蘇我馬子


飛鳥時代の豪族、身分は大臣。
蘇我稲目の子で蝦夷の父。
敏達朝から推古朝まで4朝の大臣をつとめ、嶋大臣ともよばれた。

574年(敏達3)白猪屯倉で戸籍作成にたずさわるなど、蘇我氏の家職である 朝廷の財務官を敬称している。
仏教の受容には熱心で、584年には百済からきた 石仏を新築の仏殿におさめ、高句麗僧の恵便について善信尼など3人を出家させた。

翌585年、塔をたてて斉会をひらいたが、たまたま疫病が流行したため、かねてから 対立していた大連の物部守屋らにおそわれ、堂塔をやかれ仏像も捨てられた。
敏達天皇がなくなったあと、守屋と馬子の対立は深まり、用明天皇死後の皇位継承では ついに軍事衝突となった。
穴穂部皇子をたてようとした守屋に対して、馬子は敏達天皇の皇后 だった額田部皇女(推古天皇)をかつぎ、大軍をひきいて穴穂部皇子・守屋をほろぼした。
あとをついだ崇峻天皇は592年(崇峻5)、専制を強める馬子と対立して暗殺され、 その後に、額田部皇女が推古天皇として即位し、聖徳太子(厩戸皇子)が摂政となった。

推古天皇は馬子の姪にあたり、聖徳太子は娘の夫で義理の子にあたる。
そうした関係のためか、推古朝におこなわれた仏教興隆政策・冠位十二階・ 憲法十七条・遣随使派遣など一連の施策に対して、争いはおきなかった。
しかし、これらにしたがっていたわけでもなく、政府高官は冠位十二階の授与の対象からはずして 特別扱いとさせている。

皇室の権威を高めることにつながる「天皇記」「国記」編纂では、共編者となって記述を抑制・遅滞させたらしい。
623年(推古31)には高句麗と手をむすんで新羅を討つなど、太子の遣随使外交との違いもみせている。
仏教への崇敬はかわることなく、592年以来、氏寺の飛鳥寺(法興寺)の建立につくした。
墓は桃原墓といわれ、巨石で有名な奈良県明日香村の石舞台古墳と推定されている。



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