でも、ソクラテスは自然科学の教師およびソフィストと思われていました。しかしそれは間違いでした。この両者にたいしてはソクラテスは開かれた法廷では尊敬すると公言していましたが、別の場所で彼らについて話している態度とは対照的です(『アナクサゴラス』『パイドン』『法律』を参照、また『ソフィスト』『メノン』『共和国』『ティマイオス』『テアイテトス』『ソフィスト』を参照)。しかし同時に、彼は自分がその一人ではないと示します。自然哲学については、彼は何も知りません。そういう研究を軽蔑したのではなく、それを知らず、なにも話せなかったというのが事実です。また彼は支払いを受けて教えを授けたことはなく、教師だというのもまた間違った見解なのです。かれは教えることなどなかったのです。しかし彼はエヴェノスに5ムナほどの「手ごろな」料金で徳を教えることを勧めています。「いつものアイロニー」というものは、おそらく大衆の耳の底で眠っているのでしょうが、ここにも潜んでいたのです。

ソクラテスはなぜこんな悪評がたったか説明を続けます。それは彼が自分に課した奇妙な使命から生じたのです。狂信的なカエレフォンが(多分受け取る答えを予想して)デルフォイへ行き、ソクラテスより知恵のある人がいるかどうか、神託を尋ねたのです。そして答えは、ソクラテスより知恵ある人はいないというものでした。これは何を意味しているのでしょうか。何も知らないが、何も知らないことを知っている者が、もっとも知恵ある者だと神託は言っているのでしょうか。この答えを思案して、ソクラテスは「もっと知恵のある人」を探し出して、これを論駁しようと決心しました。かれは、まず政治家、次に詩人、それから職人のところへ行きましたが、結果はいつも同じでした。彼らは何も知らないかソクラテスよりも知らないかであり、なにかしら優れた点がある場合でも、それは知識があるという自惚れで帳消しになったのです。ソクラテスは何も知らないが、何も知らないことを知っています。一方、彼らはほとんど知らないか何も知らないのに、すべてを知っていると思い込んでいるのです。こうしてソクラテスは人間の見せかけの知恵を見つけるという一種の使命に人生を費やし、この仕事にのめり込み、公事からも私事からも遠ざかったのです。金持ち階級の若者たちが同じ探求を気晴らしにするようになりました。それは「楽しくないはずがない」のです。こうして激しい敵意が生まれました。知識の教師たちは彼を若者を堕落させる不埒者呼ばわりし、無神論と唯物論と詭弁術についての決まり文句を繰り返すことで、溜飲を下げました。これはあらゆる哲学者にたいして、ほかに何も言うことがなくなると、決まって言われる非難でした。

二番目の告発には、ソクラテスはメレトスへの訊問で立ち向かいます。メレトスは出廷していて、訊問ができたのです。「ソクラテスが堕落させる者なら、誰が市民を善導する者なのか。」(メノンを参照)「どこにでもいる全員がそうなのだ。」しかしこれはなんと馬鹿げていて、類推に反していることでしょう。また、ソクラテスが市民とともに生活しなければならないのに、この市民をより悪いものにするというのも、まったく思いもよらないことではないでしょうか。これは確かに故意になされたことではありえません。故意でないなら、メレトスはソクラテスを法廷に告発するのではなくて、注意すればよかったのです。

しかし告発状の別のところでは、ソクラテスはアテナイ市が認める神々を認めず、別の新しい神を信じるように教えたと言っています。「ソクラテスはそうやって若者を堕落させるつもりだったのか」「そうだ」「ソクラテスは新しい神だけを信じたのか、それとも全く神を信じなかったのか」「全く神を信じなかった」「太陽や月さえも信じなかったのか」「そうだ、彼は太陽は石で月は土くれだと言っていた」ソクラテスはこれに答えて、それは昔からあるアナクサゴラスとの混同であって、アテナイの人々はソクラテスの考えの影響がどんなものなのか、劇で見ただけ、劇場で聞いただけなので、知ってはいないと言うのです。ソクラテスはメレトスが(かなり不当にも)告発状のこの部分に謎を混ぜこんだことを明らかにしようとします。つまり「神様はいない。けれどソクラテスは神々の子が存在すると信じている。これは不合理だ。」ということなのです。

メレトスがソクラテスに十分なだけ話すと、ソクラテスはメレトスを放免し、もともとの非難に立ち返ります。尋ねられている質問は、なぜソクラテスが死に至らしめるような仕事にずっと従ったのかということです。なぜでしょうか。なぜなら彼は神が彼に課した持ち場を離れてはならなかったからです。それはポティダイアでもアンピポリスでもデリオンでも将軍たちが与えた持ち場を離れなかったのと同じことなのです。それに加えて、自分は死が良いことか悪いことか知っていると思うほど物知りではないが、義務の放棄がわるいことは確かだと思っているというのです。アニュトスが、ソクラテスを放免するつもりなら起訴すべきではないと言ったのは、全く正しいのです。というのはソクラテスが人間にではなく神に従がうのは確実ですし、またあらゆる年代のあらゆる人々に徳と身の改善を説き続けるでしょうし、また彼の言うこと聴くのを拒めば、屈せずその人を非難し続けるでしょうから。これが若者を堕落させる彼のやり方であり、たとえ千回の死が待ち構えようと、神に従ってこのことを止めようとしないのです。

ソクラテスはアテナイ市民が自分を生かしておくよう願っていますが、それは自分自身のためではなくて、アテナイ市民のためなのです。なぜなら、彼は天がアテナイ市民に送った友であり(かわりになるような人は決してみつからないでしょう)、あるいはまた、彼がおどけて言うところでは、大きな馬を動くように奮起させる虻だからです。ではなぜソクラテスは一度も公的な事柄に携わらなかったのでしょうか。なぜならいつも聞こえる神的な声が彼をそうするのを妨げたからです。もし彼が公人となり、しかも正義のために闘えば、確かに多くの人と闘うことになり、そうなれば彼は生きていなかったでしょうし、したがって善行をおこなうこともなかったでしょう。公的な事柄でソクラテスは二度公正のために命を賭けました。一度は将軍たちの審判のときですし、もう一度は三十人委員会の専制的命令に抵抗したときです。

しかし、公人ではなかったとはいえ、ソクラテスは料金も報酬もなしに市民たちに教えて日を送ったのです。それが彼の使命でした。その弟子たちが良いほうに変わろうと悪くなろうと、ソクラテスは正当には責任を負えません。というのは彼らに何かを教えると約束したことはないからです。彼らは来たければ来ればよいし、来たくなければ来なければよいです。彼らが来たのは、知恵があるふりをした人が尋問されるのを楽しいと思ったからです。もし弟子たちが堕落したら、(自身でなければ)年上の身内が法廷に立ちソクラテスに不利な証人となるのは確かでしょうし、そういう人たちは、まだ出廷する機会があったのです。しかし弟子たちの父や兄は(「この」プラトンも含めて)みんな法廷に出てソクラテス側の証人となったのです。もしその身内が堕落したにしろ、少なくともこの人たちは堕落していないのです。「なぜこの人たちは証拠をあげて私を支持するのでしょうか。みんな、私が真実を言っており、メレトスが嘘つきだと知っているからなのです。 」

ソクラテスの言うべきことは以上でほぼつきています。彼もまた「石と木」でできているわけではないのですが、審判官に助命を嘆願するつもりもなく、子供にすすり泣かせるような見世物を演じさせるつもりもありません。審判官のうちには、同じような場面でこういう振る舞いをした者がいたのかもしれませんが、ソクラテスは、彼らの先例に従わないことで自分のことを怒らないだろうと思っています。むしろソクラテスはこういう行為はアテナイの名を汚すと思っていますし、また審判官は正義を裏切らないと誓っており、自分自身が不敬の廉で裁判にかけられているのに、この誓いを破るよう審判官に頼むという不敬な行為を犯すことはできないと思っているのです。

ソクラテスが予期したように、またおそらく望んだとおり、彼は有罪となりました。ここでその弁舌の調子は、懐柔的なものにかわって、高遠で堂々としたものになります。アニュトスは死刑を提案しましたが、ソクラテスはどんな反対提案をするのでしょうか。それは次のようなことでした。ソクラテスは、自分はアテナイの人々に全生涯をかけて善をおこなった恩人であって、少なくともオリンピア祭の勝者の褒美である貴賓館でのもてなしを受けるべきなのだ。そうでないのなら、アニュトスの提案する死が禍福いずれかわからないのに、なぜなにか刑の反対提案をしなければならないか。投獄が禍であり、追放が禍であることは確かである。お金を失うのは禍だろうが、ソクラテスには出すものが無い。おそらく1ムナなら何とかなるだろう。それで1ムナか、友人たちがそうしてくれるなら30ムナの罰金刑にしよう、というのは友人たちはりっぱな保証人になるのだからと、言ったのです。

(ソクラテスは死刑判決を受けます。)

ソクラテスは既に老人であり、アテナイ人がその命を数年短くしても、彼らは不面目以外に得るところはありません。おそらくソクラテスが武器を捨て命乞いをすることを選んでいれば、助かったことでしょう。しかしソクラテスは自分の弁護のやり方を後悔したりはしません。彼は他の市民の流儀で生きるよりも、自分の流儀で死ぬほうを望んだのです。というのは不正義の罰は死よりもすばやく、まもなく彼が死のうとするときには、もうすでにその告発者の上に襲いかかっているのですから。

さて、ソクラテスは、死に臨む者として、アテナイ人たちに予言をします。彼らは自分たちの人生を考慮することから逃れるためにソクラテスを死刑にしたのです。しかし自分の死が「種子となって」、多くの弟子たちがアテナイ市民は不道徳な生活を送っていると確信し、弟子たちのほうが若くて思いやりがないので、もっと厳しい言葉で彼らを非難するようになるというのです。

ソクラテスは、時間のある間、自分を無罪にしようとした人たちに、もう少し話しをしようとします。かれは神的徴が自分の弁護の途中で邪魔立てしなかったことを知っておいて欲しかったのです。その理由は、彼の推測では、彼が赴こうとしている死が彼にとって良いことであって、悪いことではないからなのです。というのは、死は長い眠り、最上の眠りであるか、死者の魂が集う別の世界、その世界では昔の英雄たちに合える希望があり、そこには本当の審判官もおり、みんながもう死ぬことの無い世界への旅であるかの、どちらかだからです。彼の意見ではだれも死ぬことを恐れなくてよいのです。

善良な人には、生きているときも死んだ後も、悪いことは起こらないのですし、彼自身の死は神様がお許しになったことなのです。なぜなら、彼にとってはこの世を去るほうが良いからなのです。だから、審判官は彼になにか良いことをするつもりはないのでしょうが、なんの害を加えたわけでもないので、彼は審判官を赦すのです。

ソクラテスは最後に、自分の息子たちが徳よりも富やその他のことを優先したり、本当はなに者でもないのに、ひとかどの者であるようなふりをするなら、息子たちを罰し、私がみなさんを悩ませたように悩ませて欲しいと、要望するのです。


