飛鳥


飛鳥時代とは。
日本史の時代呼称のひとつで、一般には592年の推古天皇の即位から710年にの 平城京遷都までの100余年をいう。
始まりを6世紀中ごろとしたり、美術史などでは大化の改新のはじまった645年や 天智朝ころ以降を白鳳時代と区別する考えもある。

名前の由来は推古天皇が豊浦宮に即位してから元明天皇が藤原宮に即位するまで、河内の 難波宮・近江大津宮への短期間の遷都ののぞけば、都がおおむね飛鳥地方とその周辺におかれたことによる。

天皇中心の国づくり
飛鳥時代は政治的には氏姓国家・部民制社会から律令制による中央政権国家の確立までに過渡期にあたり、 中間点にある大化の改新がその流れを決定的にしたといえる。
推古朝では推古天皇・聖徳太子と大臣の蘇我馬子の間に最高権力をめぐる対立があり、 天皇家の権威回復などのために遣随使も派遣された。

しかし、それ以前からひきついできた国造の勢力削減と屯倉などの設置・整備に宮司による部民の直接支配を 通じて、中央権力の強化をはかるという方針をはかわらなかった。
しかし蘇我氏は氏姓制度の解体自体には消極的で、むしろ専横にはしった。
当時、聖徳太子らが派遣した遣随使とともに中国へわたった留学生や留学僧が 帰国し、中国の先進的な法制・行政の知識をもたらしていたが、さらに中国では隋のあとをうけた 唐による高句麗遠征の情報がつたわった。

大化の改新
唐のような集権化をいそぐ必要を感じた中大兄皇子・中臣鎌足らは、645年乙巳の変で蘇我氏から 政権を奪取。
646年には大化の改新の詔を発布し、公地公民、班田収授制、集権的行政制度、新統一税制などを かかげて挙国体制でも軍事力増強をめざした。
改革の直接の目的は唐・新羅連合軍に勝利することだったが、挙国体制が実現しないまま 白村江の戦い(663年)で敗北する。
しかし国内改革はひきつづき推進し、庚午年籍をつくって全人民を把握し、冠位二十六階制によって官僚体制が 拡充された。
中央集権国家の確立
672年(天武元)壬申の乱の勝利で強い専制権力をにぎった天武天皇はさらに天皇を中心とした律令制による中央集権国家体制 の確立につとめた。
そして大弁官を直属させた独裁体制をつくり、神仏両面にわたる国家祭祀制度を規定し、国庁・郡家の設置や租税制度・交通制度にいたるまで 律令制度・交通制度にいたるまで律令制度を細かく、かつ現実的にものにしあげた。

それらの措置・法制は唐の永徽律令を参考にして飛鳥浄御原令にまとめられ、律令政治は形をととのえた。 その成果が、持統朝(686〜697)での藤原京への遷都や班田収授の開始などにつながる。
律令は天武朝以後の施行状態の評価をふまえて改正・修訂を重ね、701年(大宝元)大宝律令として完成された。 この過程で、日本は中国の影響つまり小帝国主義の自負心をもつようになり、日本国号・天皇号を称するとともに華夷思想を身につけるようにもなった。

当時の外交政策
581年中国において隋による統一国家が実現し、東アジアの情勢が変化したのを契機に、日本の対外政策は転換し、 倭の五王以来約1世紀の間中絶したいた中国との国交が再開された。
そして600年(推古8)を最初として小野妹子ら数次の遣随使が派遣されるが、これは従来と異なり中国と対等に立ってる ものであり、ここに中国=日本の従属関係ではなく、日本は日本の国家としての外交を果たした。
また、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた後も、決して弱腰の態度をみせず、毅然とした態度で接し、新羅と唐の間に紛争が起きると、 日本は孤立した新羅から朝貢をうけるほどにまでなった。
しかし、他方では唐に遣唐使をおくることにより唐の冊封体制下に復帰している。

飛鳥文化と白鳳文化
飛鳥文化と白鳳文化 文化的には、古墳文化から仏教文化への転換期にあたり、天智朝を境に前期を 飛鳥文化、後期を白鳳文化とよぶ。
それまで巨大な古墳をきずくことで権威付けをしていた豪族たちは、新たに流入 してきた国際的な権威である仏教を受け入れた。彼らは瓦葺きの金堂や高い寺塔をつくることを権威の象徴とする ようになる。

飛鳥時代を通じて中国・朝鮮からの直輸入的な文化ではあったが、飛鳥文化では六朝文化の影響をうけ、 白鳳文化では遣唐使が頻繁に派遣された事もあって、初唐文化がそもも流入している。
また亡命渡来人の活躍などもあり、天智朝では万葉集とならんで漢詩文がつくられた。
学問的には儒教・道教の思想も宮廷にひろがり、天武朝では天文・暦法などが盛んに研究されるようになった。
文化的には隋・唐文化直接摂取の時代であった。

飛鳥時代関連事項
大化の改新 白村江の戦い 壬申の乱

飛鳥関連人物
蘇我馬子 推古天皇 聖徳太子 蘇我入鹿 天智天皇
藤原鎌足 天武天皇




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