白村江の戦い
672年(天武元)大海人皇子(天武天皇)と大友皇子(弘文天皇)が皇位継承を
めぐっておこした内乱。
671年(天智10)天智天皇は子の大友皇子を太政大臣とし、次期天皇とする意志を明らかにした。
この政権は蘇我赤兄を左大臣、中臣金を右大臣に、巨勢人、紀大人を御史大夫とするもので、古くから朝廷を構成していた豪族に属している。
しかし天智天皇の同母弟で斉明・天智両朝で実績をあげてきた大海人皇子は皇位継承をのぞんでおり、これに不満だった。
大海人皇子は暗殺をおそれて吉野にかくれすみ、機会をまった。
天智天皇の死後、大友皇子は弘文天皇と名のり即位したが672年6月ついに大海人皇子に決起し、吉野から所領のある
美濃国に脱出した。
その途中で交通の要地の伊勢国鈴鹿関・美濃国不破関をおさえ、さらに東国兵(美濃・尾張・三河等が中心、遠くは甲斐あたりまで)をあつめて自軍を組織する。
大海人皇子への信頼・同情や弘文天皇への反発もあり、中小豪族や大海人に近侍した舎人の集団そして、没落した中央豪族などが大海人皇子方についた。
大海人皇子軍は奈良盆地南部と琵琶湖東岸からすすみ、東と北から近江大津宮を攻囲。
いっぽう弘文天皇方には近江朝廷をささえる有力豪族がつき、政府機関をとおして動員した西国兵も多くあつまった。
近江軍は一時大和盆地をほぼ征圧し、琵琶湖東岸に遠征軍もおくったが、大海人皇子の反撃にあい、7月23日、弘文天皇は大津宮を出て、山にはいって自縊して死亡。
約1ヶ月の戦いに勝利した大海人皇子は翌673年に飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇となる。
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