周とはなんぞ
殷王朝をほろぼし、黄河中流域を支配した古代王朝。
前770年に遷都して以後1小国となり、前256年に秦に滅ぼされた。
遷都の前770年以降を東周時代とよぶが、東周時代はほぼ春秋戦国時代と重なる。

周の起源
「史記」などのつたえたるところによれば、周の祖先后稷といい、伝説の王、堯のもとで 農業を司ったという。
13代目の古公亶父は、周の本拠地を今の山西省から陜西省にうつした。
それ以後、西方の一大勢力となり、殷の甲骨文字にも周の名が登場するようになる。

西周の時代
前11世紀、周王の武は軍を率いて東へむかい、殷都の南、牧野において殷の軍勢をうちやぶった。
第30代紂王は自殺し、周は新しく王朝をひらいた。
それまで周は[金高]に首都をおいていたが、王朝にひらいてからは東方を統治する必要から、 現在の洛陽近くに成周をきずき、[金高]は宗周と改名した。
本拠地である西の宗周が、東の成周(洛邑)とともに首都機能していたので、この時代を西周時代とよぶ。

西周のそれから
武王は牧野の戦いの数年後になくなり、子の成が即位した。成王は幼年だったため、武王の弟の周公旦が 補佐した。成王の即位後しばらくして周王朝に内紛が生じ、それに殷の遺民がくわわって大反乱がおきた。
周公旦は軍勢をひきいて反乱軍を撃破、功臣・王族に封地をあたえ、成周の建設によって周の支配を安定させた。

そして東周へ・・・
こののち、4代目の昭王や5代目の穆王は周辺各地を遠征し、周王朝の権威は絶頂期をむかえた。
しかし7代目の懿王のころから、統制がゆるんで諸侯の力が増大するようになり、また第10代脂、の代には 脂、が反発貴族によって追われ、テイ(山西省)に亡命し、このため王位が14年間空位であっため、有力貴族の共和伯が政治を代行するなどのことがあり王朝はしだいに衰えていった。
前771年、王朝の内紛に乗じて北方異民族の犬戎が侵入し、宗周が陥落、12代目の幽王は殺され、西周時代におわりをつげた。
こののち、幽王に廃されていた太子宜臼が、成周にのがれて翌年平王として即位、以後東周時代となるが、王朝とは名ばかりで 実際1小国にすぎなくなり、春秋戦国時代をへて、前256年第37代タン王のときに秦によって滅ぼされた。

西周の社会
周公旦が反乱を鎮圧し、功臣・王族に封地をあたえて以来、西周は封建制社会としての体裁をととのえていった。
各地方には邑とよばれる共同体が独立して存在し、この邑と王朝は王朝が邑に封土をあずける代わりに軍役・貢租を要求する関係で 成立しており、西周は殷王朝と同じく、邑が発展した大小の都市国家の集合体だった。

西周の文化
西周時代初期の青銅器は、文様も銘文も殷代とほぼ同じである。
しかし西周時代末になると、文様はしだいに簡略化されて殷代の生気をうしなう。対照的に銘文は長文化し、内容も複雑となって当時の裁判なども記録されるようになる。
青銅器製の兵器の戈が力学的により有効なものに改良される変化もみらるが、中期になると青銅器の酒器が減少し、種類も多様性も失われはじめる。
こうした変化は、新石器時代の面影をのこしていた殷代の社会から、法治主義の古代国家へと移行しはじめた当時の社会の一面を伝えている。

西周の制度、経済
政治組織は内服(直轄領)と外服(諸侯領地)に分かれる。
内服の行政は司土(司徒)、司馬、司工(司空)の三官が掌握し、司土は土地、司馬は軍事、 司工は租税、民力を管理した。
兵制は西六師や殷八師がそれぞれ配置された。
外服には魯、衛、斉などの有力な大諸侯が封建され、それぞれ領民と土地とを支配することが許された。
なお、当時の経済の中心は殷と同じく農業にあり、耕作法なども変化がないが、王室による治水工事が 行われたと記録されている。
また、商業・手工業者のなかには、その商品売買によって土地を入手し、貴族層に加わるものが現れた。


周王朝関連人物
文王 武王 太公望 幽王 褒[女以]  


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