蘇我入鹿


飛鳥時代の大豪族。
蘇我蝦夷の子。名は大郎・鞍作などともいう。

「藤原家伝」によれば、唐から帰国した新漢人旻の私塾にかよって中国の新知識をまなび、 旻から学堂で1番の秀才と評されたという。
642年1月、皇極天皇が即位したころには、入鹿の権勢はすでに父の大臣蝦夷を凌ぎ、 国政を左右するほどであったという。
翌643年(皇極2)父の蝦夷から大臣の地位を象徴する紫冠をさずけられ、 私的な手続きで大臣についた。
この直後から入鹿は、聖徳太子の子の大兄山背皇子の上宮王家の討滅を謀りはじめた。

[舎予]明天皇・皇極女帝という非蘇我系の天皇のあと、叔母である法提郎女 の子の古人大兄皇子の即位をのぞんだ入鹿は、皇位継承権を主張していた山背大兄王 を643年11月、軽皇子(孝徳天皇)、巨勢徳太、大伴馬飼らとともに軍を起こし、山背皇子がいる 斑鳩宮に急襲し、一族ことごとく滅ぼした。

これを知った、父の蝦夷は怒り嘆いたという。

朝廷内の反蘇我氏的な動きの高まりを察知すると、入鹿はほとんど朝参しなくなり、 「あまかしのおか」にたてた邸宅に多数の兵士・兵器などをおいてこもった。
しかし、645年6月(大化元)中臣鎌足と中大兄皇子(天智天皇)によるクーデタ(乙巳の変) にあい、飛鳥板蓋宮での三韓進調とされる儀式の場で、入鹿は暗殺され、父の蝦夷も「あまかしのおか」の邸に火を放って自殺した。

入鹿の首塚とつたわる五輪塔は、後世につくられたものである。
また、「日本書紀」の聖徳太子伝暦には蘇我入鹿は庭に鳥形を戴いた鉄柱を建てこれを眼力で睨み落としたという邪視の説の話がみられる。



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