月刊「幕末マガジン」

幕末維新の人物や事件の紹介。龍馬はもちろん、幕末佐賀藩史、幕末長州藩史、明治維新政治外交史、全国の幕末史跡・イベント情報なども。歴史ファン必読。
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  【幕末マガジン】 // 2003/3/16 // Published by RyoMaX

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I_N_D_E_X____________________________
┣幕末・龍馬 名言ピックアップ (第3回)  
    ┣幕末の麒麟児・吉川監物 (第3回) 
┣りょうまのうた (第1回) 新コーナー
┣明治4年岩倉使節団と「米欧回覧実記」 (第3回) 
┣幕末維新オススメ本 (第2回) 
┣明治新聞記 (第3回) 
┣イベント情報
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■ 幕末・龍馬 名言ピックアップ      (文:半平太)
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今回は、歴史に残る人物の言葉ながら、思わず微笑んでしまう、楽しくお茶目な
名言をピックアップしてみました。
・名言ファイル5 〜坂本龍馬〜
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
「そもそも人間の一生は合点の行かぬはもとよりのこと、運のわるい
   ものは風呂より出でんとして、きんたまをつめわりて死ぬものもあり。」
(解説)この言葉は、坂本龍馬が土佐藩を脱藩して江戸に上り、勝海舟の弟子
    になった後に、姉の乙女に宛てた手紙の序章部分です。この文章の後、
    「今にては、日本第一の人物、勝麟太郎殿という人に弟子になり・・」
    という、有名な勝海舟の紹介文に続いていくのです。かなり自由な時
    代である現代においても、これだけの奔放な文章には滅多にお目にか
    かれないでしょう。龍馬の面白さを示す代表的な名言ですね。
・名言ファイル6 〜土方歳三〜
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
「知れば迷ひ 知らねば迷はぬ 恋の道」
(解説)新撰組副長:土方歳三が京都で詠んだとされる句。土方歳三は「豊玉」
    という俳号を持っていたほど、俳句に精通していたと言われています。
    京都の志士・浪人達を震え上がらせた、新撰組の副長の俳句にしては、
    なんとも人間的で微笑ましい句ではありませんか。殺伐とした隊務の
    中で、恋に悩んでいた土方歳三の姿を想像すると、なんだか身近な人
    間に感じてくるのは私だけでしょうか。


ご意見・ご指摘等、よろしくお願いいたします。→ kazu-ni@est.hi-ho.ne.jp

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■吉川監物 (激動の長州藩と翼翼したる吉川監物) (文:kenmotsu)
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■□■お願い■□■
kenmotsuにて御座候
前回は八一八の政変までの吉川監物にめぐる流れを触れましたが、一回目の内容
が関ヶ原の戦い、前回の吉川監物の登場から京へ上洛と、区切りのいいところで
終えた形となりましたが、文章が長くなりがちで読みにくくなったことを反省し
て少しスタイルを変えたいと思います。
そこで当初の予定では全六回としましたが、全十回(予定)となります。吉川
監物シリーズを通じての全体的な情報量を落とさずに、区切りよく読みやすくさ
せるつもりです。どうか最後までお付き合いいただけますようお願い申し上げま
すm(__)m
■□■八一八の政変が起こる■□■
 前置きが長くなりましたが、もとい八一八の政変にて公武合体派の猛烈な巻き
返しによって京を追われようとしている長州藩はこのときどのような対応を行う
のでしょうか。
会津・薩摩によって御所の門は閉ざされ、前関白近衛忠衛に中川宮を中心とする
廷臣たちが参内し、孝明天皇も列席する朝廷会議が開かれ重大な政治判断がなさ
れます。会津と薩摩によって外部と処断されたなか、関白・儀奏・武家伝奏の姿
はなく、江戸時代の朝廷の慣例なれば会議として成立することがありえないにもか
かわらず、長州藩は八月十八日朝に突然朝廷より一方的な宣告がされます。
「行幸の儀については、粗暴の所置あり」とされ、堺町御門の警の任を解かれま
す。吉川監物はあわてて自らの士卒(岩国兵)六百人ばかりを引き連れて鷹司邸
へ入ります。そこには、七卿(三条西季知・三条実美・東久世通喜・四条隆謌・
壬生基修・錦小路頼徳・沢宣嘉)、支藩清末藩主毛利元純、家老益田右衛門介、
そして京で活躍する長州宗藩士たちがいました。