「ソクラテスが自分の弁護を違うようにやったらどうであったかということを知りたい人たちもいる。」ただこれには、ソクラテスの弁護がプラトンの言うようなものであったとして、ということを付け加えておかなくてはならなりませんが。この疑問には正しい解答はありえませんから、それは置いておくことにして、プラトンが『弁明』で、最後の偉大な場面でのその師の性格や行為にどんな印象を与えようと意図したかという疑問に進みましょう。プラトンはソクラテスを、(1)詭弁を駆使する人物として表そうと意図したのでしょうか、それとも(2)故意に審判官をいらださせる人物としてなのでしょうか。あるいは、こういった詭弁術は、ソクラテスの生きていた時代の風潮に帰するものでしょうか、それともソクラテスの個人的性格に帰するものでしょうか、この見かけの傲慢さはその地位を当然ながら持ち上げたことの帰結なのでしょうか。

たとえば、一人の人間が若者を堕落させる者で、世の中の残り全員が善導者であるという仮定は馬鹿げているとソクラテスが言うとき、あるいは一緒に暮らしている人を堕落させることは決してありえないと彼が議論するとき、あるいは神々の子供を信じているから神々を信じていると証明するとき、ソクラテスは真面目なのでしょうか、ふざけているのでしょうか。こういう詭弁術はメレトスに対する尋問ときに現れていることに気づきますが、メレトスは偉大な対話術の手の中で、簡単に煙にまかれ、いいように扱われています。おそらくソクラテスはその告発者は十分説得力を持つものと見なしていますが、ソクラテスは告発者を軽んじているのです。またその中にはアイロニーが多少含まれており、そのことがその弁論を詭弁術という範疇に入らないようにしているのです。(『エウテュプロン』参照)

ソクラテスが自分の弟子たちの生活について自分を弁護しているやり方は満足のいくものではないということは、否定しがたいものがあります。アルキビアデス、クリティアス、カルミデスという名は、アテナイ市民の記憶には新しく、新たに復活した民主制では当然のように嫌われていました。ソクラテスは彼らに何か教えると言明したことはない、だから彼らの罪について責められるのは不当だというのでは、明らかに十分な答えと言えません。しかし弁護がこのアイロニー的形式を取ると、彼の教えはその悪い生活のままでよいということでは全くないという、確かに穏当なものとなります。ここでは詭弁術は実質的なものというより、形式的なものとなっています。とはいえ、このように重大な問責にはソクラテスはもっと真面目に答えていればとは思うのですが。

実のところ、ソクラテスの特徴は彼の答えの別の点にありますが、その点でもまた彼は詭弁的だと見なされているのです。彼は「若者を堕落させたのなら、それはそうするつもりがなくて堕落させたにちがいない」と言います。しかし、もし彼の議論通りあらゆる悪事がそのつもりがないのだとすると、あらゆる犯罪は諭されるべきで、罰するべきではないということになります。この言葉では、明らかに悪事の不本意性というソクラテスの教説が示唆されるよう意図されているのです。ここではまた、前の例と同じように、ソクラテスの弁護は実際上は正しくないけれど、イデア的あるいは超越的意味では正しいかもしれないのです。もしソクラテスが若者を堕落させた廉で有罪なら、その身内の者が彼に対抗する証人になったにちがいないという、ありふれた返答のほうがずっと満足いくものです。

もう一度、ソクラテスが自分は神々の子を信じているのだから神々を信じていると議論したことに立ち返ると、この論駁が、「ソクラテスは国家の認めた神を信じず、別の新しい心霊を信じている」という十分首尾一貫したもともとの告発状に対するものでなく、ソクラテスが正真正銘の無神論者だと断じたメレトスが述べた解釈に対するものであることを、思い出さなければなりません。これに対してソクラテスは、当時の観念にしたがって、正真正銘の無神論者は神々の子や心霊的存在を信じることはできないと、まともに答えています。デーモンや下位の心霊が神々の子であるという考えはアイロニー的だとか詭弁的だとは思われません。ソクラテスはその時代の神話の概念にしたがって「感情に訴えて」議論しているのです。しかしソクラテスは国家の承認した神々を信仰していると言うのを控えています。ソクラテスは、クセノフォンが彼を弁護したように、その宗教的な活動に訴えることで、自分を弁護しようとはしていないのです。おそらく彼は一般的な神々を完全に信じていないかまるで信じていなのはないでしょうか。かれは神々について知る手段をなんら持っていないのです。クセノフォンだけでなく(『思い出』)プラトンによっても(『パイドン』、『饗宴』を参照)、ソクラテスは最低限の宗教的義務の実践には几帳面でした。それに自分の神託の徴を信じていたはずです。その徴は彼の内面的な証であったと思われます。しかし国家が承認したアポロンとかゼウスとかその他諸々の神々の存在は、彼には自己検証の義務や、宗教の基礎と思っている真実とか正義といった原理に比べれば、不確かでしかも取るに足りないものに思われたのです。(『パイドロス』『エウテュプロン』『共和国』を参照)

プラトンがソクラテスを審判官をものともしない、あるいはいらつかせるような人物として表現するつもりであったかどうかという、第二の疑問の答えもまた否定的です。「外見上ははそうは見えないが」彼のアイロニー、彼の卓越性、彼の豪胆さは、彼の置かれた状況の高遠さから必然的に生じたものです。彼は偉大な場面で役を演じているのではなくて、その全生涯を通じてそうであったもの、つまり「人々の王」であるのです。彼がそれを避けることができていれば(ouch os authadizomenos touto lego)、むしろ傲慢には見えなかったでしょう。彼は自分の終焉を早めようと臨んでいたわけではないのです。というのは生と死は彼には単に区別のないものでしかなかったからです。しかし、審判官に受け入れられ、無罪放免を苦労して勝ち取るような弁護は、ソクラテスの本性からできないことでした。彼は審理の方向を誤らせるようなことは何ひとつ言ったりしたりしないでしょう。「死の渕にたたされて」さえ彼は自分の舌を縛りつけておくことはできません。彼は、生涯を通じてその詭弁術によってソフィストに応酬しながら、他の「若者の善導者」を受け流してきたのと同じように、自分の告発者を受け流し、もてあそぶだけです。自分の使命について語るとき、彼はまじめです。この使命は彼を他の人類の改革者から区別するものに思われますが、それはまた偶然に始まったものなのです。仲間の市民の善導に彼が献身したことは、彼が神託の評判を擁護して、また自分より知恵のある人を見つけ出すという空しい希望を抱きながら、それだけのために善行に励んだというアイロニー精神ほどには、目立つものではありません。しかし、彼の使命のこの珍奇でほとんど偶然ともいえる性格は、私たちの観念では、同じように偶然的で不合理な心霊的徴とよく呼応していますが、それにもかかわらず、彼はそれを自分の人生を導く原理として受け入れるのです。ソクラテスが自由思想家とか懐疑論者であると私たちに思わせるところはどこにもありません。彼があの世でトロイア戦争の英雄たちと出会い知り合う可能性について思い巡らすとき、彼の誠実さに疑念をはさむ理由はまるでありません。一方、不死という彼の願望は確実なものではありません。彼はまた死を長い眠りだとも考えており(この点は、パイドンと異なるところです)、少なくとも、神的意志を甘受し、生きているときも死んでからも善人には悪いことはおこらないと確信することに立ち戻っています。彼の絶対的誠実さは、これ以上積極的に断言することを妨げるのです。そして彼は神話や比喩表現についての無知を隠そうとはしませんでした。弁論の最初の部分の穏やかさは、結末の苛立たせるような、ほとんど脅すような調子とは、対照的です。彼はその性格上、修辞家としては話さない、すなわち、リュシアスや他の弁論家が彼のために用意するような、あるいは、いくつかの記述によれば用意した、型通りの弁護はしないという断りを言っています。しかしまず彼は懐柔の言葉で言い分を聞いてもらおうとします。彼はソフィストを攻撃しません。というのは、ソフィストは彼自身と同じ非難を受けているからです。彼らは同じように喜劇作家から嘲笑されており、ほとんど同じようにアニュトスとメレトスに憎まれていたのです。しかし偶然、ソクラテスとソフィストとの対立が明らかになります。ソクラテスは貧しくソフィストは金持ちです。ソクラテスが何も教えないという言明しているのは、ソフィストがあらゆることを教える用意があるというのとは正反対です。ソクラテスが市場で話すのたいして、ソフィストは私的に教授します。ソクラテスは母国に留まり続けるのに、ソフィストは都市から都市へと渡り歩きます。ソクラテスがソフィストにたいしてとる調子は、本当に親しげですが、またこっそりアイロニーが仕込んであります。アナクサゴラスは心や自然を学びたいというソクラテスの望みを挫くものでしたが、そのアナクサゴラスに対してはあまり親しげな感情を示していません。別の箇所(『法律』)を見るとプラトンの感情もそうなのでした。しかしアナクサゴラスは三十年も前に死んでおり、迫害の手は及ばないものとなっていたのです。

新しい世代の教師がもっと耳障りで激しい言葉でアテナイの人々を責めたり勧めたりするようになるだろうという予言は、私たちの知る限り、決して成就しなかったことが注意を引きつけてきました。ソクラテスに帰されるこの言葉が実際に話されたかどうかという確からしさについては、この状況からはいかなる推定も引き出せません。それには、哲学の最初の殉教者の、自分の後に多くの信奉者を残したいという熱望が、彼らが自分の統制から解き放たれたときは、言葉づかいでもっと猛々しく遠慮が無いだろうという、不自然とは言えない感情を込めて、表されているのです。

以上の注釈は、どの程度であれ確実なのは、プラトンのソクラテスだけに当てはめるべきだということを、理解しておかなければなりません。というのは、ソクラテスがこんなようなことを話したとしても、それが、たとえばクリティアスの知恵やソロンの詩やカルミデスの徳といったものと同じく、プラトンの想像によるものだという可能性を排除できないからです。『弁明』が裁判の最中に作られたと主張する人たちの議論は、何の証拠にも基づいておらず、まともな論駁も求めてはいないのです。プラトン風の弁護はソクラテスの言葉の正確な、ないしほとんど正確な再現である、なぜなら一部分はプラトンはその言葉を変えるような不敬の罪を犯さなかったからだし、また結局のところ、弁護の多くの点が改善され強められたのだから(英訳を見よ)、というシュライエルマッヘルの推理も同じです。ソクラテスの死がプラトンの心にどんな影響をあたえたか、私たちははっきりと断定できませんし、また彼がどんな状況で『弁明』を書こうと思い、あるいは書かなければならなかったのかを言うこともできません。よく見れば、アリストファネスがソクラテスに敵意を抱いているからといって、プラトンが彼らを親しい交際に加わるよう饗宴に招待することの妨げとはなりませんでした。また対話篇のなかには、アニュトスとメレトスを、アテナイの公衆の目に個人的に憎むべき者と映るようにする試みの痕跡も見つからないのです。


