推古天皇
554〜628年74歳没。
第33代とされる天皇。
在位592〜628年。
名は額田部皇女。和風諡号は豊御食炊屋姫天皇。
父は欽明天皇、母は蘇我稲目の娘の堅塩絵媛。
18歳で敏達天皇妃となり、前皇后広姫の死後に皇后となり、2男5女を生んだ。
敏達天皇がなくなると皇室の実験をにぎり、病気がちだった同母兄の用明天皇を
後継とした。
さらに用明天皇が死んだ587年(用明2)には、皇位継承を要求する異母弟の
穴穂部皇子を、蘇我馬子や甥の聖徳太子らと滅ぼしている。
その後、穴穂部皇子の実弟の崇峻天皇が即位したが、592年(崇峻5)に蘇我馬子と
対立し、暗殺されたため、女性としてはじめて即位し、聖徳太子を摂政とした。
都ははじめ飛鳥の豊浦宮にさだめ、のちに小墾田宮にうつしている。
内政では中央集権化につとめ、部民制にかわる官司制への移行をすすめた。
太子も官僚の育成に力をいれ、603年(推古11)に官位十二階、604年には
憲法十七条を制定している。
さらに統一王朝の隋と直接的な外交ルートをひらき、遣随使をおくった。
それは国際的地位を高めて国内の権威をとりもどし、また隋の高句麗遠征を前に
朝鮮半島での権益をまもるためであった。
晩年にはもっとも頼りにしていた太子に先だたれ、蘇我馬子の政治的な圧迫にもなやまされ
つづけた。
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