 長州藩のこのとき、長州宗藩以外に清末藩や岩国藩の兵士など二千人ほどおり、
長州藩に近い三条実美の親兵六百人と、薩摩藩や会津藩と十二分に戦える戦力を
背景に真木和泉や宮部鼎蔵らそして長州藩内部でも薩摩や会津との一戦やむなし
との空気が出てきます。
これら強硬な意見を主張されている中、吉川監物は三条実美らと協議し、とり
あえず堺町御門から離れて禁中から離れた東山大仏妙法院へ移動します。
ここで、吉川監物は支藩の毛利元純や家老である益田右衛門介や七卿などと相
談し、長州勢は京より立ち去ることを決断します。志士の中にはこれに反対する
者もいましたが、吉川監物ら藩の首脳部は尊王派の意見を押さえて帰国するよう
にさせます。
 そのさいに、三条実美らを護っていた親兵隊も解散され、昨日まで京の政治は
我らなりと自認していた尊王攘夷派の志士たちも京より退去することとなります。

 吉川監物の決断はまさに長州藩にとって最小限の行政機能(京都留守居役)を
除いた全面的な撤退、長井雅楽が公武合体論を訴える前に戻すことが、大げさ
な表現ではないといえるほどでした。

 急進的な尊王攘夷派ではなかった吉川監物は薩摩藩との接触を絶やさずにして
いたため、政変時には薩摩藩から内々に使者を迎えていました。このあと岩国藩
は薩摩藩とは絶縁せずに連絡だけとるように関係を続けていました。このことが
後々に吉川監物の政治的な行動にとって少なからず影響を与えることとなります。

 吉川監物は毎年の参勤交代はしていませんが、節目のときに江戸へ参勤してい
たので、長州藩とは別に岩国藩独自の簡単な藩邸のような屋敷があります。
京より長州勢が撤退したとはいえ、長州藩は藩邸まで放棄したわけではありませ
ん。岩国藩も長州宗藩とどうように京にも独自の藩邸がありました。
京の藩邸は諸説がありますが、対馬藩邸に隣接した京の高瀬川沿いに宿を借りた
ような長州藩と比べたら随分こじんまりした屋敷がありました。(この京の岩国藩邸
跡に碑があったようですが、わたしはいまだに発見できません。もし、見かけら
れたかたがおられたら、教えてください。)
 もとい、京から撤退した長州勢はかえって急進的な攘夷路線を続け、会津藩や
薩摩藩と強い態度を取り続けることとなります。

■□■翼翼とする吉川監物、高杉晋作岩国に訪れる■□■
 八一八の政変の直後から、長州藩の政治は流動化します。藩内の保守派椋梨藤
太・中川宇右衛門らが、同志を引き連れて、いわゆる長州本国で藩政を司ってい
た正義派といわれる周布政之助・前田孫右衛門・毛利登人を解任するように迫り
ます。毛利敬親はこれに抗しがたく保守派の意見を聞きいれ、いわゆる正義派を
藩の要職から外します。
八一八の政変で正義派は一挙に失墜したかに思われましたが、高杉晋作が自ら
育てた奇兵隊百人ほどを引き連れて、毛利敬親に圧力をかけて正義派の復権を訴
えます。毛利敬親はこのままでは長州藩は内乱になると思い、保守派をしりぞけ
て正義派を再び復権させます。この高杉晋作の奇兵隊の武力を背景にした保守派
をしりぞけたことは、高杉晋作がのちに再び危地に追い込まれたときにこの体験
が少なからず影響を与えることになります。