ソクラテスの弁明

アテナイの人々よ、みなさんが私の告発者にどれほど心を動かされたか、私にはわかりませんが、私には自分が誰であるかほとんど忘れさせてしまうものでした。それほどに、あの人たちは説得力のある話をしたのです。しかしほんとうのことはどうみても言っていないのです。あの人たちの話した嘘の中でも、次の嘘には全くびっくりしました。つまり、私の雄弁の力に用心し、だまされないようにと、みなさんに言ったことです。私が口を開き、私がたいした弁舌家でないことを示してしまえばすぐに嘘だと見破られてしまうのに、こんなことを言うなんて、私にはほんとうに大恥知らずだとしか思えません。もっとも、あの人たちが、雄弁の力を真実の力という意味で使っていなければのことですが。というのは、あの人たちがそういう意味で使っているのなら、私は自分が雄弁であると認めるからです。しかし同じ雄弁といいながら、あの人たちのとは、なんと違う流儀でしょうか。さて、私の言うように、あの人たちはほとんど真実を話してはいないのです。そうではなくて、みなさんは私からすべての真実を聞くことになるでしょう。とはいえ、あの人たちの流儀にしたがった、美辞麗句で飾りたてた型どおりの語り口で述べるわけではありません。神にかけて、そうではありません。私はこの瞬間に心に浮かぶ言葉と議論とを使おうと思います。というのは、私は自分の主張が正当だと確信している(あるいは、私はこのやり方をとるのが正しいと信じる)からなのです。私のような歳恰好の人間が、アテナイの人々よ、みなさんの前に若い弁舌家のような役回りで現れるのはふさわしからぬことです。さようなことを期待めさるな。だが、次のことを御容赦願いたいと思います。私がいつもの態度で我が身の弁護を行い、私が常日ごろ広場や両替商の店先やあるいはその他どこででも使っている言葉でしゃべるのをお聞きになっても、それに驚かれぬよう、またそのことで私を妨げたりされぬよう、願いたいのです。私は70歳をこえており、法廷に立つのは初めてなのですから、この場の言葉にはまったく慣れていません。ですから、私をまるっきりのよそ者と見なしてください。そういうよそ者がお国なまりで、故郷のやり方で話したとしても、みなさんは咎めだてなさらぬでしょうから。私はみなさんに不公平な要求をしているのではありますまい。態度の良し悪しは気にされず、我が言葉の真実のみを考慮されますよう。また、話し手が偽りなく語り、判決が正しくなされることを、お気に留められますよう。

まず最初は、古くからある非難と私の最初の非難人に応えておかなければなりません。その後で最近の告発に向かうとしましょう。古い非難については、たくさんの非難人がおりますが、その人たちは長年にわたって私にたいして虚偽の非難をしてきたのです。私はアニュトスとその一党よりこの人たちのほうが恐ろしいのです。アニュトス一党もそれなりに危険ではありますが。しかし、古くからの非難人のほうがずうっと危険です。この人たちは、みなさんが子供の頃に活動を始め、次のように言って、自分たちの嘘をみなさんに信じこませたのです。すなわち、ここにソクラテスなる賢者がいて、天上に思いを馳せ、地下を探り、悪しき企てを良きものと思わせていると。この話をまき散らしたのが、私の恐れる非難人たちなのです。というのも、その話を聞けば、このような探究をなす者は神々の存在を信じないと想像してしまいがちだからです。それにこういう非難人たちは数多く、私にたいして非難を言い立てたのも古くからであり、みなさんが今よりずっと感じやすかった、子供時代や青年期にそういう非難がなされたのです。しかも、誰もそれに答えてくれる人がないので、聞いたときには欠席裁判状態なのです。なかでも大変なのは、たまたま喜劇作家の名を知ったほかは、私は我が非難人の名前を知らず、言うことができないことなのです。嫉妬と悪意からみなさんを説き伏せてきた人々、そのうちの何人かはすでに自らそうだと思いこんでいるのですが、こういう手合の人々の取り扱いが非常に難しいのです。というのは、法廷に訴えることもできず、反対訊問をすることもできず、だから私は我が身の弁護にあたって影と闘うしかなく、誰も答えてくれない議論をするしかないのですから。そこで、みなさんも私とともに、私が言うように、私の敵対者には、最近の敵対者と古くからの敵対者の二種類あるということを認めてくださるようお願いします。またみなさんが、私が古くからの敵対者にまず答えようとするのが妥当だと認めて欲しいのです。というのは、みなさんは、これらの非難のほうを最近のものより長い間、しかも数多く聞いてきたのですから。

さて、それでは私は自分の弁護をし、短時間で長く続いてきた中傷を一掃するべく努めなければなりません。成功することが私にもみなさんにもためになり、あるいはおそらく私の裁判で私の有利にはたらくなら、成功しますように。この課題はたやすいことではありません。私はことの本質をよくわきまえております。そこで、事の成り行きを神に委ね、法にしたがって、今から我が身の弁護を行います。

ことの発端から始め、私の中傷を引き起こした非難が何であったかを問うてみましょう。そして実際、この非難に励まされ、メレトスは私に対する罪科を証明しようとしたのです。さて、中傷者たちは何と言ったのでしょうか。この人たちが私の起訴者であればと考えて、その訴状の言葉を要約してみましょう。「ソクラテスは悪事を働くもので、好奇心の強い者であり、地下や天上の事物を探り、悪しき企てを良き企てと見せかけている。そして前述した教義を他の者たちに教えこんでいるのである」と。こういうことが非難の本質なのです。それはみなさんがアリストファネスの喜劇(アリストファネス『雲』)でご覧になったものにほかなりません。アリストファネスはソクラテスなる人物を登場させ、歩き回らせては、空中を歩くと言わせているのです。そして私が多少なりとも知るはずもない事物についての馬鹿話を語らせるのです。もとより私には自然哲学の研究者をおとしめようというつもりはありませんが。もしメレトスが私に対する罪科をかくも重大なものとするなら、非常に遺憾に思うのです。しかし、アテナイの人々よ、私は自然についての思索にかかわったことなどまるでないというのが、まったくの真実なのです。ここにいる多くの人が、このことが真実であることの証人です。私はその人たちに訴えましょう。それでは、私が話しているのを聞いたことがある方は話してください。そしてお隣に、私がそういった事柄を多少なりともしゃべっているのを聞いたことがあるかどうかを言ってください。みなさんはその答えを聞きましたね。それでは、罪科のこの部分についての話から、残りの部分が真実かどうか判断できるでしょう。

私が教師で、お金をとっているという報告についても、ほとんど根拠のないことなので、他の非難と同様真実ではありません。けれども、もしほんとうに人間に教えることができ、教育を授けたことでお金を受け取ることができるのなら、私の意見では、それは名誉なことだと思います。そういう人には、レオンティウムのゴルギアスとかケオスのプロディコスとかエリスのヒッピアスとかがいますが、この人たちは都市をわたり歩き、若者を説き伏せて、無償で教えてくれる自分たちの町の市民のもとをはなれて、自分たちの所に来て、お金を払わせるばかりか、お金を払わせてもらえることに感謝までさせることができるのです。このごろ、パリア人の哲学者がアテナイに住んでいます。私はその人のことを耳にしました。私がその噂を耳にしたのは次のようなわけです。私はソフィストに多額のお金を使ったという人物、ヒッポニコスの息子のカリアスに出会いました。彼には息子がいるのを知っておりましたので、彼にたずねました。「カリアスさん、あなたの息子さんが子馬か子牛だったら、息子さんを仕込む人を見つけるのは難しくないでしょうね。たぶん馬の調教師か農夫を雇えばいいのですから。その人たちが本来の長所や美点を改善し完全なものにするでしょうから。でも息子さんは人間なのですから、誰をつけようとお考えですか。だれか人間の、また市民の徳目を理解している人がいるでしょうか。あなたには息子がおありだから、そうしたことをお考えになったにちがいない。だれかいるんでしょうかね。」「いますとも。」とカリアスは言いました。「どなたでしょうか。」と私はいいました。「どこの国の人ですか。お代はいかほどですか。」「パリア人のエヴェノスさんですよ。」とカリアスは答えました。「その人がそういう人物ですよ。お代は5ミナです。」もしほんとうにこういう知恵があり、こういう手ごろな代価で教えるのなら、エヴェノスは幸せ者だと、私は一人ごちしました。私が同じような才覚があれば、私はとても自慢に思い、うぬぼれたことでしょう。しかし真実は私はそんなような知識は持ち合わせていないのです。

アテナイの人々よ、おそらくみなさんの中には次のように言い返す人がいることでしょう。「それなら、ソクラテスさん、あなたに対して持ち出されたこういう非難のもとは何なのでしょうね。何か変わったことをしてきたに違いありません。あなたに関するこういう噂や風評は、あなたがみんなと同じにしていたら、立つはずがないですよ。その原因がなんなのか言ってごらんなさい。というのは、あわててあなたに判決を下すのは気の毒だと思っているのだから。」さて、これはもっともな要求だと思います。それで、私が博識だといわれたり、こんな悪評が立ったりした理由を説明するよう努めましょう。それでは、どうかお付き合い願いましょう。みなさんの中には私が冗談を言ってると思われる方がおられるかもしれませんが、私はもっぱら真実だけをお話すると宣言します。アテナイの人々よ、私の評判は私がもっているある種の知恵から生じたのです。どんな知恵なのかとおたずねなら、普通の人間ならおそらく持っているような知恵だと、お答えしましょう。というのは、その程度なら私は知恵があると信じられると思いますから。一方、私が言っている人は、超人的な知恵をもっているのです。こういう知恵を私はうまく言い表すことができません。なぜなら、私はそんな知恵を持ってはいないからです。私がそんな知恵を持っているという人は嘘をついており、私の品格を傷つけようとしているのです。そこで、アテナイの人々よ、たとえ私がなにか仰々しいことを言っていると思っても、どうか邪魔をしないでください。というのは、私が話そうとしているのは、自分のことではないのですから。私はみなさんに信用するにたる証人のことを言おうしているのです。その証人とはデルフォイの神です。もし私になにか知恵があるとしたら、この神が私の知恵のことを、それがどんな種類のものかを、みなさんに告げてくださるでしょう。みなさんはカイレフォンをご存じでしょう。私の古くからの友人ですが、みなさんの友人でもありました。というのは、彼は最近の民衆党の亡命に加わっていて、みなさんとともに帰国してきたのですから。さて、カイレフォンは、ご存じの通り、なにをやるにも衝動的ですが、デルフォイにおもむき、大胆にも次のような質問に答える神託を求めたのです。言いましたように、どうか邪魔をしないでくださいね。彼は私よりも知恵ある人がだれかいるかどうかを教えてくれる神託を求めたのです。するとデルフォイの巫女はもっと知恵ある者はだれもいないと答えたのでした。カイレフォン自身は亡くなっていますが、彼の弟がこの法廷に来ていますから、私の言ったことが真実だと保証してくれるでしょう。

