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るるはの信念
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| るるはは、教員をやってます。なんか教育に関すること、いまいろいろ問題になっていますね。教師がどうとか、子どもがどうとか、学習指導要領がどうとかetc・・・。
私は、この道の経験が少ないから自信はないけれど、自分が見つけた信念は忘れたくないな、って思ってます。んで、ここに『るるはの信念』かいておくことにします。こうやって書いておけば、ふと忘れてしまった時に還れるしね。あと、いろんな人にみてもらえれば、いろんな意見も聞けるだろうし、自分がいつも緊張していられるしね。 つーことで、ここに書いてあることで気になる、ひっかかることがあったら、バンバン言ってください。言われないと気が付かないことも多々あるし、それがるるはのためになりますから(^_^) |
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私は、大学を卒業してすぐ今の学校に勤めました。 今の私の学校の生徒は、障害のある子達です。 英語で言えば”Special Education for Children with Handicap”でしょうか。 よく障害のある子を「障害児」、「障害を持っている子」と言いますが、私はそれが嫌いです。その子達は、自分たちの意志で障害を「持っている」わけじゃない、障害があるというだけで「(児)人」の前に『障害』と言う接頭語をなぜつけるのか、つまり「障害児である前に一人の人間なんだ」ということです。私は普段はもちろん「子ども」、「生徒」といいますが、どうしても説明しなきゃいけないときなどは、「障害のある子」と言っています。まあ、こういう細かいこといえば、「障害」って言葉もいやになっちゃうんですけどね。 だから、先にかいた英語もそれをよく物語っています。英語でも昔は”Handicapped Children”(障害児)でした。でも、アメリカをはじめ諸外国では、いろんな人権問題に始まり、「人が第一」という考えが、ずーーーーと昔から見直されてきました。だから、”Children with Handicap”(障害のある子ども)というんですよ。 なんか言葉云々でとても屁理屈のようですが、言葉ひとつひとつが心構えにつながると思っているもんで。 私の一番の理想は「障害のある子たちが、自分たちの家のある地域で暮らしていく」社会です。アメリカやヨーロッパ諸外国のような社会にしていきたい。それのために、この職でいろいろやっていけたらと思っています。
子どもたちって、なんかしらこっちが困るようなことしてくれるんですよね。んで、つい叱ってしまいそうになる。でも、だめなこと、やってはいけないことをしてしまったからといって、叱ってしまうというのは短絡的だなって思ってます。だからって、怒らないってわけじゃないですよ。 大学時代に心理学の時間に、心理学者の河合隼雄さんの本(題名忘れちゃった)を読みました。まあ、いろいろ書いてあったんですが、とりあえず結論から言えば「叱るということは、百害あって一理なし」と言うことでした。それと、教育学の時間にどなただったか忘れたんですが、「あら探しより宝探し」ということをおっしゃっている先生のコラムを読みました。 私も、この職についてからそれはいろんな場面で実感しています。 私の担任している子どもたち、できないこともたくさんあるし、困ったことをしてしまうこともあります。いろいろあるとはおもいますが、困った行動を「問題行動」とかって言いますよね。んで、いつもクローズアップされるのは起こった「問題」のことなんですよね。でも、きっとその「問題」が何もないところで発生するわけがないんですよ。なにかあるから「問題」が発生するんだと思います。表面はあくまで私たちの目からみて「問題」に見えているだけかもしれません。だから、私は必ず「問題行動」だと思える行動のその裏にある「バックグラウンド(背景)」を考えるようにしています。まあ、これはあたりまえのことですけどね(^^;)表面の問題だけを抑えたり取り除いたとしても、やっぱり原因の根っこを引っこ抜かなきゃ、問題は生えつづけるのだと思います。 子どもが大声を出しながら、靴や周りのものをなげたり、たたいたりしたとします。確かに、困った行動です。でも、そこで考えてみるんです。「この子はなんでこんなことをしちゃったんだろう?」って。もしかしたら、不安になるとパニックをおこす子で、周りの状況がわからず不安になったのかもしれない、あるいは私とのコミュニケーションがうまくいかず不安になったのかもしれない、などなど。そうなってくればそのような状況を作ってしまった私が悪いわけで。だから、そういうときには怒りません。ただし、給食のおかわりがほしかったが、「おかわりはないよ」言われたのに、食べたくてわがまま言った、というようなら話は変わってきますね。それと周りに危害が及ぶ時、身の危険があるときにはバックグラウンドに関係なく無条件で叱ります。 