 吉川監物は岩国に戻り政務に励みますが、長州藩内部の藩政に関わろうとは
しませんでした。この年(文久三年)十月十八日に、藩主毛利敬親は高杉晋作に
親書を手渡し岩国に赴いて、吉川監物に面会するように命じます。その目的は世
子定弘を京へ遣わして京より追われた七卿を京へ戻し、朝権を回復したい、無論
軍事力でそれを訴えることもあり、その善後策を協議したいので山口へ出てくる
よう促したものです。藩主の使者である高杉晋作を「御頭痛」という病気を理由
で面会もしようとしません。ただ、「幾重も幾重も御上京の儀は御大事」と上京
阻止とまでいきませんが、難色を示して進発論は極力反対していました。
 毛利敬親はこれでもあきらめず、寄組(上級藩士四千五百石の寄組)栗屋帯刀
を使者として派遣し、交渉の末吉川監物の使者を山口に連れてきます。そのときの
使者の口上はこうありました。「縦令如何様の策略御座候とも、此節御上京の儀は
不可然と存じ奉り候」と、世子定広が兵を連れて上洛すると、それはもう、一触
即発の事態となり天下の騒乱となるやもしれないから、今は世子の上落(進発)
は今一度再考あるべしと訴えます。それでも長州藩は諦めず家老の福原越後・
同じく家老の清水清太郎・政務員の前田孫右衛門を岩国に派遣し、再度吉川監物
に面会して、進発の儀のために藩主の意向に沿うように迫ります。「他の三支藩
の藩主はみな賛成しています。されど、閣下(吉川監物)だけが反対しています。
時期が来れば、その時は上洛の議は賛成されますか。」吉川監物は熟慮の末こう
答えます。「予め回答することはできないが、その時がくればみなで協議すべし。」
と言って、三人の期待に沿うような返事を引き出すには至りませんでした。 
 吉川監物はこのときの態度は「穴熊」と表現できるほど岩国から動こうとせず、
世子定弘を上京する進発にも反対して、前年までの吉川監物と毛利家(長州藩)
の関係からすると冷え切っていたともいえるほどです。
 さて、なぜこれほど長州宗藩はここまで吉川家(岩国藩)に対して進発論に賛
同してくれようにと執拗に求めたのでしょうか?
 諸説ありますが、決して毛利敬親の政治的な権力基盤が決して磐石でない、そ
して毛利家が支藩などに領地を分配していますが、これら支藩の領土が長州藩の
占めるウェイトが大きいなどが考えられます。
 どちらにしても藩主毛利敬親は吉川監物が協力してくれると、期待していたの
ですが空しくそれが実現できずにいました。

■□■噴流寸前、長州藩■□■
 さて、長州藩が進発論をするか否かでもめている最中、京では画期な政治体制
が誕生するかと思われました。
朝廷のもとで参預会議が開催されるようになります。

 諸大名が朝廷の政治に加わる諸侯会議で、江戸時代通じて唯一の例であり、
制度上で形式を整えたのはこれだけであります。
一橋慶喜、松平容保、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城、そして島津久光が参予に
任命されます。
 長州藩を京より追い出した朝廷は、まだ自力で政治を行える力がないため、参
預会議に前途多難な日本の政治を託すことを期待していたのですが、「攘夷問題」
や「横浜鎖港問題」など四侯と一橋や幕府側で対立が先鋭化し、さらに山内容堂
や伊達宗城の帰国によりわずか四ヶ月で解体されることになります。

 不安定な政情を露呈することになった京の様子知るに及んだ長州藩は参預会議
の解体によって生じた政治空白を看破して再び京へ進発する意見が強まってきま
す。
 
 進発論を支持する尊王派の志士たちや長州藩士たちは、世子毛利定広を上洛さ
せようとしますが、これには吉川監物は猛然と反対します。元治元年五月二十三
日に毛利敬親の懇請により山口へ行き、毛利敬親面会しその席で京へ進発論に賛
同してくれるように要請されます。ここでも吉川監物は頑なに反対して進発の不
利を訴えます。しかし、長州へ落ち延びていた七卿のひとり三条実美が自ら吉川
監物の説得に乗りだし、ついに折れて、彼はそれならばどうしてもということで
京上洛する条件をつけます。
「是非進発との思召しなら、それがしが上洛し、宗藩(長州藩)正義の相違ない
ことを弁明し、疑いが晴れた上で登りなさるように願い奉る。」と逆提案します。
毛利敬親はそれではもう遅い、六月十日に上洛のことと定まったので、世子毛利
定広の後見役として同道してほしいと命じられます。藩主直々の命とあらば、抗
し難く拝命を受けますが、岩国に戻った吉川監物はそれでも京への進発には危険
が大きすぎると思いとどまり、他の支藩、長府・徳山・清末の三支藩の当主たち
と連携して、毛利敬親に訴えて上洛阻止させようとします。そんな吉川監物の努
力を一瞬に吹き飛ばす情報が京より知らせられます。   
 その内容は京の池田屋で長州藩の藩士や尊王派の志士たちが多数捕殺されると
いうものでした。