私はなぜこんなことを言っているのでしょうか。みなさんになぜ私がこんな悪評をたてられたか説明するためです。このお告げを聞いたとき、私は自分に問いました。神様は何を言おうとしているのだろうか、その謎をどう解釈すればよいのだろうかと。というのは、私は自分が多少にかかわらず知恵がないことを知っているからです。では、神様は私が一番知恵のある人間だと言ったとき、何を言おうとしていたのでしょうか。しかし神様なのですから、嘘をつくことはありえません。嘘をつくことは神の本性に反するからです。長いこと考え抜いた末に、私は質問をしてみるという方法を思いつきました。もし私より知恵のある人を見つけ出せれば、反証をもって神様のところへ行こうと考えたのです。神様に「ここに私よりも知恵のある人間がいます。神様は私が一番知恵があるといったのに。」と言うつもりだったのです。こうして私は知恵で評判の人のところへ行き、その人を子細に眺めたのです。その人の名をあげる必要はないでしょう。私が検証に選んだのは政治家でした。そして結果は次のようなものでした。この人は多くの人から知恵があると思われ、自分ではずっと賢いと思っていたのでしたが、それにもかかわらず、私はこの人と話し始めると、ほんとうはこの人は賢くはないと考えざるをえなくなりました。それで、私はその人に、自分では賢いと思っているが、ほんとうは賢くないのだと、説明しようとしました。その結果、その人は私のことを憎むようになり、そこに同席し私のことを聞いていた数名の人も同じ憎しみを抱いたのです。そうして私はその人のもとを去ったのですが、立ち去りながら、こう一人ごちしました。さて、私たちのどちらかがほんとうに美しく善なるものを知っているとは思えないが、私のほうが彼よりはまだましである。というのは、彼は何にも知らないのに知っていると思っているが、私は何も知らないが知っているとも思っていないのだからと。この後の方の点で、私はその人より少しばかり優れていると思えるのです。それから、もっとずっと知恵者を自負する人のところへ行きましたが、結果は全く同じでした。それ以来、私はその人とその大勢の取り巻きの敵の一人となったのです。

こうして私は次から次へと訪ねまわったのですが、私が引き起こした敵意に気づかないわけはなく、そのことを悲しみ恐れたのでした。しかし私はそうせざるえなかったのです。神様の言葉をまず第一に考えなければならないと、私は考えたのです。それで私は自分に言って聞かせたのです。知っていると思われる全ての人のところへ行かなければならぬ、そして神託の意味するところを見つけねばならぬと。アテナイの人々よ、私は誓って言いますが、というのは私はみなさんに真実を話さなければならないのですから、私の任務の結果は次のようなものでした。つまり名声のある人のほとんどが馬鹿者で、それほどの評判でない人のほうがほんとうは知恵があり、ましであることが判ったのです。私の放浪の旅と「ヘラクレス並みの」労苦を語りましょう。私はこの任務をそう呼んでいるのですが、私は辛抱したあげくに結局は神託を反駁できないことがわかったのです。政治家の次には、詩人たち、悲劇詩人や酒神讃歌詩人やあらゆる種類の詩人のもとを訪れました。そこで私は自分に言い聞かせました。お前はすぐに正体を見破られ、この人たちより無知だということがわかるだろうと。それで、私は詩人たちにその作品中でもっとも入念に仕上げた詩句のいくつかをとりあげ、それがどういう意味か尋ねてみました。詩人たちが私に何か教えてくれるだろうと思ったのです。信じられますか。私は真実を告げるのがほとんど恥ずかしいくらいですが、自分のことを話すほどには自分の詩について語る人はまるでいなかったと、言わなければなりません。そこで私は詩人が詩を書くのは、知恵によってではなく、一種の天賦の才と霊感によるのだとわかったのです。詩人というのは、素晴しいことを言うけれど、その意味を理解しない予言者や占い師に似ているのです。私には詩人も同じだと思えたのです。よくよく観察してみると、詩人はその詩の力にもとづいて、自分たちが知恵があるわけではない他のことでも、最も知恵がある人間だと信じているのでした。そこで私は立ち去ったのですが、自分が政治家より優れているのと同じ理由で、詩人より優れていると思ったのでした。

最後には、私は職人を訪ねました。私は、言ったように、自分が何も知らないと自覚しておりますが、職人たちは多くの素晴しいことを知っているだろう確信していたのです。そして私はまちがっておりませんでした。というのは職人は私の知らないようなことをたくさん知っており、この点では、職人は私よりも確かに賢かったのですから。しかしよく見ると、優れた職人でさえ詩人と同じ過ちにおちいっており、自分が優れた職人だというので、ありとあらゆる重要事項も知っていると思っているのです。そしてこの欠点はその知恵を曇らせているのです。そこで私は神託のために、我が身に問うてみたのです。今の私のまま、彼らの知識も無知も持ち合わせないままのほうがよいか、それとも彼らのように知識と無知をあわせ持つほうがよいのかと。そして私は自分にも神託にも、今のままでいる方が賢明だという答えを出したのです。

この調査によって、私は最悪の危険きわまりない敵をたくさん持つにいたり、多くの中傷を被ることにもなりました。そして私は知恵があると言われるようにもなったのです。というのは、私のことを聞いていた人たちはいつも、私が他の人に探し求めている知恵を私自身が持っていると思ってしまうからなのです。しかし真実は、アテナイの人々よ、神様だけが知恵があるのです。そして神様の答えは、人間の知恵などほとんど価値がないかまるで無価値だということを示そうと言う意図であったのです。神様はソクラテスのことを言っているのではないのです。神様は説明するために私の名前を使っているだけで、あたかも、人間よ、ソクラテスの如く、自らの知恵が実は無価値だと知っている者が最も知恵あるものだと言っているようなものなのです。そこで、私は神様にしたがって、世の中を歩き回って、アテナイ市民であれよそ者であれ、知恵があると思われる者をだれかれなしに探してはその知恵を詮索し、もしその者が知恵がなければ、神託の正当を示すために、その者に知恵がないことを示しているのです。私はこの仕事にすっかり没頭し、公的重要事にも私事にも割く時間がなく、神様への奉仕のために極貧のうちにあるのです。

その他、次のようなこともあります。金持ち階級の若者たちが、さしてやることもないまま、自発的に私のもとに集まって、智恵者のふりをした人が試されるのを聞きたがり、しばしば私の真似をして、他の人たちを試し始めたのです。なにか知っていると思っているが、その実は、ほとんど知らないかまるで知らないということを、この若者たちにたちまち見破られた人は多数にのぼり、若者に試された人たちは、若者に怒るかわりに、私に怒ったのです。このいまいましいソクラテスめと、この人たちは言うのです。この若者を惑わす不埒者めと。そこで誰かがこの人たちに、なぜなのか、ソクラテスがどんな悪いことをしたり、教えたりしたのかと聞いても、この人たちは知らないので、言うことができないのです。しかし、困ったとは思われたくないので、雲の中だの地下だのの事物を教え、神を持たず、悪しき企てを良き企てに見せかけているという、あらゆる哲学者に対して使われてきた出来合いの非難を繰り返すのです。というのはこの人たちは、自分たちの見せかけの知識が見破られたとは言いたくないからなのです。それが真実なのです。この人たちは数も多く、野心的で、活力もあり、戦列を組み、説得力のある舌を持っているのですから、みなさんの耳はその大声で執念深く繰り返される中傷でいっぱいになっているのです。そしてこれが我が三人の告発者メレトス、アニュトス、リュコンが私を攻撃している理由なのです。メレトスは詩人を代表して、アニュトスは職人と政治家を代表して、リュコンは修辞家を代表して、私と反目しているのです。そして、私が最初に言ったように、私はこの一団となった中傷を一時に免れようとは思えません。これが、アテナイの人々よ、真実、まったくの真実なのです。私は何も隠し立てしていませんし、そらとぼけてもいません。ただわかっているのは、私の話し方が率直だったので、あの人たちが私を憎むようになったということです。あの人たちの憎悪こそが私が真実を話しているなによりの証拠ではありませんか。こうして私に対する偏見がうまれたのです。これがその理由なのです。そのことは、現在の調査か将来の調査かどちらにせよ、みなさんお分かりになることでしょう。

最初の種類の非難人には充分我が身の弁護を述べてきました。次に二番目の種類の告発者に移りましょう。その筆頭はメレトスですが、彼は自分で言う通り、善意の人で母国を真に愛する人です。これらの告発者に対しても、弁護を試みなければなりません。その訴状を読んでみましょう。その内容は次のようなものです。ソクラテスは悪事をなす者で、若者を堕落させ、国家の神々を信じず、自らの何か他の新しい心霊を奉じていると。罪状は以上のとおりですが、さて個々の論点を検証してみましょう。メレトスは、私が悪事をなす者で、若者を堕落させていると言います。だが。アテナイの人々よ、メレトスが悪事をなす者なのです。彼は真面目なふりをして、悪ふざけを行うばかりで、本当はわずかの関心すらない事柄に熱心さと関心を装っては、人を裁判にかけることに熱心なのです。それでは、このことが真実だということを、みなさんに証明することに努めましょう。

ここに出てきてください、メレトスさん。そしてひとつ質問させてください。あなたは、若者の善導ということに大いに気に掛けておいでですね。

そうですとも。

では、審判官たちに、だれが若者の善導者か言ってください。あなたはご存じにちがいないでしょうから。あなたは、せっせと若者を堕落させる輩を探すことに精を出し、審判官の前に私を召喚し告発したほどですものね。それでは審判官に若者を善導するのはだれか言ってください。メレトスさん、黙りこくって、何にも言うことがないみたいですね。でもそれは、かなり不面目なことではないですか。私が言ったこと、つまりあなたはこの問題にまるで関心がないってことの、かなりはっきりした証拠ではありませんか。友よ、遠慮なくおっしゃってくださいな。若者を善導するのは誰なのか教えてくださいな。

