藤原鎌足


614〜669年55歳没。
飛鳥時代の政治家で藤原氏の祖。中臣鎌足・鎌子ともいう。
父は中臣御食子で、推古・[舎予]明朝に仕えた神官で地位は大臣、母は大伴咋子の娘で、智仙娘という。大伴金村の孫で 不比等の父。

はやくから中国の史書をまなび、中国の事情に関心をもっていたらしい。
とくに隋・唐に長く滞在した南淵請安が飛鳥に私塾をひらくと通いつめ、塾内では 蘇我入鹿とならんで秀才ぶりを発揮。
644年(皇極3)中臣の家職である朝廷祭祀官につくことをもとめられたが、 固辞して摂津国の三島の別宅にしりぞいた。
ひそかに天皇中心の中央集権国家をつくろうと志し、その中心に擁立すべき皇子をさがした。
当初は軽皇子(孝徳天皇)、のちに中大兄皇子(天智天皇)に近づいた。
飛鳥寺の蹴鞠の会で脱げた革鞋を捧げ、中大兄皇子(天智天皇)と親しくなった逸話は有名である。

645年(大化元)6月、飛鳥板蓋宮で、当時政権をにぎっていた大臣の蘇我入鹿を中大兄皇子たちと協力して 暗殺。
いわゆる乙巳の変をおこした。
樹立した大化の改新政府では、内臣となって軍事指揮権をにぎった。
大化の改新の過程だけだなく、孝徳・斉明・天智朝を通じて、腹心として 中大兄皇子によりそい、国家体制の骨格づくりから白村江の戦いでの戦略まで、内外の政治の枢機にかか わったという。
蘇我一族分裂させるために、蘇我同族の石川麻呂の娘を中大兄皇子に嫁がせたり、蘇我入鹿の暗殺、 叔父の孝徳天皇に推戴しながら、実権は甥の中大兄皇子に掌握させておくなどは、みな鎌足の立案といわれ、 そののち鎌足の子孫が平安時代にかけて政権を掌握してゆく過程でも、皇室との婚姻政策をはじめとするような 策略は繰り返して用いられている。

中大兄皇子(天智天皇)とその弟の大海人皇子(天武天皇)の不和になると、その仲裁に努めたという。
功績により、孝徳朝の末年に大紫冠(正三位相当)をうけた。
死の間際には大織冠(正一位相当)を授与され、さらに中臣をあらためて藤原の 氏名をさずけられた。

先見性のある卓越した政治家といわれるが、彼が実際に手がけたことははっきりしない。
奈良時代につくられた伝記「藤原家伝」には、668年ころに近江令の編纂を命じられたとある。
しかし近江令が編纂された可能性はうすく、また中大兄皇子への接近や出会いの話には新羅の列伝に 類似の記事があり、藤原氏の子孫が文飾した疑いも否定できない。
遺体は山階寺での葬儀をへて、摂津国の安威山に埋葬されたが、のち多武峰に改葬された。



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