大和
☆大和政権とは。☆
4世紀中ごろ〜7世紀末に畿内地域にあった律令国家以前の国家。
大和王権・大和朝廷・大和国家ともいう。
これが邪馬台国とどのように関係するかは不明。
4世紀中ごろには、大和の磯城・磐余あたりを本拠に畿内豪族が連合し、
大和政権の基礎を確立した。
そのことは前方後円墳が畿内地域で成立し、約半世紀をかけて地方にひろがっていたったこと、
また倭国として391〜404年に朝鮮半島に渡海して高句麗と争うほどの国力を持った事から推測できる。
☆大王の台頭☆
5世紀には倭の五王が中国の南朝の宋に朝貢して朝鮮南部の利権を主張し、百済・高句麗よりは下位だったが、
倭国の国際的な地位を確立させた。
一方では渡来人の流入させて国力をやしない、経済力・軍事力は飛躍的に上昇した。
こうして国内の支配体制が充実し、5世紀後半雄略朝には東北南部から九州中部まで支配下におさめた。
大和の王もただの王ではなく、王の中の王である大王としての自覚をもち、地方豪族との関係も、ゆるやかな政治連合体
から大王の宮につかえるような従属的なものにかわっていく。
☆支配体制の確立☆
5〜6世紀後半にしだいに氏姓制度が確立し、大和政権とのかかわり方で格付けされる支配体制が
できあがる。政権内の職務を分担する伴造・品部の制度がつくられ、農民は部民としてその下に組織された。
各地の豪族もこれにならい、たとえば春日氏が春日部というように農民を編成し、全国の人民はいずれかの部民となった。
地方豪族は県主・国造として大和政権の官吏としてあつかわれ、これに反抗するものは、大伴連・物部連などの軍事氏族が
制圧した。また国造からは屯倉や名代・子代などの人民・土地をとりあげ、国造の一族に管理させた。
しかし、大和政権内でも複数の王系の抗争があり、4世紀末ごろには河内に本拠がうつった。
6世紀初頭にも越前の継体天皇の即位をめぐって大和の豪族をまきこむ混乱がおきた。
こうした内紛にくわえ、朝鮮半島で新羅の台頭により、朝鮮南部との外交関係はゆらいだ。
日本は4世紀後半から百済と軍事同盟をむすび加羅とは強い結びつきをもっていたが、532年に金官加羅などが
新羅に併呑さら、562年新羅の攻勢をけてのこる加羅諸国も滅んだ。
☆中央集権の推進☆
しかし6世紀には政権中枢は権力の集中にむかい、大臣・大連が中心になって強力に主導してしだいに
司官制へとすすんだ。部民を官司の統率下において氏族制度の職務分割体制を克服し、氏族員の官僚化によって
中央集権体制をかためようとしたのである。
☆大和関連人物☆
応神天皇 武内宿[示爾]
仁徳天皇
雄略天皇
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