法律ですよ。

いや、それは私の言わんとしているのとは違いますよ、先生。私の知りたいのは人なんですよ。そもそも誰が法律に通じているのですか。

ソクラテスさん、それは法廷におられる審判官のみなさんですね。

メレトスさん、おっしゃりたいのは、この人たちが若者を教育し善導できるということですね。

そのとおり。

全員がですか、それとも何人かはできるけれどその他はできないのでしょうか。

全員です。

ヘラの女神にかけて、これは良い知らせだ。では、善導者はたくさんいるのですね。聴衆のみなさんはどうでしょうか。この人たちも善導するのですか。

そうです。

元老院議員はどうですか。

ええ、元老院議員も若者を善導します。

しかし、民会の議員は若者を堕落させるのでは。それとも民会議員も若者を善導するのですか。

善導します。

では、すべてのアテナイ人が若者を善導し高潔にするのですね。私を除く全員が、私だけが若者を堕落させると、こう断言するのですね。

私ははっきりそうだと断言します。

あなたが正しいなら、私はとても不幸ですよね。だが、ここであなたにひとつ質問をしたとしましょう。馬のことだとしましょうか。一人の人間が馬に危害を加えるけれど、他の人はみんな馬によくしてやるとしましょうか。それは事実とは正反対ではありませんか。馬によくしてやれるのは一人だけ、あるいは少なくとも大勢ではないですよね。言ってみれば、馬の調教師だけが馬によくしてやれるのであって、馬に付き合わなくてはならない他の人はむしろ馬を痛めつけるのではないでしょうか。メレトスさん、馬についてはそれが事実ではありませんか。あるいは他の動物についてもそうですよね。あなたやアニュトスさんが同意するしないにかかわらず、それはほとんど確かですよね。堕落させるのはただ一人、世の中の残りみんなが善導者なら、若者の状況はほんとに幸せなことです。しかし、メレトスさん、あなたは若者についてなんにも考えていないことを、十分明らかにしてしまったのですよ。あなたの無頓着さは、あなたが私に対して持ち出したまさにその事柄を気にかけていないということで、見てとれます。

さて、メレトスさん、もうひとつ質問しましょう。ゼウスにかけて、質問するのですが。悪い市民の間で暮らすのと、良い市民の間で暮らすのでは、どちらがよいでしょうか。友よ、答えてください。質問には簡単に答えられるでしょう。良い市民は隣人によくしないでしょうか、悪い市民は隣人に悪事をなすのでは。

確かにそうですね。

それで、周囲に住んでいる人から益をうけるより害をうけるほうがいいと思うような人がだれかいるでしょうか。答えてください。我が良き友よ。法律があなたに答えることを求めているのですよ。だれか害をうけたい人がいますか。

ないに決まってますよ。

それで、あなたが若者を堕落させ、悪化させているということで、私を告発したとき、あなたは私が若者を堕落させているのは、故意にだとと言ったのですか、それともそういう意図はなくてと言ったのですか。

故意にだと、私は言ったのです。

けれど、あなたは良き市民は隣人に良くし、悪い市民は隣人に悪事をなすと認めたばかりです。さて、あなたの優れた知恵はその若さで認められており、私といえば、この歳で、自分のそばの人間を堕落させれば、その人に危害を加えられやもしれぬことに気づかず、私も別の人間もあなたに説得されそうなものなのに、まだ私はその人を堕落させ、しかも、あなたの言うところでは、故意に堕落させるという、無知蒙昧のうちにあるというのが、真相なのでしょうか。そうではなくて、私は彼らを堕落させていないか、故意にではなく堕落させているか、のどちらかです。どちらの場合でも、あなたは嘘をついているのです。私の違反が意図的でないなら、法律は意図せざる違反を知るところではありません。あなたは私的に私を呼び、警告し注意すべきではないでしょうか。というのは、私は良い忠告を受ければ、意図せずにしてしまったことをやめるでしょうから。やめることは、疑いもありません。しかし、あなたは私には何も言わず、教えることを拒んだのです。そして今、あなたは教えの場ではなく、処罰の場であるこの法廷に、私を引き出したのです。

アテナイの人々よ、私が言ったように、メレトスさんは多かれ少なかれ事態になんの注意も払わなかったのは、みなさんには明々白々でしょう。しかし私はまだ知りたいのですよ、メレトスさん、私がどんふうに若者を堕落させたと断言されているかをね。あなたの告発状から察すると、私が若者に、国家が認める神々を認めず、それに代わって、何か他の新しい心霊というか霊的主体を認めるよう教え込んだと、言いたいのでしょう。これが私が若者を堕落させた教程であると、言っているのですね。

ええ、断固としてそう言っているのです。

それでは、メレトスさん、私たちが話題にしている神々にかけて、私と法廷にたいし、なにかもっと分かりやすい言葉で、意味するところを言ってください、というのは私はまだ良く分からないのですよ。あなたの主張は、私が他人になにかの神を認めるよう教え、だから私は神を信じており、完全な無神論者ではなく、この無神論者というのは、あなたは私の罪科にいれていませんが、ただそれが国家が認めた神々と同じではない、それが違う神だというのが罪であるというのでしょうか。それとも、単に私は無神論者で、無神論を教えていると言いたいのですか。

私は後者だと言っているのです。あなたは完全な無神論者だと。

何と驚くような言いぐさですね。なぜそう思うのですか、メレトスさん。私が、他の人みたいに、太陽や月の神格を信じてはいないと言うのですね。

審判官のみなさん、私は請け合います。ソクラテスは神を信じていないのです。というのは、彼は太陽は石で、月は土くれだと言っているのです。

我が友、メレトスさん、アナクサゴラスを告発しているとでもお思いですか。そしてクレゾメニア人のアナクサゴラスの書物にはそういう説があるとは知らぬほど、審判官は無学だと思い込んで、見下そうというのですか。その書物はこういう説で一杯なんですよ。それで、そんな説は劇場でよくお目にかかるし(おそらく、戯画化したアリストファネスと他の劇作家と同じくアナクサゴラスの概念を借りてきたエウリピデスへの当てこすり)、(入場料は高々1ドラクマだから)若者が自分で払って劇場へ行き、こういう風変わりな見解を作り出した振りをするソクラテスを大笑いしている時世だから、いかにも若者がそんな説をソクラテスに教えられたと言いそうではありますね。では、メレトスさん、私が一切神を信じていないと思うのですか。

ゼウスにかけて誓いますが、あなたは絶対に一切の神を信じてはいません。

誰もあなたのことを信じませんよ、メレトスさん。私はあなたが自分のことも信じていないと、かなり確信を持っています。アテナイの人々よ、メレトスさんが向こう見ずで生意気であり、この告訴状を気まぐれと青臭い虚勢という心持ちで書いたとしか、私には思えないのです。かれは謎を混ぜ込み、私を試そうと思っているのではないでしょうか。彼は独りごちしているのです。ソクラテスはおれの滑稽な矛盾点に気づくほど賢いのか、それとも奴や他の連中を欺き通せるかみてやろうと。というのは、ソクラテスは神々を信じない廉で有罪だとしながら、しかもなお神を信じているとするように、メレトスさんが告訴状の中で明らかに自己矛盾を起こしているように私には思えるのです。これでは、真面目な人間とは思えません。

アテナイの人々よ、皆さんは、私がメレトスさんの不一致点だと思うところを、私とともに検証したいでしょう。それで、メレトスさんは答えて下さいね。そして、聴衆のみなさんは、私が自分の慣れたやり方で話すのを邪魔しないようにという、私のお願いをお忘れなきよう。

メレトスさん、人間の為した事物の存在は信じるのに、人間の存在は信じない人がいったいいるものでしょうか。アテナイの人々よ、私はメレトスさんに答えてもらいたいのです。それで、ずっと邪魔だてしないようにしてください。乗馬術は信じるのに馬は信じない人、あるいは笛を吹くことは信じるのに笛吹く人は信じない人がいったいいるものでしょうか。いやしないですよね、我が友よ。あなたが自分で答えるのがいやなら、私があなたや法廷に答えましょう。そんな人はいやしません。だがここで、次の質問にはどうか答えてくださいな。霊的なあるいは神的な業は信じるのに、霊あるいは半神は信じないなどいうことができるでしょうか。

できはしませんよ。

法廷の御助力で、その答えを引き出せたは、なんと幸運な。だが、それであなたが告発状で誓って言っているのは、私が神的あるいは霊的な業を教え、信じているということです。(新しいものか古くからのものかは、関係ないことです。)あなたは訴状でそう言い、誓っているのですよ。しかし、私が神的存在を信じているのなら、どうして私は霊や半神を信じないでおれましょうか。そんなはずはないのですか。確かに私は信じています。だから、あなたが黙っているのは同意したものとしましょう。さて、霊や半神とは何なのでしょうか。神々か神々の子ではないでしょうか。

確かにそのとおりですよ。

ですが、それが私があなたの創案した滑稽な謎と言ったことなのです。半神や霊は神です。そしてあなたは最初は私が神を信じないと言いましたが、次には、つまり私が半神を信じるなら、神を信じていると言うのです。というのは、もし半神がニンフかなにかを母とする神の庶子で、神の子といわれているものだとするなら、いったいどんな人間が、それを神の子としながら、神はいないと信じると言うのですか。騾馬は存在すると断言しながら、馬と驢馬の存在を否定するようなものですよ。こんな馬鹿げたことは、メレトスさん、まったくのところ、あなたが私を試そうとしているとしか思えません。あなたは私を告発するような事実がまるでないので、告発状にそんなことを入れたのです。しかし、わずかでも理解力のある人はだれも、同じ人間が神的で超人的な事柄を信じるにもかかわらず、神々や半神や英雄が存在することを信じないことができるということを、納得しませんよ。

メレトスさんのいう罪科にたいする答弁は十分つくしました。練り上げた弁護などはまるで必要ありません。しかし私が多くの敵意を受けていることは遺憾ながらよくわかっています。もし私が殺されるなら、私を殺すのはメレトスさんでもアニュトスさんでもなく、世間のねたみと悪口なのです。それはこれまでも多くの善人の命取りとなってきましたし、これからも多くの命を奪うことでしょう。

次のように言う人もいるでしょう。ソクラテスさん、天寿をまっとうせずに死を迎えるような人生は恥ずかしくないですかと。そういう人にはちゃんとお答えしておきましょう。あなたは間違っています。なにかしら役に立とうという人は、生死の見込みを推し量ったりしてはなりません。なにを為すにも正しくふるまっているのか邪まにふるまっているのか、善人の役割を果たしているのか悪人の役割をはたしているのか、それだけを考慮しなければならないのです。けれど、あなたの見解に立てば、トロイアで戦死した英雄たち、とりわけテティスの息子アキレウスはまるでろくでもないということになります。彼らはみな不名誉に比べれば危険のことは軽く見ていました。アキレウスがヘクトールを殺したがったとき、もし僚友パトロクロスの仇を討ち、ヘクトールを殺せば、自身も死ぬと、母親の女神は彼に言ったのです。「ヘクトールの後、次にはおまえを破滅が待ち受けている。」というようなことをテティスは言ったのです。アキレウスはこの警告を受けながらも、危険と死とをまったく軽く見て、それを恐れるよりも、友の仇を討つことなく、不名誉に生き長らえることを恐れたのです。「戦船の傍らにとどまって、笑い者となり、大地のやっかい者となるよりは、敵に仇を返して直ぐにも死なしめよ。」とアキレウスは答えました。アキレウスは死や危険を多少でも気にかけたりしたでしょうか。自分の持ち場がどこであれ、それが自ら選んだものか指揮官に与えられたものかにかかわらず、危険の迫ったときにも留まらなければならないのです。不名誉以外に、死やその他のことを気に掛けてはならないのです。そしてこれが、アテナイの人々よ、真実のことなのです。