■□■池田屋事件、長州に報知される■□■
 有名な新選組による池田屋事件で尊王派の志士たちが捕殺されたるというショ
ッキングな事件は、古高俊太郎が新撰組に捕らえられたため、その善後策を話し
合うため池田屋に集まっていた長州の吉田稔麿や肥後の宮部鼎蔵などの志士たち
が新選組と死闘のすえ多数捕殺されるというものでした。 
 池田屋事件についてはいろいろな本が何度も検証されており、あえて説明する
ことはないほど有名ですが、小生がこの時に新選組と格闘し捕殺された吉田稔麿
という人物に興味を持ちます。彼は新選組と闘いを潜り抜けて池田屋から長州藩
邸へ戻ってそこで槍を借りて池田屋へ再び戻り新選組と闘って捕殺されてといわ
れています。

されど、このときに小生が疑問に感じたのは彼が長州藩邸へ本当に戻ったかとい
う点であります。岩国藩邸はじつは池田屋から見ると、長州藩邸よりか近くにあ
りもし吉田稔麿が池田屋から離れたとするとわざわざ遠い長州藩邸へ行かず近づ
くの岩国藩邸へいくほうが無難だったのではないかと感じます。これは偏見に基
く独断なことでしょうか。池田屋から長州藩邸へ行ったとすると、その行く途中
に岩国藩邸があり、十二分に立ち寄ることは可能です。
 また、池田屋事件のおりに長州藩の京の留守居役であった桂小五郎の動静がよ
くわかっていません。彼は遭難時に対馬藩邸にいたとか、新選組の難を逃れて屋
根伝いに逃げたとか言われています。岩国藩邸は池田屋からすると対馬藩邸より
も近く、屋根伝いと逃げたとしたら岩国藩邸のほうが逃げて匿いやすく、対馬藩
邸にいたとすると、岩国藩邸は隣接しており、岩国藩邸は高瀬川から直接乗り入
りできる水路と繋がっており、隠密な行動するさいに都合がいい交通手段があり
それらを利用するため行き来きしていた可能性もあります。
 京の岩国藩邸は禁門の変で記録を含めて焼かれてしまい、長州征伐のさいに邸
宅は没収されたため、今となればこれらを検証することは困難であり、推測の域
から脱しません。

余談となりましたが、この池田屋事件によって長州藩が兵を引き連れて京へ進
発させる決めてなる材料となりました。
こうなると、吉川監物には止めることはできませんでした。吉川家は一貫して
進発に反対しており、他の支藩へと連携をとって進発阻止の論陣を展開しました
が池田屋事件に激怒した尊王派や、中央政界の進出が出来ず劣勢を挽回したい藩
首脳部は兵を京へ進めて強引な戦略に打って出ました。
 吉川監物は前年に藩命を帯びた高杉晋作と面会して、逆に積極的に藩の機務に
関わっておれば、八一八の政変のように憤激した志士たちを抑えて、進発論の影
響ももう少し違った形になっていたかもしれません。
 
 吉川監物は藩主の命を抗じて京の派兵となる進発を反対するのか、それとも池
田屋における長州藩士捕殺の非をならして朝廷に訴えるのか、またも決断に迫ら
れます。

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■ りょうまのうた (文:Mr.萌咲)
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幕末マガジンをご購読のみなさま、こんにちは!「りょうまのうた」のコーナーで
す。
このコーナーでは、龍馬が残した「うた(和歌)」について紹介していきたいと思い
ます。
幕末の志士たちは、常に死と背中合わせの生活を送っていました。そういった極
限の生活を送っていると、心も叙情的になるのでしょう。志士たちは、思いをつづ
った数々の歌や詩を残しています。龍馬もその例外ではありません。いくつかの
和歌を残しています。
まず第1回目は、次の和歌を紹介しましょう。


文開く衣の袖は
ぬれにけり
海より深き
君が美心(まごころ)

