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| 酒と桜の民族--花見の歴史-- |
![]() 万葉集の時代、花といえば梅をさしました。中国文化を習い花のを見ながら歌を読んだ万葉人。万葉集には、萩は141首、梅は118首。桜はわずか44種しか詠まれていない。 桓武天皇が平安京へ遷都したときは、内裏には左近の梅、右近の橘が植えられていました。 一方、女房装束に見られる重ねの色目でも、梅の花を表わしたものはとても多くて「梅」「梅重」「一重梅」「紅梅重」「紅梅匂」…と、いろいろ挙げだしたらきりがない。梅が日本でこんなにもてはやされていたのは、当時、梅が中国文人達に大変愛されていた花であったということが挙げられる。中国文化を理想としていた当時の日本にとって梅の存在は重要であった。 日本に梅がもたらされたのは奈良時代、遣唐使が薬用として持ち帰ったのが最初のようで、白梅、ついで紅梅が入ってきている。特に紅梅は人々の心を奪ったようです。弘仁三年(812年)二月十二日嵯峨天皇は、神泉苑で花を見、文人達に詩を作らせたのが、「花宴」の節会の始まりと、「日本後紀」にあり、花は桜とされています。内裏の紫宸殿前庭には左近の梅と右近の橘があり、承和十二年(845年)には梅花の宴が催されていました。 中国からの渡来文化の象徴ともとられる、梅の木も承和年間には、桜の木に植え替えられます。 植え替えの事実は、「古事談」 『南殿桜樹者、本是梅樹也、桓武天皇遷都之時、所被植也、而及承和年中枯失、 仍仁明天皇被改植也、其後天徳四年内裏焼亡ニ焼失了、 仍造内裏之時、所移植重明親王家桜木也』といった、文献からわかる。 これは、南殿(紫寝殿)の桜樹、桓武天皇遷都(794)の時は、梅樹が植えてあり承和年間(834-848)に枯失したので 、仁明天皇(にんみょう 54代在位833〜850))が植替えさせた。 天徳四年(960)に内裏が焼失したので内裏造営時、重明親王家の桜樹を移したと書いてあります。 また、「日本三代天皇実録」貞観十六年(874)八月二十四日条 には、『大風雨、折樹発屋、紫宸殿前桜、東宮紅梅、侍従局大梨等樹木有名皆吹倒 』とあります。 これは、台風で、紫宸殿前桜、東宮紅梅、侍従局大梨等の樹木が皆倒れたといった記載があります。 いることになります。 874年には、既に桜に変わっていたわけで。 承和年間(834〜848)の間に仁明天皇が植替えさせたのではないかという根拠です。 遣唐使の廃止以後、独自の文化を形成していく上で、中国的な花ではなく、日本固有の花が好まれたのか。やがて梅は桜と交代しまし、 平安後期に入ると、宮廷を中心として、梅よりも桜ということで、桜が様々な行事に出始めます。そして「新古今和歌集」の時代ともなるとこの傾向は一層強くなり、西行法師の「山家集」には百首に余る歌が、また「平家物語」では若い平家の公達の死を桜によせて詠んだ歌がみられるようになります。 当時の貴族や武士が桜を愛したことは、絵巻物や武器の装飾に知ることができます。足利義満は金閣寺や室町の居所がその花で埋るほどの桜を配し、「花の御所」と呼ばれました。 花見は安土桃山時代、秀吉の吉野、醍醐の豪華絢爛な宴を頂点として、広く行われました。その様子は「洛中洛外図屏風」「風俗図屏風」で伝えられています。また、着物や調度品などに桜がさかんに描かれました。 秀吉は文禄3年2月25日、関白秀次らを連れて京を出発し文禄3年2月27日吉野山に到着。、それから5日間、歌を詠み能を舞い、吉野山の桜を楽しんだといわれています。。 秀吉は醍醐寺の三宝院の景観をことのほか愛し、春になるとこの地で観桜(かんおう)の宴を開いた。醍醐の花見のために秀吉が近隣諸国の近江、山城、河内、大和から取り寄せた桜700本を移植したものです。現在も醍醐寺にその桜は見事に花を咲かせています。 庶民が花見に熱狂するようになったのは江戸時代からで、それまでは上流社会だけの文化だった。江戸の桜は殆ど奈良県の吉野山から移植したもので、家康、秀忠、家光など花好きの将軍によって植栽が盛んに行われ、参勤交代で江戸は品種交流の場ともなり数々の名所も出来、花見は一般化して行きました。 上野の桜は寛永寺を創建した天海僧正らが植え、飛鳥山と小金井の桜は八代将軍吉宗が植えた。特に吉宗の時代は放火が多く、人身を安定させるために花見を奨励したらしい。 落語の「長屋の花見」には庶民の花見の様子が伺えます。桜は芸術上のモチーフとしても重要な存在となりましたが、ことに歌舞伎「義経千本桜」「京鹿子娘道成寺」「妹背山女庭訓」等での巧みなデフォルメによる舞台での演出効果は、日本人の心を映す象徴として大きな役割を果たしたといえます 花見といえばおもに桜となり、山野の花見は桜狩りと称して、時代が降るにつれて花見は公家から武家、近世には都市住民のものとなり、今日に至っています 2001.3.14UP 3.15梅と桜植替えの記載一部修正加筆。MM |
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