卑弥呼
3世紀前半の邪馬台国の女王。
「魏志倭人伝」によれば、2世紀後半(178−183年 後漢霊帝の頃)の倭国内の戦乱のとき、小国約30か国
から共立されて邪馬台国連合の女王となり、その結果、国どうしの戦闘はおさまった。
卑弥呼は呪術にたけ、民衆を心服させる能力を備えていた。結婚せず神の妻として神の意志をつたえ、その意志
は弟によって実行された。
卑弥呼自身は奴婢1000人を従えて宮室にこもり、姿をみせることはなかった。
国際感覚に非常に敏感で、239年(景初3)6月に中国の魏が朝鮮北部の帯方郡に進出すると、すぐに
難升米を派遣した。
難升米は帯方郡太守の劉夏の使者の案内で洛陽にいき、朝貢した。
その12月魏の明帝は卑弥呼を「親魏倭王」に任じ、魏の支配下にくみこんだ。
しかし、この「親魏倭王」の称号は、韓諸国の君長に授けられた邑君・邑長に比べて格段と高く韓諸国は反抗し、帯方太守が戦死
するほどにまでなった。
ここに魏の倭国重視の外交姿勢がうかがう事ができる。
魏が卑弥呼の使者に「率善中郎将」や「率善校尉」の官号を授けたのも同様の配慮である。
この時魏から銅鏡100枚などが与えたれており、これが三角縁神獣鏡にあたるかどうか
が問題になっている。
243年にも伊声セキ、掖邪狗を派遣して朝貢(倭錦、丹、短弓矢)をつづけたが、そのころ南にいた
狗奴国と戦闘がはじまり、245年には難升米に魏軍を象徴する軍旗の黄幢が
与えられている。
さらに247年に載斯烏越が魏に派遣され戦況をくわしく報告されると、魏は警備担当の
地方官である張政ら倭国におくり、黄幢と魏帝の詔書を難升米に与えたうえに、邪馬台国
連合の小国が卑弥呼を助けるよう檄文をだした。
しかし戦況は思わしくなかったようで、そのさなか卑弥呼は没した。
墓は大きな塚で、直径100余歩(約120m)、奴婢100余人が殉葬されたという。
卑弥呼は固有名詞ではなく、「ひめみこ」つまり高貴な女性を示す一般名詞かもしれない。
また、邪馬台国がどこにあったかによって、日本全域の女王か北九州の地方政権の長か、
実力の評価もかわるだろう。
卑弥呼なきあとの後継をめぐる混乱は、卑弥呼の宗女である13歳の少女、臺興(台与)をえらんで決着した。
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