【詠草二 和歌 京都国立博物館蔵 より】


この歌は、「送られてきた手紙を読んで、涙で着物のそでを濡らすほど感動し、
送り主のとてもとても深いまごころや気遣いに感謝する思い」をつづったものだと思
います。
えっ?これがあの豪傑坂本龍馬の和歌?・・・と思われる方もいらっしゃるでしょ
う。
そうなんです。龍馬はとてもやわらかで繊細な和歌を残しているんです。このような
やわらかな和歌をつくるに至った理由は、ある歌集の影響と言われています。その
影響については次回に述べることにして、この歌には大切なことが示されていると
思います。
それは「手紙とはどういうものか?」という龍馬の思いが込められているような気が
するのです。手紙というものは、単なる連絡や報告のツールでは無く、相手を感動さ
せたり喜ばせたりするものだと龍馬は考えていたのではないでしょうか。
龍馬の手紙・書簡が数多く残されているのをみなさんご存知だと思います。その多く
が名文で「龍馬の手紙は、小説よりおもしろい」と評価されている研究家の先生も
いらっしゃる程ですよね。これらの手紙には【海より深き龍馬のまごころ】がこめら
れているのではないでしょうか。

それでは、また次回にお会いしましょう。シー ユー ネクスト!

ご意見・ご指摘等、よろしくお願いいたします moesaki@sky.sannet.ne.jp

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■明治4年岩倉使節団と「米欧回覧実記」 (文:松ノ落葉)
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はじめに

今月から「米欧回覧実記」を内容に入りますが、その「実記」の内容は「本編ハ大使
公務ノ余、及ヒ各地回歴ノ途上ニ於テ総テ覧観セル実況ヲ筆記」しているので、
面白くないところも少々あり、また最初に掲載される「総説」では長々とその地方
の地理・歴史について解説してあり、最初はきちんと読んでいましたが、段々と読み
進んでいくうちに、面倒くさくなってしまい「総説」部分は飛ばして読んだり、メル
マガ掲載において不必要な部分は全て省略したことをご了承下さい。ただ、別な機会
に省略してしまった部分を改めて紹介したいと思っています。


※正確に引用されるのなら、自由に転載いただくのを歓迎します。

「サンフランシスコ人民の祝頌を受ける」

明治4年12月6日(陽暦1872年1月15日)、使節団一行はアメリカ・サンフ
ランシスコに到着した。アルトカトランズ砲台から※13発の礼砲がサンフランシス
コ市内に響き渡り、市民は岩倉使節の到着を知り、桟橋にはあっという間に黒山
の人だかりができていたという。また、使節と同行した駐日公使デロングはロシア風
のケープと毛皮帽を身につけるという、若干奇妙ないでたちではあったが、デロング
もまた、サンフランシスコ市民から盛大な祝福を受けた。

※「米欧回覧実記」及び田中彰著「岩倉使節団」、「脱亜」の明治維新、では15発
となっている。しかし、「米欧回覧実記」の学際的研究、では13発となっている。
また、「米欧回覧実記」でも「十五発ノ祝砲ヲ打出シタリ」という記述の後に、
「又十三発ヲ祝スルコトアリ」と妙に曖昧な記述がなされている。「木戸孝允日記」
では13発となっているそうなので(「米欧回覧実記」の学際的研究より)おそらく
「米欧回覧実記」の編者久米邦武自身、15発と記したものの13発であったかも
しれないという疑いが拭いきれなかったのであろう。アメリカ独立当時13州あった
ことにちなんで、13発の祝砲を打ち込んだと考える方が合理的ではないかと思う。

しかし、一方で「デイリー・アルタ・カリフォルニア」紙はこれほど大勢の高級官僚
が一度に渡米するわけは、「単なる大観光団」のはずがなく、使節団の真意は
条約改正のためであろうと指摘している。もっとも使節団の任務は※「国際親善」
をはかることと、(条約改正に備えて)先進各国の文物制度の調査であって、
条約改正交渉それ自体は直接の任務ではなかったが、アメリカ側から見ても、こ
の不自然なくらい膨大な数に膨れあがった使節団は、条約改正が狙いであると
思われても仕方がないであろう。(「米欧回覧実記」の学際的研究より)

※明治4年11月4日、つまり岩倉大使がアメリカへ出発する直前、明治天皇は
岩倉大使に対して勅語を授けており、その内容は「各国政府ヘ聘問ノ禮ヲ修メ
交際ノ情誼益敦カラシメン」ための訪問であると宣言されたものであった。
「聘問ノ禮」とは訪問を通じてより友好的な関係になろう、という「平和的国際親
善」を意味する言葉である。
なお、上記の明治天皇が岩倉大使へ宛てた勅語の全文は
條約改正関係「大日本外交文書」第一巻(外務省)の65ページに掲載されている。