アテナイの人々よ、私を指揮するよう選任された将軍たちに命じられたときには、ポティダイアでもアンピポリスでもデリオンでも、他の人と同じように、死に直面しても、自分の持ち場に留まり続けたというのに、今や、自分自身や他の人を究明するという使命を果たすよう神様がお命じになっているというのに、そう私は思っているのですが、死の恐怖やその他の恐怖から、自分の職分を放棄するなら、私の振舞はまったく奇妙だということになります。それは、まったくもって奇妙であり、もし私が知恵もないのに知恵があると思いこみ、死を恐れて、神託に従わないなら、それこそ神々の存在を否定したという理由で、法廷に呼び出されることでしょう。というのも、死を恐れることは、まさに本当の知恵はないのに、知恵があるふりをすることだからです。人が死を恐れて思っているように死は最も悪いことなのか、最も良いことではないのか、だれも知りはしないのです。これは恥ずべき無知、知らないことを知っているとうぬぼれる無知ではないでしょうか。そしてこの点についてだけは、私は一般に他の人とは違っており、その人たちよりも智恵があると主張できると思います。つまり、私は冥界のことはほとんど知りませんが、知っていると思ってもいないのです。しかし私は、不正を行うことや、神であれ人であれより良いものに従わないことが、悪であり恥ずべきだということを知っていますし、確実に悪であるものではなく、善であるかもしれないものを、恐れたり避けたりは決してしないでしょう。ですから、もしみなさんが私をそのままにし、起訴したからには私を死刑に処すべきで(さもなければ、私を起訴するべきではなかった)、もし私を放免すれば、私の言葉を聴いて、みなさんの御子息はみな全く破滅するだろう言っているアニュトスに納得せず、ソクラテスや、今回は私たちはアニュトスの言うことを聞かずにおまえを放免するが、これ以上このように調査し思索しないこと、もしまたそうしていることがわかれば、その時は死刑にするという条件付きだ、それが私を放免する条件だと言うのなら、私は次のように返答せざるをえません。アテナイの人々よ、私はみなさんを誇りにおもい、愛してもいますが、しかし私はみなさんよりも神様に従わなければなりません。命と力のあるかぎり、哲学を実践し教えることを決してやめるわけにはいかず、会う人毎に熱心に説き伏せては、私の流儀で次のように言い続けるでしょう。我が友よ、あなたはアテナイという偉大で強大で知恵多き都市の市民だが、多くの財貨や名誉や名声を集めて、知恵や真理それに魂の改善にはほとんど気をつかわず、そうしたもの全部に配慮も留意もしないのは、恥ずかしくはないですかと。そしてもし私が議論をしかけた相手が、そうですが、私は気づかっていますよと言うなら、私はすぐにその人から立ち去ることも、その人を去らせることもせず、その人に質問し検証し訊問して、もしその人が徳を持たず、ただ持っていると言うだけだと思えば、その人を偉大なものを過少評価し、卑小なものを過大評価していると非難するでしょう。私は、老いも若きも、市民もよそ者も、会う人だれにも同じことを繰りかえし言うでしょう。特に市民には、我が同胞だから、そうするでしょう。というのは、これが神様の命令だと知っているからですし、また国家においては神様に奉仕する以上の良いことなどないと信じるからなのです。私には、老いも若きも同様に、みなさん全員に、自分のなりや財産に配慮するのではなく、まず第一に何よりも魂の改善に気づかわなくてはならないと、説得してまわるよりほかやることがないからなのです。私はみなさんに、徳は財貨では買えず、公的にも私的にも、財貨やそのほかの人にとって良いものは、徳から生じるのだと言うでしょう。これが私の教えであり、もしこの説が若者を堕落させるのなら、私は有害な人間なのです。しかし、もしこれは私の教えではないと言う人があるなら、その人は嘘を言っているのです。それだから、アテナイの人々よ、アニュトスの言うようにするのかしないのか、私を無罪とするのかしないのか、好きにしてください。だがどちらにせよ、たとえ私は何度殺されようとも、私のやり方を変えることはないことを、理解してほしいのです。

アテナイの人々よ、邪魔せずに、私の言うことを聞いて下さい。私たちの間には、最後まで私の言うことを聞くという合意がされているのですよ。私にはもう少し言っておくことがあるのです。みなさんが大声で抗議しそうな話ですが。しかし、私の言うことを聞くことは、みなさんのためになると信じています。ですから、どうか騒ぎ立てないでください。みなさんに知っておいて欲しいのは、私のような人間を殺すなら、それは私を傷つけるよりも、みなさん自身を傷つけることになるということです。何物も私を傷つけはしません。メレトスもアニュトスでさえも、そうはできないのです。というのは、悪い人間が自分より善良な人間を傷つけることは許されないことなのです。私は、アニュトスがそういう人を殺したり、追放したり、市民権を剥奪したりするかもしれないことを、否定しているのではありません。アニュトスは、またほかの人たちも、彼が善良な人に大きな傷を加えるのを、思い描くでしょう。しかし私はそれに同意しません。というのは彼がしているような行いの邪悪さ、不当に他人の生命を奪う邪悪さは、はるかにひどいのですから。

さて、アテナイのみなさん、私が議論しているのは、みなさんが思っているように、私自身のためではありません。そうではなくて、みなさんのために、みなさんが私を有罪にすることで、神様にたいし罪を犯さぬようにするためなのです。私は神様からみなさんへの贈り物なのです。というのは、もし私を殺したら、私の後継者は簡単には見つからないのですから。滑稽な言い方をすれば、私は神様が国家に下さった虻のようなものなのです。国家というのは巨大で見事な馬のようなもので、そのあまりの大きさに動きがのろく、活気づけてやる必要があるのです。私は、神様が国家にくっつけた虻で、日がな一日、あらゆる場所で、いつもみなさんに付きまとい、みなさんを目覚めさせ、説き伏せ、叱っているのです。私のような人間は他には簡単には見つかりませんよ。だから、みなさんに私を助命したほうがよいとお勧めするのです。私はあえて言いますが、みなさんは(寝ているところを突然たたき起こされた人のように)癇癪を起こしているのでしょう。それで、アニュトスの忠告通りに私を簡単に死刑に処しようと思っているでしょうが、そうすると、神様がみなさんのことを気にかけて、別の虻を送って下さらなければ、残りの人生を寝て暮らすことになるでしょう。神様が私をみなさんに与えたのだと言いましたが、それが私の使命だという証拠は次のことです。もし私が他の人と同じであったなら、自分のことを一切かまわず、また多年にわたりそういう無頓着に耐えて、みなさんのことにかまって、父や兄のようにみなさんをひとりひとり訪ねては、徳を尊重するよう勧めてまわったりはしなかったでしょう。その振舞はとても人間のものとは思えません。それで何かを得たり、徳を勧めたことで報酬をもらったのなら、そうすることに意味があったのでしょうが、みなさんお分かりのように、厚かましい告発者でさえ、私がだれかから支払を受けたり求めたりしたとは言えなかったのです。そういう証人がいないのです。そして私が言ったことが真実であることには充分な証人がいるのです。それは私の貧乏です。

私が私的に歩き回っては助言をし、他人のことにかまけて忙しく、思い切って公的仕事に志願したり国家に助言したりしないことを、いぶかしむ人がいるかもしれません。その人に理由を言っておきましょう。みなさんは、私がさまざまな時、いろいろな場所で、私にもたらされた神託というか徴について話しているのをお聴きなったことがあるでしょう。これがメレトスが告発状で嘲笑していた神懸りなのです。この徴は一種の声でして、最初は私の子供のころに私に聞こえはじめたのでした。この徴は、私のしようとすることをいつも禁じるだけで、やるように命じることは決してありません。これが私に政治家になることを思いとどまらせたのです。そしてそれは正しかったと私は思います。というのは、アテナイの人々よ、もし政治にかかわったいたら、私はずっと前に破滅し、みなさんにも私自身にもためになることをなにもしなかったでしょう。そして私がみなさんに真実を語ることで、腹を立てないでください。というのは真実は次のようだからです。つまり、国家においてなされる多くの不法で不正な行為に誠実に対抗して、みなさんやその他の群衆と闘おうとする者はだれも、その生命をまっとうしないでしょう。正義のために闘おうとする人は、たとえ短い間とはいえ生き長らえるには、私的な立場にたち、公的立場にはたつべきではないのです。

私はみなさんに私の言ったことのもっともな証拠を出しましょう。それは言葉だけではなく、みなさんがもっと尊重されるもの、つまり行動なのです。私が死の恐怖から不正義に屈伏したことが決してなく、また屈伏することが拒絶できないときは、直ちに死ぬだろうということを証拠立てる、私の人生での出来事をみなさんに話しましょう。たぶんそれほどおもしろくはないですが、けれども本当にあった法廷での話をします。私がなった唯一の国家の官職は、アテナイの人々よ、議員なのです。私の部族であるアンティオキス族が、アルギヌサイの戦闘で戦死者の死体を収容しなかった将軍たちの審判のときの議長でした。みなさんは将軍たちを一括審理するよう提案したのですが、後になってみなさん全員がそう思ったように、これは法に反していました。しかし私は議長団のなかで唯ひとり不法に反対し、みなさんに反対票を投じたのです。雄弁家たちが私を告発し非難すると脅し、みなさんもそれを求めて騒ぎましたが、投獄や死を恐れてみなさんの不正義に加担するよりは、危険を冒しても、法と正義を貫こうと決心していました。これは民主政治時代に起こったことです。ところが、三十人委員会の寡頭政治が権力をにぎると、委員会は私と他に4人の人を円形堂に呼び出し、サラミスからサラミス人のレオンを連れて来るよう命じたのです。それは委員会が彼を死刑にしたかったからなのです。これは、委員会がその犯罪にできるだけ大勢の人を巻き込もうという目論見でいつも出していた指令の一例なのですが、そのとき私は、こういう言い方が許されるなら、死には藁しべほども気に掛けないが、不正で不敬虔なことをするのを避けることは、大いにまた唯一気に掛けるということを、言葉ではなく、行いで示したのです。というのは、圧制的な権力の強い力も、私を脅して間違ったことをさせることはできなかったのです。それで、私たちは円形堂を出ると、他の4人はサラミスに行き、レオンを捕えましたが、わたしは平穏に家に帰りました。三十人委員会がその後すぐに終りを迎えなければ、そのために私は命を落していたことでしょう。そして、多くの人が私の言っていることの証人となるでしょう。