サンテグジュベリの「星の王子さま」に出てくる王様が言っていました。「わしが大将に鳥になれといって、大将が鳥にならなかったとしても、それは大将が悪いからではなく、わしが悪いのだ」と。 私ももちろんそうですが、ほめられればがんばろうって気になります。原因を考えてくれないところで怒られるのは、だれでもいやなことだと思います。私は教員です。「だめ」とか「禁止」とかやってたら、警察と一緒だと思います。それだけじゃ、学校の意味がないと思っています。だから、私は「あら探しより宝探し」で子どもたちをのばしていけたらと思ってます。ただし、条件付。「周りに危害を及ぼす時、身の危険があるとき」このときだけは、本気で叱ります。これだけは、何をさしおいても守らなきゃいけないことだから。あとやっぱ、叱られてばっかだと慣れちゃって(?耐性がつく?)、本当に叱りたい時にその効果が薄れちゃうような気もするし。
何度も何度もやってもうまくいかなかったり、いろんな方法試してみてもにっちもさっちもいかなくなったり、とにかく生きていれば何かしらうまくいかないこと、思うようにいかないことってありますね。 私も、父のせっかちな性分を受け継いでしまったからか、非常にことをあせってしまうことが多々あります。それと、いろんな希望、理想、夢いっぱい持ってます(たぶん)。そーなると、なおさらせっかちな性分がよく働くこともしばしばです。 大学の時にやっていた家庭教師もそうでしたが、子どもに教えるというのは非常に大変でした。んで、ついつい考えてしまうことは、「この子は・・・」。ほんとだめな先生の定番ですね。子どものせいにしちゃう。自分の教え方がまずいのにね。 ふとそんな時に教育学の授業で障害児教育で有名な近藤原理先生がおっしゃっていたことを知りました。子どもを教える時に大事なこと、それは「のんき・根気・元気」ということ。これは、心に残りました。 「あれも、これも」とあせってばっかり、欲張ってばっかりだと、いっぱいいっぱいになっちゃうんですよね。なかなか思うようにいかなくても、じっくり根気強くやっていけばきっと先が見えてくる。それに元気じゃなきゃ何もできない。今までの自分をふり返させられました。 「のんき・根気・元気」。いつもせっかちな自分をみつけたら、この言葉を思い出しています。
これは、お釈迦様がおっしゃった有名な言葉ですね。ちなみに宗教教育のつもりではないですからね〜〜〜(^^;) 「天上(空)にも天下(地上)にもその人は一人しかいない、その人はこの世の中に一人しかいない、だから人の命は一人一人とても尊いものだ」という意味だということを、大学4年のときに初めて知りました(はずかしい・・・)。これは、私の祖母の一周忌の時にお坊さんがお話していました。 これは、私の大好きな言葉です。これは、ほんとうにそうだと思います。人が生まれてくることって、簡単に思えるかもしれません、自然のことに思えるかもしれません。でも、その人がそこにいるということは、相当な確率をくぐりぬけてきた奇跡だと私は思っています。何十万個の卵子の中の1個と何十億個の精子の中の1個がめぐり合って、さらにその中で遺伝子の組み合わせがあって・・・・・・、なんてつい理科の教員でそんなことをちょっと計算しちゃったりしてしまうんですが、ほんとその人が今ここにいるというのはすごいことなのだと思います。 その人は、1人しかいません。どこをどう探してもほかにはいません。今、クローンとかあるけれど、遺伝子が同じだからといって、同じ人ではありません。ふたご(一卵性双生児)なんて、似てるけど同じじゃないでしょ。その人はその人しかいない、その人の命が消えたらもういないんです。人の命は、ほんと大切なもの、尊いものなんですよ。
「人生はギャンブルだ!あたって砕けろ!」。これは私の座右の銘です。やばいんじゃない?と思った人、たぶんまともです。 私は、大学受験や教員採用試験などいろいろがけっぷちを歩いてきました。「無理じゃない?」と言うようなことに、飛び込んできました。「人生一度だ、なせばなる〜♪」。つーことで、「人生一度きりだしね、悔いのない試合をしたいじゃない?」と、なんとなくかっこよく周りには言ってきました。今おもうとそのおもいっきりのよさで今があるように思っています。 さてさて、自分が今の職についた時、学部主事に言われました。「若いし経験がないんだから、失敗してあたりまえ。これが何年か後にはしかたないじゃすまされないんだぞ。取り返しのつかないことはだめだけど、今のうちだ。失敗恐れずにいろいろやってみろ」と。それまで、やっぱり失敗がこわくて、びくびくしながら恐る恐るやっていました。でも、それだと新しいことなんもできないんですよ。いろんなことできないんですよ。だから、失敗してもいいから、いろんなことに挑戦しよう、と「あたって砕けろ!」という言葉を復活させました。 それからというもの、よくあたって砕けていました。でも、絶対に砕け散ることだけはしないようにしています。取り返しのつかないことになるようなことは絶対にしません。自分のことなら「人生はギャンブルだ!」なんて言えますが、もちろんほかの人のことならそんなことは絶対にできませんから(あたりまえだってね)。いまでも、時々あたって砕けていますが、その砕けたものをもう一回かき集めた時にいろんなことに気づかされています。「なんでくだけちゃったのかな?」、「なんでだめだったのかな?」、あたって砕けないとわからないこともあります。それが、私の蓄えになってきていると思います。