使節団結成当初の計画は「事由書」(「条約改正ニ付全権使節差遣理由書」を
参考に政府が使節派遣の目的、方針を説明した正式な文書)によると

欽差全権大使・一員、同二等使節・一員、一等書記官・一員、二等書記官・二員、
一等通弁官・一員、二等通弁官・一員、全権理事官・六員、一等書記官・三員、
二等書記官・三員、通弁官・三員 (岩倉公実記・中巻より)

で、この他に10人弱の留学生等を随従させても差し支えない旨、明記されているが
それでもごく少人数である。しかし、実際の人数は留学生を含めると100人を超え
る人数であった。
それではなぜ、実際の使節団は膨大な人数に膨れあがったのかは、「大隈使節から
岩倉使節への転換」と題して1・2月に書いており、それに関する研究書籍も複数冊
出ているので省略する。

また「デイリー・アルタ・カリフォルニア」紙は、サンフランシスコ市民に対しても
盛大な祝福をもって使節団を歓迎する理由は、対日貿易を睨んでいるからだと
鋭く指摘した。また、使節団参加の久米邦武もその著「米欧回覧実記」において
「我邦及ヒ東洋各国ハ、天産ニ富ミ、・・・(中略)是乃貿易ノ眼目ニシテ」
と、似たような感想を述べている。
ただし、のちに「デイリー・アルタ・カリフォルニア」紙が睨んだとおり、日本は
条約改正に乗り出すことになるのだが、それは来月詳しく述べたい。

「アメリカ人から見た使節たち」

サンフランシスコでは紡績場、製造場、学校や会社、その他の施設を見学して
まわったが、全て掲載すると非常に長くなるので今月は省略する。また、有名な
伊藤博文による「日の丸演説」などもあるが、詳細は5月のメルマガで紹介したい。

まず、岩倉については最初、皇太子であると報道された。しかし、実際は維新の
勲功によって栄達し、もとは弱小貴族の出身であることが明らかになり、にわかに
人気があがった。ここで、岩倉家の家柄について少し詳しく説明しておこう。
岩倉家の世系は「村上源氏ニシテ即チ久我氏ノ庶流」を汲む下級公家であった。
ただし、これだけではよく分からないかもしれないので、後年の華族令のランクで
説明すると、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5ランク中、4番目の子爵に位置する
家柄である。ちなみに太政大臣三条実美はというと、彼は藤原氏の流れを汲む旧
清華家の出身で、旧清華家は五摂家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)
に次ぐ上流公家の出であった。上記の華族令のランクでいうと、2番目の侯爵に
位置する。

家柄の高低にやかましい公家社会では、この差は大きく、七卿落ちで数年間政治
活動を制限された(反対に七卿落ちが大きな意味を持っていたことも否定できない
が)三条に対し、岩倉は倒幕活動の大詰めの段階で、薩摩藩の西郷・大久保らと
二人三脚で次々と裏技を繰り出し、革命成就の立役者ともいえるのに、維新後の
岩倉の地位は、いつも三条の次席にとどまらざるを得なかったのも、生まれついて
の家柄によるところが大きいといえる。(もっとも、三条・岩倉両家とも明治17年
7月7日に華族令が公布されたとき、維新の勲功が認められて最高位の公爵を
授けられている。)

木戸孝允については「木戸は39歳、平均的日本人より背が高い。肩幅は広く、
丸顔でひげをすっかり剃っている。目も大きく、全体的に感じのよい風貌である」
と、使節団の中では一番紳士的な存在としてアメリカ人の目には映ったようである。

大久保利通は、「たいへん知的な風貌の持ち主で、少しほつれたような長い頬ひげ
と口ひげとを気どって蓄えている」と評された。「少しほつれた」表現のところに、
当時の彼の悩み(対外問題や廃藩置県及び島津久光問題など)を感じ取ることが
できる。

アメリカ人記者たちは、この東洋からの大使節団を執拗に追いかけ回しては、イン
タビューを試みていたようだ。記者たちが特に感心したことは日本人が余暇を惜しん
で、実に詳細なメモをとり、見るもの聞くもの一つ漏らさずに情報を収集し、日本に
持ち帰ろうとした勉強熱心さであった。