さてみなさんは、私が公的生活を送り、善人のように、何よりもまずしなければならないこととして、正義を貫き、正当なことをしていたら、私はこれほど長年のあいだ生き長らえることができるとお思いでしょうか。アテナイの人々よ、私も他の人も、そんなことはありえません。しかし、私は公的であれ私的であれ、すべての行動で常かわらず同じでありましたし、中傷的に私の弟子といわれている人にもその他の人にも、卑劣な要求を認めたことは決してありません。私は正式に弟子を持ったことはありませんが。しかし、私が自分の使命にたずさわっているときに、だれか私のもとに来て聞きたがったら、若かろうが年寄りだろうが、拒みはしません。また私は金を払う人とだけ会話をするのではなく、金持だろうが貧乏だろうが、だれでも私に問い、答え、私の言葉に耳を傾ければよいのです。それで悪い人間になろうが良い人間になろうが、その結果を私のせいにするのは正当ではありません。というのは、私はその人に何かを教えたことも、教えると言ったことも、決してないのですから。そして、だれか私から私的に、いままで世間が聞いたこともないようなことを学んだり聞いたりしたと言う人があるなら、その人は嘘をついていると言わせてもらいましょう。

しかし私は、なぜみんながずっと続けて私と会話するのが楽しいのだろうかと、尋ねられます。アテナイのみなさん、私はすでにことの真実をすべて話しました。つまり、この人たちは知恵あるふりをしている人が訊問されるのを聞きたいのです。そこに楽しみがあるのです。さて、この他人を訊問するという義務は神様が私に課したのであり、神託や幻視や、神的力の意志を人に知らせるやり方で、私に示されたものなのです。アテナイの人々よ、これが真実であり、もしそうでなければ、すぐにも論破されるでしょう。もし私が若者を堕落させており、また堕落させてしまったのなら、その若者が成長し、若い頃に私が悪い助言を与えたことに気づいて、告発者として現れ、復讐を遂げようとするでしょう。もしくは、本人がそうしたがらなければ、その縁者、父親や兄弟や親類が、私の手で身内がどんな悪いことをされたか言いたてるでしょう。今やその時が来たのです。その多くが法廷に来ています。クリトンがいます。彼は私とは同い歳で、同じ市区に属しています。その息子のクリトブロスもいます。スフェトス区のリュサニアスもいます。アエスキネスの父親ですが、アエスキネスもここにいます。ケフィソス区のアンティフォンもいます。エピゲネスの父親です。私とつきあっていた連中の兄弟もいます。テオスドティデスの息子でテオドトスの兄弟のニコストラトスがいます。(テオドトスはもう死んでいるので、とにかく、ニコストラトスが訴えるのをテオデトスが止めようとしたわけではありません。)デモドコスの息子のパラロスがいますが、その兄弟がテアゲスです。アリストンの息子のアデイマントスがいますし、その兄弟のプラトンもいます。アポロドロスの兄弟のアエアントドロスもいます。もっとたくさんの人をあげることができます。メレトスは演説のなかで、そのうちの何人かを証人としてあげるべきでした。忘れていたのなら、まだ今ならあげてもいいですよ。わたしは譲歩しましょう。あげることのできるような証拠があるのなら、それも言ってもらいましょう。いや、アテナイのみなさん、真実はまるで反対なのです。というのは、この人たちはみな、身内を堕落させ傷つけた者、メレトスとアニュトスは私をそう言っているのですが、そういう者の側の証人に喜んでなろうとしているのです。堕落した若者だけなら、その動機もあるのでしょうが、堕落していない年長の親族もいるのです。なぜこの人たちは証拠をあげて私を支持するのでしょうか。真実と正義のため以外に理由があるでしょうか。みんな、私が真実を言っており、メレトスが嘘つきだと知っているからなのです。

さて、アテナイのみなさん、以上のようなことが私の言うべき弁護のすべてです。ですが、もう少し言っておきましょう。おそらく、同じような、あるいはそれほど重大でない場合に、涙をふりしぼって審判官に懇願し哀訴し、哀れをさそうよう、大勢の親類や友人ともども我が子を法廷に出した自分自身を思い出して、私に感情を害した人もいるでしょう。一方、私といえば、多分生命の危機にさらされているというのに、そうしたことを一切していないのですから。そういう人は、こういう対比が心にうかび、私に敵対し、この点で私が不快だというので、怒りにまかせて票決するかもしれません。さて、もしそういう人がいるとするなら、もっとも私はいるとは思ってませんが、そういう人には、次のようにきちんと答えておきましょう。友よ、私は人間であり、他の人と同じく、肉と血から作られたもので、ホメロスが言うような「木と石で」できたものではありません。もちろん、家族がいて、アテナイの人々よ、三人の息子がいます。一人は成人していますが、残り二人はまだ若僧です。しかし私はみなさんに無罪を乞うために、息子たちをここに連れ出すつもりはありません。なぜそうしないのでしょうか。自己主張したいからでもみなさんに一目置かれたいからでもありません。私が死を恐れているかどうかは別の問題です。今そのことを言っているのではありません。しかし世評を考えると、そういうふるまいは私自身にもみなさんにも、また国家全体にも、不面目なものに思われるのです。私くらいの歳になり、また知恵で有名になれば、そういう人は自分の品格を貶めてはならないのです。

私についてのこの世評が当然のものかそうでないかはともかく、世間はソクラテスがなにかしら他の人より優れているものと決めつけています。智恵と勇気で優れていると言われている人や、徳で優れていると言われているが、こんなふうに品格を落とすなら、その振る舞いは、なんと恥ずかしいことでしょう。私は声望のある人たちが、断罪されることになると、非常に奇妙な振る舞いをするのを、見てきました。そういう人たちは、死んだらなにか恐ろしい目にあうのだ、みなさんが生かしておいてくれさえすれば、自分は不滅なのだと、思い込んでいるかのようです。このようなことは国家にとって不名誉なことであり、我が市にやってきたよそ者たちが、アテナイの最も傑出した人物で、アテナイ人自身が敬意をはらい指揮権を与えているような人物も、女同然だと言い立てると思います。ひとかどの者である私たちがそのようなことをしてはなりませんし、またしたとしても、みなさんはそれを許してはならないので す。みなさんはむしろ、平静を保つ者よりも、悲しげな芝居を演じ市を愚弄する者を断罪するのだということを、示さねばならないのです。

さて、世評の問題はさておき、審判官に事情を知らせ説得するのではなく、審判官に懇願して、無罪放免を得ようというのは、なにか間違ったことに思われるのです。というのは、審判官の義務は、裁判所に出席することではなくて、判決を下すことですし、自分の恣意によってではなく、法律にしたがって判決すると宣誓しているのですから。みなさんがこういう誓約違反の慣習を行うのを助長してはなりませんし、みなさんもこの慣習に染まってはならいのです。そういう慣習には敬神の心はまったくありえないのです。それで、私が不名誉で不信心で間違っていると思っていることを、私にするよう求めないでください。とくにメレトスの告発で不信心のかどで審問されているこの時に。というのは、アテナイの人々よ、もし説得し嘆願して、私がみなさんに宣誓を破らせたら、その時は私はみなさんに神々はいないと信じるよう教えていることになり、弁護しながら、神々を信じていないという罪で自分に有罪と宣告するようなものです。しかしそうではありません。全く反対なのです。というのは、私は神々はいると信じており、私の告発者が信じているよりも、ずっと深く信じているのです。さて、みなさんにも私にも一番よい判決を下されるよう、私は自分の申し立てを、みなさんと神様に委ねましょう。


アテナイの人々よ、有罪の票決を嘆いていないのには、いくつも理由があるのです。そうなると思っていましたが、ただ票決が同数に近いことには驚いています。というのは、私に敵対する多数派はもっと多いと思っていたからです。ところが今や、30票も反対の側へ流れていれば、私は無罪になるところでした。思うに、これはメレトスからの告発を免れたと言ってもよいでしょう。もっと言えば、アニュトスとリュコンの援助がなかったなら、メレトスは票決の五分の一を得ることはできなかったし、法律の求めにより、千ドラクマの科料を負わされていたでしょう。

さて、メレトスは刑罰として死刑を提案しています。それでは、アテナイの人々よ、私のほうはどんな刑罰を提案しましょうか。私が責めを負うべきことは明らかになりました。ではどんな責めを負うべきなのでしょうか。生涯にわたって怠けようなどとは決して思わず、ただ多くの人が気に掛ける、富や家族の利益、軍職、民会での演説、行政長官職、陰謀や徒党のことは気に掛けなかった者は、どんな報いを受けるのでしょうか。政治家となってやっていくには私は本当にあまりに正直すぎると思って、私がみなさんや自分に役に立たない場所には行きませんでした。しかし、私が私的にみなさんの誰にでも一番役に立てるところには、どこにでも行って、みなさんの誰にでも、自分に注意を払い、自分の私的利害を気にするより前に徳と知恵を求め、国家の利害を気にするより前に国家そのものに気を掛けるよう説得に努め、またそれが人のあらゆる行動で守るべき道理であると説いてまわったのです。こんな人間にはどんな仕打ちをすべきでしょうか。アテナイの人々よ、このような者に報いるのなら、疑いもなく何か良いものであり、この男に適当な良いものでありましょう。みなさんに恩を施し、みなさんに教える余暇を求めた哀れな男にぴったりの報いは何でしょうか。アテナイの人々よ、貴賓館でのもてなしほどぴったりの褒美はないでしょう。その褒美は、オリンピア祭で騎馬競争や、二頭立てだろうがそれ以上だろうが戦車競争で、賞をとった市民より、この男のほうがふさわしいのです。というのは、私は食事にこと欠き、賞をとった人は十分満ち足りているからです。それに、その人は見せかけの幸福を与えましたが、私は実質の幸福を与えたのですから。もし私が公正に刑罰を量るなら、貴賓館でのもてなしが、ぴったりの報いなのです。

おそらく、みなさんは、私がこう言うと、以前哀願や嘆願について言っていたのと同じように、強がっているのだと思われるでしょう。しかし、そうではないのです。むしろ、私は今まで一度も意図的に他人を不当に扱ったことはないと確信しているので、そう言っているのです。けれど、みなさんを納得させることができず、残る時間はあまりに短いのです。他の市と同じように、アテナイにも、死罪について裁判は一日では決さずという法律があれば、みなさんを納得させることができたでしょうが。しかし一瞬でひどい中傷をただすことはできません。だが、私は一度も他人を不当に扱ったことはないと確信しているので、自分を不当に扱うこともないことは確かです。自分自身について、悪人を任じることもないし、刑罰を提案することもありません。なぜそんなことをしなくてはならないのですか。メレトス が提案した死刑を恐れているからでしょうか。私は死が良いものか悪いものか知らないので、確かに悪いとわかっている刑罰をなぜ提案しなければならないのですか。投獄はどうだと言うべきでしょうか。なぜ私は監獄で暮らし、年ごとの役人、11人の役人の奴隷とならなければならないのでしょうか。さもなければ、罰金を課し、支払うまで投獄するのですか。同じ隷属があるだけです。監獄で嘘をつくべきでしょうか。というのは、私はお金がなく、支払えないのですから。国外追放を言えば(これがみなさんが課そうとしている刑罰で一番ありそうですが)、それは生に執着して、私と同じ市の市民であるみなさんが、私の説教と言葉に耐えきれず、これ以上聞くのが悲痛で不快なものとなったというのに、他国の人は私に耐えきれるだろうと思うのが馬鹿げたことかわからぬほど、分別をなくしたにちがいありません。アテナイのみなさん、そんなことはまるでありそうもないのです。私はこの歳で、亡命の地を転々と変え、絶えず追い立てられて、都市から都市へと流浪しながら、どんな生活を送るのでしょうか。というのは、私があちらこちらとどこへ行っても、若者は私のまわりに群れようとし、私が追い払えば、年長の者が若者の求めに応じて私を追い払うだろうし、来るにまかせれば、父親や友人が自分たちの都合で私を追い払うのは、はっきりしているのですから。