教員というのは、「教える」というのが仕事だと思っていました。だって「教師」って言葉、思いっきりそれを言ってますよね。きっと「教える」ことが仕事かもしれないけど、それはほんの一部なんだなって、子どもたちと接してきて思いました。 私は、昨年はじめての担任を持ちました。自分の担任の生徒二人を目の前にして、「これやろう、あれやろう」といろんなことを考えていましたが、いざやってみると空回りばかり。自分のやってみたいこと、みんなことごとく崩れ去りました。子どもとのラポートがどれなくて、子どもが学校で落ち着かずパニックをおこすことも。「なんでだろう?」、「何がわるいんだろう?」と思いました。いろいろ試してみるけど、ぜんぜんだめ。一向によくならない状況にあせりました。 その状況が一気に変わった時がありました。学校祭の時でした。たくさんのお客さんを目の前にして、ぜんぜん落ち着かなかった生徒、泣きそうになったり、物を投げたり、ほんとパニック状態でした。ほんと正直な気持ち、「またか。どうしよう」でした。でも、一番つらいのはその生徒なんですよね。どうしていいのかわからなくて、ほんとつらかったと思います。でも、私どうしていいかわからなくて、とりあえずだましだましでもいいから、彼女が納得するようなことをしようと思いました。苦し紛れに「お母さんを探しに行こう」と言いました。すると、「いこ!いこ!」と私の手をつかんできました。それから、ずっと半日「お母さん、どこだろね、どこだろね」と探しまわりました。もちろん、私は途中でお母さんは学校内にいないことに気が付きました。でも、その時はそれ以外に生徒のパニックを抑える方法が思いつかなくて、ずっとそれを続けていました。その間に、生徒とお話をいっぱいしました。「お母さん、どこみてるのかな?」、「お母さんに電話してみようか」などなど。その時に、ふと疲れてしまったのもあり、私は腰をおろしその生徒よりも下から見上げるような形になったときに、気が付いたんです。下から見上げたら、その生徒が見ているものが全部みえたんです。その生徒の視線の先にあるものが見えたんです。そうしたらなぜかわからないけど、その生徒の気持ちが伝わってきました。何をおもっているのか、完全ではないけれどなんとなくわかりました。 私は、その時にやっと気がつきました。それまで自分はその生徒を、上からしか見ていなかったと。上から見るっていうのは、遠くまで全部みえるような気がするけれど、上からだけじゃわからないことたくさんあるんだなって。よく「子どもの目線にたって」なんていいますが、それがほんとそのとおりだなって思いました。ううん、子どもの目線と同じじゃまだまだわからない。子どもよりも下から見ないと、子どもよりも上にあるものは見えないんですよ。 それに気がついてから、それまでなかなかうまくいかなかったことが変わってきました。教員って、ついつい上から子どもをみて、上から教えてしまう。でも、子どもと同じ基準になってみなきゃ、子どもがほんとに必要とするものを教え、育てることはできないと思います。だから、教員の仕事のほとんどは、「子どもを見上げて、子どもから学ぶ」なんだな、と私は思っています。教えるというのは、「子どもを育てる」だめのほんの一手段に過ぎないのだと思っています。
これは、上に書いた「子どもを見上げよう」の続きでもあります。 「先生」って、「○○さん」とか「○○様」とかと同じようなものですよね。んで、「〜さん」とか「〜様」とかって、もちろんのことながら自分のことを「るるはさん」とか「るるは様」なんて言わないですよね。でもでも、学校の中じゃざらなんですよ、これが(^^;)。自分のことを「るるは先生はね・・・」なんて言っちゃったりするんですよ。これって、けっこう多くの先生が気が付かないうちに言っているんですよ。保護者の方々、もしよかったら授業参観などで授業をしている先生の言葉をちょっと気をつけて聞いてみるとわかると思いますよ(^_^)たぶん、だれもが昔から言っているから、だれも違和感なく聞いていると思うんですが、やっぱこれって変だと思うんです。自分のことを「先生」って言うのは。たぶん、「教師」という職業をさして言ったり、生徒と教師の対義語で使っていたりするのかもしれないけど、やっぱ変だと思ってます。たぶん、自分のことをえらいとかおもっていっている先生はそうはいないと思います。へりくつといえばへりくつかもしれないんですが、初任者研修の時に講師の先生がおっしゃっていて、ふと考えさせられたんですね。 これは、私の独自のこだわりだと思うんですが、自分を「先生」と言うようになったら子どもの上にいるような気がするんです。いつまでも私は子どものそばにいたいから、子どもを見上げていたいから、自分のことを「先生」って言わないようにしょうと思ってます。
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