次回は条約改正問題についてです。


参考文献

特命全権大使「米欧回覧実記」 久米邦武編 岩波文庫
「岩倉公実記」上・中巻 財団法人岩倉公旧跡保存会 (再版)
「『米欧回覧実記』の学際的研究」 田中彰・高田誠二編著 北海道大学図書刊行会
「岩倉使節の研究」 大久保利謙編 宗高書房
「岩倉使節団」 田中彰著 講談社現代新書
「『脱亜』の明治維新」岩倉使節団を追う旅から 田中彰著 NHKブックス 
條約改正関係「大日本外交文書」第一巻 外務省


ご意見・ご感想はこちら makino@violin.ocn.ne.jp まで

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■ 幕末維新オススメ本 (第2回) (文:松ノ落葉)
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「鍋島閑叟」 杉谷昭著 (中公新書)

私は主に幕末佐賀藩と明治初期(明治4〜6年の留守内閣)の政治外交史を重点的
に勉強している影響もあって、紹介できる本はどうしても上記の内容に限られてしま
うのですが、まず、著者の杉谷昭氏は「鍋島閑叟」の他に「江藤新平」、「佐賀県の
百年」、「久米邦武の研究」(共著)、「続佐賀藩の総合研究」(共著)、「佐賀県
の歴史」(共著)などの著書がある。
また、マイクロフィルム版「江藤新平関係文書」目録の監修(毛利敏彦氏と共に)を
努めておられる人で、佐賀藩研究において第一人者であるといえます。

「鍋島閑叟」は鍋島閑叟(直正)個人の伝記としてははもちろん、幕末佐賀藩のアウ
トラインを知るにも良い本です。似たような本といえば、西村謙三著「鍋島直正公
一代記」や中野禮四郎著「鍋島直正命」があるが、「鍋島直正公一代記」が昭和5年
の出版、「鍋島直正命」が昭和8年の出版で、古書店でも入手は困難な状態にあり
ます。その点、杉谷昭著「鍋島閑叟」は平成4年出版なので、古書店からでも入手は
比較的容易かと思われます。

「鍋島直正公一代記」、「鍋島直正命」と比較しますと、「鍋島閑叟」の場合、参考
文献がしっかり明記されていて、その文献においてもかなり信頼のおける史料を
活用されています。また最後に「別表」と題して佐賀藩関係の様々な史料が添付
されている点も見逃せない本です。

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■ 明治新聞記 (文:松ノ落葉)
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●東京の戸数と人口(明治5年3月25日・東京日日新聞)

今般御調べ相成り候東京府内戸数人口の表。

第一大区
戸数 47,960戸 人口 215,770人

第二大区
戸数 30,128戸 人口 118,703人

第三大区
戸数 28,374戸 人口 125,699人

第四大区
戸数 20,774戸 人口  67,807人

第五大区
戸数 28,832戸 人口 134,463人

第六大区
戸数 27,757戸 人口  99,190人


戸数 183,845戸 人口 761,632人

外 寄留人 120,000余


881,632人余


●1・6休日を日曜日に変更(明治9年3月13日・東京曙新聞)

第27号〔院省使庁府県〕従前1・6日休暇の処、来る4月より日曜日を以て休暇と
定められ候条、この旨相達し候事。
ただし、土曜日は正午12時より休暇たるべし事。

明治9年3月12日 
            太政大臣 三条実美


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■ イベント情報
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「迫田家資料特別展」 
坂本龍馬の書状・武市瑞山の墨絵・山内容堂の漢詩等を展示

高知市 土佐山内家宝物資料館にて  3/26まで。

「坂本龍馬の脱藩後の心情を知る唯一の手紙」として知られながら、長く所在が
分からなくなっていた龍馬の幻の手紙など、幕末から明治初期の資料計300点が
寄贈された。 龍馬の手紙は「土佐勤王志士遺墨集」(昭和4年出版)に迫田七郎氏
所蔵として掲載されているが、以降原本の所在が不明となり、今回、約70年ぶりに見
つかったことになる。
1866(慶応2)年11月、長崎で土佐藩の溝渕広之丞にあてた手紙の写しを実家に
送ったもので、国を思い、家族を思う心情がつづられている。 土佐藩関係では
ほかに容堂の漢詩の掛け軸、また武市半平太が獄中で書いたと伝わる梅を描いた
墨絵の掛け軸も寄贈された。

詳しくはこちら http://www10.ocn.ne.jp/~yamauchi/

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