なかには次のようにいう人もいるでしょう。ああ、ソクラテスや、黙ることはできないのか、そうして見知らぬ都市へいけば、だれもじゃまだてしないだろうよ、と。さて、これにたいする私の答えをみなさんに分かってもらうのは、大変難しいのです。というのは、私がみなさんの言う通りにするのは神様にそむくことで、だから黙るわけにはいかないと言えば、私が真面目に言っているとは思わないでしょうし、徳についてや、私からお聞きになった他の事柄について日々説きながら、自分や他人を検証するのは人間に最も良いことで、検証されない人生なんて生きるに値しないと言えば、みなさんはますます私を信じなくなるでしょうから。しかし、私は何が真実か話してきましたが、みなさんを説得するのは私には困難なことなのです。また、私が危害を加えられて当然だ思うことにも、決して慣れていないのです。お金があれば、支払い可能なかぎりで罰金の見積もりをしたことでしょうし、それでこれ以上は悪くならないでしょう。けれど私にはお金が無く、それで、みなさんに私の財産にたいしてどれくらいの比率の罰金なのかを尋ねなければなりません。おそらく1ムナしかお出しできませんが、それでは刑罰を申しでましょう。プラトン、クリトン、クリトブロス、それにアポロドロスという友人たちがここにいて、30ムナと言えと言いますし、保証人になってくれるそうです。30ムナを刑罰にしましょう。その額ならこの人たちがみなさんに保証します。


ほどなく、アテナイの人々よ、この市を悪く言う連中から、みなさんは汚名を着せられるでしょう。連中はみなさんが知恵のあるソクラテスを殺したと言うでしょう。というのは、私が知恵のない者であっても、みなさんを非難するときは、連中は私を知恵があるというでしょうから。ほんのしばらく待っておれば、自然の流れがみなさんの望みをかなえたでしょうに。というのは、みなさんお分かりのとおり、私は非常に歳老いており、ほどなく死ぬでしょうから。私は今みなさん全員にではなく、私を死罪にした人たちだけに話しています。その人たちにもうひとつ言っておきます。みなさんは、無罪を勝ち取るだけの言葉がなくて、私が有罪になったと思っているでしょう。私が無罪となるためなら、遣り残したり言い残したりすることの無いようにしようと心に決めているとしたら、というかぎりでのことですが。そうではないのです。私が有罪になったのは、言葉が足りなかったのではありません。それは確かです。そうではなくて、押しの強さや図々しさ、それにすすり泣いたり泣き叫んだり嘆いたり、みなさんが他の人たちからは聞きなれている多くのことを言ったりしたりといった、みなさんが私にして欲しいように、みなさんに訴えようという気持ちが、欠けていたのです。そういうことは、主張してきたように、私には価値が無いことなんです。そのとき私が思っていたのは、危機に際して、下品で卑しいことはしてはならないということでしたし、今でも自分の弁護のやり方を後悔してはいません。私はみなさんの話し方をして生き長らえるより、自分流の話し方をして死ぬほうがましです。というのは、戦争であれ裁判であれ、私か他の誰かは問わず、死を免れようとあらゆる策を講じてはならないのです。戦場ではよくあることですが、武器を投げ捨て、追手のまえに膝を屈せば、死を免れるのは疑いないでしょうし、他の危難の際も、喜ばれるようなことを言ったりしたりすれば、死を免れる別の方法があるものなのです。友よ、難しいのは死を避けることではなく、不正を避けることです。というのは不正は死よりも速く走るのですから。私は年寄りで、動きが鈍く、足の遅い走者に追いつかれました。私の告発者は抜け目がなくすばやいのですが、不正というより速い走者に追いつかれたのです。さて、私はみなさんに有罪とされ、死刑に処されて世を去りますが、告発者も真理によって有罪となり、悪行と不法の罰を受けておのれの道を歩むことになるのです。私は自分の判決を甘んじて受けねばなりませんが、告発者も自分たちの裁きを受けるがよろしかろう。こうなることが運命だったのだと考えますし、それでよかったのだ思います。

さて、私を有罪にした人々よ、私はあなたがたに予言しておきましょう。というのは、私は死のうとしておりますし、死ぬときには人は予言する力を授かるものだからです。私は我が下手人であるあなたがたに、私が世を去った直後に、あなたがたが私に課したよりはるかに重い罰が、あなたがたを待ち構えているのは確かだと予言しておきます。あなたがたは、自分たちの人生のことを考慮せずに、非難者から逃れたくて、私を殺したのです。しかし思った通りにはことは運ばず、まるで逆になるでしょう。というのは、言っておきますが、今よりもっと多くの非難者が現れるでしょう。これまでは私が抑えていたのです。そして非難者たちはもっと若いので、あなたがたに遠慮会釈なく、あなたがたも彼らにはもっと気分を害するでしょう。もし人を殺せば、誰かがあなたがたの悪い生き方を咎めるのを防げると考えているのなら、それは誤りです。そういう免れ方は、できもしないし誉められたものでもありません。一番簡単で一番りっぱな方法は、誰かを傷つけることではなくて、自分を改善することなのです。これが世を去る前に私を有罪にした人々への予言です。

私を無罪にしようとした友よ、役人たちが忙しくしている間、死ぬべき場所へ行く前に、あなたがたとも起こったことを話しておきましょう。しばらくここにいてください。というのは、時間のあるかぎり、お互いに話しをするのはかまわないでしょうから。あなたがたは私の友人ですし、私はあなたがたに私の身に起こったこの出来事の意味を説明しておきたいのです。我が審判官たちよ、というのはあなたがたを私は心から審判官と呼びたいからですが、私はあなたがたに不思議な出来事を話しておきたいのです。心中の神託の源である神的力は、これまでいつも、私がなにかしくじろうとするときは、些細なことでも私に反対するのが常でした。さて、私の身にふりかかったものは、見てのとおり、極め付きの最悪の災いと思うし、また一般にもそう見なされています。しかし今朝家を出るときも、法廷に向かう途中も、また言いたいことをしゃべっている間も、神託は反対の徴をなにも出さなかったのです。ところが、私は演説の最中によく中断したのですが、今度は当面の問題について話したり行動したりしないと、神託が私に反対するのです。この沈黙を私はどう説明したらよいでしょうか。言いましょう。それは私の身に起こることは良いことであり、死が災難だと思っている人は間違っているという暗示なのです。というのは、私が悪いこと、良くないことをしようとすれば、いつもの徴が私に反対するのは確かだからです。

別なやり方で考えてみましょう。そして死が良いことだと思える大きな理由を説明しましょう。というのは、死は無で全く意識のない状態か、それとも言われているように、この世からあの世へと魂が居場所を変え移住することなのか、二つに一つなのですから。さて、意識がなく、夢に邪魔されることもないような眠りにすぎないと仮定すると、死は口に出して言えないほどの儲け物です。というのは、夢にさえ邪魔されないほど眠った夜を選び出し、この夜と人生の他の昼夜とを比較して、人生でこの夜より快適に楽しく過ごせた昼夜がどれほどあるか言ってもらうことにすると、思うに、私人は言うに及ばず、大王といえども、そういう昼夜は、そうでない昼夜に比べ、数えるほどしか見つからないでしょうから。さて死の本質がそういうものなら、永遠も一夜にすぎないのだから、死ぬのは儲け物だと言えます。しかし、もし死が別の場所への旅であり、みんなが言うように、そこにはすべての死者が住んでいるのなら、友にして審判官よ、それよりも良いことが他にあるでしょうか。実際、死者たちが冥界に着くと、この世の自称審判官たちから自由となり、そこで判決を下していると言われる本当の審判官、ミノスやラダマントスやアエアコスやトリポレモスやその他正しい人生を送った神々の息子たちを見つけるというのなら、その長旅をするだけの価値があるでしょう。もしオルフェウスやムサイオスやヘシオドスやホメロスと話ができたなら、人はそれにどれほどのものを支払うでしょうか。それどころか、それが本当なら、私は何度でも死にましょう。私自身、パラメデスやテラモンの息子のアイアスとか不当な判決で死に至った古代の英雄たちに会い会話するのは、たいそう興味があります。私の受難とこうした英雄たちの受難を比べるのも、思うに、すくなからぬ楽しみでしょう。とりわけ、私は、この世と同様、あの世でも本当の知識と間違った知識を調べ続けることができ、だれが知恵があるのか、だれが知恵のあるふりをしているのかを見つけるでしょう。審判官のみなさん、トロイア遠征の総大将、オデュッセウスやシジフォス、その他数知れぬ人たちを、男女を問わず検証することができたなら、人は何を差し出さずにおくでしょうか。こういう人たちと会話し質問をするのは、なんと無上の喜びでありましょう。あの世では、質問をしたからといって死刑にしたりはしないのは、確かです。というのは、言われていることが本当なら、死者は今よりも幸せであるばかりか、これ以上死ぬこともないでしょうから。

したがって、審判官のみなさん、死は喜びにあふれており、また確かだと分かったのは、善良な人には、生きているときも死んだ後も、悪いことは起こらないということです。善良な人とその身の上のことを神々はないがしろにはしませんし、私自身の迫り来る最期もただ偶然に起こったことではないのです。それで私にとって死んでごたごたから解放されたほうがよい時期に、その時がやってきたのだということが、私にははっきりとわかっているのです。だから神託も徴を出さなかったのです。そういうわけで、私は有罪にした人たちにも告発者にも怒ってはいません。この人たちは私に害をなしませんでしたが、けれど私に良いことをするつもりはなかったのです。それでこの点については、私はこの人たちを、穏やかに責めているのです。

まだ、私はこの人たちに頼んでおきたいことがあります。我が息子が成人したとき、我が友よ、徳よりも富やその他のことに気をかけたり、本当はなに者でもないのに、ひとかどの者であるようなふりをするなら、息子たちを罰し、私がみなさんを悩ませたように悩ませてくださるようお願いします。そうして、気をかけるべきことに気をかけず、本当はなに者でもないのに、ひとかどの者であると思っているというので、私がみなさんを戒めたように、戒めてください。そうしてもらえれば、私も息子たちも、みなさんの手づから、当然のお返しを受けることになるのです。

出かける時間となりました。それぞれの道を行きましょう。私は死ぬために、みなさんは生きるために。どちらがより良いのかは、神のみぞ知るのです。


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