聖徳太子
飛鳥時代の名政治家。574〜622年、48歳没。
本名は厩戸皇子で、上宮聖王・豊聡耳・聖徳王・法大王などともいう。
父は用明天皇、母は欽明天皇の娘の穴穂部間人皇女。
山背大兄王らの父。
587年(用明2)、用明天皇がなくなると、大連の物部守屋と大臣の蘇我馬子の間で
皇位継承者をめぐる紛争がおきた。
このとき聖徳太子は、敏達天皇の皇后だった額田部皇女(推古天皇)や蘇我馬子側についた。
戦いのさなかに四天王に勝利を祈願したことが、四天王寺の創建につながったともいわれている。
守屋を滅ぼした額田部皇女は崇峻天皇を即位させてが、天皇は592年(崇峻5)、馬子によって暗殺された。
その後継者がみな病弱か年少だったため、特例として額田部皇女が即位して初の女帝の推古天皇となった。
593年(推古元)、聖徳太子は摂政として天皇の補佐にあたることとなる。
聖徳太子の当面とした政治課題は、中央集権の推進と、衰退した皇室の権威回復だった。
中央集権化には蘇我氏も協力的だったので、歩調をあわせて新政策をうちだしていく。
内政では、まず仏教という新宗教の導入で精神的な統一をはかった。
これが蘇我氏から仏教導入の主導権をうばう策でもあった。
603年には冠位十二階をさだめ、天皇の命令に対する奉仕の結果を基準に冠位を上下させ、
忠実な官僚育成をめざした。
氏ごとの世襲ではなく個人的能力を基準にするので氏姓制度と利害が反するが、政府高官層を対象としないことで
反発をかわした。
翌604年には、十七条憲法をさだめている。
冠位・憲法の両者によって、氏族が朝廷内の職務をうけおう部民制的掌体制から、
天皇中心の集権的な官僚体制に転換することをめざしたのである。
外交面では、日本の大王(天皇)は中国から公認された倭国王であることを強調し、蘇我氏に対する
地位の優越を誇示しようとした。
そのため589年に中国を統一した隋に、はやくも600年に使者をおくっている。
607年、608年とつづけて遣随使の小野妹子をおくり、対等外交を展開した。
遣随使には多数の留学生・僧もしたがわせ、中国のすすんだ政治・仏教をまなばせている。
この間の605年、聖徳太子は外交の窓口である難波津に通じる要衝の地へ斑鳩宮をかまえてすみ、
推古の皇居の小懇田宮での内政をも視野にいれて政治をおこなった。
しかし、晩年は蘇我馬子の圧力をうけたが、新政策の浸透につとめたのか、表だった行動はみられない。
聖徳太子の仏教への傾倒ぶりは有名で、高句麗僧の慧慈に師事し、斑鳩宮では法華・維摩・勝鬘の3経について
「三経義疏」という註釈書をあらわしたという。
布教にも熱心で、法隆寺を建立するなど仏教文化の興隆に大きな役割をはたした。
「天皇記」「国記」という歴史書の編集も手がけ、622年斑鳩宮に没した。
聖徳太子を聖人とする見方は8世紀初めにあって、10世紀前半ころの「聖徳太子伝暦」で伝説的な聖者のイメージが
でき、平安〜鎌倉時代に太子信仰が普及していき、「聖徳太子未来記」などという偽書まで出回った。
この偽書は楠木正成が士気を鼓舞するためにまで使用されている。
しかし、皇太子への就任、遣随使の派遣へのかかわり、「三経義疏」
著作についての真偽など、聖徳太子が行ったとされる多くの事績について、疑問視する意見も強い。
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